フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 佐々木喜善「聽耳草紙」 六一番 雪姬 | トップページ | 佐々木喜善「聽耳草紙」 六二番 蛇女退治 »

2023/05/05

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 蟹嚙に就て

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では、標題の次行の添え文の前行同位置に『川村「蟹噛み」参照』とある。この標題の「蟹嚙」であるが、一応、「かにかみ」或いは「かにはみ」、又は、馬鹿正直の最も正確な「かにはさみ」と訓の例を示しておくに留めておく。なお、「選集」では、川村のだけでなく、熊楠の標題も「み」を標題で勝手に送り仮名として出しており、この「み」は書誌的には信用出来ないのだが、私以外には誰も文句を言っていないようだから、「み」という読みの終りは確実と考えてよいとしておく。事実から言えば、蟹は鋏で以って「はさむ」のであるから、「かにはさみ」で確定したいところだが、ちょっと私の側に比定する根拠・傍証がないのである。全く関係ない所持する雑誌や書籍に載るこの単語、及び、国立国会図書館デジタルコレクションでも検索をかけたてみたのだが、「蟹嚙み」「蟹噛み」の語はあるものの、ルビはなかった。とすれば、大多数のそれらの作者は、蟹の大型の第一脚に鋏まれることで使用しており、しかもルビがいらないと考えているということになり、であれば、やはり「かにはさみ」以外にはないのではないか? と個人的には思っている。別な読み方であるとされる方は、読みと使用例を御教授戴けると恩幸これに過ぎたるはない。ともかくも、実は、熊楠自身が、標題だけでこれを使用しており、本文にはないという点でも、どうも不審があるのではある。

 さて。而して、その川村某の「蟹嚙」の論考なのだが、柳田通の方なら、もうお分かりかと思うが、川村というのは、柳田國男が『郷土研究』でよく使った変名ペン・ネームの一つである、「川村杏樹」ではないか? 「選集」が姓だけを出していること自体が、柳田國男のそれだと暗示しているものではないか? と、まず、踏んだ。但し、「ちくま文庫」版全集にはない。同全集は「全集」とは名ばかりで、未収録作品がゴマンとある不全なものであるから、国立国会図書館デジタルコレクションで検索して調べたところ、図に当たった。一九六四年筑摩書房刊「定本柳田国男集」第二十九卷のここに収録されてあった。標題は「蟹嚙」「み」の送りはないである巻末の「内容細目」を見ると、『蟹嚙(大正三年九月、鄕土硏究二卷七號』で、以下の標題の附記参照の書誌と、ドンピシャであり、やはりこれは柳田國男の論考であることが判明した。御覧の通り、極めて短いものであり、何時もの熊楠通り、その論考に触発されたというより、「儂はずっと前に英文論文で「蟹の害」のことをとっくに書いておる。儂の知ってをる『蟹嚙』の話はこれじゃ!」的な例のブイブイの書き振りであり、敢えて柳田のそれを示さなくてもいい気もするが、見つけたからには、添えるのが正当と考え、と言って、改めて単独記事公開するほどのものでもないので(最後は「蟹」から離れて「鷲」でエンディングだ。呆れてものが言えないね)、以下に以上を視認して、この冒頭に示すこととした。読みは全くないので、今までのここでの仕方を踏襲した。注は必要最小限度に抑えた。

   *

 

     蟹  嚙

 

 芝田君の大唐米談《たいたうまいだん》の中に、蟹の害を避ける爲に此稻を田の周匝《しうさふ》[やぶちゃん注:現代仮名遣「しゅうそう」。取りまいた周辺のこと。]ばかりに栽ゑるとあつた。此動物の害は近頃あまり之を說く者は無いが、昔は其繁殖が今より盛んで、諸國山間の淸水掛りの田など往々にして其跳梁を患《うれ》ひたのではあるまいか。山城蟹滿寺《かにまんじ》の古い緣起譚はともかく、狂言の蟹山伏を始《はじめ》として所謂八足二足の妖怪譚が各地に語り傳ヘられてゐるのを見ると、其民俗思想と交渉する所必ずしも僅微《きんび》で無かつたのである。之を書物かもたらした外來のものと見ることは、簡單であるが自然では無い。肥後の天草下島《しもしま》[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ。]の西海岸、「天草島鏡《あまくさしまかがみ》」の編者が住んで居た高濱村[やぶちゃん注:ここ。]に於て自分は蟹嚙の害と云ふものを目擊した。此邊の水田は多くは例の棚田であつて、上の田の境は必ず九尺三寸[やぶちゃん注:約一メートル六十一センチ。]の石垣である。蟹は其石垣の隙に隱れ住み、夜分出で來つて苗の根を嚙み倒す。別に食料にするでも無いやうであるが、一夜の中に幾十株の稲を流し而《しか》も之を防ぐ方法はまだ無いと云ふことであつた。鷲なども田螺や泥鰌《どぢやう》を捕るのはよいが、其爲に苗代を流すことは非常である。武藏杉山社[やぶちゃん注:杉山神社(武藏國六之宮)。]の田植祭の歌などを見ても、此鳥が如何に百姓を苦しめたかはよく分る。故に自分は怖れたから祭つたのが諸國の鷲森の最初の由來だと思つて居る。(『鄕土硏究』第二卷六一頁照)

   *

文中の「大唐米」は野生の稲(単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa )の殆んどを占める「赤米」、或いは、その内、中世に栽培され始めた稲の品種の一種を指す。また、「山城蟹滿寺」は『柳田國男 「鴻の巢」』の「蟹滿寺(かいまんじ)の緣起」の私の注を参照されたい。「天草島鏡」一巻。上田宜珍(よしうず 宝暦五(一七五五)年~文政一二(一八二九)年:陶業家で国学者。肥後高浜村の庄屋であった。本居大平(もとおりおおひら)に師事して天草史を研究した。家伝の高浜焼を継いだ。後、同地を訪れた伊能忠敬からは測量術を学んでいる)著。文政一二(一八二八)年以前の成立。「天草風土考」・「天草島廻り長歌」・「天草私領公料由来長歌」・「天草御取箇免成行長歌」・「天草郡年表事録」は著者自身の手に成るもので、他に「天草寺社領之覚」・「天草寺社領御証文之写」・「上野様より御尋并答之写」・「島原御旧領之砌之覚書」は著者が収集した史料である(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。

 蟹類の同定や付属資料に拘った結果、延べ一日半、電子化注にかかってしまった。

 

       蟹 嚙 に 就 て (大正四年六月『鄕土硏究』第三卷第四號)

           (『鄕土硏究』第二卷七號四四二頁參照)

 

 橫さらふ蟹ちふ奴は、水陸共に、死んだ物を食うて、人間の爲に掃除(さうぢ)・淸潔(きよめ)の大役を勤め吳れるが、又、生《いき》た物をも食ふから、人を困らす事も多い。二十年程前に『ネーチュール』へ蟹害《かにのがい》に關する一書を出した事が有るが、座右に只今無く、何を陳べたか、多分を忘れ了《をは》つたが、纔かに手控へ、又、記憶する丈を述べやう。

[やぶちゃん注:「橫さらふ」は「橫去らふ」で、連語で、「さらふ」は動詞「去る」(「来る」「行く」の古語)の未然形に、動作の反復・継続を表わす上代の助動詞「ふ」が付いたもので、「横に移動する・横歩きをする」の意の上代以来(「古事記」の歌謡に既に用いられている)の古い語である。

「二十年程前に『ネーチュール』へ蟹害《かにのがい》に關する一書を出した事が有る」「Internet archive」の当該原雑誌(合冊版)のここで南方熊楠の当該論考が視認出来る。イギリスの権威ある自然科学雑誌‘Nature’(一八六九年創刊・ロンドン)の一九〇〇年三月二十二日発行号で、標題は‘Crab  Ravages  in  China.’(「中国の蟹災害」)である。私は幸いにして所持する集英社二〇〇五年刊の「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」で読んでいる(同篇は田村義也氏訳。示した上の和訳邦題は田村氏のもの)。その原文と田村氏の訳で梗概を記すと、概ね、ここで以下に語られてある内容ではある。

   *

 まず、冒頭で、こちらでは少し後に出る、左丘明の作とされる(現在は偽書説があって怪しい)「国語」から、越の王が開戦を参謀がはやるのを諫めた稲蟹の比喩を引き、次いで、ここでも示されてある青木昆陽の「昆陽漫録」の「平江記事」の呉(現在の江蘇省)での蟹による稲の全滅被害を記す。次いで、「酉陽雑爼」の第十七巻の卷十七「廣動植之二」の「蟹八月腹中有芒、芒真稻芒也、長寸許、向東輸與海神、未輸不可食。」「蟹は八月になると、腹の中に本物の稲の芒を持っており、長さは一寸(唐代は三・一一センチメートル)程で、東に向かって海の神に献上するので、その前には食べてはいけない。」という記事を紹介、次に熊楠御用達の「淵鑑類函」の卷四百四十四の「蟹四」(「漢籍リポジトリ」のこちら[449-22a]の終りから[449-23a]の内容)の冒頭に載る陸亀蒙の「蟹志」の記載を記し、次いで同書同巻の[449-23a]の中ほど以降の宋代の傅肱の「蟹譜」を引いている。而して、熊楠はこの体内にあるとする「稲」は、海まで出て産卵するところの雌蟹の卵塊であることは自明であるとする。その後で、熊楠は、この稲を海に運ぶ蟹と、作物を食害する蟹は、恐らく同一種であろうとし(私、藪野直史は、この見解は完全に誤っていると考えている)、本篇にも引くド・ロシュフォールの「アンチル諸島の自然及び風俗誌」から、西インド諸島の「ムラサキオカガニ」(甲殻綱十脚目オカガニ科ムラサキオカガニ属 Gecarcoidea。タイプ種はムラサキオカガニ Gecarcoidea lalandii 。本邦では南西諸島に棲息する)はタバコ畑を荒らすものの、穀物に被害は与えないようであるとしつつ、中国の蟹は穀物を害するとする話が広範囲に存在するとし、同様の例として、十七世紀末に書かれた記事の、インド洋上のロドリゲス島の「オカガニ」の種が、渡りの時期に示す破壊的な力は、中国のその蟹に匹敵するようだと述べる。そして、やはり本篇と同じく「搜神記」を引いて、簡単な私見を述べて終わっている。注があり、琴平宮の信者は蟹食をタブーとするとあり、先のリンクの原文には見当たらないが、訳文には、注の2があり、本邦では、毛蟹は秋に川を下ると、その後に川を遡上することはないことも知られていたとして、原拠を「大和本草」十四巻四十八丁とする。これは、私の電子化注「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」である。参照されたい。さらに、蟹が穀物を海に運ぶという伝承は日本には全くないと記した後に、これにやや似たような話で、唯一つ見つけたのは、橘南谿の「北窓瑣談」の、淀川を上る蟹の大群の話、一掬いで蟹数十匹が獲れたというのを紹介している。「北窓瑣談」の該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのここの右ページの二行目から視認出来る。

   *

 先づ、「昆陽漫錄」に、『越語曰、今其稻蟹不ㇾ遺ㇾ種、韋昭註曰、稻蟹食ㇾ稻也。〔「越語」に曰はく、『今、其の稻蟹は、種を遺(のこ)さず。』と。韋昭が註に曰はく、『稻蟹は稻を食らふなり。』と。〕此註にても、稻蟹、明《あきら》かならず。「函史」に、『蟹、秋末稻熟時、乃出各執一穗、朝其魁一、晝夜觱沸望江ㇾ奔、既入江、則形稍大於舊、自ㇾ江復趨ㇾ海、如赴江狀、入ㇾ海益大、或曰、持ㇾ稻以輸海神、八月開其腹、有芒長寸許者、稻芒也。〔蟹、秋の末、稻の熟する時、乃(すなは)ち、出でて、各(おのおの)、一穗(いつすい)を執り、其の魁(かしら)に朝(めどおほ)りす。晝夜、觱沸(ひつふつ)して、江(え)に望みて、奔(はし)る。既にして、江に入れば、則ち、形、稍(やや)、舊(もと)よりも大なり。江より、復(ま)た海に趨(はせむ)かふに、江に赴く狀(さま)のごとし。海に入りて益(ますます)、大となる。或いは曰はく、「稻を持ち、以つて、海神に輸(おく)る。八月、其の腹を開けば、芒(のぎ)の長さ、寸許りなる者、有り。稻の芒なり」と。』〕と有れども、年々の事にして、種を遺《のこ》さゞる程に非ず。平江記事曰、大德丁未吳中蟹厄如ㇾ蝗、平田皆滿、稻穀蕩盡〔「平江記事」に曰はく、『大德丁未[やぶちゃん注:一三〇七年。]、吳中の蟹の厄(わざはひ)、蝗(いなご)のごとし。平田に、皆、滿ち、稻の穀(み)、蕩盡す。』と。〕と。是にて「越語」の稻蟹は、蟹厄《かにのやく》たる事、明かなり。且つ、吳は、古《いにしへ》より、蟹厄あり、と見ゆ。」とある。右の「越語」云々は、某王が、兵を起こして敵國に向はんとするを、忠臣が諫めた言《げん》の中に、「今年は、蟹が稻を食ひ盡して、種、すら遺さぬ。此不景氣に戰爭を仕出かすたあ、無分別千萬。」と云《いふ》た事と記憶する。「搜神記」曰《いはく》、晉太康四年、會稽郡蟛踑及蟹、皆化爲鼠、其衆覆野、大食ㇾ稻、爲ㇾ災、始成、有毛肉而無ㇾ骨、其行不能過田畻、數日之後、則皆爲牝。〔晉の太康四年[やぶちゃん注:二八三年。]、會稽郡にて、蟛踑(ほうき)及び蟹、皆、化して鼠と爲る。其の衆(おほ)きこと、野を覆ひ、大いに稻を食(くら)ひて災ひを爲す。始めて成るや、毛・肉、有れども、骨、無し。其の行くに、田の畻(あぜ)を過(よぎ)る能はず。數日(すじつ)の後(のち)、則ち、皆、牝と爲れり。〕。是は「本草綱目」に蟛螖《ほうかつ》は蟹の最小無毛者〔最小にして無毛なる者〕と有るから、推知せらるべき通り、蟹類の多くは足等に多少の毛有り。ことにヅガニは、爪に鼠の毛の樣な毛が密生し居《を》る。「本草啓蒙」四一に、『ヅガニ、卽ち、螃蟹《ばうかい》、毛蟹也。又、稻蟹(「典籍便覽」)とも云ふ。「寧波府志」に、螃蟹、俗呼毛蟹、兩螯多ㇾ毛、生湖泊淡水中、怒目橫行、故曰螃蟹、秋後方盛〔螃蟹、俗に「毛蟹」と呼ぶ。兩の螯(はさみ)に、毛、多し。湖泊[やぶちゃん注:湖沼。]の淡水中に生じ、目を怒らせて、橫行(わうかう)す。故に「螃蟹」と曰ふ。秋の後、方(まさ)に盛んとなる。〕』と載せて、本邦產と、多少、差(ちが)うか知《しれ》ぬが、兎に角、ヅガニ屬の者らしい。其毛が、鼠毛《ねづみのけ》に似居《を》り、太康四年に會稽郡の田野に、此蟹と鼠と、同時に大災《たいさい》を爲したので、先づ、生じた蟹が、後に生じた鼠兒(ねづみのこ)に化したと信じたのだろ。

[やぶちゃん注:『「昆陽漫錄」に、『越語曰、……』幕臣御家人で書物奉行であった儒者・蘭学者にして、サツマイモの普及を図ったことから「甘藷先生」の綽名で知られる青木昆陽(元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年:昆陽は通称(号))の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(日本随筆大成編輯部編・昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらの「○稻蟹」で当該項が視認出来る。

「越語」臥薪嘗胆の故事で知られる越王勾践が、大夫文種と図って、呉王夫差と和を請うた経緯を記した漢籍。国立国会図書館デジタルコレクションの大正六(一九一七)年早稲田大学出版部刊の『漢籍國字解全書』の第四二巻「先哲遺著追補」のここから視認出来る(左上段末の原漢文以降)。諫言するのは、やはり知られた、かの賢将范蠡(はんれい)である。『又一年、王召范蠡而問焉曰、吾與子謀吳子曰未可也、今其稻蟹不遺種、其可平、范蠡對曰、天應至矣、人事未盡也、王姑待之、』とあり、訓読して、『又一年の後、王范蠡を召して之れに問ひて曰く、吾は先きに子と吳を伐つことを謀りしに、子は未だ可ならずと曰へり、今吳國をみるに、稻蟹稻を食ひて其の種子を遺さゞらんとし、凶饉甚し、其れ之れを伐ちて可ならんかと、范蠡對へて曰く、天時は至れり、されど人事は未だ極點まで至らず、王しばらく之れを待てと』とある(勾践は直後に怒っている)。次のコマには『〔稻蟹〕稻を食ふ一種のかに』と注がある。

「韋昭」韋昭(?~二七三年)は三国時代の呉の政治家で、儒学者にして歴史家。

「觱沸(ひつふつ)」この語は「泉が湧き出るさま」を言う語。単に多数の蟹が湧き出るの意であろう。或いは、それらが皆、泡を吹いてさまを形容しているのかも知れないと、一読、感じはした。

「函史」明の文学者鄧元錫(ていげんしゃく)の随筆と思われる。「中國哲學書電子化計劃」の版本の当該部で校合した。十三行目下方から。

「寸許りなる者、有り」紀元前の一寸は二・二五センチメートル、三世紀までは、二・三~二・四センチメートル。

「平江記事」元代に書かれた歴史・地誌書のようである。

『「搜神記」曰《いはく》、晉太康四年、會稽郡蟛踑及蟹、皆化爲鼠、……』「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で校合した。巻七所収。

「會稽郡」現在の浙江省(グーグル・マップ・データ)。

「蟛踑及蟹」所持する竹田晃訳(昭和四九(一九七四)年平凡社「東洋文庫」版)では、『泥蟹と蟹』とある。「泥蟹」は調べたところ、現在、中国では、一つは、軟甲(エビ)綱真軟(エビ)亜綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科コメツキガニ亜科チゴガニ(稚児蟹)属 Ilyoplax を指す(タイプ種はチゴガニIlyoplax pusilla 。甲幅は一センチメートルで干潟にいる、漢字表記の通り、小型の蟹である。しかし、稲を害するとする種としては、チゴガニ類では、如何にも小さ過ぎるから違うだろう。一方、中国語では、「泥蟹」は別に、短尾下目ガザミ上科ガザミ科トゲノコギリガザミ属アミメノコギリガザミScylla serrata の異名でもあり、本種は海水域・汽水域・マングローブ地帯や干潟などに棲息し(温帯から熱帯まで広い地域に棲息し、本邦でも相模湾以南に普通に棲息する)、何より、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの写真を見られたいが、ガザミ類なれば、鋏が強烈であるから、これは生態から見ても相応しい感じはするが、巨体のアミメノコギリガザミが群れを成して陸を歩くというのは、ホラーぽくはあっても、現実には考え難い。

 さて、では――田圃の純淡水域や、河川、河口、その周縁の汽水域を自由に移動し、陸にも登ることが可能であり、稲の苗を好んで摂餌する「蟹」(ネズミではない)――となると、これはもう、「シャンハイガニ」で知られるところの、

短尾下目イワガニ科モクズガニ属チュウゴクモクズガニ Eriocheir sinensis

以外には考えられない。当該ウィキによれば、『幼生は海水から汽水域で育つため、親蟹は雄、雌とも産卵のために河口や海岸に移動する必要がある。主に秋に、河口で生殖したのち、雌が海水域に移動して産卵する』とあり、『食性は植物食に偏った雑食性であり、甲殻類、貝類、小魚、水生昆虫、水草、稲の苗』(☜)『などを好んで食べる』と明記されてある。熊楠の推察は正しい。

「皆化爲鼠」「有毛肉而無ㇾ骨、其行不能過田畻、數日之後、則皆爲牝」これは誤り。熊楠の推理とは違うが、私は、恐らく、蟹を鼠が大挙して襲って食い尽くしたのを、蟹が鼠に変じたと錯覚したのであろうと思う。

『「本草綱目」に蟛螖《ほうかつ》は蟹の最小無毛者〔最小にして無毛なる者〕と有る』巻四十五の「介之一」「龜鱉類一」の最後(「鱟魚」(ゴウギョ)=カブトガニ)から、二つ目に「蟹」がある。「漢籍リポジトリ」のここの[106-21b]を見られたい。著者李時珍は内陸の人で、海産生物には疎く、本書のそれは誤りが多い。しかし、淡水蟹も多くいるのだから、ここで十把一絡げで「蟹」は、ないでショウ!?! と常に私は呆れている。毛のある蟹のためにのみ、こんな引用をするなら、もっと相応しい箇所があるでショウが、熊楠先生! 「集解」のここですよ、ここ!(多分、「函史」とダブるからだろうが、より詳しいでっせ?!)

   *

俗、傳ふ、「八月一日に、稻の芒(のぎ)の兩枝を取る。長さ、一、二寸許りにして、東行して、芒を長(をさ)に輸送す。故に、今、南方に、蟹を捕ふこと、差(や)や早きときは、則ち、芒を銜(ふく)む有り、須(すべか)らく、霜後(さうご)[やぶちゃん注:霜が降りた日から後で。]に芒を輸(おく)るべく、方(まさ)に、之れを食ふべし。否(しからざ)るときは、則ち、毒、尤も猛なり。其の類、甚だ多し。[やぶちゃん注:以下、毒蟹の記載が続くが、略す。訓読には、国立国会図書館デジタルコレクションの出寛文九年刊の板本の当該部の訓点を一部で参考にした。]

   *

なお、「蟛螖」は複数の中文サイトを見たが、蟹の一種とあるだけで、種同定されていない。現行では、私は、本邦にも棲息する短尾下目イワガニ上科モクズガニ科キクログラプスス亜科Cyclograpsinaeアシハラガニ属アシハラガニ Helice triden 或いはその近縁種であろうと睨んでいる。私の『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 蟹二種 蘆虎(アシワラガニ)・蟙(ツマジロ・スナガニ) / マメコブシガニ・スナガニ』を参照されたい。そこには「蟛螖」も出てくる。そこで注したが、再掲すると、平安中期の辞書「和名類聚鈔」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」に(国立国会図書館デジタルコレクション寛文七(一六六七)年版から)

   *

(アシハラガニ) 「兼名苑」に云はく、『は【「彭」・「越」、二音。「楊氏漢語抄」に云はく、『葦原蟹』と。】形、蟹に似て小なり。』と。

   *

と既に古くに種同定されているのである。こいつも雑食性で稲を食いそうだが(但し、当該ウィキによれば、『捕食性はかなり弱く、主食はヨシの葉などの植物質の分解過程のデトリタスである』とある)毛もないし、行動は夜間の方が活発であるから、この蟹の群れには、相応しくはないように私は思う。

「ヅガニ」ズガニ。モクズガニのかなり知られた地方異名(特に西日本)。

『「本草啓蒙」四一に、『ヅガニ、卽ち、螃蟹《ばうかい》、毛蟹也。……』国立国会図書館デジタルコレクションの文化二(一八〇五)年跋の板本のここ(左丁の八行目。但し、そこでは「ツガニ」とある)。

「典籍便覽」明の范泓(はんおう)の纂輯になる本草物産名の類書(百科事典)。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。以下の部分は、「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合した。ここ(最終行末に「螃蟹」と割注の「俗呼」のみ)と、次の丁の画像で視認出来る。読み難いとなら、別板本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、この単体画像がよかろう。右丁大罫三行目「※螃」(「※」は「グリフウィキ」のこれ。「蟹」の異体字)がそれ。]

 十七世紀の末、印度洋ロドリーグ島を視たフランソア・レガーの「探險航記(ヴオヤージユ・エ・アヴアンチユール)」(一七〇八年板)に、彼《かの》島に、陸蟹、多く、七、八月、滿月前後、其雌、諸方より團集《だんしふ》して、卵、生みに、海に赴く。其數、百萬とも算ふべし。其時は、穴を掘《ほつ》て身を隱さぬ故、幾許(いくら)でも殺し得《う》。因《より》て、一夕《いちゆふ》、嘗(こゝろ)みに、三千疋、打殺《うちころ》し、扠《さて》、翌朝、見ると、少しも減《へつ》た樣に無《なか》つた。其肉は、味、好く、食ふべしだが、困つた事には、此蟹、日夜、圃(はたけ)に入《いり》て、植物を裂き、籠で覆ふた植物をば、地に、孔《あな》、掘り、侵入して裂き了《をは》る。何とか、其害を遁れんと勘考の末、「吾等の圃に、種蒔きすると同時に、蟹、最(いと)多く棲む所々へも、多く、種を蒔ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、蟹ども、巢を遠く離れずに、澤山、苗を啖(くら)ひ得る上は、態々《わざわざ》、圃を襲ひに來ぬ筈。」と、宛込(あてこみ)の褌《ふんどし》がダラリと外《はづ》れて、苗が生出(はえ《だ》)すが最期、安逸飽食しては、天道樣が怖ろしいと云ふ風で、蟹群《かにのむれ》、續々、園中へ侵入した。因て、一同、大いに我を折り、注意して、蟹が、餘り多く來ぬ處を選《えら》み、川から成《なる》べく距(へだ)たつた園や丘に、種蒔きする事と定めたと有《あつ》て、此蟹、又、何でも鉗(はさ)み行く一例として、或人、虎の子より大切にし居《を》つた財布を、蟹に取去《とりさ》られ、狂ひ怒つて、蟹を見る每《ごと》に殺した由、載せ居る。

[やぶちゃん注:『印度洋ロドリーグ島を視たフランソア・レガーの「探險航記(ヴオヤージユ・エ・アヴアンチユール)」(一七〇八年板)』フランス生まれで、イギリスへ渡って一七〇九年にその地で帰化した旅行家・冒険家であったフランソワ・ルガ(François Leguat 一六三八年~一七三五年)が書いたとされる‘Voyage et aventures’ であるが、ウィキの「フランソワ・ルガ」によれば、『家族構成などの詳細は不明であり』、この書以外、『執筆はしておらず、また』、『この著作に関しても、彼以外の手によって書き加えられたことが確実であるとされている』とあった。但し、別に、『本旅行記のロドリーグ島(ロドリゲス島)』(=「ロドリーグ島」(Rodrigues Island) :インド洋のモーリシャス島から北東五百六十キロメートルに位置するモーリシャス領の孤島で、三つの島から成る。ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)『での描写に登場した「孤独鳥(ソリテール)」』(Solitaire:ロドリゲス島固有種ハト目ドードー科 Pezophaps 属ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria 。一七六一年を最後に目撃者はいない。当該ウィキを見られたい)『は現代では絶滅してしまった鳥であり、発見者の記述も少なく、博物学者からは存在が疑われた時もあった。ところが』、十九『世紀後半に、同島の洞窟から様々な絶滅種の化石が発見され、ルガの描写と一致したものもあり、この旅行記が博物学に与えた影響は大きいと言える』ともあった。なお、ここに出たのは、まず、短尾(カニ)下目イワガニ上科オカガニ科 Gecarcinidae の一種ではあろう。インド洋では全くの対位置にあるクリスマス島ココス諸島の固有種で、鮮やかな赤色をした、大移動で知られるオカガニ科ムラサキオカガニ属クリスマスアカガニ Gecarcoidea natalis のそれが有名である。]

 褌と財布の序《ついで》に述《のぶ》るは、明治十八年五月、淺草芝崎町《しばざきちやう》平民、宮崎喜兵衞、平素、蟹を嗜《たしな》み、食ふ。二、三日前、鳥越町《とりこえちやう》の魚肆(さかなや)で、女蟹(めがに)五疋を、八錢で求め歸つて、晚酌の下物(さかな)に食ひに掛《かか》る時、俗にいふ「褌」の間より、目方一匁三分[やぶちゃん注:四・八八グラム。]程の黃金塊を見出《みいだ》し、大切に保存すと、其月二十五日の『繪入朝野新聞《ゑいりてうやしんぶん》』で見た。「川柳百人一首」、某婦人の句に「ふんどしに子を包むのは蟹の母」と有つたが、時に黃金をも包む事無きにしも非ずらしい。予が目擊した西印度諸島の彩畫蟹(クラブパント)も、年々、無數、大群を成し、山と云《いは》ず家と云ず、直進して、海へ、子、生みに往く。其間、地方の名產煙草の芽を荒す等、年により、災難、夥しい。其混雜の狀《さま》は、一六六五年板、ド・ロシュフォールの「西印度諸島博物人情志(イストア・ナチユレル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ・ド・ラメリク)」や、一八九三年板、ステッビングの「介甲動物篇(クラスタセア)に、よく記載し有る。左程の大群を、予は、見なんだが、小穢(こぎたな)い旅舍(やどや)で食事中、彼《かの》蟹、數多《あまた》、進行中で、雪隱から人糞を鉗(はさ)み來たり、皿邊(さらあたり)へ、步み近づくに畏れ入り、日本天主敎最初の大祖師ハヴィエル尊者(そんじや)、バラヌ島の近海に、十字架を落して、二十四時の後《のち》、一蟹、兩螯(りやうがう)、之を捧げ、復《もど》したと聞く。予の不德、即ち、蟹が大便を將來(もちく)るを致すかと、吾乍ら、愛憎《あいそ》が盡きた事ぢやつた。

[やぶちゃん注:「明治十八年」一八八五年。

「淺草芝崎町」現在の台東区西浅草三丁目

「鳥越町」現在の台東区鳥越二丁目

「繪入朝野新聞」明治一六(一八八三)年一月に山田風外(孝之介)が創刊した小新聞で、同年六月から『朝野新聞』に経営が移った。同紙の姉妹紙として民権派の論説を展開し、有力な小新聞に成長したが、明治二十年頃から部数が伸び悩み、明治二二(一八八九)年には『朝野新聞』との関係を絶ち、『江戸新聞』に改題した。

「西印度諸島の彩畫蟹(クラブバント)」このカタカナは恐らく“Crab paint”の訛りであろう。一般にはRed Land Crab”で、オカガニ科 Gecarcinus 属  Gecarcinus ruricola であろう。英文の当該種のウィキによれば、同種は、カリブ海の陸上の蟹の中で、最も陸生に適応した種であり、キューバ西部からアンティル諸島を越えて、バルバドスまで分布が見られるとあり、同種の一般的な異名には、「紫陸蟹」「黒陸蟹」「赤陸蟹」及び「ゾンビ蟹」(zombie crab)があるとあった。この英文ウィキの写真を見れば、熊楠の言う「彩畫」も、異名の「ゾンビ・クラブ」も、絶対! 納得である!

『一六六五年板、ド・ロシュフォールの「西印度諸島博物人情志(イストア・ナチユレル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ・ド・ラメリク)」』フランスの博物学者シャルル・ド・ロックフォール(Charles de Rochefort 一六〇五年~一六八三年)のHistoire naturelle des iles Antilles de l'Amerique(「アメリカのアンティル諸島の自然史と道徳史」。一六六五年刊)。

『一八九三年板、ステッビングの「介甲動物篇(クラスタセア)」』イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:『チャレンジャー』号の探検航海で得られた甲殻類の研究で知られ、また牧師でありながら、進化論を擁護(自らダーウィンの弟子と称して憚らなかった)したことでも有名である。当該ウィキによれば、『進化論に関してダーウィンに反対する記事を分析する多くの論文を書いた。彼の行動は、宗教的な説教を行うことを禁じられることになった』とあった)の‘A History of Crustacea: Recent Malacostraca’ (甲殻類の歴史:現生軟甲綱)。

「日本天主敎最初の大祖師ハヴィエル尊者」フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。彼はスペインのナバーラ州ハビエル(Javier)出身であった。

「バラヌ島」不詳。]

 又、序に、詰らぬ話乍ら、世態の變遷を、後代の爲に書き留め置くは、吾輩、十一、二の年、「違式詿違(ゐしきかいい)」出た、其前、他は知らず、京阪地方の人力車の背(うしろ)に種々《いろいろ》可笑(をかし)い繪を彩り畫《ゑが》いた中に、西行法師が富士を眺め乍ら、蟹に祕具を鉗まれ居るのが有《あつ》た。斬髮床(ざんぱつどこ)や、興行物のビラにも、屢〻有つた。是は、角力取が踊る唄に「西行法師が一歲(ひとゝせ)東(あづま)へ往(い)た時に 岩にヤーエー 腰をかけ 蟹に○○○○鉗まれた」と云ふより、起こつたらしいが、此樣(こん)な唄は何時頃出來た物か、諸君に問ひ置く。西洋にも、往時(むかし)は其樣(そん)な事を、別に、氣咎《きとが》めせなんだと見えて、瑞典《スウェーデン》女皇クリスチナが悅んで讀んだちふ、佛國の文豪ベロアル・ド・ヴェルヴィユ(一五五八―一六一二)の「上達方(ル・モヤン・ド・バーヴニル)」四九章に、最も變な蟹害の話を載す。濱地の知事夫妻に、蟹、數疋を贈る者、有り。知事、之を厨《くりや》に致す前、一疋、走り出《いで》て、寢室(ねま)の壁掛(かべかけ)の裏に匿れたが、夜分、鹽氣《しほけ》を慕ふて、虎子中(おまるのなか)に潜《ひそ》む。知事の妻、一向知らず、それに尿(しと)せんとして、下部(しも)の兩脣(くちびる[やぶちゃん注:二字へのルビ。左右の大陰唇のこと。])を鉗まれ、夫(をつと)、倉皇(あはて)、近づいて、之を吹き放さうとする。其口の兩唇[やぶちゃん注:膣口に近い左右の小陰唇。]をも、鉗まる。蟹は、雙手、四唇を離さず、夫妻、大いに苦《くるし》む聲に驚き、僕(けらい)、剪刀(はさみ)、持ち來たり、兩螯《りやうばさみ》を截(きつ)て、主人を救ふたと云ふ。

[やぶちゃん注:「違式詿違(ゐしきかいい)」「違式詿違条例」(いしきかいいじょうれい)。明治初期に於ける軽微な犯罪を取り締まる単行の刑罰法を指す。明治五(一八七二)年十一月八日の『東京府達』(たっし)を以って、同月十三日から施行された「東京違式詿違条例」が最初で、翌年七月十九日の『太政官布告』により、「各地方違式詿違条例」が制定され、各地方にも公布・施行されることとなった。全九十条から也、風俗・交通・衛生・営業・用水等、日常的秩序維持に関わる軽微な犯罪と処罰を規定したもの(「国立国会図書館」の「レファレンス協同データベース」のこちらの回答を参照した(参考にした文の原拠は平凡社「世界大百科事典」)。

「西行法師が一歲(ひとゝせ)東(あづま)へ往(い)た時に 岩にヤーエー 腰をかけ 蟹に○○○○鉗まれた」伏字は「きんたま」。籠橋隆明氏のブログ「名古屋・豊橋発,弁護士籠橋の中小企業法務」の「番外 カニにきんたま」に拠った。そこに柳田國男が出て来る。柳田の直接の著作ではないが、国立国会図書館デジタルコレクションの守屋健輔著の「柳田国男と利根川――柳田学発生の周辺を歩く」(一九七五年崙書房刊)の『7 布川時代に覚えた歌や踊り』の冒頭にある『○ 西行橋と西郷隆盛の歌』で腑に落ちた。読まれたい。

「瑞典女皇クリスチナ」十七世紀のヴァーサ朝スウェーデンの女王クリスティーナ(スウェーデン語/Kristina  一六二六年~一六八九年:在位:一六三二年~一六五四年)。グスタフⅡ世アドルフと王妃マリア・エレオノーラ(ブランデンブルク選帝侯およびプロイセン公ヨハン・ジギスムントの娘)の娘。当該ウィキによれば、『後世の歴史家は、クリスティーナを「バロックの女王」と呼んだ。スウェーデン普遍主義に則り、フィンランド大公を兼ねた最後のヴァーサ家のスウェーデン君主である。若くして退位し』たとある。

『ベロアル・ド・ヴェルヴィユ(一五五八―一六一二)の「上達方(ル・モヤン・ド・バーヴニル)」』『南方熊楠 履歴書(その21) 書簡「中入り」』の私の「ベロアル・ド・ヴェルヴィユ」の注を参照されたい。私はそこで、フランスのルネサンス期後半の詩人で作家のフランシワ・ベロアルド・ド・ベェルヴィル(Francois Beroalde de Verville 一五五六年~一六二六年)ではないかと思われるとしたが、生没年が近いものの違っている。しかし、‘ Le Moyen de Parvenir ’(「達成への道」)は確かに彼の著作(初版は一六一七年)であるので、確定である(英文の当該作者のウィキを参照した)。]

 扠、本邦で蟹が植物を害する例、親(まのあた)り予が見たは、那智山其他で、「ヒメガニ」(一卷一二號七三〇頁參照)が、甚だ、山葵(わさび)を嗜《この》み、其苗を扠(はさみと)る事、夥だし。西牟婁郡、瀕海(うみべ)の諸村、處により、蟹害を受けるが、廣く平らかな地の本田(ほんでん)に、なくて、巒側(こやまのわき)や、高堤(たかいつゝみ)や、石垣に沿うた田に、稻苗を栽付《うゑつけ》ると、蟹、來たつて、若芽を摘む。丁度、田が新らしく出來て、蟹の食ふべき物、稻苗の外、乏しいからで、稻、稍〻《やや》長ずる頃は、種々(いろいろ)食ふべき草の芽等も多く成り、稻は硬くなる故、食はれぬ。此邊の蟹は、「クソガニ」(和歌山)、又、「エツタガニ」(田邊)、又。「タユガニ」(神子濱(みこのはま))抔言《いひ》て、全身、褐色(ちやいろ)で穢《きたな》いのと、「猩々蟹《しやうじやうがに》」、又、「辨慶蟹」(和歌山)、「ベンシヨウ」(田邊)抔、呼んで、螯(つめ)、赤く、甲(かう)・脚(あし)、黑(くろ)、若くは、赤いのと有るが、前者が、後者よりも、害、多く做《な》す。孰れも、多く、岸側(きしわき)や、石垣の橫穴に棲み、稻芽(いなめ)を摘むごとに、必ず、穴に持還《もちかへ》つて啖《くら》ふ。水底で、永く働き得ぬ故、遠く、田の中に到らず、岸に近き田緣(たのへり)のみ、荒らす。

[やぶちゃん注:「一卷一二號七三〇頁參照」先行する熊楠の「山人外傳資料」を指す。そこで、『山人の動物食も、鳥獸魚介に限らず、今日の市邑《しいう》に住む人々の思ひも付《つか》かぬ物をも多く食たに相違無い。支那のは知《しら》ぬが、本邦の山男が食ふ蟹は、紀州で「姬蟹」と云ふ物だらう。全身、漆赭褐色《しつしやかつしよく》、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔、專ら、之を食ふ。甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある由、聞《きい》た。』とある。そちらで、『紀州で「姬蟹」』「全身、漆赭褐色、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔專ら之を食ふ」『甲斐で「石蟹」』の注で、私は『「甲斐」ときては、もう、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani しかあり得ない。ただ、以下の『甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある』とあるのは、不審。蟹をどうやったら、蒲鉾に出来るのか? サワガニの個体を、多数、擂鉢で徹底的に摺り潰して、何か繋ぎになるものを入れて作ったものか? 甲州の方、ご存知ならば、御教授あられたい』と書いた。誰からも情報は寄せられていない。再度、乞うものである。

「西牟婁郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「クソガニ」「糞蟹」だろう。

「エツタガニ」これは恐らく差別異名で、「穢多蟹(ゑたがに)」の音変化であろう。

「タユガニ」語源不詳。

「神子濱」現在の和歌山県田辺市神子浜

「ベンシヨウ」語源不詳。但し、これは並列から以下の「赤いの」と同種である。

「黑」先に示したモクズガニとアシハラガニが相当するかのように見えるが、実は、以下のベンケイガニの色違いで近縁種に短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属クロベンケイガニ Orisarma dehaani がいるので、これを筆頭にしなくてはなるまい。

「赤いの」前の「猩々蟹」「辨慶蟹」に同じ。短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属ベンケイガニ Orisarma intermedium である。赤いこれは、私は新宮市の高台の岩にある神倉神社を訪ねた際、彼らが恐るべき数棲息しているのに驚いた経験がある。「南方熊楠記念館」の公式ブログの「蟹隠れ」を見られたい。こんな連中の大きい奴が、夏場の湿気もない、参道(ご存知と思うが、最初の部分は、最早、ただの崖)に、ごろごろ居たんだから、驚いたのだ。

 神子濱抔、溝に、蟹、多きを、少しでも、其害を緩める爲、田の緣邊(へり[やぶちゃん注:二字へのルビ。])に、餘分に、稻苗、多く種(うえ)て、充飼(あてが)ひ、其以(それより)内(うち)へ食込(くひこ)むを、禦ぐ。又、予は見ぬが、空俵(あきだはら)を、長徑、一行(いちぎやう)に排《なら》べ、伏せ置くとも聞く。然し、予が睹《み》た、尤も普通な法は、「カニダテ」とて、米俵を胴切りして、橫に舒《のば》すと、長方形の薦、二枚、出來る。其を幾つも維(つな)ぎ合せて、卷紙如く、卷置《まきお》き、苗代を田に移して、田側《たがは》の岸に、彼《かの》薦を、展(のば)して、其上瑞(うへはし)をもたせ掛け、田の中から、泥を、其裾に壓付(おさへつけ)るのだ。然る時は、岸邊の蟹、稻芽を犯さうとならば、傾斜せる屋根裏を跛登《はひのぼ》る樣な藝當を要し、隨つて、侵入する事、割合に少ない。新庄(しんじやう)村抔、潮水、多少、到る田には、「ミズガニ」(和歌山)、「ツマジロ」(新庄村)抔、唱える蟹、甲脚、靑く、螯の端、白く、石垣や岸の橫穴に棲まずして、泥中に深く、竪穴(たてあな)し居るのが多い。其穴底には、常に水が溜り居るので見ても、此蟹は、水中に長く働き得と知れる。隨つて、根氣よく、薦を、鉗み破つて、較《やや》遠く、水田中(みづたのなか)に討ち入り、迚も一筋繩で往かぬ奴だから、二筋の椶櫚繩(しゆろなは)で、細い竹を、鮨卷(すしま)く簾子(すだれ)樣《やう》に、編《あん》で置き、岸にもたせ掛《かく》る事、薦製の者に異《こと》ならず。苗、長じ、蟹、恐るるに足らざるに及び、卷き片付《かたづけ》て、來年の用に備ふ。以上は、川村生《せい》の說に、「天草(あまくさ)では、未だ、蟹を防ぐ法、無し。」と有たが、氣の毒さに、津(つ)の國(くに)の難波(なには)につけて疎《うと》まるる身を顧みず、蘆間(あしま)の蟹の、淺猿(あさま)しい咄(はなし)迄、調合して、此篇を綴つた。扠、言遺(いひのこ)したは、蟹は、大豆の芽をも、摘食(つみくら)ふて、百姓を苦しむ。又、一老農の說に、「雨天に、大豆を蒔き步くこと、少頃(しばらく)して、始めの處に還り視れば、豆、既(はや)、亡(な)く、傍に蝦蟇(いぼがへる)のみ有つたので、此物も、豆の種を盜むを知る。」と。

[やぶちゃん注:「カニダテ」私には「蟹楯」が一番しっくりくる。

「新庄(しんじやう)村」和歌山県田辺市新庄町(しんじょうちょう:グーグル・マップ・データ)。田辺湾の南東沿岸に当たり、先の神子浜と海を隔てて対峙する位置にある。

「ミズガニ」「水蟹」か。

「ツマジロ」「爪白」であろう。この名から私が想起するのは、カニ下目ワタリガニ科ヒラツメガニ属ヒラツメガニ Ovalipes punctatus である。第一両脚の内側と先端が白い。当該ウィキによれば、『甲幅は』十センチメートルを『やや超える程度。ガザミと同じく第二脚から第四脚は歩脚であるが、第五脚は遊泳脚(ヒレ脚)であり、遊泳して移動することもできる。第一脚(鋏脚)の下側に突起が並んでおり、左右のこの部分をこすって発音する』。『波打ち際から水深』百メートルの『浅海域に生息するが、特に波打ち際から水深』二十センチメートル『程度に集中する』とある。熊楠が、「此蟹は、水中に長く働き得と知れる」「迚も一筋繩で往かぬ奴」という点では、本種の可能性はあるか。但し、本種が完全な淡水の田に侵入して、しかも、稲を切るかどうかは、観察したことがないので判らない。

「蝦蟇(いぼがへる)」一般には、両生綱無尾(カエル)目アカガエル科アカガエル亜科ツチガエル属ツチガエル Glandirana rugosa を指すことが多いが、時に無尾目ヌマガエル科ヌマガエル属ヌマガエル Fejervarya kawamurai も一緒くたに「イボガエル」(疣蛙)と呼ぶ。但し、両種は最大でも体長は五センチメートル程で、私の認識する「イボガエル」は断然、無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae に属するヒキガエル類しかイメージしない。本邦の種は「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」の私の注を参照されたい。]

追記(大正十五年九月一日早朝記す) 角力取が「西行法師が一歲《ひととせ》吾妻へいた時に」と唄ふ「富士見西行《ふじみさいぎやう》」てう下題の起りは、「源平盛衰記」八に、『扨も、西行、發心の起りを尋ぬれば、源《みなもと》は、戀故とぞ、承はる。申すも恐れある上﨟女房を、思いかけ參らせたりけるを、『あこぎの浦ぞ。』といふ仰せを蒙りて、思ひ切り云々、有爲《うゐ》の世の契りを遁れつつ、無爲の道にぞ、入りける。『あこぎ』は歌の心也。「伊勢の海阿漕が浦にひく網もたび重なれば人もこそしれ」と云《いふ》心は、彼《かの》阿漕《あこぎ》の浦には、神の誓ひにて、年に一度の外は、網を引かず、とかや。此仰せを承はりて、西行がよみける、「思ひきや富士の高根に一夜《ひとよ》ねて雲の上なる月をみんとは」。此歌の心を思ふには、一夜の御契りは、有けるにや。』(下畧)とある、それなるべし。

[やぶちゃん注: 『「源平盛衰記」八に、『扨も、西行、發心の起りを尋ぬれば、……』国立国会図書館デジタルコレクションの板本のここで当該部(左丁三行目から「讃岐事」の一節)が視認出来る。

「彼阿漕の浦には、神の誓ひにて、年に一度の外は、網を引かず、とかや」この伝承は、「諸國里人談卷之三 阿漕塚」の私の「あこぎの事」の注を参照されたい。

 なお、底本本文はここで終わっているが、「選集」では、『再追記』として、大正七(一九一八)年九月発行の『土俗と伝説』第一巻第二号に載ったものが添えてある。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの一九五二年乾元社刊の渋沢敬三編『南方熊楠全集』第六巻(文集 第二)のここから、正規表現で視認出来ることが判ったので、それを元に如以下に電子化注する。本電子化に準じて句読点・記号を追加し、読みも推定で加える。

   *

 追  記(二)

 川村生の書かれた記事の(『鄕土硏究』、二ノ四四二)の天草下島では、蟹嚙みの防禦法無きやう見えたのを、不思議に思ひ、此邊で行はるゝ、「カニダテ」などの構造を書いて送つたが(『鄕土硏究』、三ノ二一一)、其後、日高郡南部町大字山内と云ふ海邊の、山に圍まれた僻地から、下女が來たので、聞いて見ると、此地でも、「カニダテ」などの名案を聞いたこと無く、唯、稻苗を植ゑ付けた當分、甘藷《かんしよ》の貯へ置いたを、取り出し、橫截《よこぎ》りして、夕刻、田に撒き、日暮れて後、村民、組みをなし、炬火《たいまつ》を燃《もや》し、鎌の刄《は》を、曲げ反らせて、持ち出で、蟹どもが、藷片《いもきれ》を食ふ所を、打ち殺し、其屍骸は、集めて、海に投げ入れ、磯魚を惹き寄せる相《さう》だ。纔か、五、六里を隔てゝ、或は「カニダテ」の名案を行ひ、或は、其名も聞かぬ處もあるとは、さりとは、妙な世界と云ふ外なし。

   (大正七年、九月、『土俗と傳說』一ノ二) 

   *

「『鄕土硏究』、三ノ二一一」この熊楠の論考はネットでは発見出来なかった。

「日高郡南部町大字山内」現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)山内(やまうち:グーグル・マップ・データ)。田辺の北西で、「五、六里」というのは実測距離と思われ、地図上では、かなり近い。]

« 佐々木喜善「聽耳草紙」 六一番 雪姬 | トップページ | 佐々木喜善「聽耳草紙」 六二番 蛇女退治 »