「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 天狗の情郞
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。
標題は、本文中のルビにより、「てんぐのかげま」と読む。ご存知ない方のために言っておくと、南方熊楠は、男性の同性愛に対して、非常に強い知的関心を持っている。
なお、「選集」標題後の参照附記の右に『柳田国男「山男の家庭」参照』とある。これは、幸いにも、本年二月の末に、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭』で電子化注済みであるので、まずは、そちら見られたい。]
天 狗 の 情 郞 (大正四年五月『鄕土硏究』第三卷第三號)
(『鄕土硏究』第三卷第一號三六頁參照)
久米君が、予、未見の書「黑甜瑣語《こくてんさご》」から、天狗の情郞(かげま)又、奴(やつこ)と成《なつ》た話を引かれたは、頗る面白い。
[やぶちゃん注:「黑甜瑣語」上記リンク先にも注したが、「黑甜瑣語」は出羽国久保田藩の藩士で国学者であった人見蕉雨(宝暦一一(一七六一)年~文化元(一八〇四)年)の記録・伝聞を記した随筆。柳田が紹介した当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちら(左丁の三行目以降の割注部)で視認出来る。]
川島正久と云ふ和歌山人、高野山の小姓《こしやう》から出身して、諸府縣で警部たり。曾て其上官たりし大浦兼武氏を山縣内務卿に彈劾し、その前、西南役に、後藤純平や西鄕菊次郞氏を調べた等、面白い履歷ある人ぢやつた(其等の書類は、予、借り寫し有る)。此人の話に、「大阪等の監獄で牢頭(らうがしら)に愛せらるゝ美男囚を『奴』と呼ぶ。」と言《いふ》た。天狗の姣童(わかしゆ)と云ふ事、古い淨瑠璃本にも散見したと思ふ。又、何かの繪草紙本で、「山若衆(やまわかしゆ)」とて、一種の姣童が樵夫(きこり)群中にある由、見たと覺える。
[やぶちゃん注:「川島正久」詳細事績不詳。
「高野山の小姓」サイト「み熊野ねっと」の「熊野の説話」の「高野六十那智八十」の記事に、『「高野六十那智八十」という諺がある』。『高野山や那智山では男色が盛んで、老年になっても小姓を勤める者があるという意味。高野が六十で那智が八十なのは、高野紙が一帖六十枚、那智紙が一帖八十枚であることから来た』とあった。
「大浦兼武」(嘉永三(一八五〇)年~大正七(一九一八)年)は官僚・政治家。薩摩藩主島津家分家の宮之城島津家家臣。「戊辰戦争」では薩摩藩軍に参加して、奥羽に出征、維新後に警察官となり、累進して明治八(一八七五)年に警視庁警部補に昇格、明治一〇(一八七七)年の「西南戦争」では「抜刀隊」を率いて功績を挙げ、陸軍中尉兼三等小警部となった。以後、島根県・山口県・熊本県・宮城県の知事、警視総監(第十二代・第十四代の二期)、勅選貴族院議員、逓信大臣、農商務大臣、内務大臣(二期)、『大日本武徳会』会長等を歴任した(詳しくは参照した当該ウィキを見られたい)。
「山縣内務卿」『明治の妖怪』山縣有朋。
「後藤純平」(嘉永三(一八五〇)年~明治一〇(一八七七)年)は明治初期の代言人(弁護士)。明治三年、生地の豊後大分郡で「日田(ひた)一揆」(長州藩脱隊騒動の脱走浪士らによる日田県庁襲撃の策動の影響を受けて、日田郡五馬(いつま)の農民たちが租税増額反対などを要求して蜂起、庄屋宅などを打毀(うちこわ)した事件)を指導し、逮捕される。明治六年に出獄すると、法学を学び、後に大分県中津で代言人となった。「西南戦争」が勃発すると、中津隊を組織して西郷軍に加わったが、鹿児島の城山で降伏、処刑された。
「西鄕菊次郞」(万延二(一八六一)年~昭和三(一九二八)年)は政治家・外交官。当該ウィキによれば、西郷隆盛と龍一族佐栄志の娘愛加那の長子として奄美大島龍郷(たつごう)で生まれ、数え九歳で鹿児島市の西郷本家に引き取られた。十二歳で『アメリカへの留学』し、二年六ヶ月に及んだ『留学生活を終え、帰国』、その三『年後の』十七『歳のとき』、「西南戦争」に『薩軍の一員として参戦』、『延岡・和田越えの戦闘にて』、『右足に銃弾を受け』、『膝下を切断』、『和田越えの戦闘で多数の死傷者を出した薩軍は』、『俵野に陣を移し、今後の動向について軍議を』重ねたが、『その結果、可愛嶽を越えて三田井に抜ける事』となり、『重傷を負っていた菊次郎は、桐野利秋の計らい』によって、『他の負傷兵と共に俵野に取り残』された『その際に隆盛の老僕であった、永田熊吉をつけておいた。熊吉は、負傷した菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道』(つぐみち/じゅうどう)『のもとへ投降した。従道は甥の投降を喜』んだという。川島正久による尋問はこの時のことであろう。以降の事績は引用元を参照されたい。]
古希臘の大神ゼウスが、ダルダニア王トロスの子ガニメーデースの艷容に執著《しふぢやく》し、自ら鷲に化《な》つて天に拉行(つれゆ)き、小姓にしたのは名高い話で、串童(かげま)を拉丁《ラテンご》でカタミツスと云ふ始《はじま》りだ。之に反し、印度では、鷲の一類たる金翅鳥王(こんじてうわう)が美童身(びだうしん)を現じ、某大神(たいしん)(ヴヰシユヌか)に愛せらるゝ談有りしを寫し置《おき》しが、今、見出《みいだ》し得ぬ。金翅鳥王(迦樓羅王(がるらわう))が、邦俗、所謂、烏天狗(からすてんぐ)像の模範たるは、淺草堂、後《うしろ》から見える襖障子(ふすましやうじ)の觀音廿八部衆、其《それ》が、今、無くば、「神佛靈像圖彙」を見れば、明らかだ。「今昔物語」一〇の「聖人犯ㇾ后蒙二國王咎一成天狗語」〔聖人、后を犯して國王の咎(とが)を蒙り、天狗と成れる語(こと)〕は、聖人が女犯《によぼん》して後《のち》、天狗と成《なつ》たので、卷廿には、天狗が女人に化《くわ》して淸僧を嬈(みだ)さんとした話、二つ有る。而して、同卷の「染殿后爲二天狗一被二嬈亂一語」〔染殿の后、天狗のために嬈亂(ねうらん)せられたる語〕の外に、古く、天狗が女犯した譚を聞かぬ。後代の話は、皆な、天狗、頗《すこぶ》る女嫌ひで、靈山聖地へ、禁を破つて登つた婦女が天狗に裂《さか》れたと云ふ(例せば、「新著聞集」崇厲篇(そうれいへん)末章(まつしやう))。女嫌ひと云ひ習はした處から、「天狗の情郞《かげま》」ちう事も出來たゞらう。
[やぶちゃん注:「ガニメーデース」ギリシア神話の飛びっきりの美少年ガニュメーデース(ラテン文字転写:Ganymēdēs)。イーリオス(トロイア)の王子だったとされる。当該ウィキによれば、『オリュムポス十二神に不死の酒ネクタールを給仕するとも、ゼウスの杯を奉げ持つともいわれる。元来は』、『大地に天の雨をもたらす神だったと考えられており、ヴェーダ神話のソーマとの関連も指摘されている』。『日本語では長母音を省略してガニュメデス、ラテン語形でガニメデとも呼称される』とある。
「カタミツス」所持する「羅和辭典」(田中秀央(ひでなか)編昭和三八(一九六三)年十一版研究社刊)によれば、“Catamītus”で、『Ganymedesのラテン名』とあったが、「男色」「陰間」「男娼」の意は載っていなかった。“Ganymēdēs”の項もガニメデのことのみが記されてある。まあ、転用は腑に落ちる。
「金翅鳥王(こんじてうわう)」所謂、仏教で「八部衆」の一尊として、釈迦に教化されて、仏法を守護する天部の天龍八部衆の一尊となった「迦楼羅(かるら)」のこと。「高野山霊宝館」公式サイト内のこちらによれば、『古代インドでは、火や太陽を神格化した神と言われ、巨大な霊鳥でありヘビを常食する鳥王とされていました。またヒンドゥー教では、神々がもっていた不死の霊薬アムリタを奪い、その偉大さを知ったインドラによってアムリタを皆に返すという条件でヘビを食べる力を与えられたと言われています』。『また、迦楼羅の母が龍の母と仲が悪かった事から、龍の仇敵になった、という伝承が生まれたようです』。『その姿は鳳凰』『のように美しく、翼を広げると』、『三百三十六万里もあると語られていたようですが、仏教に取り入れられてからは、鳥頭人身の姿で表されています。また、不動明王の火焔の光背が「迦楼羅焔(かるらえん)」と呼ばれるのも、この鳥が羽を広げた形を擬したものとされています』とあった。
「ヴヰシユヌ」ビシュヌはヒンドゥー教の神。「リグ・ベーダ」では、単に太陽を神格化したものであったが、後世、シバ・ブラフマー(梵天)と並ぶ最高神の地位を占めるようになった。宇宙の維持発展を司り、ラクシュミーを妻とし、巨鳥ガルダに乗る。ラーマ・クリシュナ・仏陀などは、その化身ともされる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。
「其が、今、無くば」今はないとなら。狩野安信筆であるが、この論考が書かれた当時、現存していたかどうかは、不明。この後、旧堂は後の東京大空襲で焼失しているから、現存はしない模様である。
「觀音廿八部衆」千手観音の眷属。当該ウィキによれば、『東西南北と上下に各四部、北東・東南・北西・西南に各一部ずつが配されており、合計で二十八部衆となる』とある。詳しくはリンク先を見られたい。知られたものでは、「摩睺羅(まごら)」、先に注した「迦楼羅」、「乾闥婆(けんだつば)」、「毘沙門天」、「帝釈天」、「金毘羅」、「阿修羅」がいる。
「神佛靈像圖彙」元禄三(一六九〇)年序・跋の「佛像圖彙」の別称。宝暦二(一七五二)年版が「国書データベース」にあり、「觀音廿八部衆」はここから視認出来る。
『「今昔物語」一〇の「聖人犯ㇾ后蒙二國王咎一成天狗語」』ブログで、南方熊楠の「今昔物語の研究」(リンク先はサイト一括PDF縦書版。ブログでは全九分割)の資料として、「今昔物語集」卷第十「聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」を電子化注してある。
「卷廿には、天狗が女人に化《くわ》して淸僧を嬈(みだ)さんとした話、二つ有る」「今昔物語集」巻第二十の「仁和寺成典僧正値尼天狗語第五」(仁和寺(にんわじ)の成典(じやうてん)僧正、尼天狗(あまてんぐ)に値(あ)ふ語(こと)第五」と、その次の「佛眼寺仁照阿闍梨房託天狗女來語第六」(佛眼寺(ぶつげんじ)の仁照(にんせう)阿闍梨の房(ばう)に、天狗の託(つ)きたる女(をむな)、來たる語第六)であろう。それぞれ、「やたがらすナビ」のそれ(新字)をリンクさせておいた。
『同卷の「染殿后爲二天狗一被二嬈亂一語」〔染殿の后、天狗のために嬈亂(ねうらん)せられたる語〕』前の前の注と同じで、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』を電子化注してある。
『「新著聞集」崇厲篇(そうれいへん)末章(まつしやう)』神谷養勇軒編の「新著聞集」の「第九 崇厲篇」(「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)の掉尾にある「女人高野(こうや)山に詣(まふ)て害(かい)せらる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ(単独画像)(第九巻の掉尾。リンク先は非常に読み易い)。なお、たまたま、先に電子化注した、「大和怪異記 卷之三 第三 高野山に女人のぼりて天狗につかまるゝ事」が本話を原拠としているので、未見の方は、是非、読まれたい。]
支那には、「酉陽雜俎(ゆうやうざつそ)」一四に、火髮(くわはつ)、藍膚(らんぷ)、驢耳(ろじ)の飛天野叉(ひてんやしや)が美男に化《くわし》て、村女を古塔中に牽行《ひきつれゆ》き、年久しく夫妻(めをと)たりし譚、有るが、較《やや》、天狗の情郞に相當する話は、予、一つしか知らぬ。椿園(ちんゑん)の「西域見聞錄」四に、カシュガルの西、西馬行卅日、至轄里薩普斯、多妖法邪術、風俗淫惡、男女皆龍陽、其塔里扈魯城内、有一土阜、居城之中央、他國之人、入其城者、一見高阜、輙心神恍惚、必欲登臨、爾後快登之、則必欲至其巓、至其巓、則瞀不知人、逾時始蘇、手握銅錢二文、下體已爲人所汚、西域囘子皆畏而避之、而誤入被姦者、正復不少、但多諱而不言耳、葉爾羌、大阿渾、阿布都哈爾、庫車囘子、阿瓦茲、皆曾遇强暴、人問之、則怒不可解、而飮酒過醉、往々自道其實、而聞者無不絕倒。〔馬にて行くこと、卅日、轄里薩普斯(キリサブス)に至る。妖法邪術、多く、風俗は淫惡にして、男女、皆、龍陽なり。其の塔、里扈魯斯(タリコルス)城の内に、一つの土の阜(をか)有り、城の中央を居(し)む。他國の人にして、其の城に入(い)る者は、則ち、心神、恍惚し、必ず登臨せんと欲(ほつ)す。爾(しか)る後、快く之れに登れば、則ち、必ず、其の巓(いただき)に至らんと欲す。則ち、瞀(めくら)みて、人を知らず、時を逾(こ)えて、始めて、蘇へる。手に銅錢二文を握り、下體は、已(すで)に人の汚(けが)す所と爲(な)る。西域の囘子《かいし》は、皆、畏れて、之れを避(さ)く。而して、誤りて入り、姦(かん)せらるる者、正(まこと)に、復(ま)た、少なからず。但(ただ)、多くは、諱(い)みて言はざるのみ。葉爾羌(ヤルカンド)・大阿渾(だいアホン)・阿布都哈爾(アブドハル)・庫車(クチヤ)囘子・阿瓦茲(アワツ)、皆、曾て、之の强暴に遇ふ。人、之れを問へば、則ち、怒りて解(と)くべからず。而(しか)るに、酒を飮みて過醉すれば、往々、自(みづか)ら、其の實(まこと)を道(い)ふ。而して、聞く者、絕倒せざる無し。〕(以上)。外色(がいしよく)盛行(せいかう)の世には、本邦にも、斯《かか》る怪事が有《あつ》たかも知れぬ。〔(增)(大正十五年九月記) 天狗が女をさらふた話、「甲子夜話」にあり、近頃は、天狗も變つてきた、と笑評しある。〕
[やぶちゃん注:『「酉陽雜俎(ゆうやうざつそ)」一四に、火髮(くわはつ)、……』「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここ(六行目)から視認出来る。
「飛天野叉」所持する「東洋文庫」の今村与志雄氏の訳によれば、『飛ぶように空にのぼり』(それが「飛天」)、『火のような髪、藍(あい)』色の『膚(はだ)、チイチイと音をたてて、耳は驢馬に似ていた。』とあり、「夜叉」に注されて、『『注維摩経』に、「羅什(らじゅう)によると、夜叉には三種がある。一は地にあり、二は虚空にあり、三は天夜叉である」』とあって、『唐代、夜叉に関する説話は多い。「広記」三五六、三五七の二巻に収む。』とある。「広記」は「太平廣記」(北宋期に書かれた前漢以降、執筆当時までの奇談を集成した類書(今で言う百科事典)。太宗の勅命を奉じて李昉(りぼう)ら十二名が九七七年翌年にかけて編纂した。全五百巻・目録十巻)のこと。「中國哲學書電子化計劃」の同巻、「夜叉一」と「夜叉二」をリンクさせておく。後者の「丘濡」(きゅうじゅ:報告した博士の名)が「酉陽雜俎」からのそれである。
「西域見聞錄」清代の乾隆帝の一七七七年に刊行された西域についての地誌・民俗資料。全八巻。著者椿園は官吏で、新疆に十余年滞在した。以上の原文は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの、一八一四年序のものの当該箇所(「卷之四」の「轄里薩普斯」の項)と校合した。訓読では、国名・地方名等は「選集」の訓読文のルビを、一部、参考にした。
「カシュガル」原文は「喀什噶爾」。現在の新疆ウイグル自治区カシュガル地区のカシュガル市(ケシケル市・喀什市)(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「轄里薩普斯(キリサブス)」不詳。ただ、カシュガルの西というなら、現在のキルギスの何となく発音が似ているような「サル=タシュ」という町がある。
「龍陽」「男色」を意味する漢語。「龍陽君(りゅうようくん)が、魏王に君寵の長からん事を乞うたところ、魏王が「誓って、美人を近づけず。」と答えた故事による。
「里扈魯斯(タリコルス)城」不詳。
「囘子」イスラム教(回教)徒のことであろう。
「大阿渾(ダァーアホン)」不詳。「アホン」はペルシア語で、イスラム諸学に通じた人物を意味する。【二〇二三年五月三日追記】私の知人で、台湾出身の日本文学の若き女性研究者(特に近代文学の男色文学を研究対象の一つとされておられる)がおられるが、本篇は電子化注している最中から、彼女が最上の読者と思いつつ作業をし終え、本篇の公開をお伝えしたところ、昨日、感謝のメールとともに、この「大阿渾」と次の「阿布都哈爾」について、以下の情報提供があった。部分引用する。
《引用開始》
なお、藪野様の文章を拝読いたしました後、グーグルで関連情報を調べてみましたら、「阿布都哈爾」と「阿瓦茲」が人名の可能性があることがわかりました。[やぶちゃん注:メールでは、ここに中文サイトの大愚若智の記事「巴茶·拜姿:满洲人和俄国人笔下的内亚男风」のアドレスがある。美少年の絵像にノック・アウトされた!]
葉爾羌からの大アホン.阿布都哈爾さん、庫車からのイスラム教徒.阿瓦茲さん、お二人ともそういう経験がありました。他の人に聞かれたら怒っていましたが、酒が入り酔っ払ったら自らが実情を言いました。
この解釈なら文脈に合うかもしれません。いかがお考えでしょうか。
《引用終了》
とあった。この箇所は訳判らんままに、概ね「選集」の訓読を無批判に安易にそのまま使用したため、これを私が舊国名の羅列と目出度くも思い違いしていたことが、彼女の指摘で鮮やかに見えてきた。されば、本文の訓読文も人名として仮に修正しておいた。情報を提供して呉れた彼女に心から感謝申し上げる(彼女は芥川龍之介の研究でも優れた知見と才能を持っておられ、これからが楽しみな注目している方でもあるのである)。
「阿布都哈爾(アブドハル)」不詳。何となく漢字を眺めていての思いつきだが、新疆ウイグル自治区のトルファン市を想起した。【二〇二三年五月三日追記】前の追記の通りで、人名ととる。
「庫車(クチヤ)」新疆ウイグル自治区のアクス地区にあるクチャ市(庫車市)。
「阿瓦茲(アワツ)」新疆ウイグル自治区のアクス(阿克芬)地区であろうか。【二〇二三年五月三日追記】同前で、人名ととる。
『天狗が女をさらふた話、「甲子夜話」にあり、近頃は、天狗も變つてきた、と笑評しある』事前に『フライング単発 甲子夜話卷之四十九 40 天狗、新尼をとる』で電子化注しておいたので読まれたい。
以上で底本の本文は終わっている。但し、「選集」では以下の「追記」がある。末尾の附記によれば、大正七年九月発行の『土俗と伝説』(第一巻二号)に収録されたものである。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの一九五二年乾元社刊の渋沢敬三編『南方熊楠全集』第六巻(文集 第二)のここから、正規表現で視認出来ることが判ったので、それを元に如以下に電子化注する。本電子化に準じて句読点・記号を追加し、読みも推定で加える。
*
追 記
一度(『鄕土硏究』、三ノ一五五)書いた、金翅鳥王が美童身を現ずる由の出處、見出だし得なんだが、只今、見出でたから、書き付ける。一八四八年出板の『ベンガル亞細亞協會雜誌』十七卷、カンニンガム大尉の「ラダク紀行」五九八頁に、「此邊の高山の絕崖上に高く翔《か》けるラムマァガイヱル(在印度の英人の、所謂、「金鷲(ゴルヅン・イーグル)」)は、この邊(クマオン等)の民、韋紐天(ヰシユヌ)が騎《かけ》るグルウル(「迦樓羅《かるら》」に同じ)なりと信ず。但し、プトレスナットなる雕像《てうざう》には、グルウルを、ヒマラヤ山中の姣童《わかしゆ》の、翼生えた者として居《を》る」と出づ。さしたる事ならねど、虛言いはぬ證《あかし》に確かに出所を表《あらは》し置く。又、古く、天狗が女を犯した譚を聞かぬと言つたが、女犯《によぼん》迄は知らず、天狗が女を掠《さら》へた話は、「甲子夜話」卷四九に見えて、世も澆季になつて、天狗も女人を愛することになり行きたることならむかと、著者靜山侯が、歎息を泄《もら》し居る。
それから方角が轉《かは》つて、「新著聞集」奇怪篇第十の廿四章に、天保四年、中川佐渡守家臣の召使い關内《せきない》なる者、茶店《ちやみせ》で水を飮む。茶碗に最(いと)麗(うるは)しき少年の姿映れるを、奇怪に思ひ、水を捨てゝ、又、汲むに、再《ふたたび》彼《か》の顏、見ゆる故、止むを得ず、飮むと、其夜、關内の部屋へ、式部平内と名乘つて、件《くだん》の美少年、來《きた》る。『表門を、何として通り來るぞ。人にあらじ。』と思ひ、拔打ちに斬り懸くるに、消失《きえう》せる。其翌夜、平内の使者、三人、各《おのおの》、姓名を名乘り、「思ひ寄つて參りし者を、勞《いたは》る迄こそなくとも、手を負はせるは、如何《いかが》ぞや。湯治中《たうじちゆう》なれば、疵、愈え歸りて、報復せむ。」と、いきまく。關内、又、斬り懸くれば、逃去《にげさ》り、後、又も來なんだ、とある。同じ天和の二年に出た「一代男」卷一、世之介十歲、「袖の時雨は、かゝるが幸《さひはひ》」の條など、參看するに、印度・アラビヤ・波斯《ペルシヤ》等と齊《ひと》しく、本邦にも、外色大流行の世には、少年が、進んで念者《ねんじや》[やぶちゃん注:年長者の同性愛者を指す語。対して、年少者は「若気」(にゃけ)と呼ばれた。]を求むるのみか、妖怪までも少年に化けて、同樣の所行に及んだらしい。斯《かか》る世にして、始めて、天狗の情郞《かげま》と成つたてふ人の話も、信《ま》に受けられたるなれ。世態學(ソシオロジイ)や群衆心理學(ソシアル・サイコロジー)、又、精神變態學(サイキアトリイ)を修むる人々の、一考を要することであらうと思ふ。
(大正七年九月、土俗と傳說、一ノ二)
*
『カンニンガム大尉の「ラダク紀行」』イギリスの陸軍技師で考古学者でもあったアレキサンダー・カニンガム(Alexander Cunningham 一八一四年~一八九三年:インド考古調査局(Archaeological Survey of India)の設立に深く関わり、インドの仏教寺院遺跡の発掘に大きく寄与したことで知られる)の‘LADĀK: Physical, Statistical, and Historical with Notices of the Surrounding Countries’ (「ラダック――物理的・統計的・歴史的及び周辺国に就いての通報」:一八五四年刊)かと思ったが、「Internet archive」で初版原本を見ると、「485」ページで同書は終わっており、こんなページは、ない。熊楠はしばしばページ・ナンバーを誤るので、フル・テクストを用いて、幾つかの単語で調べてみたが、遂に見当たらなかった(従って、引用の箇所の単語の意味も注さない)。ラダックは、当該ウィキによれば、『インド北部にある旧ジャンムー・カシミール州東部の地方の呼称』で、『広義には、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた一帯を指し、ザンスカール』及び、『現在』、『パキスタンの支配下となっているバルティスターンを含む。中華人民共和国との国境に接し、アフガニスタン北部にも近い。中国が実効支配するアクサイチンも、かつてはラダックの支配下であった。中心都市はレー』で、『かつてはラダック王国という独立した仏教国であったが』、十九『世紀にジャンムー・カシュミール藩王国に併合された。長らく、行政区画の名称としては使用されていなかったが』二〇一九年十月三十一日に『発効したジャンムー・カシミール州再編成法』『に基づく旧ジャンムー・カシミール州の分割に伴い』、インドの『連邦直轄領となった』とある。ここ。
「クマオン」インドのウッタラーカンド州の西側の地方であるガルワールの別称。この附近。
『「新著聞集」奇怪篇第十の廿四章に、天保四年、中川佐渡守家臣の召使い關内《せきない》なる者、……』これは、ちょっと読まれて、小泉八雲の怪談で知られるそれと判ったか方が多かろう。私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯』を見られたい。以上の原拠(「新著聞集」の「卷五」の「奇怪篇 第十」の「茶店(さてん)の水椀(すいわん)若年(じやくねん)の面(をもて)を現(げん)ず」)も、所持する吉川弘文館随筆大成版を加工データとしつつ、オリジナルに漢字を増やし(一つは原典の歴史的仮名遣が誤っているのを隠すためもある)、一部に読みも添えたものを電子化しえある。その際、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「新著聞集」の原本PDF版(カラー)をも参考視認してある。]
『天和の二年』(一六八二年)『に出た「一代男」卷一、世之介十歲、「袖の時雨は、かゝるが幸《さひはひ》」の條』、井原西鶴の処女作にして浮世草子の嚆矢とされる「好色一代男」。国立国会図書館デジタルコレクションの伊藤祷一編の昭和一五(一九四〇)年共同出版協会刊の「好色一代男・好色一代女」の当該部をリンクさせておく。
「世態學(ソシオロジイ)」sociology。社会学。
「群衆心理學(ソシアル・サイコロジー)」social psychology。社会心理学。
「精神變態學(サイキアトリイ)」psychiatry。精神医学。精神病治療学(法)。]
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