佐々木喜善「聽耳草紙」 八一番 若水
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「わかみづ」と読む。]
八一番 若 水
昔或所に大層貧乏な男があつた。家は貧乏ではあつたが慈悲心が深くて、村の人達からも惡くは言はれなかつた。名前は若松と云ふ男だつた。
若松は或年の年越の日、木を伐つたりなんかして貯(タ)めた僅かばかりの錢を持つて、年取仕度《としとりじたく》に町へ行つた。其途中の野原で子供等が狐を捕へて、ひどく責め折檻をして居るのを見て、性來慈悲の深い人なので、持合《もちあ》はせの錢を皆出して、兄達(アンコダチ)々々、この錢をやツから其狐を俺に賣つてくれと言つて、狐の生命乞《いのちご》ひをして抱いて行つて、子供等が見て居ない所で放して遣つた。そして錢が無くなつて、米も魚も買ふ事ができなくなつたから其の儘家へ還つた。
元朝《がんたん》になつても食ふものが無かつたので、いろいろ考へたが良い考へも浮ばなかつた。米櫃をひつくり返して底を叩いて見ると、其所にやつと米粒が三粒ばかりこぼれ落ちた。若松はこれでも粥に煮てお正月樣に上げべと思つて、桶で水を汲んで來て大鍋をかけて炊いた。すると飯が大鍋いつぱひ[やぶちゃん注:ママ。]になつた。
若松は正月中每朝每朝早くに起きて水を汲んで來ては大鍋に入れて、米の御飯炊いてめでたいお正月を過した。
今でも其由來で家每《いへごと》で若水を汲むのだと謂ふのである。
(栗橋《くりはし》村の口碑。この若松と云ふ名前
が緣喜《えんぎ》がよいと云つて今でも方々に同名
の男がある。菊池一雄氏の御報告の分の四。)
[やぶちゃん注:「若水」小学館「日本大百科全書」から引く。『元日早朝に初めてくむ水。初水』(はつみず)『ともいう。平安時代、宮中では、あらかじめ封じておいた生気(せいき)のある井戸から、主水司(もいとりのつかさ)が』、『立春早朝に若水をくみ、女房の手によって天皇の朝餉(あさげ)に奉った。その後、朝儀が廃れ、元旦』『早朝にくむ風が定着した。現行民間の若水は、年神祭』(としがみさい)『の祭主である年男が』、『未明に起き、「若水迎え」などと称して新調した柄杓(ひしゃく)と手桶(ておけ)を持って井戸や泉・川に行ってくんでくるもの。年神に供えたり、口をすすいだり、沸かして福茶などといって家族一同で飲んだり、雑煮(ぞうに)の支度に用いたりする。西日本にはくむのを主婦の役目にしている所があるが、何か隠された理由があると思われる。くむ作法としては、「福くむ、徳くむ、幸いくむ」「こがねの水くみます」などのめでたい唱え言をしたり、餅』『や洗い米を供えるなどが一般的であるが、秋田県などのように、丸餅を半分だけ井戸に入れ』、『残りを若水に入れて持ち帰ったり、九州南部のように、歯固(はがた)めの餅を若水桶に落として』、『表裏の返り方で年占いをするなど、所によって特色ある作法が守られている。愛知県北設楽(きたしたら)郡の一部には、このとき』、『井戸から小石を二つ拾ってきて、一年中』、『水甕(みずがめ)の底や茶釜』『に入れておく所があった。これら若水には、年中の邪気を払い幸いを招く力が認められていたが、同時に、古代の変若水(おちみず)の信仰のように』、『人を若返らせる力も期待されているのであろう。近年、水道の普及に伴い、若水をくむ風は各地で絶えようとしている』とある。
「栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった旧村名。現在の釜石市栗林町・橋野町に相当する(グーグル・マップ・データ)。釜石の北西の山間部である。]
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