大手拓次 「みづのほとりの姿」 /(詩集「藍色の蟇」所収の同篇とは複数の異同がある)
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。
なお、本篇は詩集「藍色の蟇」に含まれているのだが、原氏のそれは、明かに同詩集のそれ(リンク先は私のブログ単発版。比較されたい)とは、有意な箇所で字空けが異なっており、読点の異同もある。原氏は詩原稿に当たったものと思われるので、特に例外的にここに掲げることとした。
なお、これを以って、『『藍色の蟇』以後(昭和期)』からのチョイスは終わる。
但し、採用しなかった詩集「藍色の蟇」に採用されてある詩篇の総てを、厳密に本底本と校合しているわけではないので、或いは、他にも表現の異同がある詩篇がある可能性がある。以後、時間のある時に、それらもゆるゆると検証し、それが判った場合は、改めて、ここで掲げようと思う。悪しからず。]
みづのほとりの姿
すがたは みづのほとりに うかぶけれど、
それは とらへがたない
とほのいてゆく ひとときの影にすぎない。
わたしの手の ほそぼそと のびてゆくところに
すがたは ゆらゆらとただよふけれど、
それは みづのなかにおちた 鳥のこゑにすぎない。
とほざかる このはてしない心のなかに
なほ やはやはとして たたずみ、
夜(よ)も晝も ながれる霧のやうにかすみながら、
もとめてゆく もととめてゆく
みづのほとりの ゆらめくすがたを。
[やぶちゃん注:詩集「藍色の蟇」との異同を示す。ルビの有無も含めると、八箇所もの異同があるのである。
・第一連第一行目
「すがたは みづのほとりに うかぶけれど、」は、詩集「藍色の蟇」では、「すがたはみづのほとりにうかぶけれど、」で、二箇所の字空けが、孰れも、ない。
・第二連第一行目
「わたしの手の ほそぼそと のびてゆくところに」は、詩集「藍色の蟇」では、「わたしの手のほそぼそとのびてゆくところに」で、二箇所の字空けが、孰れも、ない。
・第二連第二行目
「すがたは ゆらゆらとただよふけれど、」は、詩集「藍色の蟇」では、「すがたは ゆらゆらとただよふけれど」で、句末の読点が、ない。
・第二連第三行目
「それは みづのなかにおちた 鳥のこゑにすぎない。」は、詩集「藍色の蟇」では、「それは みづのなかにおちた鳥のこゑにすぎない。」で、後の方の字空けが、ない。
・第三連第三行目
「夜(よ)も晝も ながれる霧のやうにかすみながら、」は、詩集「藍色の蟇」では、「夜」のルビ「よ」は、ない。
・第三連五行目(最終行)
「みづのほとりの ゆらめくすがたを。」は詩集「藍色の蟇」では、「みづのほとりのゆらめくすがたを。」で、字空けが存在しない。]
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