「近代百物語」 巻四の二「怨のほむらは尻の火熖」
[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。
底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
標題の「火焰」の「くわゑん」(歴史的仮名遣は「くわえん」でよい)はママ。]
怨(うらみ)のほむらは尻(しり)の火熖(くはゑん)
今はむかし、山城の國、宇治のかたほとり、鹿飛(しゝとび)といふ所に、㚑嶽(れいがく)といふ僧あり。
[やぶちゃん注:「鹿飛(しゝとび)」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真)のこと。「鹿飛の瀧」と呼ぶが、これは、滝があるのではなく、両岸が迫って、川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなることから、その水勢が激しいことによる呼称である。より詳しくは、「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」の本文及び私の注を参照されたい。]
うき世をはなれし山居(さんきよ)の身、生死(しやうじ)むじやうを、くはんねんし、善𢙣不二(ぜんあくふに)を、さとりあきらめ、餓(うゆ)れば、一飯に、はらを、ふくらし、渴(かつ)すれは[やぶちゃん注:ママ。]、一はいの水に、咽(のど)をうるほし、おきふしに、人を、はゞからず、
「あら、心やすや。」
と、佛(ほとけ)をはいし、ころもを脫(ぬぎ)すて、丸きあたまを、撫(なで)まはし、春の夜のゆめばかりなる短夜(みじかよ)の目(ま)たゞくあいだに、初夜(しよや)[やぶちゃん注:午後八時頃。]もすぎたり。
「さらば、一ぷく、たのしみて、ねぶりは眼の勝手しだひ。」
と、たばこ、引きよせ、煙筒(きせる)に、かゝれば、ふしぎや、表(おもて)に、人おとして、編戶(あみど)によりて、なげきの聲、
「ほとほと」
と、叩くにぞ、
「あら心得ず、此庵(いほ)に、ひるさへ、人のまれなるに、夜陰におよび、來るべき人しなければ、火をうちけし、松ふく風の、ひゞきならん。」
と、枕によれば、しきりにたゝひて[やぶちゃん注:ママ。]、
「我は、遠國(ゑんこく)のものなるが、此所に、ゆきまよへり。道の案内(あない)を、なしてたべ。」
と、しみじみと、たのむにぞ、㚑嶽、おどろき、
「こは、そも、いかなる人なるぞ。山影(さんゑい)、門(もん)に入りて、おせども、出でず、月光、地にしいて、拂へども、また生ず。」
[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、
*
狸(たぬき)のばける
は
多(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])く
小童(《こ》わらんべ)
也
是(これ)みな
己(おの)
己が[やぶちゃん注:「己」は底本では踊り字「〱」。]
爲[やぶちゃん注:「なし」と訓じておく。]たる
所
なるへ[やぶちゃん注:ママ。]
し
《中央やや下。霊嶽の台詞。》
いつまて[やぶちゃん注:ママ。]
もとまら
れよ
《左下の女の台詞。》
おありがたふ[やぶちゃん注:ママ。]
こざります[やぶちゃん注:ママ。]
*]
と、古きことゞも、おもひいだし、柴の編戶を、おしひらき、月かげに、よくよく見れば、三五[やぶちゃん注:十五歲。]にたらぬ美少人(びせうじん)、なみだに、そでも、しほたれて、泣きしづみたるかんばせは、芙蓉(ふよう)にあめをそゝぐがごとく、賤(いや)しからざる詞(ことは[やぶちゃん注:ママ。])のはしはし、㚑嶽、見るに、痛はしく、
「そも、御身は、いづくの人、いかなる事にて、此所へ、夜中に、まよひ來たれるぞ。」
と、情(なさけ)のことばに、少人(せうしん[やぶちゃん注:ママ。])は、世に、うれしげなる顏をあげ、
「我が身は、備後のものなるが、人あきびと[やぶちゃん注:人買い。女衒(ぜげん)。]に、かどはされ、難波(なには)の浦に、つれ來たり、また、奧刕に賣りわたされ、ちかきに、東(あづま)にくだるのよし。陸奧(みちのく)のはてにゆき、『どふ[やぶちゃん注:ママ。]したうき目に、あふべきか。』と、あまりの事のおそろしさに、人目のひまを、うかゞひて、忍びいでゝ、忍(しの)はさふらへども、方角とても、しらざれば、今、此所に來たりしぞや。父が名は花垣(《はな》がき)十内、わたくしが名は、絹太郞、あはれみ給へ、御僧。」
と、たもとを、顏に、おしあつる。
㚑嶽は、始終を聞き、いたはしさ、いやまさり、
「まづまづ、これへ。」
と、庵に、ともなひ、
「しばらく、こゝに滯留し、たよりをもとめ、古鄕(こきやう)へおくり、ふたゝび、親父へ、たいめんさせん。心やすく、おもはれよ。」
と、いとねんごろに、いひなぐさむれば、絹太郞は手をあはせ、
「さてさて、おもはぬ御苦労かけ、御懇情(こんぜい)なる御ことば、何をもつてか、此御おん、報ずべきやう、さらに、なし。しかれども、武士の子が、人あきびとに勾引(かどは)かされ、國にかへりて、朋輩(ほうばい)はじめ、町人までに指(ゆび)さゝれ、何《なに》めんぼくに古鄕にゆかん。とてもの事の御慈悲に、御弟子となして給はれ。」
と、おもひ入りたる顏色(がんしよく)に、㚑嶽、歡㐂(くわんき)、あさからず。
「しからば、近日《きんじつ》、おもひたち、愚僧、なんぢが古國(ここく)にゆき、十内殿へも、たいめんし、くはしくかたり安堵させん。まつ[やぶちゃん注:ママ。「まづ」。]、それまでは、扈從(こしやう)につかはん。此ほどの、つかれも、あらん。ゆるりと、休足(きうそく)すべし。」
と、おくそこもなき[やぶちゃん注:底意も何もない正直な。]出家かた氣《ぎ》、絹太郞は、發明(はつめい)もの、二、三日、くらせしが、一ッを聞きては、三ッをさとり、庵主(あんしゆ)の心に、さきだつ、とん智、㚑嶽、はなはだ、これを愛し、「神童」と異名して、五、六日も、つとめしが、ある夜、㚑嶽、酒など飮みて、四つ[やぶちゃん注:午後十時頃。]すぐるころ、ふしたりけるに、絹太郞も、傍(そい[やぶちゃん注:ママ。])ぶしせしに、いかゞはしけん、絹太郞、
「きやつ。」
と、一聲、大ひに喚(さけ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]、庵主の夜着(《よ》ぎ)より、かけ出づる。
すがたを見れば、コハ、いかに、幾年(いく《とせ》)ふるともしれぬ狸の、面(かほ)を、しかめ、齒を、むき出し、床(とこ)ばしらに、いだきつき、尻(しり)を、ねぶり、かしらを、ふり、庵主を、にらみ、とびかゝり、あたまのはちを、かきむしり、窓を引きさき、うせければ、庵主は、あんに相違して、月夜に釜をぬかれしこゝち、頭(かしら)の疵(きず)より、ながるゝ血に、眼(まなこ)くらめば、たもとより、揉(もみ)たる紙を、取出《とりいだ》し、おしぬぐへども、こらへばこそ、なを[やぶちゃん注:ママ。]も、したゞる血に、あきれ、身ふしも、痿(な)へて、くにやくにやと、はらが立つやら、おかしい[やぶちゃん注:ママ。]やら、相手、なければ、うらみも、いはれず。
[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、
*
恩(おん)を
恩と
思わぬ[やぶちゃん注:ママ。]
も
また
ちくせう
成べし
好事(こうじ[やぶちゃん注:ママ。])
も
なきには
尓(しか)す
《中央の霊嶽の台詞。》
これは
々に[やぶちゃん注:判読不能。「々」として「これは」を繰り返し、「に」は続いて「にげる」と苦しく読んでおいた。]
げる
事
しや[やぶちゃん注:「じや」か。]
《逃げる狸の下方にキャプション。》
事を
好むべ
から
ず
*]
「南無あみだぶつ。」
と囘向(ゑかう)して、橫に、ころりと、夜着(よ《き[やぶちゃん注:ママ。]》)、うちかつぎ、あたまをかゝへ、ふしたりしが、夜《よ》あけてみれば、座敷も、床(とこ)も、血に染(そみ)しを、ぬぐひさり、二、三日も、すぎたりしに、夜更(《よ》ふけ)、庵主も、よくよく、ねいり、正躰(《しやう》だい[やぶちゃん注:ママ。])なきを、うかゞひて、夜着を、
「そつ」
と、引《ひき》あげて、毛のはへた手を、
「ぐい」
と入れ、尻(しり)と睾丸(きん[やぶちゃん注:二字へのルビ。])とを、大ひに、搔裂(かきさく)。
㚑嶽は、
『夜盜(よとう)。』
と心得、おきなをれども、尻のいたみ、山葵(わさび)おろしに座するがごとく、人音《ひとおと》とても、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ねば、頭巾(づきん)を、疵に、おしあてゝ、こたへて[やぶちゃん注:「こらへて」か。]見れども、いたみは、つよく、呻(うめ)きながらに、夜を、あかし、外科(《げ》くわ)をまねき、てりやうぢに、あづかり、疵も、大かた、癒(いへ[やぶちゃん注:ママ。])、かゝれば、また、おもはずも、ねいりばな、いづくよりか取り來たりし松の木のもへさしの、三寸ばかりの火になりしを、尻に、
「ぬつ」
と、さしつくる。
「わつ。」と、とびのきなでさすれ
ど、かきさかれしより、火傷(やけど)の大きず、十倍の、そのいたみ、坊主、なきに泣きあかし、
「此のち、こゝに長居(《なが》い[やぶちゃん注:ママ。])せば、いかなるせめに、あはんもしれず、いのちありての山住《やまずみ》ぞ。」
と、杖にすがりて、よろめきながら、鹿飛(しゝ《とび》)を、出でされり。
此僧、たぬきを、いためもせず、「絹太郞」といひしときも、ことのほかの、ちやうあいなりしが、たぬきは、僧をうらみしは、とかく過去の「がういん」にや。
おりおり[やぶちゃん注:ママ。]、尻にあだせし事、みな人、ふしんしける、とぞ。
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