「教訓百物語」上卷(その3 地獄は現在地獄にして親の怒りが子に報う)
[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。
底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。
本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。
また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた。
読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。漢文脈は返り点のみを附して本文を示し、後に〔 〕で読みに従った訓読文で示した。
さらに、本書には挿絵が八枚(二幅セットで四種)あるが、底本は画像使用には許可が必要なので、やや全体に薄い箇所があるものの、視認には耐えるので、「続百物語怪談集成」のもの(太刀川氏蔵本底本)を読み込んで、トリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。いや、というより、底本の画像の状態が非常によいので、そちらを見られんことを強くお勧めするものではある。]
扨て、とうしんを、百筋、入れて燈(とも)したといふは、赤子(あかご)のたとへじや。赤子は、ほしいの、おしいの、惡(にく)いの、うらめしいの、といふやうな心は、ない。たひてい[やぶちゃん注:ママ。]、明らかなものじやなひ[やぶちゃん注:ママ。]。暗い心は、みぢんも、ない。それ故、「孟子」にも、『夫人者不失其赤子之心。』〔夫(そ)れ、人は、其の赤子(せきし)の心(こゝろ)を失はず。〕と、あり。又、一休も、
〽生(むま)れ子の次第次第に知惠付(つき)て佛(ほとけ)に遠くなるぞ悲しき
又、釋尊も、「天上天下唯我獨尊。」〔天上天下(てんが)、唯我(ゆひが[やぶちゃん注:ママ。])獨尊。〕と仰(をゝせ[やぶちゃん注:ママ。])られた。是れも、うぶ湯だらひの中(なか)での事じや。誰(たれ)も皆、赤子の時は、佛樣とくらべても、神樣・聖人とくらべても、少しも違ひは、ない。皆、いろいろ、さまざまの事、聞きならひ、見ならひ、其(その)百物がたりからと、ふしんが、一筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])、一筋、へつて、後には、眞(まつ)くらがりに、なるのじや。銘々、身に備はつてある本心を、とり失ふて、仕廻(しまふ)ふて[やぶちゃん注:ママ。]、人心(じんしん)斗(ばか)り、「おれが、おれが、」を主(あるじ)として、一生を苦しみ詰めにして、死んで仕廻(しま)ふは、悲しいものじや。夫(それ)で、
『孟子曰、仁人心也、義人路也、舍二其路一而弗ㇾ由、放二其心一而不ㇾ知ㇾ求哀哉、人有二鷄犬放一、則知ㇾ求ㇾ之、有二放心一而、不ㇾ知ㇾ求。』〔孟子曰はく、「仁は、人(ひと)の心なり。義は、人の路(みち)なり。其の路を舍(す)てゝ、而(しか)ふして、由(よ)らず。其の心を放ちて、而ふして、求むることを知らず。哀しいかな、人、鷄犬(けいけん)を放(はな)てることあるとき、則ち、之れを求むることを知る。放心(ほうしん)有りて、而ふして、求むることを知らず。」[やぶちゃん注:「と」が欲しいが、ない。]。〕
[やぶちゃん注:注無しでいいと思うが、万一のために、高校生向けのサイト「フロンティア古典教室」の「孟子『仁は人の心なり』原文・書き下し文・現代語訳」をリンクさせておく。]
「仁」は、人の德、本心の事じや。「義」は、人の步むべき道じや。然るに、今日(こんにち)、銘々ども、本心を、とりはなして、求めもせず、又、道筋を捨てゝ、用ひず。人の道を、ふみたがへて、迷ふて居るといふは、誠に、悲しむべき事じや、と仰せられた事じや。内(うち)にかひ置いた犬・鷄(とり)・ねこなど、取り失ひし時は、うろうろして、さがし求める。先祖から產み付けてもらふた本心を、とり失ふて、求めざるは、どふした道理じやぞ。どなたも、本心を御しりなされて御ろうじませ。甚だ、調法なものじや。
扨、段々と、心が暗ふなる事を、御噺申しませう。
先(まづ)、幼少の時分、欲心の出來ぬ内は、手に物を取りても、手より、ずるずる、落す。手に、物を、取りも、せぬ。
扨、少し欲が出來ると、物を、とつて、じつと、にぎる事を、しる。
或人の發句に、
〽片ちぶさにぎるや欲の初ざくら
まだ、其時分は、物を持ちて、喜ぶばかりじや。たとへ喰ひ物でも、
「兄樣に、一ツ、やりや。」
と、いふと、直(じき)にやるじや。まだ、ほしいばかりで、おしむ心が、ない。
ま、一段、欲が出來ると、
「皆、ぼんがのじや。」
と、いふて、放さぬ。
其欲心が、次第次第に增長(ぞうちやう)して、「どん欲」といふ「化物」になるのじや。
盜人(ぬすひと)の子でも、二ツや、三ツ斗りまでは、持(もつ)ている[やぶちゃん注:ママ。]、ものを、
「たい、たい、」[やぶちゃん注:「頂戴な。」という幼児語というか、話し手の希望を表わす助動詞の「たい」であろう。]
と、いふと、直に放してくれる慈悲の丸垢(まるむく)じや。
夫(それ)が、大きうなると、「たい、たい、」所じやない、節季(せつき)に書き出しやつて、其上に、さいそくしても、
「いやじや、いやじや、」
と、いふて、放しや、せぬ。
皆、垢の溜(たま)つたのじや。替つたものに、化ける者じや。
〽吉㙒川其水上(みなかみ)を尋づぬればむぐらのしづく萩の下露(したつゆ)
こわい者じや。吉野川程の大川でも、水上は少しの事じや。
○易曰霜履堅氷至葢順言。〔「易」に曰はく、『霜(しも)を履(ふ)んで、堅き氷(こふり[やぶちゃん注:ママ。])に至り、血、葢(けだ)し順(したが)ふを言ふ』。〕
[やぶちゃん注:以上は「易経」「坤卦」(こんけ)の一節。小学館「日本国語大辞典」に、『霜をふんで歩く季節を経て、氷が堅く張る厳冬の季節に達する。何事も徴候が現われてから、その後に実際のできごとが起こるというたとえ』とある。]
人欲(じんよく)も、初(はじめ)は、少しの事じや。親に、「なんぞ、なんぞ、」と、いふたくらひの事が、段々、百物がたりを聞(きゝ)こんで、後(のち)には、祖父も、祖母も、兩親も、つきのけて置(をひ[やぶちゃん注:ママ。])て、我が方(はう)へ取り込む工面(くめん)ばかり仕(し)て居(い[やぶちゃん注:ママ。])る。
そうなると、心も(骸からた[やぶちゃん注:ママ。])も、次㐧(しだい)次㐧、替(かはつ)て來る。腹の大きな、手足、ほそふ[やぶちゃん注:ママ。]、化ける。
〽欲ふかき人の心とふる雪はつもるにつけて道をわするゝ
〽銀持(かねもち)と朝晚捨てる灰吹(はいふき)はたまるほどなを[やぶちゃん注:ママ。]きたなひ[やぶちゃん注:ママ。]としれ
〽燒(やけ)ば灰埋(うづ)めば土となるものを何にしつらん欲つらのかわ[やぶちゃん注:ママ。]
〽凡夫(ぼんぷ)めらあまりに物なほしがりそ身さへ我身にならぬものかは
〽十𢙣の立(たち)ならびたる其中にどん欲どのゝ背(せい)の高さよ
[やぶちゃん注:「十𢙣」「𢙣」は「惡」の異体字。「身(しん)」の三悪(正行(しょうぎょう))の殺生・偸盗・邪淫、「口(こう)」の四悪(正語)の妄語・綺語(綺麗事を言って誤魔化すこと)・両舌(二枚舌を使うこと)・悪口(あっく:他人の悪口を言うこと)、「意(い)」の三悪(正思)の貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい:すぐ怒ること)・愚癡(恨んだり妬んだりすること)を指す。]
此(この)やうにいふと、『欲は、ならぬ物か。』と思召(おぼしめ)そふが、そふでは、ない。先祖・御兩親を、大切に養ひ、仕へ、女房・子を、はごくみ、又、『子孫にも、相應の家とくを、ゆづりたい。』と思ふは、皆、人の情じや。少しも、無理せず、無理いわず、商賣、精出して、賣先(うりさき)も、買先(かいさき[やぶちゃん注:ママ。])も、ともに身過ぎして行(ゆく)やうにして、自身、儉約を第一に守りて、もふける[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]ならば、百貫でも、もふけたがよい。
司馬溫公(しばをんこう)の家訓に曰(いはく)、
積ㇾ金以与二于子孫一子孫必能不ㇾ持、
積ㇾ書以与二于子孫一子孫必能不ㇾ讀、
不ㇾ如四陰德積下銘〻于内上以為三子孫
計二長久一矣。
〔金(かね)を積んで、以つて、子孫に与ふ、子孫、必ず、能(よ)く持たず。書を積んで、以つて、子孫に与ふ、子孫、必ず、能く讀まず。陰德、銘〻(めいめい)、内(うち)に積んで、以つて、子孫長久の計(はかりごと)を為(な)すに如(し)かず。〕
[やぶちゃん注:漢文部は、底本では、全体が二字下げでベタで書かれているが、読み易さを考えて適宜、改行した。また、「于」の内、一行目と二行目のそれは、底本では「亍」の字となっているが、これは「留まる・立ち止まる・やや進む」の意であって、対象を表わす前置詞の助字「于」とは違うので、「于」に代えた。
「司馬溫公」北宋の学者で政治家として知られた司馬光(一〇一九年~一〇八六年)。「溫公」は諡(おくりな)の一つ。山西出身。神宗の治世に、王安石の新法に反対して引退したが、次代の哲宗の時に宰相となり、新法を廃し、旧法に復した。優れた史書「資治通鑑(しじつがん)」(戦国初(紀元前四〇三年)から五代の終り(九五九年)に至る千三百六十二年間に亙るもの)の作者としても知られる。七歳の時、庭の水瓶に落ちた友を瓶を石で割って助けた故事で知られる。私は小学校二年の頃、国語の教科書に載る、訳されたその話を朗読して、先生や同級生らから、喝采を浴びた(多分に芝居っぽい読み方をしたため)のを、六十年経った今でも、鮮やかに思い出せる。考えてみると、私の漢籍故事との最初の邂逅は、実に、この司馬光の話であったのであった。]
「どんよく」といふは、「餓鬼道」じや。「十𢙣」の中(うち)でも第一番じや。「十𢙣」といふは、「身」に三ツ、「口」に四ツ、「意」に三ツ。「身」に三ツといふは、則ち、殺生【無益。】、偸盜【あたへざるを、とる。】、邪婬【男女とも、我に粉さる。】、口に四ツ、綺語【かざる。】、妄語【みだりに、うそ僞[やぶちゃん注:「いつわる」。]。】、𢙣口【わるくち。】、意(こゝろ)に二ツ、貪欲(とんよく)【むさぼり。】、嗔意(しんい)【いかる。】、愚痴【あきらめ、なし。】合、十𢙣、其十𢙣の内の、第一番じや。
[やぶちゃん注:【 】は二行割注。この内、「邪婬」の「男女とも、我に粉さる。」であるが、「続百物語怪談集成」では、ここを『男女とも我に粗さる』と起こしてあるのだが、この「粗さる」の「粗」には、動詞としての用法がなく、読めない。私は底本の崩しを拡大して凝っと見つめてみるうち、『或いは、これ、「粉」の字の崩しではないか?』と感じた。比較すると、「粉」と「粗」の崩し字は非常によく似ていることが判った。而して、「粉」には「かざる」という動詞の意がある。「粉飾する」ことは「邪婬」と極めて親和性が強いから、それで起こした。]
それから、又、段々と、百物語を聞込(きゝこん)で、「しん意」といふ心が出來る。是れも、外の事じや、ない。最初は、腹の立つのじや。是れも、赤子の時から、腹を立つる子は、ない。皆、百物がたりからじや。
先づ、子もねさせて置て、仕事を、親が、している。
子が、目を明(あい)て、なき出だす時、子は、何んにも腹立(はらたて)て、なくでは、ない。
親が、腹立て、聞(きか)かすのじや。
「アノ子程(ほど)、早(はや)ふ起(をき[やぶちゃん注:ママ。])る子は、ない。」
と、いふて、ほつて置くゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、段々、せはしう、なきだす。
[やぶちゃん注:実は底本の方の、この画像を見ると、台詞が見えるのである。右の幅の男(父親か)の上に振り上げた右手(煙管を握っている)の甲の上方に「こな」という怒りの感動詞が、それを前で、グッと組み止めている男(爺様か)の頭上に「まあまあ」と宥めたそれが、そして、左幅には泣き叫ぶ子を抱えて、夫の暴力から走り去ろうする妻の上部に「いのいの」(「去(い)の、去の、」であろう)とあるのである。但し、これらの台詞は、明かに印刷された部分に比べて、孰れも、同じように薄いことから、本底本の旧蔵者の子ども辺りが書いた落書と思われる。今まで、この手の板本を何度も底本にしてきたが、結構、そうした落書はあるのである。まさか、遠い未来にそれを、私のような好き者が電子化して、世界中に落書が知られるというのは、お釈迦さまでもご存じあるめえ、と唸りたくなるのである。]
それから、親の聲が、大きうなつて、おこりて、乳も吞まさずに、引起(ひきをこ[やぶちゃん注:ママ。])して、
「ヱ〻、此(この)俄鬼(がき)わひの。」[やぶちゃん注:「俄鬼」はママ。]
と、あたま、たゝく。
それが、五度や、十度の事じや、ない。
始終、其百物がたりをして聞かす故、だんだん、とつくりと、聞き覺へたのじや。
是れも、最初は少しの事じやが、だんだん、腹立てる事が上手になりて、きつう、腹が立つ時は、身も、あつふ[やぶちゃん注:ママ。]なり、顏もまつかびになつて、嗔意(しんい)の 炎が、もへるのじや。
白狐(しろきつね)も、其時は、鬼女となり、佛が、人面じうしんと、ばける。
〽もへ出(いづ)るしんゐ[やぶちゃん注:ママ。]のほのふ[やぶちゃん注:ママ。]消へ[やぶちゃん注:ママ。]やらで我と引きけん火の車かな
〽造りこし罪を薪(たきゞ)の火の車我(わが)がなす業(わざ)と知るやしらずや
〽𢙣い事にたきつけられて煮へるのを地獄の釜の湯とやいふらん
地獄の釜とて、外には、ない。皆、我が腹の内の事じや。
〽我が心(こゝろ)鏡に見ゆる物なればさぞや姿の見にくかるらん
三惡道は、心に、あり。皆、餘所(よそ)の事にして、我(われ)は佛のよふに[やぶちゃん注:ママ。]思ふて居る。
スツキリ皆、身びいきの迷ひじや。こはい物じや。
皆、「地獄廻り」して居るのじやが、どなたも、どふぞして、本心をしつて、極樂の本海道へ、早(はや)ふ[やぶちゃん注:ママ。]、出るやうになされませ。
「火の車じや。」とて、地獄から持ちて迎ひに來てくれるやうな、念比(ねんごろ)な鬼は、ない。銘々、皆、此方(このはう)で拵ヘて、夫(それ)に乘りて行くのじや。「おのれが、おのれが、」といふやつが、引きずつて行(ゆく)のじや。それを知らずに、我を心の主人(あるじ)として、何でも、「おれが、おれが、」と思ふて居る。こはいものじや。
〽身の内の主人を知らで欲といふいたづら者にますあぶなさ
本心は、そんな物じやない。
主人公といふて、誠の御主人がある。其名を、「神樣の」、「佛樣の」、「明德(めいとく)の」、「本心の」と、いろいろに、名はかへてあれど、皆、一物(いちもつ)じや。
大躰(たいてい)、ありがたひ[やぶちゃん注:ママ。]ものじやない。
扨て、腹の立つ時の心が、地獄の釜の證(しやう)こには、
「サア、腹が立つと、胸が、ぐらぐら、します。」
といふ、はたからも、見へるかして、
「向かひの誰(たれ)さんは、煮返らしやる。」
と、いふ。
扨、夫(それ)から、大きな聲をすると、近所となりへ聞へる。
隣近所の人がよつて、
「まあ、しづかになされませ。あんまり、聲が、高い。」
と、しづめても、もへたつ「しんゐのほのふ」じや。くるしうて、くるしうて、其時、自身がでに、白狀して、
「いや、もふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、ほつて置ておくれ。もゝ、こちや、いつかう、燒(や)けじや。」
と、いふ。
「夫(それ)でも。」
と、いふと、
「いや、もふ、かまふてくれな。燒けの『かんばつ』じや。」
といふ。「かんばつ」といふは、「消す水がない」といふ事じや。
とほうもない事になるものじや。
或る社中方(しやちうがた)の内の衆が、少し、心得違ひの事があつて、喧嘩にもなりそふな[やぶちゃん注:ママ。]事になつた所へ、社中の某(なにがし)が出(で)て、
「夫(それ)は御前さまのが、御尤(ごもつとも)。みな、此方(このはう)が、不調法でござります。」
と、手をすつて、いなしておいて、跡で、狂哥(きやうか)に、
〽小天地すでにころりと燒(やきよ)とした心(こゝろ)に水の德もわきけり
何と、有難(ありがたい)事じやナ、本心をしると、たちまち、そふ、德が、あらはれる。「あやまりました」と「まける」のは、みな、本心の光明じや。
先(まづ)、むかうから、どのやうに大きな聲をして、燒(やけ)を、もつて來ても、
「それは、おまへのが、御尤。私が、わるふ御ざりました。」
といふのが、直(じき)に水をかけてけしてやると、むかふにも、
「おれが、りくつが、あるによつて、あやまる。」
と、また、大きなこへが、する。又、此方(このはう)から、
「幾重(いくへ)にも御了簡。」
と、また、水をかけてやれば、いかほどもへる「やけ」でも、直(じき)に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])る。
此術を、能くおしへると、一生、大てい、安樂なものじや、なひ[やぶちゃん注:ママ。]。
〽まけてのく人をよはしと思ふなよ知惠のちからの强きゆへなり
〽一切の物にまけるは佛ぼさつ勝ちたがるのは犬や牛むま
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