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2023/05/07

大手拓次 「霧のなかに蹄を聽く」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  霧のなかに蹄を聽く

 

 亡靈のごとくたけなはにながれる霧は、ふかくふかく、あをくとけいり、柳の葉のすがたをまとめて、ばうばうとけむりしづんでゐる。そこに、私は心のなかにゆるやかな蹄のおとをきく。

 この言ひやうのない無心のやはらかさは、かの薄倖のトリスタン・コルビエエルの「黃色い戀」をみちびき、はらみゆく夢に叡智の木馬をゑがきださうとする。

 わたしは、みえざる友の手にしばらく魂を託さうとする。

 みづいろの風情をかもすわかい手のなだれる吹雪のなかに、この放心をなげようとする。

 霧は母胎の苦惱を木立によぢらせ、人生の寂しい澁面にいれぼくろする。

 金屬製の騷音は默默として、この無爲の階段の犬を縛し、みどりの圓柱のうへに暗黑の葬禮をとほらせる。

 肉身は掌をひらいて因果をうけ、地にひれふす。

 月は太古の火を焚いて幽遠の娘をかたちづくる非望を持つ。

 脣は震動し、震動する。

 感情の旋轉は拍車のやうにくるほしく捲きあがり、旋行するけれど、やはり暮方のとびらに入る。

 ふかぶかとした霧の羊毛の海に眼をあけ、漂鳥のやうに認識をなめむさぼりゆけど、虛無ははてしなく充ち滿つる。

 縛せよ、はてしなく縛せよ、光の消えうせるまで。

 しめくくれよ、意識のもうろうとして梢にのぼるまで。

 わたしは此處に存在し、彼も亦此處にありのままに存在し、沈默の微動のうつるままに、またわたしと彼とは彼處に存在し、廣く時空を通じて何處にも遍在するのである。

 生えさかり、生えさかる雜草のくびをきるなかれ。恐怖の眼に四季の花は死の衣をつけてよみがへり咲くものを。

 微笑せよ、耳なくして聞きうる燕のはおと。

 たたずめよ。眼なくして見うるうららかな女のかたわらひ。

 母韻(ぼゐん)は風、子音は木立。母韻は夢、子音は現。母韻は聲、子音は象。母韻は女、子音は男。母韻は夜、子音は晝。母韻は水、子音は地。母韻は南、子音は北。母韻はみだれ、子音はととのひ。母韻はあゆみ、子音は走り。母韻は指、子音は掌。

 母韻「あ」は空であり、「い」は流れであり、「う」は人間であり、「え」は物であり、「お」は登るにつれて頂いよいよ遙に、無窮の混沌たる進展の貌である。

 

 飽くなき貪婪の情熱は、いよいよ澄むにしたがつて、いよいよくもり、澄みきはまつて更にいよいよ渾沌とおぼろめく迷宮に入り、いよいよ暗く、いよいよ重く、いよいよ惱ましく、いよいよ現實の火爐に沒するのである。澄心いよいよ高く徹して透明となるとともに、人間性の陰影はいよいよ濃く、腐爛し、爆發し、紛糾し、溶透し、燃燒し、低徊し、消失し、あらゆる醜汚のかぎりをつくすのである。澄めよ、濁れよ。れいろうたる鳥のはかげに未知のひびきがある。澄みきはまり、濁りきはまり、この現身の、さつとして一瞬の微笑と化するとき、この矛盾のうちにまつはり咲く幻法こそ私のおもひである。

 うつくしいをんなよ、指をみがけよ。指をみがけよ。

 そのうすくれなゐの爪に幻をうつせよ。

 その爪のひとつひとつに、それぞれの香料を宿らせよ。

 たとへば、おやゆびには香料Vouloir C'est Pouvoirを。ひとさしゆびには香料Rose sans Finを。なかゆびには香料Enfermant Les Yeuxを。くすりゆびには香料Un Jardin la Nuitを。こゆびには香料Un Jour viendraを。

 かくして、それらの指の爪と爪とのなかにたちのぼるひといろの香に移りゆくねむりをさそへよ。

 うつくしいをんなよ。わたしはお前たちのために香料をつくらう。その名は「幻の犬」、「接吻の羽」、「祕密の墓」………さて最後にわたしの指の香をおくらう。

 わたしの夕暮の指は、迷ひのリラであり、影をふくむジヤスマンであり、戀を扇ぐ白薔薇であり、感傷の君影草(きみかげさう)であり、病毒の月下香である。

 わたしの朝の指は、うしほの香であり、森林の香であり、月光の香であり、蛇身の香であり、瑪瑙の香である。

 わたしはこれらの指と指とのもつれる香に、わすれられたる、またいまだ來らざる幽靈の足あとをみいだすのである。

 をんなよ、空氣のなかにすわらう。

 光がむらむらとさわいでゐるではないか。

 

 香料はみなぎりあふれ、すべてはこの肉身の動きのなかにまどろみをつづける。その放肆なる幻影のあゆみは、よろぼふ月のひかりにおとろへることもなく、一介の蟲を匍はして究明のいらくさに休息をもとめる。

 すべてのものは、私のまへにもえなづむけむりの唄である。くちなしいろの音樂である。蒼涼とした子音の群れるかぎろひである。

 わたしは無明のなかに、空のなかに、ながながとよこたはり、むらさきの星をうつした女の脣をおしのけるのである。

 わたしのぞよめく戰慄のゆくほとりに、なにもののこゑかを聽き惚け、うつうつと逆立して感情の小鳥を放ちやる。

 ああ、このかなしい微笑のみぞをのぞくものの不幸を何に譬へよう。

 すべてこのへんぺんとしてめぐる木立のよびごゑは、まさりゆく影にすぎない。

 わたしは戀情にふるへる指をよそほはしてたちもとほる。

 Faisons un Rêveのなじみの香料を手にすりこみ、わたしはとげだつた心像のにはたづみに舟をはしらせようとする愚かさを食べるのである。

 月を黑く塗り、わたしは魚(うを)にうまれ、耳は噴水となり、眼は丘のうへにさきみだれる蔓草となる。

 このみたされたる時のなかに、ひとつの感情は螺狀のひかりをうけて雛の初聲をもらすのである。

 笑ひも、悲しみも、妬みも、惱みも、悅びも、慕ひも、鬱金色の靄(もや)にかくれて浮びあがらうとしてゐる。

 花花をおほひかくして沈め、そのにほひをはるかにおくり、みどりの艷麗なる靑葉をもつてあたりいちめんに飾りつくす。その葉飾りのうめきのらうらうとのびあがるこゑは、無限の生長をそなへた生物である。

 蜂のやうに散亂する透明體の渾沌(こんとん)は足をひきずりながら、顏をかくしてゐる。

 その顏のしめりのあけぼのよ。

 わたしの胸には木の葉がちり、ひたり、もだえ、あがきつつ眼をひらく。

 遠景をよべよ。そのはるかさの賴りないよろよろとした近づきの路に心の莟はふくらむ。

 いつさいが影であり、いつさいが香氣であり、いつさいが音樂である。

 すなはち、たたずみであり、翔(かけ)りであり、消えさるものの美しさである。すべてが捉へがたなきものの哀憐である。

 しかも、このふるいサンボリスムの美學の殿堂を破壞し、洪水をそそぎ、凝固させんとするものの形態にわたしは放射線的執着をおぼえるのである。

 惡魔の舌をひきよせて神の頭にはしらせ、女性の淫を繁らせ、混濁の不具を祭り、變性の靴をはかせ、この風潮の狂ひ咲に長長と接吻し、現代科學の身邊をすくひとり、そこに、どろどろとうづまく人間的黎明の澄徹をたづねんとするのである。

 手をぬらせよ、手をぬらせよ、その遠い手に。

 脣をひたせよ、脣をひたせよ、その遠い脣に。

 心に、意志に、嫉妬に、愛憐に、うつし世をめぐる現身に、さんらんとして無心の香料を沁みとほらせよ、おぼれるまでに、その波のあひだにいだかれて。

 不可解の臥床に風をいたはり、闇のなかに失神するもの。聲は聲をのんであをくうすれ、發光して消えゆく林檎のかげのふかさよ。

 

[やぶちゃん注:「トリスタン・コルビエエル」(Tristan Corbière 一八四五年~一八七五年)はフランスの詩人。ブルターニュの海岸地方に生まれた。船乗りで海洋冒険小説家の父の影響で、早くから海に憬れたが、中学時代、リウマチに罹患し、夢を断たれた。この挫折感が自らの醜貌への過剰な意識と重なり、屈折の多い複雑な心理を形成していった。詩作品はここに出る、一八七三年にパリで自費出版された詩集「黄色い恋」(‘Les Amours jaunes’)に纏められているが、この中で自らを、犬・蟇蛙・蛇などに擬して、永遠の女性の愛を請い、海の冒険の見果てぬ夢を追い、生の倦怠と孤独を歌い、言葉遊びと醒めたユーモアで自嘲を繰り返した。無名のまま、二十九で結核(推定)で夭折した。コルビエール没後の一八八三年、ヴェルレーヌが雑誌『リュテス』で「呪われた詩人たち」の一人として、その詩業を紹介、後、シュルレアリストのブルトンは「睡眠への連禱」を自動書記の先駆的作品として評価した(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「香料Vouloir C'est Pouvoir」フランス語で「『望む』ということ、それは『出来る』ということだ。」の意で成句。「精神一到何事か成さざらん」「意欲は力なり」に同じ。『アール・ヌーヴォー』と『アール・デコ』の両時代に亙って活躍したフランスのガラス工芸家ルネ・ラリック(René Lalique 一八六〇年~一九四五年)の作品に同名の香水瓶がある。合同会社SENOO商事グループのアンティーク部門のサイト「古き旅」の「ガラスの工芸家 ルネラリック Rene Laliqueの素晴らしき香水瓶のご紹介」によれば、『細長い円柱状のガラス容器に、小さな花模様が縦に何列も入った香水瓶で』、『ドーム型のストッパーがつい』た一九二三『年頃の作品』とあった。欧文サイト「RLalique.com」のこちらで現物の写真が見られる。

「香料Rose sans Fin」「果てしなき薔薇」「終わりなき薔薇」。サイト「ACCUEIL」のこちらに、一九一六『年創業のパリの老舗のパフュームリー『ARYS』から』一九一九『年に発売された『ROSE SANS FIN』という名の香水のパフュームカード』があるとし、現物の写真が掲げられてある。

「香料Enfermant Les Yeux」「目を閉じると見える」だが、“En fermant Les Yeux”が正しい。このフレーズは、知られたものでは、フランスのオペラ作曲家として知られるジュール・マスネ(Jules Emile Frédéric Massenet 一八四二年~一九一二年)作曲のオペラ「マノン」(Manon:一八八四年初演。フランスのアントワーヌ・フランソワ・プレヴォ・デグジル(Antoine François Prévost d'Exiles/アベ・プレヴォ(Abbé Prévost:僧プレヴォ:カトリック教会聖職者であったため)が書いた小説「マノン・レスコー」(Manon Lescaut)に基づくもの)のアリアが有名。香水名にあって相応しいとは思う。

「香料Un Jardin la Nuit」「夜の庭」。先と同じサイト「古き旅」で、ラリックの同名の香水瓶がある。『イバラ模様の装飾の入った円柱状のガラス容器に、ブロック型のストッパーがついた香水瓶で』、一九二二『年頃の作品』とある。同前の欧文サイト「RLalique.com」のこちらで現物の写真が見られる。

「香料Un Jour viendra」「ある日やって来る」。同前の「古き旅」で、『細長い卵型の透明なガラス容器に、丸いストッパーとオリジナルラベルがついた香水瓶で』、一九一九『年頃の作品』とあり、同前の欧文サイト「RLalique.com」のこちらで現物の写真が見られる。思うに、拓次はこれらの香水の香りをかいだことがあるのではなく、フランスの香水広告から、以上の香水品の名前から選んだものと推察される。

「リラ」モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ムラサキハシドイ(紫丁香花)Syringa vulgaris 。標準和名よりも英語のライラック(Lilac)で呼ばれることが多い。リラ(Lilas)はフランス語での呼称。当該ウィキ(「ライラック」である)によれば、『ヨーロッパ原産。春』『に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく、香水の原料ともされる。香気成分の中からライラックアルコール』Lilac alcohol『という新化合物が発見された』。『耐寒性が強く』、『花期が長いため、冷涼な地域の代表的な庭園木である』。『花冠の先は普通』四『つに裂けているが、まれに』五『つに裂けているものがあり、これは「ラッキーライラック」と呼ばれ、恋のまじないに使われる』。『日本には近縁種ハシドイ Syringa reticulata が野生する。開花はライラックより遅く』六~七『月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも呼ばれることがある』。『ハシドイの名は、木曽方言に由来する』ともされるらしい。『属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという』とあった。

「ジヤスマン」フランス語で花の「ジャスミン」は“Jasmin”であるが、音写すると、「ジャスマン」である。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン(アジアからアフリカの熱帯及び亜熱帯地方が原産で、本邦には自生しない)類、或いは、ソケイ Jasminum grandiflorum であろう。先の「Jasmin Whiteの香料」の冒頭に附した注を参考にされたい。

「君影草(きみかげさう)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の異名の一つ。香りが強い私の好きな花。当該ウィキによれば、『フランスでは、花嫁にスズランを贈る風習がある。また、メーデーにスズランの花を贈り合う』とあった。なお、本種は有毒植物で、『有毒物質は全草に持つが、特に花や根に多く含まれる。摂取した場合、嘔吐、頭痛、眩暈、心不全、血圧低下、心臓麻痺などの症状を起こし、重症の場合は死に至る』とある。

「月下香」キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ゲッカコウ属チューベローズ Polianthes tuberosa の異名の漢字表記(英名:tuberose)。当該ウィキによれば、『種小名はラテン語で「ふくらんだ、塊根状の」を意味し、球根を形成することに由来する。「チューベローズ」は』、『その英語読みである』とあり、『香りがよく、複雑でエキゾチックな甘いフローラル系で、とくに夜間は香りが強い。園芸種は八重咲きのものが多いが、一重咲きの方が香り高い』とあった。

Faisons un Rêveのなじみの香料」フランス語は「夢を見よう」の意。アンティーク・ショップ「テーブルウェア」のサイトの「ガラスの工芸家 ルネラリック RENE LALIQUEの素晴らしき香水瓶のご紹介2」に、『下から上に向かって緩やかに広がるガラスのボトルに、小さなドットのストライプが入った香水瓶で』、『揃いのドーム型ストッパーがついて』おり、一九二〇『頃の作品』とあった。]

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