只野真葛 むかしばなし (63)
一、おしづ[やぶちゃん注:真葛のすぐ下の妹。]が弟のさきばゝは、もと、長崎近くの國に生(うまれ)し人なり【肥前の島原の生。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。「殿樣、御國替のこと有て、出羽の山形とやらへ、引越(ひつこし)たり。」
と語(かたり)し。
「生國にては、殊の外、蜜蜂を、多く、家每に、少しは、かう事なり。」
とて、其かい樣(やう)の咄(はな)し、委しく仕(つかまつり)たりしが、よくも覺ねど、少し、かうには
[やぶちゃん注:養蜂箱の図。底本よりOCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。]
物干(ものほし)のこなどのやうな籠を造りて、紙にて、張り、下に、引出しをつけて、中比(なかごろ)に、穴を幾らも、あけて置(おけ)ば、其穴より、いでいりして、中に巢を造るなり。
引出しは、折々、かへしのたまるを、掃除しする爲(ため)なり。
渡世などに[やぶちゃん注:専業として。]かうには、長持の中比に、穴を明(あ)け、下に引出しを付(つけ)てかう、とぞ。
不幸穢(ふかうゑ/ふかうのけがれ)の事、有(ある)時は、蜂、其家を去りて、外(そと)に集(あつま)り居(をる)とぞ。
又、子のふへたる時、分(わか)る事、有。
[やぶちゃん注:分蜂(ぶんぽう)である。]
左樣の時、おのづから家に群(むらが)り入(いる)を、其家の福として、俄(にわか)に、籠など、しつらひて、かう事なり。
「心あらき人には、おのづから、なれず、あわれみ助(たすく)る人に、なるゝ。」
と語し。
取(とり)とめたく思(おもひ)ても、蜂の心に、あはねば、去り、寄(より)こず【物いひ・いさかい[やぶちゃん注:ママ。]・小言など、きらい[やぶちゃん注:ママ。]の蜂なり。すべて、さわがしきを、きらふなるべし。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]
或夫婦の者、子も持(もた)ずして、年久しく有しが、ふと、蜂の來りしを、いたわりかひしに、すみつきて、年每に巢分(すわけ)を仕つゝ、ふへ[やぶちゃん注:ママ。]し程に、一生、外(ほか)の事を休(やすみ)て、渡世したりとぞ【渡世にかふ所にては、蜂にげたりとて、かはで、おかれぬ故、いづくまでも、蜂の行方(ゆく)へ、したひ行(ゆき)て、其おちつく所を、みて、かへり、笹の葉へ、蜜を付(つけ)たるを、もち行て、蜂のおる[やぶちゃん注:ママ。]所へ出せば、それに、一とび、うつるを、もちて、かへれば、のこりは、したがひて、付加(つきくは)へりくる、とぞ。蜂を籠へ入(いる)るにも、笹の葉へ、蜜をぬりたるに、つけて、みち引(びく)、とぞ。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]
巢を分(わく)る時は、三、四十の蜂、穴より出(いで)て、壁などに付て、動かずして居(をり)、とぞ。其時、巢をつくる設(まう)け、すれば、それに入(いり)て、つくる。其家、心にあはねば、其時、とび去(さる)、とぞ。
其家を、はなれず、巢を分るを、いはい[やぶちゃん注:ママ。]、悅(よろこぶ)、とぞ。
「蜜は、蜂のかへしなり。」
と、いふは、そら言なり。
冬中の食を、はこび貯(ため)て、寒く成(なる)と巢ごもるを、來年、巢を造るほど、たねを殘して、其巢を、とりひしぎ、絞りて、蜜を取、あとのからは、釜に入て煮て、しやくし・へらなどの樣な物にて、探れば、結構なる、きらう[やぶちゃん注:「奇麗に」か。或いは「きらきらと」か。]、それに付(つく)、とぞ。
それを、かき取て、又、入(いり)、又、入して、「らう」[やぶちゃん注:「蠟」。蜜蠟。]を取(とる)、とぞ。
はじめ程、「らう」、多く付、後には、薄く成(なり)て、つかぬほどに成(なら)ば、捨(すつ)る。「かいこ」を、かふ、たぐひなり。
「人に、あだせず、大きにおこる時は、群がり、さして、怪我する事もあれど、めつたになき事なり。あつかひ樣を知りて居れば、腹たてぬ樣にする。」
と語(はなし)し。
此咄し、おもしろくて、幾度も語(かたら)せて聞(きき)たりし。
このばゞ、病人のあつかひ、上手にて、ありし。子共をも、やわらかに、能(よく)もりをせし人なり。
虎の御門内、井上河内樣とか、其比(そのころ)は云(いひ)し小大名の家中、大塚伴之丞と云(いふ)、物書(ものかき)の妻、成し。
子なくて、養子せしも、父と同じ名なりし。
「其よめに。」
とて、もらひし娘、
「人中(ひとなか)見習(みならひ)の爲。」
とて、數寄屋町へ上(あがり)て有しが、靜かなるを、めきゝに、もらひしを、「しづか」と云よりは、ふさぎたる方(かた)にて、何をするも、埒明(らちあか)ざりしが、夏のことにて、
「行水(ぎやうずい)の湯を汲(くむ)。」
とて、
「すべり、ころびて、其湯を、かけたり。」
と云(いふ)事にてありしが、其時は、はれもせざりしが、二日、三日すぎて、片顏、ゑりへかけて、はれ出し、目も、かため、細く、口もゆがむ樣(やう)に、段々、はれて有し。
燒(やけ)どの藥など、付(つけ)しが、同じ事にて、色、付たり。
「手にも、其湯の、はねたる所。」
とて、日增(ひまし)に、わる赤く成し所、ばらばらと、見へたりし。
十日ばかり立(たち)ても、皮も、うごかねば、あやしみ、
「やけどのてい、ならず。」
と、いひし。
父樣、ワに被二仰付一しは、
「付藥(つけぐすり)にて、肌も見えねば、其藥、へらにて、痛まぬ樣に、はなし取(とる)。」
と被ㇾ仰し故、その如くせしに、强くかきても、
「痛まぬ。」
と云たりし。
藥を、皆、とり仕舞(しまひ)てみるに、「どす色」なりし。
父樣、其色の付たる所を、へらにて御なで被ㇾ成、
「此へらのさはるは、物を隔てるやうなるや。」
と御尋有しに、
「左樣なり。」
と、いひし。
手を御なで被ㇾ成、
「手も色付たる所と、只の所とは、さはる物、ちがふか。」
と被ㇾ仰しに、
「左樣なり。」
と云し。
それから、
「よし。」
とて、次へ[やぶちゃん注:次の間へ。]下げられ被ㇾ仰しは、
「是、『らい病』なり【物をへだてたる樣におぼゆるは、生(いき)ながら肉の死(しに)て、經(けい)のかよわぬ故なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。さきが、よめには成(なる)まじ。呼(よび)て、其事、いひ聞(きかせ)ん。」[やぶちゃん注:「さきが、よめには成まじ」「この先、嫁としておくことは、病気が病気なれば、嫁としてあり続けることは出来まい。」の意であろう。]
とて召(めし)て、其よしを被ㇾ仰て下(さが)られしが、音にのみ聞(きき)し『らい病』のやみ出しを近く見て、快(こころ)わるさ、いはんかたなく、知らで、手にふれなどしたる事、思いでゝも、其ほどは、心あしかりし。
餘りいやさに、
「うつる物では、なきや。」
と伺(うかがひ)しかば、
「らい病が、うつゝて、たまるものか。」
とて、笑わせられし。
其樣に、はれ出(だ)してから、氣輕に成(なり)て、物も、よく、食(くひ)などして有し。
其やまひの、内にこもりて有(あり)しほどは、ふさぎたりしが、外ヘいでし故、心中、晴晴(はればれ)と成(なり)しと、見へたり。
よそめには、
『さぞ、悲(かなし)からん。』
と思わるゝを、其身には、結句、ほこりてをるは、因果なる病(やまひ)なり。
[やぶちゃん注:「らい病」「癩病」。現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌( Mycobacterium leprae )の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項では、この病について、『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても「天刑病」と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシは、この病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で、底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。因みに、私の亡き母聖子テレジア(筋萎縮性側索硬化症(ALS)による急性期呼吸不全により二〇一一年三月十九日午前五時二十一分に天国に召された)は独身の頃、修道女になろうと決心していた。イタリア人神父の洗礼を受けて笠井テレジア聖子となった。彼女は生涯を長島のハンセン病患者への奉仕で生きることまで予定していたことを言い添えておく。さて。ハンセン病は永く、その皮膚病変のさまから、「生きながらにして地獄の業火に焼かれている罪深い病い」として、民俗社会に於いて強く忌避されていたのであった。そのために、本朝中世の十二世紀の起請文の罰文に、「白癩・黒癩」の文言が出現しているのである。これは神に誓って違うことはないという決まった文言の一つとして、もし、誓約に背いた場合には、「現世ニハ受白癩黑癩之病」と記したのである。かくも、差別されてきた疾患であることを我々はよく認識せねばならない。なお、工藤平助の「らい病が、うつゝて、たまるものか。」という台詞には、やはり、医師でありながら、「ハンセン病」を「業病(ごうびょう)」とする認識が、感じられるようにも私には思われる。]
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