佐々木喜善「聽耳草紙」 六二番 蛇女退治
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「蛇女」は「へびをんな」と訓じておく。]
六二番 蛇女退治
或所に兄弟が三人あつた。兄は太郞、中面(ナカツラ)を次郞、末子(バツチ)を三郞と言つた。ともに武藝を上手につかつた。其頃奧山に大變惡い化物が居るといふことを聞いて、兄の太郞は、俺が行つて其化物を退治して來ると言つて家を出て行つた。
太郞は其化物の居る山を目差して、行くが行くが行つた。そして其山の麓まで行くと、谷合に萱《かや》のとツちぺ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版では『とッちぺ』とある。意味不明。]小舍があつた。道を訊くべと思つて立寄ると、白髮《しらが》ぼツけの婆樣が一人居て、兄や何所さ行くと訊いた。太郞が俺はこの奧山の化物退治に行くべと思ふが、
どう行けばよいかと言ふと、婆樣は溜息をついて、兄々お前も化物退治に來た人か、それは止めたらどうだ。あたら生命(イノチ)を棄てるから、これから直ぐ家さ還れやいと言つた。太郞がそれでも行くと言ふと、それでははア仕方ない。この婆の言ふことをきかないなら、向ふの谷川の瀧の鳴音に依つて往くとも還るともしろ。決してこの婆は惡いことは言はぬからと言つた。太郞は薄笑(ウスワラヒ)をして行つた。谷川のほとりへ行くと、大きな瀧があつて其水音が斯《か》う鳴つた。
戾れやトントン
還れやトントン
太郞はそれでも何(ナアニ)と思つて行つた。すると又笹立《ささだ》ちがあつて、笹叢《ささむら》に風があたつて斯う騷いだ。
戾れやガサガサ
還れやガサガサ
それでも太郞が行くと、川に一本橋が架かつてあつて、其丸木橋の下に一つの瓢簞(フクベ)が浮んだり沈んだりしながら、又斯う言つた。
戾れやツプカプカ
還れやツプカプカ
太郞はそれでも行くと、深い谷があつて、大きな樹木がいつぱいに茂り暗がりが入つて氣味が惡かつた。すると向ふから一人の美しい女が步いて來て、太郞と行會つた。女は莞爾(ニツコリ)と笑つて、和公(ワコ)樣は何所さ行きますと訊いた。太郞が俺は此山の化物退治に來たと言ふと、女はそれやまだまアだ遠い。一寸(チヨツト)此所で憩《やす》んで行つてがんせと言つた。太郞が立ち止まると、女は立つて休まば座(ネマ)つて休めと謂ふことがあるから、座つて休んでがんせと言つた。太郞が女の側に座ると、座つて休まば寢て休めと謂ふことがあるから寢て休んでがんせと言つた。太郞が寢ると女は大蛇になつて、太郞の體をぐるぐると卷きつけて絞殺《しめころ》してしまつた。
家では、いくら待つても待つても山から太郞が還つて來なかつた。それで次郞は兄を迎へかたがた樣子を見に奧山へ出かけて行つた。すると山の麓の萱小舍の婆樣が太郞に言つた通りのことを言ひ、又谷川の瀧の音も、笹立の笹葉の騷ぎも、一本橋の下の瓢簞のツンプカプめく音も、みな戾れや還れやと謂ふ音であつた。それでも行くと暗がり林の中に行き、向ふから美しい女が來て、太郞に言つた通りや、した通りのことをして、其あげく遂々《たうとう》殺されてしまつた。
今度は二人の兄を尋ねて三郞が奧山に行つた。一番の兄がしたやうに山の麓の萱小舍に立寄つて道を訊くと、此時ばかりは小舍の婆樣も引止めなかつた。お前なら行つても安心だと言つた。また谷川の瀧の水の音も斯う鳴つた。
往けやトントン
往けやトントン
それから笹立の笹の葉も風に騷いで斯う騷いだ。
往けやガサガサ
往けやガサガサ
それから谷川に架かつた丸木橋の下の瓢簞も、浮んだり沈んだりして斯う言つた。
往けやツプカプン
往けやップカプン
三郞が暗がりの林に差《さし》かゝると、向ふの樹蔭から美しい女が步いて來て、三郞さん三郞さん何處へ行くと訊いた。三郞は俺は兄の仇討《あだうち》に、又此山の化物退治に來たと答へた。すると其女は其山はまだまだ遠い。まづまづ憩んで行つてがんせと言つた。三郞が立止まると、立つて休まば座つて休めと謂ふことがあるから、座つて休んでがんせと言つた。三郞が座つて休むと、又女は座つて休まば寢て休めと謂ふことがあるから寢て休めと言つた。それで三郞は寢て休んだが、右の目をひツくれば左の目を開(ア)き、左の目をひツくれば右の目を開きして女の樣子を見て居た。すると其女が大蛇になつて絡み着いてきたから、いきなり刀を拔いて斬つてかゝつた。大蛇も仲々きかなかつたが遂に三郞に斬殺《きりころ》されてしまつた。
三郞は大蛇を退治してから、先刻《さつき》女の出て來た大木の蔭へ廻つて見ると、大變夥しい人の骨が山と積まれてあつた。これだこれだ、あの化物女に兄共《あにども》も取つて食はれたのだと思つて、よく其邊を見ると、數多(アマタ)の大小がごちやごちやとある中に、見覺えのある兄共の脇差も交《まじ》つておつた。三郞は其兄どもの脇差を持つて家に歸つた。
其手柄が、殿樣に聞えて、殿樣の御殿に三郞は呼出されて、大層御褒美を貰つて、そして立身出世をした。
(祖父のよく話した話。自分の古い記憶。)
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