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2023/05/09

佐々木喜善「聽耳草紙」 六九番 豆子噺(三話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「まめつこばなし」(まめっこばなし)と訓じておく。]

 

    六九番 豆子噺 (其の一)

 

 昔々、或所に爺樣婆樣があつたど。朝マ起きて婆樣ア内を掃き、爺樣土間(ニワ)を掃くと、豆コ一つ拾ふたど、

   婆樣婆樣豆コ一ツ見(メ)ツけたかやえ

   畠さ蒔いて千粒にすベエが

   臼でハタいて黃粉(キダコ)にすベエが

 さう言つて二人で相談コして居ると、豆コがポロツと爺樣の指の間からこぼれて、ころころころツと轉んで行つて、土間の隅(スマコ)の鼠穴《ねづみあな》へ入つてしまつたど。あれアこれアことだ。折角拾つた豆コ失《な》くしたがやい。婆樣婆樣早く木割《きわり》コ持つて來て吳(クレ)申せやと言つて、婆樣が木尻(キニシリ)から持つて來た木割をたないて、その鼠穴を掘りながら、爺樣は段々奧の方へ入つて行つたぢもな、……

[やぶちゃん注:「木尻(キニシリ)」既出既注だが、再掲しておくと、囲炉裏端の末席。横座(主人の座)の対面で、使用人などが座る座を言う。薪をここからくべるので、薪の尻が向くことから生じた呼称。

「木割をたないて」サイト「南部盛岡弁と滝沢弁(澤村果樹園の方言集)」のこちらに、「たなく ・ たなぐ」に「持ち上げる、持つ」とあるので、薪を持って、小さな鼠の穴を掘り起こして広げ、それを繰り返しつつ、地下の奥へと向って行ったことを言うようである。]

   爺々ごろがした豆コウ知らねアか

   爺々ごろがした豆コウ見なかつたかア

 斯《か》う唄ひながら入つて行くと、路の傍らに石地藏樣が居《ゐ》たぢもの。それで爺樣は、もしもし地藏樣シ爺々轉がした豆コ見なかつたますかと訊くと、見たつたども俺が拾つて炒《い》びつて食つたと地藏樣は言つたど。そいぢやよイがア俺ア家さ行くからと言つて、爺樣が歸るべとすると、地藏樣はモツケ(氣の毒)がつて、爺樣爺樣ちよツと待て、それだけのことはしてやるからと言つたど。爺樣はそんだら地藏樣なに敎(オセ)ベヤと言ふと、ほだからさ、これから爺樣が段々奧に入つて行くと、赤え障子コが立つて鼠どアずつぱり(多く)嫁子取《あねこと》り支度《したく》をして居るから、其所へ行つたら唐臼搗きでもしてすけ申《まう》さい。それから又奧に行つて黑え障子コの立つて居る所へ行くと、鬼どアずツぱりいて博突打《ばくちう》ちして居るから、其所に行つたら鷄《にはとり》の鳴く眞似をして金をさらつて來もせアと敎へたちもの……

[やぶちゃん注:最後はガンマ補正をかけても、「・」二つしか見えないが、「ちくま文庫」版で六点リーダとした。

「炒びつて」下関や遠州地方であるが、「炒る」を「いびる」と訛ることがネット上では確認出来た。]

 爺樣は地藏樣に、はいありがとがンすと言つて、奧さ行くと、地藏樣の言つた通り赤え障子コが立つて居る所があるから、ハイおめんとごワりますと言ふと、中から鼠の娘(アネゴ)が出《で》はつて來て、爺樣は何しに來たますと言つたと、爺樣は俺ア此家(コツチ)に嫁子取《あねこと》りがあるぢから唐臼でも搗いて助(ス)けさ來たと言ふと、あれアそれアよい所さ來たます。早く入つて助(ス)けてがんせと言ふから、よしきたと言つて爺樣が内へ上つて見ると、其家の立派なこと、一(イチ)

の座敷には朱膳朱椀に唐銅火鉢《からがねひばち》があつたり、二の座敷にはずツぱり(多く)絹子(キンコ)小袖の衣裝が掛けてあつたり、三の座敷に行つて見ると多勢の鼠どもが、臼に黃金を入れて、ヂヤクリ、ヂヤクリと搗きながら、

   よいとさのやエ

   よいとさのやエ

   ニヤゴといふ聲

   聞きたくねアぢややエ……

 と歌つて居たじもな。爺樣が其所へ行つて唐臼を搗いて助《す》けると、鼠どはひどく喜んで、美しい絹子小袖をズツパリくれてよこしたど。それからまた鼠からもらつた赤い衣物《きもの》を持つて、ずつとずつと奧の方に行くと、黑い障子コが立つて居て、多勢の鬼どが居て、ビツタクタ、ビタクタと博突打ちをして居たから、爺樣は鬼どの知らねアやうに其家の厩桁《うまやげた》の上サ上つて居て、夜中に箕《み》をパタパタと叩いて、

   ケケロウ……

 と鷄の時立てる眞似をしたじもの。すると、鬼どはあれアはア一番鷄《いちばんどり》だが、と言つたぢもの。爺樣はまた暫時《しばらく》經つてから、箕をパタパタと叩いて、

   ケケロウヤエ

 と言ふと、あれアはア二番鷄だがと鬼どは言つていたぢ、爺樣は暫時經つてからまた箕をパタパタと叩いてから、

   ケケロウ、ケケロウ

 と言ふと鬼どは魂消《たまげ》て、それアはア三番鷄だ、夜が明けたらことだツと言つて、錢金《ぜにかね》をそのまゝ其所らさ打散(ブツチ)らかして我先きとワリワリとはア何所さが逃げて行つてしまつたど。爺樣は其時厩桁からソロソロと下りて來て、其金《かね》をみんな持つて來たどさ。そして婆樣として今まで着ていたチヂレ衣物ば脫いで、鼠からもらつた絹子小袖を着て、金をチヤラン、ポランと升に入れてはかツて喜び繁昌して居たど。

[やぶちゃん注:「厩桁」サイト「岩手・けせん 匠の里」の「長屋は旦那と大工の合作」に、『現在の大船渡市内の農家には「長屋」と言って独特に工夫された建物がある。畜舎と農舎がセットされたもので、その時代、長屋門(中門)を造ることをはばかられた人々の創意工夫であろう。その特徴は厩(うまや)の二階梁が出桁(でげた)造りとなっていて、まぐさを与える時に雨露をしのぐようになっている』とあるのが、それらしい。]

 其所へ隣の婆樣が、居たますか、カランコロン、火コたんもれぢやと云つて來て、あれアあれア汝達(ソンダチ)何《な》してそんなに喜び繁昌して居申すやと言つたど。爺樣婆樣は俺は斯ういふ譯で、赤い衣物(ノノ)だのズツパリ金《かね》だのを貰つて來たから、これこれ見てケ申せと言つたど。隣の婆樣は、それアまた何たらケナリ(羨しい)話だべ、それでア俺らも早く家さ歸つて爺樣をそこさやんべえと言つて、ソソクサと歸つて行つたど。そして隣の爺樣婆樣のしたやうに、婆はウチを掃き、爺はニワを掃いたが、どうしても豆コが出て來なかつたぢもな。そこで大きな聲で、婆ア婆ア早くそこの俵(タラ)から豆一つかみ持つて來ウと言つて、婆の持つて來た豆を一つかみ、鼠穴に入れて、そのあとから木割でガツチラ、モツチラと土を掘つて中に入つて行つたど。すると話の通りに路傍に石地藏樣が座つてござつたから、こゝさ豆が轉がつて來なかつたかと訊くと、地藏樣は、あゝ來たつたども俺ア拾つて食つたと言つたじもの。すると爺は、なんたらこと言ふこの地藏野郞、人の豆を拾つて食つたりして、人ウ馬鹿にして居る。その代《だえ》に絹子(きんこ)小袖だの金だのをよこせと言ふと、地藏樣は苦い顏をして、前の爺樣に敎へた通りのことを敎へたぢもの。そこで爺は斯う唄つて行つたぢます。

   俺ア豆を誰(タレ)アぬすんだツ

   俺ア豆の代(ダエ)よこせツ

 暫時行くと、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に赤い障子が立つて、鼠どア、

   よいとさのやエ

   ニヤゴといふ聲

   聞きたくねアぢややエ

 と歌をうたひながら、ジヤクリ、ジヤクリと臼で黃金を揚いて居た。爺が覘《のぞ》いて見ると、前の爺樣の時のやうに、赤い衣物だの、朱膳朱椀だの、金だのがうんとあつたぢ、爺はそれが欲しくなつて、これア猫の眞似したらあの寶物どをみんな取るによいと思つて、ひどく大きな聲で、

   ニヤゴウ

   ニヤゴロツ

 と叫ぶと、今まで明るかつた立派な鼠の館《やかた》が、ペツかりと灯(アカリ)を消した樣に暗くなつて、なんにもかんにも消えてなくなつた。爺はこれは何の事だツと思つて暗(クラ)しま[やぶちゃん注:暗くなった間(ま:部屋)。]を這つて行くと、今度は黑い障子のトガイ(向ふ)でビツタ、カツタと音がするので、これやなんだべと思つて覘いて見ると鬼どが集つて博突打つて居たど。さうだ石地藏から聞いて來た事はこの事だと思つて、鬼どに氣づかれないやうに、ソロツと馬舍桁に這ひ上つて匿れて、夜中に、其所にあつた箕をバタバタツと叩いて、大きな聲で、

   ハア一番鷄ツ

 と奴鳴《どな》つたど。すると鬼どは驚いて、あれア何だツとヒヨウヒヨウ面(ヅラ)[やぶちゃん注:不詳。]になつたど。すると爺はまた此所だと思つて、大きな聲で、

   ハア二番鷄(ドリ)ツ

と奴鳴つたど。すると鬼どはまた、サアあれア何だツ何だツと騷ぐから、爺は今度こそ鬼どを魂消《たまげ》がして追(ゲツ)たくる氣になつて、ますます大きな聲で、

   三バンウドリツ

 と奴鳴つたど。すると鬼どは、何だあの聲は昨夜《ゆんべ》もニセ鷄で俺の金を攫《さら》つて行つた者があるが、今夜も來て居《ゐ》やがる、ええからフン捕(ヅカ)まへろと言つて、どやどやと厩桁に上つて來たど。鬼どは大急ぎで上つて來たもんだから、釣鼻(カギハナ)に鼻の穴を引掛けて中合《なかあひ》にブラ下つたりした者もあつたど。爺はそれを見て、エヘツ、エヘツと大笑ひをしたぢもの、鬼どはいよいよゴセを燒いて[やぶちゃん注:既出。怒って。]、その爺(ヂン)ゴ逃がすなツと、多勢で爺を捕まへて、この爺(ヂン)ゴツ昨夜(ユンベ)も俺ら金取つたツと言つて、打つたり蹴つたりしたど。爺は體中傷だらけにして、赤い血を流し、血ぐるまになつておウいおウいと泣きながら土穴《つちあな》から這ひ出して來たぢます。

 家で待つて居た婆は爺の泣聲を聞きつけて、あれアあれア俺家《おらいへ》の爺樣ど、赤い絹子《きんこ》小袖を着て、あんな歌コを唄つて來るがと着て居たボロチヂレをば火サくべて裸體になつて待つて居たど。そすると爺がそんな有樣で、やツと土穴から這ひ出し、おウいおウい泣いたどさ。ほだからワリ(惡い)爺の血だらけ、ワリ婆のセンタク(衣物)燒きだとサ。ドンドハラヒ、法螺の貝コポウポホと吹いたとさ。

(この話は私の「紫波郡昔話」の(九)の畠打、(二七)の豆子噺にもその要素が出ている。尤も本話は以上の如く二つの素質を持つた話のやうであるが、これは私が最近聽いた通りに記錄してみた。村での話。[やぶちゃん注:ここに丸括弧閉じるがあるが、除去した。]

(一)此部分は他の豆子噺の如く、爺樣に石地藏の膝に上《あが》れ、肩に上れ、頭に上れと謂ふやうに話されるのが普通であるやうだが、話手《はなして》に隨つてその部分は入れなかつた。

(二)この鼠の歌も種々ある。私の家内の知つて居るのは斯うだ。

   猫コニヤゴと言(ヤ)アば

   おら早(ハエ)く逃げるウ

   ケセネ搗アコワイども

   田所の嫁になりたい

   ヂヨエアサア

   ヂヨエアサア

 と謂ふとある。ケセネは穀物、主に稗米《ひえ》のこと、コワイは疲勞である。

 尙他に三戶《さんのへ》地方ではこの鼠の歌を、

   この世の中で

   五十になるべが百になるべが

   ニヤゴといふ聲

   聞きたくねアぢやなア

 と唄つて居たとも謂ふ。そして本話では臼で搗いてゐたものは黃金ではなくて、大凡はケセネである。)

[やぶちゃん注:最後の附記は、全体がポイント落ちで二字下げであるが、長いので、総て引き上げて、ポイントも同じとした。所謂、「鼠の浄土」譚である。小学館「日本大百科全書」から引く。異界を『訪れて財宝を得ることを主題にした致富譚(ちふたん)の一つ。爺(じじ)が落とした団子が穴に転がり込む。追って穴に入るとネズミの国である。機(はた)を織りながら、ネコがいなければ世の中がよいと歌っている。爺は歓迎される。ネコの鳴きまねをするとネズミは逃げる。爺は宝物を持って帰る。隣の爺がまねをするが、さんざんなめにあう。「地蔵浄土」と基本形式が同一で、異郷をネズミの国とするところに特色がある。本来、一つの昔話から分化したものであろう。地下のネズミの世界の説話は』、「古事記」の大国主命の『物語にもある。物語の表現も、団子が転がる場面、ネズミの歌、ネコの鳴きまねなど、技巧的で興味深い』。『動物の国を訪ね、財宝を得て帰り、まねをした人は失敗するという構想は』、「舌切り雀」の話とも『共通する。この類話の「猫の家」は、トルコを中心に、カフカス、ハンガリー、ギリシア、イタリアに分布している。親切な女はネコの家で贈り物をもらい、悪い女は蛇やサソリの入った袋をもらう。ネコがスズメにかわったのが「舌切り雀」である。「猫の家」は継娘(ままむすめ)と実の娘が主人公で、継子』いじめ譚に『なっている。「継子の栗(くり)拾い」はその形を継承して分化した話である。「鼠の浄土」は「猫の家」のネコとネズミが入れ替わった形である。これらは、ヨーロッパに広く分布する「親切と不親切」の系統に属する類型群である。「親切と不親切」は、継母が継子を井戸に突き落としたため、地下の国へ行く話になっており、親切な継娘はネコとスズメに助けられて、そこで』一『年間奉公し、褒美に宝石の入った箱をもらって帰るが、不親切な実の娘は火の入った箱をもらって焼け死ぬという話もある。「鼠の浄土」の発端は「地蔵浄土」と同じく、団子、握り飯など食物をネズミに与えることから始まるが、これはもともと、稲穂を手に入れ、それで食物をつくるという、日本の昔話の語り始めの形式の一つで、「語りの様式」とよぶべき部分である。類例は古く「かちかち山」の赤本』「兎(うさぎ)大手柄」にあり、「猿蟹合戦」の『カニの握り飯や、「舌切り雀」のスズメがなめた糊(のり)も、おそらくその名残(なごり)であろう』とあった。

「紫波郡昔話」は佐々木喜善の本書より五年前の著書(大正一五(一九二六)年郷土研究社刊)。国立国会図書館デジタルコレクションの原本で、「(九)の畠打」はここからで、「(二七)の豆子噺」はここである。

「三戶地方」青森県の旧三戸郡。旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。南で岩手県に接する。]

 

       (其の二)

 昔々ざつと昔、ある所で婆が座敷を掃いてゐたら、豆が一粒落ちてゐた。婆が拾ふべとしたら、豆はコロコロと轉がつて行つた。婆が拾うべと思つて追懸《おひか》けて行つたら、どこまでも轉がつて行くので、

   豆どん豆どんどこまで御座る…

 と云つて追つて行くと、道端の地藏さんのお堂の中で見失つてしまつた。そこで婆は地藏さんに、地藏さん、地藏さん、豆ころがつて來えんか[やぶちゃん注:読み不明。]と尋ねた。處が地藏さんは、おれ喰つてしまつたと云つたので、婆は歸らうとしたら、待つてろ待つてろ、良い事敎へてやると引き留めて、おれの膝の上さ上がれと言つた。婆はとつても勿體なくて上がられえんと言うと、地藏さんはいいから上がれと云ふ。そこで婆がおそるおそる地藏さんの膝さ上つたら、今度は、手のひらへ上がれと言ふ。婆が、とつてもとつても勿體なくて上がられえんと云ふと、いいから上がれと言つた。婆はおそるおそる地藏さんの手のひらへ上がると、肩の上さ上がれと云ふ。婆が又、とつてもとつても勿體なくて上がられえんと云ふと、いいから上がれと云ふので、婆は又おそるおそる肩の上さ上がつた。するとまた、婆や婆や頭の上サ上がれと地藏さんが云ふ。とつてもとつても勿體なくて上がられえんと婆が云ふと、いいから上がれと云ふので、婆はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]地藏さんの頭の上へまで上げられた。すると今度は、梁(ハリ)の上さ上がれと云はれた。婆は相變らず、とつてもとつても勿體なくて上がられえんと云つたら、いいから上がれと云はれたので梁(ハリ)の上へ上がると、地藏さんが云ふ事には、婆や婆、おれが良い事敎えてやる。今に鬼どもが此處さ博突打ちに來つから、そしたらおれが指圖したら、鷄の啼く眞似をしろと敎へた。間もなく鬼共がどやどやとやつて來て、地藏さんの前で博奕を始めた。地藏さんが指圖をしたので、婆は梁の上でコケコツコウと鷄の啼くまねをした。すると鬼どもは、一番鷄が啼いたから急いでやれと云つて、ウンと博突をやつた。地藏さんが又指圖したので、婆は再びコケコツコウと鷄の啼く眞似をしたら、鬼どもは、もう二番鷄だと云つた。地藏さんの三遍目の指圖に婆がコケコツコウとやると、鬼どもはそれ三番鷄だから夜が明けたと云つて、みんな狼狽《あわ》て慌《ふた》めいて、金を澤山置いたまゝ逃げ出して行つた。そしたら地藏さんが、婆や婆、ここさ下りて來いと云はれたので、婆が梁から下りて行くと、其所にある金を持つて來いと云ひつけられた。婆が金を搔き集めて持つて行つたら、地藏さんが、それを持つて早く歸れと言われた。婆はその日からウンと金持になつた。

 そこへ隣の慾たかり婆が來て、あんだ何してこんなに金持になつたのフシやと尋ねた。婆は有りのままにこれこれ斯う云ふ譯で金持になつたと敎へた。すると慾たかり婆は早速家さ歸つて、豆を座敷に轉がして、それを地藏さんの所まで轉がして行つて、地藏さん地藏さん豆ころがて來えんかと尋ねた。地藏さんは何とも返事をしないのに、慾たかり婆は勝手に地藏さんの膝の上へ上がつたり、手のひらへ上がつたり、肩へ上がつたり、頭の上へ上がつたりして、梁の上へ上がつた。そこへきのふのやうに鬼どもがぞろぞろ博突打ちにやつて來た。慾たかり婆はコケコツコウと鷄の啼く眞似を、地藏さんが合圖もしないのに三遍やつて、鬼どもの前へ下りて行つたら、鬼どもはウンと怒つて、さては昨日《きのふ》おれたちをだましたのは此の婆だなと云つて、慾たかり婆を散々にハタいて、血だらけにしてしまつた。

 (仙臺市邊の話。昭和五年五月五日の夜、三原良吉氏の採集されたもの。同氏御報告分の一。)

 

      (其の三)

 或所に爺樣と婆樣があつた。朝(アサマ)、爺樣は庭を掃き、婆樣は家の中を掃いた。婆樣が座敷で豆を一ツ拾つた。爺樣々々豆ツコ一つ拾つたがなじよすべえと言つた。爺樣は戶棚さでも上げておけやと云つた。そこで婆樣はその豆を戶棚に上げて置いた。すると豆がコロコロと轉び落ちて床(ユカ)の節穴へ入つてしまつた。婆樣はあれあれ爺樣、豆ツコア穴さ轉び入つた。なじよにすべえと言つた。爺樣はよしよし俺が入つて取つて來ンベえと言つて、其節穴から入つて行つた。そしてだんだん奧の方に行くと、大きな座敷があつた。其所に小人(コビト)が一人立つて居た。爺樣がその小人の側に行くと、小人は爺樣お前ア鷄の鳴くまねをしろと言つた。そこで爺樣は、

   コケコツコウ!

 と聲高く啼いて見せた。すると小人(コビト)は、爺樣もう一遍やれと言つた。そこで爺樣はますます聲を張り上げて。

   コケコツコウ

 と啼いて見せた。小人はウンなかなか爺樣はウマい。褒美として之れを遣るからと云つてカブレワラシ(火男のような顏の見憎くい子供を…原文。)をくれた。爺樣はこツたらもの、いらねぢやアと言つて、ブン投げやうとしたところが、其童(ワラシ)は細い小さな聲で、投げるなと云つた。それでも爺樣が投げる投げてしまうと言ふと、又カブレワラシが、爺樣投げんなと言つた。それで爺樣も投げるのをあきらめて、豆ツコのことなどは忘れて歸つて來た。

 婆々や婆々や今來たでア、ワラシ子もらつて來たでアと云つた。婆樣は今まで子供が無かつたものだから、ひどく喜んで、なじよなワラシだべなアと思つて、早く見せらアしやいと云ひながら、爺樣の連れて來た童を見ると、なんともかんとも云はれないほど見憎《みに》くくて、火男(ヒヨツトコ)以上もクソもあつたもんぢやない。おまけに足は跛《びつこ》で、體は小人(コビト)の子だからタマゲたもんだ。まるで化物で婆樣も腰を拔かすとこだつた。こんたらガキ家(エ)さ置かれねアと言つて怒るのを、爺樣はまアまア待て待て、せつかく投げるな投げるなと云ふもんを、棄てるわけにもゆくめえと言つて、婆樣をスカして其のカブレワラシを養ふことにした。それから十年經つて、童も餘程大きくなつた。その代り爺樣婆樣の方がだんだん弱つて來た。

 或日、そのカブレワラシが爺樣に向つて、俺も今まで世話になつたが、何も恩を返さなかつたから、家へ還つて親父(オヤヂ)に話して恩を返します。どうか爺樣も婆樣も達者で暮してたんもれと云つて、何處へか行つてしまつた。

 それから爺樣婆樣の家は自然(ジネン)と富んで來て、遂に村一番の長者になつた。

  (この話の筆記者である黑澤尻中學の生徒二甲、
   小野顯氏は話中《わちゆう》の所々を非常に
   氣にされて、爺樣が節穴から入つて行くあた
   りには、此所には節穴から人間が入るなんて、
   少し變だがさうしか敎へられないから仕方が
   無いとか、又終りには之れは話だからアテに
   はならない等の註記をせられて居つた。村田
   幸之助氏御報告の分。)

[やぶちゃん注:「黑澤尻」は旧和賀郡内で、現在は岩手県北上市黒沢尻で、狭いが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、「黑澤町(くろさはじりちやう)」は遙かに広域であり、「黑澤尻中學」というのは、ここで、これは旧「岩手縣立黑澤尻中學校」であり、同校は大正一三(一九二四)年五月一日の開校式が挙行されている(本書の刊行は昭和六(一九三一)年二月)。現在の「岩手県立黒沢尻北高等学校」(グーグル・マップ・データ)である。]

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