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2023/05/09

大手拓次 「指の群」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  指 の 群

 

 ほがらかなおほきさのなかに、とりとめもない ありとしもないたはむれをむすび、そのあたりに泉をかもさうとするわざは、風韻のかげをうすらげ、いたづらに生のなやみをふみしだく たよりない盲目のながめである。

 風景はうつりきたり、また泡のやうにきえさつてゆくのである。それとなく置かれた手のまはりに黃金(きん)の環(わ)をゑがいて、あざなはるしらせをはしらせる運命のおとづれである。

 やぶれた帆でさへも、波を欲するのである。

 

 いま、わたしの手のなかにおちてくるさざめやかな貌(かげ)は、あをあをとした空靈の世界である。

 なかばひらいたままうつろひゆく花のおもひをそそがれ、ねむられぬ夜夜(よるよる)を茫然となまめかしくするのである。

 ろうろうとした細い流れにひたり、わたしのひだりのくすり指の根のくぼみを見惚れ、そのやはらかいおもざしにひたつてしみじみとやさしさを掘るのである。そのみづみづしい指のかほだちに、おきどころなく瀲灔(れんえん)としてあをめく思ひがあふれてくる。

 想念の流れのおもてをむいてゐるとき、ものはしづかに浮び、そのところへおもむくのである。色多く、ねいろ多く、淸らかに新綠のしろめくそよぎであり、おともないどよもしである。はかりがたい空間と時間とをいよいよこえて、かなたにうつりすむのである。

 これは表現の跳(はねばし)橋である。

 また、うちにむいてうごめくとき、ものはとどこほり、ひそまり、よどむのである。これは宇宙の意志とつながりを斷たれ、はなれてひとりそむく時である。

 このふたつの心情の流れの向きは、つねに逆らひ、相阻(あひはば)んで波立つのである。そのあひだに、身をときはなし、あらしのなかに沒せしめ、あるがままに消えようと

する飽和狀態にいたるのである。

 しづかに花はささなきをもらして、闇のなかにほころびはじめるのである。

 にほひはあたりをこめて、けはひはよそほひをこらし、韻律はかさなりあひ、微光はうつろのやうに動きをもとめ、全身の波はもりあがるのである。

 くづれようとして天心に釣針の絲をたれるのである。

 無心の絲を、無爲の絲を。

 心は黃金(きん)のゆふぐれ、寂びはてて馬をすべらし、あをい雪のなかに思ひでの月をうめてしまふのである。

 このとき、全感覺は湖上をわたり、永劫をくらふのである。

 裸體のままに乳をいだいて哲學するのである。

 心は黃金(きん)のゆふぐれ、ならびゆく僧形(そうぎやう)の馬はけむりである。

 眼をふさげよ。

 心をふさげよ。

 手をふさげよ。

 身をふさげよ。

 すべての四邊の風物をふさいで、閉ぢこもらせよ。

 これらの行ひは無の大皿のうへにをどり、何物かの食欲に待たれるのである。

 言葉の觸手はゆふぐれとなり、ともしびをかかげて、迷ひのなかに明るみをうがつのである。

 古生物の有翅爬蟲類をもちゐて、わたしはそこに幻想を點火し、時代をわたり、あをぐろいあゆみをとほして、皆滅の水邊にとけくづれる。

 ゆがめられ、たわめられ、沼地のなかにおよぎまはつて、まじろき、焦噪と恐悸と悔恨とに追ひかけられ、八裂(やつざき)にされ、轟轟と消えてゆく靑春の旅路を詛ふのである。

 ねずみいろの道化物、

 しろい被(おほ)ひをした吐息をあつめてあをずむ癡呆の滿開。

 うまれたままに死し、死のなかにあゆみをうつし、うつろひ、ひるがへり、ながれさり、べうべうと吠える犬のやうに夜陰に乘じて、虛空に粘着し、驚異の窓をおしひらいて、官能のしぶきに沐浴し、浮動する瞬間をばうばうともえたたせる。

 色あをざめた靈魂は寒林のうちを散策し、雙手に季節をだいて、みづから醱酵し、變態する。

 未知の變態である。

 白綠色(びやうくりよくしょく)の、環狀の、無始無終の、嗜眠的變態である。

 あらゆる指のもぞもぞとうごく月光變態である。

 くさむらにおもてをよごす鬼畜である。

 それは地にうけた洗禮である。

 輝く美貌は、蒼黑い水面のやうにおびえ、波立つ肌とかはり、しきりにも低迷して草木をうゑそだてる。

 わたしのもとめるのは、絕えざる心性の破壞である。怪奇なる綠色鞭毛(りよくしよくべんもう)の破壞につぐに、更に生態の破壞をもつてし、日夜にわたつてらんらんと眼をひらかせるのである。

 夜の大道のなかに白熱の幽靈を犯し、内へ内へとまきこまれる惡血(をけつ)のパントミイムである。

 わたしは、神を拜するとともに甘美なる醜怪なる惡魔の妖婉を禮讃する。

 灰白色のこの婬性の羽はひらいて、どすぐろく麗麗と闊步する。

 わたしの眼に網をかけてうばひさる途上のをとめよ。

 その眼は空想のやうにあをく、のりをひいて、わたしの衣服のところどころに、ほつほつとした螢光をつける。

 それは、をりをりにわたしの感情の食慾を飾るうつくしいパイである。

 街をさまよふみづつぽいこはれやすいフアンシイケエクである。

 あだめいた その銀と金との星星のなかに、わたしは爪をかきいれ、足跡をくらまして、倉皇とにげさる。

 それは指先に鳴る葦笛(あしぶえ)の謎語の闇である。

 

 栗鼠(りす)のごとく全身の針先を逆立たせ、風にそよぐこの感覺圈は、白布をさらして獸性のうちに沈めば、沈むにしたがつて、いよいよ强く宇宙的意志の薰染(くんせん)を感じきたるのである。

 このゆゑに、全感覺の震動的醱酵こそ、象徵のこみちである。

 感覺の重みは、生きたるままに雲煙化する群蜂の消散であり、その瞬間に天上の星座と呼應し、あらゆる觀念は還元し、個個の生活體となつて游泳する。

 この綜合されたる感覺は燃燒して轉生し、その境地を絕し、飛躍し、突如として實在のなかへ奔流する。

 この心境は絕對である。金剛不壞である。

 

 すべての感覺をはびこらせよ。

 すべての感覺を繁らせよ。

 それらの感覺を感覺にのみとどめおくなかれ。はてしなくひろがる感覺のいただきに死をあたへ、無に通じ、有に通じ、明に通じ、暗に通じ、萬法の掌中によみがへり、ひそかにおともなくひらく花。

 この花をわたしは象徴とよぶ。

 感覺より入り、感覺を絕するところに道はあるのである。

 水母(くらげ)のやうにぶよぶよするわたしの感覺はあまりのするどさに、銀色の傘をきてあるくのである。

 しかも、その周圍に頻頻と焦死する芳芬は、あだかも日蝕する燕である。

 いはば、個の肉をつらぬいて、個の靈に入り、更にそれをつらぬいて、全き靈のなかへ開き入るのである。

 これらの感覺の燃燒のいやがうへにも高まり、火と雨とのなかをついて、不可見の未知の未到の無邊際の生生たる創造の世界へ轉身するすがたである。

 感覺は避けることのできないとらはれである。ひとつの媒體である。消えるまでもそれを解きはなてよ。そのいただきに到つて、しめころせよ。

 この、とらはれのなかにこそ韻律は生ずるのである、この肉體的感覺にとらはれることの深ければ深いほど、精神的飛躍は高くなることを得るのである。

 この一見矛盾ともみられる原理は、空間に纏綿するかすかな木の葉のうごきにも似てゐるではないか。

 心をゆすぶれよ。

 ありとある感覺の絹の色絲を能ふかぎりのばし、ひろげ、ときほごし、日に日をかをらせ、飾り、編み、織り、ひかりのごとく遍通せしめよ。かくして、そのおどろくばかりの無數の色絲を、ただひとすぢの透明なる無色の絲となし、形なき絲となしをはるのである。

 色もない、形もない、ばうばうともえてゐる透明なる絲のふるへこそ、わたしの詩のすがたである。

 それは、あらゆるものの眼である。

 ひとつの感覺を八方に廻轉せしめよ。

 ひとつの感覺を八方に放射せしめよ。

 感覺を感覺のままにあらしめてはならぬ。その感覺をして、感覺みづからを越え、絕するところに、ものはあるのである。

 廻轉せしめよ、放射せしめよ、蒸溜せしめよ。

 感覺の切斷面は常に銳角のつながりであり、やすみなき震動體である。

 あまたの感覺をしてみえざるものかげにふるへしめ、そのうへに一輪の花をひらかせるのである。

 感覺の吸收するものは、みどり色の水である。それは、絕えざるあたらしさに濡れてゐるのである。

 もぞもぞと匍ひまはり、うごめく指の群はべとべとにぬれ、幻をよび、時空にむかつてほえてゐる。

 もんしろ蝶は羽をかくし、ひかりをくはへてとびまはつてゐる。

 空間をほれよ、空間をほれよ。

 闇につまづけよ、闇につまづけよ。

 

[やぶちゃん注:「瀲灔(れんえん)」水の満ち溢れるさま。また、漣(さざなみ)が光り煌(きら)めくさま。「灔」の字には、より複雑な「灧」の字体があるが、この熟語字体を使用している詩集「藍色の蟇」での用字(「咆える月暈(つきかさ)」)を採用した。

「絲」詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「古生物の有翅爬蟲類」所謂、「翼竜」で、初めて空を飛んだ脊椎動物であるが、現代の鳥類ほどには上手く空を飛べず、地上を歩いたりすることも出来なかった。三畳紀に現われ、白亜紀末に絶滅した。爬虫綱双弓亜綱目翼竜目 †Pterosauria類。プテラノドン(翼指竜亜目オルニトケイルス上科 Ornithocheiroideaプテラノドン科プテラノドン属 Pteranodon)・ケツァルコアトルス(翼指竜亜目アズダルコ上科 Azhdarchoideaアズダルコ科ケツァルコアトルス属 Quetzalcoatlus )・ランフォリンクス(嘴口竜亜目ランフォリンクス科ランフォリンクス属 Rhamphorhynchus )などが、恐竜図鑑や映画では、よく知られる。

「恐悸」「きようき」。恐れて顫(ふる)えこと。恐れ悸(わなな)くこと。

「詛ふ」「のろふ」。「呪詛する」に同じ。

「癡呆」「癡」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「綠色鞭毛(りよくしよくべんもう)」鞭毛虫の内の植物性鞭毛虫でクロロフィルを持つ鞭毛藻類。代表的な種はユーグレナ藻綱Euglenophyceaeユーグレナ(ミドリムシ)目ユーグレナ(ミドリムシ)科ミドリムシ属 Euglenaや、緑藻植物門緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科オオヒゲマワリ(ボルボックス)属 Volvox 等が知られる。この類の分類は我々が高校の生物で習ったものとは、分類が多様に変わってしまっている。

「パントミイム」「パントマイム」。フランス語“pantomime”。音写「パァントミーム」。英語の綴りも同じで、元は古代ギリシャ語(ラテン文字転写)“panto”(「総てを」)と+“mimos”(「模倣する・真似る」)が語源。

「妖婉」「えうゑん」。妖(あや)しいほどに艶(なま)めかしく美しいこと。

「フアンシイケエク」英語の“fancy cake”。フランス語の“cake”は「果実入りのケーキ」であり、“fancy cake”は和製英語の「デコレーション・ケーキ」を指すが、ここは、英語の“fancy”の原義を用いて「幻想のケーキ」と訳す方が拓次らしくはあるか。

「廻轉」「廻」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

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