佐々木喜善「聽耳草紙」 九〇番 爺と婆の振舞
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]
九〇番 爺と婆の振舞
昔アあつたとさ、或所に爺(ヂ)と婆(バ)とあつたと、爺は町に魚買ひに行つたジシ、婆(バ)は家(ウチ)に居て、庖丁をもつて何か切る音をトントンさせて居た。其所へ爺樣が魚をたくさん買つて來て、晚(バン)けは娘だの孫どもをみんなみんな呼んでお振舞ひをすべえナと言つた。そして晚景になつたから、娘だの孫だのが大勢來た、爺那《ぢな》婆那《ばな》、喜んでニガエガと笑つたとさ…
(中野市太郞氏、當時尋常小學校生徒。)
[やぶちゃん注:語りが小学生だからと言って、これを微笑ましい「爺と婆の」「振舞」ひととることは私には出来ない。そも、「婆(バ)は家(ウチ)に居て、庖丁をもつて何か切る音をトントンさせて居た」という「何か」とは、何か? 実は本当の「爺(ヂ)と婆(バ)」は殺されており、「切る」対象は本当の「爺と婆の」遺体であり、妖怪の変じた似非の奇体な「爺と婆の振舞」ひに来た「娘だの孫だの」を見て、「爺那婆那、喜んでニガエガと笑つたと」いうホラーとしてこそ感じられる。幼少年期というのは、道徳や善悪に捉われない故に真正のスプラッター・ホラーを容易に創造し得る逢魔が時の闇を持っている。これは幼年期の私自身とその行為と記憶がまさにそうだったから、間違いない。たまたま見つけたイネガル氏のブログ「芸の不思議、人の不思議」の「松谷みよ子『現代の民話』」の紹介記事に、この話が同書に採られており、それについてのイネガル氏の感想も載っている。私のような凄惨なダークまで踏み込んではおられるわけではないが、この話について、『確かに心温まる良い話だ、と感じると同時に、衝撃を受けた。今までに知っているどの笑話のパターンにも収まらないからだ』。『もう一度じっくり読み直してみたら、この話にはオチが無いことに気づいた。つまり、これはそもそも笑話ではないのである。聞き手を笑わせる話を笑話と呼ぶのであれば、ここで笑っているのは登場人物である爺と婆であって、話の聞き手ではないのだ。ふう。危うくだまされるところだった』と記されておられる。例えば、かの白石加代子氏が、この話を朗読されたら、と考えれば、皆さんも納得ゆかれるであろう。なお、次の「九一番 狼と泣兒」の附記に、本篇への言及があるので、参照されたい。因みに、そちらのワン・シーンには――狼が、家の中で泣いている子どもを『食へる』思う――という叙述が出る。]
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