「教訓百物語」下卷(その2 河童の真相)
[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。
底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。
本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。
また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた。
読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。]
又、「川太郞」といふものが、ある。江戶では、是れを「かつば[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]」といふ。丹波から西では、「川童(かはら)」といふ。「川のわつば」とは、「川の童(わらんべ)」・「川童(かはら)」といふも、「川太郞」といふも、皆、子供にたとへた名じや。「川の小人」といふ事じや。[やぶちゃん注:「小人」は「こども」と訓じておく。]
扨て、此「川太郞」といふもの、九刕(きうしう)邊(へん)には、沢山にあつて、「川太郞まつり」といふて、數多(あまた)の川太郞が集(あつまつ)て、いろいろの、たわむれして、あそぶといふ事じやが、其やうな遠方へゆかひでも、面(つら)のかはの辺(ほとり)にも、澤山に、居(い[やぶちゃん注:ママ。])ます。どなたも引込(ひきこま)れぬやうに、隨分、隨分、御用心なされませ。
太郞とは、「あほふ」の替名(かへな)じや。
〽𢙣處(あくしゆう[やぶちゃん注:ママ。])へ己が心で引き込まれ身を亡ぼすが皆不孝もの
[やぶちゃん注:「𢙣處」(普通は「あくしよ」)は遊里や芝居町を指す。]
先づ、夏の夕だち水、少し見合せていればよひ[やぶちゃん注:ママ。]に、我(が)が、つよひ[やぶちゃん注:ママ。]から、[やぶちゃん注:「水」所謂、水商売を暗示させるための掛詞であろう。]
「何の此くらひの川を。」
と、己(をの[やぶちゃん注:ママ。])が心から、つひ[やぶちゃん注:ママ。]引込(ひきこま)れ、あたまの皿へ、水が乘ると、あつちへ引き込まれると、千人力(せんにんりき)じや。
是れが、川ばかりじや、ない。
京・大坂、其外、江戶でも、何國(いづく)の浦でも、「川太郞」が多い。
「あそこの御子息は、久しふ、みへぬが。」
とゝへば、
「アレハ、田舍に、一家衆(いつかしう)があつて、預けられて居(い[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])らるゝ。」
「それは。どふした事じや。」
「イヤ、『道(どう)とんぼり』へはまつて居(い)たゆヘ[やぶちゃん注:ママ。]じや。」
といふ。[やぶちゃん注:「道(どう)とんぼり」道頓堀(グーグル・マップ・データ)は、江戸時代から劇場が建ち並び、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた繁華街である。]
又、
「どこそこの手代は、久しふみんが、どうしたのじや。」
と、とふと、
「アノ人は『しゞめ川』へ、つかつて居(い)た。」[やぶちゃん注:「しゞめ川」元は「蜆川(しじみがは)」に同じ。大阪市北区の曾根崎新地と堂島新地との間を流れて、堂島川に合流していた川で、別に「曾根崎川」「梅田川」とも呼ぶ。後に、ここの堂島川北岸に、江戸初期、堂島新地ができ(この附近。グーグル・マップ・データ)、遊女の町として発展。元祿一〇(一六九七)年には、ここに米市場が移されてから諸藩の蔵屋敷が置かれ、米市がたち、現在まで、大阪の経済の中心をなしている。]
又、
「あそこの御内儀は、さられてじやげなが、どふした事。」
と、とへば、
「アリヤあんまり、芝居へ、ばつかり、はまり込んでじやよつて。」
又、
「どこそこの見せが、〆(しめ)て有(ある)。あれは、何事じや。」
「イヤあれは、分散(ぶんさん)ジヤ。今、借金方(しやくきんかた)へ、あつかひ、最中じや。」
「夫れは、マア、近年、はんじやうにみへたが、どうした事じや。」
「イヤ堂嶋の米相場にはまつて居たゆへ[やぶちゃん注:ママ。]じや。」
といふ。
方々(ぼうぼう[やぶちゃん注:ママ。])に、つかる所や、はまる處の「淵」が、ある。少しもゆだんはならぬ。こはひ[やぶちゃん注:ママ。]ものじや。
ケレド遊所(ゆうしよ)でも、米市(こめいち)でも、又、川々でも、むかしから、「川太郞」が引(ひき)ずりに來た事は、ない。皆、こちから、行つて、はまるのじや。
スリヤ、「川太郞」は、銘々、こつちにある。用心さへすりや、はまりは、せぬ。皆、御用心、御用心。
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