佐々木喜善「聽耳草紙」 七六番 蛙と馬喰
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。
なお、標題の「馬喰」は「博勞」に同じで、「ばくらう」(ばくろう)と読み、家畜の売買・交換・斡旋を生業とする者を指す。]
七六番 蛙と馬喰
昔はあつた。恰度《ちやうど》雫石だと、黑澤川《くろさはがは》のやうな所に、一匹の蛙が住んで居た。或時馬喰が駒に乘つて恰度雫石だと盛岡街道のやうなところを、盛岡の方へ、いゝ聲で馬方節《うまかたぶし》をうたいながら行つた。恰度日暮れ方《がた》、大森の麓(シタ)のような所へさしかゝると、其所に住んで居た蛙が、俺も一つあゝ云ふ風《ふう》に歌つてみませうと思つて、
クエ
クエ
とやつた。けれどもどうも甘《うま》く行かないので、最初よりももつと聲を張り上げて、
クエツ
クエツ
と唄つて見た。すると今迄無心にやつて來た馬喰が、蛙の聲を聽いてびツくりして立ち止まつた。
そして其所に居る蛙を見つけて、蛙どの蛙どの何して御座ると聲をかけると、蛙は其方《そちら》が餘りよい聲で馬方節を流して御座つたから、俺も眞似してみたところさと答へた。あゝさうか時に蛙殿、俺はこれから上方參《かみがたまゐ》りに行くべと思つて居るが、行く氣はないかなと言つて通り過ぎた。
蛙は、俺も々々一つ上方參りでもしてみて來るべと思つて、馬喰の後から、ブングリ、ブングリと跳ねて行つたどさ、まづ斯《か》うずつと江戶の入口まで行つたずな。大儀になれば、藪さ入つて憩《やす》み、又は人家の床下(タジキ)に入つては休み休みした。すると段々下腹ア磨(ス)れて步けなくなつた。そこで暫《しばら》く思案して居ると、良い事が思ひ浮んだ。俺も一つ人間のやうに立つて、二本足で步いて見ませうと思つて、ひよツと立ち上つて見ると、案外樂なので、これは良い考へだと思つて步いてゐた。段々上方へ近づくと、自分が元通つて來た所と變りがないので、上方と云ふ所は不思議なものだ。田舍と變りがないやうだと思つて、途中を急いで行くと、向ふに雫石の村屋のやうな所が見えて來た。
おやおや、これはなお不思議だと思つて、まづ休んで見ると、其所は自分が元《もと》住んで居た黑澤川であつた。よく考へてみると、自分が二本脚で立つと、眼は後の方へ向いてゐるので、コレは自分がもと來た途を尻去(シリザ)りに步いて來た事に氣がついた。前だ前だと思つて居たのが後の方であつたのだ。それから此蛙は上方參りをすることは止めて、今でもそこらに住んでゐるとさ、ドツトハラヒ。
(田中喜多美氏御報告分の一一。)
[やぶちゃん注:「雫石だと、黑澤川のやうな所」現在の岩手県岩手郡雫石町黒沢川。拡大して見ると判るが、辺縁を黒沢川が流れる。この話、民話の仮想世界へ聴き手を引き込むために、直後でも、「雫石だと盛岡街道のやうなところを、盛岡の方へ」と、場所を判ったような、判らぬような、ぼかしをしているところが、かえって面白い。]
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