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2023/05/09

★永見徳太郎「芥川龍之介氏と河童」に見出したる龍之介の未知の俳句「向扇や永見夏汀の手の肥り」「蘭館に賣られて來たる瓢かな 我鬼」二句/永見徳太郎「芥川龍之介氏と河童」全本文附

 

[やぶちゃん注:岩波文庫から六年前の二〇一七年七月に刊行された石割透氏の編になる「芥川随想」は、嘗つて書痴であった私は、仕事をやめてより、最早、殆んど書籍を買わなくなっていたのだが、この本はたまたま妻のリハビリ治療を待つ間、時間潰しに本屋の棚を見、芥川龍之介フリークとしての半ばは反射的自働作用で買ったもので、既にその内の半分近くは、別な資料で既に読んでおり、古くに電子化注もしたもの(例えば、松村みね子(=片山廣子)「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」や、萩原朔太郎「芥川龍之介の死」等)含まれていたために、真面目に通読することをせず、ごく最近まで、うっちゃらかしていた。ふと、日々の電子化注のルーティンにちょっと飽きて、やおら、残っていた未読資料を、拾い読みしていたところ、三日前、とんでもない発見をして、目ん玉が飛び出てしまった。

 それは、第「Ⅲ」パート内にある永見徳太郎氏の「芥川竜之介氏と河童」(お恥ずかし乍ら、今回、初めて読んだ)の中に紹介されてある芥川龍之介の俳句の中に、私の知らない句が二句含まれていたからである。しかも、この句、現在、最新の芥川龍之介の句集でとされる二〇一〇年八月岩波文庫刊の加藤郁乎氏編の「芥川竜之介句集」(連句・川柳を含む千百六十九を掲げる)が、この二句は収録されていない。但し、私は、この句集を芥川龍之介の句集の最良のものとは認めていない。それは二〇一一年三月二十六日附のブログ記事『岩波文庫「芥川竜之介句集」に所載せる不当に捏造された句を告発すること』を読まれたい。ただ、この句の蒐集作業は加藤氏ではなく、岩波書店編集者によるものであり、加藤氏よりも、そちらの編集者のトンデモ勘違いに責任の大半はある、但し、加藤氏が原文に当たって、それが俳句ではなく、確信犯的な龍之介の好んだジュール・ルナール風のアフォリズムであり、満鉄をカリカチャライズしたアフォリズム一行短文警句以外の何ものでもないことの検証をされなかった点での編者責任はある。なお、後者の「蘭館に」の句は、あきひろ氏のブログ「彰浩の部屋」のこちらに、田辺市立美術館の「文人たちのこころの絵」に出品されていたこの絵を見たものかと思われる記事(二〇〇八年八月二十四日の記事)に「蘭館に売られて来たる瓢(ひさご)かな」とあった(あきひろ氏は芥川龍之介の自画像とされておられるが、展覧の際の解説が不備だったものか)。

 さて、私は永い年月をかけて、私のオリジナルの「芥川龍之介俳句全集」(全五巻)をこちらで公開している。これは可能な限り、過去に作られた故芥川龍之介の諸句集を総当たりし、芥川龍之介の書簡・日記・ノート・断簡零墨を可能な限り、点検し、芥川龍之介の知人らの随想なども対象として蒐集したもので、表記が異なるものも確定的なものは漏れの無いように並列してあり、拾遺では、断片の内で俳句らしきもののそれも拾ってある。オリジナルに注も附してある。従って、私は私の「芥川龍之介俳句全集」が、現行、芥川龍之介の俳句集では最も完備しているものという自負を秘かに持っている。しかし、ここに出た二句は、私の蒐集句の中に、類型句さえ、存在していないのである。

 そこで、その句を含む永見氏に追想記事の全文を電子化し、最後に、改めて、未知の二句を挙げておくこととする。

 本記事は、雑誌『新潮』の昭和二(一九二七)年九月号『芥川龍之介追悼號』に初出されたものである。原初出誌はネット上では画像を見出すことが出来ないので、原表記で示すことは出来ない。従って、不満であるが、新字新仮名になっている石割透編「芥川随想」を底本とする。但し、この本、総てが、「芥川竜之介」になっているのは、ちょっと生理的に私が勘弁であり、本篇でも、「竜」だけは、「龍」に代えてある。悪しからず。なお、永見氏はパブリック・ドメインである。ルビは特に石割氏が添えたという注意書きはないので、総て採用した。一部にオリジナルにストイックに注を附した。必要なしと感じたものは注していない。悪しからず。

 なお、作者永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛、竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された通人でもあり、長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。本文の最後に書かれているが、自死を決していた芥川龍之介は、かの名作「河童」の原原稿を永見に死ぬ十日前に贈呈している。なお、私は以前に、現在、国立国会図書館デジタルコレクションにあるその原稿を、『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈電子化注』(以上はサイト一括版。ブログ・カテゴリ『芥川龍之介「河童」決定稿原稿」』で十九回分割版もある)。として電子化注して公開しており、その最後にある、『■芥川龍之介「河童」決定稿原稿の最後に附せられた旧所蔵者永見徳太郎氏の「河童現行縁起記」復刻』も電子化してあるので、未見の方はどうぞ。

 なお、以下の永見氏の随想には、三枚のモノクローム画像があるが、永見氏の芥川龍之介の芥川龍之介の顔を描いた絵に、未知の一句が芥川龍之介によって添えられてある一枚があり、その一枚だけは、底本からOCRで読み込み、トリミングし、適切と思われる箇所に添えておいた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   芥川龍之介氏と河童

永見徳太郎  

 

 理窟なしに私は、河童を好んで居るものである。

 現代に於(おい)て、河童の図をよくするものに、二人がある。その一人は芥川龍之介氏、もう一人は小川芋銭氏。芥川氏の描くところのものには、墨跡力強く、河童の骨格は筋張(すじばつ)て、それを捕えようものなら、その関節がポキポキと音をして、折そうな気がする、爛々と赫(かがや)く大眼の光りは、よくスペクトルの味が表現され尽されて居る。芋銭氏の河童は、沼の中に棲息して餌に不自由なく、円々と肥えふとった。ユモアな気分にうたれるところが多い。芥川氏のアマチュアな絵、芋銭氏の専門的の絵、其処には両者の味が、別々に表現されて居るのが愉快でならない。

[やぶちゃん注:「小川芋銭」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は私の好きな日本画家。私はよく知っているが、知らない方のためにウィキの「小川芋銭」から引いておく。本名は茂吉。生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

 芥川氏が、長崎に再遊の時……。大正十一年五月の事。

 私の乞うまま、芥川氏は硯(すずり)に筆を染浸(にじ)ませ、一線一線毎(ごと)に、河童の図を書(か)き初(そ)められた。氏は、創作をされる時と同じ様に気分を落付けて、筆を卸(おろ)して居られたが、一枚を破り二枚を破り、三枚目に、

「もう労れてしまった……明日書きましょう。」と言って筆を投げてしまわれた。氏は何日も[やぶちゃん注:「いつも」。]愛飲されたゴルデン・バッドの煙を輪に吹き乍(なが)ら。……しばらくすると、今度は、短尺を取りあげ、

  向扇や永見夏汀(ながみかてい)の手の肥り

  時鳥(ほととぎす)山桑摘めば朝焼くる

と書かれた。

[やぶちゃん注:俳句二句は底本では均等割付である。第一句が未知の句である。「夏汀」永見の号。]

 それから、芥川氏は再び画筆を握って自画像を描かれたが、また破って紙を手で丸められる。

 「僕の顔を自分で、鏡に写して見ると、全く変なものですよ、まあ獣という感じでしょう。」

 傍にあって、墨を擦って居た私の妻を振り返って言われた。

 「河童というところですかね。」私のこういう言葉を聞いて、珍(めず)らしくも、「アハヽヽと。」[やぶちゃん注:「と」が内に会話記号内にあるのは、ママ。]大笑せられた。この大きな笑声を聞いたのは、後にも前(さき)にもこれが初めてであったのである。

 「では、芥川氏の顔を描いて見ましょうか?」

 「面白い、さあモデルになりますよ。」

 私の手が動くと、芥川龍之介の顔が、紙の上に現れた。

 「永見君は、よく僕の顔を見てるな。では讃を一つ。」

  蘭館に売られて来たる瓢かな

二人の合作は、私の大切に秘蔵するものとなった。

Rankann

[やぶちゃん注:永見の龍之介の絵の右手に、

 蘭館に賣られて來たる

        瓢かな

          我鬼

とあるのが視認出来る。これが二つ目の未知の句である。これが左下方に永見の落款らしきもの(判読不能)がある。

 以下、一行空けはママ。]

 

 翌日お昼過ぎに、芥川氏は大急ぎで、

 「大筆と唐墨を貸しませんか?」

 と言われるので、昨日約束の河童を大幅に描かれる事であろうと、紙まで添えて出すと、芥川氏の癖であるところの長髪を、一度左手にてなであげ、右手には、唐墨と大筆を摑むように、懐(ふところ)に捩込(ねじこ)み、脱兎の如く戸外に出られた。実にその姿は、脱兎の如くであった。

 芥川氏は、遂々河童之図を残さずして、帰京してしまわれたのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空けはママ。]

 

 八月の暑い日盛りは、丸山の廓(くるわ)にも、強く照りかがやいて居た、何処(どこ)からともなく稽古(けいこ)三味線が、ポツンポツンと鳴って居る。私は、小島の坂石段を馳け降りると、其処には丸山の名妓(めいぎ)照菊君の住居であったから、雨宿(あまやどり)のつもりで、飛びこんで座敷に通ると、これは驚いた、二枚折銀屛風(ぎんびょうぶ)が、燦然(さんぜん)と光って、その周囲の三味線や、鏡台の艶(なま)めかしい調子を打毀すかのように、筆力雄大なる水虎晩帰之図が目立つのであった。

 唐墨、大筆は、この家に役にたったのである。

 「長崎の町には、芸妓のいいのが居りますね。」

 「誰がいいんですか?」

 「照菊さ。全く堂々として立派なものです、東京に出て来ても恥(はず)かしくない女ですよ。」と、何日だったか言われた事が、思い出された。

 なる程(ほど)、芥川氏の目は高い。……何時(いつ)の間にか好きな妓をつくり、何時の間にか銀屛風を描く氏の早術(はやわざ)には、敬服するより他なかった。

 芥川氏の絵の中では、照菊裙(くん)所蔵するところのこの屛風が、おそらく一番の大作で、一番の力作であろう。

 艶色(えんしょく)ならびなき芸妓照菊裙と河童之図は、氏の口を吐いて出る皮肉と諧謔(かいぎゃく)の様なコントラストだと思うと、私は微苦笑を漏らさずには居られなかった。

[やぶちゃん注:「丸山の廓(くるわ)」長崎の旧丸山(まるやま)遊廓(グーグル・マップ・データ)。

「小島の坂石段」長崎丸山遊廓には坂が多いので、長崎に詳しくない私には特定出来ない。サイト「ナガジン!」の「長崎『坂』ストーリー」にあるどれかではあろう。「小島」という地名からは、「ピントコ坂(ぴんとこざか/上小島)」が候補か。

「照菊君」「照菊」(てるぎく)「君」(きみ)であろう。芸妓「照菊」は私の「芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通」の後の方の「大正一五(一九二六)年三月十一日・田端発信・杉本わか宛」の私の注を参照されたい。

「裙」「紅裙」の略。元は「紅色の着物の裾」の意だが、転じて「美女」或いは「芸妓」を指す。

 以下の一行空けはママ。]

 

 その年の秋、長崎の年中行事第一である諏訪大祭(すわたいさい)が、近づく時に、長崎美術協会の展覧会の日が迫って、私も何か出品しなければならない義理があった。

 忙しい私には、絵を描く時間の余裕がなかった。然(しか)し何か書かねばと考えて居た。砲術家高島秋帆(たかしましゅうはん)先生の遺跡である家に行っての戻り道、前に願雨にあった坂道を通ると、その土塀が毀れかかって面白かった、のでこの上塀をスケッチして、大奉書に描いて見ると、漫更(まんざら)捨てた絵でもなかったから、これを急場凌(きゅうばしのぎ)に出品する事とした、しかしその絵の中には何処となく淋しさのある漫然さがあったので塀の落書を書添える為(た)めに相合傘を書いた、傘の右に芥川龍之介、左(ひだ)りにわかと記した。

 わかとは、妓照菊の本名であった。

 誰も知るまいと思って、展覧会場に行って見ると、この絵の前は一ぱいの人集(ひとだかり)で、誰もが、龍之介おわかの正体を知ろうとして居た。

 私は、この旨をその夜、芥川氏に知らせる為に手紙を書いた、定(さだ)めし芥川氏は喫驚するだろう、河童之図を私に描かなくて、愛妓に描いた事を思出して居られるだろうと、考え乍ら。

 長崎の新聞では、その絵が問題となって、大きな活字で、龍之介わかの正體を書きたてた。

 「東京まで、知れるものかごと思って居る間もなく、その記事が、長文になって相合傘の絵まで、東京の或(ある)新聞に出たのを知った私は、

  相合傘の一件には、御降参の御事と存じ申候、

  是といふのも貴下河童之図の御約束を果たさざ

  るところと御思慮あれ……云々

 と、私は書面した。

 我鬼大人は、この相合傘が世間にバットして大に弱り抜いたと零(こぼ)して居られた。

 初めから、龍之介わかは、何等(なんら)恋愛的のものではなかったのである、ただ芥川氏が、何(な)んとなくその妓を好きであったので、全く私の筆先の悪戯で、少々悪戯過ぎて、後には、それが評判になる程、私は氏に気の毒と思って弱ったのであった。照菊裙は、氏の

「きりしとほろ上人」だの「お富の貞操」だのの愛読者に過ぎなかったのだ。

[やぶちゃん注:芥川龍之介宛書簡は、底本では全体が二字下げベタであるが、ブラウザの不具合を考えて、改行してある。

 以下の一行空けはママ。]

 

 或日、私は中通(なかどおり)を車にて走ると、或小さい道具屋の店頭に、河童の図が見えて居た。

 車を降りて、其処の主人に、絵の出所を尋ねると、

 「このガワン太郎(長崎では、河童をガワン太郎と言う。)ですか、こるは(これは)、委託品ですタイ……上海の人(ひと)んと(人のもの)ですタイ。」

 「誰が書いたのでしょうか?」態(わざ)と聞いて見ると、主人は頭を搔き搔き、

 「何んとかいう、六ケ敷(むつかしか)名前の文士ですゲナ……ええと、ええと。」しきりに、記憶より氏の名を呼び起そうとして居る。

 「芥川龍之介でしょう。」

 「そうそう、そんげん(そんな)でしたタイ。妙な絵ですのう。」

 「これは何程(いくら)でしょうか?」

 「弐拾円ならヨカでしょう。」

 その四、五日前の事であったが、芥川氏は、強盗に這入(はい)られて、弐拾円をせしめられたとの記事を、新聞で知って居ただけ、私には、その弐拾円が、不思議な因縁の様に思われてしかたがなかった。

 絵は、横物に仕立(したて)られた掛物であった、而して墨色黒々と、元気に描かれた河童には、水虎晩帰之図と題されてあった、この絵は、氏の一本槍の絵に相違ないが、サインには、我鬼酔墨としてある事が、私の好奇心を動かしたのであった。

 芥川氏と、私とは、何度一所(いつしょ)に食事をしたであろうか? 十度二十度どころではなかった。何時も食事の時には、お膳を私の分と芥川氏の分とを、くっつけて喰べたのである、丁度(ちょうど)恋人の様にして……。私は、よく飲みよく喰う牛飲馬食(ぎゅういんばしょく)の徒であったから、芥川氏がユックリと、一品ずつ風味をして居る時には、氏の分まで、黙って荒したのであった。東京では、氏の近所の自笑軒で会食する事を常として居た。

 「よく喰うね。」

 「よく喰べないなあ。」

 二人は、極(きま)ってこんな事を言って顔を、見合せて笑ったのであった。

 芥川氏は喰べものに注意して居られて、鰻などは、あの旨(うま)い油濃ゆい皮は絶対に食べない方であった。お酒は時として猪口にチョット注いで貰(もら)っただけであった、その人が、我鬼酔墨と署名してあるには、実際驚ざるを得んやである。

 何年か後に、この弐拾円で買った絵の話をすると、

 「ああ、それは上海の六三亭だったか……書いたよ。」

 「今度は、上海の相合傘ですかね。」

 「もう、もう、相合傘には大閉口さ。」

 「また、絵でも書いていじめようかなあ。」

 二人の交友は、非常な親密さを増して、言葉の上にも隔(へだた)りがなくなって居た。

[やぶちゃん注:「芥川氏は、強盗に這入(はい)られて、弐拾円をせしめられた」「芥川龍之介書簡抄111 / 大正一一(一九二二)年(二) 二通」の最初の「大正一一(一九二二)年二月十日・田端発信・薄田淳介宛」の「二伸」に『四百金難有く頂戴 丁度拙宅へ泥棒はひり外套二着マント一着コオト一着帽子三つ盜まれた爲早速入用が出來ました あれは大阪から來た泥棒かも知れない』とある。そちらの私の注を参照されたい。

「水虎晩帰之図と題されてあった、この絵は、氏の一本槍の絵に相違ないが、サインには、我鬼酔墨と署名してある」底本には、その絵の写真が添えられてある。その絵は、『小穴隆一「鯨のお詣り」(11) 「芥川龍之介全集のこと」』の中に画像を掲げておいたので、見られたい。これ。添え辞は「水虎晩歸之図」「我鬼醉墨」で、下に赤陽刻の落款(但し、上海の古道具屋で買ったもので、本人のそれではない)。]

 

 私は、一昨年の冬、久々振に、田端の澄江堂(ちょうこうどう)居を尋ねた、その日は馬鹿に寒い時で、二人は炬燵(こたつ)して、長話をつづけた。

 私は東京に転居する事情を話した。

 芥川氏は、「自分は、田舎に引籠(ひきこも)りたいと考えて居る……君、長崎を引払うのなら、早(は)やく、決行する方がよい、君が来ると賑(にぎ)やかになるだろう。」

[やぶちゃん注:以下の一行空けはママ。]

 

 私は、昨年の春、愈々(いよいよ)東京人となる覚悟で、家族と共に滝野川に居を構えることとした。

 その時、氏がかねて垂涎三千丈(すいぜんさんぜんじょう)して居た鉄翁(てつおう)遺愛の硯を、上京紀念として贈った。

 芥川氏の顔には、欣びの色が漲(みなぎ)った。

 氏の長崎日録の中に、

  五月十七日

 夏汀の家に竹田(ちくでん)、逸雲(いつうん)、

 梧門(ごもん)、鉄翁、熊斐(ゆうひ)、仙厓(せ

 んがい)等の日本画家、江稼圃(こうかほ)、沈南

 蘋(しんなんびん)、宋紫石(そうしせき)、胡公

 寿(ここうじゅ)等の支那画家を観る。竹田は丸

 山のエスキス。この画によれば当年の廓は甚(は

 だ野趣(やしゅ)を存せしに似たり。夏汀また鉄

 翁の硯を蔵す。もと竹田の贈る所。石薄うして反

 (そ)りかえれるさま、如何(いか)にも洒落(し

 ゃれ)たる硯なり。僕大いに慾しがれども、夏汀

 更に譲る気なし。

 とある程、氏はその硯を慾しがって居たのであった。

 昨秋芥川氏は鵠沼(くげぬま)に転地して居られたので、訪問する可(べ)く約束して居たが、私は風邪の大熱に冒(お)かされて行く事が出来なかった。

 滝野川より今の住所西荻窪に転じた私は、忙しいのと、遠くはなれて来たので、長く逢っていなかった。今年の春頃、氏を尋ねたが折悪(おりあ)しく外出の時であった。

 最近、出版した画集南蛮屛風は、キット芥川氏が欣んでくれるに相違ないと思って、氏の都合よき時、持って行こうと考えて居ると、十四日であったか、十五日であったか、明瞭(はっきり)と記憶しないが、何かの原稿を書いて居る時、「スグコイ アクタガワ」との電報が来たので、私はペンを置いて、田端へと出かけた。

 二階の室(へや)で、「一年振りだったね。」

 「ほんとに長い間でしたなあ。」

 「この頃は忙しそうだね。」

 「ええ、おかげで……あなたも、なかなか書きますね。」

 と二人は話し合った。

 昨年逢った時の芥川氏は、あの長髪を短かく刈りこんで居られたが、大分その髪も伸びて居た、「芥川氏は髪の長い方が、芥川氏らしい。」と思ったりした。

 氏は夫人を呼んで、掛物をいろいろと見せられた、それ等は、唐画や俳画や書等であった。

 「君の欲しいものをあげよう。」

 「ほんとうだろうか?」

 「うん、遠慮したまうな。」

 「では、その沈黙の唐画を貰っても、かまわないかしら。」

 「どうぞ……。」

 沈黙の花鳥は、沈南蘋の画風に似て居るが、南蘋よりも、シッカリした写生だと私には思われた。

 「今日は、馬鹿に大きな書を書きたいなあ。」

 「じゃあ、久振(ひさしぶ)りに何か書いて貰い度(た)いものです。」

 「……では、小穴の家で、筆を借りて書くとしよう。」

 「じゃあ、行きましょう。」

 「もう一つ、……やり度いものがある……。」

 「何です?」

 夫人に、「河童の原稿を持って来てくれ。」と言われた。

 私は、芥川氏の原稿を、沢山貰って居るのであるから、河童の原稿を貰う事は、何より嬉しかった。「ありがとう。」と言って、私は、戴くようにして、それを受取った。

 芥川氏の家を出ると、小穴隆一氏の家は、すぐ近くだった。

 途中で、「永見君は、僕に二つ年上だね。」

 「芥川氏は三十六ですか?」

 「僕は三十六、君は三十八。君の方が天空海闊(てんくうかいかつ)だから若い……実に君は天空海闊だよ。」

 「クヨクヨ考えたって駄目ですからね。」

 画家の小穴隆一氏とは、震災前、鎌倉で逢ったぎりで、随分久し振りだった。

 芥川氏は、唐紙(とうし)の前に座って、

 「永見君の顔なら、書けそうだ。」

 「震災前、鎌倉の平野家で私の顔を、油絵で書いたのは如何(いかが)したんですか?」

 「何処へやったか無いよ。」

 「では、私を書いて貰いたいな。」

 芥川氏は、黙々として、二枚の書と、一枚の絵とを書いてくれたのであった。

  秋 の 日 や 竹 の 実 垂 る る 垣 の 外

  あはれあはれ旅びとの心はいつかやすらはん「垣

  ほを見れば山吹や笠にさすべき枝のなり」

 絵は、私の好きな河童之図で、絵の上には、

  蒲の穂はなひきそめつゝ蓮の花

 と書かれたのであった。河童は、以前の形と大分変って、芥川氏の身体のように益々(ますます)細長くなって居た。

 「君が来るのを待って居たから、二、三日したら鵠沼ヘ行くよ。」

 「私も遊びに行きましょう。」

 小穴氏の家を出でて別れる時、私はこう云ったが、何んとも答えがなかった。

[やぶちゃん注:『あはれあはれ旅びとの心はいつかやすらはん「垣ほを見れば山吹や笠にさすべき枝のなり」』は二字下げベタであるが、前と同じ理由で、改行した。底本では、ここで書かれた河童図が載る。句は痩せさらばえた異様の河童の上に、頭に「龍之介」と署名して、「蒲」「の穗」「はなひ」「きそめ」「つつ蓮の花」の五行に記されてある。

「十四日であったか、十五日であったか、明瞭(はっきり)と記憶しない」これは「河童」の脱稿(昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表)は同年二月十三日である。永見は「今年の春頃」と言っているから、三月か四月、年譜上の状況から考えると、三月かと思われる。]

 

 芥川龍之介氏の死……二十五日の新聞で知った時の私の驚愕……あの時が、永久の別れであったのか……私を呼んで……涙は、とめどなく落ちて来た。……その日の何(いず)れの新聞にも、三面には芥川氏の死を悲(かなし)んだ記事が一ぱいである、而してラジオ欄には、その夜放送する私の肖像が載って居た。

 「芥川氏と私は、何んという縁だろう! 同じ日の新聞に、二人の写真が載ってる等とは……。」

 芥川家に、馳けつけると、其処には涙に咽(むせ)ぶ人々が、多勢(おおぜい)集まって居られたのであった。

[やぶちゃん注:以下、一行空けはママ。]

 

 告別式の翌々日、芥川氏の家を尋ねると、夫人は、

 「河童の原稿を、あなたに差上げました時に、なんとも言えぬ嫌な眼付(めつき)に、お気附(きづき)ではありませんでしたか?」と言われた。

 芥川龍之介氏……河童……その逸話も紀念品も、今は、すべてが、涙の紀念(かたみ)となってしまったのである。

 私は、静かに端座(たんざ)して、ありし日の氏を追悼しようと、数多い氏よりの贈物を取出して居ると、妻が「私も書いて貰ったものがあります。」と女持(おんなもち)の扇子(せんす)を持出したので、開いて見ると、我鬼酔筆の分と、絵の大小の差はあっても、絵には寸分の相違もない、水虎晩帰之図であった。

[やぶちゃん注:以上で本篇は終わっている。]

 

★永見徳太郎「芥川龍之介氏と河童」に見出したる龍之介の未知の俳句「向扇や永見夏汀の手の肥り」「蘭館に賣られて來たる瓢かな 我鬼」二句

 

向扇や永見夏汀の手の肥り

 

[やぶちゃん注:「向扇」読みが確定出来ない。「きやうせん」「かうせん」の孰れかであろう。三ッ足の扇ちょっと開いた形の向付(むこうづけ)の食器に「向扇」があるが、ここはまさに正しく永見が手に持っている扇を少しだけ先を開いて持っている、その仕草から永見のふっくらとした白い手首をクロース・アップしたものと読む。

「肥り」「こえり」と訓じておく。]

 

蘭館に賣られて來たる瓢かな

 

[やぶちゃん注:「蘭館」「らんくわん」。阿蘭陀(おらんだ)屋敷。芥川龍之介は長崎を愛し、大正八(一九一九)年五月上旬と、大正一一(一九二二)年五月の中・下旬の二回、遊んでいる。二句目の署名が「我鬼」となっているが、永見ははっきりと「再遊の時」といっている。龍之介は大正十一年の春頃から、龍之介は号を我鬼から澄江堂と変えているが、ここでは未だ世間に知られていない号は使わず、敢えて知られた旧号を用いたものと推定される)。

「瓢」「ひさご」或いは「ふすべ」。瓢簞。この句。私は一種の歴史詠の想像の時代絵巻も匂わせた句であろうと私は思う。]

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