「近代百物語」 巻三の一「野馬にふまれぬ仕合吉」
[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。
底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]
近代百物語巻三
野馬(のむま)にふまれぬ仕合(しあはせ)吉(きち)
攝刕難波は、我が日のもとの大湊(《おほ》みなと)、あきなひの道(みち)、數(かず)を盡し、
「金銀、脚下(あしもと)にころめく。」
とは、此所ぞ、いふならん。
咋日まで、尻からげに、草鞋(わらんづ)[やぶちゃん注:「わらぢ」に同じ。]をしめ、人の供につきし身も、けふは、たちまち、引きかへて、置頭巾(おきづきん)に黑紬(《くろ》つむぎ)、笊籬(いかき)に、盆の蓋(おほ)ひして、豆腐を買ひにゆかれし人も、「奧樣」といふ名のつくは、實(げに)、此土地の事ぞかし。
[やぶちゃん注:「置頭巾」近世、袱紗(ふくさ)のような布を畳んで、深く被らないで、頭に載せるようにした頭巾のこと。
「笊籬」竹で編んだ籠。笊。]
今はむかし、八けん屋のかたほとりに、松屋万吉といふ人、あり。
[やぶちゃん注:「八けん屋」「八軒家船着き場」のこと。現在の大阪市中央区天満橋京町(てんまばしきょうまち)にあった。「大阪市」公式サイトのこちらによれば、『天満橋と天神橋の間の南側は、平安時代の、四天王寺・熊野詣の上陸地点であった。八軒家の地名は、江戸時代このあたりに』八『軒の船宿があったためといわれる。その当時は三十石船が伏見との間を往来して賑わった。明治に入ると』、『外輪船が登場し、所要時間も短縮されたが、鉄道の出現で船による旅客の輸送は終ったが、貨物輸送は昭和』二〇(一九四五)『年ごろまであった』とある。そこには『永田屋昆布本店前』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)とあるのは碑で、碑の写真はこれ(同前のサイド・パネル画像)。]
生得(しやうとく)、あきなひのみちに、かしこく、日夜、東西にはしりて、いとまなき身なれども、月雪花(つきゆきはな)に、心をたのしめ、ふだん、なをざりなふ[やぶちゃん注:ママ。]かたらふ人に、長岡玄安といふ医者ありしが、頃は、やよひの半(なか)そら[やぶちゃん注:三月半ばのいい空模様の意であろう。]なれば、名花、四方よも)に咲(さき)みだれ、万吉も、心うかれ、
『さそふ水も。』
と、おもふおりふし[やぶちゃん注:ママ。]、玄安、案内(あない)し、入り來たり、
「㙒中《のなか》のくはんおん、櫻、色、こく、今をさかりと、聞へしまゝ、いざ、ゝせ給へ。」[やぶちゃん注:「㙒中《のなか》のくはんおん」近場では、天王寺区に高野山真言宗高津山観音寺があるが、周辺に観音を祀るところは、近くに別に二寺を認め、また、ここには「大坂三十三所観音めぐり石碑」もある。]
と、すゝめしかば、
「よくこそ、しらせ給ふものかな。我が胸中をしれる人は、先生なり。」
と出で行きしが、東にあたりて、葛城山、二上山の花ぐもり、かすかに見ゆるも、又なき風情(ふぜい)、野邊は、なたねに黃金(わうごん)をしき、堤(つゝみ)は、杉菜(すぎな)、げんげの色どり、にしきをはれるに、異ならず。
「空に、鳥の音(ね)聞ゆるも、宿(やど)では、ならぬ事ぞ。」
とて、はるかに見やるおり[やぶちゃん注:ママ。]こそあれ、一つの雲雀(ひばり)、そらより、おとし、ため池にとゞまりしに、目をつけ、見れば、あたりの草むら、風もふかぬに、左右に、わかる。
「あら、心得ず。」
と、氣をつくれば、かしらは、女、身は、きつね、二人は、目と目を見あはせて、またゝきもせず、ながめしに、池の藻くずを敢りあげて、うちかづくぞ、と見へけるが、いと艷(うる)はしき女に化(け)し、黑漆(こくしつ)の歯、笑(ゑめ)るに、あらはれ、嬋娟(せんけん)の鬢(びん)、春風(しゆんふう)になびく毛の、はへた事、知つた身さへ、心ときめく顏かたち、しらぬ人の、つまゝるは、もつともぞかし。
[やぶちゃん注:「嬋娟」容姿があでやかで美しいこと。品位があって艶めかしいこと。
「はえた」美しく「映えた」。但し、妖狐が「生えた」「毛」で変じる属性も秘かに掛けているように思われる。だからこそ、以下、直後に「毛」から「眉」毛「に唾して」と続くのである。]
『むりならず。』[やぶちゃん注:「化けるのを見た以上、これは、無理をせずに、無視して行かねばなるまいぞ。」という意であろう。]
と、眉に唾して、ゆきすぐれば、彼の女、あとより、よびかけ、
「わたくしは、河内(かはち)のもの、道ふみまよひ、さぶらふまゝ、たよりよからん所まで、道しるべして、たまはれ。」
と、なみだとゝもに、たのむにぞ、二人は、傍(そば)に立ちよりて、
「さきほどよりの水あそび、いかさま、おかしき事ども。」
と、
「どつ」
と、わらへば、とびのきて、女は、
「はつ」
と、おどろくけしき、
「あら、恥づかしや。」
と、顏、うち赤め、にげんとするを、二人は、引きとめ、
「かくあらはれしうへからは、しばらく、姿を、かへ給ふな。我(われ)、幼少の時よりも、はなしには聞きつれども、目前(もくぜん)、かゝるわざを、見ず。とてもの事に、ねがはくは、一つの不思議を、見せ給へ。」
と、ひとへに望めば、氣のどく顏、
「しからば、あとより、見へがくれに、我がゆくかたへ、來たり給へ。」
と、さきにすゝめば、二人も、ともに、したがひ、あゆむ。
[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、
*
女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])狐
つると
云(い)ふつら
るゝといふ
いづれはつる
にも
勢
ゟ[やぶちゃん注:「より」。]
つら
るゝ
にもせよ
狐(きつね)の緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])は
《左端下に続く。左から右へ。》
こそ
からに
のがれず皆(みな)こゝろ
*
以上は、一寸、難しい。私の推定読みで、書き直すと(〔 〕は私の現代語の補助)、
*
「『女狐(をんなぎつね)〔を〕釣る。』と云ふ。(女狐は)『釣らるる。』〔釣られてしまった〕といふ。いづれは、『釣る』にも〔とは言うのであるが〕、〔女狐が〕勢(いきお)ひより『釣らるる。』〔と言った〕にもせよ、狐の緣は、〔決して〕のがれず、皆、(人は油断した、その)こゝろからにこそ(結局は化かされることになるのである)。』
という意か。「釣る」には、万吉と玄安が、女狐の後に「連れ」て歩くことに掛けていよう。判読の誤りがあれば、御教授下さると、嬉しい。
*
《右側に万吉。持っているのは左の医者玄安の医薬箱であろう。玄安の台詞。》
ちつとおつれ
に
なりましたい
《女狐の、左側三分割の台詞。》
さい
わい
な
ことで
ござり
ます
*]
むかふより、二十歲(はたち)あまりの、当世男(とうせいおとこ[やぶちゃん注:ママ。])、半合羽(はんかつは[やぶちゃん注:ママ。])の旅がへり、堤のへりに、腰、うちかけ、
「姉さま、どちへ。」
と、問ひかくれば、女は、しり目にかヘり見て、
「何、おしやんす。」
と、いふた顏、男、見るより、
「ぞつ」
として、
「どちへ、ゆかんす、送ろかへ。」
と、そろそろ、手など、引《ひき》あひて、南をさして、あゆみゆく。
[やぶちゃん注:「ぞつ」としたのは、言わずもがな、そのあまりの美しさ故である。]
おりふし番家(ばんや)のありければ、おとこ、女の袖を、ひかへ、
「少(ちと)、やすまん。」
と、むりむたい、番家のうちへ、引きいれる。
[やぶちゃん注:「番家」番屋と同じで、主に消防と自警の役割をしていた自身番の詰所のことであろう。昼日中とはいえ、詰めている者がいないというのは?]
女は、
「あれあれ、人がひな。」
といふ聲ばかり、かすかに聞へ、戶を引立《ひきた》て、入《いり》ければ、玄安は退屈して、あたりの家に、まくらをかり、夢路をたどる高鼾(たかいびき)、万吉は、しごくの見物、番小家の樞(くるゝ)の穴より、目も、はなさず、のぞく最中、たれかは、しらず、うしろより、
「コレ、あぶない。」
といふ聲に、びつくり、おどろき、よくよく見れば、野馬(のむま)の尻(しり)のあなに、目を、あて、番家とおもひ、のぞきたり。
[やぶちゃん注:「人がひ」「人買ひ」であろう。女衒(ぜげん)。
「樞の穴」扉の端の上下にある突出部を穴に入れて扉が回転するようになっている「くるる戸」にある隙間・穴。]
[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、
*
狐(きつね)の人を化(ばか)すも
のちは白(しら)ばけ
にて
わかばい
なる者を
はめるは人(ひと)の
心を
見ぬき
たる
せん
さく也
*
「わかばい」は「若輩」で、万吉と玄安を指す。「せんさく」は「詮索」(実は女狐は既にして二人の心を先に読んでいたのである)か。
《右の医薬箱を持つ呆けた目の医者玄安の台詞。》
扨[やぶちゃん注:「さて」。]こまち[やぶちゃん注:狐の化けたそれを「小町」と呼んだか。]
どふなる[やぶちゃん注:ママ。「どうなる」か。]
《馬の尻の穴を覗く万吉の台詞。》
あのおんな[やぶちゃん注:ママ。]
を
むまい[やぶちゃん注:ママ。「美味い」。]事
し
をる
*]
ふしんのあまり、大聲、あげ、玄安を、よび出せば、牛部(うしべ)やより、目をすりすり、よろめき、出でたる、泥まみれ、たがひに、顏を見合せて、あきれて、ことばも、なかりしとぞ。
[やぶちゃん注:「牛部(うしべ)や」「牛部屋」。農家の牛小屋。玄安もすっかり騙されていたという落ちである。
本書の中では、初めて、挿絵と本文の共同作業が見事に成功している。]