譚海 卷之五 京北野平野明神の事
[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]
○京都北野平野明神の社は、天明より二十年ほど以前までは、昔のまゝにて殘りてあり。殊に大社にして、そのかみの結構まで、おもひやられて、かうがうしきやうすなり。いつ、修覆せられたる事もなくて、段々、破壞に及び、とる手もなきさま也。俗說には、平家の盛(さかん)なるとき、建立ありし故、かく再興せらるる事もなく、打捨(うちすて)ある事と、いへり。社頭に年經(ふり)たる杉あり、大木にて、二本、たてり、神主、餘り、社頭のあれたる事をなげき、杉を賣拂(うりはら)ひて、其金子にて、社頭再興せんと、おもひ立(たち)、みくじをとり伺(うかが)ひたれば、神慮にもかなひたるゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、上へも訟(うつた)へ事、ゆりて[やぶちゃん注:許されて。]、あたひの事も、とゝのひ、「あす、きらん。」とて用意しける。其夜、雷、おびたゞしく、はためきしが、やがて、此杉に落かゝりて、二本ながら、微塵にくだけうせぬれば、再興の事も、やみて、今は、さばかりの大社、かきはらひ、平地にいさゝかなる宮を、其跡に、つくり、祭りて、あり。神慮にかなひたるやうに、みくじにはありしかども、まことに、うけび、たまはざりしにやと、いへり。
[やぶちゃん注:これは、現在の京都市北区平野宮本町にある平野神社のことであろうが、当該ウィキを見る限り、江戸時代に、こんなに荒廃していた様子は窺われない。公式サイトを見ても、そうである。この文章、不審。]