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2023/05/26

ブログ1,960,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和三十年十二月

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『東京新聞』昭和三〇(一九五五)年十一月二十八日附・二十九日附・三十日附に連載されたとある。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、つい先ほど、1,960,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年五月二十六日 藪野直史】]

 

   昭和三十年十二月

 

「小説というものはさしみみたいに、なまなましいところがなくては、読み応えがない。どこかに、本物のはこびがないと、干からびてしまう」

 室生犀星の「失はれた詩集」(中央公論)はこういう書出しから始まっている。この作品は過去の肉親をめぐる諸人物を、回顧的に描いたものであるが、その限りにおいて一応の本物のはこびがあると言えるだろう。

[やぶちゃん注:『室生犀星の「失はれた詩集」』彼の新潮社版全集の目録を見ても、この作品は見当たらない。但し、この年の十月三十日附の日記には、『中央公論に原稿手交、「失はれた詩集」四十枚。』とあった。]

 この作品の優劣は別として、私はこの作家の近業にある興味を持っている。

 つまりこの作家は老齢にもかかわらず、生活者としては東洋的趣味人におちているらしいのにもかかわらず、文章の上ではいっこうに枯淡の趣きにいたらず、妙な感覚性を保ちつづけている点にだ。

 

 私はこの作家の中年の作品は、感覚というよりも言葉で、言葉や文字の効果だけで現実をとらえようとしているところがあって、文学としてはにせものであると今でも思うのだが、いつの間にかそのにせもの性というか擬体というか、そんなものが身体に貼りつき、骨身にからんで、近ごろでは擬体が本体になってきて、ぬきさしならぬものになっているようである。こういう文体をのぞけば、室生犀星という作家が存在し得ないような具合にまでなっている。

 作品の優劣とは関係なく、これは珍重すべきことだろう。

[やぶちゃん注:以上、強く同感する。]

 

 丹羽文雄「彷徨」(群像)は百八十枚の力作であるが、ここに本物のはこびがあるかと言えば、疑問である。にせもののはこびではないが、本物ではなく、そこからちょっとずれた感じがするのだ。私は丹羽文雄の作品を読むたびにそれを感じる。つまりこの作家の作品は、現実に照応した場所で書かれていない。ある枠の中で強引に書かれている。もちろん小説には小説としての枠はあるはずだが、それと別の意味の枠がこの作家にはある。

 この「彷徨」の前半は、前作「業苦」に類似しているが、後半はその主人公に二度も自殺を試みさせるところまで追いつめている。「業苦」で納得できなかったところを、更にこの作で追求したものとも言えるだろうが、そういうやり方を実験だと言えるかどうか。読者の側からすれば、どうもむだだという印象をのぞきがたい。碁にたとえて言うと、一所懸命に考えた揚句、せっせとだめを詰めているという感じがする。小説としての感動がない。それはこの作家の文章のせいかも知れない。正直に言うと、私にはこの作家の文章はひどく読みづらい。

 読者に不親切な文章だと思う。もっとも室生犀星のように、これが丹羽文雄の生理にまでなっているとすれば、いたしかたないことではあるが。

 

 その文体でもって効果を損じている作品の一つに、杉森久英の「山間」(新日本文学)がある。これは猿に変身した主人公を中心として、猿の生態を描いたものである。もちろんある種の寓話として書かれているのだが、こんなふつうの写実的な文体で、言いたいことを完全に言い、読者を納得させるのは、なみたいていのことでない。この作品がなみたいていの域にとどまり、寓意の浅さをのぞかせているのは、作者が文体の選択をあやまったからである。ごまかすと言うと語弊があるが、そこをうまくやるためには、もし私にやらせるなら、小島信夫や安部公房のようなやり方を採用するだろう。かえすがえすも杉森久英は文体をあやまった。

 その小島と安部であるが、それぞれ「声」と「ごろつき」を文学界に発表している。こういう型の作品は、読後ぐんと胸にこたえる時は、本物のはこびがあるんだなと了承するが、そうでない場合は作者が韜晦(とうかい)しているのではないか、という感じを私におこさせる。

 この二作の中「ごろつき」の方は私はよく判らなかった。これは独立した短編でなく、長編の一部じゃないのか。

 

 今月の雑誌では、たくさんの長編が完結し、また来年にかけてつづきつつある。こんなに長編が多いことは、未曽有のことだろう。

 雑誌に長編がすくなく短編ばかりの時期には、長編要望の声があちこちからあがるのであるが、こう長編だらけになると、醇乎たる好短編を要望する声がすこしずつあがりかけているようである。[やぶちゃん注:「醇乎」「じゅんこ」。全くまじりけのないさま。]

 しかし書いている当人たちは、当然のことだが、そういう声に耳をかす必要はなかろう。

 

 「新潮」の十二月号は恒例によって同人雑誌推薦小説特集で、十編の短編がずらりと並んでいる。同誌の「新潮雑壇」でその応募作品の興味ある分類をしているが、それによると応募総数は百二十六編で、その中からの十編だから、競争率は約十二倍になる。通読した限りではこの十編は、率直に言うと、そういう激しい競争に耐え残った作品としては、ひよわ過ぎるという感じがした。

 もっともそれは枚数のせいもあるだろう。二三十枚の短編ではどうしても布置がととのった作品がえらばれ勝ちであって、布置をととのえるためには、どうしても枚数に応じたこぢんまりした材料をえらび、それを手ぎわよくまとめた方が勝ちになるだろう。

 二三十枚からはみ出るような意欲を持った作家は、長編をえらぶだろうし、長編となれば「新潮」掲載の資格をうしなうのである。そういう意味でこれらの作品は、全同人雑誌の代表ではなく、その中のこぢんまり派の代表である。

 

 この十編の中で一番私にこたえたのは「落ちた男」(別所晨三)であるが、これは題材が大いに影響している。私には病的な高所恐怖症があって、そのせいで私はこの作品を読んでいて怖かった。高所恐怖がない人が読むと、大した小説ではないと言うかも知れない。でもこの作品は、私にそういう気持を誘発する程度に、高さというものが描けていると思う。[やぶちゃん注:調べたところ、この小説は南アルプスの知られた難所である屏風岩に挑む登山家を描いたものである。]

 最後にザイルにぶら下った男を墜落させずに、ああいう形で結んだところも、なかなか味があった。お話としては、岩登頂と女を混えた人間関係を、かんたんにからませただけのことであるが。

「桔梗軒」(藤田美代子)はちょっとおとぎ話のような抒情的な小説で、いかにも女らしくそつがない。野心というものはないが、ひとりでたのしんで書いている。

 野心と言えば、人々は同人雑誌を読む度に、とかく野心作を求めたがる。野心作が見当らないと、近ごろの同人雑誌は覇気がないと叱ったりする。

 なぜかと言うと、同人雑誌は文学修業の場、文壇に出るための予備校といった前提があるのであって、そこでそういう意味の野心が要求されるのだろう。

 しかしそういう関係は、現今ではすこし薄弱になってきているのではないか。戦前は同人雑誌で認められて作家になるというのが正道であったけれども、戦後はその正道は一応御破算になった。戦後出た作家の中で、戦前の正道を踏んで出たのより、そうでない方がずっと多いようである。

 それは雑誌ジャーナリズムの変化、文壇内部の変化、師弟関係の崩壊などの原因が上げられるだろうが、根本的には小説そのものの変化が上げられるかも知れない。

 

 すなわち金を出し合って同人雑誌をつくり、そこでお互いに技をみがき合うというやり方が、小説つくりのためにはふさわしくなくなっていると言えるだろう。これは私の断定でなく憶測である。そういう意味で同人雑誌の性格は変るべきであり、また現に変りつつある徴候もある。

 予備校的存在でなく、それ自身で独立した同人雑誌。そんなものがもっと出てもいいだろう。それじゃあ意味がないと開き直られてはそれまでの話だが。

 

「新潮」の同人雑誌推薦小説の筆者たちは、若くない人もいるだろうが、大体において若いと判定して、その若さ、若い生活やその感情が、充分に表現出来ているとは思えなかった。「十五歳の周囲」(三浦哲郎)にしても、「わかい指」(桑山裕)にしても、「鞦韆」(谷口栄)にしても、読めば一応判ったようでいて、どこかかゆいところに手が届かぬような感じがする。若さというものは自らでは描きがたいものだろう。[やぶちゃん注:調べたところ、作品「鞦韆」は「ブランコ」の読みが与えられてある。]

 むしろ中年の立場から、若さの判りがたさを描いた藤枝静男の「瘦我慢の説」(近代文学)の方が、ずっと面白く、かつ共感を覚えた。この作品はとりたてて問題を提出しているわけではないが、行文に妙な魅力がある。作者と題材の間に、一種のゆとりがあるからだろう。

 

 そういうゆとりのない作品に島尾敏雄「のがれ行くこころ」(知性)がある。この作品の後尾に埴谷雄高の理解と愛情にあふれた解説文があり、それにつけ加える何ものも私は持たないが、いくたの危惧を感じさせはするものの、このぎりぎりの場で書かれたこれはやはり、すぐれた作品である。

 しかし埴谷雄高の言の如く「艱難汝を玉にす、とは必ずしも限らない」のであるから、私も島尾敏雄のために切に生活を打開し、ゆとりを取戻すことを祈る。

 

 井上靖の「初代権兵衛」(文芸春秋)はたいへん面白い小説で、山根という主人公が宗近という男の紹介で、百五十円の古茶碗を買う。それを宗近にあずけて山根は帰京するのだが、その茶碗が初代権兵衛作というわけで、だんだん値段がせり上り、ついに百万円になる。そういう茶碗を中心にして、山根や宗近の心理の動きが自在に描かれている。私は貧乏性であるから、早く売ればいいのにとはらはらしながら読んだ。

 案の定最後にはすごい鑑識眼を具えた青年があらわれて、初代権兵衛はたちまち馬脚をあらわして元の百五十円に下落してしまい、私をがっかりさせた。

 まことに練達の手腕で、この作者は茶碗だの何だのと鉱物を媒介にして、人間という動物を踊らせるのに妙を得ていると思った。

 松本清張の「任務」(文学界)は軍隊小説で、軍隊の非人間性を題材としているが、それほど力んだところもなく、くねくねと描き成功している。

「任務」という題名は、最後の部分で死体を担架にのせてはこぶ時、「はじめて私に任務らしい感情が充実しました」から取ったもので、作者はそこに全部の重点を置きたかったのであろうが、そこは成功しているかどうか。

 同じく最後の一言を書きたかったために書いた作品に手塚英孝の「薬」(新日本文学)がある。留置場の中で、道路工夫で治安維持法で逮捕され、病気で弱り果てている金青年に、同房者の沖仲仕の親分がたずねる。「お前さんの言う革命が、もし起ったとしたら、お前さんはその時一体なんになるんだ?」金青年は苦しい呼吸の中から答える。「おれか、そしたら、おれまた、道路工夫やるさ」

 

 最後の一言を書きたかった小説は、古来からいくつでもあるが、それらにくらべてこの作品は、最後の持って行き方、盛り上げ方がうまく行ってないと思う。その一言が読者の全身を震撼させるというところまで行っていない。おれならこういう具合に書くんだがなあ、とこの作品は私をむずむずさせる。

 その他、芝木好子の「夜光の女」(文芸)、村上兵衛「雪の記憶」(近代文学)などにも触れようと思ったが、紙数が尽きた。

 

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