只野真葛 むかしばなし (67) 有名人河村瑞賢登場
一、むかし、江戶に川村瑞軒といひし人は、鳶の者なりしが、ふと、金、少々、まうけて、
『上方へ行き、かせがん。』
と思ひ立(たち)、大津の宿(しゆく)まで行(ゆき)しに、人の相(さう)を見る人と、とまり合(あひ)て有(あり)しが、瑞軒が相を見て、
「好き相なり。高名なる相なり。さりながら、上方にては、名を揚難(あげがた)し。やはり、江戶にて、工夫、有べし。」
と云(いひ)し、となり。
さすがの人故、是を聞(きき)て
『實(げ)に、さも、あらむ。』
と思ひ直して、又、江戶へ歸りしが、行來(ゆきき)に、貯金、つかへはたし、一錢なしにて、高輪(たかなは)に、手を組(くみ)て、浪の、よりくるを見てゐたりしが、其とき、所々の「堀さらへ」有(あり)て、人足、多く出(いで)たり。七月末にて、盆棚(ぼんだな)を流したるが、浪によせられて、ひしと、岸に有しを見て、ふと思付(おもひつき)、其(その)つゝみし中(なか)より、瓜と茄子を取出(とりいだ)して、「鹽(しほ)おし」にして、人足共の中へ、持行(もちゆき)、うりしに、
「加減、よし。」
とて、忽(たちまち)、うれしより、錢、取(とり)て、よき瓜・茄子を買(かひ)ては、つけつけして、大きに儲けしが「もとで」の取付(とりつき)なり【此「堀ざらへ」、錢を「かます」に入れて、人足どもに、升にて、はかり、あたへし、とて、昔の人の富貴(ふうき)のたとへに、いゝしを、おぼゑ[やぶちゃん注:ママ。]たりし。されど、今のよふ[やぶちゃん注:ママ。]に「煮うり物」など、たいて[やぶちゃん注:ママ。「絕えて」の訛りか。或いは「たいてい」(「大抵」)の脱字か。]なき世ゆへ、漬物さヘ、めづらしかりしなり。今は、「まこも」にて牛馬をつくれど、昔は皆、正(まこと)の瓜・茄子を牛馬にせしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]
だんだん、仕出(しだ)して、日用頭(にちようがしら)になり、御城御普請の足代《あしじろ》をうけ合(あひ)しに、外々(ほかほか)の入札より、かくべつ、下直(げぢき)にせし故、瑞軒方へ、おちしに、
「いかゞして、かく別に、やすく、受合(うけあひ)し。」
と、人々、ふしぎに思ひしに、其時までは、足代には、材木ばかりにて、「かすがい」にてとめる事なりし故、材木・かすがいの入用、はこび人足の手間などに、費(つひへ)ありしを、瑞軒、工夫にて、ちからに成(なる)ほどばかり、柱を用ひ、あとは、竹と繩にて、せし故、もとの入用(いりよう)・はこび手間など、かゝらず、大まうけせしとぞ。
是より、竹・繩にてかける事と成切(なりきつ)たり。かすがいの時は、ぬけて、怪我する事も有(あり)し、となり。
是より、
『材木屋。』
と、おもひ付(つき)て、りつぱに普請せしに、倉には、一本も、材木、仕入(しいれ)なきに、引移(ひきうつ)るといなや、風上(かざかみ)より、火、出(いで)たり。
其内に、工夫して、我家へ、火をつけて、通し駕(かご)にて、木曾へ、にげ行(ゆき)しとなり。
木曾に至りて、
「我は、江戶の材木屋なり。山の材木、殘らず、かいうけたし。江戶、大火に付(つき)、急(いそぎ)、仕入(しいれ)に來りし。」
と云しが、其名も聞(きき)しらぬ事故、手付金なくては、少し、人氣(にんき)、のらざりし時、あとより、四ツばかりの子の、泣(なき)てきたりしを、懷中より、金三兩、いだして、小刀にて、くり穴を明(あけ)て、「がらがら」にして、だましたるていを見て、大金持と見とり、皆、得心したりし故、山中の材木、みな、瑞軒が、札(ふだ)付けたりしに、果して、四、五日、過(すぎ)て、追々、材木、仕入に來りしに、先達(せんだつ)て、よき材木は、皆、瑞軒が札付(つけ)し故、其方より、かいうけることに成(なり)、手ばたき一ツにて、千兩、まうけしとぞ。
しかし、是より、「〆買」といふ事を心付(こころづき)、火事の度(たび)に、物の直(ぢき)を揚(あげ)るといふ工夫も出(いだ)しなり。
才は、あれども、下人より、仕出す人は、いづくまでも、下人の心なり。わるいことの先立(さきだち)せし人なり。若《もし》、下へ富貴のくだる折の、いたりしにや【大平つゞけば、上の人心、ゆたかにて、智に、うとく、下の者は、たからを得る事を工夫するかたちなるべし。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]
此火事の便(べん)に、一度に大材木屋と成(なり)て、公儀の御用に、材木さし上(あぐ)る事ありし時、二千本の木の御用被二仰付一し時、御うけ申上(まふしあげ)、扨(さて)、二千本、御見分の時、
「千本、はこびて、木口(こぐち)を御覽に入(いれ)、跡の千本は、やはり、始(はじめ)の木の後(うしろ)の木口を、其座(そのざ)にて、つみかへて、御覽に入(いれ)、二千本、御見分の分(ぶん)にすめば、はこび手間、かゝらぬ。」
と工夫して、見分有(ある)役人方(がた)へ、色々、まひないしてすみしが、其内、壱人(ひとり)、朱子學者、有(あり)て、
『さやうの事、少もいはれぬ人、有しを、我方(わがはう)ヘ引込(ひきこむ)たく。』
おもひ、俄(にはか)に、學文して、書の名ばかりおぼゑ[やぶちゃん注:ママ。]、さて、
「御用被二仰付一有難き。」
という[やぶちゃん注:ママ。]禮に行(ゆき)、書物の噺(はなし)、少々すると、其比(そのころ)、まれなる唐本(たうほん)に、其人の見たがる物ありしを聞(きき)だし置(おき)、
「我、持居候間、御覽に入(いる)べし。」
とて、歸り、急に尋(たづね)て、其書を、かいとり、かしてやりし、となり。
大きに悅(よろこび)、早々、かへしたりしに、内の者に「まいない[やぶちゃん注:ママ。]」して、其書一册、紛失仕(し)たる由に、いひたて、隨分、旦那の氣の毒がる樣(やう)にいはせしに、多(おほい)に、「まじない」[やぶちゃん注:「賄賂(まひなひ)」に「咒(まじな)い」を洒落て効かせたものであろう。]きゝて、家中をさがしなどして、さわぎしが、元より「こしらい[やぶちゃん注:ママ。]事」なれば、いづくにかあらん、旦那は、氣の毒の山をつかね、瑞軒へ面目(めんぼく)なくてゐる時、かの見分なり。二千の數を千にてすまはせる事ならずと、おもひ[やぶちゃん注:ママ。]ども、さきの氣の毒さに、無言にて居(をり)たりし、とぞ。
是にて、又、倍、まうけたり。
是より後は、書を讀(よむ)人を、よしとや、思ひけん、白石先生、とし若(わか)の時分、
「聟(むこ)に仕度(したし)。」
と、いひし事は、「折たく柴」にある如くなり。
娘の聟には、書物よむ人を、したり、とぞ。
はじめは何といひしや、「瑞軒」は隱居名なるべし。
後は、
「佛學をして、座禪する。」
とて、こもり居(をり)しが、湧(わき)て出る工夫は、やめられず、三日の内に、「淀のきりぬき」と云(いふ)事を考(かんがへ)だし、夜が明(あく)ると、はき物、はきながら、片手に尻をからげ上(あげ)て、
「淀のきりぬき。」
と、よばわりながら、かけ出して、公儀へ、願(ねがひ)をあげたり、とぞ。
今も用(もちひ)るは、此人の工夫なり。
[やぶちゃん注:「川村瑞軒」これは無論、江戸初期の豪商・政商として全国各地の航路開拓・治水工事を指揮し、晩年には武士身分(旗本)を得た、かの河村瑞賢(元和四(一六一八)年或いは元和三年~元禄一二(一六九九)年)である。当該ウィキによれば、『伊勢国度会郡東宮村(とうぐうむら』:『現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれ』たが、『先祖は村上源氏で、北畠氏の家来筋であると自称していた』という。十三『歳の時』、『江戸に出』、『九十九里浜東端の飯岡で江戸幕府(桑名藩)の土木工事(椿海の干拓/新川の開削工事など)に携わり』、『徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようにな』って、明暦三(一六五七)年一月十八日から二十日にかけて発生した「明暦の大火」の『際には』、『木曽』・『福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た』とあった。当地鎌倉の建長寺に墓がある。なお、真葛は、そのやり口のあざとさに、かなり批判的な語り口を以って記しているのが、興味深い。
「淀のきりぬき」瑞賢が幕命を受けて行った事業のうち、現在も高い評価が与えられている「東廻り・西廻り海運」の刷新と並ぶ、「淀川河川の大規模な改修工事」を指す。]
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