大手拓次訳 「お前はまだ知つてゐるか」 (リヒャルト・デーメル) / (『異國の香』所収の同詩篇とは有意な異同が二箇所あるため参考提示した)
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。
ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。
なお、本篇は『大手拓次譯詩集「異國の香」 お前はまだ知つてゐるか(リヒャルト・デーメル)』で電子化しているのであるが、有意な異同が二箇所あるので、示すこととした。]
お前はまだ知つてゐるか リヒャルト・デーメル
まだお前は知つてゐるか、
ひるの數多い接物のあとで
わたしが五月の夕暮のなかに寢てゐた時に
わたしの上にふるへてゐた水仙が
どんなに靑く、どんなに白く、
お前のまへのお前の足にさわさわとさはつたのを。
六月眞中の藍色の夜のなかに、
わたし達が荒い抱擁につかれて
お前の亂れた髮が二人のまはりに絡(から)んだとき、
どんなにやはらかくむされるやうに
水仙の香が呼吸(いき)をしてゐたかを
お前はまだ知つてゐるか。
またお前の足にひらめいてゐる、
銀のやうなたそがれが輝くとき、
藍色の夜がきらめくとき、
水仙の香は流れてゐる。
まだお前は知つてゐるか。
どんなに暖かつたか、どんなに白かつたか。
[やぶちゃん注:本篇は、恐らく同原稿を元としたと考えられるものが、『大手拓次譯詩集「異國の香」 お前はまだ知つてゐるか(リヒャルト・デーメル)』に載っている。しかし乍ら、二箇所の重大な異同がある。以下に挙げる。
●第二連五行目「水仙の香が呼吸(いき)をしてゐたかを」の「呼吸」のルビ「いき」が、『異國の香』の方では、存在しない。ここは読者が「こきふ」(こきゅう)と読んでしまう可能性は甚だ高い。しかも、「いき」と振られてこそ、初めて、音律的に納得されるものである。
●第三連五行目「まだお前は知つてゐるか。」が『異國の香』の方では、「まだお前は知つてゐるか、」と最後が読点になっている。この最後の三行のコーダのブレイクは、ここが句点であるか、読点であるかの違いで、朗読した際や、黙読した折りの印象が微妙に異なってくる。言わずもがなであるが、「水仙の香は流れてゐる。」//「まだお前は知つてゐるか。」//「どんなに暖かつたか、どんなに白かつたか。」であるのに対して、「水仙の香は流れてゐる。」//「まだお前は知つてゐるか、」/「どんなに暖かつたか、どんなに白かつたか。」となってしまうということである。私は原詩の表記を見ていないが、それとは無関係に――拓次は、この三行に句点による強いブレイクを三回打たねばならないと考えたとすると、私は非常に納得されるのである。
『異國の香』の編者は拓次の同僚・親友にして画家の逸見享であるが、彼は詩人ではない。出版に関係した当時の版権所有者二人も作家ではない。されば、原原稿の校正作業が正確でなかった可能性は非常に高いと私は考えている。手書き原稿の小さなルビや、句読点の判読は、素人ではなかなか難しい。それを考えると、私はこの二種は同じ原稿によるものであり、原氏の底本のこれが、正しいと考えるものである。]
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