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2023/05/15

大手拓次訳 「イカールの嘆息」 シャルル・ボードレール

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 イカールの嘆息 シャルル・ボードレール

 

うかれ女の情人(いろ)は

幸福で、愉快で、滿足だ。

私はと云へば、私の腕は多くの人を抱きしめた爲に傷(いた)んでゐる。

 

空の底にあまねく燃え上るものは

比類なき天體の惠みである、

つかれきつた私の眼が

太陽の思ひ出のみを見るために。

 

私は徒らに、空間に極と中心とを探さうとして、望んだ、

私が火の眼の何かを知らないので

私は、翼の衰へてゆくのをおぼえる。

 

そして、至善の愛によつて溫められて、

墓場(おくつき)に仕へるために

あの世に於ける私の名をあたへるところの

莊嚴の名譽を私は持たないだらう。

 

[やぶちゃん注:「イカール」フランス語“Icare”の音写。言わずもがな、ギリシア神話に登場する人物で、蜜蠟で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に近づき過ぎて、蠟が溶けて翼がなくなり、墜落して逝った、かのイカロス(ラテン文字転写:Icarus)である。

 本篇は、所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、本篇は『『惡の華 補遺』 一八六六年――一八六八年』(非常に詳細なフランス語ウィキの‘Les Fleurs du malによれば、一八六八年版で追加されたとある)の中の「第九」(‘Ⅸ’)篇で、原詩初出は『『廣小路』一八六二年十二月二十八日號に發表』とあり、『この時は題詞として、トーマス・グレーの四行詩がつけてあつた。この詩はすでに、ボードレールがその栅『不運』の末段にも借用しているものだ。』とある(トマス・グレイ(Thomas Gray 一七一六年~一七七一年)はイングランドの詩人・古典学者で、ケンブリッジ大学教授)。その詩篇「不運」は‘ Le Guignon ’で、「悪の華」の冒頭のパート、‘ Spleen et Idéal’(「憂鬱と理想」)の第九篇に配されてあるものであるが、同前の堀口氏の「註」によれば、『この詩篇は、殆んど全部が、ロングフェロー』(アメリカの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)『の『人生讃歌』“ A Psalm of Life ”と、トマス・グレーの『村の墓地で書いた悲歌』“ Elegy Written in a Country Church-yard ”からの借物である。卽ち、第一、第二、第五、第六行はボードレールの自作だが、第三、第四、第七、第八行と第六行の半分はロングフェローであり、最後の二聯は全部がトマス・グレーの作である。また、第四行はヒポクラテスに倣ふと原稿に記入がある』とある、途轍もないパッチ・ワーク詩篇である。

 閑話休題。以下に本篇の原詩を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

 

  LES PLAINTES D’UN ICARE

 

Les amants des prostituées

Sont heureux, dispos et repus ;

Quant à moi, mes bras sont rompus

Pour avoir étreint des nuées.

 

C’est grâce aux astres nonpareils,

Qui tout au fond du ciel flamboient,

Que mes yeux consumés ne voient

Que des souvenirs de soleils.

 

En vain j’ai voulu de l’espace

Trouver la fin et le milieu ;

Sous je ne sais quel œil de feu

Je sens mon aile qui se casse ;

 

Et brûlé par l’amour du beau,

Je n’aurai pas l’honneur sublime

De donner mon nom à l’abîme

Qui me servira de tombeau.

 

   *

「莊嚴」老婆心ながら、これは“sublime”(「壮絶な」・「崇高な」・「卓抜な」・「高貴な」)の訳であり、あくまで「さうごん」(そうごん)と読むものあって、「墓場(おくつき)に仕へるために」とあるのに引かれて、知ったかぶって、本邦で専ら、「智慧・福徳・相好などで浄土や仏の身を飾ること」・「仏像や仏堂を、多くの装飾品で厳(おごそ)かに飾ること及び、その装飾物」を指す「しやうごん」(しょうごん)とは、決して読んではいけない。稀れに、本邦の作家でも、前者の意味で「しょうごん」を使う者がいるが、私は、それを見ると、常に鼻白むのを常としているからである。少なくとも、原氏がルビをしていないのは、拓次が「さうごん」と読みを振っているからであると信ずるものである。]

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