「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 諸君の所謂山男 / 「南方雜記」パート~了
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。
なお、本篇を以って「南方雜記」パート部分は終わっている。]
諸君の所謂山男 (書信一節)(大正六年二月『鄕土硏究』第四卷第十一號)
(前略)序《ついで》に申上《まうしあぐ》るは、小生、山人(やまひと)の衣服か何かの事、書きしとき、「衣服を要するやうな山男(やまをとこ)は眞の山男に非じ」と書きしこと有之《これあり》、其眞の山男の意味を問はれたることありしも(『鄕土硏究』第二卷第六號三四七頁[やぶちゃん注:これは「選集」に割注して、久米長目(柳田國男のペン・ネームの一つ)の「山人の市に通ふこと」を指すとある。リンク先で電子化注済みである。])、場合無くて答へずに過申《すごしまう》せし。增賀《ぞうが》上人は、若き時蝴蝶の舞をやらかしたかりしも、一生、其暇なかりしとて、末期《まつご》に其態《わざ》を一寸演じて快く死なれた由。小生『鄕土硏究』の休刊に先だち、この狀を機會として、その「山男」の意味を答へ申上《まうしあげ》置く。『鄕土硏究』に、貴下や佐々木君が、山男、山男と、もてはやすを讀むに、小生らが山男と聞き馴れ居《を》る、卽ち、眞の山男でも何でも無く、ただ特殊の事情より、已むを得ず、山に住み、至つて時勢おくれの暮しをなし、世間に遠ざかり居る男(又は女)と云ふ程の事なり。それならば、小生なども每度山男なりしことあり。又、ぢき隣家に住む川島友吉と云ふ畫人などは、常に單衣《ひとへ》を著《き》、若くは、裸體で、和紀の深山に晝夜起居せしゆゑ、是も山男なり。仙臺邊に、藝妓がいきなり放題に良《やや》久しく山中に獨棲せしことも新聞で讀めり。
[やぶちゃん注:「增賀上人」(延喜一七(九一七)年~長保五(一〇〇三)年)は平安中期の天台宗僧。比叡山の良源に師事。天台学に精通して密教修法に長じたが、名利を避けんがために数々の奇行を演じたことでも知られる。大和多武峰(とうのみね)に遁世して修行に勤しんだ。「名利を捨てゝ、赤はだかに成りて都へ歸り上り給ひし彼の裸は」殊に有名で、私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 裸にはまだきさらぎの嵐哉 芭蕉』に注してある。参照されたい。また、「今昔物語集」の巻第十二の「多武峰增賀聖人語第三十三」(多武(たむ)の峰(みね)の增賀聖人(ぞうがしやうにん)の語(こと)第三十三)が「やたがらすナビ」のこちらで新字であるが、電子化されたものが読め、そこの終りの方に、熊楠が紹介した胡蝶の舞いのエピソードも出るので、見られたい。
「川島友吉」(明治一三(一八八〇)年〜昭和一五(一九四〇)年)は日本画家。号は草堂。田辺生まれ。絵は独習。酒豪で奇行が多く、短気であったことから、「破裂」の別号もあった。熊楠とは明治三五(一九〇二)年に双方の知人の紹介で出逢い、以後、熊楠の身辺近くにあって、菌類の写生の手伝いもしたらしい。大正九(一九二〇)年の高野山植物調査にも同行している。日高の宿屋で客死した(以上は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年刊講談社現代新書)の記載に拠った)。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)+(追加発表「附記」分)」の「補遺」にも登場している。]
そんなものが山男・山女ならば、當國(紀伊)の日高郡山路(さんぢ)村から熊野十津川(とつがは)には山男が數百人もある也。曾て恩借して寫し置きたる「甲子夜話」にも、山中で山男に遭ひ大《おほい》に怖れたるが、よくよく聞き正すと、久しき間、山中に孤居して松烟《しようえん》を燒き居《をつ》た男が、業《ぎやう》を終へて他へ移る所に遇うたのだつたと云ふつまらぬ話あり。今は知らず、十年ばかり前まで、北山から本宮(ほんぐう)まで川舟で下るに、川端(かはゞた)に裸居又は襦袢裸で危坐して、水の踊るを見て笑ひ居る者、睨み居る者など、必ず、二、三人は、ありたり。之に話しかけても、言語も通ぜず、何やら、わからず、眞に地仙かと思ふばかり也。扠《さて》よくよく聞くと、山居久しくして、氣が狂ひし者の、每々、かゝる行ひありと云ふ(アラビアなどの沙漠高燥の地にも、每々、かかる精神病者が獨居獨行する者ありと聞く)。乃《すなは》ち、狂人なり。又、九十餘歲にして、子孫、皆、死に果て、赤顏・白髮、冬中《ふゆぢゆう》、單衣を著《き》、「論語」の文ぢや無いが、簣(あじか)を擔《にな》うて、川を渡りながら、歌い行く者、あり。小生の舟が玉置川(たまきがは)の宿に著くと、其老人は、近道を取り、無茶苦茶に川を渡りあるく故、早く宿に著き、魚を賣りたる金で、一盃、飮み居る。仔細を聞くと、此者、死を求めて、死に得ず、やけ屎(くそ)になり、大和の八木(やぎ)と云ふ處より、一週に一度、南牟婁郡の海濱に出で、網引(あみびき)して、落とせし鰯等をひろひ、件《くだん》のあじかに入れ荷《にな》ひ、むちやくちやに近道をとりて、直ちに、川を渡り、走りありき、賣りながら、八木へ歸るなり、と云ふ。話して見るに、何にも知らぬ、ほんの愚夫《ぐふ》なり。こんな者も、山中で遇はゞ、仙人とか、神仙とか、云ふ人も、ありなん。山男も、此仙人と同例で、世間と離るゝの極み、精神が狹くなり、一向、世事に構はず、里を離れて住む者を「山男」と云ふなら、脫檻囚《だつかんしう》や半狂人の「山男」は、今日も、多々、あるべし。
[やぶちゃん注:「日高郡山路(さんぢ)村」現在の田辺市龍神村のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。ここいらは、南方熊楠のフィールド・ワークの御用達の深山幽谷である。
「熊野十津川(とつがは)」この附近。
『「甲子夜話」にも、……と云ふつまらぬ話あり』巻数も判らず、熊楠自身が「つまらぬ話」と言っているので、探さず、フライング電子化もしない。
「松烟」松材などを不完全燃焼させて作るカーボン・ブラック(炭素の微粉末)。煤(すす)の純度は低いが、安価なことが特色。靴墨や印刷インク等に用いる。
「北山」和歌山県東牟婁郡北山村。中央下方に「熊野本宮大社」を配した。
「あじか」「簣」「もつこ(もっこ)」とも読む。土砂を運ぶための籠。竹などで編まれた籠や笊(ざる)。
「玉置川」奈良県十津川村玉置川。
「大和の八木(やぎ)」奈良県橿原市八木町(やぎちょう)か。橿原市の市役所所在地で、「畝傍駅」のある、完全な市街地である。
「南牟婁郡の海濱」ここ。]
小生らが、從來、「山男」(紀州でヤマオジと謂ふ。ニタとも謂ふ)として聞傳《ききつた》ふるは、そんな人間を云ふに非ず。丸裸に、松脂(まつやに)を塗り、鬚・毛、一面に生じ、言語も通ぜず、生食《なましよく》を事とする、言はば、猴類《さるるゐ》にして、二手二足あるもので、よく、人の心中を察し、『生捉(いけど)らん。』、『殺さん。』と思うときは、忽ち察して去る(故にサトリとも謂ふ)と云ふもので、學術的に申さば、原始人類とも云ふべきもの也。此原始人類とも云ふべきもの、日本に限らず、諸國に其存在說、多きも、多くは、大なる猴類を訛傳《くわでん》したらしく、日本にも、遠き昔は、有つたかも知れず、今日は決して無きことゝ考ふ(但し、今も當郡の三川村・豐原村の奧山などには、此物ありて、椎蕈《しひたけ》を盜み食らふに、必ず、傘のみ、食《くら》ひ、莖を棄てあるなど申す)。「山男」が、人と吼合《ほえあ》ひして吼え負けし者、命を取らるなど申し、近野村には、「うん八」と云ふ男が、自分吼える番に當《あた》り、鐵砲を「山男」の耳邊で打ちしに、「汝は、大分、聲が大きい。」と言うて、消え失せしなど、云ふ。其鐵砲は、神社に藏しありしが、今は例の合祀で、どうなつたか、知れず。「山男」と、この邊で謂ひ、古來、支那の山𤢖《さんさう》・木客《もつかく》などに當てしは、右樣の(假定)動物、「本草綱目」の怪類にあるべきものに限る。
[やぶちゃん注:「三川村」現在の和歌山県田辺市合川に「三川(みかわ)郵便局」が現認出来る。「ひなたGPS」の戦前の地図で「三川村」を確認出来る。
「豐原村」現在は、この地名は残っていないようである。当該ウィキの山岳名から見ると、「ひなたGPS」のこの附近と推定されるが、名は見当たらなかった。三川村のさらに東北の深山である。
「山𤢖・木客」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「木客(もつかく)」と「山𤢖(やまわろ)」を参照されたい。二つ続けて出る。]
貴下や佐々木君の、「山男」の家庭とか、「山男」の衣服とか、「山男」の何々と言はるゝは、此邊で謂ふ「山男」にもあらねば、怪類の山𤢖・木客にも非ず、たゞ人間の男が深山に棲む也。前にも申す如く、深山に久しく棲む人間は、精神が吾々より見れば、多少、變り居る。從つて、擧動も、深山に慣れぬ者には、いぶかしき事、多し。併しながら、其は、やはり、尋常の人間で、山民とか山中の無籍者とか言ふべきもの也。之を眞の「山男」乃《すなは》ち山𤢖・木客と混ずるは間違つて居ると申せし也。山民を見たくば、今日も、西牟婁郡の兵生(ひやうぜ)、日高郡の三ッ又(みつまた)、東牟婁郡の平治川(へいじがは)などへ往けば、見らるゝ。三ッ又の者は、小生方へも、來る。まことに變な人間にて、人の家に入れば、臺所まで、ずつと通り、別段、挨拶もせず、橫柄に用事を言ひ、去る。こんな者を「山男」と悅ぶは、山地に往復したこと無き人のことで、自ら其地に至り、其家に遊ばゞ、言語應對が緩慢なるのみ、人情に、少しも、かわり無きことが、わかる。但し、三ッ又如きは、一村(大字)の者、三人と顏を見合わすこと、なし、という程の寒村にてある也。然れども、それ相應に理屈も言へば、計略もあり、山に住む男故、「山男」と言はゞ、それ迄なれど、かかる者を、「山男」、「山男」、と言いては、例の馬琴(ばきん)などが、江戶市中に起こりし何でも無き事を、江戶で珍しさの餘りに、色々と漢土の事物に宛《あて》て、女の聲する髮結い少年を「人妖」とか、雷聲の少し變わつたのを「天鼓」とか云うて、怡《よろこ》んだ如く、吾輩、每度、自分で山中に起臥した者などに取つては、笑止と云ふを禁じえず候。
[やぶちゃん注:「貴下」これによって、柳田國男宛書簡がもとであることが判明する。
「佐々木君」佐々木喜善のことであろう。
「西牟婁郡の兵生(ひやうぜ)」現在の和歌山県田辺市中辺路町(なかへちちょう)兵生(ひょうぜい)。熊楠御用達の奥深い山間の採集地として、お馴染み。
「日高郡の三ッ又(みつまた)」兵生のさらに北の奥山で、現在の龍神村三ツ又。同前。
「東牟婁郡の平治川(へいじがは)」「ひなたGPS」で示す。現在の田辺市本宮町(ほんぐうちょう)平治川。
『例の馬琴(ばきん)などが、江戸市中に起こりし何でも無き事を、江戶で珍しさの餘りに、色々と漢土の事物に宛て、女の聲する髮結い少年を「人妖」とか、雷聲の少し變わつたのを「天鼓」とか云うて、怡んだ』私は昨年末、瀧澤馬琴著作堂の編著になる「兎園小說」の完全電子化注を一年半足らずで完遂しているが、最もありそうなそこには、調べたが、以上の二話は載らない(記憶もないので、確実である)。他の馬琴の随筆で所持するものや、国立国会図書館デジタルコレクションの検索システムでも探したが、かかってこない。熊楠自身、『馬琴などが』と言っているから、馬琴の著作ではないにしても、どちらか一方はあってよさそうなものだがな、とは思う。どこかで誰かの随筆で見つけたら、追記する。]
小生、八年前、「三番」と云ふ所より、山を、二、三里踰《こ》えて、長野と云ふ所へ下《くだ》るに、暑氣の時故、丸裸になり、鐵槌(かなづち)一つと、蟲捕る網とを、左右に持ち、山頂より、まつしぐらに走り下る。跡へ、文吉と云ふ「沙河(しやが)の戰《たたかひ》」に、頭に創を受けし、屈竟の木引《こび》き男、襦袢裸にて、小生の大なる採集ブリキ罐二箇を天秤棒(てんびんばう)で荷い、大聲、擧げて、追いかけ下る。熊野川と云ふ小字(こあざ)の婦女、二十人ばかり、田植しありしが、異樣の物、天より降《くだ》り來れりとて、泣き叫び、散亂す。小兒など、道に倒れ、起き上がること能はず。小生ら二人、かの人々、遁ぐるを見るに、畫卷《ゑまき》のごとくなる故、大《おほい》に興がり、何の事とも、氣づかず、益々、走り下る(其處《そのところ》、危險にて、岩石、常に崩れ下る故、足を止むれば、自分等(ら)、大怪我する也)。下まで降り著きて、田植中の樣子に氣付き、始めて、それと、我身を顧み、其の異態にあきれたり。それより、いつそのこと、其儘、長野村を通り、田邊近く迄も、其のまゝ來《きた》るに、村の人々、「狂人、二人、揃うて、來たれり。」と騷ぐ。これらは、人居近き處ゆゑ、是で、事、すみたれど、山中で、臆病な者に遇つたなら、必ず、「雷神に、遇つた。」とか、「山男に、逢うた。」とか言ふことゝ存候。現に、「山中で、雷神に逢うた。」など言ひ、「山男を、見た。」など言ふを聞くに、「パツチを、穿ち居りし。」とか、「ハンケチを、提《たづさ》へたり。」とか、胡論(うろん)[やぶちゃん注:ママ。普通は「胡亂」。]なこと、多し。小生自身も、「山男」如きものが、除夜の夕、一升德利に酒を入れ、深山の溪川《たにがは》を飛び越え走るを、見しことあり。實は、深山に籠り仕事する、炭燒きなり。その輩、里へ斬髮《ざんぱつ》に出るを見るに、丸で、狼《おほかみ》如き人相なり。先《まづ》は、右、申し上げ候云々。
[やぶちゃん注:「三番」不詳。山師らの用いるピークの符牒のような気がする。
「長野」現在も「長野」があるが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、もっと北の強力な山間地が含まれることが判る。なお、この戦前図と国土地理院図を見るに、前の「三番」と似ているものに、この長野と、「奇絶峡」という如何にもな名の溪谷を挟んで、西に「三星山」があるのが判る。これは「三番」の一候補としてもよいのではないか? とは思う。
「文吉」西野文吉。詳細事績不詳だが、南方熊楠の助手であった。
「沙河(しやが)の戰《たたかひ》」「日露戦争」中の陸戦の一戦。サイト「日露戦争特別展Ⅱ」の「沙河会戦」を見られたい。明治三七(一九〇四)年十月八日から同月十八日までで、沙河(「しゃか」とも読む)周辺で発生した(リンク先に地図有り。奉天からやや南西位置)。『遼陽を占領・確保した日本軍にたいして、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させます。両軍は』以上の期間に『かけて、沙河付近で戦闘を展開し、双方に大きな人的損害がでました。以後北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、翌年明治』三十八年の『春まで対峙します』とあり、下方により詳細な解説があり、『沙河会戦において、日本軍の参加兵力は12万800人で、戦死者4099人・戦傷者1万6398人の損害をうけました。一方のロシア軍は、参加兵力22万1600人で、戦死者5084人・戦傷者3万394人・行方不明者5868人の損害を出しています。日本の同盟国イギリスの新聞タイムズは、ロシア軍の失敗として、日本の第1軍最右翼に位置した本渓湖等を確保できなかったことを挙げています』とあった。
「熊野川と云ふ小字(こあざ)」不詳。この附近で、この名というのは、不審である。熊野を名に持つ地名は、複数あるが、言わずもがな、ずっとここよりも遙か東である。ただ、この長野地区は東北から「熊野街道」の「中辺路」道が下っている(「ひなたGPS」参照)から、驚いた田植えの婦女が、街道の名を言ったのを熊楠が聞き違えたか、或いは、この近くに「馬我野(ばかの)」「上馬我野」の小字を認める(同前地図参照)ので、これが訛って、そう聞えた可能性もあるやも知れぬ。
「パツチを、穿ち居りし」これは、「バッチ」で、現行、一般には、絹で作られている「股引」を指す。であれば、この「穿ち」はおかしくないか? これでは「うがち」とした読めない。これ、「穿き」の誤記と私は思う。活字の「ち」は反転し、「き」の活字と錯覚するからである。
なお、最後に言っておくと、以上が掲載された『郷土研究』は、編集者柳田國男の個人的都合によって、一ヶ月後の大正六(一九一七)年三月、一方的に休刊されてしまうのである。また、実際には、この一年前の大正五年十二月の龍燈伝説と耳塚の論争の中で、南方と柳の関係は修復不能な破局を迎えてはいたが、謂わば、この熊楠の「お前らの言っている「山男」は「山男」に非ず!」というのは、インキ臭く世間体を第一とする柳田國男に対する、「鼬の最後っ屁」ならぬ、「熊楠の柳田への脳天ゲロ吐き」の痛快な一発であったと言えるように私は思う。実際、これ以降、南方熊楠は、その死に至るまで、柳田國男とはほぼ絶縁状態となるのである。]
〔(增)(大正十五年九月記) 一八五八年板、センドジヨンの「東洋林中生活」一卷一二七頁に、ボルネオのバラム崎で燕窠洞《えんくわどう》を觀た紀事あり。此所の番人は、奇貌の老翁で、土人が遠征中、遠い山中で擒《とら》え[やぶちゃん注:ママ。]た者だ。言語、一向、土人(カヤン人)に通ぜず。されど、今は、少々、カヤン語を解し、予がボルネオで見た内、尤も淸楚たる家に住ませもらひおれ[やぶちゃん注:ママ。]ば、甚だ滿足し居る樣子に見えた、とあり。一八二九年板、ユリスの「多島海洲《ポリネシア》探究記」[やぶちゃん注:ルビは「選集」に拠った。]二の五〇四頁以下には、タヒチ島に、戰爭を怖れて失心し、山中に屛居する稀代な人間の記載、あり。尤も、眞の「山男」とも云《いふ》べきは、一八九一年牛津《オクスフォード》板[やぶちゃん注:読みは同前。]、コドリングトンの「ゼ・メラネシアンス」三五四頁已下に出たもので、髮・爪、長く、全身、毛を被り、栽培を知らず、洞に住《すん》で、蛇やトカゲを食ひ、礫と罟《あみ》と槍を以て、人を捕へ、食ふ、といふ。又、「和漢三才圖會」四十の、九州深山の山童(やまわろ)に、いたく似たのは、南阿バストランドのトコロシで、これは、猴《さる》が、尾、なくて、人の手足あるようなもので、全身、黑く、黑毛、多く、日光と衣類を忌み、寒暑を頓著せず。人を病《やま》しめ、殺す抔、一切の惡事をなすそうだ[やぶちゃん注:ママ。](一九〇三年板、マーチン「バストランド口碑風習記」、一〇四頁。)。
[やぶちゃん注:『一八五八年板、センドジヨンの「東洋林中生活」』不詳。
「ボルネオのバラム崎」ここか。
「燕窠洞」中華料理の高級食材として知られる「燕の巣」が採れる洞窟であろう。アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族アナツバメ属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga などの数種の巣がそれに使われるが、なお、ウィキの「燕の巣」によれば、『アナツバメ類は』『東南アジア沿岸に生息』し、彼らは『極端に空中生活に適応したグループであり、繁殖期を除いて』、『ほとんど地表に降りることはない。睡眠も飛翔しながらとると言われるほどである。巣材も地表から集めるのではなく、空気中に漂っている鳥の羽毛などの塵埃を集め、これを唾液腺からの分泌物で固めて皿状の巣を作る。なかでもアナツバメ類の一部は、空中から採集した巣材をほとんど使わず、ほぼ全体が唾液腺の分泌物でできた巣を作る。海藻と唾液を混ぜて作った巣という俗説は正しくなく、海藻は基本的には含まれない』とあった。
「カヤン人」ダヤク族。ボルネオ島に居住するプロト・マレー系先住民のうち、イスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称異名の一つ。当該ウィキを参照されたい。
『一八二九年板、ユリスの「多島海洲《ポリネシア》探究記」』不詳。
『一八九一年牛津《オクスフォード》板、コドリングトンの「ゼ・メラネシアンス」三五四頁已下』メラネシアの社会と文化の最初の研究を行った英国国教会の司祭兼人類学者であったロバート・ヘンリー・コドリントン(Robert Henry Codrington 一八三〇年~一九二二年)の「The Melanesians : studies in their anthropology and folklore 」(「メラネシア人:人類学と民間伝承の研究」)。「Internet archive」で原本の当該部が読める。
『「和漢三才圖會」四十の、九州深山の山童(やまわろ)』私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖」を参照されたい。
「南阿バストランドのトコロシ」「バストランド」はアフリカ南部、レソト王国の独立以前の名称。「トコロシ」は不詳。
『一九〇三年板、マーチン「バストランド口碑風習記」、一〇四頁』ミニー・マーティン(Minnie Martin)になる ‘Basutoland: Its Legends and Customs’。「Internet archive」で調べたところ、当該原本はあったが、当該頁画像が欠落してなかった。]
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