佐々木喜善「聽耳草紙」 七八番 田螺と野老
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。
「野老」は本文にある通り、「ところ」と読む。「野老」広義には、単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の中で、「~ドコロ」という和名を持つ所謂、「山芋」の一種であるが、時に、その中の一種であるオニドコロ(鬼野老)Dioscorea tokoro を指す。しかし、「~ドコロ」の種群は苦く、しかも幾つかの種は有毒であり、通常は食用としない。しかし、ウィキの「トコロ」によれば、『ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロ』( Dioscorea esculenta :本邦では沖縄で栽培されている)『は』無毒で、『広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ(またはヒメドコロ』(Dioscorea tenuipes )『)の栽培品種のエドドコロが栽培されていた。現代では、青森県や岩手県の南部地方などで食用とする文化が残って』おり、本邦でも『古い時代には救荒植物として』、『茹でて晒した上、澱粉を抽出して食用とした』歴史がある。因みに、私は若い頃、「ところ」は「山芋」の異名で、「とろろ芋」として食用に供するヤマノイモ Dioscorea japonica と同一だと思っていた。それは、芭蕉の句の、「此山のかなしさ告げよ野老掘(ところほり)」の句から、漫然とそう思い込んでいたのである。『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 此山のかなしさ告げよ野老掘 芭蕉』を参照されたい。]
七八番 田螺と野老
昔、田螺(ツブ)と野老(トコロ)が隣り同志であつた。或時トコロがヅブのところ斯う歌をかけた。
ヅブスブと
澁たれ川のゴミかぶり
ケツがよじれて
おかしかりけり[やぶちゃん注:「おかし」はママ。]
すると田螺は返した。
トコロどの
あんまりチヨウゲンし過して
體のケブを
拔かれもさんナ
これを聽いて野老は怖氣がついて、今のように土の中にモグリ込んだ。
[やぶちゃん注:「ケブ」「野老」の芋に生えているヒゲ根を「毛」と呼んだもの。]
(眞澄遊覽記の膽澤《いさは》邊で子供から路々聞いた話に兎(ウサギ)とツブとの斯うした掛歌があつた。私はそれを大層面白く思つて村で聽き合せると、この類の話を二三知つて居た。本話は家の老母から聽いたものであるが、同じ所でも古屋敷 萬十郞殿[やぶちゃん注:半角字空けはママ。]が知つてゐたのは歌のところだけで斯うであつた。)
マルマルと
澁タレ川のゴミかぶり
尻の卷目が
おかしかりけり
これは野老の掛歌。すると田螺は斯う云つた。
ニガニガしい野老どの
頭のケブカ拔かれもさんな。
[やぶちゃん注:附記部分は、ポイント下げで、概ね本文二字下げであるが、全部引き上げて、同ポイントとした。
「膽澤郡」旧岩手県胆沢郡。旧郡域は現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町及びそこより南方部で奥州市の一部を含む広域であった(当該ウィキを見られたい)。
「眞澄遊覽記」江戸後期の大旅行家にして優れた博物学者であった三河国吉田生まれの菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)が記した膨大な日記・・論考・資料は、彼の『存命中の』文政五(一八二二)年に久保田藩の藩校『明徳館に献納された(同館事業として編纂された』「雪の出羽路 平鹿郡」と「月の出羽路 仙北郡」を『含む)』。明治四(一八七一)年に『明徳館本は佐竹家に移管され』、後の昭和一九(一九四四)年には『辻兵吉の所有となったが、その後』、『秋田県立博物館に寄贈され』、『現在に至る』。これは、敗戦後の昭和三二(一九五七)年には「自筆本 真澄遊覧記」全八十九冊として『秋田県有形文化財となり』、現在は『国の重要文化財と』も『なっている』とある、それ。]
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