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2023/06/30

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四二番 坊樣と摺臼

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一四二番 坊樣と摺臼

 

 或時、座頭の坊樣が來て泊まつた。宿語《やどがた》りを夜明まで語つて聽かせたら、をオカタ[やぶちゃん注:「妻」。]に遣ると言はれ、一夜中寢ないでジヨロリコ[やぶちゃん注:不詳。]を語り明して、朝は約束通り娘の手を引いて其家を出た。

 娘が出る時、家では米俵だと言つて、スルス(摺り臼)を背負せてやつたが、村端《むらはづ》れの淵の上に架《かか》つた橋の上へさしかゝつた時、坊樣は娘の手をとつて歎いて、お前もその齡若《としわか》い身空《みそら》で、目もない盲人(メクラ)などのオカタになつて、一生ウザハク(苦勞する)こつたべえ。それよりも一層のこと俺と一緖に此の川へ入つて死なないかと言ふと、娘はそれではさうしますと言つて、背負つて居たスルスを橋の上からザンブリと淵に投げ込んでからそつと傍の葭立《あしだち》の中に入つて隱れて居た。

 ドブンと高い水音が立つと、坊樣はメゴイお前ばかりを何して殺すべえやえと言つて、後から飛び込み、

   お花コや

   お花コや

   死んで行く身は

   いとわなえど

   お花コ流すが

   いとほしい

   ほウい、ほウい

 と言つて流れて行つた。

(この話は家の老母から聽いたものである。又村の萬十郞殿も覺えてゐた。ただ川へ投げ入れたのがスルスではなくて藁打槌《わらうちづち》であつた。「眞澄遊覽記」には…娘がいきなり其臼を出して水の中へどんぶりと投げ込んで、其身は片脇の葭の中に入つて匿れて見てゐると、盲人は泣きながら續いて淵へ飛び込んだ…して身は沈み琵琶と摺り臼は、浮いて流れてしがらみに引つかかる。そこで今でも琵琶と磨臼の例《たと》へあり…と語つたと書いてある(雪國の春)。)

[やぶちゃん注:附記はポイントを本文と同じにして、引き上げた。

「眞澄遊覽記」江戸後期の偉大な旅行家にして多才な本草学者であった菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年:本名は白井秀雄)の自筆本「真澄遊覧記」八十九冊は秋田県有形文化財で国の重要文化財となっている(詳しい事績は当該ウィキを参照されたい)。ネット上では当該篇を探し得ないが、佐々木が引用元としている柳田國男の「雪國の春」(昭和三(一九二八)年岡書院刊)の「眞澄遊覽記を讀む」の「一〇」で、当該部分が視認出来る。真澄が、その話を座頭が語ったを聴いたクレジットを『天明八年二月廿一日夜』と記している。グレゴリオ暦で一七八三年三月二十三日であった。而して、そこで柳田は、一読、私も直ちに連想した『昔の「猿の聟」の作り替へのやうなものであつた』という感想を述べている。「猿の聟入り」も私は猿が可哀そうで大嫌いなのだが、まず、異類婚姻譚であるから、それでも、まだ架空のお伽話として読めなくはないが、本篇は――葭間に隠れた娘の――慄っとするほど冷たい視線――に、もう、全く我慢がならぬのである。

「奇異雜談集」巻第一 ㊃古堂の天井に女を磔にかけをく事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は怪奇談では珍しい二行割注。

 なお、この「磔」の「はつけ」と言う読みはちょっと見たことがないが、磔刑(たくけい)は本来、板や柱に身体を。縛りつけて「張り付け」にした後に、釘や鎗で突き殺すしたことから、「はっつけ」とも呼ばれたが、その「っ」の促音を後に同じ「つ」が続くことから、省略したものだろう。

 なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵をトリミング補正して掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   ㊃古堂(ふるだう)の天井に女を磔(はつけ[やぶちゃん注:ママ。])にかけをく[やぶちゃん注:ママ。]

 

 ある人、語りて、いはく【奇異の儀にもあらずといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、女人《によにん》の執心𢙣業をかたる。】、[やぶちゃん注:この割注の意味が、コーダのシークエンスで明らかになる。]

「中国の事にてあるに、山路(《やま》ぢ)を、とをどを[やぶちゃん注:遙かに。]、ゆきて、林を出づれば、日、すでに暮れたり。

 右のかた、麓をみれば、家里(《いへ》ざと)あり、ひだりの山ぎわに、古堂一宇(《いち》う)あり。

 行きてみれば、昔は結構なりしが[やぶちゃん注:立派な寺院であったようだが。]、今は忘れて、人跡(じんせき)なし。

『麓の里にゆきても、一宿(《いつ》しゆく)あらんも、しらず。たゞ、此の堂に一夜(《いち》や)をあかさん。』

と思ふて、堂にのぼれば、から戶、やぶれて、のこり、佛檀・後門(こうもん)は、かたのごとく、あり。

 いたじきのうへ、かき[やぶちゃん注:「垣」。]の隅によりかかりてきうそくするに、とぜんあまりに[やぶちゃん注:「徒然の餘りに」。することもなく、退屈に過ぎていたので。]、垣(かき)のすきより、外をのぞけば、しんのやみなり。

 麓の里に、火の影、見えたり。

 ときどき、のぞけば、その火、ちかく、きたる。

 又、のぞけば、その火、坂に、登りきたる。

『かいだうをゆく人か。』

と、おもへば、松明(たいまつ)をふりたてて、堂のかたに來(きた)る。

 俗人、たち[やぶちゃん注:「太刀」。]に、はかまのももだち、たかくとりて、堂の後門にゆきて、内に入(いる)。

 はしご、ありて、天井に、のぼる。

 客僧、しづまりて、声をもせず。

 

Haritukenisaretaonana

 

[やぶちゃん注:底本の画像はここ。上部の空白が、却って、猟奇的な「はりつけ」にされた女の猟奇的シークエンスを妄想させて、面白い。]

 

 きけば、男、杖をとつて、

「まだ、死にをらぬか。」

と、いふて、ちやうちやく[やぶちゃん注:「打擲」。]する音、聞こゆ。

 女人のこゑにて、息の底にて、[やぶちゃん注:「息の底にて」は同前の高田氏の注に『息もたえだえに』とある。]

「もはや、おゆるしあれ。」

と、いへば、なほ、ちやうちやくして、杖をすてて、はしごをおりて、後門(うしろど[やぶちゃん注:先の「こうもん」と読みが異なるのはママ。])にいでて、もとのごとくにかへる。

 火のかげ、ほもとの里にゆきて、きゆるをみて、

「我、不審千萬《ふしんせんばん》なり。是を見ずんば、有るべからず。」

とて、藥籠(やくろう)より、火うち・らうそくを、とり出《いだ》し、火を、ともし、天井に、のぼりてみれば、女人を磔(はつけ[やぶちゃん注:ママ。])にかけて、をけり[やぶちゃん注:ママ。]

「これ、何事ぞ。」

と問へば、

「あら、御はづかしや。御僧《おんそう》のりやくに、御たすけ候へ。」[やぶちゃん注:「りやく」「利益」。この場合は、仏教で自分以外の他人や他の対象に対してよいことを施してやることを指す。狭義のそれに対して、対象を自身に向けて行う場合を「功徳(くどく)」と称して区別する場合もある。]

といふ。

 仔細を、

「何事ぞ。」

ととへば、

「人のむしつ[やぶちゃん注:ママ。「むじつ」で「無實」。]を申《まふし》かけて、『外夫(まおとこ[やぶちゃん注:ママ。])をしたり』とて、男を生害(しやうがい)させて、首をとりて、そこに、おかれ候。」

といふ。

 見れば、まことに、首、あり。

 さて、

「今日、幾日(いくか)ぞ。」

と、とへば、

「六日に成《なり》候ほどに、人のかたちにても、なく候。縄(なは)を切りて、おろして給(たび)候へ。」

といふ。

『りやく。』

と思ふて、なはを、きりて、いだき、おろす。

「水飮みたき。」

よし申すほどに、おりて、井(ゐ)をたづね、めんつに汲んで、天井に、のぼりて、あたふ。[やぶちゃん注:「めんつ」「面桶」。「めんつう」とも読む。「つう」は「桶」の唐音。一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物を言うが、後には、乞食の持つ入れ物を指した。「めんぱ」とも。]

 女人、水をのみて、よろこび、

「御僧は、先《まづ》、御くだりあつて、火を御《お》きやし候へ。」[やぶちゃん注:「御きやし」「江戸怪談集」では、本文は『御消やし』となっており、それへの高田氏の注に『「御消し」と同じ。上方語法。』とある。]

といふ。

 我は、まづ、降りて、まづ、女人、しづかに、はしこ[やぶちゃん注:ママ。]を、おりて、

「杖を、つきたき。」

よし、申すほと[やぶちゃん注:ママ。]に、林の中に入りて、杖を、きりて、やる。

「是より、一里ばかり北に、我(わか[やぶちゃん注:ママ。])里、あり。それへ、行きたく候。」

といふ。

 我は、ぶあんないなれども、つれてゆく。女人、案内者(あんないしや)にて、よろよろとして、ゆく。あやうき所をば、手を、ひき、助けて、行(ゆく)。

 やうやく、人家(じんか)あつて、火のかげ、見えたり。

 あかつきなるに、大なる家に、念仏の声、おほく、聞こゆ。

 かの女人、いはく、

「その家は。我里(わがさと)なり。『我は、はや、六日以前に殺されたり。』と思ひて、中陰(ちういん)をする念仏なりと思ふ。御僧、行きて、門をたゝきて、『娘を、連れてきてある。』とおほせ候へ。聞きて、驚くところへ、我々[やぶちゃん注:謙遜の単数の自称。]ゆくべく候。」

と申すほと[やぶちゃん注:ママ。]に、そのごとくにて候へば、家中の人、念仏を、さしおきて、みな、門に出《いで》て、おとろく[やぶちゃん注:ママ。]

 かの女人、うちへ、いりて、しづかに、事のよしを語れば、二人(ふたり)のおや、いだきつきて、なくのみなり。

 さて、

「その御僧(《おん》そう)は神仏《かみほとけ》にて御入《おはい》り候。」

とて、おもての座敷にしやうじ[やぶちゃん注:「請じ」。]入れて、たつばいする事、かぎりなし。[やぶちゃん注:「たつばい」「答拜」で「たつぱい」(現代仮名遣「たっぱい」)と読み、貴族の大宴会である「大饗」(たいきょう)の際などに、身分の高い人が来臨した時、主人が堂を降りて、皆、ともに拝礼することを言った。後に転じて「丁重なお辞儀」の意となった。]

 風呂にいれ、齋(とき)・点心(てんじん)、種々(しゆじゆ)にもてなして、二、三日とむるなり。[やぶちゃん注:「齋」ここは広義の「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時(ひじ)」と称して、午後も食事をした。「点心」前出の高田氏の注に『禅家で、定まった食事の前後に食べる少量の物』とある。]

「一期(《いち》ご)をも、よういく申《まうす》べき。」

といへども、

「しゆぎやうじやなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、とゞまるべからず。」

といふ。

 しゆじゆ、引出(ひきで)もの、ほどせども、すこしも、

「路次《ろし》のざうさなり。」[やぶちゃん注:「ざうさ」「造作」で、ここは「面倒な物」の意。]

とて、一向にとらざるなり。

 かの女は、二、三日、よういきするほどに、もとのごとく、よき姿になりて、眉をつくり、けつかうに、よそほふて、

「かの御僧にいとまごひ申さん。」

とて、おかたへ呼ぶほどに、行きてみれば、見代(みかへ)たるすがたなり。

 いろいろに、礼を、いうて、

「何をも、まいら[やぶちゃん注:ママ。]せたく候へとも[やぶちゃん注:ママ。]、御とりなく候事、曲(きよく)もなく候[やぶちゃん注:「あまりにもそっけないありさまにて御座います」。]。さりながら、このつづらをば、御とり候てたまはり候へ。」

といふて、脇より、小つゝら[やぶちゃん注:ママ。「小葛籠」。]を、上を、よく、ゆひからげたるを、差し出だす。

「いや。中中《なかなか》、路《ろ》しのわづらひにて候ほどに、いや。」

と、いへば、

「心ざしにて候ほどに。道にて、御すて候とも、御とり候へ。」

と、いふほどに、じひ[やぶちゃん注:「慈悲」。]にて助けたる人の事なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、うけとりて、いとまごひして、出《いづ》るなり。

 みなみな、門送りに出《いづ》るを、申《まふし》とめて、ひとり、行《ゆく》なり。

 道、十町[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]ばかりゆくに、此のつゞら、重きゆへに、

『すてん。』

と思ひて、緖(を)を、ときて、ふたを、あけてみれば、物に、つゝみたり。

 又、開いてみれば、かの天井にありつる首(くび)なり。

 くさりて、くさき事、かぎりなければ、はやく、谷になげすてたり。

『此の首をば、何として、もち來たりつるぞや。袖に入れたるにや。さては、外夫(まおとこ[やぶちゃん注:ママ。])一定(《いち》ぢやう)なり。磔(はつけ)にかけられ、うきめを見るにも、こりず、外男《まをとこ》をしうしんして、首をとりて來(きたり)たり。あさましきあくごうしうしんや。』

と、かへつて憎めば、慈悲利益、無になるものなり、と云々。

 

「奇異雜談集」卷第一 ㊂人の面に目鼻なくして口頂の上にありてものをくふ事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は怪奇談では珍しい二行割注。本篇のメインは、知人の知れる人のまた聴きの語りであるので(故に所謂、怪しげな「噂話」「都市伝説」の属性を持っているとは言える)、「……」と行空けを用いて、鍵括弧(「」・『』)の五月蠅い使い分けを簡略した。

 なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵をトリミング補正して掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   ㊂人の面(おもて)に目鼻(めはな)なくして口(くち)頂(いたゝき[やぶちゃん注:ママ。])の上にありてものをくふ事

  予、若年(ぢやくねん[やぶちゃん注:ママ。])のとき、丹後の府中に居住(きよぢう[やぶちゃん注:ママ。「きよぢゆう」が正しいが、しばしばこの発音の歴史的仮名遣では「ゆ」が脱落する。])す。

 津の國の聖道(しやうだう)一人《ひとり》【名、藤姓。】、九世戶參詣のついでに、予が居所(きよしよ)にきたりて、數日(す《じつ》)とうりう[やぶちゃん注:「逗留」。]のとき、語りていはく、

 

……津の國に、一人の聖道あり。日本六十六ケ國をしゆぎやう[やぶちゃん注:「修行」。]するに、國ごとに十日、廿日、とうりうして、その國中のめいしよ・きうせき・大社(たいしや)・驗佛(けんぶつ)、殘りなく、一覽をとげて、かへるなり。……

[やぶちゃん注:「聖道」 岩波文庫の高田氏の注に、『唱導に同じ。唱導師の略。民衆敎化のため説法をして歩く者』とある。

「九世戶」同前で、『京都府宮津市の天橋立の南対岸周辺。当地の五台山智恩寺の文殊堂は、久世戸の文殊、又は切戸の文殊と称され、諸人の信仰を集めた』とある。五台山智恩寺の中の文殊堂はここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「九世戸縁起」(この智恩寺に伝わる古文書)よれば、『九世戸(くせど)は「くせのと」とも称し、智恩寺と廻船橋』『で結ばれた小島との間の海を示す。智恩寺は別称を「九世戸・文殊堂」ともいい、中世、その存在を天橋立と一帯のものとしてとらえ』、「九世戸縁起」の冒頭では「九世の戸あまのはしたてと申は本尊は一字文殊」と記して、その由来を述べている』。『同時に』、この「縁起」は『丹後半島の他の地名の由来も語っており、丹後地方の起源伝説とみなすこともできる地名由来伝承のひとつである』とある。私は一度、友人らと訪れたことがある。

「驗佛」霊験あらたかな仏像。]

 

 その人、かたりて、いはく、

 

……ある國にて【國名、忘却。】、ここかしこ、はいくわいするに、はるかにみれば、大《おほき》なる家、あり。行きてみれば、農作の家なり。甚だ、はんじやうす。牛馬(うしうま)、おほく養なひ、奴婢(ぬび[やぶちゃん注:ママ。])・僕從(ぼくじう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ぼくじゆう」。])、多く群らがる。

 われ、門庭(もんてい)の中に入《いり》てみれば、家主(いへぬし)の內婦(ないふ)、はるかに我をみて、侍女をもつて、我を奧に請(しやう)ず。

 我、しんしやく[やぶちゃん注:「斟酌」。ここは「遠慮して」の意。]して行かず、あひはかりて、先《まづ》、かまどのへんに佇立(たちやすらふ)。

 また、侍女、きたりて、上にしやうず。

 我、行《ゆき》てみれば、つねに客僧をくやうするざしきあり。我、ちやくざす。[やぶちゃん注:「くやう」は「江戸怪談集」版では、『供応』となっており、注で『もてなすこと』とある。]

 わかたう[やぶちゃん注:「若黨」。]、數輩(すはい)ありて、經營す。

 侍女、齋饌(とき)を持ちきたりて、我に供(くう)ず。我、よく受用(じゆよう)す。

[やぶちゃん注:「齋饌(とき)」ここは広義の「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時(ひじ)」と称して、午後も食事をした。]

 齋、おはれる[やぶちゃん注:ママ。]に、內婦、來《きたり》て、

「いづかたの客僧ぞ。」

と問へば、

「我は、上がたのもの。」

と、こたふ。

「上かた[やぶちゃん注:ママ。]の御僧《おんそう》ときけば、御なつかしく候。御覽候ごとく、家は冨貴(ふうき)に候へとも[やぶちゃん注:ママ。]、亭主は、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]の『かたわ人《びと》』にて候。その人の果報にて、斯くのことく[やぶちゃん注:ママ。]栄え候。菩提けちえん[やぶちゃん注:「結緣」。]のために、亭主を見せ申したく候。」

「なかなか見しべし。」[やぶちゃん注:同前で「なかなか」は『ここでは「いかにも」の意』とし。「見しべし」は『「見るべし」と同じ。上方語法』とある。唱導師であるからには、成すべきこととなるので、積極的に受諾したのである。]

といへば、

「さらば、こなたへ。」

とて、內婦、先に行く。我は後に行く。

 その家づくり、廣大にして、びゝしく[やぶちゃん注:「美々しく」。]、きれい・ごんじやう[やぶちゃん注:「綺麗・嚴淨」。]、目を驚かす。

 又、別に小殿(《しやう》でん)一宇あり、らうかを、わたりてゆく。

 なほもつて、けつこう[やぶちゃん注:「結構」。造り。]、きら[やぶちゃん注:「綺羅」。]をみがく。

 內婦、立《たち》かへりて、いはく、

「亭主のかたちを見て、をどろき[やぶちゃん注:ママ。]、にぐる人、あり。くるしからず候。御心得ありて、御覽候へ」

とて、內婦、こししやうじを開くれば、四間(よま)の座敷の中に、座してゐたり。

[やぶちゃん注:「こししやうじ」腰障子。同前の高田氏の注に、『腰板の高さが約三十センチメートルほどの明り障子』とある。「四間(よま)」同前で『二間四方の広さ』とある。約三・六四メートル四方。]

 

Syoudousinohanasi

 

[やぶちゃん注:より鮮明で大きな底本早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はこれ。]

 

 頸(くび)より上は、つねの頭《かしら》の大きさにして、ゆふがほ匏(ひさご)のごとくに、目・鼻・口、なし。[やぶちゃん注:「ゆふがほ匏(ひさご)」瓢箪(ひょうたん)のこと。]

 耳は、兩方に、少し、かたち、ありて、穴(あな)、わづかに、みえたり。

 頭上(づ《じやう》)に、口、あり、蟹の口に、にて、

「いざいざ」

うごく。

 うつは物に、飯(いひ)を入《いれ》て、箸を、そへて、棚に有《ある》を、內方《うちかた》[やぶちゃん注:「内婦」。妻女。]、とりて、

「物を食はせて、みせ申さん。」

とて、箸にて、飯を、頭上の口にをけ[やぶちゃん注:ママ。]ば、

「いざいざ」

と、うごく。

 飯、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]入りぬ。

 ふためとも、見がたし。

 頸より下は、つねの人なり。

 皮膚、さくら色にして、ふとらず、やせず、手あし・指・つめ、美容(びよう)にして、あざやかなり。いしやうは、花色(くはしよく)[やぶちゃん注:「華美」に同じ。]、事をつくす。上には、もぢのすきすわうに、白袴にちぢみを寄せたり。[やぶちゃん注:「もぢのすきすわう」「綟の透素襖」。同前の高田氏の注に、『麻糸をもじって目をあらく織った布で仕立てた、夏用の素襖。室町時代の略儀用上衣』とある。]

 しかしながら、皆、夜(よる)のにしきにして、詮(せん)なし。[やぶちゃん注:「夜のにしき」「夜の錦」で、亭主には目がないので、その金襴もあたら空しいことを言う。]

 久しく見ること、あたはずして、さる。

 かへりて、元の座敷につく。

 内婦も、また、來たりて、いはく、

「ふしぎの人を見せ申して、恥かしく候。夫婦となり候事、我が身の業障(ごつしやう)あさましく候。結緣のため。」

とて、路錢(ろせん)、すこし出《いだ》し、ほどこすを、客僧、とりて去る、と云々……

[やぶちゃん注:先だっての『佐々木喜善「聽耳草紙」 一二五番 駒形神の由來』の注でも述べたが、病態としては、サイクロプス症候群(単眼症)の単眼も失った奇形が想起されるが、単眼も失っていて、しかも口が頭頂にあるというのは、おかしい。しかも、サイクロプス症候群は、脳の形成異常を伴う重症の奇形で、殆んどが死産、若しくは、出生直後に死亡し、長くても一年以内に死亡するようである。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」で単眼症の少年が登場するが、ああいうことは、一寸、考え難い気がする。しかし、この人物は成長しており、首から下は完全な成人男性であるというのは、全く以って信じることは出来ない。奇形を怪談化するものは、どうも、そういったものを考え出すこの唱導師や、或いは、創作した著者自身の猟奇的変態性を感じさせて、そうした向きから極めて残念な感じがするのである。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「秋の江」劉采春

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  秋 の 江

            不 喜 秦 淮 水

            生 憎 江 上 船

            載 兒 夫 婿 去

            經 歲 又 經 年

                  劉 采 春

 

うたてしや秦淮の水

おぞましや江に浮ぶ船

わが夫(せ)をのせて去(い)にしより

流れけむ 年を幾年(いくとせ)

 

   ※

劉 采 春  九世紀初頭。 唐朝、元和年間、薛濤や杜秋娘などと同時代。 越の妓女である。 その囉嗊曲――望夫の歌は古來喧傳されてゐるものである。

   ※

[やぶちゃん注:台湾のサイト「人間福報」のこちらによれば、劉采春は魚玄機・薛濤・李冶と合わせて「唐朝四大女詩人」とされるとあり、清代の儒者で詩人の潘徳輿「養一齋詩話」では彼女の作品を「天下の奇作」と称したとあって、「全唐詩」には彼女の詩が六首収録されているとある。「囉嗊曲」(らこうきょく)は古歌の曲名で、別名を「望夫曲」と言い、「夫をあこがるる歌」の意である。この詩もその総題を持つ一つである。

 推定訓読を示す。

   *

 囉嗊曲

喜ばず 秦淮の水を

生憎(あいにく)や 江上(こうしやう)の船(ふね)

兒(こ)を載せ 夫壻(ふせい)は去れり

歲(とし)を經(へ) 又 年を經(ふ)れり

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四一番 座頭の夜語

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。標題の「夜語」は「よがたり」と訓じておく。]

 

  一四一番 座頭の夜語

 

 或時、座頭ノ坊樣が來て泊つた。其家では久しぶりに𢌞つて來た坊樣だから、珍しい語り物を聽くべえツて、邊り近所の人達を呼び寄せたり、坊樣には、わざわざ餅を搗いて御馳走したりした。

 坊樣もいい氣になつて、うんと餅を食つた。さあそれから段々夜も更けるから、坊樣々々、何か語つて聞かせもセと言つた。村の人達だの隣家の婆樣だのが、坊樣をずらりと取卷《とりま》いて、今に面白い話でも語り出すかと、堅唾《かたづ》を喰《く》ン呑んで待つて居た。だがいくら待つていてもなかなか語り出さぬので、[やぶちゃん注:底本では「ので」で行末で読点はないが、「ちくま文庫」版で挿入した。]其家の嚊樣《かかさま》が、さあさあ早く語つて聽かせもセざと、催促した。

 坊樣はさう責められて、はアそんだら語り申すべえ、

   ああ腹ちえエ

   ああ腹ちえエ

   小豆餅一杯二杯三杯

 と語つた。嚊樣はあきれて、なんたら坊樣、早く語つて聽かせてケでばと云ふと、坊樣はまた、はいはい、

   ああ腹ちえエ

   ああ腹ちえエ

   小豆餅三杯四杯……

 と語つた。嚊樣はなんたら早くしてゲでば、これこんなに近所の婆樣達が來て待つて居るんだからと云ふと、坊樣は、はいはい、

   小豆餅三四杯

   五六杯

   食い申し侯へば

   ああ腹ちえ

   ああ腹ちえエ

 と聲張り上げて語つた。嚊樣は少々聲をとがらして、又しても坊樣はそんなことばかり、早く語つて聽かせもセでばと云ふと、坊樣は向き直つて、はい今語り申したが、聽き取れ申さねえかつたか、宿語《やどがた》り三段繼(ツン)んでも語るなということがあるから、あとは語り申されないと言つた。

 嚊樣はじめ皆は呆れたり腹が立つたり、それよりも切角《せつかく》[やぶちゃん注:「折角」が正しい。]斯《か》うして寄り集まつて來て吳れた、邊り近所の人達に、申譯《まうしわけ》がなくて…なんたら藝無し坊樣だべと繰り返して皆を歸した。

 翌朝、坊樣はなかなか起きなかつた。あんまり起きないものだから、嚊樣が行つて、なんたら坊様だべ、ならひ風と座頭ノ坊は晝立ちと云ふことがあツから、早く起きて飯でも食つて立つてゲじやと言つた。坊樣は、はいはいと言つて、漸《や》つと起き出して、飯膳《めしぜん》に向つた。そして飯を一杯食つてはハイ二杯食つてはハイ、三杯食つてはハイと、四杯目の椀をまた突《つ》ン伸べた。嚊樣はなんたらこつた坊樣、座頭の四杯飯さ、つツかけてもワケンなと云ふことがあるが、坊樣は知らねますかと言つた。すると坊樣は伸べた椀を膳頭《ぜんがしら》に置いて默つて居たが、なに嚊樣、スツケエツタ、モツケエツタ、ノツケエツタ、ソツケエツタといつて、四杯飯食つてもなんともないもんだと言つた。

[やぶちゃん注:「ならひ風」は単に「ならひ」(現代仮名遣は「ならい」)とも言い、特に東日本の海岸沿いの地方で使われた語で、本来は「冬の寒い時期に吹く風」のことを指す。但し、風向きは、その地方によって異なる。]

「奇異雜談集」巻第一 ㊁江州枝村にて客僧にはかに女に成りし事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇のメインは、老人の語りであるので、「……」と行空けを用いて、鍵括弧(「」・『』)の五月蠅い使い分けを簡略した。【 】は怪奇談では珍しい二行割注。]

 

   ㊁江州(がうしう)枝村(えだむら)にて客僧(きやくそう)にはかに女に成りし事并《ならびに》智藏坊の事

 それがし[やぶちゃん注:著者自身。]、若年のとき、江州嶋鄕(しまのがう)に、數日(すじつ)逗留する事あり。

[やぶちゃん注:「枝村」所持する高田衛編・校注「江戸怪談集」(全三冊)上(岩波文庫一九八九年刊)の高田氏の注によれば、『室町から江戸期にかけて東山道沿いに存在した市場・宿場町。現在の滋賀県愛智(えち)郡豊郷町』(とよさとちょう)『上枝・下枝付近』とある。現在は滋賀県犬上郡豊郷町となっている。グーグル・マップ・データ(無指示は以下同じ)のこの附近となる。米原と近江八幡の中間点に当たる。さらに、逆に拡大すると、「上枝(かみえだ)」と「下枝(しもえだ)」の間を旧「中山道」が貫通しており、ここが嘗ての宿場町として栄えたことが地図上からも判明する。]

 諸人、しゆじゆ、雜談の中に、一人の老者(らうしや)、語りていはく、

 

……當国、枝村といふ宿(しゆく)に、むかし、不思議の事あり。

 たとへば、年、廿(はたち)ばかりなる客僧一人、きたりて、一宿す。

 そのかたち、美容(びよう)にして、比丘尼に似たり。言声(ごんせい)・形儀(ぎやうぎ)は、僧なり。

 その夜、大雨(《おほ》あめ)ふりて、翌日も、はれず、かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、日とまりす。[やぶちゃん注:「日とまり」日がな一日、行動せず、宿に滞留することを言う。]

 此の人、夜明けてより、そのすがた、軟弱にして、ぎやうぎ・音声、變じて、女と見えたり。

 亭主、怪しく思ひて、

「いづかたより御とほり候ぞ。」

と、とへば、

「我々は、越後の者なるが、丹波の大㙒原(おのばら)の會下(ゑげ)に、二、三年ありて、いま、越後へくだり候。」[やぶちゃん注:「我々」この場合は自称の謙譲語で単数を表わす。「わたくし」。「大㙒原の會下」同前の高田氏の注に、『会下は禅家などで、師の膝下で修行する所。実際の寺は未詳。丹波國桑田郡大野村といわれた所に、弘治元年(一五五五)―寬保元年(一七四一)に、孤峰禅師中興曹洞宗林昌寺が存在した。現在の京都府北桑田郡京北町字大野付近』とあるのが、その旧跡候補地らしい。今は京都府北桑田(くわだ)郡京北町(けいほくちょう)大野(おおの)。]

と、いへば、亭主、丹波の事、ぶあんない[やぶちゃん注:「無案内」。]なり。ゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、くはしくは、とはず、そのすがた、あやしきゆへに、

「僧にて、御入《おはい》り候か。比丘尼か。」

と問へば、うちわらひて、

「比丘尼にて候。」

と、こたふ。

 亭主、おもしろく思ひて、その夜、ふし所《どころ》に行きて、とりかかれば、じたい[やぶちゃん注:「辭退」。前後は言わずもがな、「体を求めて迫ったので、当初は拒んでいたが」の意。]すれども、つひに、したがふて、嫁宿(かしゆく)す[やぶちゃん注:共寝・同衾すること。]。常のごとし。

 亭主、先婦を失ひて、やまめ[やぶちゃん注:「やもめ」に同じ。]なるゆへに、

「さいはひの事なり。夫婦となり、これにとめ申《まうす》へし[やぶちゃん注:ママ。]。」

といへば、比丘尼、りやうじやう[やぶちゃん注:「領承」。]す。

 すなはち、つつみて、髮をながくす。[やぶちゃん注:頭を剃っているので、それを布で包んで隠し、髪が伸びるのを待ったのである。]

 ほどなく、くわいにんして、男子(なんし)を生(しやう)ず。

 やしなひて、好(よき)子を、えたり。

 その子、十二、三の時、道者(だうしや)十人あまり、此里につきて、一宿を、此家にさだむ。[やぶちゃん注:「道者」この場合は、見た目で広義の「一般の修行者・巡礼者」を指す。]

 みれば、みな、僧衆(そうしゆ)なり。

 ひとり、仁(じん)たる老僧あり。[やぶちゃん注:「仁(じん)たる」高徳な。]

 亭主、ちそう[やぶちゃん注:「馳走」。]し、洗足(せんそく)を、まいらせ、座敷を、はいて、請(しやう)じいれ、やすめ申し、茶をすすむ。

 その子、いでゝ、給仕す。すなはち、非時(ひじ)を、調へ、すすむ。[やぶちゃん注:「非時」ここは広義の「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時」と称して午後も食事をした。]

 亭主、旅人の僕從(ぼくしう[やぶちゃん注:ママ。])に問ふて、

「いづかたより、御とをり[やぶちゃん注:ママ。]の衆ぞ。」

と、いへば、

「是は、丹波大㙒原會下(たんばおのばらゑげ)の長老にて御座候。」

と、いへば、此のよしを、内婦、聞《きき》て、おほきに驚き、氣色(きしよく)、へんじ、たつて[やぶちゃん注:「立つて」。]、かきのすき[やぶちゃん注:「垣の𨻶」。但し、同然の高田氏の注では、『ここでは室内を仕切る障子、ついたての類』を指しているとされる。]より覗けば、

「まことに。その長老にて、おはしますよ。」

と、いふて、なみだを、なかす[やぶちゃん注:ママ。]

 ともしびを出《いだ》す時分に、内婦、

「此の長老樣は、見しり申候。出《いで》て、相看(しやうかん)申《まふし》たく候。」[やぶちゃん注:「相看」同前で高田氏注に、『禅宗で「面会」の意の語』とある。]

といへば、亭主、

「もつとも。しかるべし。」

といふ。

 内婦、よそほひを改め、あんないを啓(けい)し[やぶちゃん注:申し上げ。]、子息を先に立てて、長老の御まへに出て、

「よく御げかう候よ。」

と申せば、長老のことばに、

「此里、家、おほしといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、是に一宿する事、きゑん[やぶちゃん注:ママ。「機緣」。]にて候。」

と、おほせらる。

 内婦、なみだを流し、やゝ有《あり》て、和尚の御前近くまいり[やぶちゃん注:ママ。]て、申す。

「みづからをば、御見しり有るまじく候。和尚樣をば、よく見しり申し候。

 みづからは、ゑちご[やぶちゃん注:ママ。]の国より、十八のとし、のほり[やぶちゃん注:ママ。]て、御寺に、三年、沙弥(しやみ)を經(へ)候。名をば、何と申して、洒掃(しやさう)をいたし、古則法問(こそくはう[やぶちゃん注:ママ。仏教用語では「ほふ」が正しい。]もん)を糺明し、夜話(やわ)坐禅、をこたる[やぶちゃん注:ママ。]事なく、つとめ申しさふらひしが、故鄕(こきやう)に所用ありて、請暇(しんか)申して、まかり出で候。京へのぼり、江州にわたり、枝村につきて、此の家に一宿し候。その夜、夢に、『女になる』と思ふて、夢さむれば、男根(なんこん)、なくなりて、女根(によこん)になり候。心、うかうかとして、ふしんながら、ふかく怪しむ心もなくて、夜、あけ候。その夜、大雨ふりて、翌日も、はれざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、逗留し候。心も、声も、女になりて候。[やぶちゃん注:「沙弥」同前の高田氏注に、『出家した新学年少の者で、具足戒を受けるために修行中の者、あるいはその期間』とある。「洒掃」「さいさう」とも読む。「水を注ぎ、塵を払うこと。掃除の勤めをなすこと。「古則法問」同前の高田氏注に、『禅宗修行者が瞑想すべき先人の敎えと、仏法についての問答と』とある。「夜話」禅宗で、夜、修行のためにする訓話。「古則」は一般に禅の「公案」とともに用いられるが、「公案」普通は「問答」或いは「答え」の意であるから、この「古則」というのは、「古くからある禅の命題」の意と採れる。「請暇」同前の高田氏注に、『禅家で、十五日以内の外出許可を求め他行すること。十五日を過ぎると籍を拔くことを原則とした』とある。]

 亭主、抑留して、夫婦のけいやく[やぶちゃん注:「契約」。]をなすゆへに、今迄、十五年、此の家にありつき候。もと僧にてありしことをば、亭主にかくし、今に、かたらず候。抑(そもそも)かくのごときの事、先例もある事に候や。「變成男子(へんじやうなんし)」といひ、あるひは、「轉女成男(てんぢよじやうだん)」と聞きしに、我々は、男身(なんしん)、にはかに變じて、女身《によしん》となり候こと、あさましき進退、業障(ごう[やぶちゃん注:ママ。]しやう)深重(じんぢう)に候。」[やぶちゃん注:「變成男子」「轉女成男」女性は如何に男性の僧と等しい厳しい守戒・修行・布施を成し遂げても、一度、死んで男性に生まれ変わって同様の行為をしない限り、極楽往生は出来ないという、原始仏教時代からある誤った強烈な女性差別である。釈迦はそんなことは言っていない。]

と申せば、和尚のいはく、

「闡提半月二根無根(せんだいはん《げつに》こんむこん)のたぐひになるは、世に多きものなり。」[やぶちゃん注:「闡提半月二根無根」同前の高田氏の注に従えば、「闡提」は『佛敎で、到底成仏しえぬ者である』『身』を言い(真の教えを実際には信じておらず、ひたすら名聞利養を欲求し続ける者の意)、「半月」は医学的に男女両性器を具有する『半陰陽の者』を指し、「二根無根」は『男根と女根(女陰)の二根いずれも持たない者』を指すとある(一部に私が補塡した)。「二成」男女の生殖器を一体に共に具えている両性具有者。]

と、のたまへば、内婦、

「いや、二成(ふたなり)にては、なく候。僧のときは、男根(なんこん)、つれのごとくにして、別義[やぶちゃん注:具合の悪いこと。]なく候。女になりては、女根《によこん》つねのことく[やぶちゃん注:ママ。]にて、べつぎなく候。たゝ[やぶちゃん注:ママ。]今、和尚にしようかん[やぶちゃん注:前に出た「相看」。]申して、むかしにたちかへるこゝちして、たつとく有がたく、思ひたてまつり候。」

とて、發露涕泣(はつろていきう[やぶちゃん注:ママ。])すれば、和尚、示(しめす)に頌(しゆ)をつくりていはく、[やぶちゃん注:「發露涕泣」高田氏注に、『わっと涙を流して泣くこと。發露は心の中をあらわす意』とある。「頌」同前で『伽陀』(かだ:サンスクリット語「ギャーター」の漢音写)『のこと。経文の字をとって三十二字にするものと、四句をつくるものとがあり、後者を特に頌と呼ぶ。法義を述べたり、佛德を讃嘆するもの』とある。なお、以下の「頌」はまず、返り点のみを附したものをまず示し、その後に〔 〕で訓点に従って読み下したもの(一部に送りがなを挿入した)を一段で示した。仮名遣は総てママである]

   天地異法生  人五薀假合

   鷹依日成鳩 雀入水成

   〔天地 異法(いほう) 生(しやう)ず

    人(ひと) 五薀(ごうん) 假(かり)に合(がつ)す

    鷹 日(ひ)に依(よ)つて 鳩(はと)に成り

    雀(すゝめ) 水に入つて 蛤(はまくり)に成る〕

 その時、ざしきのくはし[やぶちゃん注:「菓子」。]の、のこりの、山のいも、ありしを、和尚、ゆびさしていはく、

「やまのいもの、うなぎとなれるがごときぞ。これ、みな、先例なり。うれふること、なかれ。たゞ、汝が、いにしへ、知るところの、古則話頭(こそくわとう)、よく臆持(おくぢ)して、わするゝ事なく、單々(たんたん)に截斷(せつだん)せば、何のざいしやうしんぢう[やぶちゃん注:「罪障深重」。]か、あらんや。心やすくおもふべし。」[やぶちゃん注:「話頭」高田氏注に、『禅宗で、古則・公案の一節。または、その一則』とある。]

と、のたまへは[やぶちゃん注:ママ。]、内婦、しうるい[やぶちゃん注:「愁淚」。]をはらし、㐂悅大悟(きえつだいご)して、礼拜(らいはい)をなして去(さり)ぬ。

 その同行の中の一僧、いでゝ、和尚にとつていはく、[やぶちゃん注:同前で高田氏は『不詳。「によつて」の誤刻か』とされる。私の底本を見ると、確かに「とつて」なのだが、眺めていると、「つ」の崩しは「川」の崩し字なのだが、これの中央の部分を波打たずに書いた場合、「ひ」「い」の崩しにかなり近く見えるように感じた。とすると、「とひて」「といて」で「問ひ(い)て」の可能性もあるやに思われた。]

「いまの五言一頌(ごごんいちじゆ)の垂示(すいじ)、何のいはれぞや。」[やぶちゃん注:以下の和尚の台詞中に漢文部が出現するが、先の「頌」と同じ処理をした。]

 和尚、解(げ)していはく、

「肉身(にくしん)は、地水火風空の五薀(うん)、かりに和合して、実(じつ)なる物にあらざるなり。又、本來、空の處に、天地(てんち)、出現して住(ぢう)する、これ、異法なり。異法の性《しやう》によつて、異法の萬物(ばんぶつ)を生ず。異法の氣にしたがつて、異法の萬物、轉變(めぐりへん)ずるなり。葵藿(あをひ[やぶちゃん注:ママ。])は、日にむかうて、轉(めぐり)、芭蕉(ばせを)は雷(かみなり)をきいて、長(のぶる)。それ、目(め)、なふして、日を見、耳、なふして、雷をきく。これ、みな、異法の氣のいたす所なり【「涅槃經」巻三十二に見《みえ》たり。】。異法の變にあづからざるものは、たゞ本來の佛性《ぶつしやう》なり。おなじき卷にいはく、『如來常住无ㇾ有變易、一切衆生悉有佛性〔如來、常住にして變易(へんやく)有ること无(な)し。一切衆生(いつさいしゆじやう)、悉(ことごと)く佛性有り〕云〻。七十二候(《しちじふに》こう)を按ずるに、五日を一候とす。七十二候は、すなはち、一年の日數(《ひ》かず)なり。はじめ、立春よりして、一候一候に、萬物、轉變(てんべん[やぶちゃん注:ママ。])するなり。二月の節(せつ)、第三候、五日の間に、鷹、變じて、鳩となり、九月の節、第三の候、五日の間に、雀、水に入つて蛤となる。かるがゆへに、日による、と、いふなり。七十二候に萬物變ずる事、おほき中に、此の二か条、『僧の女になれる』たぐひなるゆへに、これをいへるなり。七十二候は、人、知らざるなり、山の芋の、うなぎとなるをば、世俗、みな、これを知るゆへに、これを引きて、もつて、たとへとするなり。是、僧、變じて、女になれるの先例なり。」[やぶちゃん注:「五薀」サンスクリット語「スカンダ」の漢訳。「蘊」は「集合体」の意。色(しき:物質)・受(印象や感覚)・想(知覚や表象)・行(意志などの心の作用)、識(心)の五つを指し、総じて、有情(うじょう)の物質性と精神の両面に亙る要素を指し、因縁によって生ずるところの有為(うい)法を言う。同時に人間の心身環境全体をも示す。「五陰」(ごおん)とも言う。「七十二候」これは古代中国で考案された季節を表わす方式の一種で、本来は仏教とは関係がない。二十四節気(戦国時代(紀元前四世紀)に発明された四季・気候などの視点で地球上の一年を仕分ける方法)を、さらに約五日毎の三つに細分した期間の総体を言う。当該ウィキによれば、『各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。中には、「雉入大水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている』。『古代中国のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度か変更されている。 日本でも、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成された。現在では』、明治七(一八七四)年の『「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われている。俳句の季語には、中国の七十二候によるものも一部残っている』とある。リンク先には一覧があるので見られたいが、それによれば、ここで挙げている「鷹化爲鳩」は中国の「宣明暦」のもので、「啓蟄」の「末候」で旧暦二月の前半の終りの方で、「雀入大水爲蛤」も同前で「寒露」の「次候」で旧暦八月末から九月初めに相当する。]

と云々。

 それがし[やぶちゃん注:冒頭に出たこの話をしている老人。]、此のざうだん[やぶちゃん注:「雜談」。]を聞きて、まことしからず思ふゆへに、人に語ること、なし。

 それがし、天文十年[やぶちゃん注:一五四一年。]の比、播州にくだりて、上洛の時、たんばのおのばらにて、ひる[やぶちゃん注:昼。]のやすみをするに、同道の人、

「『大㙒原の會下』に所用あり。これより、一里ばかりあるほどに、ゆき、やがて、かへらん。」

とて、ゆく。その間に、宿(やと[やぶちゃん注:ママ。])の亭主と物がたりするに、會下の事をかたるうちに、

「むかし、ふしぎの事、あり。廿(はたち)ばかりの僧、故鄕ゑちご[やぶちゃん注:ママ。]ヘくだるとて、江州枝村の宿にて、女になりたる事あり。」

と、かたる。それがし、やがて聞き得て、りやうじやう[やぶちゃん注:「領承」。]す。

 さるほどに、四十年以前に、江州にて、此の事を、人のかたりしを聞《きき》て、まことゝも思はざりしに、今、また、この方《かた》にて、聞くうへは、まことなり。……

 

 此の雜談を聞きて、喜悅なり。それがし[やぶちゃん注:冒頭の著者自身。]、かへつて、枝村にてのしだいを、あらあら、語るなり。亭主、聞きてよろこぶ。

 寶幢院(ほうどう《ゐん》)の宗珎(そうちん)、この雜談をきかれて、ついでにいはく、[やぶちゃん注:「寶幢院」高田氏の注に『比叡山西塔』(さいとう)『にある塔頭の名』とある。調べたが、現在の釈迦堂(グーグル・マップ・データ。以下も同じ)の北東にあった最澄が構想した十六院の一つであったが、廃絶して現存しない。「宗珎」不詳。]

「下㙒(しもつけ)の国にも、また、僧の女人に成りたる事あり。是は叡山の東堂(《とう》だう)[やぶちゃん注:「東塔」に同じ。]西谷(《にし》だに)の吉祥院(《きち》しやう《ゐん》》智藏坊の說なり。たゞ、一往(《いち》わう)[やぶちゃん注:「一度だけ」或いは「大略のみ」。]にして、くわしく事をとかざるなり。智藏坊、実(じつ)なる人なり。きよごん[やぶちゃん注:「虛言」。噓。]にてあるべからず。」

といふ處に、むらさき㙒大德寺の正首座(《せい》しゆそ)、[やぶちゃん注:「むらさき㙒大德寺」現在の京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派大本山龍寶山大徳寺。「正首座」同前の高田氏の注に、『禅寺で修行僧中、首席にあるもの。修行僧中の第一位で、長老(住持)の次位にあり、僧堂内のいっさいの事をつかさどる者』とある。]

「此の事、東国にて、きゝをよぶ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いふて、かたりて、いはく、

「下㙒の国より、僧二人、足利にゆきて、がくもんす。又、同じき国の僧、文長といふ人、一人、おなじく學問す。ともに數年(す《ねん》)すぎて、故鄕(こきやう)にかヘる。又、十年をすぎて、前の二僧、同道して、他所(た《しよ》)にゆく。路地の小家(《こ》いへ)に酒箒(《さか》はうき)あり。二人、よりて、濁醪(にごりさけ)を、のむ。家主内婦(やぬしないふ)、二僧を、つくつく[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。後も同じ。]と、みる。二僧、ひそかにいはく、[やぶちゃん注:「酒箒」昔の酒屋の看板。「酒林(さかばやし)」「酒旗(さかばた)」「杉玉」とも称する。一~二尺の長さの杉の枝葉を束ねて箒のようにしたり、球状にしたもので、戸口に立て掛けたり、軒先に吊り下げたりした。江戸末期まで一般に見られた風習で、今日でも一部の酒造家の間に残っている。杉が用いられるのは、古く神酒やそれを入れる瓶(かめ)のことを「みわ」と呼び、また、酒の神である大和国三輪山に鎮座する大神(おおみわ)神社が杉を神木とした縁にちなむといわれる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

『此の内婦は、足利にての、文長に、よく似たり。』

といふて、つくつくみれば、内婦のいはく、

『二人の御僧は、見しり申し候。われわれ[やぶちゃん注:先に出た謙遜の一人称。]をば、御見しりあるまじく候。」[やぶちゃん注:後半は「でも、私のことは、お見知りとは思われないで御座いましょう。」の意。]

といふ。二僧のいはく、

『されば、此の方も、見知りたるやうに覺え候。」

と、いヘば、内婦のいはく、

「我々は、文長にて候。」

といふ。二僧、驚きて、いはく、

『いかんとしたる事ぞ。』

といへば、内婦のいはく、

「ちかごろ、はづかしき事なれとも[やぶちゃん注:ママ。]、かたり申し候。足利より、かへりて、三十二のとし、裸根(らこん)、はなはだかゆきゆへに、熱湯をもつて、たづる事、かぎりなし。はなはだ、たづるとき、裸根、陰嚢(いんのう)ともに、ぬけ落(おち)たり。とりて見るに、用(よう)にたたざる物なるゆへに、すてたり。そのあと、開閇(かいひん)になりて、常のごとし。のちに、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])を、まうけて、子を、うむ事、二人なり。」[やぶちゃん注:「裸根」男根。陰茎。「たづる」同前の高田氏の注に、『炎症や充血をとり去るために、冷水または温湯に浸した布を患部にあてて、湿布する治療法。「開閇になりて」同前で『閇は閉の別体。女陰ができて』とある。男性生殖器部分が脱落して「閉」じ、女性生殖器が新たに「開」いたということか。]

と、かたれば、二僧、怪しみ、驚きて去る、と、きくなり。」

と云々。

 宗珎、ちなみに智藏坊のしんだい[やぶちゃん注:「身代」。]を語りていはく、

「是は、しもつけの国の人なり。国にて、弁才天をしんがう[やぶちゃん注:ママ。「信仰」。]するゆへに、安藝の、いつく嶋の弁才天に、さんけいして、七日、さんろうす。毎日、三千三百三十三度(ど)のらいはいをぎやうず。あるとき、高しほ、さしのぼりて、大浪(おほなみ)、うちきたる。此の人、

『いのちを、天女にまかせる。』

と思ふて、にげさらず。かへる波にひかれて、すでに、おぼれ死す。波、また、よせきたるに、此人を乘せて、なぎさにうちあくる[やぶちゃん注:ママ。]なり。社家(しやけ)の人、これをみて、

『社中(しやちう)に死人(しにん)を忌む。はやく、すつべし。』

とて寄りてみれば、息、いまだ、たえず。さるゆへに、人みな、すくひたすくるなり。心ただしくなりて[やぶちゃん注:正気を取り戻して。]、いはく、

『いのちをしんりよ[やぶちゃん注:「神慮」。]にまかせたてまつりて、かくのごとし。』

といふ。

『さては。天女のみやうかん[やぶちゃん注:「冥感」。]にかなふ人なり。』

と、みな、いへり。たつとく思ひて、行(ぎやう)を滿(まん)じて、かへりさる。また、竹生嶋(ちくぶしま)にさんけいす。

『後生(ごしやう)ぼだいの行業(ぎやうごう)、じやうしう[やぶちゃん注:ママ。「成就」。]をいのりて、湖水に身をなげん。』

と、おもひて、「身なげいし」[やぶちゃん注:「身投げ石」。]の上にのぼりて、身をなけ[やぶちゃん注:ママ。]たり。その下に、大なる龜あり。わたり、五、六尺の甲のうへにおちあたるゆへに、龜、此人をのせて、水のうへに、浮きあがるなり。人、これを見て、

『智藏坊なり。』

とて、引《ひき》あくる[やぶちゃん注:ママ。]なり。智藏坊のいはく、

『石を袖にいれざるゆへに、死せざるなり。又。石をいれて、身をなけん[やぶちゃん注:ママ。]。』

といふ。人みな、をさへ[やぶちゃん注:ママ。]とゝめて[やぶちゃん注:ママ。]いはく、

『天命、いまだつきざるゆへなり。何とせられたりとも、死なるべからず。』

といふて、とむるなり。

『もつとも。』

といふて、かへりさつて、えいざんにぼりて、吉祥院(きちじやうゐん[やぶちゃん注:前出では「祥」のみに「じやう」と振っている。])に入《いり》て、十六年、住山(ぢうさん)せらるる也。」

[やぶちゃん注:「五、六尺の甲」本邦の淡水産のカメの在来種ではこの大きさはあり得ない。

 さても。この女に変じたとするのは、遺伝子上の女性の卵精巣性性分化疾患(旧称「真性半陰陽」)であろう。「小児慢性特定疾病情報センター」公式サイト内の同疾患によれば、本邦における現代の百二十五『例での検討では』、四十六例がXX(遺伝子上は正規の女性)が六十一・六%とある。]

2023/06/29

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四〇番 座頭ノ坊が貉の宿かり

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。]

 

   一四〇番 座頭ノ坊が貉の宿かり

 

 或時、座頭ノ坊樣が廣い野原で日が暮れて、[やぶちゃん注:底本は句点だが、「ちくま文庫」版で訂した。]行つても行つても家が一軒あるでなし、これは何(ナゾ)にしたらよかべと思つて、思案に暮れて行くと、ひょツくりと一軒家にたどり著いた。そこで俺は旅の盲目坊だが、一夜の宿をかしてたんもれと賴むと、其家の人は喜んで泊めた。そして、坊樣々々、さあさ早く此方《こつち》さ上つて休みなさいと言はれて、廣い座敷に上げられた。

 とにかく定通(オキテトホ)りの宿語りを、ろれんろれんと一くさり語り終つて寢たが、どうも其座敷が奇態な匂《にほひ》で、氣が落著《おちつ》けなかつた。それに不思議と思へば、足洗ひ湯も汲んで出さなかつた。ハテ奇態だなアと思つて、夜半にソロツと起き出して、座敷の彼方此方(アツチコツチ)を探つて見ると、案の定、疊の緣(ヘリ)がなく、のツペりとした澁紙のやうな物で、しかも柔らかで溫味《ぬくみ》のあるものであつた。

 是は只事《ただごと》ではないと、背負荷《せおひに》から小刀を取り出して、カリリツと疊を切り裂いた。すると其座敷がゴロリと澤《さは》へ轉がり落ち、坊主は野中の草ツ原へ張飛《はりと》ばされた。狢の睾丸《きんたま》に泊つて居たのであつた。

 

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三九番 座頭ノ坊になつた男

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。]

 

      一三九番 座頭ノ坊になつた男

 

 或所に正直者があつた。なんぼ稼《かせい》でも善い目が出ない。何とかして運が向いて來るやうにと、淸水《きよみづ》の觀音樣へ行つて願をかけた。すると滿願の前の夜、觀音樣が夢枕に立つて、お前の願ひは木の枝を搖(ユス)ぶつても草葉の蔭を探しても叶はせ難い事だが、それでは餘りお前がふびんだから、たつた一事《ひとこと》よいことを授けてやる。明日の朝目が覺めたら御堂の高椽《かうえん》から飛下りて見ろとの御告げがあつた。男はこれはよい事を聞いたと思つて、翌朝目が覺めるといきなり御堂の高緣からぱツと飛下《とびお》りた。するとその拍子に自分の眼玉が拔け落ちた。あれやツことだと思つて大急ぎでそれを拾つて目にはめ込むと、けえツちやくれ(反對)に入れてしまつた。ところが腹の中の五臟六腑が、すつかり見えるやうになつて、それから忽ち名高い醫者となつて大層金儲けをした。

 そのことを見聞(ミキキ)した隣家(トナリ)の怠者《なまけもの》は、俺もそんだらと思つて同じ觀音樣へ行つて願をかけた。すると觀音樣が滿願の前の夜夢枕に立つて、お前には草葉の蔭や石塊《いしくれ》の下を探しても授ける運とては無いが、お前もふびんだから明日の朝、御堂の高緣から飛び下りてみろとお告げになつた。これはよいことを聞いた。俺もはア隣のやうなお醫者樣になれたと思つて、夜中に搔這(カツパヘ)起きて御堂の高緣からばえら飛び下りた。するとぽつツと眼玉がぶん拔けた。それや今だと思つて狼狽(アワ)てゝ拾込《ひろひこ》むと、誤つて橡實(トチンミ)を目にはめ込んでしまつた。何のことお醫者樣になるどころか一生座頭ノ坊になつた。

 

「奇異雜談集」始動 / 序・第一巻目録・㊀五条の足輕京にて死するに越中にて人これにあふ事

[やぶちゃん注:「奇異雜談集(きいざうだんしふ)」の本文電子化を始動する。これは、江戸初期の怪談集で、編著者は不詳(中村某)。貞享四(一六八七)年刊で全六巻であるが、原形の成立は遙かに古く、天正元(一五七三)年頃かともされ、写本で伝わっていた。諸国の怪談三十話と、注目すべきは、後代の怪奇談集に踏襲されるところの、明代の瞿佑(くゆう)の「剪灯(せんとう)新話」等から四話を翻訳している点で、江戸時代の怪異小説の濫觴と言ってよい作品である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の京都の「落葉書肆 柳枝軒藏板」(出版年不明)の画像を視認する。他に、国立国会図書館デジタルコレクションの国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」(『近世文芸資料』第三・吉田幸一 編一九五五年古典文庫刊)所収のもの(但し、これは新字体。リンク先は第一巻第一話の冒頭)、及び、「国文学研究資料館」の「国書データベース」の写本を参考にする。

 但し、底本は画像使用が許可されていないので、挿絵に関しては、単体画像は一部を除き(後述)の以下のように底本のリンクのみに留める。正字正仮名ではあるが、同書全体を納めることが出来ないので、例えば、表紙見返し・その左から漢文訓点(読みも含む)附き崩し字の「序」の前半が、次のこの右に後半が載る。以上のリンクは底本早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像)なども画像では挙げられない。底本や国立国会図書館版は、使用許可をとれば、画像使用が出来るが、底本は許可申請手続きがかなり面倒で、最終許可は二週間かかるので、私の電子化とはタイム・ラグが生ずるため、今まで一度も早稲田大学図書館への申請はしたことがない。また、国立国会図書館デジタルコレクションは総てが使用許可申請を必要とした頃でも、比較的直ぐに許可を出して呉れるのだが、如何せん、国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」版の挿絵などの画質が、底本に比して、薄く、黄色く、画素が粗く、よくない――例えば、巻頭第一話の挿絵は底本ではこちらだが(大型で画質も細部までしっかりしている)、国立国会図書館ではこれで、後者は画像補正をして拡大しても人物の表情などは、凡そしっかりとは見えないことが判るはずある――ので、許可を取ってまでする食指は、これ、動かないのである。されば、同書全体を電子化することは諦め、以上のリンクに換え、序の漢文(訓点附き)は訓点に従って訓読したものをのみ示す。

 但し、「奇異雑談集」から二十二話(新字旧仮名)を抄録する高田衛編・校注「江戸怪談集」(全三冊:本集は二十九歳の私が最も心躍らせ精読した怪談集の一つであった)上(岩波文庫一九八九年刊)を一部の加工データとして使用させて戴く(これによって格段に時間を節約出来る)こととし、そちらの注も、一部、参考にさせて戴く予定(引用する場合は必ず書誌を示す)なれば、ここに御礼申し上げる。また、この岩波文庫版では、何枚かの挿絵が示されているため、それをせめてもの遺愛として、トリミング補正して掲げることとする。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 底本は崩し字であるため、字体に迷った場合は、正字を採用する。注は私が躓いた箇所、また、特に注をしたく感じた場合に附す。読みは、必要と感じた読みの振れると判断したもののみに留めた。

 以下、序の私の訓読文。濁点がない箇所や歴史的仮名遣の誤りはママ。句読点・中黒(「・」)は私が振った。送り仮名の内、漢字表記の箇所は特異的に漢字を用いた。《 》は私が推定した読みである。]

 

 奇異雜談序(きいさうたんじよ)

奇異雜談集六卷を廣刻(くはうこく)するは、昔、江州佐ゝ木屋形(さゝきやかた)幕下(まくか)に、中村氏(なかむらうぢ)豊前守(ぶぜんのかみ)と云ふ者、其の裔(えい)(それかし)(えら)ふ所にして、唐土(とうど)・本朝(ほんてやう)の怪異(くわいい)の説(せつ)を錄して、以て、後人(こうじん)に遺(のこ)す。実(まこと)に是れ、童蒙(とうもう)の至寶(しほう)なり[やぶちゃん注:「近世怪異小説」版の漢文の活字起しでは、ここに読みを示さない「在」を打っているが、これは前に送られている「なり」の「也」の崩し字であって、「在」は誤判読である。]。予、玆(こゝ)に一《ひと》たひ、閲(えつ)するに、兩(りやう)の翅(つはさ)を張(は)つて、自(みつか)ら邊鄕(へんきやう)に遊び、偭(まのあた)り、其の事に遇(あ)ふかのことくにして、愼(つゝし)むへく、而《しか》も懼(をそ)るへし。此の集(しふ)を讀むことを得(ゑ)は、博(ひろ)く、(きんこ)希奇(けき)の、大怪(たいくわい)なることを知つて、庶幾(こいねかは)くは、自(みつか)ら戒(いまし)めんと、云ふのみ。

 

[やぶちゃん注:以下、巻第一の目録。頭の漢数字は底本では二重丸の中に入っている。底本では長い標題はある一定のところで、二行目に同一の位置に改行されてあるが。ここでは無視して、繋げた。歴史的仮名遣の誤りはママ。なお、以下、どの巻でも「目錄」の標題は字の大きさが、本文よりも大きいが、読みを附している関係上、無駄に改行されてしまうだけなので、本文と同じ大きさにした。]

 

竒異雜談集卷第一

          目錄

㊀五条の足輕京にて死するに越中にて人これにあふ事

㊁江州枝村(えだむら)にて客僧(きやくそう)にはかに女(をんな)に成し事智藏坊の事

㊂人の面(おもて)が目鼻なくして口(くち)頂(いたゞきの)上にありて物をくふ事

㊃古堂(ふるだう)の天井に女を磔(はつけ[やぶちゃん注:ママ。])にかけをく事

㊄九世戶(くぜのと)の蚊帳(かちやう)の中におもひの火僧のむねより出し事龍灯(りうとう)の事

㊅作善(さぜん)の齋會(さいゑ)に僧衆中(そうしゆちう)酒をのめるとき位牌の靈魂の喝食(かつしき)のかたちを現じて火炎(くはゑん)にやけし事

 

[やぶちゃん注:以下、本文となるが、読み易さを考え、段落を成形し、句読点・記号も自由に追加した。踊り字「〱」「〲」は正字又は「々」に代えた。【 】は二行割注。]

 

竒異雜談集巻第一

   ㊀五条の足輕京にて死するに越中にて人これにあふ事

 「應仁の乱」中のことなるに、東洞院と高倉との間に、足輕、一人あり【名字は忘却。】。

[やぶちゃん注:]この南北の同名の通りの間(グーグル・マップ・データ)。

 夏の比なるに、淸水(きよみづ)に、さんけいす。

 あさめしいぜんに、隔子(かうし)のもんのかたびらに、もよぎのもぢの十德(じつとく)に、かたな・わきざしにて、やどを出《いで》つ。

[やぶちゃん注:「隔子(かうし)のもん」「格子の紋」。

「もよぎのもぢ」「萌黃の綟(綟子)」。萌黄(もえぎ)色の麻糸で織った目の粗い布。

「十德」室町時代、下級武士の着た、脇を縫った素襖(すおう)のこと。江戸時代になると、腰から下に襞をつけ、医師・儒者・絵師などの礼服となった。絹・紗などを用い、色は黒に限った。僧衣の「直綴(じきとつ)」の転とされる。]

 中間(ちうげん)は、かたぎぬ、よのばかまにて、主(しう)の笠を頸にかけ、手やりを、かたげて、あとにゆく。

[やぶちゃん注:「かたぎぬ」「肩衣」素襖(すおう)の袖を取り除いたもので、戦さでは甲冑の上に着用したもの。

「よのばかま」「四幅袴・四布袴」。四幅で、裾短かに仕立て、菊綴(きくとじ)を添えた労働用の袴。多くは中間・小者などが着用した。]

 畠山方《はたけやまがた》より、このあしがるを、

「生害(しやうがい)せん。」

とて、れんれん、ねらふて、此時、「三本そとは」の邊(へん)にて、人數《にんず》ありて、うたるゝなり。

 

[やぶちゃん注:挿絵有り。底本ではここ。二人が襲撃されるシーン。右幅奥に足軽、その手前に正面真向頭部を斬られているのが、中間。]

 

 主從二人、生害す。

[やぶちゃん注:「三本そとは」挿絵から「三本卒塔婆」(さんぼんそとば)という通称らしいが、位置不詳。識者の御教授を乞う。]

 やがて、しがいを、やどに、とる。

 刀・わきざしは、なし。かたびら、十德に血のつきたるを、あらひて、ほす。

「後に、ひにんに、やるべし。」[やぶちゃん注:「ひにん」非人。血の穢れがあるため。]

とて、ゆひからげて、せど[やぶちゃん注:「背戶」。裏口。]の小屋に、をく[やぶちゃん注:ママ。]

 死骸は、その日、葬(さう)をするなり。

 中陰をするに、十四、五日のころ、となりの亭主、善光寺さんけいより、下向(げかう)して宿(やど)につく。

[やぶちゃん注:「中陰をする」人の死後、七七日(なななぬか)、則ち、四十九日の喪に入ることを言う。]

 留《る》すの内方(ないはう)[やぶちゃん注:妻。]、よろこふで、

「はやくげかう候よ。」[やぶちゃん注:「もっと早くお帰りになってほしう御座いましたわ。」の意。]

といふ。

「京には、何事もなきか。」

といふ。

 内のいはく、

「となりの亭主、死去(しきよ)候。」

といふ。

「いや。それは、越中にて、あひ候ものを。」

といふ。

 内のいはく、

「此十四、五日さきに、畠山方より、淸水の道にて、うたれ候。いま、中陰にて候。越中にてあひ候と、おほせられ候は、べちの人にて、あるべく候。」

と、いへば、亭主、おほきにおどろき、まづ、となりへゆく。

 となりの内方、

「はやく御《おん》げかう候よ。」

と、いふて、なみだをながす。

「さて。ふしぎの事をきゝ候ほどに、おどろきて、まづ、わらんづ[やぶちゃん注:草鞋。]も、ぬがず參《さん》じ候。さて、まことにて候や。下向のとき、越中にて、あひ申候。」

といへば、内方、おどろきて、きゝたるほどに、

「越中にて、ある里にとまりて、早朝に、したゝめ[やぶちゃん注:仕度・準備。]して、出(いで)くれば、山きは、田のある間のみちにて、是(それ)の御亭(ごてい)に、ふとあひ申候。[やぶちゃん注:「御亭」御亭主の略。]

『さて、はやく、下向候よ。』

と、おほせらる。

『いづかたへ、御くだり候や。』

と申せば、

『ちと、所用あつて、くだり候。』

と、おほせらる。

『京には何事もなく候や。』

と申せば、

『中々、何事もなく候。われわれに御あひ候よしを、わたくしの宿(やど)にて、おほせられ候へ。ことばにておほせられ候かたは、まことゝ思ふまじく候。手《て》じるしを、まいらすぺく候。』[やぶちゃん注:「手じるし」自身に確かに逢ったことを示す手ずから作った証拠の印。]

とて、道のはたに、五、六尺なる木の、しろきがあるに、十德の袖をあてゝ、そこにて、袖のすみを、きりて、たまはり候ほどに、

『我々、まいりて申候に、御うたがひは、あるまじきに、むようの御手じるしや。』

と申せども、はや御きり候間、とり申候。なを[やぶちゃん注:ママ。]、京のこと、とひ申たく候へども、いそがはしく御とをり[やぶちゃん注:ママ。]候あひだ、是非にをよはず[やぶちゃん注:ママ。]候。すこしあとに、中間、かたぎぬ、よのばかまに、笠を、頸にかけ、手鑓《てやり》をかたげ、あしなかにて、ゆけり。[やぶちゃん注:「あしなか」「足半」。踵(かかと)に応ずる部分がない前半分の短小な草履。鼻緒を角(つの)結びにするのを特色する(これに対して普通の長さのものを「長草履」とも呼ぶ)。これは、軽くて走るのに便利で、武士などが好んで用い、農山漁村でも作業用に広く用いられた。]

『めづらしや。』

と、いへぱ、

『されば。』

と申《まふし》て、いそぎ、ゆきぬ。旅の躰《てい》にもあらず、いつも京中(《きやう》なか)を歩(あり)かるゝ躰にて、かうしの紋のかたぴらに、もよぎのもぢの十德に、わらこんがうにて候つる。其日をおもへば、十五日になり候。さて此方《こちら》にて、死去は一定(いち《ぢやう》)にて候や。」[やぶちゃん注:「わらこんがう」「藁金剛」は「金剛草履」のこと。藁や藺(い)などを丁寧に緻密に編んで作った形の大きい丈夫な草履。普通のものよりも後部が細い。「一定」死の事実と時間経過が一致していること。]

と申せば、内方そのほか、内衆(ないしゆ)、中陰の僧衆(そうしゆ)、みな、おどろく所に、かの十德の袖のきれを、火うちぶくろより、とり出し、内方へ、なげやる。

 内《ない》が、とりてみて、

「是は。まことに。是《こ》の十德の色なり。生害の時、十德の袖のはし、きれたるよ、と、おもひて、ありしぞ。」

 その小屋なるかたびら・十德、とりよせて、ときひろぐれば、となりの人、見て、

「越中にても、まさしく、此かたびら・十德にて、候つる。」

 内方、いまのきれを、袖にあてゝみれぱ、よく、あふて、はたの、まくれたる處のきれくちまで、能(よく)あふなり。

 みなみな、これを見て、あきれて、ぜひを、わきまへず。

「その日を、今日まで、十五日になり候と、おほせられ候。きのふ、二七日《ふたなぬか》の作善《さぜん》をし候ほどに、まことに、十五日になり候。」

 夏なれども、おうへ[やぶちゃん注:「奥方」か。奥の部屋。]に、炉(ゆるり)[やぶちゃん注:「いろり」に同じ。]をあけて、釜を、つり、荼の湯をするなり。

 内方のいはく、

「葬(さう)のまへに、こゝにゐて、ゆるりのふちをみれば、刀にて、ふかく、ものを、きりたるあと、あり。藁を御覧候へ。此きりめのくちに、もよぎ[やぶちゃん注:先の萌黄色に同じ。]の糸のほつれ、すこし、二つ、三つ、はさまりてありしを、とりて、ひねりて、すて候。

『こゝにて、誰か、あらけなく、物を、きるや。』

と、おもひ候つる。」

 となりの人、又、いはく、

「越中にて、袖を御きり候て、たまはり候とき、木のうへを、そつと、みれば、きりくちのあとに、もぢ[やぶちゃん注:先の「綟子」。]の糸の、ほつれ、すこし、二つ、三つ、はさまりてありしぞ。こは、そも、何と申《まうす》事にては候や。」

 あまりにふしぎの事なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。] に、やがて、越中へくだる人に、その所を申《まふし》きかせ、

「その道ばたの木を、みよ。刀のきりめ、あるべし。」

と申せば、越中にて、その所にゆき、道ばたの木を、たづぬるに、さらに、その木、なし。

 その里にて、たづぬるにも、

「さやうの木、ありたる事、なし。」

と申也。

 此事、ふうぶんして、諸人(しよにん)、五条の家に、きたつて、かの十徳を見る事、かぎりなし。

 それがし[やぶちゃん注:本書の著者自身。]、幼少より、しげく、此ざうたんを、きく。今は此事をしる人、なし。

 かるがゆへに、これを、しるして、のこすなり。

 およそ、越中にて、死(しし)たる人に、あふ事、むかしより、これ、あり。

 みな、善光寺さんけいの人、あるひは、修行眞実(しゆぎやうしんじつ)の人は、死たる人に、あふなり。

 たび人・あき人等は、あふこと、なし。又、出家・善人の、死たるにあふ事、なし。

 かるがゆへに、

「越中は、地獄道なり。」

と、いへり。

 立山のふもとにおゐて、「老婆堂(うばだう)」をつくり、

「木像の老婆(うば)、むかし、天(てん)より、下(ふる)。」

と、いひつたへたり。

 是、三途河(さんづがは)の老婆(うば)なり。

 堂の前をすぎて、立山にのぼれば、もろもろの「ぢごく」の躰《てい》あり。

 人みな、めぐり行(ゆき)みれば、熱湯、帀〻《さふさふ》と、わきかへり、けぶり、地より、いでゝ、熱(あつき)處、おほし。これを「地獄」と名づくるなり。

[やぶちゃん注:「帀〻《さふさふ》」この熟語は知らない。「帀」は「めぐる・周囲をまわる・取り巻く」・「あまねし」・「揃い」の意であるから、熱湯が止まることなく沸き返ることを繰り返すことを言っているのであろう。

 立山の現在地獄の記載は、怪奇談は私の電子化物でも枚挙に暇がないが、「諸國里人談卷之三 立山」と、「諸国因果物語 巻之四 死たる子立山より言傳せし事」、及び、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十二 亡者錢を取返す事 附 鐵を返す事」を例として挙げておく。

2023/06/28

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「三」 の「黑猫」 / 「三」~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 以下の本篇は、南方熊楠自身の先行する『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』の第一節『〇田邊で黑き猫を腹に載れば、癪を治すと云ふ。明和頃出板?壺堇と云ふ小說に、鬱症の者が黑猫を畜ふと癒ると有た。予曾て獨逸產れの猶太人に聞しは、鬱症に黑猫最も有害だと。又猫畜ふ時年期を約して養ふと、其期限盡れば何處かえ去る。又猫長じて一貫目の重量に及べば祝ふ、何れも田邊の舊習也。』に対する附記である。]

 

○黑猫(第三號一七五頁)は癪や鬱症《きやみ》を癒すと、本邦で言ふに、獨逸生れの猶太《ユダヤ》人は、「鬱症に、黑猫、最も有害だ。」と予に語つた。然し、此一事を以て、西洋で、一汎に猫を病人に有害とすと言ふ譯に、往かぬ。其證は一八九五年六月の『フォークロワー』に出た、グルーム博士の英國サッフォーク州の俗醫方の中に、喘息を病む者、猫を畜《か》ひ、愛翫すると、喘息、猫に移り、終《つひ》に死ぬが、病人は、全く治《なほ》る、と有る。(大正二年十月『鄕土硏究』第一卷第八號)

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「三」 の「大豆を埋て腰掛」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 なお、底本では冒頭の「三」の四字下げで初出書誌が載るが、引き上げた。

 以下の本篇は、南方熊楠自身の先行する『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』の第一節『〇田邊で齒痛を病む者、法輪寺と云ふ禪寺の入口の六地藏の石像に願を立て、其前へ豆を埋め置くと、豆が芽を出さぬ内は齒が痛まぬ。因て芽が決して出ぬ樣に、炒豆を埋め立願する、丸で詐欺其儘な立願だ。』に対する附記である。]

 

      (大正二年十月『鄕土硏究』第一卷第八號)

 

○大豆を埋《うめ》て腰掛(第三號一七三頁)すると、豆の芽が出ぬ内は齒が痛まぬ。因て豆が何時迄も芽を出さぬ樣に炒豆を埋る由を書《かい》た後、不圖《ふと》、西鶴の「男色大鑑《なんしよくおほかがみ》」二の五章を見ると、疱瘡を治すに、『河内國、「岸《きし》の堂」と云ふ觀音の靈場に、煎豆《いりまめ》を埋《うみ》て祈る事有り。』と出て居《を》る。是も、多分、似た事で、炒豆が芽を出さぬ内は、健康《まめ》(豆)で居《ゐ》る(炒る)と云ふ樣な洒落から起つたのかとも思ふ。之と反對で、豆が地下で腐ると、同時に病《やまひ》が治るとする國も有る。例之《たとへば》、英國で、疣《いぼ》の數だけ、生豌豆《なまえんどう》を採り、一々、疣を觸り、別々に紙に裹《つつ》んで埋置《うめお》くと、豆が腐ると齊《ひと》しく、疣が落《おち》る、又、豆莢《まめさや》で撫《なで》て理むるも有りとか(一八八三年板、フレンド「花及花譚《フラワース・エンド・フラワーロワー》」三六七頁)。〔(增)(大正十五年九月記)又、蔓(つる)一條を取て、疣の數だけ、結び、結び目一つづゝで、疣一つづゝを、さはり終つて、「汝でなくば、疣をとり返し得ない。」と唱へ乍ら、濕地に埋める。又、肉屋の店か、籃《かご》にある肉を、秘密に盜み、人に知れぬ樣、疣を撫でゝ後、門口、四つ辻、又、隱れた處に埋める。何れも、其物が腐るだけ、疣も癒るといふ(一八五九年板「ノーツ・エンド・キーリス撰抄」二五〇頁)〕。

[やぶちゃん注:以上も類感呪術。

「男色大鑑」は貞享四(一六八七)年刊の浮世草子では最初の本格男色物。国立国会図書館デジタルコレクションの『西鶴全集』第四巻(昭和二一(一九四六)年日本古典全集刊行会刊)のこちらの「雪中の時鳥(ほとゝぎす)」の冒頭の一節で確認出来る。

「岸の堂」不詳。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三八番 貉堂

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。]

 

      一三八番 貉 堂

 

 上鄕《かみがう》村(上閉伊郡)大字板澤《いたざは》に曾源寺《さうげんじ》と謂ふ寺がある。昔この寺がひどく荒廢して、住持も居《を》らないことがあつた。

 或日此邊ヘ一人の旅僧が來て、寺の近くの農家に泊つた。そして夜其所の主人(アルジ)から、この近くにも寺はあるが、不思議なことには來る住持も來る住持も、皆一夜のうちに行衞不明になつて、今では誰《たれ》一人寺を守る者もなく建物なども荒れほうだいにしてあると謂ふことを聽かされた。旅僧はハテ不思議なこともあればあるものだ。よしそれでは明日俺が其寺へ行つて見て、若《も》し化物でも居《を》つたら退治してやると言つた。そして其夜は寢た。

 翌日旅僧が山の麓の荒寺《あれでら》へ行つて見ると、本堂に一人の爺樣が寢て居た。なんぼ呼んでもその爺樣は眼を覺まさなかつた。旅僧は仕方がないから一寸宿へ歸つて、また行つて見ると、まだその爺樣は寢て居た。また夕方行つて見ると、まだ爺樣は目を覺まさなかつた。さうして遂々《たうとう》二日二夜、打通(ブツトウ)しで眠り續けて居た。三日目の朝になると、その爺樣はやつと目を覺まして、旅僧に言ふには、俺もとうとう[やぶちゃん注:ママ。]お前樣に本性を看破《みやぶ》られた。俺はお前樣の察する通り年久しくこの寺に住む古狢《ふるむじな》だ。そして住持を食ひ殺すこと七人、魔法で人を誑《たぶら》かした事は數知れない。けれどもお前樣に看破られたので俺の天命も盡きたから、一つ俺の技倆を觀《み》せてやる。俺は今此所に、釋迦の檀特山《だんとくさん》の說法の有樣《ありさま》を目《ま》の當りに現はして見せるからよく見ろ、その代り念佛は忘れても[やぶちゃん注:ここは「決して」の意。]唱へてはならぬぞと言つた。そして旅僧の目の前に忽然と、恰度《ちやうど》極樂繪圖を眞實にしたやうな景色(ケイシヨク)を現はした。旅僧はお釋迦樣やその他の尊者達が皆御光を射して、雲に乘つて靜々と現はれたのに、合掌して、貉の言葉も忘れて思はず、念佛申すと、その景色は忽ちペカリと搔き消えた。そして自分は破れた檀の前に座つて居た。

 旅僧は夢から覺めたやうな心持ちで、ぼんやりして居ると、ポタリと屋根から一滴の水が落ちて來た。すると忽ちに大雨が降つて來て、見て居る間《ま》に大洪水となつた。そして見渡す村々もことごとく水の下になつた。そして寺も既にハヤ押流《おしなが》されそうに[やぶちゃん注:ママ。]、グワラグワラと震《ゆ》れ動いて來た。旅僧はこれは何のことだ。大變だと思つて居ると、西と東の山蔭から多くの軍船が起り出てひどい船戰《ふないくさ》となつた。そこで旅僧も初めて、ははアこれは狢の惡戲《いたずら》だなアと思つて、印を結んで九字を切ると、ざあツと水が引いた。それと同時に屋根の上でギヤツといふ叫び聲がしたかと思ふと、大きな狢がごろごろと轉び落ちて斃《たふ》れた。村の人達はそれを狢寺《むじなでら》の境内に埋めて堂を立てた。それが今もある狢堂である。

  (鈴木重男氏から聽いた資料の四に據る。
   傳說には、此旅僧は遠野鄕の佛敎開弘で
   有名な無盡和尙だと謂ふ。)

[やぶちゃん注:本話と同類のもの(幻術部分は極端に短縮されている)が、国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著「遠野物語」増補版(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社)の「貉堂」の「一八七」で視認出来る。

「上鄕村(上閉伊郡)大字板澤に曾源寺と謂ふ寺がある」現在の岩手県遠野市上郷町(かみごうちょう)板沢にある曹洞宗滴水山曹源寺(そうげんじ:グーグル・マップ・データ航空写真。以下無指示は同じ)。なお、サイド・パネルのこちらの説明版画像で、新字新仮名(割注有り)で先のリンク先の内容が読める。

「無盡和尙」無尽妙什和尚。遠野にあった「附馬牛東禅寺」(寺は現存しないが、地名として附馬牛町東禅寺が残り、その16・17割内(この中央附近)が旧跡とされるようである)、及び、現存する「盛岡東禅寺」の開山とされる臨済僧で、南北朝初期には、この遠野や盛岡で活躍した名僧であるらしい。恐らく、個人ブログ『「遠野」なんだり・かんだり』の「東禅寺」が、やや明確でない「無盡和尙」の行跡と以上の寺との関りをよく検証されているものと思うので、読まれたい。]

「新說百物語」巻之五 「ざつくわといふ化物の事」 / 「新說百物語」全電子化注~完遂 附・目録

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、これを以って「新說百物語」は終わっている。]

 

   ざつくわといふ化物の事

 讃刕のかたほとりに、妙雲寺といふ寺あり。

[やぶちゃん注:「妙雲寺」不詳。少なくとも、現在の香川県にはない。]

 其寺に、むかしより、

「『さつくわ』といふ化物、あり。」

と、はかり[やぶちゃん注:ママ。]、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳ヘ、誰《たれ》見たるといふものも、なかりける。

 その時の住持を、良賢とかや、いへりける。

 其弟子に、良敬といふ若僧ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、博學にして、美僧なりける。

 あるとき、良敬、学文《がくぶん》のいとまに、門前にいて[やぶちゃん注:ママ。]ゝ、夕暮、凉み居《を》られける。

 蛍の、ふたつ三つ、飛ふ[やぶちゃん注:ママ。]にさそはれて、思はす[やぶちゃん注:ママ。]、壱、弐町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]もあるきける所へ、あとより、又々、しつかに[やぶちゃん注:ママ。]あゆみ來《きた》るものあり。

 ふりかへりて見れは[やぶちゃん注:ママ。]、やせたる女《をんな》の、色しろなるか[やぶちゃん注:ママ。]、髮、打《うち》みたし[やぶちゃん注:ママ。]てあとより來る。

 さしも丈夫なる良敬も、

「そつ[やぶちゃん注:ママ。「ぞつ」。「慄(ぞつ)」。]

として、立ち歸らんとしたりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、彼《か》の女、

「につ」

と笑ひて、

「是れまて[やぶちゃん注:ママ。]來たりたまへは[やぶちゃん注:ママ。]、今すこしにて、我《わが》すむかたなり。御出《おいで》なさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、手をとりて、行かんとす。

 良敬は、

『ゆかし。』

と思ひて、彼れ是れする内に、日も、とくと、くれて、物のいろめも見へぬやうに成《なり》たり。

 女のいはく、

「この年月の、我思ひ、今宵、はらさて[やぶちゃん注:ママ。]、をくへきか[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、引き立てゆくとおもへは[やぶちゃん注:ママ。]、良敬、夢のことく[やぶちゃん注:ママ。]になり、其後《そののち》は、ものを覚へす[やぶちゃん注:ママ。]なりたり。

 其夜、良敬、見ヘさりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、良賢、おとろき[やぶちゃん注:ママ。]

「あちよ、」

「こちよ、」

と、尋ぬれとも[やぶちゃん注:ママ。]、行きかた、なし。其あけのあさ、四、五町[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五半メートル。]わきの山際に、たはひもなく、打《うち》ふしたり。

 よりて見れは[やぶちゃん注:ママ。]、衣の惣身に、しろき針のことき[やぶちゃん注:ママ。]毛、所々に、付きたり。

 夫より、寺へつれ歸り、介抱して、息才《そくさい》には、なりたれとも[やぶちゃん注:ママ。]、折々は、狂気のことく[やぶちゃん注:ママ。]、其女の事のみ、口はしり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 良賢、

『口おしき[やぶちゃん注:ママ。]事。』

に、おもひ、別して、祕藏の弟子なれば、我が居間に、壇(たん[やぶちゃん注:ママ。])を、かざり、一七日《ひとなぬか》があいだ[やぶちゃん注:ママ。]、護摩を修《しゆ》せられける。

 七日めの夜《よ》、何かはしらす[やぶちゃん注:ママ。]、壇上に落《おち》かゝりたり。

 良賢は、取つて、おさへ、脇さしを以て、さし通す。

 はねかへさんとする所を、指通《さしとほ》し、指通し、終《つひ》に、化物を、しとめたり。

 其形をみれは[やぶちゃん注:ママ。]、おゝきさ[やぶちゃん注:ママ。]は、犬程にて、毛色、しろく、口は、耳きはまて[やぶちゃん注:ママ。]、きれて、背筋に、くろき毛、あり。

 何といふけものといふ事を、知らず。

「かの寺の『ざつくわ』といふ化物は、是れならん。」

と、皆人、申《まふし》ける。良賢の名、それより、高く、智行兼備(ちかうけんび)を、うやまひける。

[やぶちゃん注:良敬が妖女に誘われた際に思わず、「『ゆかし。』と思」った時が、変化(へんげ)の妖獣の術に完全に捉われて堕ちた瞬間であった。モデル動物は絶滅したニホンオオカミと四国犬の雑種か?

 以下、奥書。]

 

作物詞

      右追出來

拾遺百物語

 

 明和四亥春

     京六角通油小路西入町

       書林 小幡宗左衞門板

新說百物語巻之五終

 

[やぶちゃん注:ここに宣伝してある「拾遺百物語」は題名からしても本書の続篇らしいが、「続百物語怪談集成」の太刀川清氏の解題によれば、『出版された様子はない』とある。

 なお、底本には目録は存在しないが、予告通り、本ブログの読者のために、以下に、本文の表記で目録を配しておく。頭の巻内の番号は「続百物語怪談集成」に拠った(底本では標題番号は打たれていない)。「說」は拘った正字とし、「巻」は底本では総て「卷」ではなく、「巻」なので、統一した。読みは各ブログ標題に合わせ、附さずにおいた。]

 

 

新說百物語巻之一 目錄

 

一 天笠へ漂着せし事

二 狐鼡の毒にあたりし事

三 丸屋何某化物に逢ふ事

四 甲刕郡内ほのをとなりし女の事

五 津田何某眞珠を得し事

六 但刕の僧あやしき人にあふ事

七 修驗者妙定あやしき庵に出づる事

八 夢に見たる龍の事

九 見せふ見せふといふ化物の事

十 狐亭主となり江戶よりのぼりし事

 

新說百物語巻之二 目錄

 

一 相撲取荒碇魔に出合ひし事

二 奈良長者屋敷怪異の事

三 天井の龜の事

四 江刕の洞へ這入りし事

五 僧人の妻を盜し事

六 死人手の内の銀をはなさゞりし事

七 光顯といふ僧度々變化に逢ひし事

八 坂口氏大江山へ行きし事

九 幽霊昼出でし事

十 脇の下に小紫といふ文字ありし事

 

新說百物語巻之三 目錄

 

一 深見幸之丞化物屋敷へ移る事

二 橫田惣七鷹の子を取りし事

三 縄簾といふ化物の事

四 猿蛸を取りし事

五 僧天狗となりし事

六 狐笙を借りし事

七 あやしき燒物喰ひし事

八 猿子の敵を取りし事

九 親の夢を子の代に思ひあたりし事

十 先妻後妻に喰付し事

 

新說百物語巻之四 目錄

 

一 沢田源四郞幽㚑をとふらふ事

二 疱瘡の神の事

三 何國よりとも知らぬ鳥追ひ來る事

四 鼡金子を喰ひし事

五 牛渡馬渡といふ名字の事

六 長命の女の事

七 火災婆々といふ亡者の事

八 仁王三郞脇指の事

九 碁盤座印可の天神の事

十 澁谷海道石碑の事

十一 人形いきてはたらきし事

十二 釜を質に置きし老人の事

 

新說百物語巻之五 目錄

 

一 高㙒山にてよみがへりし子共の事

二 女をたすけ神の利生ありし事

三 神木を切りてふしきの事

四 定より出てふたゝひ世に交わりし事

五 肥州元藏主あやしき事に逢ひし事

六 ふしきの緣にて夫婦と成りし事

七 針を喰ふむしの事

八 桑田屋惣九郞屋敷の事

九 薪の木こけあるきし事

十 鼻より龍出でし事

十一 ざつくわといふ化物の事

 

「新說百物語」巻之五 「鼻より龍出し事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   鼻より龍出し事

 武州の事にてありしか[やぶちゃん注:ママ。]、あるやしきの若黨、晝寐して居りけるが、鼻の内、こそはく[やぶちゃん注:ママ。「こそばゆく」。]、目をあきて、鼻をかみける。

 そのとき、鼻の内より、飛虫《とびむし》のごとくなるもの、飛出《とびいで》て疊の上に落ちたり。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]におもひて、枕もとの茶わんにて、ふせ置き、又、一寐いりいたしける。

 目をあきて、おもひ出し、茶わんを、のけてみれば、甚《はなはだ》おゝきく[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]成《なり》、茶わん、一はい[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、なりたり。

 主人、是を聞《きき》て、桶に入れて、ふたを、いたしをき[やぶちゃん注:ママ。]、夕方、見たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、桶、一はいになりたり。

 又、おゝき成《なる》半切桶《はんぎりをけ》に入《いれ》て置きけれは[やぶちゃん注:ママ。]、是にも、一はいに、なりたりける。

[やぶちゃん注:「半切桶」「盤切桶」とも書く。盥(たらい)の形をした、底の比較的浅い桶のこと。]

 何とやらむ、おそろしく、

「明日は、河へ捨つへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、庭に出しをき[やぶちゃん注:ママ。]、大石を、おもしにして、おきけるか[やぶちゃん注:ママ。]、夜明けて、みれば、石も、ふたも、其まゝにて、其物は、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へ行《ゆき》けん、見へす[やぶちゃん注:ママ。]、となん。

「是ほと[やぶちゃん注:ママ。]の㚑妙(れい《みやう》)なるものは、あらし[やぶちゃん注:ママ。]。もしも、龍にてや、ありなん。」

と沙汰致しける。

[やぶちゃん注:その形状を記していないので、何とも言えない、というか、そこが甚だ噓臭い。鼻腔内に節足動物が侵入し、長く寄生することがある(十数年前、東南アジアで女性のそこに何年も数センチのムカデが寄生していたという記事を読んだことがある)が、ここにあるように、短時間の内に巨大化するというのは、ちょっと考えられない。江戸時代にはヒト寄生虫感染者は有意に多くおり、余りに多数の個体が寄生したために口から虫を吐く症状、所謂、「逆虫(さかむし)」という疾患名が残っているものの、それでも、この話は説明がつかない。気味は悪いものの、創作とせざるを得ぬ。]

「新說百物語」巻之五 「薪の木こけあるきし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

     《たきぎ》の木こけあるきし事

 因州の人の語りしは、其人の伯父なりける家に、むかしより、代々、奇異なる事あり。

 薪を買ひて、十束《じつたば》つみをけは[やぶちゃん注:ママ。]、九束めを、部屋へ取りにゆくと、十束めの薪木、をのれと[やぶちゃん注:ママ。]ころひて[やぶちゃん注:ママ。]、裏口より、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へ行くとも見へす[やぶちゃん注:ママ。]失せる事、むかしより、今に替る事、なし。

 二十束、三十束、調へて、もうせる薪木は拾束めの薪なり。

 それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、工夫《くふう》を致し、いつにても、九束つゝ[やぶちゃん注:ママ。]取置《とりおき》けれは[やぶちゃん注:ママ。]、何のさはりもなく、うせる事もなかりしか[やぶちゃん注:ママ。]、九度めの薪木を取置きけるときに、部屋へ入れ置き、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、九束の薪木、一把もなく、失せたり。

 是非に及はす[やぶちゃん注:総てママ。]、今にても、十束つゝ[やぶちゃん注:ママ。]取《とり》よせ、いつにても、一束は、失せ次㐧に、いたしけるよし。

 あやしき事なり。

[やぶちゃん注:この怪異も類を見ないオリジナリティがあるポルター・ガイストである。本邦ではポルター・ガイストは近世以前では、それほどメジャーではないからである。しかも、これは意識的詐欺やカラクリ物ではなく、実際に薪の一束が自動的によろよろと出て行くのであって、付喪神の範疇でさえない。因みに、昨今の外国の心霊動画はポルター・ガイスト大繁盛で、殆んどは作り物としか見えず、最近は批判的視聴も馬鹿々々しいので、見ていないほどである。]

「新說百物語」巻之五 「桑田屋惣九郞屋敷之事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   桑田屋惣九郞屋敷之事

 京油小路に桑田屋惣九郞といふ茶屋ありけるが、夫婦と、むすこ壱人、小者一人、四人、くらしける。

 ある朝、親友心、とくおきて、小便に出《いで》けるに、屋敷の下に、火の影、見へたり。

[やぶちゃん注:「心」茶屋であるから、親友が泊まるのはいいとしても(と言っても、後にも普通に出るので、殆んど居候状態の親友らしい)、「心」を名と採るのは、、如何にも厳しい。ここは「心」友(心の通い合った友)である「親友」で、「親友心」(しんゆうしん/しんゆうじん)と呼んだものか。にしても、私はこんな熟語は見たことがなく、どうも躓かざるを得ない。江戸時代に用例はあるが、この「心友」という熟語も親友を差別化していて、私は大嫌いである。]

 ふしぎに思ひ、のそきみれは[やぶちゃん注:総てママ。]、ゑん[やぶちゃん注:ママ。]の下に、あたらしき土器に、火をとほし[やぶちゃん注:ママ。]てあり。

「いまた[やぶちゃん注:ママ。]誰《たれ》もおきぬに、いかなる事。」

と、たれかれと尋ぬれと[やぶちゃん注:ママ。]、壱人も、めのさめたるも、なし。

 其分に致し置きけるか[やぶちゃん注:ママ。]、又、一兩日過《すぎ》て、母親、二階へあかりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、麻上下《あさかみしも》着たりける男と、打《うち》かけ・わた帽子の女と、さしむかひ、居たりける。

 二階より飛び下りて、

「かく。」

と告《つげ》たりけるにより、惣九郞諸共《もろとも》、あがりて、見ければ、壱對の燭臺《しよくだい》に、小袖をきせ、上下・打掛を、きせ置きたり。

 やうやう、かた付け、二階より、四人とも、おりけるが、四人のものゝ帶に、紙にて四手《しで》を切りて、皆々、付け置きたり。

[やぶちゃん注:「四手」「垂(しで)」で動詞「し(垂)ず」の連用形から名詞化したもの。「四手」は当て字。玉串(たまぐし)や注連縄(しめなわ)などにつけて垂らす例の紙のこと。]

「すこしの間に、いかゝ[やぶちゃん注:ママ。]したる事にや。」

と、肝をつぶして居たる所に、又々、ゑん[やぶちゃん注:ママ。]の下に、とほし火[やぶちゃん注:ママ。]のひかりあり。

 よくよくみれは[やぶちゃん注:ママ。]、ちいさき[やぶちゃん注:ママ。]あたらしき宮居《みやゐ》を置《おき》て、燈明《とうみやう》を、とほし[やぶちゃん注:ママ。]、あらひ米を供へたり。

 又、其夜、ねてゐる内に、親友、心の夜着の下へは、小者を入れをき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、むすこ惣九郞の夜着のすそへは、母親を、いれをきける。

 目をさまして、皆々、きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 廿日はかり[やぶちゃん注:ママ。]の内、いろいろ、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]あやしき事とも[やぶちゃん注:ママ。]ありて、ある日、

「はしりの水ぬきより、何やらん。出《いで》たり。」

と、小者の告《つげ》ける故、追《おひ》かけけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、最早、見へす[やぶちゃん注:総てママ。]

[やぶちゃん注:「はしりの水ぬき」台所の流しの外の下水口を指す。]

 夫より、あやしき事は、やみけるか[やぶちゃん注:ママ。]、果《はた》して、兩親、惣九郞、三人とも、打《うち》つゝき[やぶちゃん注:ママ。]て相果《あひはて》ける。

[やぶちゃん注:あらゆる説明不能な怪現象が目白押しで、怪談としては、オリジナリティがあり、よく書けている。最後のあたりと奇怪な宮居を縁の下に立てたり、侍や花嫁御寮に化けたりするところは、妖狐(最後の脱出箇所からは、江戸時代には狐狸とともに人を化かす妖怪とされた獺(かわうそ)の可能性も候補に挙げておきたい)が正体らしいが、夫婦と息子を、皆、死に至らしむというのは、かなり兇悪な狐である。]

「新說百物語」巻之五 「針を喰ふむしの事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   針を喰《くら》ふむしの事

 京都三条の西に、貞林《ていりん》といふ尼ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、わかき時は、備前に、くたりて[やぶちゃん注:ママ。]御物縫《おんものぬひ》の奉公を、つとめけるか[やぶちゃん注:ママ。]、その折の事なりしが、此《この》貞林、物、縫ひける針の「おれ[やぶちゃん注:ママ。「折(を)れ」後も同じ。]」を氣遣ひに思ひて、隨分と、ひろひあつめ、針箱の底に置きけるか[やぶちゃん注:ママ。]

『取出《とりいだ》し、捨《すて》ん。』

と思へは[やぶちゃん注:ママ。]、見ヘす[やぶちゃん注:ママ。]

 弐度も、かやうなりける。

 あるとき、針箱の掃除をいたしけるに、おゝきさ[やぶちゃん注:ママ。]、三分[やぶちゃん注:九ミリメートル。]はかり[やぶちゃん注:ママ。]ある虫、出《いで》たり。

 めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]物ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、針さしの上に置きける。

 此虫、

「そろそろ」

這《はひ》あるき、針さしの針を、

「ほろほろ」

と喰《くらひ》ける。

『さては、先達《せんだつ》ての針のおれも、此虫の喰ひけるものよ。』

と、おもひて、ちいさき[やぶちゃん注:ママ。]箱に入れ、針の「おれ」にて、飼ひ置きけれは[やぶちゃん注:ママ。]、二月《ふたつき》はかり[やぶちゃん注:ママ。]に、

一寸程になりたり。

 此よし、御主人、聞き給ひて、後には、古かねなと[やぶちゃん注:ママ。]あたへ給へは[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ、大きく成りける故、

「あやしきもの。」

とて、火にて、燒きころされしとなん。

 直(ぢき)に、此《この》貞林、かたられし。

[やぶちゃん注:特殊なバクテリアならまだしも、粗鉄を直に食う昆虫はいないから、これは貞林尼の作り話であろう。]

「新說百物語」巻之五 「ふしきの緣にて夫婦と成りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。但し、和歌の濁音のない箇所は無粋なので、ママ注記を打たなかった。

 挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成して使用した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   ふしき[やぶちゃん注:ママ。]の緣にて夫婦と成りし事

 河刕に、森氏の人、ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、語り侍りしは、其友に、武田直次郞といふものあり。

 はたちはかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、ふらふらと、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]、養生致しけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、其しるし、なかりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、兩親、なけき[やぶちゃん注:ママ。]、あるとしの春、兩親、つきそひ、京へのほり[やぶちゃん注:ママ。]、借座敷《かしざしき》に滯留(たいりう)し、養生致しける。

 療治も、能(よ)くのりて、次第に快氣して、おゝかた[やぶちゃん注:ママ。]平生のことく[やぶちゃん注:ママ。]なりたり。

『今一月も、いたしなは[やぶちゃん注:ママ。]、國もとへ歸へらむ。』

と、おもひて、あなたこなたと、遊山《ゆさん》に出《いで》ける。

 三月の初《はじめ》つかたの事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、直次郞も、供、壱人、つれて、東山の花なと[やぶちゃん注:ママ。]、見めくりて[やぶちゃん注:ママ。]、さまよひ、あるきける。

 

Naojirou

 

[やぶちゃん注:底本の画像はここ。キャプションは、右幅の娘の台詞、

   *

もふしもふし[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。]

 これへ

 おこし

   かけ

(桜の幹を挟んで)

      られ

       ませ

   *

左幅は以上の通り、ごやごちゃと五月蠅い台詞が見えるのだが、底本の挿絵にはない箇所に、明かに、墨の色の薄い文句が記されてあって(侍女の上部、及び、木戸の開いた箇所の右手の柱と開いた空間部の弐箇所)、思うにこれは、底本の旧蔵者が落書したものと思われるので(絵のキャプションとしては、あまりにも五月蠅過ぎるばかりか、どうもかなり猥雑な感じがある。例えば、右手のそれは「よく白きちゝを」「むきだして」云々である)、落書までちゃんと判読する気は、毛頭、ない。正規の原板本のキャプションは、侍女の左下方に、

   *

   まづあれへおかけ

    遊ばしてゆるり

           と

      ごらんあそは

         し

          ませ

   *

直次郎の台詞、

   *

あまり

 花の見事

    ゆへに[やぶちゃん注:ママ。]

ながめ

 いり

 ま

 した

[やぶちゃん注:次の行の濃い「とは」は既に落書で、「いつはりなり」「どうぞひとばんをかして」「下を」云々と読むに堪えないえげつない落書と判明する。この落書を書いたのは、年少者ではあるまい。

(右足の脇に)

        それは

         かたじけ

           ない

   *

とある。]

 

 

 とある所に、是れも借座敷とみへ[やぶちゃん注:ママ。]て、一本の桜、さきけるを、何心《なにごころ》なく、立ちやすらひて、なかめ[やぶちゃん注:ママ。]居《をり》けれは[やぶちゃん注:ママ。]、内より、わかき女、いてて[やぶちゃん注:ママ。]

「此所は、かし座敷にて、今日一日、かり申して、主人、花見いたさるゝ也。くるしからぬ所にておはしませは[やぶちゃん注:ママ。]、御いりありて、ゆるゆる、花を御らんなさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申《まふし》ける。

 直次郞は、

「かたしけなし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、庭に入りて、えんに、腰、打《うち》かけ、詠《なが》め居《ゐ》たりける所に、奧より、いとやさしき、十六、七の娘の、物のけはひも、きよらかなるか[やぶちゃん注:ママ。]、立出《たちいで》て、

「私事《わたくしこと》は、今日、是《これ》へ、花見に參りしものなるか[やぶちゃん注:ママ。]、母、用事ありて、先へ歸へられ、私は、日暮《ひぐれ》てかへるなれは[やぶちゃん注:ママ。]、まつまつ[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]、是へ御あかり[やぶちゃん注:ママ。]、ゆるゆると、花も御覽なさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、菓子・酒なと[やぶちゃん注:ママ。]、もてなしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、直次郞も、わかきものなれは[やぶちゃん注:ママ。]、とやかくと、たはむれて、思はぬ枕を、かはしける。

「日も、はや、夕くれになりたり。」

とて、供のものに、おとろか[やぶちゃん注:ママ。]されて、名殘《なごり》をしくも、立ちかへりけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「又、逢ふことの、かたみ。」

とて、香箱《かうばこ》に、はまぐりの繪《ゑ》かきしを敢り出して、ふたはかり[やぶちゃん注:ママ。]を、かたみに送りて、身のかたは、我《わが》ふところにそ[やぶちゃん注:ママ。]入れにける。立《たち》さま[やぶちゃん注:ママ。]に、かくなむ、

  玉くしけふたみの浦による貝の

   またこと方に打ちやよすらん

かく、申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、むすめ、かへし、

  玉くしけふたみの浦による貝の

   ことかたならてあふよしもかな

と、いふて、なみたなからに[やぶちゃん注:総てママ。]立ちわかれける。

 そのゝち、一兩年も過《すぎ》て、直次郞も、いよいよ、息才[やぶちゃん注:ママ。「息災」。]になりて、江戶つとめをいたし、東へ、をもむき[やぶちゃん注:ママ。]、みやつかへをそ[やぶちゃん注:ママ。]いたしける。

 又、あるとしの春にいたりて、上㙒の花なと[やぶちゃん注:ママ。]、見めくり[やぶちゃん注:ママ。]、過《すぎ》し事なと[やぶちゃん注:ママ。]思ひ出して、ふと、とある幕の内を見いれけるに、何とやら、見知りたる女、ありて、あの方[やぶちゃん注:離れた位置。]よりも、つくつく[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]なか[やぶちゃん注:ママ。]めけるにより、おもひ出《いだ》せは[やぶちゃん注:ママ。]、さりし時、都にて、あひし女なり。

 とやかく、むね、打《うち》おとろき[やぶちゃん注:ママ。]

『いかゝ[やぶちゃん注:ママ。]は、せん。』

と思ふ折ふし、娘も、それと、幕の内より立ちいてゝ[やぶちゃん注:ママ。]

「そのゝち、別れてより、去る御方《おかた》[やぶちゃん注:「の所へ」が欲しい。]、宮つかへいたし、露《つゆ》わするゝ間《ま》もなけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、何をあてに尋ねんやうもなくて、その姬君につきそひて、去年《こぞ》の秋、こゝもとへ下り侍る。必《かならず》、わすれ給ふな。」

と、そこそこにて、別れける。

 それより、よすか[やぶちゃん注:ママ。]を求めて、首尾よく、御いとま、給はり、兩親とも、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]のえんに、めて[やぶちゃん注:ママ。「愛(め)てける」。愛し合う。]けるや。

「まことの夫婦と、なりたり。」

と、森氏の人、かたられし。

[やぶちゃん注:怪奇談性はなく、男女の不思議な縁(えにし)の、テツテ的な「赤い糸で結ばれた」恋愛実話と思われる。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「秋の鏡」趙今燕

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  秋 の 鏡

            憶 昨 花 前 別

            秦 淮 水 又 秋

            朝 來 怯 臨 鏡

            孤 影 空 自 愁

                  趙 今 燕

 

別れしは昨(きそ)、 花さく日

いま秦淮の水は秋

朝(あした)うたてきかがみには

わが面かげぞいたましき

 

   ※

趙今燕  十六世紀中葉。 明朝萬曆年間。 名は彩姬。 吳の人。 秦淮の名妓である。 才色ともに一代に聞えてゐた。 日ごろ風塵の感を抱いて妄(みだり)に笑(しやう)を賣ることを好まず、書を讀むことを喜び、靑樓集を著したといふ。

   ※

作者は明の第十四代皇神宗の時(万暦年間:一五七三年~一六二〇年)、「秦淮四美人」に数えられた美妓であった。標題は中文サイトを調べた限りでは、「臨鏡」である。以下に推定訓読を示す。

   *

 鏡に臨む

昨(きのふ)を憶(おも)ふ 花(はな)の前の別れ

秦淮(しんわい)の水(みづ) 又(また) 秋たり

朝(あした)の來たりて 怯(おび)えつつ 鏡に臨むに

孤影 空(むな)しく 自(おのづか)ら愁(うれ)ひあり

   *

・「秦淮」六朝時代の首都南京の近くを流れる川名(秦代に開かれた運河)。両岸には酒楼が多く、今に至るまで、風流繫華の地である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三七番 龍神の傳授

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     一三七番 龍神の傳授

 

 或所に一人の男があつた。每日每日何もすることなく、渚邊へ出て海の方ばかりを眺めて居た。だから村の人達から彼(ア)れは愚者(バカモノ)だと云はれて居た。

 或日のこと靈(イツモ)の通りに渚から海の方を眺めて居ると、海から龍神樣が出て來て、これヤこれヤお前にこれを與(ヤ)るからと言つて、一個(ヒトツ)の瓶を吳れた。そしてこの瓶の水は萬病に利く靈藥だから、これからさうして居ないで萬人を救へと言つた。男は其瓶を家ヘ持ち歸つて土藏の奧に秘藏(シマ)つて置いて、村に病人があればそつと土藏の中へ入つて行つて、瓶の水を汲取《くみと》つて來て遣つた。そのために男は藏(クラ)の中へ入るのが日に幾度となく度重《たびかさ》なつた。

 それを妻が見て、これは怪(オカ)しいと思ひ出した。そして男の留守の間にそつと土藏の中へ入つて行つて見ると、隅に見た事のない瓶が一個あつた。あらこれは何だべと不思議に思つて葢《ふた》を取退《とりの》けて中を覗いて見ると、自分の顏が瓶の水に映つた。あれヤ夫は此女の顏を見べとあゝして始終來るのだと思つて嫉妬(ゴセ)が燒けて來て、外へ駈け出して石を拾つて來て瓶を眞つ二つに割り碎いた。

 男が外から歸つて來て、すぐさま土藏の中へ入つて見ると瓶が碎けてゐた。あゝこれは妻のしたことだなと思つて、妻を呼んでお前は何《な》してあの瓶を割つてしまつた。あの中に入つてをつた水は藥でそれで人の病氣を直して居たのに、さてさて女と謂ふものは邪心が深くてあさはかものだと言つて嘆いた。そして瓶の破片を拾ひ集めて、邸《やしき》の内の古池のほとりに打ち棄てた。

 其次の日からまた男は以前のやうに渚邊へ出て、遠くの沖の方を眺めて居た。すると或日再び龍神樣が現はれて、お前はまた此所へ來て居るのかと言ふから、男はあの瓶を割られたことや、その破片を拾ひ集めて古池のほとりに棄てたこと等を話した。龍神樣はそれを聽いて、そんなら其瓶の破片を棄てた所へ行つて見ろ、見たことの無い草が生へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]てゐるから、それを採つて陰干しにして揉草(モミグサ)にして、これこれの事をしてお前は復《また》人間の病氣を直せと言つた。そして其方法を詳しく敎へた。男は龍神樣に別れて家へ歸つて、古池のほとりへ行つて見ると本當に見たことの無い草が生へてゐた。これだと思つて其草を採つて龍神樣から傳授された通りにして再び人間の病氣を直してやつた。それが今の灸《きう》の始りである。そして其草は蓬《よもぎ》であつた。

  (前話同斷の八。)

[やぶちゃん注:「前話」こちら。]

2023/06/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「小兒の陰腫」 /「二」~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 本篇は南方熊楠自身の先行する『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』の第一節『〇小兒の陰腫を蚯蚓の所爲とし、火吹竹を逆まにして吹き、また蚯蚓一匹掘出し、水にて洗ひ淸めて放つときは治ると云ふ。』に対する附記である。]

 

○小兒の陰腫(三號一七三頁)に、紀州で、蚯蚓一疋、掘出し、水で洗ひ、放つ、或は、鹽で淨めて放つとも云ふ。支那から傳へた事らしい。「嬉遊笑覽」卷十二、『爰にて、小兒の陰、腫《はる》る時、蚯蚓を取《とり》て、洗《あらひ》て放つ、咒《まじなひ》有り。「鎭江府志」、今小兒陰腫、多以爲此物所一ㇾ吹、以鹽湯浸洗、則愈。〔今、小兒の陰腫《いんしゆ》は、多く、以つて、此の物の吹く所と爲(な)す。鹽湯(しほゆ)を以つて浸(ひた)し洗へば、則ち、愈ゆ。〕爰《こゝ》の咒は、何《ど》の蚯蚓にても、取りて洗ふに、功驗あるも、奇ならずや。」と言《いへ》るは、喜多村氏、支那では、當《たう》の敵《かたき》たる其蚯蚓を、探し中《あて》て洗ふ、と解したらしいが、其は六《むつ》かしい尋ね物だ。「府志」の文意は、小兒の陰部を、鹽湯で浸洗《しんせん》することと、見える。それを誤りて、本邦で、どの蚯蚓でも構はず、一疋、掘出し、淨めて、放つ事と成《なつ》たらしい。紀州で、幼男の「陰」を「ちんこ」と云ひ、其に緣《ちな》めるにや、子供芝居をも「ちんこ」と呼ぶ(但し、別聲で、呼別《よびわけ》る)。「ちんこ」病《やまひ》の治法を「鎭江府志」で見出《みいだ》すも、亦、奇ならずやだ。墨土哥《メキシコ》人、蜘蛛に嚙《かま》れた時、嬰兒の「陰」で、創《きず》を撫《なで》ると、毒、忽ち、去り、痛み、止む事、妙也と、一六七六年馬德里《マドリツド》板、フェルナンデツ・ナワレツテの「支那歷史政治道德宗敎論《トラタドス・ヒストリコス・デ・ラ・モナルチア・デ・チナ》」三百頁に云へり。一七三二年、チャーチルの英譯には、蜘蛛を蠍(さそり)としてゐる。

[やぶちゃん注:『「嬉遊笑覽」卷十二、『爰にて、小兒の陰、腫《はる》る時、……』例の熊楠所蔵の系統と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像をリンクさせておく。右ページ最後から左ページ初行まで。

「鎭江府志」清代に書かれた現在の江蘇省鎮江市(グーグル・マップ・データ)の地誌・物産誌。朱霖(しゅりん)編纂。現存する版は清の乾隆一五(一七五〇)年に書かれた増刻本である。当該部を「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該箇所を視認して起こしておく。

   *

蚯蚓

 俗呼回䗾其曲蟺之訛乎。今小兒陰腫、多以爲此拘所吹、以鹽湯浸洗、則愈。

   *

「蟺」は画像では(つくり)の下方が「且」であるが、この「蟺」自体がミミズを指すので問題ない。

「別聲」アクセント或いはイントネーションを変えて呼び分ける。例えばフラットに「ンコ」と「チン」等。

「喜多村氏、支那では、當の敵たる其蚯蚓を、探し中て洗ふ、と解したらしいが、其は六かしい尋ね物だ」熊楠の言う意味はよく判るね。先行する方で注をした通り、私は「喜多村」氏のように少しもヘンに思わないのだ。小児の男の子の陰茎は、蚯蚓に似ているからである。フレーザーの言う類感呪術だ。確かに、蚯蚓を洗うと同時に、腫れたそれを同じ場所で洗ってやるのだ、そこまで、熊楠先生、言わないと、現代に生きている喜多村氏には判りませんぞ!]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「頭白上人緣起」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 標題は「ずはくしやうにんえんぎ」と読む。対象論考は「選集」に『吉原頼雄「頭白上人縁起伝説」』』とあるが、冒頭で、「頭白上人緣起(第二號一一一頁)は佐夜中山夜啼石の話と同類らしいと、知た振で、三號一六五頁に書いた」とあって、これは、先行する『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む』の中の一節を指している。従って、そちらを再読された上で、以下を読まれるのがよい。そちらで注したものは繰り返さないからである。また、「頭白上人」は、そこでリンクさせたサイト「茨城の民話WEBアーカイブ」の「頭白上人伝説:生まれ変わって敵を倒す」、及び、「頭白上人伝説:飴を買う幽霊」を見られたい。正直、私は、この話、よく知らんかったのだわ。

 

○頭白上人緣起(第二號一一一頁)は佐夜中山夜啼石の話と同類らしいと、知《しつ》た振《ふり》で、三號一六五頁に書いたが、予、實は、夜啼石の話を詳しく知らぬ。止《ただ》、「東海道名所記」三に、昔し、西坂《につさか》の里に、女あり。金谷里《かなやのさと》なる親を訪《おとな》ふ。途中、盜《ぬすびと》に殺さる。孕みて、當月なりしを、近所の山に住む法師、其腹を割《さ》き、子を出《いだ》し、育《そだ》つ。十五に成《なり》し時、仔細を語りければ、僧に成らず、池田宿に出《いで》て、僕《しもべ》となり、田作り、柴苅り、居常《いつも》、「命なりけり佐夜中山」を吟《くちずさ》む。主人、其故を問ひ聞き、助けて、仇《かたき》が隣家に住めるを、討《うた》しむ。「命なりけり」という歌を唱へて、仇を討《うて》り。其子は、出家して、山に籠り、父母の菩提を弔ふ。其寺に「無間《むげん》の鐘」有り。佐夜中山より十町許り過《すぎ》て、「夜啼《よなき》の松」有り。この松を燈《とも》して見すれば、子供の夜啼を止《とめ》るとて、往來の人、削り取り、切り取り、松、遂に枯《かれ》て、今は根許りに成けり(以上撮要)、と出《いで》たるを知るのみ。寶永七年板、「增補松の葉」に、佐夜中山長歌、有り。大意は、佐夜中山を通る者、孕婦《はらみめ》を挑めど、靡かぬを憤り、刀試しにする。創口より、男子生まれたのを、和尙、來たり、佐夜淸水で取上げ、衣の裾へ包み、門前の人に預け、其人、貰ひ乳《ぢち》で育て、十四に成た春、亡親の靈夢の告《つげ》により、京の硏屋《とぎや》に奉公する。二年目に、刄《やいば》損ぜる刀を持ち、「硏いでくれ。」と賴む人有り。賺《すか》して親の仇たるを聞出《ききいだ》し、遂に復讐したと云事ぢや。右の二書共に、死《しん》だ母の力で育つたと言はぬ。故に、予が、「頭白上人傳と、佐夜中山譚と、同類らしい。」と云たのは、單に孕婦が殺されて、後に子が生まれた一事に止《とど》まる。「奇異雜談」下卷に、『世俗に曰く、「懷姙不產《はらみてうまず》して死せる者、其儘、野捨《のずて》にすれば、胎内の子、死せずして、野にて生るれば、母の魂魄、[やぶちゃん注:ここには底本では「□」の記号が埋め込まれてあるが、恐らく誤植である。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」所収の本文で確認した(右ページ二行目下方から)。「選集」に従い、読点に代えた。読みも原本と校合した。]形に化して、子を抱《いだ》き養ふて、夜、行《ある》く。其赤子の泣《なく》を、「うぶめ啼く」と云也。其形、腰より下《しも》は、血に浸《ひたつ》つて力《ちから》弱き也。人、若《も》し、是に遭へば、「負《おふ》て玉はれ。」と云を、厭《いと》はずして負《おは》ば、人を福祐に成すと、云傳へたり。』云々。「うぶめ」のことは、予、『東京人類學會雜誌』明治四十二年五月の分、三〇五―六頁[やぶちゃん注:先行する南方熊楠の「小兒と魔除」(私のPDF一括版)の初出。初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」であった。ブログ分割版では「南方熊楠 小兒と魔除 (5)」で、そこで、『故に一種の夜鳥、胸前の斑紋兩乳に似て、多少女人の相有るを純雌無雄とするも尤もにて』(中略)『之に件の鵂鶹嬰兒を食ふ事、土梟抱塊爲兒の語抔を和して、姑獲養人子の迷信を生ぜるやらん』の箇所がそれである。]に、何か實在する、或鳥の外貌が、婦女に似たるより生じた訛傳だらうと云て置《おい》たが、其後、「梅村載筆」天卷に、『「夜中に小兒の啼き聲の樣なる物を、『うぶめ』と名《なづ》くと雖も、其を竊《ひそ》かに伺ひしかば、靑鷺なり。」と、或人、語りき。』と有るを見出た。又、鯢魚(さんせううを)も、鼈《すつぽん》も、啼聲、赤兒に酷似するを、永々、之を扱ふた人から聽《きい》た。ポリネシア人が、胎兒の幽靈を、事の外恐るゝ由、繰返し、ワイツ及ゲルラントの「未開民史《ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル》」(一八七二年板、卷六)に言《いへ》り。又「奇異雜談《きいざうだん》」下卷に、京都靈山《りやうぜん》正法寺《しやうぼふじ》の開山國阿《こくあ》上人、元と、足利義滿に仕へ、伊勢へ出陣の間に、懷姙中の妻、死す。其訃を聞《きき》て、陣中、作善《さぜん》を營む代りに、每日、錢を、非人に施す。軍《いくさ》、畢《をへ》て、歸京し、妻を埋めた處へ往見《ゆきみ》ると、塚下に、赤子の聲、聞ゆ。近處の茶屋の亭主に聞くに、「其邊より、此頃、每日、婦人の靈《れい》、來り、錢を以て、餅を買ふ。」と。日數《ひかず》も、錢の數も、伊勢で施した所と合ふから、「必定、亡妻が施錢《ほどこしぜに》を以て、餅を求め、赤子を養ふたに、相違無し。」と判じて、塚を掘ると、赤子は活居《いきをつ》たが、母の屍《かばね》は、腐れ果居《はててをつ》た。依て、其子を、彼《か》の亭主に養はせ、己れは、藤澤寺で出家し、五十年間、修行・弘道《ぐだう》した、と有る。是は、確かに、頭白上人、又、旃陀王子《せんだわうのこ》の傳に酷《よく》似て居る。〔(增)(大正十五年九月記)「因果物語」中卷廿三章。「越前名勝志」、『府中』の『龍泉寺開基』『寂靈和尙』の條。「琅邪代醉編」三三、『盧充』の條の第二章。「南方閑話」四一―五九頁、「死んだ女が子を產んだ話」を參看すべし。〕

[やぶちゃん注:『「東海道名所記」三に、昔し、西坂《につさか》の里に、女あり。……』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、昭和一一(一九三六)年昭和堂刊の、懐かしいガリ版刷りのようなものだが、当該箇所が視認出来る(右ページの三行目から)。

『寶永七年』(一七一〇年)『板、「增補松の葉」に、佐夜中山長歌、有り』とあるが、これは、所持する増補「松の葉」(岩波文庫)を調べたが、そんな長歌は載っていなかった(「松の葉」は歌謡集で全五巻。秀松軒編。元禄一六(一七〇三)年刊。当時の上方で伝承・演奏されていた三味線歌曲の歌詞を分類・集成したもの)。「もしや!」と思って、国立国会図書館デジタルコレクションで、種々のワードとフレーズで何度も検索してみた結果、図に当たった! これは「増補 松の葉」ではなく、それより三十四年も前に出た、江戸初期の江戸の流行歌謡を集めた歌謡集「淋敷座之慰」(さびしきざのなぐさみ)であることが判明した。同書は全一冊で、編者は不詳。延宝四(一六七六)年の成立で、内容的には。「吉原はやり小哥そうまくり」の姉妹書として,寛永(一六二年~一六四四年)以来の流行歌謡、長短二百七十編を、書物から摘出したり、見聞に従ったりなどして、収録したものである。「壱 本朝王代記之謡」に始まって、「七十 吉原しよくりしよ節品々」に至るまで、小舞・浄瑠璃・祭文(さいもん)・万歳・たたき・大黒舞・西国巡礼歌品々・木遣(きやり)・船歌・琴の歌品々・鞠つき歌・盆歌品々・弄斎片撥(ろうさいかたばち)昔し節品々・昔し小六(ころく)節・はやり長歌・なげぶし品々・山谷源五兵衛節品々などを収載している(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類従』第六(明治四〇(一九〇七)年国書刊行会刊)のこちらの「さよの中山長歌」で、当該全一首を視認出来る。熊楠は、恐らく、まさにこの、『新群書類従』第六を調べたのであろう。本書では「淋敷座之慰」の直前に「增補 松の落葉」(注意!「松の葉」ではなく、「松の落葉」である。これは大木扇徳の編になる「松の葉」に漏れた歌謡をとった(それが「增補」)もので、これが宝永七年刊なのである。則ち、熊楠は多重に誤認していることが判るのである)が載っており、それより前に「松の葉」も載せてあるからである。熊楠は、出典を示すのに、同一書の直前にある「增補 松の落葉」と誤認してしまったのであろう。

「梅村載筆」林羅山の随筆。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷一のここで視認出来る。

「靑鷺」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を参照されたい。アオサギのような中・大型のサギ類は、江戸時代から妖怪と見間違えるケースが多々あり、私の怪奇談集の中にも、複数、見受けられる。一つ挙げておくと、「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事」の私の注の最後を見られたい。

「鯢魚(さんせううを)」ルビでは、広義の両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ科 Hynobiidae の多くのサンショウウオ類となるが、漢字表記の「鯢魚」は世界最大の両生類の一つで、日本固有種のサンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus を特に指すことが多い。但し、同種の研究家でオオサンショウウオが鳴くとする記載を載せるておられる方は皆無に等しい。この「サンショウウオ類は鳴くか?」という問題については、「日本山海名産図会 第二巻 鯢(さんしやういを) (オオサンショウウオ及びサンショウウオ類)」の私の注で、かなり詳細に書いたが、オオサンショウウオや、一部のサンショウウオが鳴くと主張された記事は、実際に、ある。但し、サンショウウオ類には、小学生の実際の体験教室では「『ウー』という感じの声だった」とあった。しかし、両生類であるオオサンショウウオを水から引き揚げて計測しており、とすれば、消化管内に空気が取り込まれて、物理的に腹が鳴った可能性がありそうだが、サンショウウオ類に呼鳴器官はないとされているようだからなぁ、熊楠先生?

「鼈」カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。博物誌は私のブログの「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鼈(スッポン)」、或いは、サイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「鼈(すつぽん) かはかめ」を見られたいが、スッポンが鳴くというのも、信じがたい。カメを飼育しているかなりの専門家の方の複数の記事でも、カメは基本的に鳴かない、とあって、鳴いているように聴こえるのは、呼吸音、或いは、呼吸器疾患による病的な物理的擬似音であるとある。やっぱ、熊楠先生、ちょっと難しい感じですねぇ!

『ワイツ及ゲルラントの「未開民史《ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル》」』ドイツの心理学者・人類学者テオドール・ヴァイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)、及び、その死後に著作を補巻したドイツの人類学者・地球物理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)による共著‘Anthropologie Der Naturvolker’(「原始人の人類学史」)のこと。

『「奇異雜談」下卷に、京都靈山正法寺の開山國阿上人、……』「奇異雜談」は正しくは「奇異雜談集」で、江戸初期の怪談集。編著者不詳。貞享四(一六八七)年刊で全六巻であるが、原形の成立は遙かに古く、天正元(一五七三)年頃かともされ、写本で伝わっていた。諸国の怪談三十話と、注目すべきは、後代の怪奇談集に踏襲されるところの、明代の瞿佑(くゆう)の「剪灯(せんとう)新話」等から四話を翻訳している点で、江戸時代の怪異小説の濫觴と言ってよい作品である。いつか私も電子化注してみたい一つである。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」(『近世文芸資料』第三・吉田幸一 編一九五五年古典文庫刊)のこちらで、当該話(第四巻の「㊄国阿(こくあ)上人発心の事」)を視認出来る(但し、新字)。【二〇二三年七月八日追記】実は、直後に「奇異雜談集」の電子化注に着手し(正字表現)、本日、当該話に到達した。「奇異雜談集巻第四 ㊄國阿上人發心由來の事」を読まれたい。

『「因果物語」中卷廿三章』同書は全巻を電子化注済み。『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十三 幽靈來りて子を產む事 附 亡母子を憐む事」』がそれ。

『「越前名勝志」、『府中』の『龍泉寺開基』『寂靈和尙』の條』国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊・『諸国叢書』「北陸一」(大正六(一九一七)年刊)のこちらの「同所[やぶちゃん注:越前の府中。]龍泉寺」の条。「小夜の中山仇討」の酷似した話が読める。

『「琅邪代醉編」三三、『盧充』の條の第二章』「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの最後からだが、この話、読んだことがあるぞ? 「捜神記」第十六巻にあるこれだ(同前サイトのもの)! 個人ブログ「プロメテウス」の「第十六巻:捜神記を翻訳してみた」の「盧充が幽婚する」で和訳が読める。

『「南方閑話」四一―五九頁、「死んだ女が子を產んだ話」』国立国会図書館デジタルコレクションの「南方閑話」(一九二六年坂本書店出版部刊)のここから視認出来る。同書は、そのうちに電子化注する予定では、いる。]

「新說百物語」巻之五 「肥州元藏主あやしき事に逢ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、「藏主」(歴史的仮名遣「ざうす」・現代仮名遣「ぞうす」)は、本来は「経蔵を管理する僧」を指すが「出家した僧」の意であり、「元藏主(げんざうず)」で固有僧名である。]

 

   肥州元藏主あやしき事に逢ひし事

 肥後の國に、元藏主といふ僧あり。或時、旦那の方より、亡者ありて、葬礼をいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、寺にて、引導のときにいたりて、死人《しびと》、棺の内より、

「すつくり」

と、立ちたり。

 元藏主、是れを見れとも[やぶちゃん注:ママ。]、すこしも、さはかす[やぶちゃん注:総てママ。以下も同じ。]、居《ゐ》たりけるに、かたはらの僧、

「死人、立《たち》申《まふし》たり。」

と申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、元藏主、是れを、

「はつた」

と、ねめつけ、すこしも、さはかすして、側(そば)に、燒香箱《しやうかうばこ》もち居たりける小僧のあたまを、扇を持《もち》て、

「はた」

と、打ちけれは、彼《かの》死人、もとのことく[やぶちゃん注:ママ。]に、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 其後、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「く」。後も同じ。]、佛事をなして、何のさはりも、なかりけるが、一七日《ひとなぬか》過きて[やぶちゃん注:ママ。]、ある夜、死人、元藏主の座敷に來たりて、

「さまさまの御とむらひ、ありかたく[やぶちゃん注:ママ。]こそ存し[やぶちゃん注:ママ。]奉る。御礼のために、今度《このたび》、御くに、𢝝《へだた》り申すなり。此以後とても、かやうの事もあるへき[やぶちゃん注:ママ。事なり。必す[やぶちゃん注:ママ。]、その死人の㒵《かほ》は、御らんあるまし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しける。

 元藏主、後にかたられけるは、

「成る程、その㒵、ゑ[やぶちゃん注:ママ。不可能の呼応の副詞「え」の誤記。]もいはれぬ㒵にて、おそろしきもの也。」

と申されし。

 是《これ》は、小僧の、『こはき、こはき、』と思ひし一念にて、引き出《いだ》したるものなりと、すいりやうし、扇ににてたゝかれしものなり。

 頓智の僧にて、ありしなり。

[やぶちゃん注:「御くに、𢝝《へだた》り申すなり」「𢝝」は「懸」の異体字で、「懸」には「隔てる・かけ離れる」の意があるので、かく訓じておいた。「御國、懸(へだ)たり申すなり」で、「現世を隔てた、あの世に参ることとなり申しました」の意で採ったものである。但し、底本のこの崩し字部分(左丁一行目五字目)は、「懸」の崩し字と採っても問題はない(「人文学オープンデータ共同利用センター」の「「懸」(U+61F8) 日本古典籍くずし字データセット」の頭の画像を参照されたい)。ただ、「続百物語怪談集成」の本文がわざわざ、この漢字を「グリフウィキ」のこの同じ「懸」の異体字((上)「県」+(下)「心」の字形。電子活字では表字不能)で起こしておられたいので、敢えてそれに近い異体字を選んだまでである。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「はつ秋」王氏女

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  は つ 秋

            白 藕 成 花 風 已 秋

            不 堪 殘 睡 更 回 頭

            晚 雲 帶 雨 歸 飛 急

            去 作 西 窗 一 枕 愁

                  王  氏  女

 

白蓮(びやくれん)さきて風は秋

ねざめ切なく見かへれば

雲あしはやき夕ぞらの

夜半や片しく袖に降るらん

 

   ※

王氏女  明朝。 未詳。 年ごろになって良緣がなかつた。 その悲しみを歌つたこの詩を見て、趙德麟といふ人が彼女を娶(めと)つた。 世人は二十八字媒と呼んで佳話とした。 轉句の「晚雲」を一本では「曉雲」に作つてゐる。 しかし晚雲でなければ詩情に乏しいかと思ふ。 南方の支那では一般に夏時は午睡をする習慣があることを思へば、殘睡に回頭して晚雲を見ても不自然ではないわけである。

   ※

[やぶちゃん注:調べたところ、この解説の「明朝」は誤りで、王氏女は宋代の女流詩人である。以下、推定訓読を示す。標題は「咏懷」のようである。佐藤も述べている通り、「晩雲」は一本に「曉雲」とするが、佐藤の説が相応しいので、それに従う。なお、この詩が婚姻の契機となったことは、中文サイト「中國古典戲棘資料͡庫」の「堅瓠六集」卷一の「詩媒」に記されてある。

   *

 咏懷(えいくわい)

白き藕(はちす) 花を作(な)して 風(かぜ) 已(すで)に秋たり

殘睡(ざんすい)に堪へず 更に頭(かうべ)を回(めぐ)らせば

晩(くれ)の雲(くも) 雨を帯び 歸へり飛ぶこと 急なり

去りて 西の窗(まど)に一枕(ひとつまくら)の愁ひを作(な)せり

   *

この「藕」の字(音「グウ」)は狭義には蓮根を指すが、広くハスの花を含む意でも用いる。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三六番 人間と蛇と狐

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一三六番 人間と蛇と狐

 

 或大海潚(オホツナミ)があつた時、旅人が浪にもまれて居る人間を助けた。そして、あゝ危いところであつた。幸ひ俺が通りかゝつてよかつたと言ひ、又其人間も、お蔭樣で大切な生命(イノチ)を助けて貰つた、此御恩は如何(ナゾ)にして返したらよいかと淚を流してお禮を言ひながら、一緖に步いて少し行くと浪にもまれて溺れかゝつて蛇が居た。それを又旅人が助けて連れて行つた。又少し行くと一匹の狐が浪に押し流されて溺れかゝつて居た。これも又助けてやつて人間と蛇と狐とを連れて旅を重ねて行つた。

[やぶちゃん注:「大海潚」の「潚」はママ。通常、海鳴り(熟語としての「海」の場合は、津波を含まず、その海鳴りの音だけを指す場合もある)を伴う大津波(基本的には地震に限らず、科学的には、満潮の際、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になって、砕けながら、川上に遙かに進んで大逆流する現象を狭義には言う。しかしまた、台風や暴風雨と気圧と干満の関係から発生する海鳴りを伴う大きな津波も、かく呼ぶ。岩手・宮城を中心とする東北太平洋岸はリアス式海岸が多く、大・中型の台風の襲来でも、これに似た現象は起こるので、これを我々の記憶に近い大地震による大津波と理解するのは正しくない。そもそもここでは、大津波の前に発生した地震を述べていないから、猶更である)を意味する歴史的仮名遣「だいかいせう」の漢字表記は「大海嘯」(現代仮名遣「だいかいしょう」)が正しい。「ちくま文庫」版でも『大海嘯』に訂されてある。一見すると、「潚」でも同音で、いいように見えてしまうが、「潚」には、・「清い水が深くて清い」、「対象の運動性能が速いことの形容」、「米を研ぎ洗う」などが、単漢字として意味で、一つ、「潚潚」の熟語に「風雨の激しい形容」の意はあるが、「大きな海鳴りを伴う大津波」の意味で「大海潚」と表記することはない。従って、ここは誤記か誤植である。

 或日或大層威勢のいゝ長者のゐる國へ行つて、其長者の館にこの連中が泊つた。其旅人は元來醫者であつたが、その國に醫者が居なかつたので、方々から診て貰ふ人々が每日每夜來て、それを癒してやり、大層其國の人達からアガメられて、多くの贈物などを貰つた。

 其を見て、助けられた人間は旅人をひどく妬んだ。そして或日長者檀那に、あの人は眞實(ホントウ)の醫者ではない。實は恐しい魔法使ひでどんな惡い事を企《たくら》んで居るか分らないから要心めされと讒言《ざんげん》をした。長者は驚いて、役人どもを多勢を連れて來て旅人を捕へて直ちに牢屋へ打《ぶ》ち込んでしまつた。

[やぶちゃん注:底本では「檀那」は「擅那」とあるが、正しい「独擅場」(どくせんじょう)の読みから判る通り、「擅」には「ダン」の音はない。従って、これは誤字か誤植と断じて、訂した。無論、「ちくま文庫」版でも『檀那』となっている。後に出る箇所も同じく訂した。]

 此ありさまを見て、蛇と狐は大層憤つたが、どうすることも出來なかつた。はてさて彼《あ》の人間こそは憎い男だ。それにしても俺達の恩人を牢屋から救ひ出すには、何(ナゾ)にしたらよいかと二匹は夜晝其事ばかりを相談して居た。其あげく蛇は長者の館の玄關の踏臺の下に隱れて居て、長者檀那が出やう[やぶちゃん注:ママ。]として片足を踏臺の外へ踏み下した時、その足に嚙みついた。長者はあツと言つて倒れたが、見て居る間に足が槌《つち》のやうに腫れ上つた。そして痛い痛いと泣き叫んで日夜苦悶した。其所ヘ卜者《うらなひ》に化けた狐が行つて、卦《け》を立てて、長者檀那の病氣を直せる人は此世の中にたつた一人しか無い。その人は長者の屋敷の中の牢屋に入れられて居る、あの天下に名高いお醫者樣であると言つた。長者はそんだらばと言つて、家來の者を呼んで、直ぐにあの旅人を牢屋から呼び出して連れて來《こ》うと言いつけた。

 旅人が牢屋の中で悲しんで居ると、役人が來て直ぐ外へ出ろと言つた。これはてつきり殺されるのだと思つて觀念して居ると、直ぐに長者主人の前へ連れて行かれた。長者はこれこれ旅のお醫者殿、俺はこんな病氣に罹《かか》つた。早く診てくれろと賴んだ。旅人が長者の足を診て藥をつけると、見て居る間に今まで泣き叫んで苦しんで居た長者の傷がペラリと快《よ》くなつた。

 長者檀那は大層喜んで、旅人を上座に直して、厚くお禮を言つた。そして卜者の言葉によつて惡い人間の方をこんどは牢屋に打ち込んだ。何よりかにより人間が、一番恩知らずであると謂ふことである。

  (大正十二年一月二十日、村の大洞犬松爺の話の七。)

[やぶちゃん注:「何よりかにより人間が」「この世に存在する如何なる生き物の中でも、何よりも、よりによって、人間こそが」の意。]

2023/06/26

「新說百物語」巻之五 「定より出てふたゝひ世に交わりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   (てう[やぶちゃん注:ママ。「ぢやう」が正しい。]より出てふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]世に交わり[やぶちゃん注:ママ。]し事

 大坂の事なりしが、ある人、大屋敷を、もとめ、つゝくり、普請なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたして、家移りいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、はるかの地の下に、

「こん、こん、」

と、鉦の音、いたしける。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]には思ひなから[やぶちゃん注:ママ。]、其年も、くれて、春になれとも[やぶちゃん注:ママ。]、その鉦の音、やむとき、なし。

 あまりに、心すます[やぶちゃん注:ママ。「澄まず」。]、地の下を、ほらせけれは[やぶちゃん注:ママ。]、およそ一丈はかり[やぶちゃん注:ママ。]ほりて、石の「からと」[やぶちゃん注:「唐櫃(からと)」。「からびつ」に同じ。脚が四本又は六本の、被せ蓋(ぶた)のついた、方形で、大形の箱。通常は衣服・図書・甲冑などを収納した。]を掘り出し、ふたを明けれは[やぶちゃん注:ママ。]、上には、髮の毛はかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、其下に、骨と、皮とはかり[やぶちゃん注:ママ。]なるもの、鉦をたゝき居《ゐ》たりける。

 樣子を、とヘとも[やぶちゃん注:ママ。]、物をも、いはす[やぶちゃん注:ママ。]

 それより、湯なと[やぶちゃん注:ママ。]、あたへ、そろそろと、白粥なと、すゝめ、其名を、とへとも覚へす[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]

 時代を、とへとも、覚へす。

 只、あたまの髮の、のひたる[やぶちゃん注:ママ。]斗《ばかり》なり。

 一月、たち、二月、たち、段〻に、しゝ[やぶちゃん注:「肉(しし)。]も、出來《いでき》て、後には、常の男のことく[やぶちゃん注:ママ。]なりたり。

 いたしやうも、なけれは、臺所に、さしをき、火なと[やぶちゃん注:ママ。]、燒かせける。

 四、五年も、すきて[やぶちゃん注:ママ。]、とくと、常の行往座臥に、おとらぬやうになりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其家の下女と、密通して、大坂を欠落《かけおち》いたしける、となん。

[やぶちゃん注:本篇は実は二〇〇九年三月十八日に、サイト版で「続百物語怪談集成」を底本として、語注と現代語訳を行っている。なお、この話のルーツとしての章花堂なる人物の元禄一七(一七〇四)年版行になる、

「金玉ねぢぶくさ」巻一の「讃州雨鐘(あまがね)の事」

や、寛保二(一七四二)年版行になる三坂春編(はるよし)の、

「老媼茶話」の「入定の執念」

更には、これの影響下にあると思われる安永五(一七七六)年の上田秋成の、

「雨月物語」の「青頭巾」

そうして確信犯的インスパイア作である同人の、

「春雨物語」の「二世の縁」も用意してある。はっきり言って、この手の話の中では、それほど上手く行っていない部類のものと言わざるを得ない。以上の中でも、完成度が高いものは、ブログ決定版(正規表現版)の「老媼茶話巻之七 入定の執念」を強くお勧めするものである。

「新說百物語」巻之五 「神木を切りてふしきの事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

  神木を切りてふしき[やぶちゃん注:ママ。]の事

 丹州の事なりしか[やぶちゃん注:ママ。]、一村の鄕士にて、氣も丈夫なる者、ありける。

 其村のやしろに、さして、社人とても、なく、一村より扶持を遣はしける老婆、壱人《ひとり》、守りにつけて、をきける。

 此鄕士、

「我が屋敷、普請する。」

とて、

「其宮の前の大木を、きりて、普請につかはん。」

と申しけるを、彼《かの》老女、とめて、いふやう、

「此大木は、いつの頃よりといふことを知らぬ木なり。もしも、崇りなと[やぶちゃん注:ママ。]有りなんや。」

と申しけるを、何の苦もなく、切りたをし[やぶちゃん注:ママ。]、大普請、ほとなく[やぶちゃん注:ママ。]、成就いたしける。

「崇(たゝり)も、人によるものなり。」

と、荒言(くはうけん[やぶちゃん注:ママ。「くわうげん」。])抔《など》いたしける。

 一兩月も過《すぐ》ると、彼の鄕士、うつらうつらと、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]出し、をりをりは、あらぬ事など、口はしりけるか[やぶちゃん注:総てママ。]、終《つひ》に、程なく、相果《あひはて》ける。

 沐浴(もくよく)して、棺(くわん)に入れ、僧を賴み、番に付け置きけるか[やぶちゃん注:ママ。]、夜の中《うち》に、幾度といふ事もなく、棺より、這出(はい《いで》)て、つけ木に、火を、とほし[やぶちゃん注:ママ。]、そこらを、見あるき、又は、帚木《はうき》をとりて、座敷なと[やぶちゃん注:ママ。]、拂ひける事、夜の内、六、七度なり。

「とかく、はやく、はふむるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、一門中、申して、明日《あくるひ》、葬礼を、つとめ、其屋敷の門を出るといなや、いなひかり[やぶちゃん注:ママ。]、おひたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]、大かみなりにて、一向に、目も、あかれす。

「やうやう、はふむりて、かへりける。」

と、其村の人、かたり侍る。

 

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「芳澤あやめ」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○芳澤《よしざは》あやめ(三號一六五頁)馬文耕の「近世江都著聞集」六に、『元祿の頃、あやめ四條にて第一の藝子《げいこ》なり。堀川邊の或僧、甚《いた》く寵愛して墮落せし。此出家を、堀川の僧正・初音の僧正と比べて、芭蕉翁の戲れに「郭公《ほととぎす》鳴くや五尺の菖蒲《あやめ》哉」と詠《よま》れし。時鳥《ほととぎす》啼《なき》しとは、彼《かの》僧の事、あやめは、美少年なりしが、子供の節より、極めて長《たけ》甚《いと》伸《のび》たり、年に合せて、尺《たけ》過《すぎ》たり、依《より》て、翁の「五尺の菖蒲」と申玉《まふしたま》ふと云事也。」と有るが、文耕は、牽强《けんきやう》多き人故、此說も虛構だらう。「愚雜俎」一に、『あやめ、俳名、春水。これは「春水、四澤《したく》に滿つ」と云より、號《なづけ》しとぞ。』と出づ。芳澤・あやめ・春水、氏《うじ》も、藝名も、俳名も、相互關係ありしは疑無《うたがひな》しだが、何を本、何を末に附《つけ》たのか、又、何《どれ》も是《これ》も、一時に附たのか、解らぬ。「盛衰記」に、賴政に賜はりし菖蒲前《あやめのまへ》は、心の色、深くして、貌《みめかたち》、人に超えた許りでなく、賴政とは、志《こころざし》、水魚の如くにして、無二の心中《しんちゆう》なりけり、とあるから、女方《をんながた》役者の、最も敬慕すべき名として「菖蒲」を藝名とし、其に因んで、氏も俳名も附たのかと思ふ。甫庵の「太閤記」十四に見えた、瀨川采女正《うねめのしやう》が、妻菊の貞操を慕ふて、路考が瀨川菊之丞と名乘つたと云ふに似た事歟《か》。さて、「改定史籍集覽」十三に收めた「野田福島合戰記」元龜二年[やぶちゃん注:一五七一年。]の條に、河内、烏帽子形城《えぼしがたじやう》で討《うた》れた草部菖蒲助と云人、有り。珍しい名だが、或は此人も芳澤も、五月生れの譯で、「菖蒲」と名を附たのかと臆說を述置《のべお》く。

[やぶちゃん注:「選集」の編者注によれば、対象論考は自分自身の、先行する「『鄕土硏究』第一卷第二號」を讀む」である。そちらで注したものは繰り返さないので、そちらを参照されたい。『和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠師(今九十歲近し)、十年許り前、語られしは、女形役者で高名だつた芳澤《よしざは》あやめは、日高郡山の瀨と云ふ地の產也。其が斯る極《ごく》邊鄙の出に似ず、古今の名人成たので、其頃、所の者が、「山の瀨の瀨の眞菰の中で、菖蒲咲くとは、しほらしや。」と唄ふた。……』以下の部分への自身の追加記事である。

『馬文耕の「近世江都著聞集」』馬場文耕(ばばぶんこう 享保三(一七一八)年(異説有り)~宝暦八(一七五九)年)の唐風名。伊予出身。姓は中井。江戸中期の講釈師で易者。幕政を批判・風刺した講釈をしていたが、美濃八藩の「郡上一揆」(金森(かなもり)騒動)を題材にした「森の雫(しずく)」を発表して捕縛され、打首獄門にされた。「近世江戶著聞集」(きんせいえどちょもんじゅう:現代仮名遣)は巷説集。宝暦七年刊。巻一の冒頭の「八百屋お七か傳」でよく知られるが、熊楠が言っているように実話をかなり弄って牽強付会しており、馬場自身の経歴も甚だ怪しい箇所がある。ここで熊楠が引いているのは、「芳澤春水が傳」(延宝元(一六七三)年~享保一四(一七二九)年)元禄から享保にかけて大坂で活躍した女形の歌舞伎役者初代芳澤あやめの評伝。「春水」(しゅんすい)は俳号)の途中から。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第二(岩本佐七編・明治四〇(一九〇七)年国書刊行会刊)のここの左ページ上段一行目の下方から。

「愚雜俎」田宮仲宣(ちゅうせん:橘庵:宝暦三(一七五三)年?~文化一二(一八一五)年)の随筆。田宮は江戸中・後期の戯作者。京の呉服商に育ったが、放蕩のため、放浪生活を送った。天明五(一七八五)年、大坂に来て、洒落本「粋宇瑠璃」(くろうるり)・「郭中掃除」など、多数の作品を書いて生計を立てた。大田南畝や曲亭馬琴とも親交を結んでいる。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆全集』第十一巻(国民図書株式会社編・昭和四(一九二九)年刊)の「前集卷之一」の「芳澤瀨川(よしざはせがは)の話(こと)」で視認出来る。やはり、芳澤あやめの短い伝である。

『「盛衰記」に、賴政に賜はりし菖蒲前は、……」国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文学大系 』校註第十五巻「源平盛衰記」(大正一五(一九二六)年国民図書刊)「陀第十六」のここに「菖蒲前の事」がある。次の段で熊楠が述べているシークエンスもそこにある。

「烏帽子形城」現在の大阪府河内長野市喜多町(きたちょう)の烏帽子形山にあった城。当該ウィキを参照されたいが、そこに、「足利季世記」に『よると、畠山秋高が遊佐信教に殺害された際、遊佐氏家臣である草部氏』(☜)『が烏帽子形城を宮崎針大夫・宮崎鹿目助兄弟を逐って占拠したが、宮崎兄弟は秋高遺臣の碓井定阿(定純の子)・三宅智宣・伊地知文太夫と協力し』、『烏帽子形城を奪還したという』とあった。城跡はここ(グーグル・マップ・データ)。]

 又、序でに云ふ。「盛衰記」に出《いで》たる鳥羽院、菖蒲に、歲《とし、》長《たけ》、色貌《いろかたち》、少しも替らぬ女二人に菖蒲を具して、三人同じ裝束、同じ重《かさ》ねになり、列居《ならびを》る中から、菖蒲を撰取《えりとら》しめ玉ひしてふ咄に似たのが、佛典に有る。「根本說一切有部毘奈耶雜事」二八に、𩋾提醯《びだいけい》國の惡相婆羅門、十八種の醜陋相を具へ、無双の見苦しき男だつたが、學問の力に依て、美女、烏曇《うどん》を娶《めと》り、自宅へ連行《つれゆ》く。此男、頑固・吝嗇兼備で、途上、餓《うゑ》たる妻に、「飮食を分《わか》たば、古僊の制に負《そむ》く。」とて、何にも與へず、遂に、烏曇、跋羅樹《ばつらじゆ》の生《はへ》た處に往着《ゆきつ》き、自分のみ、樹に上り、其果を採り食《くら》ふ。妻、「吾にも、吳れ。」と云ふと、未熟果を墜《おと》し與へ、熟したのを、自分獨り、食ふ。妻、重ねて、「吾にも、熱果を與へよ。」と云ふ。夫、答《こたへ》て、「汝、自ら、採れ。」と云ふから、妻も、樹に上り、食ふ。夫、之を惡《にく》み、樹より下り、棘《いばら》で、其樹を圍ふて去る。妻、大いに困り、哭《ない》て居ると、重興王、偶々、出獵して、來合《きあは》せ、扶《たす》け下ろし、同車して、宮内に還り、寵幸、限りなし、と有る。生果を墜とし、熟果を與へなんだ惡相婆羅門の行ひが、「蟹猴《かにさる》合戰」の發端に違はぬ。偖《さて》、王が烏曇女を后《きさき》としたと聞《きき》て、惡相、大《おほい》に悔い、石を運ぶ人足に雜《まぢ》り、宮庭に入り、偈《げ》を以て、后と問答す。王、后を詰《なじ》つて、履歷を明らめた上、「汝、今も、彼を愛するや。」と問ふに、「何んで、彼樣《あん》な醜男を好きませう。しかし、彼は婆羅門で、咒術上手だから、無闇な扱ひは出來ませぬ。」と對《こた》ふ。王、困つて、賢相、大藥に計《はか》る。大藥言《いは》く、「其は、造作も無《の》う御座います。彼《かの》婆羅門は、貧乏で、身形《しんぎやう》鄙劣《ひれつ》、夫人は、光彩、群に超《こえ》て居る。此大不釣合をさへ呑込《のみこん》だら、此一件の方付《かたつけ》は、何でも無い事。」と受け合ふ。其處で、大藥、婆羅門に、「汝の婦《をんな》を識るや。」と問ふに、「我、識る。」と答ふ。大藥曰く、「官女五百を一同に出し列べるから、汝、自分の婦を牽《ひい》て取れ。罷り間違へば、汝の頭を刎《は》ねん。」と約して、后を首《はじ》め、五百宮人、皆、裝飾して出で、五百婇女《さいによ》[やぶちゃん注:侍女。]、之に隨はしむ。婆羅門、衆女の嚴飾《よそおひ》、非常なるを見、日に向へ樣に、目《め》眩《くらみ》て、呆れ惑ふ。諸女、皆、行過《ゆきすぎ》て、最後に餓鬼の如き、醜き下女有るを、捉へて、「是、我婦だ。」と云ふ。大藥、「然らば、其女を伴行《つれゆ》て、妻とせよ。」と命ずる時、婆羅門、頌《しよう》を說《とき》て、上人還愛ㇾ上、中人自愛ㇾ中、我是餓鬼形、還憐汝餓鬼、棄此天宮處、相隨向鬼家。色類正相當、求ㇾ餘不ㇾ可得。〔上(じやう)の人は、還(ま)た、上を愛し、中(ちゆう)の人は、自(おのづか)ら、中を愛す。我は、是れ、餓鬼の形、還た、汝、餓鬼を憐(いとほ)しむ。此の天宮(てんきゆう)の處を棄て、相ひ隨ひて鬼家《きけ》に向かふ。色類(しきるゐ)、正(まさ)に相ひ當たれり。餘を求むるは、得べからず。〕と諦めて、目出度く、其醜女と婚した。譚《はなし》の成行《なりゆき》は、賴政、菖蒲前と、大反對だが、多くの女を列べて、撰取《えりとら》す一事は、能く似て居る(シェフネル「西藏傳說《テイルス・フローム・チベタン・ソールセス》」、英譯、一九〇六年板、一七七―八一頁參照)。

[やぶちゃん注:『「根本說一切有部毘奈耶雜事」二八』の当該部は「大蔵経データベース」と校合した。一箇所、底本の国名「𩋾提醯國」の漢字表記が「鞞提醯國」であったので訂した。これは「ヴィデーハ国」で、古代インドの国名で、現在のビハール州(グーグル・マップ・データ)北部にいたヴィデーハ族の国名らしい。

「跋羅樹」種不詳。

『シェフネル「西藏傳說《テイルス・フローム・チベタン・ソールセス》」、英譯、一九〇六年板、一七七―八一頁參照)』読みは「選集」に拠った。フランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七 年~一八七九年)はたエストニア(当時はロシア帝国)生まれのドイツ系の言語学者・チベット学者。正式書名はTibetan tales, derived from Indian sources(「インドの情報に由来する、チベットの物語」)。「Internet archive」のこちらで当該箇所以降を読むことが出来る。そこでは、美女の名は“Udumbarika”で、醜陋なバラモン僧の名は“Virupa”である。]

「新說百物語」巻之五 「女をたすけ神の利生ありし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   女をたすけ神の利生ありし事

 

 京、上長者町に「ひしや治郞兵衞」といふもの、あり。

[やぶちゃん注:現在の京都府京都市上京区のここの東西を走る上長者町通(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 いまた[やぶちゃん注:ママ。]若き時より、男伊達にて、一生、佛法といふことも、ねかはす[やぶちゃん注:総てママ。]
、夫婦、暮しけるか[やぶちゃん注:ママ。]
、ある時、夢に見たりけるは、衣冠正しき人、來たり、

「我は、大宮七条あたりのものなり。」

とて、飛《とび》さり給ふ。

[やぶちゃん注:「大宮七条」ここ。]

『ふしき[やぶちゃん注:ママ。]の事。』

に思ひて、七条に、いたりけれは[やぶちゃん注:ママ。]
、古《ふる》かね[やぶちゃん注:ママ。]店《みせ》に、右のことき[やぶちゃん注:ママ。]天神の像あり。

 さしもの男伊達も、信心、きもにめいし[やぶちゃん注:ママ。]、調《ととの》へ、かへり、信心いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]
、あるとし、大熱病を、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]て、命も、おはらんとしける故、女房、水ごり[やぶちゃん注:「水垢離」。]をとり、彼の天神に、夫の命乞《いのちごひ》をいたしける。

 天神、夢に、女房に告《つげ》て、の給はく、

「汝が願ふ所も、餘儀なし。なににても、大切のものを、捨(すつ)へし[やぶちゃん注:ママ。]。病氣、快氣なさしめん。」

と、ありありと、霊夢を、かふむり、うたかふへくもあらす[やぶちゃん注:総てママ。]

 夫婦くらしの事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、さして大切の物とても、なし。

「何をか、捨つへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と談合して、年々、祕藏して、そたて[やぶちゃん注:ママ。]たる豐後梅の鉢植を、引《ひき》ぬき、小㙒の天神の神前に、捨て置き、女房か[やぶちゃん注:ママ。]
、宿へかへると、大熱、せんせん[やぶちゃん注:ママ。「漸々(ぜんぜん)」。]に、さめて、程なく、本ふくいたしける。

[やぶちゃん注:「豐後梅」バラ科サクラ属交雑種ブンゴウメ Prunus mume var. bungo 。梅とアンズの交雑種。原産地は大分。観賞用。

「小㙒の天神」不詳。識者の御教授を乞う。]

 此治郞兵衞、其後、油小路邊を通りしに、初夜[やぶちゃん注:午後八時から九時頃。]過《すぎ》の事なりしか[やぶちゃん注:ママ。]
、女、壱人《ひとり》、なきなき、物をたつぬる[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]風情なり。

「何をたつぬるそ[やぶちゃん注:ママ。]

と、たつねしかは[やぶちゃん注:ママ。]

「私事《わたくしこと》は、さる武家に奉公いたす女なり。今日、夕かた、御出入《おでいり》の小間物やへ、つかひに參り、金子、拾兩ばかりの玳瑁(たいまい)の櫛を、三枚、持ちかへりて、一枚、取りおとしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、見へ侍らす[やぶちゃん注:ママ。]。主人の申さるゝは、

『もしも、此櫛なくは、手打《てうち》にすへし[やぶちゃん注:ママ。]。』

と申さるゝにつけて、あてもなく、かくの如く、たつね[やぶちゃん注:ママ。]ける。」

と申す。

 治郞兵衞、聞きて、

「それは、笑止なる事かな。」

とて、其近所にて、挑灯(てうちん)を、かり來りて、二人して、尋ぬれとも[やぶちゃん注:ママ。]、ひろいえす[やぶちゃん注:ママ。]

 女、なくなく、申すやう、

「迚《とて》も、歸へりても、うきめを見る事に候へは[やぶちゃん注:ママ。]
、是より、渕河《ふちかは》へも、身をは、なけ、申すへし[やぶちゃん注:総てママ。]。存《ぞんじ》もよらぬ御世話に、あつかり[やぶちゃん注:ママ。]たり。」

と、かたるを、不便に、おもひ、

「それは、わろき了簡なり。先々《まづまづ》、是より、在所へ歸り、親とも相談して、主人へ、わひこと[やぶちゃん注:総てママ。]も、したまへかし。」

とすゝめけれとも[やぶちゃん注:ママ。]

「いや。在所へ、女の身にて、ひとりも、歸られす[やぶちゃん注:ママ。]。まして、親に苦勞をかけるも、氣の毒なり。」

と、成程、身をも、なくへき[やぶちゃん注:総てママ。]やうすなり。

「夫ならは[やぶちゃん注:ママ。]、まつまつ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。]、其元《そこもと》かゝたへ[やぶちゃん注:ママ。]來たり、一宿《いつしゆく》ても[やぶちゃん注:ママ。「でも」。]ありて、思案も、し給へ。」

とて、無理に、ともなひ、歸へり、女房とともに、すゝめて、在所、勢州雲津《くもづ》へ送らする談合になり、人をやとひ、路錢も、あたへぬ。

 此女、雲津に知るべありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、それまて[やぶちゃん注:ママ。]
、おくりとゝけ[やぶちゃん注:ママ。]て、雇人(やとひど)は、京に、かへりけり。

[やぶちゃん注:「雲津」古名で歌枕でもあるが、一つは、現在の三重県北部の香良洲(からす)町にある岬とする。雲出(くもず)川の河口を抱く。ここ。一説にその北西直近の雲出川《くもずかわ》左岸の津市南部の雲出(くもず)地区ともする(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「雇人」治郎兵衛が彼女を京都から雲津へ送るのに雇った者。]

 其後、段々、親よりも、御主人へ御わび申しけるか[やぶちゃん注:ママ。]
、その女の、おとしたるにては、なく、あしきもの、ありて、取りかくせしよしにて、女のあかり[やぶちゃん注:明かし。]は立《たち》て、

「又々、奉公に、のほるへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、主人より申されけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、奉公に、こりて、其侭《そのまま》、在所に居たりける。

 三年、すき[やぶちゃん注:ママ。]
て、最前の「ひしや治郞兵衞」、「伊勢太々講《いせだいだいこう》」の人數《にんず》にて、參宮いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、ある日、雲津の一里はかりあの方《かた》にて、笠打ちかふり、のほり[やぶちゃん注:ママ。]ける所に、在所のわきより、女、壱人、ちいさき女を、供《とも》につれて來たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、治郞兵衞の顏を、つくつく[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]と見て、そばへ、より、

「もしも、おまへには、京の治郞兵衞さまにては、なしや。」

と、とふ。

 治郞兵衞も、立ちとまりて、

「成程、京都のものにて、名は治郞兵衞と申す。其元《そこもと》には、何とやら、見たる人の樣《やう》なり。」

と、こたへける。

 女の、いはく、

「私事《わたくしこと》は、先年、櫛をおとし、御世話にあつかり[やぶちゃん注:ママ。]しもの、そのゝち、私事、あかりも立ちて、其元樣《そこともさま》を、命《いのち》の親と存し[やぶちゃん注:ママ。]、二親《ふたおや》もろとも、御礼を申さんと、そんし[やぶちゃん注:総てママ。]候へとも[やぶちゃん注:ママ。]、あまり、心せきて、御所も覚へす[やぶちゃん注:ママ。]、家名もしらす[やぶちゃん注:ママ。]、只、『治郞兵衞樣』とはかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]を尋ねんやうも、なく、御恩も、おくらす[やぶちゃん注:ママ。]、日毎に、申出居《まふしいだし》申候ふ。是より、一町はかり[やぶちゃん注:ママ。]奧にて候ふまゝ、御立寄《おたちより》下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ。

「いやいや、夫《それ》は、先々《まづまづ》、珍重《ちんちよう》の事[やぶちゃん注:お目出たいことじゃ。]。しかし、連(つれ)も、是れ、あれば、又々、參宮いたす節《せつ》、立ち寄り申すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いへとも[やぶちゃん注:ママ。]、なかなか、女、がてんせす[やぶちゃん注:ママ。]

 むりに、いさなひて、歸へりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、二親はじめ、兄・妹、其外、近所、打《うち》より、淚をこほし[やぶちゃん注:ママ。]て、礼をいゝ[やぶちゃん注:ママ。]、無理にとゝめ[やぶちゃん注:ママ。]て、夕飯なと[やぶちゃん注:ママ。]
、出《いだ》し、盃《さかづき》を取《とり》かはし、日暮になりて、駕籠を、いゝつけ[やぶちゃん注:ママ。]、雲津の宿《しゆく》迄、送らせけるか[やぶちゃん注:ママ。]、道十町[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]はかり行けは[やぶちゃん注:総てママ。]、雲津川なり。

 河上、ゆふ立《だち》なと[やぶちゃん注:ママ。] しけるか、大水にて、川はたには、松明(たいまつ)・挑灯、おひたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]

「參宮人の船、かへりて[やぶちゃん注:転覆して。]、八人まて[やぶちゃん注:ママ。]死したる。」

と、さはきけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其内に、水中より、旅人壱人の死かい[やぶちゃん注:ママ。] を、あけ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 見れば、治郞兵衞が連の同行《どうぎやう》なり。

 おゝきにおとろき[やぶちゃん注:総てママ。]、夜明けてみれば、八人のしがい、殘らす[やぶちゃん注:ママ。] 、上《あが》りける。

 水も、少々、おたやかに[やぶちゃん注:ママ。]なりて、先へ渡りし者も、立ちかへり、くわしく聞けは[やぶちゃん注:ママ。] 、三拾人の内、廿壱人は、先の船にて、渡り、九人、殘りしもの、八人、一船に乘りて、かくは、水におほれ[やぶちゃん注:ママ。]死したり。

「雲津の在《ざい》[やぶちゃん注:村。]に、治郞兵衞も、とめられすは[やぶちゃん注:総てママ。]、一所に水におほれ[やぶちゃん注:ママ。]んに、陰德をなしたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にや、壱人、たすかりたり。」

と、みな人、申《まふし》けり。

[やぶちゃん注:「伊勢太々講」伊勢講に同じ。伊勢参宮のために結成した信仰集団。旅費を積み立てておいて、籤(くじ)に当たった者が、講仲間の代表として参詣し、霊験を受けてくる。神宮に「太太神楽(だいだいかぐら)」を奉納するので「太太講」とも呼んだ。本来、「講」は、仏教関係の集まりを指すが、神仏習合の潮流の中にあって現われた「神祇講」の一つ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

 なお、この終りのシークエンスは「伊勢太々講」で伊勢神宮に向かっている途中の出来事である。とすると、この女の実家の「雲津」は先の雲出地区の北部かでないと、おかしくなる。思うに、当時の「雲出川の渡し」は、恐らく、現在の「雲出橋」附近であり、「雲津の宿」は恐らく、現在の「雲出本郷町(くもずほんごうちょう)」附近と考えると(「ひなたGPS」のここを参照されたい)、距離も一致するからである。にしても、雲出地区、旧雲出村はそんなに広くない(リンク先の戦前の地図を見られたい)。娘の恩人であり、酒も飲んでいるから、親は近場でも宿まで駕籠を雇ったものであろう。

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「採蓮」端淑卿

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  採   蓮

            風 日 正 晴 明

            荷 花 蔽 州 渚

            不 見 採 蓮 人

            只 聞 花 下 語

                  端 淑 卿

 

さわやかに風や日かげや

花はちす汀(みぎわ)をつつみ

見えもせで蓮採る子や

花がくれかたらふ聲す

 

   ※

端 淑 卿  十六世紀(?)。 明朝。 當塗(たうと)の人。 敎論端廷弼(きやうろんたんえんひつ)の女(むすめ)である。 幼時から學を好み才媛の名が高かつた。

   ※

[やぶちゃん注:「みぎわ」はママ。歴史的仮名遣は「みぎは」が正しい。

 作者は明世宗嘉靖(一五二二年~一五六六年)年間の女流詩人で、「當塗」は現在の安徽省東部の県。長江右岸の要衝で、清代に太平府が置かれた。古来、軍事上の要地で、南西の東梁山・西梁山は、長江をはさむ天険である。北東の大凹山・馬鞍山は鉄を産する。現在は馬鞍山(まあんさん)市当塗県(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。同市は中国十大鉄鋼基地の一つであり、また、この当塗は、かの李白が亡くなった地とされ、墓と記念碑があることで知られる。「敎論端廷弼」「端廷弼」が姓名で、「敎論」とは儒学の教師を指すようで、当塗県のその地位にあった。同じ儒官の妻となった。以上は中文サイト「Baidu百科」の彼女の記載によったが、そちらには他の詩篇も載っている。調べたところ、標題は同じく「採蓮」(一部の中文サイトでは「採」を「采」とする)であった。以下に推定訓読を示す。

   *

 蓮(はちすのはな)を採る

風(かぜ) 日(ひかげ) 正(まさ)に晴明(せいめい)たり

荷(はちす)の花(はな)は 州(なかす)の渚(みぎは)を蔽(おほ)ふ

見えず 蓮を採る人は

只(ただ)聞く 花の下(もと)に語れるを

   *

「日(ひかげ)」は「日影」で「日の光り」の意。佐藤の訳は第三句で、蓮の花を採る子(この場合は「子ども」ではなく、「子」(し)で男、されば、そこには今一人、女がおり、しきりに男がモーションをかけて口説いているらしい)がいるようなのだが、視界には全く見えない。しかし、第四句は、花隠れに語らっている、その二人の睦言が聴こえる、という意味で採っている。蓮の花蔭にカップルの語らいを透視的に映像化しているようである。私は、一読、第三句の「不見」が「見えず」ではなく、「見ず」と読んでしまう癖が今までの漢詩体験で、こびりつてしまっているからであった。されば、語らっているのは、「蓮の花」であって、「美しい清純な蓮の花のところから、まさに、その蓮の花が、あたかも何かを語りかけているような声を、幻想の内に聴いている」という迂遠なシーンかと当初は「採」ってしまった。しかし、佐藤のそれが、題名からは、自然なのだろうし、それでこそ女詩人の艶歌とはなるのであろう。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三五番 老人棄場

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。「老人棄場」は「らうじんすてば」と読んでおく。]

 

   一三五番 老人棄場

 

 昔、六十になれば、デエデアラ野へやられたものだ。

 ところが或所に大層親孝行な息子があつた。どうしてもデエデアラ野へ遣らなければならぬ老父を野へ棄てるのは忍びないと、密(ヒソ)かに根太場(ネタバ)へ入れて隱して養つて居た。

 丁度其頃何の譯か知らぬが唐(カラ)の殿樣から技倆較(キリヨウクラ)べが來た。それは灰繩千束と、七曲り曲つた一本の木に穴を通して寄こせといふ難題であつた。日本の殿樣の御殿にはこの難題の解ける智惠者が無かつたので、これを解いた者には御褒美は望み次第と云ふ御布令《おふれ》を國々へ𢌞した。

 そこで孝行息子は其事を隱して置いた老父に訊くと、あんたら其んなことは譯の無いことだ。灰繩千束は鐵の箱を作つて繩千束をその中さ入れ鹽を振りかけてから火をつけて燒けば出來るし、七曲り曲つた木には先端(サキハシ)に蜜蜂の蜜を塗つて置き、大赤蟻の腰にカンナ糸を結び着けてデド端(ウラ)(前方)から放して遣ると、自然に木へ穴を通して遂に向ふ端へ拔けて行くものだと敎へた。

 其通りにして、日本の殿樣は技倆較べに勝つた。そして其男の望みは六十になつても老人をデンデアラ野に棄てぬといふ事であつたので、それからそんな事は沙汰止みにな た。

  (村の話。デエデアラ野は村々にあり、棄老譚を傳へてゐる。)

[やぶちゃん注:工藤茂氏の論文「村田喜代子『蕨野行』考」(『別府大学国語国文学』第四十四・二〇〇二年十二月発行・PDF)によれば、「遠野物語」の「一一一、一一二 驚異のダンノハナ」の『文中にある《蓮台野》は「れんだいの」ではなく「でんでらの」と呼ばれている所で『注釈 遠野物語』』(後藤総一郎監修・遠野常民大学編著、九七年八月二〇日筑摩書房刊)『に《蓮台野の字は柳田があてたものと思われる》と注されている。柳田はハスのウテナ(仏の台座)の意を込めて蓮台の字を当てたのであろうか』。『鈴本案三編の「遠野物語拾遺」』の『二六六には〈青笹村の字糠前と字善応寺との境あたりをデンデラ野又はデンデエラ野と呼んで居る》とあり、次の伝承を記載している』として、当該部「二六六」、及び、「二六八」を引用された上(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年郷土研修者刊の「遠野物語 増補版」のそれぞれの当該部)、本篇を紹介された上で、『遠野物語』の〈蓮台野〉は「レンダイ野」ではなく「デンデラ野」「デンデエラ野」あるいは「デエデアラ野」と呼ばれていたことが分かる』と述べておられる。則ち、柳田は勝手にありもしない「蓮台野」という京の風葬地名を宛がい、老人を遺棄した(正確には家から出して、その野原に住まわせ、日中は家に戻って仕事をして口を糊するという形態をとり、決して完全な「姥捨て」的なシステムではなかったから、「蓮台野」は如何にも相応しくないのである!)「デンデラ野」=「デンデエラ野」=「デエデアラ野」を出さず、私を含めた多くの後代の読者をあたかも、そうした場所が全く空間的に別個にあったかのように思わせ、民俗学者として、あってはならない名称捏造までしていたのであった。遺棄された老人が亡くなって、その遺体を埋葬したのが、「ダンノハナ」であったようで、「デンデラ野」に附属するようにあったものらしい。但し、「デンデラ野」と「ダンノハナ」はセットになったものであるが、附記で佐々木が言っているように、それらは複数の集落に同じセットになった二つが、複数、存在したのであった。「一一一、一一二 驚異のダンノハナ」の冒頭に従えば、六ヶ所を挙げてある。佐々木喜善の墓がある土淵町山口の「デンデラ野」と「ダンノハナ」(その入り口に佐々木の墓がある)の場合(グーグル・マップ・データ航空写真。附記の冒頭の「村の話」の村はここのことである)は、直線距離にして六百メートル弱である。死なせる場所と埋葬地との、この程度の距離は、別個な人の人生のターミナルの空間としては、連動したものであり、私には凡そ「別個」なのものとしては認識し得ないのである。

「根太場(ネタバ)」「根太」は通常は「ねだ」と読む。床構造の一部で、床を支える補強部材のことを指す。木造建築で、床板を張る下地の役割が主。「根太場」は、ここでは、床下の空間を指す。]

2023/06/25

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「朝の別れ」子夜

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  朝 の 別 れ

            我 念 歡 的 的

            子 行 猶 豫 情

            霧 露 隱 芙 蓉

            見 蓮 不 分 明

                  子   夜

 

思ひつめては見えもする

君ゆきがてのうしろかげ

おぼろめきつつ蓮(はちす)さヘ

花も見わかぬ朝ぎりに

 

[やぶちゃん注:「子夜」は、複数、前出。佐藤の作者解説は最初のこちらを参照されたい。ネットで検索するに、第二句の「猶豫」は「由豫」である。以上の原詩(「楽府詩集」収録のもの)を載せる所持する岩波文庫の松枝茂夫編の「中国名詩選」の「中」(一九八四年刊)でも、「由豫」であるので(但し、意味は同じ)、それを参考に、原詩を、再度、掲げ、訓読文と注を示す。

   *

 子夜歌

我念歡的的

子行由豫情

霧露隱芙蓉

見蓮不分明

  子夜

 我れ 歡(かれ)を念(おも)ふこと 的的(てきてき)たるに

 子(きみ)が行(おこな)ひには 由豫(いうよ)の情(じやう)あり

 霧と露と 芙蓉(ふよう)を隱し

 蓮(はす)を見るも 分明(ぶんみやう)ならず

   *

・「的的」通常は「明らかなさま」を言うが、ここは松枝氏の注の『一途(いちず)に』の意が相応しい。

・「歡」逢って嬉しい人。恋人。彼女が一途に思っている恋人を指す。

・「由豫」「猶豫(予)」に同じ。ここは、「ためらう感じ」を言う。

・「霧露」松枝氏の注に、『霧も露も同じく水で、凝っては露となり、地っては霧となって、朝夕変形をくりかえす。ここでは霧。』の意とされる。所謂、「巫山之夢」(ふざんのゆめ)、楚の懐王が、夢の中で巫山の神女と契ったが、その神女は別れに際して、「私は巫山の南に住み、朝には雲となり、夕べには雨となってあなたのお側におります。」と言って立ち去ったという宋玉の「高唐賦」にある故事、転じて「男女の情愛が細やかであること・深い情交を結ぶこと」の喩えて言うその語句を踏まえて、少し恨みを込めて述べたものと思われる。

・「芙蓉」漢語では「芙蓉」は元来はフヨウではなく、「蓮の花」を指した。松枝氏の注でも、『ハスの花。「夫容」(夫のすがた)と同音。』とある。

・「蓮」同前で、『ハスの花。「憐」(恋人)と同音。』とある。前の注とともに、漢語に冥い、私を含む一般人は、見逃してしまう大事な箇所である。

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三四番 神と小便

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一三四番 神と小便

 

 昔、あつとこで、馬子《まご》が馬に客を乘せて川を渡る時、小便が詰まつて來たから垂れ流すべとしたら、客が馬子どん馬子どん川にも神があるから、小便すると罰があたるぞと言つた。馬子は仕方なく思ひ止《とど》まつて、ある街道ぶちまで來て、ここだら大丈夫だべと小便をしやうとしたら、又客が、馬子どん、道にも神があるから垂れてなんねえと言つた。何處へ行つても神があると云はれるので、垂れる事が出來ないで、居ても立つても居られない位、小便が詰まつて來て、馬子も困り果てた。間もなく客が馬から下りて松の木の下で休んだので、馬子は松の木さ登つて客の禿げ頭の上さヂヤアヂヤアと小便を垂れ流した。客はそれとも知らないで、何だ、何だ、雨も降らねえどきに頭のてつぺんがやばつくなつて來たぞと云ひながら、上を向いたら、馬子が小便をしているので、ウンと怒つて、これ馬子、人の頭に小便垂れる法があるかと言つたら、馬子は木の上から、さつきから小便垂れべと思つてたけんどお客さんがどこさ行つても神がある神があると言つて、垂れることが出來ねえ、ほんでお客さんの頭におかみがねえから垂れ申したと言つた。(三原良吉氏御報告分の五。)

[やぶちゃん注:附記が本文末にあるのは、ママ。]

2023/06/24

「新說百物語」巻之五 「高㙒山にてよみがへりし子共の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。本篇の核心部は、語る僧の直接話法であるので、その部分を「……」と行空けで分離して、話柄内をも段落・改行を加えた。]

 

   高㙒山にてよみがへりし子共の事

 京、錦小路《にしきかうぢ》に、何院とかやいへる貴《たふと》き僧、おはしける。

[やぶちゃん注:「錦小路」この東西(グーグル・マップ・データ)。]

 あるとし、高㙒山に、のほられけれるか[やぶちゃん注:総てママ。]、高㙒山にて、物かたりしけるは、

 

「……此四年まへに、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なること、侍りき。

 此山の麓の村に、十二、三歲になるもの、熱病を、わづらひて、兎(と)やかく介抱すれとも[やぶちゃん注:ママ。]、そのかいもなく、相果《あひはて》ける。

 父母、是非もなく、此山に、ほふむりける。

 七日めの夜《よ》の明けかた[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、親のもとへ、歸りける。[やぶちゃん注:主語は亡くなったはずの子どもである。]

 家内、おゝきに[やぶちゃん注:ママ。]おそれ、誰《たれ》、戶をあくる者も、なし。

 其内に、やうやう、夜もあけかたになり、てゝおや、おもてに出《いで》て、樣子を尋ぬれは[やぶちゃん注:ママ。]、其もの、かたりて、いふやう、

「死したる時も、少《すこし》も覚へ[やぶちゃん注:ママ。][やぶちゃん注:ママ。]。ふと、目のさめたることく[やぶちゃん注:ママ。]なりけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、撫(なて[やぶちゃん注:ママ。])て見れは[やぶちゃん注:ママ。]、箱のうちなり。『扨は。我は死したりと見へたり。』とはかり[やぶちゃん注:ママ。]思ひて、さして、かなしくもなかりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あたまの上にて、大勢の声にて、鉦、打《うち》たゝき、念佛申すやうに、きこえたるはかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、そのゝちは、音も、せさりしか[やぶちゃん注:総てママ。]、又、あるとき、あたまの上の土を、かきのくる音して、箱を、そつと、引上《ひきあ》け[やぶちゃん注:ママ。]たり。あくると、其まゝ、橫に、こけて、箱のふた、われける。むかふをみれは、おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]狼(おほかみ)、口を明《あけ》て、居《をり》ける故、其あたりの石を、ひろいて、投(なけ[やぶちゃん注:ママ。])たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、狼、にけ[やぶちゃん注:ママ。]失《うせ》たり。それより、すく[やぶちゃん注:ママ。]に、迯(にけ[やぶちゃん注:ママ。])かへりたり。」

と、かたりける。

 念仏の音は、三日以前に、順礼、通りて、あたらしき墓を見て、大勢、廻向《ゑかう》して通りたる、其音にてぞ、ありける。……

 

「狼に掘り出されて、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]、此家へ歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、珍しき事なり。」

と申しけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、此僧、其所に尋ねゆき、其ものにあひて、直《ぢき》に、樣子、聞きて、かへりし、となり。

[やぶちゃん注:冒頭、「何院」と伏せ、「貴き僧」の名も出さないのはちょっと、噓っぽい感じはするが、最後が「かへりし」と直接体験の過去の助動詞「き」の連体形「し」(余韻の連体中止法)を用いているからには、その僧本人から、作者が以上の話を聴いたという構造になっているので、強ち創作物とも断じ得ない。熱性マラリアの回帰性の発熱による多臓器不全による仮死状態を、死んだものと誤認し(高野山には医師もいたであろうが、小児の病態の把握はなかなか難しい。現在でも医学部で、小児科医は、なり手が少ないことはよく知られている)、埋葬したが、そこを、偶々、狼が食おうと、掘り起こしたところが、丁度、熱も下がっていた少年が、石を擲って、追い払ったというシークエンスや、戻った彼を、亡霊や化け物と恐れて戸を開けようとする者がいなかったという辺りは、絶対にあり得ないとは断言出来ない感じもするし、何より、巡礼らの回向の念仏の声を墓中で聴き取った部分の合致には、実話を標榜する怪談のキモとしての、否定しようのない鋭いリアリズムがある。

「新說百物語」巻之四 「釜を質に置し老人の事」 / 巻之四~了

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。本篇を以って「巻之四」は終わっている。]

 

     釜を質に置《おき》し老人の事

 大宮の西に作兵衞といふもの、あり。

 六十余にて、妻子もなく、裏やを、かりて、ひとりすみけるか[やぶちゃん注:ママ。]、醒井通《さめがゐどほり》の「吉もんしや[やぶちゃん注:ママ。]」と云ふ質やへ、毎日、釜、ひとつ、持行《もちゆ》きて、鳥目《てうもく》百文、かりて、其錢にて、菜大根(な《だいこん》)をもとめ、是れを、町中、うりあるきて、その德分にて、何かを、とゝのへ、夜に入りて、「吉文字や」へ、釜を受《うけ》に行き、飯なと[やぶちゃん注:ママ。]、燒きて、また、あすの朝は、釜を持ち行き、鳥目百文かりて、もとて[やぶちゃん注:ママ。]とし、三年はかり[やぶちゃん注:ママ。]、暮しける。

 「吉文字や」の亭主、あるとき作兵衞にむかい[やぶちゃん注:ママ。]て、いふやう、

「最早、此釜も、三年の間、質物《しちもの》にとりて、利分も、過分に取りたり。毎日、毎日、苦勞の事なれは、此釜を、其元《そこもと》へ、遣はするなり。心やすく、あきなひ、いたさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しける。

 作兵衞、こたへて、いふやう、

「御心ざしは忝《かたじけな》けれとも[やぶちゃん注:ママ。]、私《わたくし》所持の物とては、此釜ひとつにて外に何のたくはへもなし。夫《それ》ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、朝、出《いづ》るにも、戶もたてす[やぶちゃん注:ママ。]、夜る、寐《ね》るにも、心やすし。中々《なかなか》、釜一つにても、家内にあれは[やぶちゃん注:ママ。]、心つかひ[やぶちゃん注:ママ。]なり。やはり、毎日毎日、御面倒なから[やぶちゃん注:ママ。]、質物に、御取《おとり》下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と賴み、夫より、又、壱年斗《ばかり》通ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]、迫付《おつつけ》、相果《あひはて》けるよし。

 「吉もんしや[やぶちゃん注:ママ。]」の亭主、聞きて、鳥目五百文、もたせて、樣子を見せに遣はしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、成程、釜ひとつの外、何の、たくはへも、なく、近所の相借屋《あひじやくや》、打《うち》より、世話いたし、ほふむりけるよし。

 枕もとに、辭世とおぼしくて、反古(ほうく[やぶちゃん注:ママ。「ほうぐ」。])のはしに、發句あり。

「いかなる人の、かくて、ありしそ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、心ゆかし。」

と、さた、しける。

   身は終(つい)[やぶちゃん注:ママ。]の薪《たきぎ》となりて米はなし

となん。

 名をば、「無窮(むきう[やぶちゃん注:ママ。「むきゆう」でよい。])」としたゝめたり。

「常には、物かく事もなかりしか[やぶちゃん注:ママ。]、手跡もよろしかりけり。」

となん。 新說百物語卷之五

[やぶちゃん注:実話奇譚。なにか、逢って話をして見たくなるような不思議な老人ではある。

「大宮」京都府京都市下京区大宮町(おおみやちょう:グーグル・マップ・データ)。

「醒井通」京都の醒ヶ井通。この南北の通り(グーグル・マップ・データ)。

「相借屋」「相店(あひだな)」に同じ。同じ大きな一棟の長屋を分割した借家人の者たち。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「戀愛天文學」子夜

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  戀愛天文學

            儂 作 北 斗 星

            千 年 無 轉 移

            歡 行 白 日 心

            朝 東 暮 還 西

                  子   夜

 

われは北斗の星にして

千年(とせ)ゆるがぬものなるを

君がこころの天つ日や

あしたはひがし暮は西

 

[やぶちゃん注:作者子夜は二篇が前出。作者解説はこちらを見られたい。所謂、「子夜歌」の一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここによれば、原詩は、「名媛詩歸」及び「樂府詩集」では第一句の「北斗星」を「北星晨」と作るとあり、別に「名媛璣囊」巻一及「古今女史」詩集巻一では「北晨星」に作るとある。但し、所持する岩波文庫の松枝茂夫編の「中国名詩選」の「中」(一九八四年刊)では、「樂府詩集」から採っていると推定されるが、そこでは、ここは「北辰星」となっている。「晨」(明け方になっても一部の星が明るく残っていること)と「辰」は同義ではない。一句の意味から見て、これは松枝氏の「北辰星」(北極星)が正しいように私には思われる。ともかくも、「斗」は佐藤が恣意的に弄っていることが判明する(しかし、「北斗星」の方が躓かないことは確かだ)。松枝氏の形で、以下に原詩と松枝氏の訓読を、一部、参考にして私の訓読を示す。

   *

 子夜歌

儂作北辰星

千年無轉移

歡行白日心

朝東暮還西

  子夜歌

 儂(われ)は作(な)る 北辰星(ほくしんせい)

 千年 轉移(てんい)する無し

 歡(くわん)の行(おこな)ふは 白日(はくじつ)の心たり

 朝(あした)は東(ひがし) 暮れには 還(ま)た 西(にし)へ

   *

 浮気性(うわきしょう)の男に対する怨み節を、北極星の不動と、太陽のくるくる巡る運行に擬えたもの。佐藤の標題「戀愛天文學」は、なかなかに、いいと私は思う。

・「歡」は「愛人」の意。

・「白日」太陽。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三三番 神樣と二人の爺々

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一三三番 神樣と二人の爺々

 

 遠野の六日町の或家の爺樣はひどく神信心をする人であつた。ところがその隣家に一向神信心などはしないで、每日每日默りこくツて草履《ざうり》ばかり作つている爺樣があつた。

 或年の御神明《ごしんめい》のお祭り[やぶちゃん注:「鬼火焚き」「左義長」などとも呼ばれ、小正月の火祭りの一種。]の日に、信心深い爺樣が隣りの草履作りに、お前は何日《いつも》草履ばかり作つて、神樣を拜む氣もないやうだが、今日ばかりは町内の鎭守樣のお祭りだから參詣しろよ。俺も一緖に行くからと、無理やりに家から連れ出して、一緖に參詣したと思つたら、どこへ行つたか其草履作りが見えなくなつた。せつかく誘つて一緖に來たのだから一緖に歸るべと思つて、此方彼方《あちらこちら》尋ねたが、どうしても見當らない。仕方なく一人で歸ると、隣の爺はいつの間にか家へ歸つて相變らず草履を作つて居た。ゼゼ俺はなんソツチを尋ね𢌞つたか知れない。いつの間に歸つたと訊くと、草履作りは、アアお前と一緖に神樣を拜んで居たら、神樣が、これをお前に遣るから大事にして持つて行けと言つたといつて、側に一ツの小袋が置いてあつた。何だべと思つて開けて見たら大判小判が一杯入つて居た。

 信心爺樣は御神明樣へ行つて、神樣申し、俺がこれ程信心して居るのに何もくれないで、あんな無信心な人に、金をくれるなんて、隨分神樣ツて情ない者だと恨むと、神樣は、これこれさう言ふもんぢやない、これには譯がある。實はお前の前世は雀で、いつもオハネ米を取つて食つたし、あの爺の前世は牛で、この社を建てる時に汗を流して材木を曳いてくれたものだ。それでお金を授けたと言つた。

  (菊池一雄氏御報告分の一四。)

[やぶちゃん注:「遠野の六日町」遠野市六日町(むいかまち:グーグル・マップ・データ)。

「御神明のお祭り」「鬼火焚き」「左義長」などとも呼ばれ、小正月の火祭りの一種。伊勢神宮のそれが有名であり、ここに出る神社は、同じ町内にある、遠野で「お神明さん」の名で親しまれている伊勢両宮神社でのそれと思われる。御夫婦で運営されているサイト「神社探訪」の同神社のページによれば、『一説に、中世の遠野領主・阿曽沼氏の時代に土淵町似田貝に勧請され、天正年間』(一五七三年~一五九二年)『に遠野町の南方にある大平山に移り、正徳元』(一七一一)年、『遠野南部氏によって現在地に遷宮されたと伝えられている。遠野三社の一つとして、古来より領主や町人達の信仰があつかった。境内地には、松尾神社と経ケ沢稲荷神社が祀られている』とあり。『境内由緒書き』を引かれて、『当神社は阿曽沼広綱の時代、遠野郷民達が伊勢参宮の際拝受せる大麻を尊拝すべく小祠を建立して祀り、御伊勢堂と称し』、『処々にあり。南部利戡の代に至り』、『郷民達が伊勢両宮の神威の昂揚をはからんとして』、『新たに猿ヶ石川岸に宮地を卜定し』、『宮社を建立し、土淵似田貝の御伊勢堂より神霊を遷座す。後に遠野南郊に祀ってある御伊勢堂の神霊をも合祀し、正徳元』(一七一一)年『九月五日、盛大なる遷座祭を挙げ神明宮と称す』。『宝暦四』(一七五四)年、『秀麗なる神輿奉献され、遠野五町内わたり』、『渡御神事』、『盛大に斎行さる。以後三年毎に斎行される慣例となるも、凶作・重税等により中断の時期あり、明治維新後』、『伊勢両宮神社と改められ、明治五』(一八七二)年に『村社に据えられ』たとある。

「オハネ米」所謂、「散米」(さんまい)のことであろう。神や仏に参った際に供える米、或いは、祓(はらい)や清めの目的で、撒き散らす米で、「サンゴ(散供)」「オサゴ(御散供)「ウチマキ(打撒)」などとも称し、白紙に米を包んで、一方を捻ったものを「オヒネリ」とも呼ぶことから、本来は、神への供え物である米を意味したが、米の霊力によって悪魔や悪霊を祓うためにまき散らすこととなった。たとえば,「延喜式」記載の「大殿祭」(おおとのほがい)の祝詞(のりと)の注に、出産にあたって、産屋に米をまき散らし、米の霊力によって産屋を清めたことが見えている(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「オハネ」というのは「跳ね飛ばす」(撒き散らす)の意か、或いは神への供え物として、収穫された米の中から良質のものを、特に分けて=「はねて」おいた「米」の意かも知れない。]

ブログ1,970,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和三十二年十二月 / 文芸時評~了

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『東京新聞』昭和三十二年十一月二十六日附・二十七日附・二十八日附に掲載されたとある。しかし、う~ん、だとすると、内容は、時制的には――昭和三二(一九五七)年十一月――なんだな。まあ、同年十二月末に発行となった文芸雑誌・総合雑誌の十二月号を読んで書いたというのだから、しょうがないか。実際、読まれて、評価が定まるであろう事態は十二月に入ってからだという謂いか。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日未明、1,970,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年六月二十四日 藪野直史】]

 

   昭和三十二年十二月

 

 この時評を書くために二日がかりで、約二十編の小説と十編近くの戯曲を読み、たいへんしんが疲れた。百八十枚(戯曲二編)、百三十枚(小説)なんてのが混っているのだから、疲れるのも当然である。

 時評を書くのだからと、初めは机の前に坐って読んだが、何も時評用の特別の読み方もないことが判ったので、あとはごろりと横になって読んだ。習慣になっているせいか、この方がすらすらと頭に入るようだ。

 今月の小説の大将百三十枚というのは開高健「裸の王様」(文学界)で、読んでいる間は面白かった。よく考えよく計算された小説で、読者に与える効果もはっきりと計算済みのようである。画塾から始まって、絵具会社だの児童心理学だのコンクールだの、さまざまの枠の中で、人間がめだかのように右往左往している。力作と言うべきだろう。

 しかしこの作品に対して、読む方の視点をちょっとずらすと、ここに出て来る人物のほとんどが、枠にはめこまれた死物と化し、つまりこの作品は単なるはめこみ細工ではないかという疑問が生じて来る。

 たとえば少年の父親、あるいは母親など、うまく描けているようで、しんのところは漠としてぼやけている。単なる計算では人間はとらえられないということにもなるか。

 

 私はこの作者を含めて、今年輩出した新人たちに対し(一部をのぞき)ひとつの共通点を感じる。小説家という言葉があるが、この人たちは小説家というより、小説メーカーという感じがするのだ。(ライターよりメーカーが下だと言っているわけではない。)だから出来上ったものも、作品というよりは、製品に近く、製品であるとすれば、年年新型改良型をもって競争するということになるだろう。すなわちこの「裸の王様」は前作「巨人と玩具」の改良型で、しかもなかなかよく改良されていて、他のメーカーたちの好個の競争目標となるだろう。

 小説がメーカー品になって行くことに対し、私は別に悲しいとも嘆かわしいとも考えない。

 これがこの二三年先にどうなって行くかと、その興味だけがある。

 

 こんな作品に対し、一方昔ながらの上林暁「春の坂」(文芸春秋)、尾埼一雄「父の顔」(群像)などがあり、ヘんてつもない題材を、へんてつもない文章で叙述したものであるが、ここには眉に唾(つば)をつけないで読める安心感がある。いろんな物語で読者をよろこばせるのと、まぎれもない手製を差出すのと、どちらが読者にサービスになるか、問題は残るだろう。この数年間ずいぶん私小説はたたかれたが(私は一度もたたかなかった。擁護した。実は私にも多分に私小説家的傾向があるので、私小説をたたけば、自分で自分をたたくことになるからだ。自分で自分をたたくのは損だ)たたかれても生き残っているのは、その読者がいるためであり、私小説と反対の小説が腰がすわっていないせいだろう。

 

 野口富士男「死んだ川」(群像)は「父の顔」と同じく父親を描いたもので、「死んだ川」は重い。父親の一生を叙述して、筆は的確であり、感傷を削り落した佳作である。最後に父親が死んで、母が「長いあいだ、ご苦労さまでございました」と死体にあいさつするところなど、一編のしめくくりとして効果的である。

 西野辰吉「黒い谷間」(群像)は終戦直後の朝鮮人送還を取りあつかったものだが、何か足りないような感じがする。

 もともとこの作家には、何か吹っ切れないものがあって、それが魅力にもなっているのだが、この作品ではそれがマイナスに働いていると思う。

 

「文学界」では一幕物戯曲特集をしている。私は今まで一度も戯曲を書いたことがない。作法を勉強するのがめんどうくさいからであるが、所載の数編を読み、少しばかり技痒(ぎよう=腕がむずむずすること)を感じた。このくらいならおれだって書けそうだという気分である。皆、楽に書いているらしい。

 中では大江健三郎「動物倉庫」が一番面白かった。アルバイト学生をのんだ大蛇という羞想も面白かったし、実はのまれてなかったというひっくり返しも利いている。しかしこの作家は、おのれを守って頑固なのか、芸の幅が狭いのか、いつも同じような道具立てと人物しか出さない。その点読む方で飽きが来る。

 松本清張「いびき地獄」も割に面白かったが、同じ話をもとにした小説が同じ作者にあり、それにくらべるとこの戯曲の方が落ちる。

 

 遠藤周作「女王」は展開が単純過ぎて、一編の戯曲に仕立てる必然性がうすいと思う。最後のひっくり返しも、あまり利いていない。周作の習作とでもいったところか。

 曽野綾子「招魂」も、同じ作者の小説にくらべると段が落ちる。人間が類型的にしかとらえられていないし、年寄と若い世代の対立も月並である。

 石原慎太郎「霧の夜」は読んでいてなじめなかった。会話が生硬すぎるのである。私は会話を日常のリアリズムまで引下げろとはいわないし、むつかしいことを語ってもよろしいが、それがこなれてないと困る。たとえば「これはこの世界で俺にとっての、初めての義務であり責任であり生活の目的だったからな。俺にはそれを拒んだり批判して見る何ものもなかった。俺は、そう、俺は嘻々[やぶちゃん注:この「きき」は「喜んで笑っている様子・満足しているさま」の意。]としてそれに従ったよ」こういうことをしゃべる男の像が、私には想像が出来ないのである。もし現実に私の前にあらわれたら、私はぞっと鳥肌が立つだろう。

 これはこの戯曲に限らず、石原慎太郎の他の小説にも通じる私の感想でもある。

[やぶちゃん注:以上の石原慎太郎への感想は大いに同感する。]

 田島俊雄「湖底」は、編集後記によれば「古風ではあるが確実なタッチの佳作」とあるが、三百四十八編の中から選ばれたものとしては、いささか低調である。

 中村光夫「人と狼」(中央公論)は百八十枚という大作で、いささかうんざりしながら読み始めたが、なかなか面白くて、ついに休憩なしで最後まで読んだ。新旧世代の対立あり、死病の問題あり、女のとりっこあり、アプレのドライ気質あり、何やかやがのた打ち鰯りながら進行する。

 前記一幕物をもりかけとするならば、これはこってりと脂を浮かせた五目そばみたいなもので、たっぷりたんのうはしたが同時に少々胸にもたれた。

 作者の言葉によると「三年ほど前、パリの下宿にいたころ、ふと思いたって」書いたのがこの戯曲だそうだが、私はパリに行ったことはないが、人の話や書いたものを読むと、パリとはたいへん楽しい都で、遊ぶところも多いらしいのに、それに背を向け下宿の一室に閉じこもり、こんな修羅の世界をこつこつとあてもなく描いた作者の心理が判らない。いや、判らないと言うより、その方に興味がある。

 野間宏「冷凍時代」(文学界)はミュージカルスで、異色作と言うべきだろう。いつか「中央公論」の座談会で、私はミュージカルスを否定するような言辞を弄し、その後花田清輝からかみつかれたことがあった。この「冷凍時代」は野間宏が意外の才能を示した作品であると私は思うが、これが野間宏の歩いて行く正しい道なのか、あるいは才能の浪費に過ぎないかは、私にはよく判らない。

 も少し将来にならないと、だれにも判らないだろう。

[やぶちゃん注:「ミュージカルス」この執筆の二年前に、ドイツ文学者にしてコント作家でもあった秦豊吉が発案・上演された『帝劇ミュージカルス』。その時どきの人気タレント・コメディアン・売れっ子の歌手をゲスト出演させるというフォーマットを持ったブラウン管時代の軽演劇の一つで、その劇場版(平凡社「世界大百科事典」の「軽演劇」を参考にした)。]

 

「新潮」は恒例の全国同人雑誌推薦小説特集で、九編の小説が出ている。皆三十枚程度の短編で、それぞれ面白かった。何百編の中から選んだのか知らないが、皆うまいものである。総じて小味であるが、これは枚数の関係で致し方なかろう。

 二三日前の新聞で、この中から副田義也「闘牛」に賞が与えられたと出ていたが、まあ私も異存がない。もっともどれが賞になっても、大して異存はないところだ。

 大塚滋「もう一つの死」。なかなか凝った作品で、長いものを書いても、うまくこなせるだろうと思われる。この人も、ライターかメーカーかというと、メーカーに属する型らしい。この人は新聞記者らしいが、私がメーカー型と目する作家には、新聞記者またはそれ出身が多いようである。

 やはり事件や材料をたくさん仕込んで置かねば、小説家になれないという風潮が、近い将来に来るかも知れない。そうなれば作家志望者は、先ず新聞社の試験を受けに行くということになるだろう。

 

「新日本文学」には労働組合文芸コソクール入選作として、三編の小説が並んでいる。その中の畑中八州男「泥だらけの記」は文体が椎名麟三にそっくりで、書き出しから「深夜の酒宴」によく似ている。「深夜の酒宴」は「朝、僕は雨でも降っているような音で眼が覚めるのだ」、「泥だらけの記」は「朝、僕はきまって耳につきささるような動物の鳴き声で眼がさめる」となっている。

 内容的には優れていても、あまり影響を受けすぎているのは、入選としない方がいいと思う。影響を受けることが悪いと言うのではない。習作時代にはだれだってだれかの影響を受けるにきまっているし、影響を受けることで成長もして行くのだ。

 そしてそれから脱却する時から一人前(?)になるのであって、やはりコンクールなどというものは、まずくとも一人前のを入選させるべきだと思う。

[やぶちゃん注:『畑中八州男「泥だらけの記」』国立国会図書館デジタルコレクションの原雑誌で視認出来る。頭には『炭鉱労働組合三十一年度文芸コンクール入選作』とある。名前は「やすお」と読むか。]

 

 総合雑誌に変貌した「キング」が、売行きが思わしくなかったのかどうか知らないが、十二月をもって終刊となった。

 川崎長太郎「ある大男の一生」は、いつものような不覚を取ったり取られたりするような情痴ものと違って、一人の大男の雇い人の一生を描いたもので、いい作品である。また「キング」のような大雑誌の終刊号にふさわしい題材で、弔辞みたいな役割を果たしているのは皮肉である。

 井上友一郎「六オンスの手袋」(中央公論)はボクサーの世界を描いたもので、ストーリーテラーとしての腕を縦横にふるった作品。私はボクシングの世界には全然無縁だが、それでも面白く読んだ。ただ勝ち意識とか、負け意識とかが、常識的にとらえられていて、もっと私たちに判らないような特異な心理、微妙な意識があるんじゃなかろうか、という気持が残る。

 飯沢匡「剌青師訪問」(文芸春秋)も、見知らぬ世界を見せてくれるという点で「六オンスの手袋」と共通しているが、これはタッチが軽い。軽いから成功しているようなもので、いい読物と言えるだろう。

 

 以上いろいろとほめたり悪口を言ったりしたが、他を批評する仕事なんて、どうも重苦しくてしようがない。これがまた一年も経つと、その重苦しさをすっかり忘れてしまい、月評をどこからか頼まれると「はい。では、やってみましょうか」と気軽に引受け、あとで後悔するということになるのである。

 今も私は後悔している。

 

[やぶちゃん注:既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、本底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」「風宴」「蜆」「黄色い日日」「Sの背中」「ボロ家の春秋」「庭の眺め」「魚の餌」「凡人凡語」「記憶」「狂い凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、

長編「つむじ風」

のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。

2023/06/23

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「乳房をうたひて」趙鸞鸞

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  乳房をうたひて

            浴 罷 檀 郞 捫 弄 處

            露 華 凉 沁 紫 葡 萄

                  趙 鸞 鸞

 

湯あがりを

うれしき人になぶられて

露にじむ時

むらさきの葡萄の玉ぞ

 

   ※

趙鸞鸞  唐の妓。 未詳。 その作の傳はるものは五首卽ち、雲鬟、柳眉、檀口、酥乳、纎指の五題いづれも肉體の美を咏じたものである。 もとより閨房の譃咏ではあるが、その纎細な美は同じ唐の妓女史鳳の七首などとは比ぶべきではない。 譯出したものは酥乳の轉結である。 その起承は「粉香汗濕瑤琴翰、春逗酥融白鳳膏」であるが、文字の美を去つてその意を傳へても無意味に近いからこの二句の譯は企てなかつた。

   ※

作者解説の中の「閨房」は「閏房」と誤っている(恐らくは誤植で校正で佐藤自身も気づかなかったのであろう)。講談社文芸文庫版で訂した。

 個人ブログ「杉篁庵日乗」の「趙鸞鸞の詩」に、現在に伝わる五首が、凡て、電子化されているので、是非、参照されたい。訓読・語注も完備している。それを参考に、以下に原詩全体を示し、訓読してみる。

   *

 酥乳

粉香汗濕瑤琴軫

春逗酥融白鳳膏

浴罷檀郞捫弄處

露華凉沁紫葡萄

  酥乳(そにゆう)

 粉(ふん) 香(かんば)しく 汗 濕(しつ)す 瑤琴(やうきん)の軫(しん)

 春 逗(とど)まりて 酥(やはら)かく 白鳳(はくほう)の膏(あぶら)を融かす

 浴(ゆあみ) 罷(を)はりて 檀郞(だんらう)の捫(と)りて弄(もえあそ)ぶ處(ところ)

 露(つゆ)の華(はな) 凉(すず)やかに 紫(むらさき)の葡萄に沁)(し)む

   *

杉篁庵主人氏の語注によれば、

   《引用開始》

・酥乳:白く柔らかく滑らかな乳房。

・瑤琴:玉琴。瑤は美しい玉(ぎょく)。

・軫:七弦琴の糸巻の部分。(悲しむ、悼む。)

・逗:からかう、かまう、あやす。誘う、招く。留まる。 逗弄:からかう、ふざける。誘う。

・酥:柔らかい。

・膏:脂肪。肥えてうるおいのあるもの。

・檀郎:夫や愛する男を称する。だんなさま。

・捫:手を当てる、押さえる。

・沁:しみ込む、滲(にじ)み出る。

   《引用終了》

言わずもがなであるが、「粉」は「白粉」(おしろい)。杉篁庵主人氏の「軫」の注の意味は、表では映像として彼女が演奏しているのであろうところの『七弦琴の糸巻の部分』の視覚的なアップ画像のそれであるが、その漢字が別に持つ動詞としての意味である『悲しむ、悼む』や「憂える」ような、妖艶にしてダルな雰囲気が、その七弦琴の調べに示唆されているという聴覚的効果を狙っているのを指しているのであろう。

 この二句については、いろいろ言ってみたい気はするが、語るに落ちることしか言えないような気もするので、敢えてやめておくこととする。]



佐々木喜善「聽耳草紙」 一三二番 隱れ里

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。

 なお、この話の附記は異常に長いので、底本のポイント落ちと字下げは孰れもやめて、本文同ポイントで引き上げた。

 

      一三二番 隱 れ 里

 

 シロミ山の「隱(カク)れ里(ザト)」のことは「遠野物語」の中にも出て居るが、あれとは亦別な話をして見やう。この山の東南の麓の金澤(カネザワ[やぶちゃん注:ママ。])と云ふ村に某と云ふ若者があつた。此男或時山へ行くと、どの邊の谷の奧果(カツチ)であつたか、とにかく未だ嘗つて見たことも聞いたこともない程大きな構への館に行き當つた。其家のモヨリは先づ大きな黑門があつた。其門を入つて行くと鷄が多く居た。それから少し行くと立派な厩舍があつて其中には駿馬が六匹も七匹も居た。裏の方に𢌞つて見ると爐《ゐろり》には火がどがどが燃えてをり、常居《ゐま》へ上ると其所には炭火がおこつて居る。茶の間には何かのコガ(大桶)があり、座敷には朱膳朱椀が並べられて、其次の座敷には金屛風が立て𢌞されて、唐銅火鉢(カラカネ《ひばち》)に炭火が取られてあつたが、何所にも人一人居なかつた。さうして見て步るくうちに、何となく恐ろしくなつて其男は逃げ歸つた。

 (その男は少々足りない性質《たち》であつた。村の和野の善右衞門と云ふ家へ聟に來たが、或年の五月に田五人役《たごにんやく》とかで灰張(アク《は》)りへ遣ると、一番上のオサの水口へ、五人役振りの灰を山積さして置いて來た。どうしてそんな事をしたと訊くと、なあに上のオサの水(ミナグチ)が、五人役振りの灰を山積さして置いた來た。どうしてそんな事をしたと訊くと、なあに上のオサの水が、五人役の田にかゝるべから、同じ事だと言つたので離緣になつた。)

[やぶちゃん注:以上が正規本文で、最後の丸括弧部分は本文と同ポイント。

『「遠野物語」の中にも出て居る』これは、『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六三・六四 マヨヒガ』の「迷い家」がそれである。但し、そこでは「隠れ里」の文字はない。しかし、「六四」の冒頭に『金澤村(カネサハムラ)【○上閉伊郡金澤村】は白望(シロミ)の麓(フモト)、上閉伊郡の内にても殊に山奧にて、人の往來する者少なし』とあるので、ここで佐々木が言う「隱れ里」=「マヨイガ」であることは間違いない(なお、柳田國男の「一目小僧その他」の中に、「隱れ里」(ブログ・カテゴリ「柳田國男」で全十五章分割)と、これを題として用いた論考があるが、これは、所謂、「椀貸伝説」の考証(主に柳田お得意の自説擁護と他者批判)がメインであって、論点は、本篇や「遠野物語」の「マヨイガ」とは微妙に異なったヘンな論考である。まあ、冒頭の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を読んでいただくと、それは明瞭である)。さて、この「上閉伊郡金澤村」の「白望(シロミ)」というのは現在の大槌町上閉伊郡金澤(かねざわ:旧字はママ。グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)で、「白望山」は現在は「白見山」で地図上に出る。標高は千百七十二メートル。「ひなたGPS」の戦前の地図でも、既に「白見山」となっているので、「白望山」の表記は江戸以前のものか、地元での異表記であろう。ここは大槌町の金澤地区と、宮古市、及び、遠野市の三箇所の交わったここにある。「遠野物語」に従うなら、この山の現在の金澤地区内に「隱れ里」はあったということになるが、御覧の通り、金澤地区の同山の麓部分は、今も、尾根が錯綜する、人口物が見当たらない、かなりの深山であることが判る。「隱れ里」と言うに、現在も相応しいのである。

「田五人役」不詳。田地の、一番、上方に、上級な肥えた田圃があり、そこから、オサから借りて田を作っている五人の下作人が段々に、質が悪い田地があり、恐らくは、この善右衛門の田は、その最悪の、ずぶずぶの「汁田(しるた)」のようなものであったか。そのオサの田圃を交代で五人の小作人が管理をしているのであろう。

「灰(アク)張り」藁などを燃やして作った無機物の灰(はい)を、田に均等に振り撒いて、田の底の地味を改良することを意味するか。

 以下が、附記。]

(此話は其男の友人の村の百姓爺の大洞萬丞殿から聽いたものであつた。)

(此所に參考の爲に附記して置くが、此「隱れ里」の話は山ばかりではなく河や沼等にもあつた。其一例として和賀《わが》の赤坂山の話を採錄して置く。昔鬼柳村に扇田甚内といふ人があつた。或朝早く起きて南羽端(ハシ)[やぶちゃん注:「羽端」二字へのルビ。]の上を見ると、其處に若い女が立つてゐて甚内を手招ぎした。甚内は不審(イブカ)しく思つて見ぬ振りをして過してゐたが、こんなことが二三日續いたので、何だか樣子を見たいと思つて、或朝其沼のほとりへ行つて見ると、齡頃(トシゴロ)二十《はたち》ばかりの容貌(ミメ)佳《よ》い若い女が、私はあなたと夫婦になる約束があるから、私の家へ來てくれと云つて笑ひかけるその容子は、實に此世に類のないやうなあでやかさであつた。甚内もさう云はれると思はぬ空に[やぶちゃん注:「思いもしなかった好機にすっかり心が空高く行くように高揚してしまい」の意であろう。]、心を惹かれて、吾ともなく[やぶちゃん注:「思はず」。]女のあとについて二三十步ほど步むかと思ふと、早《はや》見たこともない世界へ行つて、山のたなびき、川の流れ、草木のありさま常と異《ことなり》り、景色がめつぽうによろしい。そのうちに此所が吾家だといふ家に着いて見れば、男などは見えず、美しい女達が大勢いて、今お歸りかと皆が喜び、吾主《あるじ》のやうに敬愛する。甚内も初《はじめ》の程は變でならなかつたが遂には打解けて其女と妹脊《いもせ》の契りをも結んだりなんかして、大分の月日を送つてゐた。だが月日の經つにつれて、どうも故鄕の妻子のことが、とかくに胸に浮んで仕方がなく、そのことを女に話すと、女はいたく嘆いて、家のことは決して案じなさるな、お前が居らぬ間に私が有德富貴《うとくふうき》にして置いたから、そしていつまでも此所にゐて給はれと搔口說《かきくど》いて困る。けれども一旦とにかく歸つて、本當にいとま乞ひをして來て、心置きなく夫婦にならうと云ふことになつて、やつと許しが出て甚内が家へ歸ることになつた時、女が、必ず吾々の樣子を人に語つてくれるな、語つたらもう二度と逢はれぬと泣き、又心もとなさよと言つては泣く。それをやつと納得させて家へ歸つた。吾家へ歸つて見ると、たゞの一ケ月ばかりと思つてゐたのだが、三年の月日が經つてゐたとて、親類一族集《つど》つて、村の正覺寺の和尙まで招《よ》んで、自分の法事をしてゐる眞最中であつた。そしてほんにあの女が言つた通りに自分の居らぬうちに、前よりずつと身代もよくなつていた。寄り集つて居た人々は驚き怪しみ、家ではお前さんは死んだものとばかり思つてこんな事をしてゐるが、今まで何處へ行つてゐなすつたと口々に問ひ糺した。仙北へ、水戶へ、仙臺にと初めの程は言ひ紛らしたが、どうも辻棲の合はぬ話ばかりである。後で女房からうんと恨まれて、遂々《たうとう》實《まこと》を吐くと、其言葉を言ひ終るや否や、甚内の腰が折れて氣絕した。その後は不具廢人となつた上に、以前の貧乏になり返つてつまらぬ一生を送つた。

[やぶちゃん注:「和賀の赤坂山」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図で旧和賀郡を調べたが、見当たらなかった。

「鬼柳村」現在の北上市鬼柳町(おにやなぎちょう)・上鬼柳下鬼柳に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「南羽端(ハシ)」幾つかの記事を見ると、「南羽端山」とする固有名詞の山の名としてあるようだが、不詳。]

 其當時甚内の隣家に關合の隼人《はやと》といふ男が住んでゐて此事を聞き、甚内こそ愚かで口惜しいことをしたものだ。俺なら一生歸らず、其美しい女と睦《むつま》じく暮すがと言ひ、又心中でさう思つて、每朝羽端《はし》の方を眺める癖をつけた。すると或朝羽端山《はしやま》の蔭から女が手招きをして居るのを見付けたので、思う事が叶つたとばかり喜んで飛んで行つたが、こいつ狐に騙され、馬の糞を食はされて家へ還された。

 尙亦、太田村、西山の奧に赤澤といふところがある。黃金があるといはれた昔、[やぶちゃん注:底本は「いはれた、昔」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]此澤に草分(クサワケ)といふ業《げふ》をいとなむ者が二人居た。彼等二人は金の在處(アリカ)を尋ねようと山奧へ分け入つた。四十《しじふ》に二十《はたち》位の者共で、澤に柴萱《しばかや》で小屋がけをして住んでゐた。或日二十になる方が少々腹痛(ハライタ)を起し、小屋に殘つてゐた。ひどく痛むといふ程でもないから、春の日永に退屈して鼻唄など口吟《くちず》さんでゐると、そこへ齡《とし》の頃十六七にも見える娘がひよつこりやつて來た。あなたが面白い歌を唄つて居られるから聽かして下さいと言つて入り込んで來て動かぬ。所望されるまゝに若者は一つ二つ歌を唄つた。するとひどく喜んで、明日も來るから又きかしてくれと約束して歸つた。其後若者は同僚に僞病《けびやう》をつかつて小屋に殘り、訪ねて來る娘と逢つてゐた。娘は酒や菓子などを持參して男に興を添へた。或日その酒盛りをやつてゐるところへ同僚が歸つて來た足音がしたので、女は持參の袋の中から小屛風を取出し其蔭にかくれてゐた。歸つて來た男は仕事の道具を小屋に置忘《おきわす》れたから、それを取りに來たが、今なんだか女の話聲がしたやうに思うが、あれはなんだと訊かれ、若者は困つて顏を赤くしてゐた。傍に女履《をんなば》きの美しい草履《ざうり》などもあるので、いよいよ問ひ詰められることになると、件《くだん》の女は隱れてゐたところから笑ひながら出て來た。かう見とめられてはもう仕方がない。どうせかうなれやお前さんも一つお酒を召しあがれと言はれて男は呆れた。いろいろ問答のあげくに、女はお前さん達は金《きん》の在處《ありか》を探して居るのだらう、そんならいくらでも私達が敎えて[やぶちゃん注:ママ。]上げようと云ふことになり、なほ四十の男には自分の伯母だという三十歲位の女を連れて來てあてがつた。そして此男女四人は山中で樂しく暮してゐた。それからと云ふものは黃金《わうごん》も多く見付けたので、男達のいふには、此若者の方には妻もないからいゝが、己《おれ》には妻子がある。こんな寶を持つて居ながらこれを妻子に見せないではすまぬから、一先づ里へ歸つて、それから改めて此處へ來てお前達と樂しく暮さうといふと、女達はいやいや里へ下ると心替りして二度と此處へは來ぬから、どうしても歸さぬといふ。いろいろ押問答《おしもんだう》のすへ[やぶちゃん注:ママ。]、とにかく女達を納得させて歸る事になつた。そこで、それでは黃金のありかを敎へて上げようか、此谷川の水上《みなかみ》の大きな朴《ほう》の木の下を掘れば黃金がある。それを持つて行つて、約束を違へずに又此處へ來てくれ、私達は此處で待つてゐるからといふ。兩人が行つて見るといかにも大きな朴の木があり、其下を掘ると黃金が澤山あつた。それを二人でうんと背負つて里へ歸る途中、あの女どもはあんなに美しいが、屹度《きつと》魔性のものに相違ない。この金があつたら何しに二度と山へなど歸らう。恐しいことだと語り合ひつゝ來ると、[やぶちゃん注:この読点は「合ひつゝ」の後にあるが、不自然なので、「ちくま文庫」版で訂した。]荷がひどく輕くなつた。家へ歸つて下《おろ》して見ると黃金はたゞの赤土になつていた。その後二人が山へ引返して行つて、彼《か》の女達を探したけれども、もう二度と逢はれなかつた。それからは何だか知らぬが、此山中では折々人の叫聲《さけびごゑ》がするやうになつた。

[やぶちゃん注:「太田村」「西山の奧に赤澤といふところがある」幾つかあるが、私がそれらしく見えるのは、現在の花巻市太田(旧太田村)の西方にある赤澤山の大田村側の沢筋ではないかと踏んでいる。「ひなたGPS」の戦前の地図で中央に「赤澤山」があり、それを拡大して東に動かすと「太田村」である。但し、この山(標高七百七十四メートル)は、現在は岩手県北上市和賀町横川目(グーグル・マップ・データ航空写真)にあるが、殆んど人造物の存在しない深山であり、「隱れ里」にぴったりである。

「草分(クサワケ)といふ業」通常、土地を開拓して一村一町の基礎をきずくことを言うが、後の展開を見ると、鉱山を探す山師のようである。

「朴の木」モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata当該ウィキによれば、『和名の「ホオ」は「包」を意味し、大きな葉で食べ物などを包むことに用いたことに由来する』とあり、『大きなものは樹高』二十~三十メートルで、『幹の直径』も一メートル『以上になる』高木である。『ホオノキの葉は大きく、芳香があり、殺菌・抗菌作用があるため、食材を包んで、朴葉寿司』『などに使われる』とある。]

 尙亦山口村和賀川の流域に、貝殼淵といふ淵があり、[やぶちゃん注:以上の読点は「ちくま文庫」版で補った。]その又少し下流には御前淵(ゴゼンブチ)といふのがある。昔、田代六處《ろくしよ》の村人が此淵上で木を伐つていたが、誤つて斧を取り落してしまつた。手を伸べて取らうとすると、其斧がするする淵の深みへ滑り込んで入つた。其男は斧を取ろうと思つて淵の中へ入つて行くと、不意に廣い廣い野原へ出た。そして向ふの方には立派な御殿などが見える。これは不思議なことだと思つて、靜かに其處へ步み寄り、内所《だいしよ》などを窺うと、其壯麗さ、金銀寶玉をちりばめ、朱塗《しゆぬり》丹漆《にうるし》を交へた造りであつた。尙奧の方を見たいと思つて、平門《ひらもん》から入つて行つたが、誰も咎める者がない。庭園には瑠璃水晶珊瑚などの玉砂《ぎよくさ》を敷き、見馴れぬ樹木草花など、黃紅紫白《き・くれなゐ・むらさき・しろ》の色さまざまに咲き亂れて、薰香《くんかう》芬郁《ふんいく》たるものがあつた。ところが其處に一人の美しい女が立つてゐた。そして男に向つて、お前は此所ヘ來る者ではないが、どうして來たと訊いた。男が木を伐つてゐて斧を淵に落したからそれを取りに來たと言ふと、女は第一此所は私の遊び楊所であるのに、お前が來て木を損じたり騷がしたりするから、私が其斧を取り上げたのだ。これから左樣なことをしないなら返してやつてもよい。又お前ばかりではなく、他の者にもよく言つて聞かせろと言つて、斧を返してくれた。そしてそれと一緖に此を持ち返つて植ゑろと言つて、栗《くり》コを數粒《すうつぶ》くれた。男が厚くお禮を述べて歸らうと思ふと、門脇にひどく大きな太皷《たいこ》があつたのでこれは何にする太皷かと訊くと、女はこれは和賀殿の家に何か變事のある時に打つて知らせる太皷だと言つた。そして其女に送られてちよいと門外に出たと思ふと、以前の淵の岸邊に佇んでゐた。この事が評判になつて、時の領主の和賀殿に其栗を所望されて差し上げて植ゑたのが、今もある二度なりの栗の樹だといふことである。(以上吾妻昔物語よりの摘要。))

[やぶちゃん注:最後の丸括弧閉じるは、底本になく、「ちくま文庫」版は、第二節の始まりの丸括弧がない。不自然になるので(全体が附記であることは明白だから)、重ねて置いた。

「山口村和賀川の流域」岩手県和賀郡岩沢にかつて「山口」の地名があったことが「ひなたGPS」の戦前の地図で確認でき、その地名の北直近を流れるのが、和賀川である。以下の出る「貝殼淵」」「御前淵(ゴゼンブチ)」は位置不詳だが、

「田代六處」不詳。「田代」を地名と見て調べたが、和賀川の上流近くのバス停名に見出せただけであった。或いは、「田代」一般名詞で、開墾して田圃にするために、「山口村の六カ所の百姓」が、その仕事に当たったという意味なのかも知れない。

「和賀殿」和賀氏は、当該ウィキによれば、『鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の岩手県北上市周辺にあたる陸奥国和賀郡を本拠地とした国人』とある。和賀郡は江戸時代には全域が盛岡藩領であったから、この語りの語句が正確であるとするなら、この淵の龍女らしき存在の伝説は、最短でも戦国時代まで遡るものということになろう。]

サイト開設十八年記念(三日フライング)松村みね子名義/片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」全面改訂

サイト開設十八年記念として、三日、フライングして、私の偏愛する一篇、松村みね子名義の片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」の正字不全の修正とルビ化をし、全面的に書き変えた。なお、その私のそれへのオリジナルなブログでの注記『松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」イニシャル同定及び聊かの注記』も、一部、追加したので見られたい。

2023/06/22

「新說百物語」巻之四 「人形いきてはたらきし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成して使用した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   人形いきてはたらきし事

 ある廻國の僧なりしか[やぶちゃん注:ママ。]、東国にいたり[やぶちゃん注:ママ。]、日をくらし[やぶちゃん注:日が暮れてしまったのに、宿るに適当な寺社もなかったのである。]、㙒はつれ[やぶちゃん注:ママ。]の家に、宿をかりて、一宿いたしける。

 あるし[やぶちゃん注:ママ。]は、老女にて、むすめ一人と、只、二人、くらしける。

 麥の飯なと[やぶちゃん注:ママ。]、あたへて、ねさせける。

 夜ふけて、老女のいふやう、

「是れ、むすめ。人形を、もて、おじや。湯を、あみせん。」

といふ。

 旅の僧、

『ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なる事を、いふものかな。』

と、ねたるふりして、見居《みゐ》たれば、納戶《なんど》の内より、六、七寸はかり[やぶちゃん注:ママ。]のはたか[やぶちゃん注:ママ。]人形、ふたつ、娘か[やぶちゃん注:ママ。]、持ち出《いで》て、老女に渡しける。

 おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]盥(たらひ)に湯をとり、かの人形を、あみせけれは[やぶちゃん注:ママ。]、此、人形、人の如く、はたらき[やぶちゃん注:動き。]、水を、およき[やぶちゃん注:ママ。]、立居《たちゐ》を、自由に、いたしける。

 旅の僧、あまりにふしき[やぶちゃん注:ママ。]に思ひて、起き出して、老女に、いふやう、

「是れは。いかなる人形にて侍るや。扨々、おもしろき物なり。」

と尋ねける。

 老女のいはく、

「是れは、此《この》ばゝか[やぶちゃん注:総てママ。]細工にて、ふたつ、所持いたすなり。ほしくは[やぶちゃん注:ママ。]、遣すべし。」

と申しける。

『是れは、よきみやげなり。』

と、おもひて、風呂敷包の内にいれて、一礼をなし、あくる日、その家を、立出《たちいで》ける。

 半里はかり[やぶちゃん注:ママ。]も行くと思へは[やぶちゃん注:ママ。]、風呂敷包の内より、人形、聲を出《いだ》し、

「とゝさま、とゝさま。」

と、よぶ。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なから[やぶちゃん注:ママ。]も、

「いかに。」

と、こたふ。

「あの、むかふより來る旅の男、つまつきて[やぶちゃん注:ママ。]、ころふへし[やぶちゃん注:総てママ。]。何にても、藥を、あたへらるへし[やぶちゃん注:ママ。]。金子一步、礼を致すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ内に、むかふから來たる旅の者、うつむきに、こけて、鼻血なと[やぶちゃん注:ママ。]、多く出したり。

 かの僧、あはてゝ介抱し、藥などあたへけれは[やぶちゃん注:ママ。]、心よくなりて、金子一步、取り出し、あたへける。

 辭退すれとも[やぶちゃん注:ママ。]

「是非。」

と、いふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、懷中いたしける。

 又、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、馬にのりたる旅人、來たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、またまた、風呂敷の内より、

「とゝさま、とゝさま。あの旅のもの、馬より、おつへし[やぶちゃん注:ママ。]。藥にても御遣はしあるへし。銀、六、七匁、くれ申すべし。」

といふ内に、はたして、馬より落ちたり。

 とやかく、介抱いたしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、成程、銀、六、七匁、くれたりける。

 

Ningiyounokai

 

[やぶちゃん注:底本ではここ。キャプションは、右幅は、上に僧の台詞、

   *

 ふし

  ぎな

人形の[やぶちゃん注:「の」は強調の間投助詞。]

   *

そのすぐ下に婆(母)の人形を湯浴みさせながらの、掛け声、

   *

 を

あひせて

  やろ

   *

とある。左幅には、捨てたが、追いかけて来る人形に対して、僧が、

   *

ひよんな物を

    もらふたこと

         しや

   *

「ひよんな物を貰ふた事ぢや」で、閉口し、追いかける人形の台詞が下方に、

   *

     いくたび

      すてゝも

         もは

          や

         とゝ

          さん

            の

       こなれば

        はなれは

         せ

          ぬ

   *

と、きたもんだ。]

  

 旅僧、何とやら、おそろしくおもひ、人形を、風呂敷より取出《とりいだ》し、道のはたに、捨てたりける。

 人形、ひとのことく[やぶちゃん注:ママ。]、立ちあかり[やぶちゃん注:ママ。]、幾たび、すてとも[やぶちゃん注:ママ。]

「最早、とゝさまの子なれは[やぶちゃん注:ママ。]、はなるゝ事は、なし。」

と、おひかけ來《きた》る。

 其あしの、はやき事の、飛《とぶ》かことく[やぶちゃん注:総てママ。]、終《つひ》に、迫付《おひつき》、懷(ふところ)の内にそ[やぶちゃん注:ママ。]入《いり》にける。

『珍義《ちんぎ》なるものを、もらひし事よ。』[やぶちゃん注:「珍義」見かけない熟語だが、所謂、「見たことも聴いたこともない全く以って風変わりな物」の意であろう。]

と、おもひて、その夜、又々、次の宿に泊りて、夜、そつと、起出《おきいで》て、宿の亭主に、くはしく、はなしける。

「それは、致し樣《やう》こそ侍る。明日、道にて、笠の上に乘せ、川はたにいたり、はたか[やぶちゃん注:ママ。]になり、腰たけはかり[やぶちゃん注:ママ。]の所にて、づぶづぶと、つかりて、水におほれ[やぶちゃん注:ママ。]たる眞似して、菅笠をなかし[やぶちゃん注:ママ。]給へ。」

と、をしへける。

 其あけの日、をしへのことく[やぶちゃん注:ママ。]にして、ふかゝらぬ河にて、水中に、ひさまつき[やぶちゃん注:ママ。]、笠を、そつと、ぬきければ[やぶちゃん注:総てママ。]、笠に、のりて、人形は、流れ行き、其後は何の事もなかりしと、なん。

[やぶちゃん注:文句なく、面白い怪談である。]

「新說百物語」巻之四 「澁谷海道石碑の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。

 本文中に出る漢詩は二段組みであるが、一段で示し、後に〔 〕で推定訓読を示した。また、漢詩と俳句は前後を一行空けた。]

 

   澁谷海道(しふたにかいたう[やぶちゃん注:ママ。]石碑の事

 京東山、澁谷海道の側に、ひとつの石碑あり。

「洛陽牡丹(らくやうのぼたん)新(あらた[やぶちゃん注:ママ。])吐(はく)蘂(ずいを)」

と、七もし[やぶちゃん注:ママ。]を彫(ほり)付けたり。

 名も、なければ、何の爲に立てたるとも、見へす[やぶちゃん注:ママ。]

 或は、

「遊女の塚。」

ともいゝ[やぶちゃん注:ママ。]、又は、

「『吐蘂(とずい)』といふ俳諧師の墓。」

ともいゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳へ侍れとも[やぶちゃん注:ママ。]、たしかに知る人、なし。

 前年、知恩院町古門前に黑川如船と云ふ人、あり。

 風流の樂人にて、茶・香。あるひは[やぶちゃん注:ママ。]鞠・楊弓(やうきう[やぶちゃん注:ママ。])に日を送りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、八月の事にてありけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「湖水の月を、みん。」

とて、友達かれこれ、さそひ合ひて、石山寺にいたり、一宿し、又、あすの夜の月の出《で》しほを見て、京のかたへ、歸へりけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「もと、來たりし道も、めつらしからす[やぶちゃん注:総てママ。]。」

とて、澁谷海道をぞ、かへりける。

 最早、夜も、

『子の刻過《すぎ》て、追付《おつつけ》、丑の刻にもならん。』

と、おもひけるか、海道のはたに、石に、腰、うちかけ、八旬はかり[やぶちゃん注:ママ。]の老翁の、ひとり、たはこ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]くゆらせて居《を》る者、あり。

 其火を、かりて、たはこ、すひつけ、

「いづかたの人そ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と尋ねければ、

「我は、此あたりの者なるか[やぶちゃん注:ママ。]、月の、あまり、おもしろさに、かくは、なかめ[やぶちゃん注:ママ。]あかすなり。」

と、こたふ。

「さやうならは[やぶちゃん注:ママ。]、尋ねたき事こそ侍り。此所の石碑は、誰の石碑にて侍る。」

と尋ぬれば、老人、打《うち》ゑみて、懷中より、書きたるものを、敢出《とりいだ》して、あたへ、

「持ちかへりて、是を、見るへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申して、たちまち、姿を見失ひけり。

 持ちかへりて見れは[やぶちゃん注:ママ。]、詩と、發句と、なり。

 

  牡丹開-帝城

  花下風流獨ㇾ欄

  老去テ枝葉埋ㇾ骨

  人間共夢中

  〔牡丹 開き盡す 帝城の外(がい)

   花下(くわか)の風流(ふりう) 欄(おばしま)に獨り

   老(おい)去(さり)て 枝葉(しえふ) 骨を埋(うづ)めて後(のち)

   人間(じんかん) 共(とも)に 是れ 夢中の看(かん)〕

 

  それと名をいはぬや花のふかみ草

 

「詩のうら、字《あざな》に『牡丹花老人』とあり、又、発句にも、『ふかみ草』とあれば、もしや、老人の石碑にてやあらん。」

と申しける。

 その手跡も、まさしく、黑川氏、所持いたさるゝよし。

[やぶちゃん注:調べてみたが、この石碑は現存しないようである。

「澁谷海道」は「渋谷通」「渋谷越」とも呼、東山を越えて、洛中と山科を結ぶ京都市内の通りの一つである。この東西の街道(グーグル・マップ・データ)。

「洛陽牡丹(らくやうのぼたん)新(あらた)吐(はく)蘂(ずいを)」これは、禅語の一句。所持する岩波文庫「禅林句集」によれば、五祖の句で、同書を参考に歴史的仮名遣で示すと、

   *

一口(いつく)に吸盡(きふじん)す 西江(せいかう)の水(みづ)

 洛陽の牡丹 新たに蘂を吐く

   *

サイト「茶席の禅語選」の「一口吸盡西江水」の解説によれば、入矢義高監修・古賀英彦編著の「禅語辞典」には、『一口で西江の水を飲みつくしたおかげで、洛陽の牡丹が新たに花ひらいた。宋代に至って牡丹は洛陽のものが天下第一といわれた』と記すとある。個人サイト」「犀のように歩め」の「洛陽の牡丹」が、判り易く、よく説明しておられるので、参照されたい。

「牡丹花老人」不詳。

「ふかみ草」「深見草」は、ここでは、牡丹の異名。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「水かがみ」沈滿願

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  水かがみ

            輕 鬢 覺 浮 雲

            雙 蛾 初 擬 月

            水 澄 正 落 釵

            萍 開 理 坐 髮

                  沈 滿 願

 

浮ぐもの鬢(びん) 月の眉

水草さけてかんざしの

落ちたるあたり澄みわたる

水を鏡になほすおくれ毛

 

   ※

沈滿願  西曆六世紀。 梁の貴婦人。 范靖(一說に靜に作る)の妻。 著すところ甚だ富み、詩に長ずと言われてゐる。 唐書藝文志に憑(よ)れば滿願集三卷があるといふが、湮滅に歸した。

   ※

[やぶちゃん注:作者解説の「范靖(一說に靜に作る)の妻。」の句点は底本では読点であり、字空けはないが、講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」で訂した。しばしばお世話になる紀頌之氏の「漢詩総合サイト 漢文委員会  漢詩ページ」の「沈満願」のページを見ると、沈滿願は『西暦』五四〇『年ごろの人』で、『生卒年』は『不詳』とし、『武康の人』で、かの南朝を代表する文学者で政治家として知られる『沈約』(しんやく)『の孫娘』にして、『征西記室范靖(靜)の妻』とあり、東魏・西魏・梁の並立期の女流詩人である。而して、そちらで、標題は「映水曲」と判明したが、その詩句を見ると、有意な異同が、複数、認められる。そこで、中文サイトの「維基文庫」のこちらで調べると、やはり、紀頌之氏の表記と同じである。以下に、紀頌之氏と「維基文庫」のものを参考に、以下に原詩を正字で示し、紀頌之氏の訓読を参考に推定訓読を示す。

   *

 映水曲

輕鬢學浮雲

雙蛾初擬月

水澄正落釵

萍開理垂髪

  映水曲(えいすいきよく)

 輕鬢(けいびん) 浮雲(ふうん)を學び

 雙蛾(さうが) 初月(はつづき)に擬(ぎ)す

 水 澄みて 落釵(らくさ)を正(ただ)すに

 萍(うきくさ)の開きて 垂髮(すいはつ)を理(をさ)む

   *

紀頌之氏の訳註によれば(一箇所、「.」を句点に代え、アラビア数字を漢数字に代えた)、

   《引用開始》

映水曲

すみきった水面に白く輝く月の影を映してさらに清らかにしてくれる。美人は水に映る自分の姿を、風に吹かれ、船が揺れて乱れた髪を直す。芸妓の舟遊びを詠ったものか、奥座敷で二人で過ごしたその夜遅く鏡を見て詠ったものか後世に影響を与えた詩である。

 

輕鬢學浮雲、雙蛾擬初月。

軽やかな鬢は浮んでいる雲の形をまねたものである。二つ並んだ美しい眉は八月の初月と見まごうものである。

・雙蛾 蛾の触角のように細く弧を描いた美しいまゆ。転じて、美人。

・初月(はつづき、しょげつ)。 三日月。陰暦三日(ごろ)の、月で最初に見え始める月。特に、陰暦八月の初月。

 

水澄正落釵、萍開理垂髪。

水の澄んでいるところでは落ちかかっている釵子[やぶちゃん注:金属製の簪(かんざし)。]を正しくなおし、浮草がひらけたところではまた垂れかかる髪を手入する。

   《引用終了》

とあって、佐藤の承・転句相当の訳は、一読、違和感があり、原詩の、あたかも浮草が彼女のために曳き退いて、水面に彼女の姿を映して、彼女が落ちかけた簪を直して、髪を整えるという、極めて印象的なシークエンスとは、全く異なることが判る。

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三一番 あさみずの里

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

       一三一番 あさみずの里

 

 此話は糠部《ぬかのぶ》の郡のアサミズの里にちなんだ、旅人の泊客《とまりきやく》が夜の中《うち》に殺されて、朝を見なかつたと云ふ話の群(ムレ)からとつた名である。此話の本場は、今の淺水の里にあつたと言ふ其話が元であらうが、それに類した話なら諸所にも多くあつたから、其一つを此所に記して見る。

 或山奧に五六軒の村屋があつた。此所では旅人を泊めては其夜の中に殺して、其持物や金などを取つて、夫々《それぞれ》に分配することを習慣にして居た。或時旅の六部が來て泊つたが、夏のことだつたと見えて、其家では六部をキツの上に蓙(ゴザ)を敷いたヨウカに寢せた。もとより此のヨウカにはカラクリがしてあり、端の板を引けば上の人間はどんとキツの中に墜ちる仕掛けであつた。勿論そんなことは夢にも知らぬ六部はいゝ氣持ちで眠つてゐるところを、不意にキツの中に墜《おと》されて、上からすぐに蓋《ふた》をされ、其蓋の上には大石《おほいし》や臼などが幾つも幾つも積み重ねられた。しかし其六部は七日七夜も叫んだり泣いたり、どしんどしんと體を板に打《ぶ》ツつけて暴れ𢌞つたりして居た。それを村人が代り代りに來て立聽きをしながら、いやはや剛情な六部樣だ、まだまだ生きて居ると言ひ言ひ、六部が命(メ)を落すのを待つた。

 金はいくら持つて居たか分らないが、衣物は其宿主が翌日から着て步いた。すると彼《あ》の人はいゝお客を取つて本當によい事をしたと言つてケナリ(羨まし)がつた。其村も家も分つて居るけれども今は言ふことを憚かる。斯う云ふ家には後世《ごぜ》までも罪バウゴウが殘つた。

 又或所の大屋の家に、正月二日の夕暮時旅の六部が來て泊つた。この家では風呂桶《コガ》[やぶちゃん注:「桶」一字へのルビ。]へ入れて蓋をして蒸《む》し殺しにした。そして人に見られるのを恐れて、土間《には》の臼場《うすば》のほとりに埋めて素知らぬ振りをして居た。

 村の人達は、その家へ夕方入つた六部の姿は見たが、朝立つ姿を誰も見た者がなかつた。それから大屋の土間には夜になると怪火《くわいくわ》が燃えてならなかつた。そして代々の主人は發狂した。現代の主人もさうである。

  (第二の話は下閉伊郡刈屋にて、折口信夫氏とともに聽く。)

[やぶちゃん注:典型的な「六部殺し」(当該ウィキを参照されたい)の因果譚である。

「糠部の郡のアサミズの里」現在の青森県三戸(さんのへ)郡五戸町(ごのへまち)浅水(グーグル・マップ・データ)。而して、歴史的仮名遣では「あさみづ」となるはずであるが、「あさみずの里」はママである。なお、ちょっと脱線になるが、ウィキの「糠部郡」の「「戸」(へ)のつく現存地名」の項よれば、知られたこの岩手を含む広域地方の地名には、『四戸がな』く、『もしくは』あったが『消滅した理由として、「四」は「死」を連想するからとも言われる』とあり、『四戸については、青森県八戸市の櫛引と言う説がある。その根拠は、同地にある櫛引八幡宮のかつての別名が「四戸八幡宮」であったことによる。一方、青森県三戸郡五戸町浅水または同町志戸岸(いずれも浅水川沿岸)との説がある』とし、『浅水の語源は「朝を見ず(=死)」であるという。もし仮に五戸町浅水が四戸であったとすれば、旧陸羽街道沿いに一戸から五戸までが番号順に並ぶことになる(六戸も五戸と接しているが街道沿いではない。無論、陸羽街道の成立は後世のことである)』とあった。本篇冒頭の、他の条には、まず見られない、採取譚群の前振り、『アサミズの里にちなんだ、旅人の泊客《とまりきやく》が夜の中《うち》に殺されて、朝を見なかつたと云ふ話の群(ムレ)』の一つというそれは、佐々木が明らかに「四戸」が当時、既に存在しておらず、過去事実としても確定資料が伝わらないことから、「朝を見ずに六部が殺された呪われた村」の意味が「浅水」という地名には隠されているのではないかという俚俗の説を示唆しようとしたものと考えられる。しかも、佐々木が「あさみずの里」と標題を記したこと自体が、「淺水(あさみ)」ではなく、「朝見」の意であると、どこかで信じているからこその確信犯の表記なのではあるまいか? 序でに、引用すると、「十戸」も現存しないが、一つ、『「十戸」にあたる地名が、「十和田」「遠野」であるとする説も存在する。また、青森県下北郡大間町の奥戸(おこっぺ)が「最も奥の戸」であるという説もある(一般にはアイヌ語とする説が有力)。殊に「遠野」については、近年の研究で「とおのへ遠野」と呼ばれていたことが明らかとなり、糠部に宗家としてあった「根城南部氏」が遠野へ領地を移されたことから一つの説とされている。しかし、一戸から九戸までの数字は順番であり』、『数量ではない。もし「十戸」があったとすれば、それは十番目を意味する「じゅうのへ」であって、数量を意味する「とお」ではないため、元々「十戸」は無く、場所も離れている「十和田」「とおのへ(遠い戸の意)遠野」説には無理があるとされている。秋田県鹿角郡十和田町(現鹿角市)や青森県南津軽郡浪岡町(現青森市)にも「十和田霊泉」と呼ばれる箇所があり、いずれの「戸」とも接していない』とあった。

「キツ」昔の東北方言で、水を入れる桶(おけ)。用水桶(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

「ヨウカ」不詳。室内の薄い板敷、或いは、土間の擁壁のすぐ下の薄板を敷いた場所か。識者の御教授を乞う。

「罪バウゴウ」「罪暴業」か。「暴罪業」であれば、歴史的仮名遣は「ばうざいごふ」で、文字列に合わせると、「ザイババウゴフ」が正しくなる。「暴罪業」ならば、「度を越した重い罪の業(ごう)」を背負ったの意で躓かない。

「下閉伊郡刈屋村」現在の宮古市刈屋・和井内(わいない)に相当する(グーグル・マップ・データ。北に「和井内」)。]

2023/06/21

「新說百物語」巻之四 「碁盤座印可の天神の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。また、標題及び本文中の「印」の字は「グリフィキ」のこの異体字の崩し字であるが、表記出来ないので、通常字とした。]

 

     碁盤座印可(ごばんさゐんか[やぶちゃん注:総てママ。]の天神の事

 又、京五条のひがしに、手跡の指南をする何某といふものあり。

 常に、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]、天滿宮を信仰しけるが、ある夜の夢に、正《まさ》しく、天神、つけて[やぶちゃん注:ママ。]、の給はく、

「我は、是れ、天滿天神なり。明日、高辻柳馬場に來るへし。」

と、の給ふか、と、おもへは[やぶちゃん注:ママ。]、夢、さめたり。

 ありかたく[やぶちゃん注:ママ。]おもひて、未明に、高辻柳馬場に、いたれとも[やぶちゃん注:ママ。]、いまた[やぶちゃん注:ママ。]何《いづ》かたの表の戶も、あかす[やぶちゃん注:ママ。]

 しはらく[やぶちゃん注:ママ。]やすらひ居《をり》たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、やうやう、角《かど》の家、一軒、戶をあけたり。

 ふと、見入《みいり》たれは[やぶちゃん注:ママ。]、夢に見たるに、すこしもちかはぬ[やぶちゃん注:ママ。]立像の天神、御たけ壹尺はかり[やぶちゃん注:ママ。]なりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、碁盤のうへに、立たせ給ふ。

 もとめ、かへりて、猶〻、信心いたしけるか、靈驗(れいけん[やぶちゃん注:ママ。])いちしるく、そのあらたなる事、度々なり。

 御手《おんて》に、卷物一卷、持ち給ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、「碁盤座印可の天神」と申し奉る。

「俗家に、をかん[やぶちゃん注:ママ。]も、いか〻。」

と、大龍寺の辻子《ずし》の寺へ、あつけ[やぶちゃん注:ママ。]奉る。

 先年、開帳ありし尊像は、此天神の御事なり。

[やぶちゃん注:完全な実話譚。

「高辻柳馬場」現在の京都府京都市下京区万里小路町(まりこうじちょう)の南北の柳馬場通と、東西の交差するここ(グーグル・マップ・データ)。

「大龍寺の辻子の寺」上京のこの辺りに(グーグル・マップ・データ)「大龍寺」「太龍寺」「大龍院」があるが、どうも、どれも「辻子」に合わないようだ。諦めかけたが、今少し、調べて見たところが、かの蛸薬師永福寺の東にある裏寺町(グーグル・マップ・データ)に、嘗つては大竜寺という寺があったが、移転した、という記載を、いろいろ検索している内に、個人ブログ「酒瓮斎の京都カメラ散歩」の「辻子 ―蛸藥師辻子と大竜寺辻子―」の中に発見した。そこに『裏寺町にあった大竜寺(昭和』五一(一九七六)『年に右京区梅ヶ畑高鼻に移転)へ行く道筋であったことが』、『辻子名の由来。この大竜寺の別堂に烏芻沙摩明王(うすさまみょうおう)を勧請したことから、烏須沙摩辻子(うすさまのずし)の別称もあったと云う』とあり、「京都坊目誌」の『「▲御旅町」の項にも、「北側其東の方より裏寺町に通する小街あり。地は本町及ひ中之町に屬す 之を烏須沙摩ノ辻子と字す」とあり』、『同書「◯大龍寺」の項でも、「寺門南面す。四條通に向ふ裏寺町南より四條通に至る間を。地は中之町に属す俗に烏須沙摩ノ辻子と字す。本寺内に烏須沙摩明王ノ像を安する故也」と記して』あるとあったのである。ここは、天神像を主人公が手に入れた高辻柳馬場とも近く、拡大して見ると(グーグル・マップ・データ)、この町内には寺が多いことが判る。而して、「大竜寺辻子」という路地名が、しっくりくる。ここを候補としよう。

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三〇番 酸漿

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。「酸漿」は「ほほづき」。双子葉植物綱ナス目ナス科ホオズキ属ホオズキ変種ホオズキ Alkekengi officinarum var. franchetii 当該ウィキによれば、『「ほほづき」の名は、その実の赤くふっくらした様子から頬を連想したもの(「づき」は「顔つき」「目つき」の「つき」か)という』。『同じく赤い果実から「ほほ」は「火々」であり「つき」は染まる意味であるともいう』。『また』、『果実を鳴らして遊ぶ子供たちの様子から「頬突き」の意であるともいう』。『ほかにはホホ(蝥、カメムシの類)という虫がつくことを指すとする説もある』とあり、また、『漢字では「酸漿」のほか「鬼灯」「鬼燈」とも書く。中国の方言では酸漿の名のほかに「天泡」(四川)「錦燈籠」(広東、陝西)「泡々草」(江西)「紅姑娘」(東北、河北)などとも言い、英語では Chinese lantern plant ともよばれている』。本邦の『古語では「赤加賀智(アカガチ)』『」「輝血(カガチ)」「赤輝血(アカカガチ)」とも呼ばれていた。八岐大蛇のホオズキのように赤かった目が由来とされている』ともあった。]

 

     一三〇番 酸 漿

 

 昔、或旅人が山の中を旅して、一軒家を見つけて其所に宿をとつた。

 翌朝、起きて畑を見たら、美しい酸漿がたくさん紅く實つてゐたので、それを一ツとつて中の種を出して口にふくんで、プリプリ吹き鳴らして居た。それを其の家の人が見つけて、ひどく驚いて、お客樣は大變なことをしてしまつた、きつと今に大變な罰《ばち》が當ると言つて顏色を變へた。

 旅人も心配になつて、それは又如何《どう》してかと訊くと、每朝お日樣は、東から出て西ヘお沈みになさるが、そのお日樣は夜になると、地の下を潜つて此の酸漿の中ヘ一ツ一ツお入りになる、それでこんなに色が紅くなるのだ。酸漿はお日樣の赤ン坊だからと語つた。

  (膽澤《いさは》郡西根山脈地方の話。織田君の話の二。
   昭和三年夏の頃の分。)

[やぶちゃん注:「膽澤郡西根山脈地方」「膽澤郡西根」は、現在の地名としては岩手県胆沢郡金ケ崎町西根でここであるが、「西根山脈」と言った場合は、秋田県東成瀬村との間にある山脈筋を指すので、後者の中央附近を指していよう(孰れもグーグル・マップ・データ航空写真)。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二九番 變り米の話

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「變り米」は「かはりまい」と読んでおく。]

 

      一二九番 變り米の話

 

 早池峯山《はやちねさん》の麓の附馬牛(ツキモシ)村と云ふ所に、或百姓があつた。或年の旱(ヒデリ)に村中《むらぢゆう》の苗代が皆枯れてしまつて田植などは出來やうとも思はれなかつたが其百姓の家の苗代が一番ひどかつたので、或夜窃《ひそ》かに隣村へ行つて、生(イキ)の良い苗を少々盜んで來て、自分の田を一枚植えた。

 其の當時苗盜人《なへぬすつと》が方々に起つて、盜人の詮議もまた劇しくなつた。其所へ隣村の者がやつて來て、コレは俺の所で盜まれた苗である。それに相違ないと頑張つた。百姓は否《いや》盜まぬと云つたが、相手はそれでは秋になつてから勝負を附けやう[やぶちゃん注:ママ。]、俺のところの苗は糯《もち》である、もしこれが糯であつたら、お前を牢[やぶちゃん注:底本では「穽」となっているが、どうも躓くので、「ちくま文庫」版で「牢」(牢屋の意)とした。]に打《ぶ》ち込むというのであつた。これには百姓も殆ど弱つて、早池峯山へ月詣りをして、何率(ドウ)かこの苗が粳米《うるちまい》になるやうに…と願かけをした。其中《そのうち》に黑白を決定(キメ)める秋の收穫時《しうくわくどき》が來たので、其稻を刈つて見ると其は確《たしか》に粳米であつた。否《いや》糯米《もちまい》が粳米に變つて居たのであつた。それで其百姓は助かつた。

 早池峯山の神樣は盜人神樣だと謂ふ由來はそんな所からも出て居る。

  (村の今淵小三郞殿の話。昭和元年頃の聽き記。)

[やぶちゃん注:「附馬牛村」岩手県遠野市附馬牛町(つきもうしちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

dostoev氏のサイト「不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-」の「泥棒を守護する神トイウモノ」、及び、「泥棒を守護する神の根源」が素晴らしい! 是非、読まれたい。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「呼名の靈」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 なお、以下の「二」の下方の初出掲載の書誌は六字下方であるが、ブログ・ブラウザの不具合が出るので、引き上げた。

 因みに、既に電子化注した『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』、及び、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「女の本名を知らば其女を婚し得る事」』が本論考と関係がある。]

 

      (大正二年九月『鄕土硏究』第一卷第七號)

○呼名の靈(三號一五八頁)西曆千廿年、瑞典《スウェーデン》、ルンドの大寺を建てた時、晝間、苦心して、積み上げた石材を、每夜、巨鬼、來たり、悉く、運び去《さつ》た。寺の願主、之を責めると、「鬼の名を定期中に指中《さしあて》たら、二度と來ない。指中ねば、何時《いつ》迄も邪魔して遣《やら》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。」と云《いふ》ので、願主、弱り入り、思案も盡きて、海濱を步くと、其鬼の妻が、夫を、「フヰン」と呼《よん》だ。聞《きい》て、大悅《おほよろこび》、ルンドに還り、夜半に、三聲、高く、「フヰン」と呼ぶと、鬼、大《おほい》に驚き、卽時、去たと云ふ(ジェームス、「一八一三至一四年獨逸・瑞典・露西亞・波蘭《ポーランド》旅行日記」第三板、第一卷三三頁)。一八七〇年板、ロイドの「瑞典小農生活《ピザント・ライフ・イン・スエズン》」二七七頁には、オラフ(十一世紀の諾威《ノルウェー》王)、鬼をして、大寺を作らしむ。約《やく》すらく、「寺成る迄に、王が鬼の名を知《しら》ば、鬼王に囚《とらへ》られ、鬼の名を知得《しりえ》ずば、日月、又は、王の身を鬼に與ふべし。」と。扨、寺院完成に近づくも、塔上の知風板(かぜみ)だけ、具《そな》はらず。其時、王、大いに憂ひて、野をぶらつく。偶々、鬼の妻、其兒の啼《なく》を止《とめ》ん迚《とて》、「明日、汝の父、日月が王の軀《からだ》を持ち還る筈故、おとなしく待て。」と言ふ。話の中に、鬼の名が知れる。王、歸りて、鬼が、知風板を据付《すゑつ》んと、塔頂へ登つたところに向ひ、鬼の名を呼ぶと、仰天して、轉がり落ちるを、取《とつ》て押《おさ》へ、永く囚へ置《おい》た、と有る。〔(增)(大正十五年九月記)グリンムの「獨逸童話」に、貧女、王に、「藁を黃金につむぎ替《かへ》よ。」と命ぜられ、泣く。處え[やぶちゃん注:ママ。]、小魅《こおに》、來たつて、「汝、王后と成《なり》て、初めに產るゝ兒をくれるなら、汝に代つて、此業を成就すべし。」といふ。他に良案もないから、承諾すると、小魅、造作もなく、夥しい藁を、黃金に紡ぎ化した。王、此女に『神巧あり。』と感じ、之を后とし、久しからぬ内に、美はしい兒ができた。其時、かの小魅、忽ち、來つて其兒を乞ひ、后が、極めて悲しむをみて、「三日内に、吾名をいひあてたら、此兒を貰はずに濟ましやろう。」と言ふ。第一、第二の夜、后、其小魅に、自分の知《しつ》た限りの人名を、列ね聞かせど、何《いづ》れも、「吾名で、ない。」といひ續けた。三日目に、后の使者が、此小魅が、自分の名を呼《よん》で踊る處へ行《ゆき》かゝり、歸つて、后に告《つげ》たので、后、其名を小魅に聞かすと、大《おほい》に怒つて自滅した、とある。その類話は、一八八九年板、ジョーンス及クロップの「マジャール民譚集」の「なまけた糸くり女が后となつた話」と、その註に載せある。〕

[やぶちゃん注:一部の書名の読みのカタカナは「選集」で補塡した。なお、「選集」の編者注によれば、冒頭に記された対象論考は『桜井秀「呼名の霊」とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本民俗學辭典」本編(中山太郎編・昭和八(一九三三)年昭和書房刊の「ナヲヨブクワイ」に当該論考の梗概が記されてあったので、以下に電子化する。本文は、底本では、二行目以降は最後まで一字下げである。

   *

ナヲヨブクワイ 〔名を呼ぶ怪〕 我國には怪物に名を呼ばれると死ぬと云ふ俗信があつた。吾妻鏡(卷五)文治元年十二月二十七日所司二郞頓死の條に『及半更叩ㇾ戶有此男之名字云々。恠ㇾ之取脂燭見之處己入死門云々』とあり。更に一條兼香の日記元久二年六月一日の條に『去月世上申沙汰、夜々無誰人老若共呼、令ㇾ呼與其人橫死又不ㇾ知行方云々』とある(鄕土硏究一ノ三)

【參考文獻】

呼 名 の 靈 (南方 熊楠) 郷土研究一ノ七

   *

この内、「吾妻鏡」のそれは、「文治元年十二月二十七日」は「二十八日」の誤りである。本文全部と推定訓読を示す。【 】は二行割注。なお、文治元年は一一八五年で、この年の前月十一月に、朝廷が頼朝の要請を受け、諸国への守護地頭の設置を認めている。

   *

廿八日丁丑。甘繩邊土民【字所司二郞。】、去夜於困上乍立頓死。人擧見之。家中之輩語群集者云、及半更、叩戶有喚此男名字之者。此男答、則開戶之刻、再不語而良久。怪之取脂燭見之處、已入死門云々。

   *

廿八日丁丑。甘繩邊の土民【字(あざな)は所司二郞。】〕去(いんぬ)る夜、困(しきみ)の上に於いて、立ち乍ら、頓死す。人、擧(こぞ)りて、之れを見る。家中の輩、群集の者に語りて云はく、

「半更に及び、戶を叩き、此の男の名字を喚(よ)ぶ者、有り。此の男、答へて、則ち、戶を開くの刻(きざみ)、再び、語らずして、良(やや)、久し。之れを怪しみ、脂燭(しそく)[やぶちゃん注:「紙燭」に同じ。]を取りて見るの處(ところ)、已(すで)に死門に入る。」

と云々。

   *

・「困」玄関と外とを区別するための敷居様の物。・「半更」夜半。・「脂燭」「紙燭(しそく)」に同じ。

   *

「元久二年」は一二〇五年。。鎌倉幕府将軍は源実朝で、執権は北条義時。以上の日記を推定訓読しておく。

   *

去(いんぬ)る月、世上に申す沙汰に、夜々、誰人(たれびと)も無くして、老若(らうにやく)共(ども)を呼ばしむ。呼ばしめらるると與(とも)に、其の人、橫死、又は、行方(ゆくへ)知れずとなれりと云々。

   *

「西曆千廿年、瑞典、ルンドの大寺を建てた時」スウェーデン南部のスコーネ県にあるルンドには、デンマーク王カヌートによって建立されたルンド大聖堂(グーグル・マップ・データ)があるが、その創建は、ウィキの「ルンド」によれば、九百九十年頃とする。英文の「Lund Cathedral」(邦文ウィキはない)を見ると、この大聖堂はルンドに建てられた最初の教会ではなかったとあり、最古の教会(現在は消滅)は 十 世紀末に市内に建てられたとあり、中世のルンド大聖堂の守護聖人である聖ローレンスに捧げられたルンドの教会に関する最初の文書による記述は一〇八五年に遡るとあるので、熊楠の言う一〇二〇年説を裏付けるか。

「マジャール」マジャ(ー)ル人は国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族の名。]

 近頃迄、エスキモー人は、魂と體と名と、三つ、聚《あつまつ》て、始めて、人となると信じ、死んだ人の名をついだ人は、其死《しん》だ人の性質を、總て、讓受《ゆづりうけ》る。死んだ人の名を、他の人が襲(つが)ぬ内は、死人の魂が、平安を得ぬ。又、他人が襲(つが)ぬ内に、死人の名を言ふと、其名を損じて、力《ちから》を失ふ。又、人が死ぬと、其名が、姙婦に宿り、其子と共に生れる。子が生れると、「名を附《つけ》て吳れ。」と泣《なき》出す。巫《ふ》に賴んで、其名を識出《しりいだ》し、其子に附る、とした(五年前、一九〇八年板、ラスムッセン「北氷洋之民」英譯、一一六頁)。古埃及では、箇人は魂(バイ)、副魂(カ)、名(ラン)、影(クハイベト)、體(クハツト)の五より成る、と(「大英類典」一一板、第九卷五五頁)。神も自分の名を呼《よん》で、初めて、現出し、鬼神、悉く、其秘密の名、有り、人、之を知《しれ》ば、神をして、己れの所願を成就せしむるを得と信じ、又、名を潰さるゝと、物が生存し得ぬとした(バッヂ『埃及諸神譜(ゼ・ゴツヅ・オヴ・ゼ・エヂプシアンス)』一九〇四年板、三〇一頁)。

[やぶちゃん注:『一九〇八年板、ラスムッセン「北氷洋之民」英譯、一一六頁』グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である)のThe People of the Polar North。イヌイットの風俗を纏めた旅行記で同年に刊行された。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ。]

 支那には、「抱朴子」に、山精、四種、有り、呼其名敢爲一ㇾ害。〔其の名を呼べば、敢へて害を爲さず。〕佛典に、諸鬼諸山精、若人知其名、喚其名字、不ㇾ能ㇾ害ㇾ人。〔諸鬼・諸山精は、若(も)し、人、其の名を知りて、其の名字を喚(よ)べば、人を害する能はず。〕(「大灌頂神呪經」)。又、毒藥の名を知る人は、其毒に中《あた》らず、とす(義淨譯「大孔雀呪王經」卷下)。章安と湛然の「大般涅槃經疏」二に、「咒」は鬼神の名で、名を云はるゝと、鬼神が害を爲し得ぬ。盜者《ぬすびと》が財を伺ふ時、財主に自分の名を言《いは》るゝと、盜《ぬすみ》を行ひ得ぬ、と同じだ。又、「王咒」は鬼神王の名で、其を喚ぶと、鬼の子分等《ら》、恐れ入《いつ》て害を爲《なさ》ぬ、と有る。天台大師の「摩訶止觀」八にも、十二時、又、卅六更、其時每《ごと》の獸が、行人を惱ましに來る事有り。例へば、寅の刻に、虎が來る、此樣な時媚鬼《じびき》と云奴《いふやつ》を、一々、其獸の名を推知《すいち》して呼ぶと、閉口して、去る、と出づ。本居宣長曰く、『古き神社には、何《いか》なる神を祭れるか知れぬぞ多かる。「神名帳」にも、凡て祀れる神の御名を記さず、只、社號のみを擧《あげ》られたり』云々、『社號、乃《すなは》ち、其神の御名なれば、左《さ》も有るべき事にて、古《いにしへ》は、さしも祭る神をば、强《しい》ては、知らでも有けむ。』と。

 熊楠、去年六月十五日の『日本及日本人』二四頁に陳べた通り、吾邦にも、古は、神の本名を、無闇に言散《いひちら》さなんだらしい。チュンベルグの「日本紀行」に、當時の至尊の御名を誰も知《しら》ず、聞出《ききだ》すに、甚だ苦しんだ由、筆《ひつ》し有る。其他、三馬の小說に、忠臣藏のお輕の母の名が、一向見えぬと笑ふたが、國史に、田道《だぢ》將軍の妻、形名君《かたなのきみ》の妻など、今の歐米と同じく、夫の名許り記して、夫人の名を書《かか》ぬ例、多く、中世にも、淸少納言・大貳三位・相模・右近など、儕輩間《なかまうち》に呼ばれた綽號《あだな》樣な者の遺《のこ》り、本名の知れぬ貴女許り記されて居る。〔(增)(大正十五年九月記)ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三五六頁に云く、『此民は、今日も、夫は妻の名、妻は夫の名を呼《よば》ず。男は、其弟の妻、或は妻の妹、女は妹の夫、又、夫の兄の本名を呼ず。もし呼ばゞ、聾、又、啞の子を生むといふ。極めて餘儀なくて呼ぶ時は、先づ、地に、唾、はきて後ち、呼ぶ。基督敎に化せる輩も、群集中で、此俗を破るを好まず、某の父、某の母といふ風に呼ぶ、と。三位道綱の母、加茂保憲の女などいふも、こんなわけの者か。)

[やぶちゃん注:「田道將軍」田道(たぢ ?~仁徳五十五年)は仁徳朝の武人。田道の氏姓に関して「日本書紀」には記述されないが、「新撰姓氏録」には「田道公」と表記され、姓は「公」とされる。記載は少ないが、当該ウィキを見られたい。

「形名君」上毛野形( かみつけののかたな 生没年未詳)は飛鳥時代の武人。舒明天皇九(六三七)年、将軍として反乱した蝦夷(えみし)を攻めに向かったが、敗北し、逃げようとしたが、妻から、酒を与えられて、「祖先以来の武名をけがさぬように。」という励ましに奮起し、蝦夷を破ったという人物(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三五六頁』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが原本当該部で、“CXXXIV. RAM'S WIFE.”の章がそれ。]

 予、往年、愛爾蘭《アイルランド》人に聞《きき》しは、彼《かの》國には、地方により、今も、女子が裸で浴する處を見て、婚を求むれば、必ず、應ずる由。〔(增)(大正十五年九月記)サリシュ人の處女が、男に露形《あらはなるすがた》を見らるれば、其男に嫁ぐの外、其恥辱を去る能はず、其男、又、必ずその女を娶るが、義務なり。故に親族の抗議により、自分望みの女を手に入れ能はぬ男は、此手で、其女を娶るといふ(一九〇七年板、ヒル・トゥート「英領北米誌」六九頁)。)羅什等譯「十誦律」九に、迦留陀夷《かるだい》比丘、「諸房舍を示すべし。」とて諸婦女を集め、說兩可ㇾ羞事、以他母事向ㇾ女說言、汝母隱處、有如ㇾ是相、爾時女作是念。[やぶちゃん注:句点はママ。]如ㇾ是比丘所ㇾ說、必當我母。〔兩(ふた)つの羞づべき事を說くに、他の母の事を以つて、女(むすめ)に向ひて、說きて言はく、「汝が母の陰處に是(か)くのごとき相、有り。」と。其の時、女は是くのごとき念(おも)ひをなす。是くのごとく比丘の說く所は、「必ずや、當(まさ)に我が母と通じたるなるべし。」と〕又、女事《をんなのこと》を母に、子、婦《よめ》の事を姑《しうとめ》に、姑の事を子婦に說き、是諸婦女、展轉相疑。〔是の諸(もろもろ)の婦女、展轉として相ひ疑ふ。〕佛、爲《ため》に結戒す。義淨譯「根本說一切有部毘奈耶雜事」二九に、梵授王、盲人が、「王妃の腰間に、萬字、有り、胸前に、一(ひとつ)の旋(せん)あり。」等の隱相を說くを聞《きき》て、其王妃と私《わたくし》せるを悟る事、有り。予、幼時、和歌山で聞《きい》た俗傳に、「菅丞相、最《いと》止事《やんごと》無き女性を畫《ゑが》き、居眠《ゐねむり》して、其祕處に、筆、落《おち》て、黑子《ほくろ》を成せしより、『斯る祕相を知るは、上《かみ》を犯せし事あるに因る。』と、讒言に遇《あひ》て流され玉ふた。」と言《いつ》た。〔(增)(大正十五年九月記) 西鶴の「新可笑記」、「官女に人のしらぬ灸所」は同樣の物語りで、其末文に、支那の吳道子も「官女の寫し繪にこぼれ墨其儘にほくろと疑はれし」由を載す。皆人の知る通り、沙翁《シエキスピア》の劇曲「シムベリン」に此樣《かやう》の一段あり。その類話は、多くエー・コリングウッド・リー氏の「十日譚《デカメロン》の根源と類話」四二―五七頁に列せらる。〕

[やぶちゃん注:「十誦律」及び「根本說一切有部毘奈耶雜事」は「大蔵経データベース」で校合したが、前者は同データベースの一部がちょっと不審であったため、熊楠の引用に従った箇所がある。

「迦留陀夷」釈迦の弟子の一人が知られるが、無関係な同名異人が多い。]

 惟《おも》ふに、吾邦にも、女の本名を他人に知らるゝを、膚を見らるゝと同樣に、嫌《きらひ》しならん。其起りは、本名を知つた者に、知られた者が、隨意、支配さるゝてふ迷信より出たのだらう。扨、人が己《おのれ》の名を呼ぶ時、「應(わう)。」と答ふるのは、先方が、確かに、己が本名を知つたと承認する譯だ。隨《したがつ》て、鬼靈に名を呼《よば》れて答ふると、卽時、魅《ばか》されたり、命を取られたりする、と信ずるに至つたのだ。〔「古事談」三に、眞濟《しんぜい》が、天狗となり、染殿后を惱ます時、相應和尙、不動を念じ、其鬼の名を露はして退散せしめし由を記す。〕「西遊記」二編二卷、孫行者、名を「者行孫」と僞り、銀角大王と戰ふ時、銀角、魔力ある瓢《ひさご》を取《とり》て、「者行孫。」と呼ぶ事、二度、行者、『僞名を呼ばれて應ずるに、何の妨げ有らん。』と思ひ、一聲、應じて、忽ち、瓢中《ひさごのうち》に吸入《すひいれ》らる。此寶瓢《たからのふすべ》、元來、名字の眞・假に不管《かかはらず》、凡そ、答ふる心、有《あり》ても、便《すなは》ち、入裝《もりい》る、と有るは、面白し。一八八〇年西貢《サイゴン》發行『交趾支那探見雜誌』に出た、ランド氏「安南俗信記」に、「コンチン鬼《き》」は、未通女、男知《しら》ずで、死ぬと、其靈を、加持して、墓中に閉塞《とぢこめ》る。然らざれば、此鬼になり、墓を出《いで》て、樹上に居り、氣味惡く笑ふ。又、種々《いろいろ》に變形して、行くを、呼ぶ。之に應えた者は、魂、身を脫出《むけいで》て白痴と成る、と有る。英國に、ダッフス卿、野外で、疾風の聲を聞くと同時に、誰とは知らず、「馬。」と「草株《ハツソツク》。」と呼んだ、何心無く、之を擬《まね》て、呼ぶと、忽ち、精魅《フエヤリーズ》に佛國王の窖中《あなぐらのなか》に伴行《つれゆか》れ、諸魅と飮宴し、翌日、氣が付くと、身、獨り、窖中に居《をり》し、と云ふ(一八四六年板、トマス・ライト「中世英國論集《エツセイス・オン・ゼ・ミドル・エイジス》」一の二五八頁)。パンジャブにも、梟《ふくろふ》、鳴《なく》に、應ずれば、其人、必ず、死すと云ふ(「フォークロ-ル」一八九〇年、卷五、八四頁)。劉宋の劉敬叔の「異苑」に、或人、杜鵑《ほととぎす》の鳴聲を擬《まね》して、忽ち、血を嘔《はき》て死んだ、此鳥は、啼《なき》て、血、出《いづ》るに至つて、乃《すなは》ち、止む。故に擬た人も、血を嘔いて死んだ、と言へるも、似た事だ。

[やぶちゃん注:『「古事談」三に、眞濟が、天狗となり、染殿后を惱ます時、相應和尙、不動を念じ、其鬼の名を露はして退散せしめし由を記す』実は、この話、同じ染殿の別系統の話を、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」』(内容が内容だけに「R指定」とした)を南方熊楠の「今昔物語の研究」のために二年前に電子化注しており、また、同じ内容の話を、恐らくは「善家秘記」を元にして書いたと推定される「大和怪異記 卷之一 第十三 金峯山の上人鬼となつて染殿后を惱す事」も、昨年、電子化注している。しかし、ここに出る僧「眞濟」の名は、前者には出ず、「大和怪異記」では作者の最後の附記に出るばかりなので、先行する熊楠の指した「古事談」に載るものを、ここでは、電子化しておくこととする。ちょっと疲れたので、これを本篇では最後の注とする。悪しからず。原書は漢文であるが、訓読しないと、若い読者には厳しいかとも思われるので、漢字の正規表現は、正字国立国会図書館デジタルコレクションの芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」を参考にして正字表現にし、訓読は「新日本古典文学大系」版の「古事談 続古事談」(川端・荒木両氏校注二〇〇五年岩波書店刊)を参考にして示す。注も一部で後者を参考にした。【 】は傍注。読み易さを考え、改行や段落を成形し、一部は推定で歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

 貞觀七年[やぶちゃん注:八六五年。]の比(ころ)、染殿皇后【文德后、淸和御母、忠仁公の御女なり。】【明子。】、天狐の爲めに惱まされ、稍(やうや)く、數月を經たり。

 諸(もろもろ)の有驗(うげん)の僧侶、敢へて能く之れを降(くだ)す者、無し。

 天狐、放言して云はく、

「三世(さんぜ)の諸佛出現するに非ざるよりは、誰(たれ)れか我れを降し、亦た、我が名を知らむ。」

と云々。

爰(こ)こに、相應(さうわう)和尙、召しに應じて、參人(さんじん)し、兩三日、祗候(しこう)するに、其の驗(しるし)、有ること、無し。

 本山に還りて、無動寺の不動明王に對(むか)ひ奉りて、事の由を啓白(けいはく)し、愁恨して祈請(きせい)す。

 其の時、明王、背(そむ)きて、西を向く。

 和尙、隨ひて西に坐すに、明王、又(ま)た、背きて、東を向く。

 和尙、又た、隨ひて東に坐す。明王、忽ちに、背きて、元の如くに南を向く。

 和尙、亦(ま)た、南に坐し、流淚(りゆうるい)、彈指(だんし)、稽首(けいしゆ)して、和尙、白(まう)して言はく、

「相應、明王を戴き奉りて、更に、他念、無し。而るに、今、何の犯せる過(あやまち)有りて、相ひ背けること、此(か)くの如きか。願はくは、悲愍(ひびん)[やぶちゃん注:心から憐れむこと。]を垂れて、告げ示すべし。」

と云々。

 胡跪(こき)[やぶちゃん注:膝を地につけて礼拝するもの。特殊な法要でのみ用いる座法。]合掌して、明王の本誓(ほんぜい)を念じ奉りて、眼を合はする間(あひだ)、夢に非ず、覺むるに非ずして、明王、示して云はく、

「我れ、生々加護(しやうじやうかご)の本(もと)の誓(せい)に依りて、去り難き事、有り。今、其の本緣を顯說(けんせつ)せむ。昔、紀(きの)僧正眞濟存生(ぞんしやう)の日、我が明咒(みやうじゆ)を持(じ)す。而るに、今、邪執(じやしふ)を以ての故に、天狐道(てんこだう)に墮ち、皇后に着きて、惱ます。本の誓の爲めに、彼(か)の天孤を護る。仍(よ)りて、我が咒を以ては、彼の天孤を縛(ばく)し難(がた)きなり。大威德の咒の加持を以てすれば、結縛(けつばく)の便(たより)を得むか。」

と云々。

 此の告げの後、感淚に堪へず、頭面攝足(とうめんせつそく)して[やぶちゃん注:両膝と両肘を地につけ、両手で相手の足をとって自分の頭部に接しさせる最高礼の仕儀を行うことを指す。]、禮拜、恭敬す。

 後日、召しに依りて、復(ま)た、參る。

 明王の敎誡(けうかい)の旨(むね)に任せて、加持し奉る間、天狗を結縛す。

 自今已後、復た來たるべからざる由(よし)、歸伏(きぶく)して後、之れを、解脫(げだつ)す。

 則ち、皇后、尋常に復すと云々。

   *]

追記 (大正十五年九月記) ハズリットの「諸信念及俚傳」第二卷六二頁に、吸血鬼、人を呼ぶに、答ふれば、必ず、死す。但し、此鬼、一夜に、同じ人の名を、二度、呼ばず。故に、二度呼ばれて答ふるも、害なし、と有る。一九一〇年劒橋《ケンブリッジ》板、セリグマンの「英領ニューギネアのメラネシアンス」一四〇頁に、コイタ人の靑年は、多く、自分の名をいはず、衆中で問《とは》るゝ時は、止《やむ》を得ず、其友に言《いつ》てもらひ、若くは、其友の言ふに任す、と出づ。これも、以前、自分の名を語れば、自身、全く名を聞き知つた人に領せらる、と信じた遺風だろう[やぶちゃん注:ママ。]。

 

「新說百物語」巻之四 「仁王三郞脇指の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。「仁王三郞」は「にわうさぶらう」で、室町時代に作られたとされる日本刀(脇差)で知られる二王清綱(におうきよつな:生没年未詳)。当該ウィキによれば、『岐阜県岐阜市にある岐阜県立博物館所蔵』の、後の『新撰組の近藤勇の処刑に使われた刀として知られる』とあり、刀工二王清綱の流派『二王派は鎌倉時代から室町時代末期にかけて周防国で活動した刀工一派であり、周防国には大和国東大寺領の荘園が多く存在したことにより、二王派の刀工も大和鍛冶との交流が深く、作風にも大和伝の特徴がよく表れている』。『「二王」という名前の由来は、仁保庄(におのしょう)』(現在の山口市の東北部を流れる仁保川(グーグル・マップ・データ)の流域一帯を荘域とする)『に刀工が居住したことに由来するというのが有力である』。『また、異説として、ある刀工が寺院で火事に遭遇し、仁王門が焼けて仁王像にも火が及ぼうとしたとき、門に繋がれていた鎖を自身が作った刀で断ち切って仁王(二王)像を救い出したことから、その刀工はそれ以降「二王清綱」と名乗るようになったという逸話もある』とあった。]

 

   仁王三郞脇指の事

 京西洞院に小林良淸といふ人あり。

 冨饒(ふによう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ふねう」。])の人にて、方々、御大名がたの御用等、うけ給はり、常々江戶へ通ひしか[やぶちゃん注:ママ。]、ある年、御出入り申す御大名、仰せられけるは、

「いかに良淸、男と生まるれば、武士・町人の別ちは、なし。たしなむへき[やぶちゃん注:ママ。]は、刄物なり。汝か[やぶちゃん注:ママ。]常に帶する脇さし[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、いかやうのものそ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、御尋ねありける。

 良淸か[やぶちゃん注:ママ。]いはく、

「私《わたくし》、風情《ふぜい》の脇ざしにて候へば、各別《かくべつ》の刄物も所持仕らす[やぶちゃん注:ママ。]。しかしなから[やぶちゃん注:ママ。]、代々相つたへ候一尺六寸御座候。ほそ身にて、銘は、『仁王三郞』と御座候ふ。」

と、申し上げる。

「夫《それ》、見せよ。」

とて、直《ぢき》に御らんなさるに、成程、正眞の「仁王三郞」にて、見事なるものなり。「是れは、ためしたる事も、ありや。」

と御尋ねなさる。

「いや。ついに、ためして見たる事は、是れ、なし。」

と、こたふ。

「迚《とても》の事に、ためして遣はさん。」

とて、

「幸《さひはひ》に、罪人あり。をきて、かへるへし[やぶちゃん注:ママ。]。そのかはりに、歸り道の腰を、ふさけよ[やぶちゃん注:ママ。「塞げよ]。「代わりに、これを腰に差せ」の意。」

とて、御脇指を拜領仕り、我《わが》脇さしは、御預け申し、かへりける。

 良淸、其夜、宿《やど》へかへりて、ふせりける。

 夢に、不動尊、枕かみ[やぶちゃん注:ママ。]に立たせ給ひ、

「我は、是れ、汝が信心して、常に懷中する所の一寸三分の目黑不動のうつしの金佛《かなぶつ》なり。なんち[やぶちゃん注:ママ。]、脇指をためさんとて、あつけ[やぶちゃん注:ママ。]置きし所の罪人、さして切るへき[やぶちゃん注:ママ。]程のつみにても、なし。其所《そのところ》の物逢[やぶちゃん注:「ものあひ」か。以下の叙述から、使用人の下女の意であるようだ。]なるか[やぶちゃん注:ママ。]、小袖の綿に、針、ありけるを、主人、いかりて、をし[やぶちゃん注:ママ。]こめ、置《おき》たるなり。別して、此女《このをんな》、信心のものにて、我を、うやまふ事、年、久し。ねかはくは[やぶちゃん注:ママ。]、明日、さうさうまいり、命を、こひ得て遣はすへし[やぶちゃん注:ママ。]。是《これ》、おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]善根なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。その替りには、又、なんち[やぶちゃん注:ママ。]も、災難を、のかるゝ[やぶちゃん注:ママ。]事、あるへし[やぶちゃん注:ママ。]。脇さしは、もつとも、ためすに及はす[やぶちゃん注:ママ。]。大切の名作なり。かならす[やぶちゃん注:ママ。]、祕藏すへし[やぶちゃん注:ママ。]。

と、のたまふ、と、覺へて、夢、さめたり。

[やぶちゃん注:「目黑不動」東京都目黒区下目黒にある天台宗泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺(りゅうせんじ)。不動明王像を本尊とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は大学時代、中目黒に下宿しており、この寺の傍の五百羅漢寺が、大のお気に入りであったので、しばしば訪ねたものである。]

 良淸、あさ、とく、おきて、直(すく[やぶちゃん注:ママ。])に御出入り申すかたへ參り、「夢のつけ[やぶちゃん注:ママ。]」なと[やぶちゃん注:ママ。]申し、さまさま、御わひ[やぶちゃん注:ママ。]申し上け[やぶちゃん注:ママ。]、その女を、もらひ歸へり、我《わが》知音《ちいん》の方《かた》へ、片付《かたづけ》ける。

 そのとしも過《すぎ》て、明年、五月の頃、又々、江戶へ下り、四、五日もありて、不動尊、枕かみに立ち給ひ、

「去年《こぞ》は、存《ぞんじ》もよらぬ善根を、なしたるによつて、汝か[やぶちゃん注:ママ。]わざはひの來たるを、告《つぐ》るなり。明日の夕かた、此所、出火ありて類燒、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]、大火なり。其心得いたして、然るへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、の給ひて、夢、さめたりける。

 今日は、別して、余儀なき事にて、他出《たしゆつ》いたす日なれば、近所の念比《ねんごろ》なる人にも、語りて、道具など、かたつけ[やぶちゃん注:ママ。]させ、我も、その用意して、朝、とくより、出《いで》たりける。

 夕かた、御出入りの御かたの側《そば》に、御咄《おはなし》なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたし居《をり》けるか[やぶちゃん注:ママ。]

「出火。」

のよし、申しける。

 吟味いたせは[やぶちゃん注:ママ。]

「宿所の近所。」

のよし。

 御馬《おんうま》を拜惜して、一さんに歸へりけれと[やぶちゃん注:ママ。]も、最早、あとへん[やぶちゃん注:既にして焼け尽して頃のことを言うか。]にて、宿の近所は、一軒も殘らず、燒《やけ》うせたり。

 夫《それ》ゆへ、荷物ひとつも、燒《やけ》うせす[やぶちゃん注:ママ。]、けか[やぶちゃん注:ママ。]も致さゝり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 近所の者も、夢のはなしを信用せさる[やぶちゃん注:ママ。]ものは、家財をうしなひて、損をいたしけるとなり。

「『仁王三郞』の脇ざし、『金佛の不動尊』、今に、其家に持傳《もちつた》へて、まさしく、手に取りて見たる。」

と語りける。

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「夏の日の戀人」李瑣

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  夏の日の戀人

            日 永 倦 遊 賞

            枕 簞 集 凉 颸

            便 欲 甘 同 夢

            那 堪 日 落 遲

                  李   瑣

 

つれづれの夏の日ねもす

うたたねの枕すずしや

かよへかし夢はかたみに

君來ます夜(よる)をまちがて

 

   *

李  瑣  明朝の妓女。 未詳。

   *

[やぶちゃん注:作者も標題も不詳。二〇一四年八月十日に講談社文芸文庫の佐藤春夫「ほるとがる文」所収の本篇(新字体)を公開した際、二十日後にTwitterで作者について中文サイトの出典を教えて下さった方がおられたのだが、そのお教え頂いたリンク先が当該記事を示してくれない。リンク元データも残しておいた外付けディスク損壊のため、存在していない。万事休す【二〇二三年六月二十四日追記・改稿】、と思ったところが、Twitterでお教え下さった方(過去記事を検索したのだが、どうやっても辿り着けなかったので、Twitter上で公にお願いを掲げたところ、三日後に、その嘗つて教えて下さったご本人の方(「mekerere」氏)から、お返事を頂戴した。『出典は青楼韻語ですね。昔のリンクは忘れましたが、以下のところで見られます』とあって、中文のサイト「臺灣華文電子書庫」の「青樓韻語」(明・張夢徵編輯・沈亞公校訂)の「161」ページ(全体は同書刊本の全画像。無論、繁体字)、及び、やはり中文のサイト「个人图书馆」の「青楼韵语(1-8)」(こちらは簡体字)の二箇所を御教授戴いた。心から御礼申し上げます! Mekerereさま! 向後とも、よろしくお願い申し上げます!

 さて、以下に前者リンク先を参考に、原詩(標題は「子夜夏歌」)と推定訓読を示す。

   *

 子夜夏歌

日永倦遊賞

枕簞集凉颸

便欲甘同夢

那堪日落遲

  子夜夏歌(しやかか)

 日(ひ) 永くして 遊賞(いうしやう)に倦(う)みたり

 枕簞(ちんたん) 凉颸(りやうし)を集(あつ)む

 便(すなは)ち欲(ほつ)す 甘(あまき)同じきひととの夢を

 那(なん)ぞ堪(た)へんや 日の落ちて遲きときを

   *

・「枕簞」瓢箪を磨いて寝枕に加工したものか。

・「凉颸」涼風(すずかぜ)のこと。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二八番 赤子石

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。標題は「あかごいし」と訓じておく。]

 

      一二八番 赤 子 石

 

 昔の話、盛岡の仙北町の邊に仲の惡い嫁姑《よめしうとめ》があつた。この嫁姑が殆ど同時に懷姙すると、姑は嫁のミモチを大層憎んで、其町の長松寺の地藏樣に詣つて、どうかおら方(ホ)の嫁の腹の子を墮(オロ)して下さいと願をかけた。

 地藏樣の靈驗(シルマシ)はひどくアラタカで、嫁子は間もなく流產した。姑は喜んで地藏樣へ御禮詣りに行き、地藏樣シ地藏樣シ嫁の腹の子を墮して下されてありがたうがんした。あゝ尊(タウタ)いと言つて拜んだ。すると自分も急に產氣がついて、さあ、苦しんだが苦しんだが、苦しんだ結果(アゲク)、赤兒に似た赤石を生み落した。

 其赤子石は今でも、長松寺の地藏樣の傍らにある。

  (一二九番同斷の三。)

[やぶちゃん注:「盛岡の仙北町」旧盛岡仙北町域は南北に広い。「ひなたGPS」で示す。

「ミモチ」ここは「妊娠すること」の意。

「長松寺」曹洞宗萬峰山長松寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。創立は不詳。元は浄土宗であったが、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に曹洞宗に改宗している(公式サイトの「沿革」に拠った)。

「地藏」同公式サイトの「什物」に地蔵菩薩坐像の写真があるが、これかどうかは判らない(かなり綺麗で、一見、古い者には見えないため)。

「赤子石」公式サイトには記されておらず、フレーズ検索しても、この話を記載しているネット記事は全く見当たらない。

「一二九番同斷の三」次の話の附記は、「村の今淵小三郞殿の話。昭和元年頃の聽き記。」とある。]

2023/06/20

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「川ぞひの欄によりて」鄭允端

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  川ぞひの欄によりて

            近 水 人 家 小 結 廬

            軒 窗 瀟 灑 勝 幽 居

            凭 欄 忽 聞 漁 榔 響

            知 有 小 船 來 賣 魚

                 鄭 允 端

 

川ぞひの小家のかまヘ

窻ゆかしよき庵よりも

立ちよれば櫓の音ひびき

小船來て魚を買へとぞ

 

   ※

鄭 允 端  十二三世紀。 吳中の施伯人の妻である。 その著を肅雝集といふ。 今は傳はらない。

   ※

[やぶちゃん注:巻末の原作者の解説では、『その著を肅雝集といふ 。今は』(後の字空けが、その分、ない、のである)と誤植しているので、訂した。「肅雝集」「しゆくようしう」或いは「しゆくゆしう」と読む。この「雝」の字は恐らく「鳥の声が和(なご)やかなさま・心地よいさま」の意であろう。しかし、この解説は致命的に誤っている。彼は元代末の女流詩人である(「十二三世紀」では合わない)。「維基文庫」にも彼女のページが存在し、それによれば、字は正淑で、一三二七年に生まれ、一三五六年に数え三十歳で病没している。元代の女性詩人の中で最も多くの詩を残したともある。彼女の五代前の鄭清志は南宋の宰相であった。浙江省殷県出身であるが、呉君(現在の江蘇省蘇州)に移り、蘇州を出身とした。学者の家庭に生まれ、父も兄も儒教の古典を教えており、蘇州では有名な人物であった。彼女は、幼い頃から書道を学んだ。後に同郡出身の施伯と結婚した。彼女の死後、夫は遺作集として施伯仁「肅雍集」(「雍」の字は「雝」と上記の義で通用されるので、「維基文庫」の表記は誤りではない)を編纂している。しかもこの書は、ちゃんと伝わっており、現在、残っている。佐藤の今は傳はらない」も誤りなのである。なお、日本中国学会の「第四十五回大会要項」(一九九四年十月発行・PDF)の小林徹行氏の論文「元の閨秀詩人鄭允端の文学―特に女訓的な詩を中心にして」のレジュメによれば、『元末に平江(現在の江蘇省蘇州)に居を構えていた施伯仁の妻で、短命であったにも拘らず、意欲的に古詩や近体詩に取組み、独自の見解と作風とを世に問うた女流詩人の一人と言える』と述べておられる。

 なお、本詩の標題は「中國哲學書電子化計劃」の「元詩選」のここによって、「水檻」であることが判った。

・「欄」は「おばしま」と読みたい。

・「瀟灑」(せうしや(しょうしゃ))まずは「さわやかなさま・さっぱりとしてきれいなさま」を言い、また、「俗っ気がなく淡泊なさま・あっさりとして物に拘らないさま」をも言う。両意を含んでよかろう。

・「漁榔」「榔」は音「ラウ(ロウ)」。狭義にはヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の一種を指すが、国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここの解説によれば、「肅雝集」所収の本篇では『「鳴榔響」に作る。「鳴榔」は「鳴桹」に通じ、船べりを桹(長い木の棒)で鳴らして魚を驚かし、網の中へ追い立てる漁猟をいう。「漁榔」も同義。』(中略)『「桹」は『説文解字』に「桹、高木也」とあり、』(中略)『一般に背の高い木・長い棒の意である』とあった。

 以下、推定訓読を示す。

   *

 水の檻(おり)

水に近き人家あり 小さく 廬(いほり)を結ぶ

軒の窗(まど) 瀟灑(せいしや)にして 幽居するに勝(まさ)れり

欄(おばしま)に凭(もた)るれば 忽(たちま)ち聞く 榔(らう)もて漁(すなど)るの響きを

知れる小船の有りて 來たり 魚を賣る

   *]

「新說百物語」巻之四 「火炎婆々といふ亡者の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、本篇には挿絵があるが(底本では、またまたおかしなことに次の「巻之五」の中のここにある)、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

    火炎婆々(くはえんばゝ[やぶちゃん注:ママ。])といふ亡者の事

 北国《ほつこく》に何寺とかやいふ一寺、あり。

 その旦那に、角山何某といふものあり。

 其母親、つねつね、けんどん[やぶちゃん注:「慳貪」。吝嗇で欲張りなこと。]邪見にて、六十にあまれ共《ども》、浮世といふ事も、おそれす[やぶちゃん注:ママ。]、慈悲・善根も、なさず、欲、ふかく、わづかづゝの銀《かね》を溜《ため》る事をのみ、一生、樂しみにいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるとき、語りけるは、

「昨夜、ふしきなる[やぶちゃん注:ママ。]夢を見て、今に、身うち、いたみ、起きあがられず。」と申しける。

「其夢の樣子は、死したるとも、おもはさりけるか[やぶちゃん注:総てママ。]、正しく繪にかきたる地こく[やぶちゃん注:ママ。]といふ樣《やう》なる所に、いたりたれは[やぶちゃん注:ママ。]、鬼共、蛇[やぶちゃん注:ママ。「続百物語怪談集成」もこの字で起こしている。意味不明。「何」の字の誤刻か。]ともいはれぬ、おそろしきものきて、我を、ひつたてける故、其時、はしめて[やぶちゃん注:ママ。]仏《ほとけ》の事をおもひ出し、

『南無、最上寺の阿みた如來[やぶちゃん注:ママ。]、たすけ給へ。』

と申しければ、彼《か》の、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]もの、いふやう、

『何ほと[やぶちゃん注:ママ。]、佛を念しても[やぶちゃん注:ママ。]、汝か[やぶちゃん注:ママ。]罪、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]おもし。せめて、とんよくのつみを、輕くして、得させん。』

とて、舌をぬけは[やぶちゃん注:ママ。]、金子《きんす》と成り、目を、くちれは[やぶちゃん注:総てママ。「くぢれば」。抉(えぐ)り出せば。]、銀子《ぎんす》となり、ひらたき板にて、兩方より、はさみ、おしつけらるれは[やぶちゃん注:ママ。]、惣身《そうみ/そうしん》より、

『はらはら』

と、金銀、落ちちりたり。其くるしみ、いかはかり[やぶちゃん注:ママ。]にや、たとへんに、もの、なし。扨々《さてさて》、あみた如來[やぶちゃん注:ママ。]を信じける、と、おもへば、夢、さめたり。」

と、はなしを、いたすさへ、身を、ふるはしける。

 夫《それ》より、病(やみ

つきて、食《しよく》も喰はす[やぶちゃん注:ママ。]、日夜、

「最上寺へ、行かふ、行かふ[やぶちゃん注:総てママ。後半は底本では踊り字「〱」。]、」

と、はかり[やぶちゃん注:ママ。]、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、西の方の窓を、あけて、顏を、つき出し、相果《あひはて》たり。

 


Kaenbaba

 

[やぶちゃん注:キャプションは、右幅の中央右寄りに、

最上寺へ

  ゆかふ

縁から落ちる寺僧の叫び声、

  たすけ給へ

   なむあみだ

      なむあみだ[やぶちゃん注:この行は画像では踊り字「〱」。]

左幅の寺僧二人の顏を向けている一人の台詞(但し、これは本文に即すなら、納所坊主一人が体験したものだから、この両幅の三人分は、実は一人の、その僧のダブった表現かも知れないが、左幅から右へ時間が経過するというのは、絵(巻物)のセオリーからは外れるので、禁じ手である。奥の僧は上着を有意にたくし上げているのに対し、手前の後頭部の僧はそうなっていないから、本文とは異なり、ここは、別々な三人が騒動していると見るべきであろう)。

やれ

 おそ

ろしや

  おそろしや[やぶちゃん注:この行は画像では踊り字「〱」。]

後頭部のみを見せている一人の台詞、

   なふ[やぶちゃん注:感動詞「なう」の音転訛「のう」の慣用表現。]

    かな

     しや

左幅の上部に、鬼に板と石の間で圧し潰されて責められる老婆の夢を描いた箇所に、右手に、鬼の台詞で、

何かと

仏を

ねんじ

  ても

 

  かなはぬ

    ぞ

とあり、左手の鬼の左上には、本文の鬼の台詞の最後の、

せめても

 とんよくの

  つみをかろく

     して

     ゑ[やぶちゃん注:ママ。「え」。「得」。]]させん

と記されてある。その左の鬼の右足の下に、老婆の絶叫が、

    あら

     くるし

        や

と記されてある。]

 

 其夜、最上寺の納所坊《なつしよばう》、御堂《みだう》に、みあかし、とぼしに、行きければ、何やらん、ひかし[やぶちゃん注:ママ。]の方《かた》より、火炎のごとくなるもの、飛來《とびきた》り、堂の庭に、とゝまる[やぶちゃん注:ママ。]と、見へけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其中に、白髮の老女の首、火のことく[やぶちゃん注:ママ。]に成りて、口より、火炎を、はきけるまゝ、納所坊は、

「わつ。」

と、いふて、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

「しばらくありて、老女、死したるやうす、最上寺へ、申し來たりける。」

と、栂井《とがゐ》氏の人、かたられし。

[やぶちゃん注:最初に「何寺」と伏せてあるのに、後から、「最上寺」と出るのは、調べるだけ無駄な気がしたのだが、一応、北陸・東北を調べたところ、山形県山形市内に高野山真言宗の同名の寺は見つけたものの(少し北方に最上川が流れる)、ストリートビューで見ると、寺の標柱はあるものの、普通の住宅で、寺としてはどうも閉業しているらしく、寺歴も読みも判らないので、違っていたら御迷惑になるだけなので、地図は示さない。

「納所坊」納所坊主。寺院の会計や雑務を扱う下級の僧。]

「新說百物語」巻之四 「長命の女の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   長命の女の事

 京都四条に檜皮《ひはだ》やあり。

 近江のものにて、京へ、奉公に出、年季、首尾よく、相《あひ》つとめ、宿這入(やとはいり[やぶちゃん注:総てママ。])しける。

[やぶちゃん注:「宿這入」「やどはいり・やどばいり」で、奉公人が暖簾を分けて貰い、独立することを言う。]

 其親は、近江にありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、六十歲の時に、五十歲になる女房を、むかへ、女房五十四歲にて、初產をいたし、此檜皮屋を產み、夫《それ》より、段々と、十人の子を、もふけ[やぶちゃん注:ママ。「まうける」が正しい。]ける。

 寶曆十二の年[やぶちゃん注:一七六二年。徳川家治の治世。]、此惣領の檜皮や、八十四歲なり。

 父は、相はて、母は、百三拾七歲にて、存命なるが、六十歲ばかりに見えけるよし。

[やぶちゃん注:年齢は、ちょっと信じ難い。]

「新說百物語」巻之四 「牛渡馬渡といふ名字の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、標題及び本文中の、「牛渡(うつたり)」、及び、「馬渡(まふたり)」の読みは、ママである。]

 

    牛渡(うつたり)馬渡(まふたり)といふ名字の事

 天正の比《ころ》のよし。[やぶちゃん注:一五七三年から一五九二年までで、天正は二十年で終わる。]

 東国に小右衞門・新左衞門といふ百姓、弐人《ふたり》あり。つねつね[やぶちゃん注:ママ。]、隣家のことにて、他人ながらも念比《ねんごろ》にいたしあひて、田畠へ行くにも、さそひ合ひて出行《いでゆき》ける。

 その頃は、いまた[やぶちゃん注:ママ。]、世間も、さはかしく[やぶちゃん注:ママ。]ありけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、片田舍の心やすさは、やはり、耕作もいたしける。ひとゝせ、羽柴氏の大將、急に、かたきの城へ取《とり》かけ給ふに、折ふし、五月の事にて、河水、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]出《いで》て、なんき[やぶちゃん注:ママ。「難儀」。]なりけるを、彼《か》の大將、河はたに座《ま》して、家中、殘らす[やぶちゃん注:ママ。]、河を越させ、壱人、跡にのこりておはせしか[やぶちゃん注:ママ。]、段々、水かさ、勝(まさ)りて、もはや、いかなる水練にても、越へかたくみへ[やぶちゃん注:総てママ。]ける。

 所の百姓を呼《よび》て、尋ねられけるか[やぶちゃん注:ママ。]、小右衞門と、新左衞門と、まかり出《いで》て、

「私とも[やぶちゃん注:ママ。]御渡し申上《まうしあぐ》へし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、小右衞門は、馬をひき來《きた》り、新左衞門は、牛をひき來りて、大將の馬の兩脇に、ひきつけ、二人は御馬《おんうま》の口を取りて、難なく、彼の大將を、河を越させたり。

 其軍《いくさ》、ほとなく[やぶちゃん注:ママ。]、勝利にて、凱陣(かいぢん[やぶちゃん注:ママ。])の折《をり》に、すく[やぶちゃん注:ママ。]に召出《めしいだ》され、

「牛渡(うつたり)新左衞門。」

「馬渡(まふたり)小右衞門。」

と名つけ[やぶちゃん注:ママ。]給ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]、今も、兩家ともに、さる御家中に、是、あるよし。

[やぶちゃん注:「牛渡(うつたり)馬渡(まふたり)」以上のような、こういう事実があったかどうかは判らない。少なくとも、ネット上には存在しないようだ。話としては、あってもおかしくはない気はするが、秀吉一人が残されるというのは、ちょっと嘘臭い。事実なら、地名や河川名が示されて当然であろう。但し、この二つの姓が実際に現在もある。サイト「名字由来net」の「牛渡」には、「うしわた」・「うしわたり」・「うしど」・「うしと」の読みが挙げられ、全国でこの漢字姓を持つ人数を、凡そ八百三十人としており、『名字の由来解説』には、『福島県浪江町がルーツ。福島県、宮城県、北海道にみられる。牛が渡れるような浅い小川が語源』とある。同じサイトの「馬渡」には、「もうたい」・「まわたり」・「うまわたり」・「まわた」「まわたし」「もうたり」「うまと」「うまなべ」「うまわた」「うまわたなり」「ばわたり」「ばと」の読みを挙げ、全国でこの姓を持つ人数は、凡そ六千五百人とする。『名字の由来解説』には、現在の『佐賀県と長崎県である肥前国松浦郡馬渡島』(まだらしま:佐賀県唐津市鎮西町馬渡島:グーグル・マップ・データ))『の豪族は坂上氏ともいわれる。現滋賀県である近江、現福岡県南部である筑後、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵などにみられる。語源は、馬に乗らなければ渡れないような川や湿地からきている。地名には、茨城、兵庫などに存在』するとある。

「羽柴氏の大將」秀吉が「木下」から「羽柴」に改めたのは、元亀四年七月二十日その八日後の七月二十八日(ユリウス暦一五七三年八月二十五日)に天正元年に改元している。而して「羽柴」から「豊臣」に代わるのは天正一四(一五八六)年である。問題は、ロケーションを「東国」としている点で、京都では大津から東は東国と呼称する習慣もあるのだが、ここで彼を「大將」と呼んでおり、彼一人が川中に残されるというシークエンスから、彼が政治実権を握る折りよりも前であり、最もそれらしい、彼が「大将」=正式な「武将」として参戦した合戦としては、天正三年五月二十一日(当時のユリウス暦で一五七五年六月二十九日。グレゴリオ暦換算で一五七五年七月九日)、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)を巡って織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の軍勢が激突した、かの「長篠の戦い」である。本文でも「折ふし、五月の事にて」と言っており、梅雨時で「洪水」とも親和性がある。

「新說百物語」巻之四 「鼡金子を喰ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

     《ねずみ》金子《きんす》を喰《くら》ひし事

 近頃の事にてありし。

 濃州の一村に、やうやう、三百軒はかり[やぶちゃん注:ママ。]の所あり。

 その村に、中尾氏の人あり。一村の内にて、壱人《ひとり》の身上にて、米・酒を、うり、一村の田畑、その外、衣類等まで質物《しちもの》なども取りて、何代とも知れす[やぶちゃん注:ママ。]、つゝき[やぶちゃん注:ママ。]たる家、あり。

 ある時、その隣(となり)の下百姓《したびやくしやう》[やぶちゃん注:小作の百姓。]の女子《むすねご》の七才はかり[やぶちゃん注:ママ。]なるもの、うらの藪にて、金一步《ぶ》、拾ひたりけるを、親に見せければ、悦《よろこ》ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、

「盆(ぼん)かたびらを、かふて、着すべし。」

と、隣の彼《か》の冨家《ふけ》へ持行《もちゆ》き、

「錢と、兩がへして給はるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しける。

 亭主、うけ取りて、よくよくみれは[やぶちゃん注:ママ。]、其一步、慶長金《けいちやうきん》にて、鼡の喰ひし齒形(はかた[やぶちゃん注:ママ。])あり。その通りを、かの者に、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]きかせ、鳥目《てうもく》八百文に買取《かひとり》ける。

 百姓、おゝき[やぶちゃん注:ママ。]に、よろこひ[やぶちゃん注:ママ。]、歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、そのゝち、又々、その娘、小判一兩、ひろい[やぶちゃん注:ママ。]、歸りける。

 其事、近所に、かくれなく、其あたりを尋ねけれは[やぶちゃん注:ママ。]、或は、一兩、又は、一步宛《づつ》、ひろいけるもの、二、三十人ほどあり。

 およそ、金子七八十兩に、なりぬ。

 そのまゝにても、おかれず、代官所へ、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]けれは[やぶちゃん注:ママ。]、御吟味の上、壱步にても、鼡の齒かたの、いらぬは、なかりける。

 段々、吟味いたしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、中尾氏の土藏の、四、五間、脇より、鼡穴ありて引出したる金子なり。

 予も、その一步を、見侍りしか[やぶちゃん注:ママ。]、成程、ねつみ[やぶちゃん注:ママ。]の齒形、ありける。

[やぶちゃん注:実話談。

「慶長金」江戸初期、慶長六(一六〇一)年から江戸幕府が発行し、全国に流通した金貨、慶長大判・慶長小判・慶長一分(ぶ)金の総称。孰れも、後代のものに比較して、良質であったが、元禄の貨幣改鋳(元禄八年八月七日(一六九五年九月十四日))によって回収され、改悪された。本書の刊行は明和四(一七六七)年。]

「新說百物語」巻之四 「何國よりとも知らぬ鳥追來る事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   何國《いづこ》よりとも知らぬ鳥追《とりおひ》《きた》る事

 京四条あたりに、むかしより、大晦日の夜、鳥追ひのおもらひ來る家あり。

「遣はす物とては、たゞ、餠、壱重《いちぢゆう》、鳥目《てうもく》二十文なり。此一軒を目あてに、むかしより來る事、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なり。又、鳥追ひの在所も、聞きたる事も、なし。每年、弐人《ふたり》、大晦日の夜、八つ時[やぶちゃん注:午前二時頃。]に來るなり。ある年、普請いたして、店作りを、格子に作りかへける。そのとしより、不通に、きたらず。我が家のあるし[やぶちゃん注:ママ。] 、六十年は覚へて居《をり》侍る。その前は、いつより來るといふ事を、しらす[やぶちゃん注:ママ。] 。近所にて、いにしへより、「長者の屋しきあと」ゝいゝ[やぶちゃん注:ママ。]ならはせり。その鳥追ひのうたふ事は、目出度《めでたき》事はかり[やぶちゃん注:ママ。] いゝならへて、一時はあかり[やぶちゃん注:ママ。] 、うたひたる。」

よし。

[やぶちゃん注:これは実話と考えて間違いあるまい。話柄の殆んどが、その屋敷(何ならかの店(たな)持ちの商人)の関係者である普通の町人の直接話法(「我が家のあるじ」)というのも、怪奇談物では、特異点と言える。

「鳥追い」小正月の予祝行事及一種の芸能者。前者は、秋の収穫時には、雀・鷺・鴉などに作物を荒らされることが多いが、年初に害鳥を追い払う呪術的な行事をしておけば、その効果が秋にまで持続するという考えに基づく。子供たちが、手に手に「鳥追い棒」と称する棒切れや杓子(しゃくし)を持って、打ち鳴らし、「朝鳥ほいほい、夕鳥ほいほい、……物を食う鳥は、頭割って塩つけて、佐渡が島へ追うてやれ」などの歌を歌いながら、田畑などを囃して回る。大人も参加して家ごとにするもの、子供仲間が集まって家々を訪問して歩くもの、「鳥追い小屋」と称する小屋に籠るものなどの異なった形式があり、信越地方から関東・東北にかけて広く分布する年中行事である。近世には三味線の伴奏で門付をしながら、踊る者が現れ、これも「鳥追い」という。ここはそれで、正月元日から中旬まで、粋な編笠に縞の着物、水色の脚絆に日和下駄の二人連れの女が、艶歌を三味線の伴奏で門付をした。中旬以後は菅笠に変え、「女太夫」(おんなだゆう)と称したともされる。京都悲田院に住む与次郎の始めたものと言い伝えるが、京坂では早く絶え(これが或いは本話で来なくなったことと関係するのかも知れない。本書の刊行は明和四(一七六七)年で江戸中期後半である)、江戸では明治初年まであった(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「池のほとりなる竹」張文姬

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  池のほとりなる竹

            此 君 臨 此 池

            枝 低 水 相 近

            碧 色 綠 波 中

            日 日 流 不 盡

                  張 文 姬

 

池にのぞめるくれ竹や

枝は水の面にしだれつつ

みどりは日日に池水の

波にそそぎてつきもせず

 

[やぶちゃん注:作者張文姬は前回分を参照されたい。標題は中文サイトを調べたところ、「池上竹」であることが判った。以下、推定訓読を示す。

   *

 池の上(ほとり)の竹

此の君 此の池に臨める

枝(えだ) 低くして 水 相ひ近し

碧(みどり)の色 綠波の中(うち)

日日(ひび)流れて 盡きず

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二七番 土喰婆

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。標題は「つちくひばば」と訓じておく。]

 

      一二七番 土 喰 婆

 

 昔、野中に一軒の百姓家があつた。其家には老母と息子とが居て、息子は每日外へ出て働いては老母を養つてゐた。

 或年大阪に戰爭があつて、息子はそれに召出されて行つたので、年寄一人が殘つてしまつた。息子は何年たつても還つて來なかつた。村の人達も初めのうちは氣にも止めずに居たが、何年經つても婆樣が食物を求める風がないので、如何《どう》して居ることかと思つて行つてみると、其老婆は土を喰つて生きて居た。

 それで婆樣の死んだ所へ御堂を建てゝバクチと呼んで地神樣に祀つた。現在も栗橋村字太田林、前ケ口の畠中の大きなモロノ樹の根下に其祠がある。

  (昭和三年の冬頃、菊池一雄氏御報告の一三。)

[やぶちゃん注:「大阪に戰爭があつて」慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」或いは翌年の「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)か。

「土を喰つて生きて居た」これはもし、本当に食べられる土であるとするなら、恐らく、長野県小諸市で天然記念物に指定されている「テングノムギメシ(天狗の麦飯)」の類と似たような、土ではなくて、藻類の塊りなのではないかと私は思う。詳しくは、「諸國里人談卷之三 土饅頭」の私の注の冒頭を参照されたい。

「栗橋村字太田林、前ケ口」「栗橋村」は岩手県の旧上閉伊郡にあった村で、現在の釜石市栗林町及び橋野町に相当する。「太田林」は「ひなたGPS」のこちらで戦前の地図と国土地理院図の双方で確認出来る。橋野町太田林。グーグル・マップ・データ航空写真でこの附近だが、「前ケ口」は不詳。「祠」も現存するかどうかは、確認出来ない。

「モロノ樹」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ Juniperus rigida の異名。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「伊勢神宮の子良」 / パート「一」~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○伊勢神宮の子良(第三號一五○頁)「松屋筆記」卷六八に云ふ、『「參宮記」に、大物忌子良殿《おおものいみこらどの》、大物忌子良、此殿《でん》に候《こう》す。「儀式帳」に、物忌、並《ならび》に、小内人《こうちんど》の宿館、と載《のせ》たり。其一宇なるべし。垣も有《あり》けるに、今は絕《たえ》て無し。「中右記」には、子良宿屋、とあり。今、俗、神樂殿と云《いふ》。子良は、荒木田姓の女子を撰取《えらびとり》て勤めしむる也。古《いにしへ》は、童女、數多《あまた》有し故に「子等《こら》」と稱せり。子等を助くる人を、父等《ちちら》・母等《ははら》と云《いふ》。「親子」の謂《いひ》ならず、「介抱」の謂也。』。註に『「大神宮儀式帳」に、物忌《ものいみ》十三人、物忌父十三人云々、按ずるに、大神宮の物忌九人、管四宮《くわんしのみや》の物忌四人にて、十三人なり。物忌は、童女なれば、其父と同居して勤仕《きんし》せり。故に、物忌父、はた、十三人有る也』云々。又、卷八二に云《いは》く、『物忌は「神宮雜例集」一の供奉始の事の條に、大同二年二月十日、大神宮司二宮禰宜等本記十四箇條内、朝夕御饌條云、皇大神宮倭姬命戴奉五十鈴宮入坐鎭給時大若子命大神主定給其女子兄比女物忌定給云々 大神主仕奉氏人等、以女子未婚物忌止爲令供奉云々〔大同二年二月十日、大神宮司二宮(にのみや)禰宜等(とう)本記十四箇條の内、「朝夕の御饌」の條に云はく、『皇大神宮、倭姬命(やまとひめのみこと)を戴き奉りて、五十鈴宮(いすずのみや)に入坐(いりま)せしむ。坐(ま)し鎭(しづ)まり給ふ時に、大若子命(おほわこのみこと)を大神主(だいかんぬし)と定め給ひて、其の女子(むすめ)の兄(あに)、比女(ひめ)を物忌に定め給ふ』云々〕抔、見えたるにて、知るべし。』。

 熊楠按ずるに、「太神宮諸雜事記」一、神龜六年二月、天皇、俄かに不豫で、卜食《うらなはしめ》られると、太神宮に死觸不淨《ししよくふじやう》の咎《とが》有《あつ》ての祟りと分り、三月十三日、物忌子等[やぶちゃん注:「選集」では、この四字に傍点「﹅」を打つ。]、怠狀《たいじやう》を進《まゐら》す。「神宮雜例集」一、崇德帝御宇、大治三年、「御井社《みゐの》蛇直《なほ》ル事」の條に、當日、三人の物忌子良云々とあるを見ると、「物忌子等」を「子良」と書出《かきだ》したのは、餘り、後世の事で無い。

[やぶちゃん注:「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆。全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えたもの。その採録語句は約一万にも及び、国語学・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊で視認出来るが、熊楠は、前後を入れ替えており(「註に」とわざわざ書いているので、或いは熊楠の見たものは、そうなっていたのかも知れない)、『「參宮記」に、大物忌子良殿、……「介抱」の謂也』の箇所はここ(右ページ下段後ろから七行目以下)で、『「大神宮儀式帳」に、……はた、十三人有る也』の部分は、その前のページのここ(左ページ上段二行目の『(十二)』の下方から。但し、一部が違う。なお、前の部分は、その続きである。)である。

「卷八二に云く、『物忌は……」前掲書のここ(左ページ下段四行目以降。標題は『(二)菅裁物忌』(本文中で「スカタチモノイミ」と振っており、その名の解説も頭の方にあるので参照されたい)の終りの部分)。なお、この引用中の「云々」は熊楠のものではなく、原書のものであるので、注意されたい。

「怠狀」自分らの過失を詫びる旨を書いて、人に渡す文書。]

 男子よりも、女子が、多く祭事を司《つかさど》る例は、本邦と殆ど緣なき地にも有る。ワーナーの「英領中央亞非利加」(一九〇六年板)一四九頁抔見るべし。伊勢大廟は女神を主として祀る故、齋内親王《さいないしんわう》は勿論、物忌迄も、童女を正とし、男子の物忌父を副としたのだろ[やぶちゃん注:ママ。熊楠の癖。]。昔し、ローマの不斷火廟《アトリウム・ヴエスタエ》は、全國民の崇敬最も厚かりし事、伊勢大廟に等しく、六人の事火素女《ヴエルギネース・ヴエスタレーズ》が奉仕したのも、ほぼ子良に似ておる。是等の素女《きむすめ》は、良家の娘で、些《いささか》の瑕《とが》なく、父母兩《ふたり》ながら存し、齡《とし》は、六から拾《じゆう》迄の者の内より選拔され、三十年間、首尾よく勤めたら、退職して婚家するを聽《ゆる》されたが、實際、左樣《さう》する者は稀だつた(セイッフェルト「希﨟羅馬考古辭典」一九〇八年英譯、六八七頁)。フレザーの「アドニス篇」(一九〇七年板)に、事火素女は、選立の當時、兩親とも存在する者を要したが、既に立《たつ》た後に親が死《しん》でも構はなんだと見えて、多くは、一生、退職し無《なか》つた、とへり。予は日本の大廟と羅馬の不斷火廟に、相互の連絡系緣が有た抔とは、少しも思はぬが、凡て、似たことは、似た成行《なりゆき》を生ずるといふ槪則《がいそく》から、雙方を合攷《あはせかんがへ》ると、伊勢の物忌子良も、最初は雙親生存する童女の内より選拔し、便《すなは》ち、其父を物忌父と稱へて介副《かいぞへ》としたが、後には、種々の故障を慮《おもんぱか》り、親族、又、他人でも、然るべき人を物忌父とする事と成たので有らう。又、相應の年期を、滯りなく勤めた子等は、退職して結婚をもしたんだらう。〔(增)一九一一年板、ロスコーの「バガンダ人誌」上、七五―六頁によれば、バガンダ人の神社にも數多《あまた》の事火素女有て、晝夜、神火の消《きえ》ざる樣、世話やき、男子に親しむを、避けた。孰れも、神の申し子で、子なき親が、「子を授け玉はば、神に奉仕して怠る勿《なか》らしむべし。」と誓うて後ち、生まれた者だ。乳離れした時、社《やしろ》に入つて、月經、到《いた》る迄、勤め、月經、到る時は、神が、其夫を撰んで、「誰某《だれがし》に嫁すべし。」と託宣した。〕戰國時代に、僧侶が伊勢の神境に入り、神佛混淆を生じた次第は、眞田增譽の「明良洪範」二一や、池田晃淵《くわうえん》氏の「德川幕府時代史」第五章に見ゆ。

[やぶちゃん注:「池田晃淵」(生没年未詳)元松前藩出身。東京大学史料編纂掛であったらしい。日本史(近世)学者。山川健次郎の依頼を受けて、「京都守護職始末」を完成させている。]

 序でに云ふ、「和漢三才圖會」卷七七、丹後竹野郡竹野村竹野社、祭神如伊勢兩宮、里民所謂齋宮是也、當國熊野郡市場村人、如產ㇾ女則曁四五歲齋宮、以奉仕神、雖深夜獨坐、無敢怖畏、至ㇾ見月水、忽出大蛇逐之、因不ㇾ得ㇾ居、自ㇾ此還二已家、與新女相互交代也。〔丹後の竹野(たかの)郡竹野村に竹野社(たかののしや)あり。祭神は伊勢兩宮のごとし。里民、所謂、「齋宮(いつきのみや)」は是れなり。當國、熊野郡市場村の人、若(も)し、女を產めば、則ち、四、五歲に曁(およ)んで「齋宮」と爲(な)し、以つて、神に奉仕す。深夜、獨り坐(ま)すと雖も、敢へて怖-畏(おそ)るること無し。月水(げつすい)を見るに至れば、忽ち、大蛇、出でて、之れを逐ふ。因りて、居(を)ることを得ず。此れより、己(おのれ)が家に還り、新しき女と相ひに交代す。〕弘安九年、勢州阿濃津稱念寺僧沙門の「大神宮參詣記」に云《いふ》、『扨も、「齋宮は皇太神宮の后宮《きさきのみや》に准《なぞら》へ給《たまひ》て、夜々、御通ひ有《あ》るによつて、齋宮の御衾《おんふすま》の下には、晨《あした》每《ごと》に、蛇の入《はい》る心地侍る。」など申す人、有り。本託、覺束無く侍り。」と。實《まこと》に、極《きはめ》》て覺束ない說ぢや。

[やぶちゃん注:「竹野社」現在の京都府京丹後市丹後町(たんごちょう)宮(みや:グーグル・マップ・データ)にある竹野(たかの)神社。以上の「和漢三才圖會」の引用は、所持する原本で校合した。

「市場村」現在の京丹波市久美浜町のこの附近(「ひなたGIS」の戦前の地図の方で「市場」の地名が現認出来る)。

『弘安九年』(一二八六年)「勢州阿濃津稱念寺」(現在の三重県津市高茶屋にある浄土宗寺院:グーグル・マップ・データ)「僧沙門の「大神宮參詣記」に云、……』だが、僧侶の書いたこの批判は、話半分に受けておいた方がよい。、伊勢神宮では、僧侶は人の死を扱う穢(けが)れの存在と見做され、僧侶専用の参拝道と遥拝所が設けられており、伊勢神宮の正殿境内域には立ち入ること自体が厳しく禁止されていたからである。西行も芭蕉も正殿を参詣しておらず、その遥拝所から遠く眺めただけなのである。この僧も然りで、謂わば、そうした仕打ちに対する不満が、この最後の、「本託、覺束無く侍り」辺りには、濃厚に漂っていると私は読むからである。]

 但し、蛇を神と崇むる風は、古來、諸國に多く、露西亞抔も、昔しは、家每に、一隅に蛇を安置し、日々、食を與《あた》へしを、ボヘミヤより、聖僧、來り、基督敎を弘めて、悉く、其蛇を殺した(一八五八年、パリ板、ツヴェ「莫士科坤輿誌《コスモグラフイーモスコヴイト》」八六頁)。伊太利には、十五世紀にすら、アツペンニヌス山の神巫洞《カヴエルナ・デラ・シビラ》に、美女巫、棲む。洞に入つて、仙術を學ばんと欲する者、先づ、神蛇と交はるを要す。扨、洞に入れば、仙女《フエー》が、蛇・蜥蜴《とかげ》・鰐等に化して、人と歡樂す、と信ぜられた(アルベルチ「伊太利全誌《デスクリチヨン・ジ・ツツタ・イタリア》」一五五〇年板、二四八葉)。印度には、今日も、蛇を神とする者、多く、クルックが十七年前の調査を見ると、西北諸州ばかりで、拜蛇宗徒が、拾八萬三千人も有る。「大英類典」一一板二十四卷「蛇類崇拜」の條に、印度、ベハールに、蛇の妻と名《なづ》くる女群《ぢよぐん》有る事や、マラバルで、極《きはめ》て貞淨な婦女に限《かぎつ》て、蛇神の託宣を傳へうること、西アフリカのダホメイ國に近時まで大蛇《おろち》を無上の大神とし、數多《あまた》の婦女を、妻とし、捧ぐる等の例、多く載せ有り。斯《かか》る崇拜の源因は、中々、込入《こみいつ》たもので、一寸、確言し難い樣な言《こと》を陳《のべ》て居るが、フレザーの「アドニス」篇に據れば、先《まづ》は、蛇は、特に靈妙な動作が多い所から、人間の祖先が、死後、蛇に乘り移る、と信じて、崇拜に及んだ者が一番多いらしい。

[やぶちゃん注:書名その他の外来語カタカナ読み表記は総て「選集」に拠った。]

 扨、予、未見の書で、「類聚名物考」二八八卷に引《ひけ》る「謌林拾葉集」九に、『巨勢郞女「玉葛《たまかづら》花のみ咲きてならず有《あら》ば誰《た》が戀に有《あら》めわが戀思ふを」。「祕抄」に云《いはく》、『「玉葛」は、總て、葛の屬《ぞく》を美(ほめ)て云ふ詞也。「葛には實《み》のならぬ」には非ず、「未だ實の生らぬ」と云ふ心也。「實生らぬ」とは、「逢《あひ》ても實事なき」ことを云ふ也。「玉葛」は「女」に喩《たとへ》て云ふ。又、萬葉歌に「玉葛實《みの》らぬ木には千早振《ちはやぶる》神ぞ附くてふ實らぬ木には」とも詠《よめ》り。此歌は、女の獨身にてあるを、云《いへ》り。女の壯《さう》にして獨《ひとり》有るは、神に領せらると云《いふ》心也。其《その》如く、我《われ》思ふ女の、我に靡かぬは、神の附くが如し。去《され》ば、吾《われ》戀しく思ふ心が、鬼魅の如くに、先の女に附《つき》てこそ有れと云心也。去《さる》に依《より》て、誰《たが》戀に有ぬ我戀思ふを、と云《いへ》る心なるべし。』と。壯齡の女、獨身住居すれば、神に領せらるゝと信じたのは、神に奉仕する女は、未婚淸淨の者に限つたからだらう。去ば、吾國にも、或地方には、神が蛇に乘り移つて、幼女巫の童身を護ると、最《いと》古く、信じ、其から訛つて「參詣記」に載《のせ》た樣な僻說《へきせつ》[やぶちゃん注:道理に合わない説。]をも生じたのかと思ふ。

[やぶちゃん注:「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ下段)にある(「和歌部二」の一条)。]

 又、無害な蛇や、仮令《たとひ》有害でも、親しみ狎《なれ》た人に、害をなさぬ蛇を「神」とするに對して、有害、瞋《おこ》りやすき蛇を、「魔」とするは、自然の成行《なりゆき》だ。因て、古波斯《ペルシア》・ヘブリウ[やぶちゃん注:「ユダヤ」。]・基督・囘々の諸敎、皆な、蛇を「天魔」とし居《を》る(コックス「民俗學入門」一八九五年坂、一七七頁)。フヲロング「比較宗敎學短論」一八九七年板、一九一頁)に言《いは》く、『人を惡に導く魔を、老蛇とするは、古波斯の敎《をしへ》にあり、ヘブリウと基督敎の「創世記」に、爾《しか》く明言せざるに、其徒、古波斯敎の說を沿襲《えんしふ》[やぶちゃん注:昔から行なってきた習慣、及び、それに従うことを言う。]して魔を蛇とす。』と。予、幼年の頃、故島地默雷師、「聖書」に、魔、先づ、女人を惑はし、其夫に勸めて、俱に禁果を食はしめて、樂園より逐墮《おひおと》さると有るを解《とい》て、女人、先づ、成女期、至り、男子を誘うて、交媾を遂げたことだ、と言《いは》れたと記憶するが、其時代に取《とつ》て、中々、卓見だつたと思ふ。扨、女人の成女期、乃《すなは》ち、初めて魔に誘はるゝ時は、月經、初《はじめ》て到る時だから、月經を魔の所行《しよぎやう》とし、延《ひい》て、魔に緣ある蛇の所爲《せい》としたのだろ。八月の『人性』に、鵜飼祐一氏が、ユリスの「性慾心理學」を引いて、數多の例を擧《あげ》た。ボリビアのチリグヮノス族は、月經を、蛇の仕業とし、月經が始まると、其娘を傷つけた蛇を搜す爲に、老女が棒を持《もつ》て附近を走り廻り、ポルトガル地方では、月經間《げつけいのあひだ》は蜥蜴に嚙まると信ぜられ、其を避けんと、婦人は、月經期間は股引《ももひき》を着用する等ぢや。『東京人類學會雜誌』二六〇號に、米澤安立君が、越中國の一地方に、女子、十四、五歲に成ると、小蛇、來て、其胸中に棲み、同時に血の池を生じ、其血が、月々に、流れ下るが、月水だ云々、と云ふ至極面白き里傳を載せられ、同誌二七〇號に、予、「富士の人穴草紙」に「女の思ふ事は惡業より外は心に持《もた》ぬ者也、業《ごふ》の蟲の泣く淚積もりて月の障りとなるなり」とあるを、引た。此通り、吾邦にも、月經を「蛇蟲の所爲《しわざ》」としたる傳說が有る。

[やぶちゃん注:「島地默雷」(しまじもくらい 天保九(一八三八)年~ 明治四四(一九一一)年)は浄土真宗本願寺派の僧。西本願寺の執行長を務め、西本願寺に於ける「維新の三傑」と称される名僧。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「『東京人類學會雜誌』二六〇號に、米澤安立君が、越中國の一地方に、女子、十四、五歲に成ると、……」サイト「J-STAGE」のこちらで、原雑誌(明治四〇(一九〇七)年十一月発行)の初出論考「婦人の月経に關する迷信と涅齒」(「涅齒」は「でつし」或いは「はくろめ」で鉄漿(おはぐろ)のこと)がダウン・ロード出来る。冒頭から語られてある。そこでは『婦負郡野積谷地方』とある。婦負(ねい)郡野積谷(のづみだに)は「ひなたGPS」の戦前図のここの全体が相当する。]

 「業の蟲」云々は、多分、「大智度論」に、身内欲虫、入和合時、男蟲白精、如ㇾ淚而出、女蟲赤精、如ㇾ吐而出[やぶちゃん注:「虫」「蟲」の混淆はママ。]。〔身の内に「欲の虫」あり、和合に入る時、男の蟲は白き精にして、淚のごとくにして出で、女の蟲は赤き精にして、吐くがごとくして出づ。〕などの訛傳で、佛經には、皆な、男子の精白く、婦女の精赤し、としたのは、月水を女精と見たのだろ。隋代所譯「大威德陀羅尼經」一九にも、婦人五蛆蟲戶、在陰道中、其一一蟲戶、有八十蟲、兩頭有ㇾ口、悉如針鋒、彼之蛆蟲、常惱彼女、而食噉之、令其動作、動已復行、以彼令一レ動、是故名ㇾ惱、其婦女人、此不共法、以業果報、求欲方便、發起欲行、貪著丈夫、不ㇾ知厭足。〔婦人の五つの蛆蟲(うじむし)の戶(あな)は陰道の中に在り。其の一一(いちいち)の蟲、戸に、八十の蟲、有り。兩頭に、口、有りて、悉く針鋒(はりさき)のごとし。彼《か》の蛆蟲は、常に彼の女を惱まし、之れを食-噉(くら)ひ、其れをして動作せしむ。動き已めば、復(ま)た行なふ。彼(か)の動かしむるを以つて、是の故に「惱(のう)」と名づく。其の婦女人(ふぢよにん)は、此の不共法《ふきようはふ》、業の果報を以つて、欲の方便を求め、欲の行ひを發-起(おこ)す。丈夫(をとこ)を貪-著(むさぼ)りて、厭(あ)き足(た)ることを知らず。〕「業の蟲」の名、是に出《いづ》るか。爰には、唯だ、陰道中の蟲が、女人を惱まし、色慾を熾《さかん》ならしむと云へるが、「禪秘要經」には、產門云々、狀如貝齒、九十九重。一一重間、有四百四蟲、一一蟲、有十二頭十二口云々、出不淨水、諸蟲各吐、濁如敗膿云々、男精靑白、是諸蟲淚、女精黃赤、是諸蟲膿、〔產門は云々、狀(かたち)、貝齒(たからがひ)のごとく、九十九重(え)なり。一一の重なりの間(かん)に四百四(しひやくし)蟲あり。一一の蟲は十二の頭と、十二の口有り云々、不淨の水を出だし、諸蟲、各(おのおの)吐くに、濁れること、敗《くさ》れる膿のごとし云々、男の精の靑白なるは、是れ、諸蟲の淚にして、女の精の黃赤なるは、諸蟲の膿(うみ)なり。〕法顯等譯「大般泥洹經」一に、復有三恒河沙優婆夷、皆持五戒、功徳具足、現爲女像、化度衆生、呵責己身二一、猶如四蛇八萬戶蟲侵食其體。〔復(ま)た、三(みつ)の恒河沙(ごうがしや)の優婆夷(うばい)有り。皆、五戒を持し、功德は具足せり。現じて女(ぢよ)の像(かたち)となり、衆生を化度(けど)す。己れの身を呵責すること、猶ほ、四蛇の八萬戶蟲の其の體(からだ)を侵食するがごとし。〕「根本說一切有部毘奈耶雜事《こんぽんせついつさいうぶびなやざつじ》」七に、女も蛇も、多恨、作惡、無恩、利毒の五過有り、と載す。是等より、佛敎に月經を蛇蟲の所爲《しわざ》とした事が解る。鵜飼氏が言《いへ》る如く、女に蛇は附物《つきもの》で、月經を蛇より起こるとした民は、世界の諸部に在るから、日本の里傳も、必ずしも印度傳來に限らぬ樣だが、兎に角、佛敎渡來後、彌《いよいよ》その信を强めたならん。

 終りに繰返《くりかへ》し置くは、吾邦には、神が蛇に寄《よつ》て素女《きむすめ》の淨身を護り、不淨の月水、到れば、之を見捨てるといふ信念と、今一つ、月水は魔が蛇と成《なつ》て作《な》す所といふのと、二樣有《あつ》た事で有る。

[やぶちゃん注:「大智度論」「大威德陀羅尼經」「禪秘要經」「大般泥洹經」「根本說一切有部毘奈耶雜事」の内、何故か判らないが、「大蔵経データベース」では「大智度論」のデータには同一近似の部分が見つからず、「禪秘要經」はネット上に発見出来なかったので底本に従った。その他は「大蔵経データベース」で校合した。]

追加 (大正十五年九月記) ここに斷はり[やぶちゃん注:ママ。]おくは、必《かならず》しも何《いづ》れの神も處女を好《す》くと限らぬ。例せば、コンゴのバヴリ人は、南風を强勢の神とし、此神、一意、繁殖を欲し、成女期に達し乍ら、男を知《しら》ぬ女を嫌ふ、と信ず。隨つて、此族中に左樣の女、なし。又、コンゴ王卽位に加冠の役を務むる祝官は、平生、一切、他人と食を共にせず、未婚の女の烹《に》た物を食ふを忌む(デンネット「黑人心裏」六五及一三頁)。今は知《しら》ず、二十餘年前迄、紀州東牟婁郡にイタリアのチヽスベオの如く、處女を毒物の如く惧れて、人妻をのみ、つけあるく風儀の村ありし樣、其頃、其村へ寓居した女より、聞いた。但し、これは、當時、處女だつた其女が、其姉、彼《か》の村に嫁せるに隨ひ行《いつ》た時の事ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、他の地より來つた處女は、性質知れず、村へ嫁し來たつた姉は村の者となつたから、心を許して可なり、という見解だつたかも知れぬ。そんな斟酌《しんしやく》をする樣な人間は、はや一人もなくなつたから、後日の參考迄に記しおく。

[やぶちゃん注:「コンゴのバヴヰリ人」バヴィリ族。ガボンの海岸部からコンゴ共和国・コンゴ民主共和国海岸部にかけて居住するバントゥー系民族。コンゴ地域の大民族バコンゴのサブグループの一つで、犬やサルの彫像、仮面(白・黒・赤等の顔料で彩色されたものが多い)の製作などで知られている(「アフリカ雑貨アザライ」公式サイト内の「アフリカ関連用語集」に拠った)。]

2023/06/19

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「白鷺をうたひて」張文姬

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

  

  白鷺をうたひて

            沙 頭 一 水 禽

            鼓 翼 揚 淸 音

            只 待 高 風 便

            非 無 雲 漢 心

                  張 文 姬

 

はまべにひとり白鷺の

あだに打つ羽音(はねね)もすずし

高ゆく風をまてるらむ

こころ雲ゐにあこがれて

 

   ※

張文姬  九世紀末。 唐朝の貴婦人。 鮑參軍の妻である。

   ※

[やぶちゃん注:「鮑參軍の妻である」とあるが、これは何かの誤認であろう。「鮑參軍」で呼ばれるのは、南朝宋の知られた詩人鮑照(四〇五年~四六六年)で、唐代ではない。「鮑」姓の別人であろう。

「雲漢」一つに「天の川・銀河」の意があるが、ここは「大空」の意。

 調べたところ標題は「沙上鷺」であった。以下、推定訓読を示す。

   *

 沙上(さじやう)の鷺(さぎ)

沙頭(さとう) 一水禽(いつすいきん)

翼(つばさ)を鼓(こ)して 淸き音(ね)を揚ぐ

只(ただ) 待つ 高風(かうふう)の便(たよ)りを

雲漢(うんかん)の心(こころ) 無きに非(あら)ず

   *]

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 i一二六番 ワセトチの話(全四話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一二六番 ワセトチの話

 

        隱れ里(其の一)

 昔、橋野川を神樣が石の舟に乘つて川筋を下つて來た。そしてワセトチがお氣に召して、そこへ舟を止めて、側の岩窟に入られた。その岩窟を村の人は隱れ里といつている。

 その石舟に腰をかけてはならない。

[やぶちゃん注:「ワセトチ」現在、岩手県釜石市橋野町第43地割1(橋野川右岸)に「神の石船 隠里」とするスポットがあり(グーグル・マップ・データ。ストリーとビューのここに対岸の道路脇の表示板があった)、そのサイド・パネルのこの画像で解説板(「盲神」と「神の石船隠里」のカップリング)が読めるが(本文は孰れも「遠野物語拾遺」の「二十七」「三十八」の梗概である。国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著「遠野物語」増補版(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社)の当該部をそれぞれリンクしておいた)、その後者には、解説版の記載者の附記があり、『石船は現在地から見て橋野川の対岸に残っています。その百メートル向こうの松の木立の下が隠里です』とあった。但し、注意が必要なのは、この解説版は、県道三十五号の橋野川対岸の「盲神」(「其の四」で語られる)の近くにあるので、この「対岸」とは、橋野川右岸を指すことである(これは「盲神」のサイド・パネルのこの画像と、ストリートビューのここから明らかである)。而して、サイド・パネルには、Gonzaburou Kitakaze氏撮影の「神の石船はどれだろう」という標題の、数個の石の写真がある。この写真は高圧鉄塔から、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)であることが判る。さて、そのストリートビューの画像を見ると、まさに「盲神」の方にある解説板の対岸正面にサークル状の空き地があり、その川側に長方形の石のようなものが見える。或いは、これか? なお、その東直近の橋野町第42地割8−1に「早栃集会所」があり、バス停「早栃」があって、その東北にはバス停「上早栃」がある(グーグル・マップ・データ)。但し、孰れのバス停も現在は「はやとち」と読んでいる。しかし、ここの古い地区呼称であることは、「遠野物語拾遺」の「源平の頃 一八」(同前)で『栗橋村字早栃(わせとち)』とルビがあることから、確実である。以上から、「隠里」は、まさに「神の石船 隠里」とするスポット(グーグル・マップ・データ航空写真)に相当すること(解説版からここの対岸までは、まさにそこに書かれた通り、百メートルである)が判るのである。]

 

        平家の高鍋(其の二)

 昔ワセトチで源平の戰《いくさ》があつたが、なかなか勝負がつかなかつた。そのうちに飯時になつたので、兩軍は飯を炊くことになつた。源氏の方は早く炊こうと鍋を低く下げて炊いたが、平家の方では鍋を高くして澤山の薪を焚いたので、直ぐに飯ができて戰に勝つた。それで今でも煮物をするには平家の高鍋と云つてゐる。

[やぶちゃん注:同前で「遠野物語拾遺」の「諺由來 一九」に同内容の話が載る。

「源平の戰」ここで起こったとするそれは、誰と誰の戦いだろう。頼朝の奥州征伐の際に、相手が平氏の子孫だったか。しかし、この辺りでそういう源平の戦いがあって、幕府軍が負けたとか、苦戦したとかという史実を、私は、知らない。次の話にも出るのだが。識者の御教授を乞う。]

 

       ならずの柿(其の三)

 ワセトチに實を結ばない柿の樹がある。昔源平の戰があつて多くの人が戰死したので、其の屍《しかばね》を集めて埋めてそこへ一本の柿の木を植え[やぶちゃん注:ママ。]たが、其の死靈《しりやう》のために實を結ばないと謂ふ。

[やぶちゃん注:前掲の「遠野物語拾遺」の「源平の頃 一八」(同前)で同内容の話が載る。]

 

       盲の親子(其の四)

 昔、旅の盲目の夫婦が丹藏と云ふ子供を連れてワセトチまで來たら丹藏があやまつて橋の上から落ちて死んだ。夫婦の者はそれとも知らずに丹藏や丹藏やと叫んだが、一向返事がないのではじめて[やぶちゃん注:底本は「はじ」がない。「ちくま文庫」版で訂した。]川へ落ちた事を知り、あの寶をなくしては俺達も生きて居る甲斐がないから、ここで共に死ぬと言つて、橋から身投げをした。村の人達が氣の毒に思つて、祠《ほこら》を建てゝ、メクラ神として祀つた。目の惡い人は御利益があるとて傍《かたはら》の澤から流れる水で目を洗ふ。

  (上閉伊郡橋野地方の話。菊池一雄氏御報告分の一二。)

[やぶちゃん注:最初の「隱れ里(其の一)」の「遠野物語拾遺」の「二十七」と同内容。

位置はグーグル・マップ・データのここ。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二五番 駒形神の由來

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一二五番 駒形神の由來

 

 遠野鄕綾織村の駒形神の由來は斯《か》うである。

 昔の話ではあるが、五月の田植時頃であつた。村の女子達《をなごたち》が田植《たうゑ》をして居ると、其處へ目鼻耳口のない子供に赤い頭巾をかぶせたのを負(オブ)つて通りかゝつた旅人があつた。女達はあれあれあんな者が通ると言つて、田植の手を止めて立つて見送つた。

 旅人はそれを聽いて、小戾りをして女達の所へ來て、お前達がこの子供を不思議がるのは尤もなことである。實はこれは子供でも何でもなく、俺の品物である。俺は如何なる因果の生れか、この樣な物を持つて生れたために、この歲まで妻と謂ふものを知らない。また世の中には俺の妻になるやうな女もあるまいから、俺は前世の罪亡ぼしに斯うして旅を續けて居る。皆樣これをよく見てクナされと言つて、肩から下して帶を解いて見せた。村の女達は魂消《たまげ》て聲も出なかつた。

 其旅人は如何謂《どうい》ふ譯柄《わけがら》であつたか、永くこの村に止まつて居た。そして今のお駒樣の所で死んだ。生前常に俺が死んだら俺のやうに妻の持てない者を助けてやると言つて居たので、村の人達が神樣に祀つた。

[やぶちゃん注:思うに、これは事実であろう。当初は男の背部にサイクロプス症候群(単眼症)の二重体の一部が附属しているものと思ったが、「肩から下して帶を解いて見せた」というところからは、双子の一方が、サイクロプス症候群の単眼も失った奇形児であったと読める。但し、口がない状態では、生きていることが出来ないので、口に見えない口はあったものと思われる。但し、サイクロプス症候群は、脳の形成異常を伴う重症の奇形で、殆んどが死産、若しくは、出生直後に死亡し、長くても一年以内に死亡するようである。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」で単眼症の少年が登場するが、ああいうことは一寸考え難い気がする。

「遠野鄕綾織村の駒形神」現在の遠野市綾織町下綾織にある駒形神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。写真と解説が豊富なサイト「玄松子の記憶」の同神社をリンクさせておく。また、国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著「遠野物語」増補版(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社)の拾遺の部の「十四」もリンクしておく(但し、「遠野物語拾遺」は柳田の命を受けて柳田の弟子であった鈴木棠三(とうぞう:本名は脩一)が「遠野物語」文章化したものである。鈴木氏の著作には鎌倉史研究で少なからずお世話になったが、「遠野物語拾遺」はその編者としては、柳田國男ではなく、佐々木氏の名が標題されるべきであり、鈴木氏は佐々木喜善氏とは異なり、後年、国文学者・国語学者として活躍されたが、「遠野物語拾遺」は一般人には柳田の「遠野物語」の続篇著作とされて認識されてしまっている。こういうところも私が柳田を嫌悪する由縁である)。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「そゞろごころ」馬月嬌

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  そゞろごころ

            竹 榻 淸 人 夢

            花 香 媚 酒 杯

            覽 來 有 幽 趣

            明 月 滿 妝 臺

                  馬 月 嬌

 

夢こそ淸けれ竹の寢椅子に

杯あまけれ花のかほりに

目ざめてそぞろに樂しからずや

月かげさやかに櫛笥(くしげ)を照らせり

 

   ※

馬 月 嬌  趙今燕と同じ時代、同じく秦淮に、同じやうに名を馳せた名妓である。 名を守貞といふ。 容貌は大して美しいという程ではなかったが、風流でまた豪俠の氣質の愛慕すべきものがあった。 又、湘蘭と號して善く蘭を畫(ゑが)き一家の風格を得た。 その名は海外まで聞え當時シヤムの使節が來朝した時にその畫扇を得て歸つたといふ。

   ※

[やぶちゃん注:「杯」は音律から「さかづき」と訓じていよう。

「櫛笥」櫛や化粧用の道具を入れておく箱。原詩の「妝臺」も「化粧台」の意である。

「趙今燕」先行する「行く春の川べの別れ」を参照されたい。

「同じ時代」リンク先で『十六世紀中葉』『明朝萬曆年間』とする。「萬曆」は明の第十四代皇帝神宗の在位中に使われた元号で、一五七三年から一六二〇年まで。

「秦淮」六朝時代の首都南京の近くを流れる川名(秦代に開かれた運河)。両岸には酒楼が多く、今に至るまで、風流繫華の地である。

「シヤム」シャム。漢名「暹羅」。タイ王国の旧名。

   *

 原詩のフレーズでいろいろ調べてみたが、遂に見当たらなかったので、標題は不明である。推定訓読する。

   *

竹榻(ちくたう) 淸(きよ)き人の夢

花香(くわかう) 媚酒(びしゆ)の杯(はい)

覽來(らんらい) 幽趣(いうしゆ)有り

明月(めいげつ) 妝臺(しやうだい)に滿(み)つ

   *]

2023/06/18

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二四番 厩尻の人柱

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一二四番 厩尻の人柱

 

 北上川が盛岡市の南まで來て雫石川、中津川の二川《にせん》と合流する所に杉土堤《すぎどて》といふ堅固な護岸堤がある。此邊は昔南部家の厩《うまや》があつた所から、厩尻《うまやじり》とも云ふ所である。此厩尻は每年のやうに洪水に破られて、城下の人々はどれ程苦しんだか知れぬ。そこで二百年ばかり前に殿樣の命令で、此處に永久的な護岸工事が始められたが、ある一個所だけどんなに大石を埋《う》めてみても、効果のない所があつた。時の工事主任の佐藤某といふ者、萬策盡きて或山伏に訊くと、其には酉の歲、酉の月、酉の日、酉刻に生れた處女を人柱に埋めたら屹度《きつと》成就すると云はれた。それを探したところが、その條々に叶つた生娘(キムスメ)は、自分の一人娘の小糸《こいと》といふのだと訣《わか》つて悲嘆にくれてゐた。

[やぶちゃん注:「北上川が盛岡市の南まで來て雫石川、中津川の二川と合流する所に杉土堤がある」現在の岩手県盛岡市盛岡駅西通の先の突先(グーグル・マップ・データ)附近周辺。現在の盛岡駅の南東部に当たる。ストリートビューのこれも、その名残の一部かと思ったが、実際には、ちょっと違った。それは最後の私の注を見られたい。なお、「すぎどて」の読みは、石川啄木の随想風の中編小説「葬列」(「青空文庫」のこちら(旧字旧仮名版)で全篇が読める)の読みに拠った。]

 所がある日、旅の巡禮の母娘《ははむすめ》の者が、この名主(佐藤某は名主であつた)の家に來て宿を乞ふた。明日と迫つた愛娘《まなむすめ》の功德遐《くどく》のためにと思つて快く泊めた。そして何氣なく娘の齡《とし》を訊くと、今年十六になつて、丁度娘小糸と同じ齡、それも酉の年、酉の月、酉の日、酉の刻に生れたのだといふ。それを聞いて名主は其夜其の巡禮の娘を自分の娘の身代りにして厩尻の川底に埋めた。それと知つて母の巡禮も其處へ身を投げたが、それからは面白い程工事が進んで、今の樣な立派な堤防が出來たと謂ふ。(因《つなみ》に曰《いふ》、其の名主の佐藤某家は、今も立派にある富豪だと謂はれてゐる。併し其巡禮母娘の怨恨《ゑんこん》で、どうしても相續人に男子が生れぬと謂ふ話である。)

  (吉田政吉氏の御報告の分二。大正十二年八月
   二十日、聽書。)

[やぶちゃん注:「厩尻」の読みは、国立国会図書館デジタルコレクションの吉田政吉著「新盛岡物語」(一九七四年国書刊行会刊)の「厩尻の人柱」の本文の、ここの右ページ五行目のルビに従った(標題は「厩」の字だが、本文は「廐」が用いられている)。その後の部分で『徳川時代、現在の下の橋中学の所から河原町にかけて馬場があり、そして藩の馬屋がたくさん並んで建てられてあったのです。その馬屋の裏方…という意味で廐屋といったものと思います』とあった。この「下の橋中学」は盛岡市立下橋(しものはし)中学校で、ここ(グーグル・マップ・データ)にあり、地名は盛岡市馬場町である。さらに、中津川に合流点近くで架橋されている橋の名が、「御廐橋」(おんまやばし)であり、その向こうの地名が、「大沢川原」とあるから、これが旧「河原町」であろうと思われる。これによってこの合流点の左岸が「厩土堤」であろうと推定される。そこには、また、「啄木父子の碑」もある。グーグル・マップ・データ航空写真の、その附近も添えておく。]

「新說百物語」巻之四 「疱瘡の神の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正して使用した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   疱瘡(ほうそう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「はうさう」。])の神の事

 丹波国与謝(よざ)の郡《こほり》、ある年、村中、疱瘡、はやり、小児のむきは、殘らず、疱瘡、いたしける。

[やぶちゃん注:「与謝(よざ)の郡」旧郡域はウィキの「与謝郡」を見られたいが、丹後半島の南東部半分と、天橋立を中心に現在の宮津市の大部分、丹後半島の南東の若狭湾奥の沿岸まで含む非常な広域であった。また、「よざ」の読みは誤りではない。そこに『地元では「よさぐん」ではなく「よざぐん」と発音されることが多い』とあり、二〇一一年三月に『開通した山陰近畿自動車道与謝天橋立ICは、地元の読み方を尊重して「よざあまのはしだて」と命名されている。また』、『与謝野町内の地名「与謝」は』、『行政上も「よざ」と読まれる』とある。]

 正月にいたりて、疱瘡も、しづまり、三右衞門といふものゝ子どもはかり[やぶちゃん注:ママ。]、最中なりける。

 三右衞門、律儀なるものにて、はなはだ、疱瘡の神を、うやまひ、まつりて、信心いたしける。

 正月七日の夜、疱瘡の子も、殊の外、ようす[やぶちゃん注:ママ。]、よろしかりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、家内のものにも、

「いつかたへなりとも、ゆきて、あそふへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、宝引錢《ほうびきせん》など、あたへ、皆々、近所へ出行《いでゆき》けり。

[やぶちゃん注:「宝引」福引の一種。数本の縄を束ね、その中の一本に橙(だいだい)の実を附けて、それを引き当てた者に賞を出すもの。銭をつけて、引かせることもあった。中世から近世にかけて、正月の遊戯として行なわれ、家庭で行なうほかに、「辻宝引」・「飴宝引」などの賭博的なものもあった(小学館「日本国語大辞典」に拠った。ネットの 同「精選版」に挿絵があるので参照されたい)。]

 三右衞門ひとり、いろりの側に、子を、ねさせて、たはこ[やぶちゃん注:ママ。]のみて居《ゐ》たりければ、夜中過《よなかすぎ》に、表の戶を、あけて、大勢、内へ、はいるもの、あり。

 

Housounokaminokoto

 

[やぶちゃん注:底本の巻之二にあったそれ。キャプションは、右幅の右手、表戸の入り口の上に、

   *

こゝ

 じや

 こゝじや[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。

   *

その戸の、向かって左の内壁に、

   *

   ていしゆ

    うち

      に

    いら

     るゝ

   *

と敬語を用いている疱瘡神の一人の台詞。次に左幅の右手のやや中央上に、子の看病に囲炉裏脇に座っている亭主三右衛門の台詞。

   *

    おそろ

      しい

     ものが

      きた

   *

囲炉裏の下方に、疱瘡神の御礼の挨拶。

   *

      いづれも

        ごちそう

            に

         なりました

          おれいに

           まいり[やぶちゃん注:多分、「ひ」ではなく「い」。]

            まし

              た

   *

と、やはり敬体で述べているのが、微笑ましい。]

 

 みなみな、異形のものにて、男女老若のわかちなく、四、五十人、來たり、

「我々は、疱瘡の神なり。同国小濱《おばま》の善右衞門船《ふね》に、のりて、冬とし[やぶちゃん注:「年・歲」で「時候」の意。]、此村へ來たり。三百軒はかり[やぶちゃん注:ママ。]、皆々、疱瘡も、しまひて、是れより、又々、外《ほか》へ、まはるなり。あまり、そこ元の、ちそうになりたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、みなみな、礼にと、參りたり。」

と、いひける。

 三右衞門、是れをきゝて、

「左樣ならば、此壱里おくに、九兵衞といふ一家あり。子供弐人《ふたり》、いまだ、ほうさう、いたし申さす[やぶちゃん注:ママ。]。賴み申す。」

と、たのみける。

 皆々、いふやう、

「それは。なにより、やすき事なり。すくに參るへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、いふて、出《いで》たりける。

 あくる日手かみ[やぶちゃん注:ママ。]、したゝめて、右の樣子、九兵衞かたへ、しらせに遣《つかは》しけれは[やぶちゃん注:ママ。]

「もはや 夜の中《うち》より 熱 いてゝ[やぶちゃん注:ママ。] ほとをりと見へたり」

[やぶちゃん注:「ほとをり」「ほとぼり」(「熱」「餘熱」)で、まだ、熱がさめきらずにちょっとあることを言っているのであろう。]

と、返事いたしける。

 二人とも、かろく、すくたち、別条なかりし。

[やぶちゃん注:「すぐたち」ではないか。「直ぐ經ち」で「程なく経過もよく治って」の意かと思う。]

「其後、此一家、浦嶋氏の子孫、今に殘らす[やぶちゃん注:ママ。]、ほうさう[やぶちゃん注:ママ。]、かろくする事、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なり。」

と、則ち、浦嶋の何某《なにがし》、語られける。

[やぶちゃん注:初読、「与謝の郡」とあるのを見ただけで、私は、『浦島伝説の有力な伝承地だ。』と想起した。それが、最後に、ちゃんと出されたところは、まっこと、ニクい書き振りである。疱瘡神の怪奇談は、既に幾つも電子化しているのだが、このように、個々の疱瘡神の姿が、多様な異形尽し(二人と似た異形がなくて、まさに「百鬼夜行」のようだ。或いは作者はこの一枚に表題の「百物語」からそれを嗅がせようとしたものかも知れない)というのは、まず、例を見ない。寧ろ、この話のように船に乗って目的地に行く場合、疱瘡神は普通の人の姿をしていたとあった一話を記憶する。ここは、総勢、十一のオール・スター・キャストで、この挿絵は特異的で、しかも強烈である。また、疱瘡の話では、子が亡くなることが書かれることが多く、治っても、激しいアバタで悲惨な後日談となるのが一般的なのだが、ここでは、最後まで、皆、疱瘡で命を落とす者もおらず、予後不良の気味の悪いあばた顔などのシーンも、最後まで、ない。そうして、最後に、この話に出るこの人たちは、実は、乙姫から長命を授かった浦島の子孫であるという種明かしも、ピシット決まって、なかなかに、いいのである。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「鬼子母神が柘榴を持つ」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○鬼子母神《きしもじん》が柘榴《ざくろ》を持つ(三號一四三頁)と云ふ說は、治承の頃、已に本邦に行はれたのだ。平康賴作てふ「寶物集《ほうぶつしふ》」卷五に、訶梨天、柘榴を持《もち》給ふ事は、五百の寶ある故なり、と云《いへ》り。子寶《こだから》の意で有《あら》う〔(補)柘榴は一果の中に實多き故に、鬼子母神、特に此樹を愛し給ふ也。此等の因緣を以て、惡鬼邪神作ㇾ畏者哉〔惡鬼邪神は畏れを作(な)す者か(「塵添壒嚢抄」一五)〕。「北史」に齋安德王延宗、納趙郡李祖收女爲ㇾ妃、後帝幸李宅宴、而妃母宋氏薦二石榴於帝前、問諸人、莫ㇾ知其意、帝投ㇾ之。收曰、石榴房中多ㇾ子、王新婚、妃母欲子孫衆多、帝大喜、詔ㇾ收、卿還將來、仍賜收美錦二疋。〔齋の安德王延宗、趙郡の李祖收の女(むすめ)を納れて妃と爲(な)す。後、帝、李宅に幸(みゆき)して宴す。而して、妃の母、宋氏、二つの石榴(ざくろ)を帝前に薦(すす)む。(帝)、諸人に問ふも、其の意を知るもの莫(な)し。帝、之を投げうつ。收曰はく、「石榴は房(み)の中(うち)に子(たね)多し。王、新たに婚(めと)りたれば、妃の母、子孫の衆(しゆう)多(おほ)きを欲(ほつ)するなり。」と。帝、大いに喜び、收への詔(みことのり)をなし、卿(けい)[やぶちゃん注:大臣。]、還へりて、將(ま)た來たり、美しき錦、二疋(にひき)を賜ふ。〕。石榴を、婬事や、子多き印相とした南歐、西亞[やぶちゃん注:西アジア。]の諸例を見度《みたく》ば、グベルナチスの「植物譚原《ラ・ミトロジー・デー・プラント》」(一八八二年板、卷二、一六六―九頁)を閱《けみ》せよ。現代の土耳其《トルコ》で、新婚の夫、地に石榴を擲《なげう》ち、零《こぼ》れ出た粒の數程《かずほど》、其夫婦が、行く行く子を產む、と信ずと云ふ。(石榴を、多子の義に取《とつ》て、支那人が元旦の儀式に祝ひ用《もちふ》る事は、永尾龍造君の「支那民俗誌」上、一四一頁に出づ。)

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の下に編者注があり、『高木敏雄「英雄伝説桃太郎新論」』への論考である。この論文は国立国会図書館デジタルコレクションの死後に集成された高木敏雄著「日本神話傳說の硏究」(一九二五年岡書院刊)のこちらで現論考が視認出来る。長いので、今、ここでは電子化しない(高木氏は私の好きな学者(神話学者・民俗学者・ドイツ文学者)であるので、将来的に電子化する可能性はある)。鬼子母神と柘榴の言及部分はここの右ページ二行目以降である。

「鬼子母神が柘榴を持つ」引くまでもないよく知られたものなので、当該ウィキのリンクに留める。但し、一点、そこに書いてあるように、インドでは,『その像は天女のような姿をし、子供を』一『人抱き、右手には吉祥果』(双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科アエグル属ベルノキAegle marmelos『を持つ。なおこれをザクロ』(フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum『で表現するのは中国文化での影響であり、これは仏典が漢訳された時は吉祥果の正体が分からなかったために代用表現したものである。よって仏典中の吉祥果とザクロは同一ではない。また』、『鬼子母神が人間の子を食べるのを止めさせるために、人肉の味がするザクロを食するように釈迦が勧めたからと言われるのは、日本で作られた俗説にすぎない』とある。

『「寶物集」卷五に、訶梨天、柘榴を持給ふ事は、……』「寶物集」は岩波書店「新日本古典文学大系」版(第四十巻)で所持するが、巻第五を調べたが、いっかな、見つからない。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本風敎叢書』第一輯(大正六(一九一七)年刊)所収の「寶物集」を見たところ、そちらでは、確かに「卷第五」のここに見つけた。そこで岩波版で調べたところ、「寶物集」の七巻本にはかなり異なった伝本があることが判り(同「解説」に拠る)、そちらでは、「巻第六」に繰り下げられて載っていた。国立国会図書館デジタルコレクションのそれは正字であり、熊楠の参看したものも恐らくこの系統の伝本の一つと思われるので、そちらを視認して以下に示す。《 》は私の補助した読み。

   *

鬼子母(きしも[やぶちゃん注:底本では一見、「きじも」に見えるのだがが、後で「きしも」と振っているので、汚損と断じた。)は五道大臣の妻なり。天上に五百人、人間に五百人千人の子を持ち給へり。生物(しやうもつ)の子をとりて、是を養育す。佛、是れを懲《こら》さんとして、一人の子をとりて、鉢の下にかくしたまふ。鬼子母(きしも)、千人っまで持ちたる子の、一人无[やぶちゃん注:「無」の異体字。]きを悲《かなし》みて、「我、今より後、孩者(をさなききもの)を殺さずして返りて守(まもり)と成らんとて誓ひて、子を返して給はるとて申しためる。訶利帝母(かりていも)とて、孩き子どもの守[やぶちゃん注:御守り。]に懸くるは是也。

   *

『「北史」に齋安德王延宗、……』以下は「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合したが、熊楠は、かなり省略・附記を行っており(或いは「北史」の粗悪なものを参看したものかも知れぬが)、話しが一部異なっているため、大幅に改め、推定訓読を施した。

『グベルナチスの「植物譚原《ラ・ミトロジー・デー・プラント》」(一八八二年板、卷二、一六六―九頁)』書名の英語読みは「選集」のルビに従った。イタリアの詩人で民族学者であったアンジェロ・デ・グベルナーティス(Angelo de Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)が一八六八年に初版を刊行した植物神話の起原を集成した原題‘Fonti vediche’(「Fonti」はイタリア語の「起原」であるが、後の単語は意味不明である。当該書は英文の彼のウィキに従った)のことであろう。

『石榴を、多子の義に取て、支那人が元旦の儀式に祝ひ用る事は、永尾龍造君の「支那民俗誌」上、一四一頁に出づ』国立国会図書館デジタルコレクションの原本の「支那民俗誌」上巻(『支那文化叢書』第一巻・大正一一(一九二二)年満洲考古学会等刊)ここで視認出来る(左ページ一行目及び五行目)。]

追 記 吉祥果(大正三年十一月『鄕土硏究』第二巻第九號)曾て不空が、「鬼子母神、於右手中吉祥果〔鬼子母神は右手の中に吉祥果を持つ〕」と譯した、此神の眞言法の文を引いて、吉祥果は石榴のことだらうと述べて置いたが(第一卷第六號三六六頁)、其後、義淨譯「大孔雀呪王經」下に、孔雀明王左邊一手持吉祥果(大如苽蔞黃赤色、此方所ㇾ無也〔孔雀明王は、左邊(さへん)の一手に吉祥果を持つ(大きさは苽蔞(こらう)のごとく、黃赤色。此方(こなた)には無き所(ところ)なり)〕と出せるを見出《みいだ》した。註短きに過ぎて、何の事とも分らぬが、苽蔞、一名栝樓《かつらう》は、吾邦のカラスウリに近いトリコサンテス・パルマタエやトリコサンテス・キリロウィーの支那名と、ブレットシュナイデルの「支那植物篇《ボタニコン・シニクム》」卷三に見えて居る。されば、形・色が、カラスウリに似て、「吉祥果」などゝ名づけ、珍重せらるべき印度の果實で、鬼神や明王に持たるゝ物とは、多分、菴摩羅《あんまら》(梵語アームラ、又、アーマラー、又、アームラカ)だらう。是は、今日、南半球の熱地に多く栽ゑらるゝマンゴの事だ。「飜譯名義集」に似桃ㇾ非ㇾ桃、似ㇾ柰非ㇾ柰、〔桃に似て、桃に非(あら)ず、柰《ない/だい》に似て、柰に非ず。〕と言つて、舊譯爲ㇾ柰誤也、〔舊譯に「柰」と爲すは、誤りなり。〕と見ゆ。佛敎のマグダレン女尊者と言はるゝ篤信の美妓「アームラパーリー(菴摩羅)女」を、「柰女」と誤譯した經文が多い。柰は、梨や林檎に似た支那の產物らしい。此等と同屬のクワリンを、紀州でアンラカと呼ぶのも、此誤譯から出たものか。兎に角、「吉祥果」は「石榴」では無いと正誤して置く。

[やぶちゃん注:「不空」(七〇五年~七七四年)は唐代の僧。北インド或いは中央アジア出身。密教付法の第六祖とされる。七二〇年、唐の洛陽で金剛智の弟子となる。後にスリランカに渡って龍智に学び、密教経典を携えて中国に帰り、唐朝の信任を得て、活躍した。「金剛頂経」三巻や、「仏母大孔雀明王経」三巻など、百余部を漢訳した。「不空金剛」「不空三蔵」とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

『義淨譯「大孔雀呪王經」』は「大蔵経データベース」で校合したが、漢字表記に有意な違いがあったため、訂した。

「カラスウリ」ウリ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides 。しかし、中国語の同種のページでは「王瓜」であり、「維基文庫」の清代に書かれた「植物名實圖考(道光刻本)」の「第二十二卷」の「王瓜」(図有り)をリンクさせてあり、そこを見ると、この前のページに別に「栝樓」の独立͡項があり、その図(上下二図)の実(下方。これ)を見るに、これは実の形状から見て、種としてのカラスウリとは違う。調べたところ、これはカラスウリ属 Trichosanthes kirilowi 変種キカラスウリ Trichosanthes kirilowii var. japonica である。まず、邦文の当該ウィキを見られた上で、中文の同原種 Trichosanthes kirilowi のページを見られたい。そこにはしっかり「栝蔞」とあり、さらに「瓜蔞」「栝樓」の異名も記してあるのである。なお、キカラスウリの方は、学名から察せられる通り、日本固有種であり、北海道から九州に自生している。

「トリコサンテス・パルマタエ」英文の“ Trichosanthes(カラスウリ属)を調べたが、現行の種名に見出せない。なんとなく頭が似通った種小名が複数あるので、このリストのどれかの種のシノニムと考えてはいる。

「ブレットシュナイデルの「支那植物篇《ボタニコン・シニクム》」バルト・ドイツ人の医師で中国学者にして植物学者であったアレクサンダー・ヘルマン・エミール・ブレットシュナイダー(Alexander Hermann Emil Bretschneider 一八三三年~一九〇一年)。当該ウィキがあり、そこには、一八八〇『年から』は、『北京に近い山麓に栽培園をつくり、乾燥標本をイギリスのキューガーデンに送った』とある。本書はそれによれば、‘ Botanicum Sinicum ’で一八八二年に刊行されている。

「形・色が、カラスウリに似て、「吉祥果」などゝ名づけ、珍重せらるべき印度の果實で、鬼神や明王に持たるゝ物とは、多分、菴摩羅(梵語アームラ、又、アーマラー、又、アームラカ)だらう。是は、今日、南半球の熱地に多く栽ゑらるゝマンゴの事だ」熊楠先生、珍しく大ハズレでげす! 既に出した通り、「吉祥果」は双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科アエグル属ベルノキAegle marmelos でげす。当該ウィキによれば、『原産地はインドおよびバングラデシュである』。『食用となるが』、『何らかの調理・加工をして食べる方法が目立ち』、『薬用植物としては』、『特に下痢によく効くものとして知られている』。『また』、『特徴である』三つに分かれる複『葉や果実などに関して、ヒンドゥー教ではシヴァ神や時にラクシュミー神などと結びついた逸話が』、『いくつも存在し』、『聖なる木として知られ、サンスクリットによる文献にもビルヴァ』『などの名で度々現れる』。『原産地においてはベルノキにちなんだことわざもいくつか存在する』。『記載されてから半世紀ほどの間は、今日の植物分類体系を通して見れば』、『目レベルで異なる種(ギョボク属の Crateva tapia)』(アブラナ目フウチョウボク科に属する)『と同属と見做されていた』とあり、以下の記載も詳細に亙り、ウィキの中では特異的に優れているので(特に名称と民俗誌が素晴らしい)、是非、読まれたい。なお、上方左側に出る写真はギョボクの写真なので注意されたい。ベルノキの写真はずっと下方にある)。因みに、熊楠の誤認比定した「マンゴ」はムクロジ目 Sapindales ではあるが、ウルシ科マンゴー属マンゴー Mangifera indica で全然、違う種である。脱線だが、私はマンゴーが大好きだったが、十数年前、伊豆高原を跋渉している最中、ウルシに人生で初めてかぶれて以来、ウルシオールに似た「マンゴール」にも高い確率でかぶれるから食べないようにと医師から言われ、一切、食さなくなった。亡き母がマンゴーを食べると激しい症状が出たから、多分、私もウルシ・スイッチが入った以上、だめだろう。悲しい。当該ウィキによれば、『仏典の菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅などは、サンスクリットの āmra(アームラ)の音写である。ただし、同じウルシ科のアムラタマゴノキ(Spondias pinnata)を意味する amra(アムラ)との混同が見られる』とあった。マンゴーの『原産地はインドからインドシナ半島周辺と推定されて』おり、『インドは世界最大のマンゴー生産国』とあり、『年間収穫量は約』百六十『万トンで、世界各国に輸出する』。実に四千『年以上前から栽培が始まっており、現在では』五百『以上の品種が栽培されている』とあるので、まあ、熊楠が思わず誤ったのも無理はない気はする。

「飜譯名義集」南宋で書かれた一種の梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。一一四三成立。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について、訳語・出典を記す。

「柰は、梨や林檎に似た支那の產物らしい」現代中国語では、バラ科モモ亜科ナシ連ナシ(リンゴ)亜連リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica を指すが、宋代の「柰」は広義のリンゴ(リンゴ属)に留めておくのがよかろう。熊楠の言う「梨や林檎に似た支那の產物」なのではなく、林檎そのものなのである。なお、この漢字は本邦では、まず、別にリンゴ属ベニリンゴ Malus beniringo を指す。小学館「日本大百科全書」によれば、葉は互生し、楕円形、又は、広卵形で、縁(へり)に細かな鋸歯(きょし)がある。四~五月、太く短い花柄の先に、白色、又は、淡紅色の花を上向きに開く。この形状から別名「ウケザキカイドウ」(受咲海棠)とも呼ぶ。楕円形のリンゴに似た果実が垂れ下がる。先端に宿存萼(しゅくそんがく:花が枯れ落ちた後になっても枯れずに残っている萼のこと)があり、十月頃、紅色、又は、黄色に熟す。本州北部原産で(従って、ここでの「柰」としては無効)、おもに盆栽にするが、切り花にも用いる。日当りのよい肥沃な砂質壌土を好み、寒地でよく育つ、とある。ところが、実は、この漢字、また、別に、日本では「からなし」(唐梨)と訓じ、一般名詞では赤い色をした林檎を指す以外に、面倒なことに、バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensisの異名としても通用しているのである(但し、カリンの中文ウィキ「木瓜(薔薇科)」の解説(非常に短い)にはこの「柰」の字は載っていないし、前に出した「植物名實圖考(道光刻本)」の「第三十二卷」の「木瓜」の解説にも「柰」の字は使われていないから、「柰」には中国語としてはカリンの意はないと考えてよかろう)。ネット上でも、「柰」の字の示す種或いは標準和名や通称名・別名が、ごちゃごちゃになって記載されており、甚だ混乱錯綜してしまっている。

「此等と同屬のクワリン」前注のカリンのことだが、「同屬」は、この短い中で、熊楠三度目のトンデモ誤りである。

「アームラパーリー(菴摩羅)女」ウィキの「アンバパーリー」を引く。パーリ語「アンバパーリー」、サンスクリット語「アームラパーリー」、漢音写は「菴摩羅」「菴没羅」など多数で、意漢訳は「㮈女」(☜☞)「柰女」「非浄護」など。生没年不詳。『釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の』一人。『ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリー』則ち、「マンゴー林の番人の子」と『いわれるようになった。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然』、『言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』。『釈迦仏に帰依し』た。「長老尼偈註」に『よれば、出家し』て『高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる』。仏典では、『彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に』、『阿難が誡めのために偈を説いて』おり、「大般涅槃経」では、『リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈尊を招待している。公子らが』『その招待を譲り受けんと乞うも』、『彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。後の天竺五精舎の』一『つ』である『菴羅樹園精舎』がそれで『ある』が、『この件は』、『諸文献に通じるエピソードである』。『南伝』の「マハーヴァッガ」では、『彼女の美貌により』、『ますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという』。「雑阿含経」等に『よると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈尊は弟子』衆に、『その美貌で心が揺れないように四念処を説いたとある』。「㮈女祇域因縁経」では、『彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって』、十五『歳の時に』は、七『人の王が求婚したが』、『すべて断った。Sumanā(須漫)、Padumā(波曇)の二女も』、『彼女と同じように各々』、『樹華より生まれたという。彼女と二女は共に』五百『人の女性を率いていたが、釈尊の説法を聞いて出家し』、『悟りを得たという』とある。しかし、考えて見ると、マンゴーは中国には分布しないから、古くは漢字がない(ウィキの「マンゴー」には『漢字表記の「芒果(現代中国語でmangguo)」は、マレー語の mangga もしくは他の東南アジアの言語からの直接の音写である』とある)。されば、実が食えるのだから、林檎に近いと考えて、林檎の意の「㮈」「柰」を取り敢えず当てたとして、何らの不思議はなく、鬼の首捕った如く熊楠が「誤り」と指弾するのは、これ、ちょっと当たらないんじゃないかなぁ?

又追加(大正十五年九月記) 菴摩羅女が此果より生れた次第は、後漢の安世高が譯した「柰女耆域因緣經《ないによぎいきいんねんきやう》」に詳《くは》し。「除恐災患經」には、果より生まれたとせず、花から生れた、としてある。コックスの「アリアン諸民神誌」二の三〇四頁に引《ひい》た「スリア・バイ譚」には、太陽の娘が、妖巫(やうぶ)に、池に沈められて、金色の蓮《はす》となり、妖巫、之[やぶちゃん注:底本「え」。誤植と断じて、かくした。]を燒くと、其灰より、マンゴ樹が生え、王、其花を愛し守ると、其果が熟して、地に落ち、中から、太陽の娘が出《いで》て、それ迄、忘れ居《をつ》た王が、是は自分の妃と氣付《きづい》た、とある。フレールの「デツカン舊日談」六章も、ほゞ同談だが、妖巫でなくて、王の正后が、次妃を井《ゐ》に陷《おちい》れた等、異《かは》つた所が、大分、ある。ドラコットの「シムラ村話」に、隱士が、子なき王に敎へてマンゴを、其妃に食はしめ、多子を擧げた譚あり。キングスコウトの「太陽譚」三〇〇頁に、梵志[やぶちゃん注:バラモン教徒。]が多年苦行の功有《あり》て、神より、食つたら死なぬマンゴを授かり、悅ぶと、妻が、「そんな物を食《くふ》て永く貧乏するより、いつそ、王に奉つて、金でも貰ひ、短く榮えるが、よし。」といふ。由《より》て、王に奉ると、王、その后の、益《ますま》す、美ならんを、望み、之を、后に授く。后は自分の情夫を愛するの餘り、それに贈ると、情夫は、又、之を、日頃、命までも打込《うちこん》だ娼妓にやつた。これは感心な女で、「吾れ、いつ迄も若く永らへて、無數の男に枕をかわし[やぶちゃん注:ママ。]たつて詰《つま》らぬ。之を、國王に獻じて、冥福を植《うゑ》ん。」と決心して、王へ献じた。國王、「珍果が、舞ひもどつてきた。」と驚異して、その道筋を糾《ただ》し、貞操無双と信じた王后さえ[やぶちゃん注:ママ。底本はスレてはっきりしないが、「え」の上部が見える。]賴むに足《たら》ぬと氣が付《つい》て、卽時に、王位を棄て、苦行仙と成《なつ》た、とある。これらの談《はな》しから、マンゴは、誠とに、「吉祥の果」で、人に子を授け、子供の壽命を守るが本誓なる鬼子母神に、相應な持ち物と知る。

[やぶちゃん注:だからね、熊楠センセー! 「吉祥果」は、マンゴーじゃあ、ないんだよっつうーの!

2023/06/17

「新說百物語」巻之四 「沢田源四郞幽㚑をとふらふ事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

新說百物語巻之四

 

   沢田源四郞幽㚑(ゆうれい)をとふらふ事

 周防の山口に、中頃、澤田源四郞といふものあり。

 十四歲にて、小姓をつとめ居《をり》けるが、器量よく、發明にて、やさしき美少人《びしやうじん》にてありけるを、戀こかるゝもの[やぶちゃん注:ママ。]、男女にかきらす[やぶちゃん注:総てママ。]、おゝき[やぶちゃん注:ママ。]なるに、同家中、鈴木何某といふもの、わりなく、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]わたりて、念友(ねんいう)のまじはりを、なしける。

[やぶちゃん注:「念友」衆道の契り(男色関係)を結ぶこと。]

 又、其城下に、一寺ありて、㐧子《でし》を素觀(そくはん[やぶちゃん注:ママ。])とぞ申しける。

 是も、源四郞に心をかけけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、鈴木なにかし[やぶちゃん注:ママ。]と、兄弟の契約いたしけると聞きて、安からす[やぶちゃん注:ママ。]に思ひ、其日より、斷食(だんじき)して、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]同月余[やぶちゃん注:月の終りの頃か。]に、相《あひ》はてけるが、臨終の前より、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]のおそろしき事とも[やぶちゃん注:ママ。]ありて、死する時は、その顏に、目をあてゝ見るもの、なし。

 一兩月も過《すぎ》て、源四郞が寢間に、あやしき事ども、あり。

 ある時は、やなり・しんどうし、又は、緣の下より、大坊主《おほばうず》の形、あらはれなんどして、數日《すじつ》、やまさりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、夫より、源四郞も、ふらふらと、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]出し、兩親のなけき[やぶちゃん注:ママ。]、おゝかたならす[やぶちゃん注:総てママ。]

 鈴木も、毎日、問ひ來たりて、看病なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたしける。

 何分、

「死れうの業(わさ[やぶちゃん注:ママ。])なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、貴僧・高僧を賴み、種〻のとふらひいたしけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、つゆ、其しるし、なかりける。

 化物も、次㐧に、つのりて、夜ふくるまて[やぶちゃん注:ママ。]もなく、最早、宵より、あらはれけれは[やぶちゃん注:ママ。]

「なにさま、きつね・狸のわさなるへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

とて、樣〻に、しけれとも、やます[やぶちゃん注:総てママ。]

 源四郞は、日々に、やせ、おとろへける。

 後には、家内も、くたひれて[やぶちゃん注:ママ。]、近所の若きさふらひ、かはるかはる、夜伽(《よ》とき[やぶちゃん注:ママ。])に來たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、壱人の侍、

「夜ふけての、目さまし。」[やぶちゃん注:後に「に」を送りたい。]

ふと、栗を、袖に入れてきたりけるを、火鉢に、くべて、あふり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 


Sokuwan

 

[やぶちゃん注:底本では、ここ。火鉢の傍に栗が描かれているので、このシークエンスと判る。キャプションは、右幅下に、御伽衆の一人の台詞、

   *

そりや

  いま

 

   でた

     は

   *

左幅下方に、別な御伽衆の台詞、

   *

またやなり

    が

 する

  ぞ

   *

とある。]

 

 其内に、又々、家内、しんどうして、

『すはや、いかやうのものか、出《いで》ぬらむ。』

と、おもふ所に、ありし出家のかたちにて、さもおそろしき顏にて、源四郞の枕もとに、たちよらんとする時に、折ふし、栗は、

「ほん」

と、火鉢より、飛出《とびいで》て、一時にて、そばにありあふものも、きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]けるか[やぶちゃん注:ママ。]、化物も、

「はつ」

と、きへ[やぶちゃん注:ママ。]失《うせ》ける。

 いかなる故にや、その夜は、やなりも、やみて、へんげも、來たらす[やぶちゃん注:ママ。]、みなみな、心安く夜とき[やぶちゃん注:ママ。]をいたしける。

 扨、又、あすの夜も、誰彼《だれかれ》來たりて、伽《とぎ》をいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、その夜より、絕《たえ》て何のさはりもなく、一向、化物の音《おと》もなかりけり。

 夫より、源四郞も快氣して、何事なく成人いたしける。

 おもひかけなき栗の音に、變化の止みけるは、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]にも、仕合《しあはせ》の事なりし。

[やぶちゃん注:なかなか興味深い譚である。妖怪の場合、多くの相応の存在は、その場にいる人間の心の内を読みとることができ、そのために、やすやすと人を化かしたり、恐ろしがらせたり出来るという通性がある。例えば、本邦の「山人(さんじん)」や「山男」は別名を「さとり」(覺り)と言い、先に人間の考えていることを言って人を驚かすことを得意とするが(「柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その3)」の「ヤマノコゾウ」の私の注を参照されたい)、私の記憶によれば、江戸時代の怪奇譚の中に、山小屋を訪ねてきた山男然とした背の高い鬚だらけの毛むくじゃらの「さとり」と男が話し合ったが、「さとり」は常に男の心中で思ったことをすぐに言い当てて悦に入っていたが、たまたま囲炉裏の薪が爆(は)ぜて「パン!」と「さとり」の方に飛んで行った。すると、「さとり」は「人間は考えていないことを即座に出来る恐ろしいものだ!」と言って足早に去って行ったとあったのである。則ち、異界の存在である妖怪や幽霊は、そうした人知を超えた読心術を持っているのであるが、自然界の偶発的な現象が脅している彼らの眼前に出現した時、心底、彼等は恐ろしい気持ちに捕らわれてしまうのである。妖怪ならば、二度と、人間界には近づかず、山奥へと消えるであろう。では、このケースのような怨念の亡霊の場合は、どうか? 若衆道の愛欲の怨みに集中して、源四郎を呪い殺さんとして出現した素観の霊は、まさに、以上に述べたような、超自然を越えた自然が起こした栗の爆ぜた音に完全に集中してしまう、しまわねばならないのが、彼らの哀しい通性なのである。その結果として、亡霊の心をただ占めていた唯一の「愛欲の怨み」が、その瞬間に消滅してしまう。とすれば、亡霊も消滅してしまうのが、道理として判るのである。或いは、素観は、曲がりなりにも修行僧であった。されば、禅機と同じく、地獄に落ちることを「潔し」として消えていったのかも知れないな、などと素観寄りの解釈も、私は夢想したりしたのであった。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「行く春」景翩翩

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  行 く 春

 

            三 月 春 無 味

            楊 花 惹 曉 風

            莫 行 流 水 岸

            片 片 是 殘 紅

                  景 翩 翩

 

あぢきなの春のをはりは

朝かぜにやなぎなびくと

行くなかれ 川べの岸に

ちり果てて花ぞいさよふ

 

[やぶちゃん注:作者景翩翩は既出。標題は中文サイトのこちらで「三月卽事」であることが判った。推定訓読を示す。

   *

 三月卽事

三月 春 無味たり

楊花(やうくわ) 曉風(げうふう)に惹(ひ)かる

行く莫(な)かれ 流水の岸へは

片片(へんぺん)として 是れ 紅(くれなゐ)を殘せ

   *

「卽事」眼前の景色。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「池中の鞍」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○池中の鞍(二號一一七頁)に較《やや》似た事、加賀の富樫政親が沈んだ池の底に、今も晴天には其鞍がみえ、其の沈んだ六月八日に限り、水面に浮上《うきあが》るといへば、誰が取《とら》ふとしても取れぬと見える。それに似寄《によつ》た話は、天正十三年、姉小路《あねこうぢ》少納言秀綱、金森可重《ありしげ/よししげ》に攻《せめ》られ、飛驒の松倉城を出《いで》て信濃へ落行《おちゆ》く。大沼川の鄕民に擊《うた》れて討死の際、是迄大事に持來《もちきた》りし金子《きんす》を川へ投込《なげこみ》、「我一念の籠りし金《かね》、若《もし》土民の手に渡りなば、石に成れ。」と言《いへ》り。其金、今に川底に見ゆれど、取上《とりあぐ》れば、石になる由、言傳《いひつた》へけり」(「飛驒治亂記」)〔「成上り物」なる狂言に、所謂、田邊別當のくちなわ太刀、亦、此《この》類語だ。〕。元魏の朝に譯すところの「賢愚因緣經」に、阿淚吒《あるいた》が發見した閻浮檀金《えんぶだんごん》を取りに往く王侯が、七度迄も往く每に、其金《きん》が死人としか見えなんだと出たり、又、僧に、一錢、施せし者が、金を獲たのを、王が取ると、石に成《なつ》た話、「雜譬喩經」に出づ。

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の下に編者注があり、『金沢生「池中の鞍」』への論考である。

「富樫政親」(康正元(一四五五)年~長享二(一四八八)年)室町後期の武将。富樫氏十二代当主で加賀半国の守護。「応仁の乱」では細川方に属し、山名方の弟幸千代と争い、一時、加賀国を追われたが、本願寺の蓮如の助けを得て、加賀一国の守護職を回復した。しかし、後、国内の一向一揆との戦いに敗れ、高尾(たこう)城(現在の金沢市内にあった)で自害した。享年三十四。(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。義経を救ったことで知られる富樫泰家は、富樫氏六代当主である。

「姉小路少納言秀綱」(?~天正一三(一五八五)年)は飛騨松倉城(グーグル・マップ・データ)当主で姉小路氏(三木氏)の後継者にして飛騨国を支配した。秀吉の命を受けて飛騨に侵攻して来た金森長近の追討を受け、松倉城は落城、秀剛は脱出したが、信濃を落ち延びて行く途中、落ち武者狩りに遭い、殺害された。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「飛驒治亂記」を国立国会図書館デジタルコレクションの『飛驒叢書』第三編(大正三(一九一四)年にある同書の当該部(左ページ上段)を確認したところ、「大沼川」は「大根川」の誤りであることが判った。「選集」も直していない。但し、現在の長野県にはこの名の川はないので、不明である。

『「成上り物」なる狂言に、所謂、田邊別當のくちなわ太刀』狂言「成上がり」。壺齋散人(引地博信)氏の「壺齋閑話」の「日本語と日本文化」の『狂言「成上がり」』を読まれたい。

「閻浮檀金」サンスクリット語「ジャンブーナダ・スヴァルナ」の漢音写。閻浮樹(閻浮提(えんぶだい:人間世界)の雪山(せっせん)の北、香酔山(こうすいせん)南麓の無熱池(むねっち)の畔りに大森林を成すという大木)の森を流れる川の底から採れるという砂金。赤黄色の良質の金であるとされる。「えんぶだごん」とも読み、「閻浮提金」とも書く。]

追 加 (大正十五年九月記)亡友廣畑岩吉の話に、田邊の榮(さかえ)町に「内金(うちきん)」といふ綿屋の老婆、二階より、町を見下《みおろ》すに、一朱金、三枚、落ちあり。二階より、下り、見れば、なし。上りて見れば、あり。由《よつ》て、二階より、綿を落とし、見當を付けおき、更に下りみれども、なし。又、上りてみる内、小兒來り、拾ひ去りし。「人の運は、定まれり。」と歎息せり、と。「十訓抄」に、釋尊、阿雜と、つれ行くに、人、金を落しあり。阿難、みて、「毒蛇。」といひ、釋尊、又、「大毒蛇。」と云《いひ》て過ぐ。後に來た者、之を拾ひて、罰せられ、大《おほい》に苦しんだ、と。これは、金が、眞に蛇とみえたでなく、その禍ひを、毒蛇にたとえ[やぶちゃん注:ママ。]た迄だ。然し、金が實際に毒蟲に見えた話も南印度にある。大富人が、大きな家を十年掛つて建て、落成して、大饗宴を張り、客、みな、散じて後ち、其家に臥すと、天井より、「落《おち》ても、よいか。」と聲する。『扨は。鬼が、先づ、住《すんで》、我を殺す積り。』と、其夜、立退《たちのい》て再び往《ゆか》ず、半年の間だ、閉《とざ》し置《おい》た。其時、赤貧の梵士[やぶちゃん注:バラモン教徒。]、家の屋根落つること、旦夕に逼り、修復ならず、因て、富人に乞《こふ》て、かの鬼屋數に移りすむ。永々《ながなが》貧乏に苦しむよりは、家内諸共、鬼に殺されたがましといふ了見だ。扨、其夜、又、天井から、「落ても、よいか。」と言《いつ》たので、「よい」と答へた。すると、數限りもない金銀が落ちて、埋まれ[やぶちゃん注:ママ。「埋もれ」の誤記か誤植。「選集」は『埋もれ』とする。]そう[やぶちゃん注:ママ。]だから、「やめよ」といふと止つた。それより、每夜、金錢がふるので、梵士、大いに富み、追ひ追ひ、評判、高くなつて、富人の耳に入《はいつ》たので、聞き正しにきた。梵士、隱さず、事實を話し、一所に臥して守ると、夜中に、「落ても、よいか。」と、きた。「落よ。」といふと、金錢がふり出し、梵士が拾ひ集める。富人の眼には蠍《さそり》がふり積もるとしかみえず。梵士、拾ひ了《をは》つて、「これを、皆、持ち行き玉へ。」といふと、富人、泣き出し、「曾て、父に聞《きい》は、「福は、福ある人に來《きた》る。」と。吾れ、此家に住《すん》だら、蠍に殺された筈、それを金錢と見るは、貴公に幸《さひはひ》あり。此家は、進呈するから、住み玉へ。」と云たから、梵士、大富人となり、恩を忘れず、年々、其富の半分を、他に與へたといふ(一八九〇年板、キングスコウトの「太陽譚」二三章)。ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」には、妻が、「其處《そのところ》に、錢で滿ちた壺ありと、夢みた。」と、其夫に語るを、屋根の上で、盜賊どもが聞き、先づ、其處に往《いつ》て、掘れば、壺、あり。開きみると、大きな蛇が、首を出す。盜等《ぬすつとら》、「一盃、食はされた。」と怒り、其壺を、屋根の上に運び、屋根を穿《うが》つて下へ落すと、蛇が、無數の錢に變じて、夫婦の上へ落ち、それを集めて大《おほい》に富《とん》だ、とある。ガーネットの「土耳其《トルコ》婦女と其俗傳」二には、アルバニアで、時に、隱財が、自づと、地上に現はるゝ事あり、見付《みつけ》た者は、誰でも、之を取り得れど、人に洩らすと、忽ち、金が、炭に變ず、とある。

[やぶちゃん注:「廣畑岩吉」サイト「localwiki」の「白浜」の「高瀬川」の中で、『南方熊楠が「歩く百科事典」と評した』人物とあった。

「田邊の榮(さかえ)町」和歌山県田辺市栄町(さかえまち:グーグル・マップ・データ)。

『キングスコウトの「太陽譚」』不詳。但し、南方熊楠の「(附) 虎が人に方術を敎へた事」(昭和五(一九三〇)年十月発行の『民俗学』(三ノ十)初出)には、『キングスコウト及ナテーサ、サストリの太陽譚』とあるので共著らしい(国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第一巻(十二支考Ⅰ)のここで確認)。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが一九〇九年版の原本。]

「新說百物語」巻之三 「先妻後妻に喰付し事」 / 巻之三~了

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   先妻後妻に喰付《くひつき》し事

 江府《えふ》[やぶちゃん注:江戸の異称。]何町とやらいひける所に、壱人《ひとり》のあら物や、ありける。

 妻をむかへて、二、三年にもなりたりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、又、外《そと》に、手かけを、かこひて、半年はかりも過きて[やぶちゃん注:総てママ。]、本妻を、うるさく思ひ、何とそ[やぶちゃん注:ママ。]して離緣したく思ひけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]出すへき[やぶちゃん注:ママ。]をりもなく、見おとしたる事もなけれは[やぶちゃん注:ママ。][やぶちゃん注:離縁を告げるに相応しい落ち度もないので。]、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]と思案をめくらし[やぶちゃん注:ママ。]、我内《わがうち》の金銀を、したい[やぶちゃん注:ママ。]に、へらし、諸道具など、賣りしろなし、次第に、貧になりたる樣子に似せて、あるとき、妻にむかひて、

「かくの如く、渡世に、ゆだんなく、かせけとも[やぶちゃん注:総てママ。]、手まはし、あしくなりたり。我身も、一先(ひとまつ[やぶちゃん注:ママ。])奉公にても、いたしみんと、おもふなり。御身も、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]やしきつとめにても、いたさるべし。なになにとぞ、末にては、又々、一所に、くらさん。」

と、まことしやかにかたりける。

 女房、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]、是《これ》を聞きて、

『是非もなき事。』

と、おもひ、人を賴み、あるやしきかたの、物逢奉公[やぶちゃん注:「ものあひほうこう」か。意味不明。識者の御教授を乞う。]に出《いで》たりける。

『さだめて、あとにて、おつと[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]も、手代奉公にても、いたさるべし。』

と、おもひくらしけるが、一月たてとも[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、たよりもなく、二月たてとも、おとつれ[やぶちゃん注:ママ。]もなかりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるとき、御供に、くはへられて、湯嶌(ゆしま)の天神へ、まいり[やぶちゃん注:ママ。]けるか[やぶちゃん注:ママ。]、我住みける町を通りしに、

『先に住みなれし家は、今にては、何方《いづかた》の人の住《すみ》けるやらむ。又、何店(《なに》みせ)にかあらむ。』

と見けれは[やぶちゃん注:ママ。]、やはり前の通りの、のうれんをかけ、我おつと、店に帳(ちやう)をつけて居たりける。

 内より、若き女、茶わんを持ち出《いで》て、さし出しけるを、つと、うけ取りて、のみたりける。

『是れは。いかにもふしき[やぶちゃん注:ママ。]なる事かな。』

と、おもひけるより、心も、すます[やぶちゃん注:ママ。]、行《きゅき》もとり[やぶちゃん注:ママ。]の御ともにも、物をも、いはす[やぶちゃん注:ママ。]、思案かほにてありしかは[やぶちゃん注:ママ。]、傍輩《はうばい》も、なにの心も、つかず、

「心にても、あしきや。」

と、たつねしかは[やぶちゃん注:総てママ。]

「いかにも。心持ち、あしく。」

とて、歸へりても、すく[やぶちゃん注:ママ。]に、打ちふし居けるか[やぶちゃん注:ママ。]、夜る夜るは、おそはるゝやうに、うめき、夜、あくれば、何のかはりたる事も、なし。

 四、五日にもなりて、いよいよ、夜の内は、さはかしく[やぶちゃん注:ママ。]、昼は、物をもいはす[やぶちゃん注:ママ。]して、伏し居たり。

 ある夜、夜中過《すぎ》に、殊の外、さはかしく[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]ありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、皆々、打ちよりて、部屋にゆき、見たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、正氣をうしなひて、右の手に、女の髮を、百筋はかり[やぶちゃん注:ママ。]、にきり[やぶちゃん注:ママ。]て死し居《ゐ》たり。[やぶちゃん注:失神・気絶していた。]

 水なと[やぶちゃん注:ママ。]、のませ、かいほういたしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、息出《いきいで》て、よみかへりたり。

 又、そのあすの夜は、宵のうちより、くるひにはしりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、かん病の傍輩も、くたひれ[やぶちゃん注:ママ。]、ふしけるが、八つ頃[やぶちゃん注:午前二時頃。]にいたりて、身の毛もよたちて[やぶちゃん注:ママ。]、さはかしかりけるに、皆々、目をさまして見けれは[やぶちゃん注:ママ。]、此度《kのたび》は、口のはたは、血まみれになり、顏も、おそろしく、絕死《ぜつし》したり。[やぶちゃん注:同前で、失神発作を起こしたのである。]

 いろいろと、かいほうして、よみかへり、そのまゝ、夜中ながら、肝入(きも《いり》)[やぶちゃん注:奉公の斡旋業者。]のかたへ、送りかへされし。

 そのゝち、きけは[やぶちゃん注:ママ。]

「あら物やの後妻《うはなり》は、夜分、ねたりける折に、あやしき女、來たりて、喰ひころされし。」

と、うわさしける。

 そのはうはい[やぶちゃん注:ママ。]、京へ歸りて、かたり侍る。

 

新說百物語巻之三

[やぶちゃん注:「後妻」には、読みが振られていないが、標題は「ごさい」でもよかろうが、最後の噂の台詞は、必ずや、「うはなり」でお読みたいのである。]

「新說百物語」巻之三 「親の夢を子の代に思ひあたりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   親の夢を子の代に思ひあたりし事

 敦賀(つるが)に壱人《ひとり》の日蓮宗の老人ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、代々の日蓮宗にて、殊の外の信者なり。

 あるとき、我が子にかたりていふやう、

「ゆふへ[やぶちゃん注:ママ。]、ふしき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]なる夢を見たりける。所は、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]ともおほえす[やぶちゃん注:総てママ。]、たゝ[やぶちゃん注:ママ。]もくねんとして居たりけるが、異香(いかう)、四方に薰(くん)じ、音樂など、聞へけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]

『ふしきなる事かな。』

と思ひける所へ、六尺はかり[やぶちゃん注:ママ。]の、あみた如來[やぶちゃん注:ママ。]後も同じ。、まさしく目前に來迎(らいかう[やぶちゃん注:ママ。])あり。

『我は、是れ、戒光寺の仏《ほとけ》なり。なんぢ、おこたらず、御經を、とくじゆすること、奇特(きどく)なり。それによつて、來世は、極樂世界にいたらむ事、うたかひ[やぶちゃん注:ママ。]なし。』

と、の給ひて、そのまゝ、姿は見へ給はす[やぶちゃん注:ママ。]。扨々、ふしきなる夢を、見ける。」

と、かたりける。

 それより、一兩月過《すぎ》て、此老人、不食《くはず》になり、十日ばかり、いたはるけしきにてありけるが、

「あれあれ、又々、戒光寺のあみた如來、御出《おいで》なり。」

と、手をあはせ、おかみ[やぶちゃん注:ママ。]、そのまゝ、息たへ、あひ果てける。

 そのゝち、三年もすきて[やぶちゃん注:ママ。]、その子、用事ありて、京へ上りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、次手《ついで》に、都の名所など、たつねめくり[やぶちゃん注:総てママ。]、泉涌寺《せんゆうじ》にまふてけるか[やぶちゃん注:総てママ。]、ある寺の佛を拜みけるか[やぶちゃん注:ママ。]、前かた、親のはなしに、くはしくきゝし御仏《みほとけ》に少しもたかはす[やぶちゃん注:総てママ。]

『是れは。ふしきなる事かな。』

と、おもひて、其寺の名をたつねしかは[やぶちゃん注:総てママ。]、戒光寺と申しける。

 あまりの事の、ふしきにも、有難く、又、親のことなと[やぶちゃん注:ママ。]おもひ出《いだ》して、淚を流し、下向いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「世には、ふしきなる事も、あり。」

と、井関《ゐぜき》氏の人、かたられし。

[やぶちゃん注:「戒光寺」滋賀や、近場の京都で、日蓮宗の、この寺名を調べ得なかった。しかし、後で、息子が、真言宗泉涌寺派の総本山泉涌寺に詣でた序でに、その近くの(推定)「ある寺の佛を拜」んだところが、生前の「親のはなしに、くはしくきゝし御仏に少しも」違わなかったので、不思議に思い、その「寺の名を」尋ねたところが、「戒光寺」であったとあるのは、これ、泉涌寺の塔頭(正保二(一六四五)年に後水尾天皇の発願により現在地に移転し、泉涌寺の塔頭となっている。山号は東山。本尊は釈迦如来。正式名称は「戒光律寺」であるが、「丈六さん」(本尊の敬愛称)とも通称される)である戒光寺(グーグル・マップ・データ)としか思われないのだ。しかし、同寺の公式サイトを見ても、少なくとも現在、仏像の中に阿弥陀如来像はないのである。しかも、この親は、「代々の日蓮宗にて、殊の外の信者」であったとあるので、ちょっと不思議である。「少なくとも、息子は、この奇特で、日蓮宗から真言宗に改宗しないとおかしいだろ!」と突っ込みたくなったのである。話者の「井関」なる人物が、この戒光寺の檀家だった可能性はあろうか。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「おなじく」(前詩「行く春の川べの別れ」という意味)趙今燕

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  おなじく

 

            淼 淼 春 江 上

            孤 舟 去 莫 留

            思 君 若 流 水

            日 夕 伴 行 舟

                   趙 今 燕

 

春の江のながれはろばろ

ゆく舟やとどまりもせず

わがこころ水にかも似る

朝ゆうべ君を追ひつつ

 

[やぶちゃん注:作者は前の同人の「行く春の川べの別れ」を参照されたい。標題は「送別」。以下、推定訓読を示す。

   *

  送別

淼淼(べうべう)たり 春の江上(かうしやう)

孤舟(こしう) 去りて留まる莫(な)し

君を思ふは 流水のごとく

日夕(につせき) 行く舟に伴へり

   *

「淼淼」(現代仮名遣「びょうびょう」)水面が果てしなく広がるさま。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「行く春の川べの別れ」趙今燕

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  行く春の川べの別れ

            一 片 潮 聲 下 石 頭

            江 亭 送 客 使 人 愁

            可 愁 垂 柳 糸 千 尺

            不 爲 春 江 綰 去 舟

                  趙 今 燕

 

岩にせかるる川浪や

人に別るるわが歎 長々(ながなが)しくも

徒らに堤のやなぎ糸たれて

去りゆく舟を得つなぎもせず

 

   ※

趙今燕  十六世紀中葉。 明朝萬曆年間。 名は彩姬。 吳の人。 奏淮[やぶちゃん注:「秦淮」(しんわい)の誤記か誤植。]の名妓である。 才色ともに一代に聞えてゐた。 日ごろ風塵の感を抱いて妄(みだり)に笑(せう)を賣ることを好まず、書を讀むことを喜び、靑樓集を著したといふ。

   ※

[やぶちゃん注:この原詩の標題は「暮春江上送別」であるが、転句は中文サイトのこちらを見ても、「可憐垂柳糸千尺」である(「糸」は「絲」とする)。国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』第十号の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」を見たところ、原詩は「可憐垂柳糸千尺」であり、佐藤春夫が恣意的に確信犯で書き変えていることが判明する。しかも、佐藤は後発の「春夫詩抄」(岩波文庫・初版・昭和一一(一九三六)年刊/改版・昭和三八(一九六三)年)では、「可悲垂柳糸千尺」とさらに書き変えてもいるので、注意されたい。

・「萬曆年間」明の第十四代皇帝神宗の在位中に使われた。一五七三年から一六二〇年まで。

・「秦淮」六朝時代の首都南京の近くを流れる川名(秦代に開かれた運河)。両岸には酒楼が多く、今に至るまで、風流繫華の地である。

・「笑を賣る」売淫すること。

 以下、正しい原詩を示して、推定訓読する。

   *

 暮春江上送別

一片潮聲下石頭

江亭送客使人愁

可憐垂柳糸千尺

不爲春江綰去舟

  暮春江上の送別

 一片の潮聲(てうせい) 石頭(せきとう)を下(くだ)り

 江亭 客(かく)を送る人を愁へしむ

 憐(あは)れむべし 垂柳(すいりう)の糸(いと) 千尺

 春の江(かは) 去れる舟を綰(つな)ぐことも爲(せ)ざる

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二三番 二度咲く野菊

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一二三番 二度咲く野菊

 

 昔、雫石の里に、野菊といふ、何所にもないやうなええ女(ヲナゴ)があつた。雫石の殿樣の手塚左衞門尉といふ人に見染められてオキサキに上つた。ある日殿樣の前でソソウな音を出してしまつたためにお咎めを受けて暇《ひま》を出された。そして今のお菊ケ井戶と云ふ井戶の傍らに庵を結んで其所に住んで居た。

[やぶちゃん注:「雫石の殿樣の手塚左衞門尉」雫石城は現在の岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)下町東(しもまちひがし)の八幡神社(グーグル・マップ・データ)に主郭があった平城。サイト『お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】』の城迷人たかだ氏の『雫石城(雫石御所)とは 高原である雫石の奪い合いも』の記事によれば、『最初の築城は不詳ですが、鎌倉時代のはじめに、平忠正の孫・平衡盛が、大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したとされます』。『平衡盛(たいらのひらもり)は、奥州攻めで戦功をあげ、滴石荘の戸沢村に屋敷を構えると、戸沢氏を称しました』。『更に、その子・戸沢兼盛は』元久三・建永元(一二〇六)『年に南部氏から攻められて、山を越えると、出羽国の山本郡門屋(かどや)に進出し、出羽・小山田城を築きました』。『ただし、その後も、雫石は戸沢氏の領地として回復したようですが、戸沢氏の本拠は門屋城から戻ることはありませんでした』。『戦国時代の』享禄五・天文元(一五三二)年に、『戸沢氏は城主の配置換えをおこなった記録があり、滴石城には』家臣団の一人である(☞)『手塚左衛門尉が入っています』。『その後、滴石の戸沢政安は、南部晴正の重臣である石川城主・石川高信によって攻撃を受けたようです』。天文九(一五四〇)年、『雫石城には、石川高信をはじめ、福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸氏、玉山氏、工藤氏らが押し寄せました』。『戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城にて戦いましたが』、『敗れ、手塚氏は討死し、長山氏は自らの手で長山城を焼き払い、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ち伸びました』。『現在の雫石城址にある八幡宮は、滴石城主・手塚左衛門の氏神でした』。『その秋田街道の両側を挟むように、雫石城が築かれていたようです』とあったことから、本篇の話柄内時制は事実としてあったならば、享禄五・天文元(一五三二)年から天文九(一五四〇)年までの、僅か八年の閉区間のことということになる。本書の中で、具体に時制がここまで限定される中世の話というのは、他に例を見ないものである。なお、城郭サイトはここに限らず、参看した三つのどこも、城跡の住所を『岩手県岩手郡雫石町字古館』(似た現行地名は岩手県岩手郡雫石町御明神古舘(みょうじんふるだて):同前)とするのだが、ここは、主郭位置から四キロメートルも西南西の完全な平地であって、おかしい。確かに八幡神社が主郭跡であることは、ストリートビューの単体の一枚の写真で、同神社主殿の左に、ぼやけているが、「雫石城跡」の説明版があるのが、はっきり分かる。

 それから何年かの後に、殿樣は鷹狩の歸りに雫石の町で、不思議な童が、

   黃金《こがね》のなる

   瓢簞(フクベ)の種や…

 と言つて步いて居るのに逢つた。殿樣がお前の賣る種は眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])に黃金がなるかと訊くと、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に黃金がなるが、ただ屁《へ》をひらない人が蒔かねばならぬと子供は答へた。殿樣は、これは可笑しなことを言ふ子供だ。世の中に屁をひらぬ人があるものかと大笑ひをした。それを聽いて子供は言葉を改めて、そんなら何故殿樣は私の母ばかりをお咎めになつて、暇を出されたか、其譯を聽きたいと言つた。それで始めて、それが我子であることが分り、俺が惡かつたと言つて、母の野菊と共に再び御殿へ上《あが》ることになつた。

 そこで斯《か》う謂ふ歌がはやつた。

   雫石はめいしよどこ

   野菊の花が二度ひらく

(岩手縣雫石村の話である。田中喜多美氏の分の二一。筆記には尙左のやうなことが記されてあつた。

 昔雫石の八幡館の主《あるじ》、手塚左衞門尉と云ふ人が、野菊に惚れて妾《めかけ》に上つたが、譯あつて城内に置くことが出來ず、櫻沼に館をこしらへて野菊を置いた。後に八幡館は落城して手塚は仙北《せんぼく》の角館《かくのだて》へ遁げたので、櫻沼も其時きりになつた。土地の人が後に舊主を此處に祀つたので、周りの座は昔の跡である。昔は美しい女の姿が櫻沼に見え見えした。あれは野菊のタマス(魂)だと謂つた。それだから櫻沼の神樣は女である。

 野菊は百姓の娘だが、美しかつたので三度も御殿へ上つたといつて昔話になつてゐる。

 此地に今一人、和賀《わが》郡の澤内《さはうち》にも美《うつくし》い女があつた。やはり殿樣のお目にとまつて寵愛を受けたので、澤内三千石の御藏人《おくらにん》が御免になつたと語り傳へてゐる。

   澤内三千石お米の出どこ

   桝ではからねで箕ではかる

 この歌もそれから出來たと謂つて、末の句は「身ではかる」と解せられゐる。(晴山《はれやま》村、冨田庄助老人談。)亦雫石の古城址から東へ十町ほど離れた、御所村に野菊の井戶と謂ふのがある。この井戶の水でツラ(面)を洗ふと美女になると謂ふので、村の娘達は今でも行つて洗ふ。其近くに野菊の墓といふのがある。その墓地の所有者德田彌十郞殿の家には、野菊の鏡といふものが傳はつて居る。明治四十三年かに九十幾ツで歿した同家の祖母が、嫁入《よめい》つて來た時にはもう此家に其鏡があつた。その祖母の話に、以前一度其墓を掘つた事があつて、玉や銀の細工物や色々な物が出た中で鏡だけが用に立つので代々野菊の鏡と謂つて使用して居たと謂ふ。

 自分(田中君)等も其鏡を一見した後、其墓へ案内してもらつて行つて見た。畠の中の塚で、あまり大きくない自然石の文字もなにも無いものが立つてゐた(大正十二年、御所村高橋彌兵衞老人談。)

[やぶちゃん注:附記は長いので、ポイントを本文と同じにし、全部引き上げた。

「櫻沼」岩手県岩手郡雫石町長山七ツ田のこの附近(グーグル・マップ・データ)は、古くは広い湿地帯で、大小の沼があった。その中の一つで、痕跡のような小さな「桜沼」が現存する。サイト岩手・雫石『弘法桜の地』ご案内」の「櫻沼」を見られたい。「底無し沼」と言われ、近くに龍神も祀っており、実際に蛇も多く棲息するとある。

「後に八幡館は落城して手塚は仙北の角館へ遁げた」先の注の歴史的事実と異なる。手塚は討死している。

「舊主」手塚。

「周りの座先」不詳。旧「櫻沼」附近からは、縄文時代晩期と考えられる配石住居跡四棟・石囲炉九基・埋甕九基が発掘されている。或いは、その埋没遺跡の膨らみを「座」と言っているのかも知れない。

「和賀郡の澤内」岩手県和賀郡西和賀町沢内(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「御藏人」読みはあてずっぽ。藩の米蔵の管理役であろう。

「晴山村」岩手県岩手郡雫石町長山晴山(ながやまはれやま:グーグル・マップ・データ)

「御所村」現在の雫石町西安庭(にしあにわ)・鶯宿(おうしゅく)・南畑(みなみはた)・繋(つなぎ)及び盛岡市繋にあたる(グーグル・マップ・データ。周囲を見られると他の地名も確認出来る)。

「野菊の井戶」現存するかどうか不詳。

「野菊の墓」同前。

「明治四十三年」一九一〇年。

「大正十二年」一九二三年。]

2023/06/16

「新說百物語」巻之三 「猿子の敵を取りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

  《さる》《こ》の敵(かたき)を取りし事

 若狹の國の百姓、ことの外、猿を愛して、二疋、猿を飼ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]、子を、一疋、うみて、二疋の猿、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]寵愛し、そたてける[やぶちゃん注:ママ。]

 あるとき、此小猿、庭のまん中に、何心なく、遊ひ[やぶちゃん注:ママ。]て居《をり》けるを、空より、鷹一羽、來りて、何の苦もなく、ひつつかみ、虛空(こくう)に、飛《とび》さりける。

 二疋の親猿、ともこれを見て、あるひは、木末にのほり[やぶちゃん注:ママ。]、又、飛上《とびあが》りて、かなしみ、なきけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、何方《いづかた》へやらむ、行きかたなく、そのせんも、なし。

 それより、二疋の親猿、食《しよく》も、くはず、ばうぜんとして居たりしが、二、三日もすきて[やぶちゃん注:ママ。]、二疋のさる、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へやらむ、朝、とく、出《いで》て、歸へらす[やぶちゃん注:ママ。]

 皆々、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]をなして居たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、やうやう、八つ時[やぶちゃん注:午後二時頃。]に歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、魚のわたと覺しき物を、持《もち》て歸へりける。

 其魚のわたを、一疋の猿、かしらに、いたゝき、最前、子猿の居たりし所に、うつくまり[やぶちゃん注:ママ。]居《ゐ》けるが、半時ばかり過ぎて、又、空より、鷹一羽、飛び下り、かの魚のわたを、つかんて[やぶちゃん注:ママ。]、さらむとする所を、やにはに、下より飛《とび》つきて、かの鷹を、とらへける。

 あとにひかへし猿も出《いで》て、二疋して、羽かい[やぶちゃん注:ママ。「羽交(はが)ひ」。翼。]を、むしり、くらひつき、なんなく、鷹を喰ひころし、子のかたきを、取りたりける。

「畜類のちゑには、おそろしき事になん、侍る。」

と、かたりし。

[やぶちゃん注:う~ん、ここまでくると、実話というには、ちょっと難しいように思う。]

「新說百物語」巻之三 「あやしき燒物喰ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   あやしき燒物喰ひし事

 去る大國の國守より、一年に一度つゝ[やぶちゃん注:ママ。]、御領内御けんぶんに遣はさる事ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、その国の山家、三百軒ばかりの一村あり。

 庄屋・代官、壱人して、相《あひ》つとめ、その所を、おさむる冨江の何某といふもの、あり。

 御けんぶんの侍衆、その所に御滯留ありて、一宿《いつしゆく》ありけり。

 山家の事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、格別の馳走も、なりかたく[やぶちゃん注:ママ。]、料理も、おゝかた[やぶちゃん注:ママ。]は精進(しやうじん)にて、燒物ばかりは、さかなにてそ[やぶちゃん注:ママ。]、ありける。

 切目《きりめ》鰤(ぶり)のことく[やぶちゃん注:ママ。]にて、あぢはひも、殊の外、よかりける。

 其あけの日、仲間《ちゆうげん》壱人、そのあたり、ぶらぶらと、あるき、すこし高みに、小屋のありけるをのそき[やぶちゃん注:ママ。]てみれは[やぶちゃん注:ママ。]、あるひは、香《かう》のものやうの物なと[やぶちゃん注:ママ。]ありて、又、おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]桶に、魚のきりたるを、塩づけにして、五つ、六つ、ならへ[やぶちゃん注:ママ。]、をき[やぶちゃん注:ママ。]たりける。

 仲間、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]おもひけるは、

『ゆふへ[やぶちゃん注:ママ。]のやきものは、此さかなにてあるへし[やぶちゃん注:ママ。]。いさや[やぶちゃん注:ママ。]、やきて、くらはん。』

とて、四、五人、打《うち》より、火にて、あふり[やぶちゃん注:ママ。]くらふに、其味のうまき事、ゑ[やぶちゃん注:ママ。]もいはれず、二切・三切も喰《く》ひけるが、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、一身中《いつしんぢゆう》、あつくなり、酒にゑひたるごとく、ふらふらとして、足も立たす[やぶちゃん注:ママ。]、一向に、身も、なへて、正氣のあるものは、壱人も、なし。

 外の仲間、是れを見て、おゝきに[やぶちゃん注:ママ。]きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]、ことの外、さはき[やぶちゃん注:ママ。]、とやかくいたしけるを、亭主、冨江、きゝ付けて、其所へ來たり、

「もしも是は、小屋の内に、たくはへをき[やぶちゃん注:ママ。]し桶の内なるものを、喰ひ給はずや。」

と問ふ。

 しかしか[やぶちゃん注:ママ。]の樣子を、かたりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、何やらん、草の葉を持來《もちきた》り、水にて、のませける。

 しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、みなみな、其醉ひも、さめ、常のことく[やぶちゃん注:ママ。]になりたり。

「是は、何にて侍るやらん。又、ゆふへ[やぶちゃん注:ママ。]は、何の事もなく、今日は、かくのことく[やぶちゃん注:ママ。]、ゑひ侍る。」

と、とひければ、亭主、こたへていふ樣《やう》、

「別の物にても侍らず。此所は、おく山にて、海に遠く、殊の外、さかなの不自由なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、冬に至りて、蟒(うはばみ)の食《しよく》にうへて、よはりたる時をかんかへ[やぶちゃん注:ママ。]、かりいだして、ちいさく[やぶちゃん注:ママ。]切り、塩漬けにして、一年中の客に、つかひ侍る。此燒物を出《いだ》し申す時は、いつにても、連錢草《れんせんさう》をしたし物にして、付け侍る。さなけれは[やぶちゃん注:ママ。]、先のやうに、酒にゑひ[やぶちゃん注:ママ。]たる如くにて、四、五日も正氣は、是れ、なし。」

と、こたふ。

 夜前より、此燒物を喰(くい[やぶちゃん注:ママ。])けるもの、なにとやら、氣味あしく、ゑつき[やぶちゃん注:ママ。「嘔(吐)(ゑづ)く」。]などしけるものも、ありしとそ[やぶちゃん注:ママ。]

[やぶちゃん注:本邦の大型の蛇類を塩漬けにしたもので中毒を起こすというのは、ちょっと考え難いが、それがニホンマムシであって、毒が、例えば、口中内にあった傷から入った場合には、あり得ることかも知れないけれども、全員がそうなったというのは、説明がつかない。されば、これが実話であるならば(書き方自体が、かなりリアルであるから、実話であろう)、寧ろ、塩がうまく効いておらず、腐敗し、そこに強毒性の細菌・ウィルス・黴(かび)などが増殖していたと考えた方が、腑に落ちるように思われる。

「連錢草」双子葉植物綱シソ目シソ科カキドオシ属 Glechoma hederacea亜種カキドオシ Glechoma hederacea subsp. grandis 。「垣通し」の異名。当該ウィキによれば、本邦では、『北海道・本州・四国・九州に分布』するとあり、『丸い葉が並んで見えることから、連銭草(れんせんそう)という別名もある』とある。また、「薬用」の項には、『全草を乾燥したものは和種・連銭草(れんせんそう)、中国種・金銭草という名で生薬にされ、子供の癇の虫に効くとされる』。『このことから』、『俗にカントリソウの別名がある』。『地上部の茎葉には、精油としてリモネン、このほかウルソール酸、硝酸カリ、コリン、タンニンなどを含んでいる』。『一般に、精油には高揚した気分や高ぶりを鎮静する作用があるといわれて』おり、『過去の研究によれば、カキドオシの温水エキスを糖尿病の動物に与えた実験で、血糖降下作用があることが認められるとした報告もされていて』、『糖尿病治療にも応用できることが日本生薬学会で発表されている』。『しかし、動物実験により糖尿病に良いとされる発表については、これを疑問視する人もいる』。『生薬の連銭草は』、四~五『月ころの開花期に、地上部の茎葉を採取して陰干しにしたものである』。『民間療法では、尿道結石、胆石、利尿、消炎薬として』使われ、『幼児の癇の虫には』『煎じ汁を用いるとされ』ている。また、『湿疹の幹部に煎じ汁を直接塗ったり、糖尿病予防に服用するといった民間療法がある』が、『冷え症や妊婦への服用は禁忌とされている』とあった。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「椀貸穴」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○椀貸穴《わんかしあな》(二號一一六頁及三號一七六頁)

 ケートレーの「フェヤリー・ミソロジー」(一八八四年)二二〇頁に、獨逸のスマンスボルン泉が出る小山に、昔し、小鬼、住《すめ》り。村民、美衣裳《はれぎ》や馳走道具を借《かり》んと欲する時、其小山の前に立ち、明日、日出前に、此小山で物借《から》うと誦《とな》えて、欲《ほし》い物を告置《つげお》くと、必ず、貸して吳《くれ》た。返禮には些《すこし》[やぶちゃん注:「選集」では『ちと』と振るが、採らない。]の馳走分けを捧ぐれば、鬼が滿足した。又、二九五頁に、英國サレイ州のボロー丘に、洞、有《あつ》て、樂聲を聽事《きくこと》あり。この丘に長《たけ》六尺の大石橫《よこた》はる。村人、此石を敲《たた》き、期限を約して、「物借《か》らん。」と請《こは》ば、石より、聲、出で、「何日の何時に、此石の所へ來い。貸遣《かしやら》う。」と答えた[やぶちゃん注:ママ。]。然るに、或時、鼎《かなへ》を借りて、約束に後《おく》れて、返しに往《い》つたが、受取《うけと》らず。爾後《じご》、何一つ、貸して吳ぬ、とある。「五雜俎」三にも、濟瀆廟神、甞與ㇾ人交易、以契券池中、金輙如ㇾ數浮出、牛馬百物、皆可假借、趙州廉頗墓亦然。〔濟瀆廟(さいとくびやう)の神は、甞つて、人と交易す。契劵(わりふ)を以つて池中に投ずれば、金(かね)、輙(すなは)ち、數(かず)のごとく、浮き出づ。牛・馬・百物(ひやくぶつ)も、皆、假-借(か)るべし。趙州(ちやうしふ)の廉頗(れんぱ)の墓も、亦、然り。〕支那で所謂、「鬼市《きし》」、英語で所謂。「默商《サイレント・トレイド》」の一種で、十年前一九一三年發行、グリエルソンの「默市篇《ゼ・サイレント・トレイド》」に似た例を載せ居る。(これは「鬼市」や「默商」と、少々、譯がちがふ。別に論ずべし。印度にも、膳椀を貸す神あるは、ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三七九頁に見ゆ。)

[やぶちゃん注:「椀貸穴」今まで私が電子化注したものでは、柳田國男の「一目小僧その他」の中の「隱れ里」(ブログ・カテゴリ「柳田國男」で全十五章分割)が、これを考究した最長のものである。のっけから、ズバリ、「椀貸伝説」を語り出してあるので、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』も取り敢えずリンクしておく。但し、柳田の鳥居龍蔵の「無言貿易」説への批判(噛み付き方)は、自分がメインと勝手に思ってしまった分野や事象については、感情的でさえあり、その手法も何やらん、非学術的な箇所がしょっちゅう見受けられ、この辺りから、私は、『柳田國男は、思ってたより、人間的には、「厭な奴」みたいだな。』と感じるようになった始めでもあった。最初に電子化注した「蝸牛考」の二〇一五年の頃は、かなり高く評価していた(しかし、それも自身の「方言集圏論」を何が何でも定立させるために、都合の悪いデータは、皆、黙殺していることは知っていた。脱線だが、大学時代、國學院大學では、彼は「神様」扱いだった。個人発表の際にも教授から、「柳田という言い捨てはだめだ。『先生』をつけなさい。」と注意され、発表の間中、「先生」の部分を必ずリキを入れて発表し続け、教授が苦虫を潰していたのを思い出す。また、その同時期に、友人から「柳田國男と折口信夫は、戦前・敗戦以前、批判を受けやすい性的な内容の民俗学的見解はなるべく避けようという密約があったようだ。」という話を聴き、ひどく失望したものだった。柳田に対する私の疑惑は、そこで既にして萌芽していたのであった)。まず、決定的な悪印象は、「遠野物語」の成立過程で、原著者たる佐々木喜善を自分に都合のいい弟子扱いし、彼から提供された折角の原稿も、無為のままに経過させたこと等々を知ってより、「甚だ嫌い」のレベル・メーターの赤ライン端まで振り切れ状態になり、「海上の道」を再読してみて、『これは、学問じゃない、自分の空想に合わせた非科学的な思いつきの遊戯に過ぎない。』と感じるに至ったのだった。

「二號一一六頁及三號一七六頁」「選集」には編者割注があり、「二號一一六頁」の方は『菊池重三郎「石椀とどろ」』とあり、「三號一七六頁」の方は『飯田豊雲「椀貸し穴」』とある。

『ケートレーの「フェヤリー・ミソロジー」(一八八四年)二二〇頁』アイルランド生まれの作家で歴史学者でもあったトマス・カイトリー(Thomas Keightley 一七八九年~一八七二年)の最初の著書である‘The Fairy Mythology’(「妖精の神話学」)。一八二八年刊。「Internet archive」で当該年の原本があり、ここがそれ。

「スマンスボルン」場所は判らぬが、綴りは“Smansborn”。“spring”とあるので、湧き水である。

「五雜俎」は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたここと校合した。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三七九頁』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが原本当該部で、最後の段落にそのことが書かれてある。]

「新說百物語」巻之三 「狐笙を借りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   狐《きつね》笙(しやう)を借りし事

 上京《かみぎやう》に「何之介《なにのすけ》」とかや、いへる人、あり。[やぶちゃん注:「何之介」伏せ名であろう。]

 生得《しやうとく》の好奇人にて、音律に、くはしく、殊更、笙をよく吹きけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるとき、また、おなしやうなる、わかき男、きたり、

「それかし[やぶちゃん注:ママ。]も、笙を吹き侍るか[やぶちゃん注:ママ。]、其《そこ》もとの音色《ねいろ》の、あまり、おもしろきに、每日、おもてにたゝすみ[やぶちゃん注:ママ。]侍る。これよりは、御心安くいたしたく存《ぞんず》るなり。」

と申しける。

 彼《か》のものも、すきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]

「いかにも。自今《じこん》は、御心やすく御出で下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、每日每日、來《きた》り、我《われ》も、笙を持來《もちきた》り、たかい[やぶちゃん注:ママ。「互ひ」。]に吹《ふき》ける。

「我等は、九条邊のものにて、宮㙒左近《みやのさこん》と申す。」

と申しける。

 そのゝちに、一兩日も過ぎて、申しけるは、

「其もとの御笛《おんふえ》、殊の外、よき御笛にて侍る。なにとぞ、一兩日御かし下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。その替りに、又、我らか[やぶちゃん注:ママ。]所持の笛を、置きて歸るへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、所望いたしける。

 彼の男、申しけるは、

 「いかにも。いと、やすきことなり。御かし申すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、たかひ[やぶちゃん注:ママ。]に取りかへて、かしける。

 其後、四、五日すれとも、來たらす、一月《ひとつき》すれとも、來らさりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]

『扨は。病氣にても侍るやらん、心もとなし。いさ[やぶちゃん注:ママ。]、行きて尋ねてみん。』

と、おもひて、九条にいたりて、とある百姓の家にゆきて、其名を尋ねしかは[やぶちゃん注:ママ。]

「左樣《さやう》の人は、承り侍らす[やぶちゃん注:ママ。]。此㙒はつれ[やぶちゃん注:ママ。「この野端(のはづ)れ」。]に、「宮㙒左近狐《みやのさこんぎつね》」といふ、ほこらは、是《これ》、あり。おかしき事を尋ぬる人かな。」

と、わらひける。

 

Syoukitune

 

[やぶちゃん注:底本では、ここ。キャプションは、右幅の左手に背を向けた訪ねてきて笙を吹く宮野左近の右膝の右手に、

このせう[やぶちゃん注:ママ。]をかへて

  給はれ

奥に座って、やはり笙を吹いているのが、主人公「何之介」で、その右方に、

御やすき

   事て[やぶちゃん注:「で」。]

       ござり

        ます

とあり、左幅の上部には、稲荷社の社頭に亡くなった狐、それを発見した土地の村人二人が描かれ、上方の若い者の台詞が、

これはこれは[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。]

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。

  なる

  こと

   かな

とあって、下方のやや年をとった感じの男の台詞が、何之介の庭の景から、野の岡と推移するその丘の部分に、

これは

 せうの

  ふへ[やぶちゃん注:ママ。]と

    やら

   いふ物で

    あろ

とある。]

 

 彼の男、心ならす[やぶちゃん注:ママ。「こころならず」で、ここは「われ知らず・無意識に・うっかりと」の意。]、其宮にいたりて、樣子を、くはしく、近所のものに、たつねしかは[やぶちゃん注:総てママ。]、かたりていふやう、

「あとの月[やぶちゃん注:先月或いは先々月。]の末より、夜ふけぬれは[やぶちゃん注:ママ。]、此宮の近所に、何やらむ、笛の音《ね》、每夜、いたしけるが、此頃、其音《そのね》も、やみて、ほこらの前に、笙の笛とやらむものを置きて、狐一疋、死して居《ゐ》たり。すなはち、所の寺に、ほふむりて、其笙とやらむも、其寺へ、あげたり。」

と、語りける。

 彼男も、思はす[やぶちゃん注:ママ。]、淚をなかし、なくなく、其寺へ、いたりて、しかしかの樣子を、かたりて、その笙を見れは[やぶちゃん注:ママ。]、成程、先日かしたる笙にてそ[やぶちゃん注:ママ。]、ありける。

 其まゝ、その笙を、寺へ上けて[やぶちゃん注:ママ。]、取りかへたる我かゝた[やぶちゃん注:ママ。「我が方」。]の笙を「小狐」と名つけ[やぶちゃん注:ママ。]、祕藏しける、よし。

 延享の頃なる、よし。

[やぶちゃん注:「延享」一七四四年から一七四八年まで。本書は明和四(一七六七)年春の刊行だから、二十年ほど前の話で、まさに当代の都市伝説と言ってよい。]

「新說百物語」巻之三 「僧天狗となりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   僧《そう》天狗となりし事

 江刕に「智源」といふ僧あり。

 又、其所へ、每日每日、はなしに來《きた》る、二十二、三歲の若僧、「光黨(くわうたう)」といふもの、あり。此、光黨、あるとき、智源に、いふやう、

「久々、なしみ[やぶちゃん注:ママ。]申して、殘りおゝき事ながら、愚僧義《ぎ》も、少〻《せうせう》、のそみ[やぶちゃん注:ママ。]ありて、遠國《をんごく/ゑんごく》へ參るなり。たゝ今まて[やぶちゃん注:総てママ。]のよしみに、何にても、御のそみの品あらは[やぶちゃん注:総てママ。]、うけ給はり申すへし。[やぶちゃん注:ママ。]

と申しける。智源がいはく、

「年もまかりよりまして、出家の事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、各別の望みとても、是、なし。若き時より、所々を、おがみめくり侍れとも[やぶちゃん注:総てママ。]、いまた[やぶちゃん注:ママ。]おかみ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]殘したるは、遠國の佛神、所々、あり。一生の内、最早、年よりて、おかみ殘さん事の、殘念さよ。」

と申されける。

 其時、光黨がいはく、

「それこそ、やすき事なれ。御望みの所、みなみな、おかませ申すへし[やぶちゃん注:総てママ。以下も同じ。]。我らか[やぶちゃん注:ママ。]せなかに、おはれ給ふへし。かならす[やぶちゃん注:ママ。]、あゆむ内は、目をふさきて[やぶちゃん注:ママ。]、あき給ふへからす[やぶちゃん注:総てママ。]。先々にて、せなかより、おろしたる時に、目を、あき給へ。」

と約束し、そのまゝ、せなかに、おい[やぶちゃん注:ママ。「負ひ」。]て、出行《いでゆき》たり。

 智源かのそみにまかせ[やぶちゃん注:総てママ。]、先つ[やぶちゃん注:ママ。]、都の神社仏閣の外、名所を見めくり[やぶちゃん注:ママ。]、伯耆(はうき)の大山《だいせん》、さぬきの金毘羅、秋葉山《あきはさん》、大峯《おほみね》、富士山、およそ、名ある高山《かうざん》、いたらす[やぶちゃん注:ママ。]といふ事、なし。

 始め、江刕を出《いで》しとき、光黨の背(せ)に、おはるゝとおもへは[やぶちゃん注:ママ。]、たゝ[やぶちゃん注:ママ。]

「さあさあ」

と、なるはかり[やぶちゃん注:ママ。「鳴るばかり」。]にて、あまりふしき[やぶちゃん注:ママ。]におもひ、そつと、目を、ほそめに、あきけれは[やぶちゃん注:ママ。]、水海《みづうみ》[やぶちゃん注:琵琶湖。]のうヘ、一町[やぶちゃん注:約百九メートル。]ばかりも、高く飛ぶにぞありける。

 あまりの事のおそろしさに、そのゝちは、目をあかす[やぶちゃん注:ママ。]、所々にて、地におろせは[やぶちゃん注:ママ。]、目を、あきける。

 食事等は、いつかたにて[やぶちゃん注:「いろいろな所で」の意か。]、たべけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、誰《たれ》とかむる[やぶちゃん注:ママ。]ものもなく、自由なる事なりけり。

 諸方を、めくり[やぶちゃん注:ママ。]て、二日めの夕かた、我か[やぶちゃん注:ママ。]寺の庭に、つつほりとして居《をり》たりける。[やぶちゃん注:「つつほり」「つっぽり」で副詞。独りで侘びし気に立っているさま。しょんぼり。近世語。]

 そのゝち、四、五日、過《すぎ》て、又々、光黨、來たりて、

「御望みの所々、おかまれて[やぶちゃん注:ママ。]本望なるべし。しかし、外のものならは[やぶちゃん注:ママ。]、水海のうへにて、目をあきたるとき、ひきさき、すつへけれとも[やぶちゃん注:総てママ。]、其元《そこもと》ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、了簡いたしたり。」[やぶちゃん注:「ひきさき、すつへけれとも」「引き裂き、捨つべけれども」。]

と申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、智源、猶々、きもを、つふし[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 いとまこひして、出行《いでゆき》けるか[やぶちゃん注:ママ。]

「此後、火災なとあらは[やぶちゃん注:総てママ。]、前かたに、しらすへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しけり。[やぶちゃん注:「前かたに、しらすへし」「火災が発生する以前に知らせてやろう」。]

 此智源、今に存生《ぞんしやう》のよし。

[やぶちゃん注:最後の一行で、現在只今の近江の国の天狗奇譚実話ということになる。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二二番 端午と七夕

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一二二番 端午と七夕

 

 或所に若夫婦があつた。良人は妻の織つた曼陀羅と謂ふものを、遠方の町へ持つて行つて賣つてゐた。そのために他鄕に永逗留するのが常であつた。その留守の間に、妻の容貌(ミメカタチ)の美しいのを慕つて、其所の男共が數々言ひ寄つた。けれども妻はそんなことには少しも耳を借《か》さなかつた。ところが或時惡い男が來て、お前がそんなに貞操を守つて居たつて、お前の良人は他國で妾女(オナメ)を持つて居るから、斯《か》う還《かへ》つて來ないんだぜと焚《たき》きつけた。それを聽いた妻は女心の一途《いちづ》にさうかと思つて泣きながら、近くの川へ身を投げて死んでしまつた。

 夫が他鄕から、曼陀羅を送つて寄越《よこ》すやうに家へ便りをしても、何の返事もないから、不思議に思つて村へ歸つて見ると、妻はたつた今《いま》川へ身を投げたばかりで、まだ其美しい屍《しし》が水の中に浮き漂ふてゐた。夫はそれを見て悲嘆のあまり、妻の屍肉(シシニク)を切つて薄(スヽキ)の葉に包んで食べた。それは五月五日の日であつた。それが節句の薄餅の起源(オコリ)である。そして又その筋《すぢ》ハナギをば、七月七日に、素麵(ソウメン)にして食べた。それだから七月七日は必ず素麵を食べるのだと謂ふ。

 こんな譯で、五月中は機《はた》を織ることを忌み、若《も》し立てたなら、蓑(ミノ)を被《かぶ》せて匿《かく》して置かねばならぬ。

  (大正十三年八月七日(舊曆七月七日)、老母が孫
   共に話して聽かしてゐたのを記す。)

[やぶちゃん注:「端午と七夕」の食すものの起源譚であるが、妻に言いよる男ども、憎さから夫に愛人がいるという噓、妻の入水自殺、夫がそれを見つけてカニバリズムと、いかにも生理的に嫌な印象が多過ぎる。

「妾女(オナメ)」嘗つて後生掛(ごしょうがけ)温泉に湯治に行ったが、その源泉を「オナメモトメ」と呼んでいた。「オナメ」はここに出る通り「妾(めかけ)・愛人」の意の方言で、「モトメ」の方は「本妻」を指す。「後生掛温泉」公式サイトのこちらの「後生掛温泉の由来 オナメモトメの伝説」の引用を読まれたい。

「薄餅」不詳。グーグルで「薄餅 岩手 端午の節句」を調べたが、記載がない。

「筋ハナギ」不詳。当初、「筋《すぢ》」と推定読みを添えたが、そんな単語は、ネット上では見当たらない。或いは、「その節」で、そこで切れて、「その際に」、「ハナギをば、」……の誤字か誤植かとも思ったが、まず、本篇を引いている民俗学者の論考では総てそのまま「筋ハナギ」とあり、それに注を入れている人物もいなかった(国立国会図書館デジタルコレクションの検索システムを使用した)から、これは、やはり「筋ハナギ」なる「素麺」になる植物(穀類?)かなにかを指すようであるが、全く見当がつかない。「筋ハナギ」自体が、ネット検索ではかかってこないのである。前の「薄餅」と合わせて、識者の御教授を乞うものである。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「水彩風景」紀映淮

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  水 彩 風 景

            杏 花 一 孤 村

            流 水 數 間 屋

            夕 陽 不 見 人

            枯 牛 麥 中 宿

                  紀 映 淮

 

杏咲くさびしき田舍

川添ひや家おちこち

入日さし人げもなくて

麥畑にねむる牛あり

 

   ※

紀 映 淮 明朝。 年代は明かでない。 字は阿男。 金陵の人である。 莒州の杜氏に嫁し、早く寡(やもめ)となつたが節を守つて生涯を終つたといふ。 漁洋詩話にはその秦淮柳枝を推し「栖鴉流水㸃秋光」を佳句と稱してゐる。

   ※

[やぶちゃん注:中文サイトで調べたところ、標題は「卽景」。推定訓読を示す。

   *

 卽景

杏花(きやうくわ) 一孤村(いちこそん)

流水(りうすい) 數間(すうけん)の屋(をく)

夕陽(せきやう) 人を見ず

牯牛(こぎう) 麥中(ばくちゆう)の宿(やど)

   *

「杏」被子植物門双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ変種アンズ Prunus armeniaca  var. ansu 。開花期は三月から四月ごろで、桜よりもやや早く、葉に先立って、淡紅色の美しい花を咲かせる。原種は一重。

「牯牛」ここは広義のウシ。

 なお、マルクス主義の経済学者河上肇(明治一二(一八七九)年~昭和二一(一九四六)年)は漢詩人としても知られるが、彼の「閑人詩話」(昭和一六(一九三一)年十一月清書)の冒頭で、この佐藤の訳詩を批判している。国立国会図書館デジタルコレクションの『河上肇著作集』第九巻(一九六四年筑摩書房刊)のこちらで視認出来る(新字体)。「青空文庫」で全篇が電子化されているが、それを加工データとして、恣意的に漢字を概ね正字化して示す。

   *

 佐藤春夫の車塵集を見ると、「杏花一孤村、流水數閒屋、夕陽不見人、牯牛麥中宿」といふ五絕を、

 

 杏(すもも)咲くさびしき田舍

 川添ひや家をちこち

 入日さし人げもなくて

 麥畑にねむる牛あり

 

 と譯してあるが、「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ數間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に歸る」と題する詩に、「拙を守つて園田に歸る、方宅十餘畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡數間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齡(とし)八十を過ぎ、久く已に一棺を辯ず、廬を結ぶ十餘間、身を著けて海の寬きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡數間屋、結廬十餘閒は、みな間數(まかず)を示したものである。杏花一孤村流水數閒屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に數間の屋を數軒の家と解したのであらうか。專門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。

「遠近皆僧刹、西村八九家」、これは郭祥正の詩、「春水六七里、夕陽三四家」、これは陸放翁の詩。これらこそは家をちこちであらう。

   *

 以下、河上の引用に注する。

・「三間か四間か」距離単位の「間」(けん)では、淵明の生きた六朝時代でも今と同じで、一間は約一・八二メートルであるから、間口(まぐち)五・四五~七・二七メートルということになるが、河上の言う通りで、それではなく、これは「間取り」(部屋数(かず))のことであろう。

・「拙を守つて」の「拙」(せつ)は、自身を示す謙遜語であるが、ここは「愚直な私の性格に拘り守って」の意。

・「方宅十餘畝」「はうたくはじふよほ」で、「畝」は面積単位では、一畝は約五~六アールであるが、ここは正確なそれを言っているのではなく、敷地がそれなりに広くゆったりとしていることを言う。

・「草屋」草葺きの家。

・「八九間」は、ここも、距離単位ではなく、家屋の間取りの数を指す。

・「陸放翁」南宋の傑出した詩人陸游の号。以下に引く詩句は、彼の「讀王摩詰詩愛其散髮晚未簪道書行尙把之句因用爲韻賦古風十首亦皆物外事也」(一部が訓読出来ない(意味が採れない)ので訓読は示さない)の二首目(全十首)の冒頭部分。国立国会図書館デジタルコレクションの『陸放翁詩集』第六(近藤元粋編・明四二(一九〇九)年青木嵩山堂刊)のこちらで当該首が視認出来る(そこでは、標題に返り点が打たれてあるのだがが、それでも私には納得出来るようには読めなかった)。

・「仕宦」(しくわん)は「故郷を出て官に仕えること」を言う。

・「久く」「ひさしく」或いは「ながく」。

・「郭祥正」は北宋の詩人。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二一番 天狗

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一二一番 天 狗

 

 昔、と云つても七八十年程以前のことらしいが遠野に萬吉と云ふ人があつた。或年鉛《なまり》の溫泉(ゆ)へ行つて居ると、浴場で一向知らぬ大男が聲をかけて、お前は遠野の萬吉だベア。俺は早池峯山の天狗だ。今まで山中で木ノ實ばかり食つて居たども、急に穀物が食ひたくなつて來た。湯治《たうぢ》が濟んだら、俺も遠野さ遊びに行くから訪ねて行くと言ふ。是非來るようにと言つて、其日萬吉は馬を賴んで湯治場を立ち去つた。

[やぶちゃん注:「鉛の溫泉」現在の岩手県花巻市花巻温泉郷にある「鉛温泉(なまりおんせん)」。アルカリ性単純温泉。同温泉の一軒宿である開湯六百年の「藤三旅館」(ふじさんりょかん)公式サイトの「藤三旅館について」をリンクしておく。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 當時町に東屋と云ふ酒屋があつた。或日の夕方見知らぬ大男が來て、酒一升借《か》せと言う。番頭が知らない人には貨《か》すことはならぬと言ふと、それだら俺はこれから早池峯山《はやちねさん》さ行つて錢を持つて來るからと言つて出て行つたが、それからやや小一時(イツトキ)も經つと再び來て、錆びたジク錢を帳場へ投げつけて、酒を買つて出た。酒屋では不思議なこともあればあるものだと思つて、其男の後をつけて見ると、さきの萬吉の宅へ入つて行つた。

[やぶちゃん注:「早池峯山」神仏習合の時代より山岳信仰が盛んな霊峰。標高千九百十七メートル。遠野からは直線で北北西二十キロメートル位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「小一時」「一時」(現在の二時間相当)の「小一時」で、現在の「一時間弱」又は「僅かに一時間程」の意。

「ジク錢」「軸錢」で「ぜにさし」(「銭差し」「銭緡」で、銭の穴に通して銭を束ねるのに用いる藁・麻で作った細い紐。銭貫(ぜにつら))で束ねた穴開き銭のことであろう。『換算の不便を避けるために、銭』九十六『枚を銭緡に通すことで』百『文として通用させていた九六銭のように、相場の変動に関わらず』、『一定枚数の銭を通した銭鎈をもって銀』一『匁として通用させる慣習が生まれた。これ』を匁銭(もんめせん)と呼んだ。『匁銭の銭』差し一『束』(たば)『をもって』「銭一匁」と『表現した。後に各藩が公定の匁銭規定を定めた事』から、『本来の趣旨とは異なる領国貨幣化・地方貨幣化することになった』(後半の引用部はウィキの「匁銭」に拠った)。]

 其男は萬吉の家へ行つて、主人はまだ湯治場から歸つて來ぬか、直ぐ歸るべえと言つて居るところへ萬吉が歸つて來た。萬吉は自分が湯治場を立つ時にはまだ其所に居た人が、どうして先きへ來て居るのだらう。これは本當にタダの人間ではないと思つて、それから内ヘ上げて厚くもてなして置いた。

 其男は刀吉の家で、每日每日何もすることなくぶらぶらして酒ばかり飮んでゐた。ただきまつて一日に一羽の鳥を捕へて來て、それを燒いて食つて居た。そしていつの間にか何處へか行つて二度と來なかつた。

 其男の殘して行つたものが今でもあるが、小さな弓矢と十六辨の菊の紋章のある麻の帷衣《かたびら》のやうな衣と下駄一足である。

 又此町に旅の男で天狗々々と云はれる者があつた。月の半分は何處へか飛んで行つて居らず、人の知らぬ間に歸つて來てゐた。町で病人や急用のある時などは賴まれて十四五里も離れた釜石濱へ往復することがあつたが、そんな時には町の出端《ではづ》れをヒラヒラと行く姿は見とめられたが、あとは忽ち見えなくなつたと云ふ。病人に食はせる魚などを買ひに賴まれると其の道を二時間位で往復した。これも御維新頃の話のやうに聽いてゐた。

 

2023/06/15

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「田鼠除」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 標題は「もぐらよけ」と読む。

 実は私は、本篇を既に、二〇一三年六月に公開した、『海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載』の注の中で、「選集」版を底本として電子化している。「嬉遊笑覧」も所持する岩波文庫版で電子化している(但し、以下の注で示した通り、熊楠の所持するものは、内容が有意に異なる別版本であるので、是非、比較されたい)ので、先ず、そちらを読まれたい。

 

○田鼠除(二號一一三頁及三號一八四頁)の禁厭《まじなひ》に、小兒が金盥《かなだらひ》等を打鳴《うちなら》して家々へ闖入《ちんにふ》し、庭中《にはぢゆう》を騷ぎ廻り、忽ち、去る風《ふう》が、予の幼時、和歌山市にも有《あつ》た。然し、唱へ詞《ことば》が彥根や越後と違ひ、「おごろ樣《さん》は内《うち》にか、海鼠樣《なまこさん》はお宿《やど》にか」と云《いつ》たと覺える。「守貞漫稿」二四に、『節分の夜、大阪の市民、五、六夫、或は、同製の服を著し、或は、不同の服も、有之《これあり》、その中《うち》一人、生海鼠《いきなまこ》に細繩を付け、地上を曳巡《ひきめぐ》る。其餘、三、四夫は、各々、銅鑼《どら》、鉦《かね》、太鼓等を鳴らして曰、「うごろもちは内にか、とらごどんのおんまいじゃ。」と呼び、自家、知音《ちいん》の家にも往て祝す事有り』云々。『坂人、今夜のみ、生海鼠を「とらごどの」と云、傳云、之を行ふ年は、其家、土龍《うごろもち》、地を動かさず』云々、『最も古風を存せり。』。「嬉遊笑覽」卷八、『「俵子《たはらご》」は沙噀《なまこ》の乾《ほし》たる也。正月、祝物《いはひもの》に用《もちゆ》ること、月次《つきなみ》のことを記しゝ物にも、唯《ただ》、其形、米俵に似たる物故、「俵子」と呼《よび》て用る由《よし》云《いへ》り。俵の形したらん者はいくらも有《ある》べきに、之を用るは、農家より起こりし事と見ゆ。庖丁家《はうちやうか》の書《しよ》に、『米俵は、食物を納《いる》る者にて目出度《めでたき》物故、「俵子」と云名を取《とり》て用ゆる也。』と。』と。[やぶちゃん注:以上の「。』と。』と。」の部分は私が特に追加して表現・表記上、問題が生じないように添えたものである。まず、①実際の「嬉遊笑覽」原本には「と」は存在しないことと、②原本では、ここで、一回、条が切れて、直後に「鼹鼠(ウゴロモチ)」の条が改行して続くからであり、(後注でリンクで示す)さらに、③以下の「次に、」は「嬉遊笑覽」にある言葉ではなく、熊楠自身の挿入した台詞だからである。]次に、『田鼠《うごろもち》うちとて、沙噀を繩に結付《むすびつけ》、地上を引《ひき》まじなう事、有《あり》。「鼹鼠《うごろもち》、之を怖る。」と云《いへ》り。仙臺にては、子供等、是を「地祭《ぢまつり》」迚《とて》、「もぐらもちは内にか、なまこ殿のをどりぢや。」と、云《いひ》て、錢を乞《こひ》ありく。長崎の俗、正月十四日、十五日、「むぐら打ち」とて、町々の男兒共、竹の先に稻藁《いなわら》を束《たば》ね結《むす》びたるを持《もち》、家々の門《かど》なる踏石《ふみいし》を打ち、「むぐら打《うち》は科《とが》無し、ほうの目々々々々[やぶちゃん注:底本は「々」は二箇所しかないが、かく、した。]、と祝して錢を乞ふ戲有り。」。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」は岩波文庫で所持するが、何度もの経験から、南方熊楠の所蔵していた同書は岩波文庫版の親本とは違う、内容が有意に異なる版本であり、熊楠の引用と極めてよく一致するものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本であり、その当該部がここ(左ページ冒頭の二条)である。それと一応は校合したが、熊楠はひらがなの一部を勝手に漢字化し、送り仮名も自分勝手にカットしてしまっているため、本当は原拠に完全に従うべきところであるが、あまりに自然流の変形を確信犯で行っていることから、熊楠流の部分は、ほぼ、そのままとしておいた。

 是等を合《あは》せ攷《かんが》ふると、昔しは、大人もせし行事で、節分にする所と、上元[やぶちゃん注:陰暦正月十五日。]にする所と、有《あつ》たと知《しれ》る。海鼠を虎子《とらご》と云ふのは、「笑覽」の說ごとく、「俵」の形故、「俵子《たはらご》」と云ふを、訛《なまつ》ての名か、又、寧ろ、海鼠の背が、虎に似て居る故か。何《いづ》れにせよ「漫稿」に、今夜のみ、「なまこ」と言《いは》ずに、「虎子殿」と云《いふ》と、あるは、正月建ㇾ寅〔正月、寅(いん)を建つ。〕の義に緣《ちな》んだらしい。「寅」の獸《けもの》たる「虎」は「百獸の君」ぢやに因《よつ》て、「虎子」てふ「海鼠」で「田鼠」を威壓する意味だつたろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「正月建ㇾ寅」「建寅」(けんいん)は、北斗星の斗の柄が、初昏に、寅の方位を指す時を言い、それが起こる月、陰暦正月のことを指す語である。]

 老友エドワルド・ピーコック、言ふ、英國トレント河畔の俗、田鼠を捉ふると、殺して柳の枝に懸《かく》る、と。和歌山邊の畑中にも、竿《さを》に、田鼠の屍《かばね》を釣り下げる事、有り。何れも威《おど》しの爲らしい。獨人モレンドルフ說に、「遼史」に新年に、田鼠を燒いて、年中の災《わざわひ》を禳《はら》ひし事を載すとは、本邦の「田鼠打ち」に似て居る(五年前、明治四十一年十二月五日、龍動《ロンドン》の『隨筆問答雜誌』[やぶちゃん注:熊楠御用達の‘Notes and queries’のこと。]、予の「死《しん》だ動物を樹や壁に懸る事」を見よ)。熊野の人、古來、狼を獸中《けものぢゆう》の王とし、鼠に咬まれて、寮法、盡きた者が、狼肉《おほかみのにく》を、煮食《にく》へば癒《いゆ》ると、信じた。虎子で、田鼠を威壓するのと、一規だ。

[やぶちゃん注:「エドワルド・ピーコック」不詳。

「死だ動物を樹や壁に懸る事」同誌の一九〇八年十二月五日号に載った、‘DEAD ANIMALS EXPOSED ON TREES AND WALLS’。「Internet archive」のこちらの合冊の「457」ページの右下方から原投稿が視認出来る。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「日本の天然傳說」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○日本の天然傳說(二號八九頁)三國世所譯〔三國の世に譯す所(ところの)〕、「六度集經」八に、諸佛明化、以ㇾ色爲ㇾ火、人爲飛蛾、蛾貪火色、身見燒煮。〔諸佛の明化(みやうけ)するや、色を以つて火と爲す。人は飛蛾と爲(な)り、蛾は火色(くわしき)を貪り、身を燒煮(しやうしや)せらる。〕「符子」に、不ㇾ安其昧、而樂其明、是猶夕蛾去ㇾ闇赴ㇾ燈而死者也。〔その昧(くら)きに安んぜず、其の明るきを樂しむ。是れ、猶、夕べの蛾の闇(やみ)を去りて、燈(ともしび)に赴きて死する者なり。〕佛、滅後七百年に成《なり》し「坐禪三昧法門經」卷下に、欲是爲ㇾ患、求是既苦、得ㇾ之亦苦、多得多苦云々、如蛾赴一ㇾ火。〔『是れを欲して患ひを爲し、是れを求むる時、既に苦しく、之れを得て、亦、苦し。多く得て、多く苦しみ』云々、『蛾の、火に赴くがごとし。』〕晉の支曇諦「赴火ㇾ蛾賦」〔火に赴く蛾の賦〕に、悉達言曰、愚人貪生、如蛾投火〔悉達(しつた)の言ひて曰はく、「愚人、生を貪(むさぼ)るは、蛾、火に投(なげい)るがごとし。」と。〕。釋尊、在世、自ら火に投ずる蛾を、愚人に譬ふる言《げん》は、既に有《あつ》た事らしい。

 デーンハルトが、『夏の蟲が螢に惚れて』云々と、日本話《にほんばなし》を擧げたのは、「光る蟲」と通辨したのを、「玉蟲」の意と知らず、早計で、「螢」と斷じたのだろ。本邦、何《ど》の地でも、「飛んで火に入る夏の蟲」と云《いつ》て、强《あなが》ち、燈蛾《ひとりむし》に限らぬ樣だが、火を求《もとめ》て油に溺れ死ぬのは、蛾が、一番、多い。玉蟲に惚た[やぶちゃん注:ママ。]と云ふが、螢にとは言《いは》ぬ。古く法隆寺に「玉蟲の厨子」有り。屋島合戰に、建禮門院の雜司《ざうし》玉虫の前[やぶちゃん注:ここ以降、「蟲」ではなく、「虫」と表記されて終わるのはママ。]、當年十九歲、雲鬟霞眉、扇の的を船頭《ふながしら》に立《たて》て、紅《くれなゐ》の扇、水に漂う面白さに、玉虫は「時ならぬ花や紅葉を見つる哉芳野初瀨の麓ならねど」と卽詠したとは、才色雙全の別嬪だ(「盛衰記」四二)。天正十年[やぶちゃん注:一五八二年。]の䟦《ばつ》[やぶちゃん注:「跋」の異体字。]ある「玉虫の草紙」は、諸虫が玉虫を慕ひ、戀歌を贈つた譚だ。其内に蝶が見えぬは、優しい者故、女性と見立てたのだろ。扨、蝶に緣《ちな》んで蛾も見えぬのか、但しは、其頃、燈蛾が、特に多く、火に入ることに氣が付《つか》なんだのか、一寸、解らぬ。「類聚名物考」二六七に據ると、紀州の三浦男[やぶちゃん注:男爵の略。]の先祖が作つた、「あだ物語」とて、諸鳥が「うそ」鳥を戀ふ譚もある由。〔(增)是は光廣卿の序を添《そへ》て後水尾法皇の御覽に入《いれ》しものといふ。明治四十三年[やぶちゃん注:一九一〇年。]刊行『近世文藝叢書』第三に收む。いと面白く書《かか》れある。)

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭標題の下に編者注があり、『高木敏雄「日本の天然伝説」』への論考であることが示されてある。

「六度集經」は「大蔵経データベース」で校合し(問題なし)、「符子」(この書、不詳)のそれは、「維基文庫」の李昉らの編になる「太平御覽」の引用部をそこにある影印本の画像で校合した(「者」を熊楠は落としているので訂した)。また、「坐禪三昧法門經」については、「大蔵経データベース」で見つからなかったため、臺灣大學作成の「坐禪三昧經」CBETA 電子版・PDF一括版)で校合した(表字が異なるので、リンク先のものに代えた箇所がある)。支曇諦の「赴火蛾賦」は、ネットでダウン・ロードした新亞研究所教授何廣棪氏の中国語の論文「支曇諦〈赴火蛾賦〉與鮑照〈飛蛾賦之〉比較研究」(『古典文學』(雑誌名は推定)二〇一八年八月号)の中で諸本を校合した同賦に従ったため、熊楠の示したものとは、全く異なる(言っている意味は同じ)。

「デーンハルト」不詳。

『「盛衰記」四二』国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文学大系』第十六巻「源平盛衰記」下巻(大正一五(一九二六)年国民図書刊)のこちらで、当該箇所が読める。全体の標題は「屋島合戰玉蟲扇を立て與一扇を射る事」である。

「玉虫の草紙」所謂、「御伽草子」の一つ。虫を擬人化したお伽話で、この異類物御伽草子中では、虫を扱ったそれの最古のものとされる。国立国会図書館デジタルコレクションの『新釈日本文学叢書』第二輯第七巻のここから視認出来る。電子化されたものがよければ、こちらの「玉蟲の草紙」(正字正仮名)がよい。ここは、嘗つて電子テクストを無暗に蒐集していたネット前半生中、しょっちゅう伺ったサイト「Taiju's Notebook」内の「日本古典文学テキスト」の中にある。

『「類聚名物考」二六七』江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(左ページ三行目から)。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「蝶を咏める」賈蓬萊

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  蝶を咏める

            薄 翅 凝 香 粉

            新 衣 染 媚 黃

            風 流 誰 得 似

            兩 兩 宿 花 房

          賈蓬萊

 

かろき翅のおしろいや

黃にこそにほへ新(にひ)ごろも

みやびは誰か及ぶべき

花を臥戶(ふしど)にふたり寢るとは

 

   ※

賈蓬萊 宋朝。未詳。

   ※

[やぶちゃん注:標題は中文サイトで確認したところ、佐藤の訓読の通りで「咏蝶」であった。

「誰」は「たれ」と清音で読みたい。

「寢る」は「いぬる」では韻律が悪いので、「ねる」と読みたい。

  推定訓読を示す。

   *

 蝶を咏(よ)む

薄き翅(はね)もて 香粉を凝(こ)らし

新しき衣(ころも)は 媚(なまめ)かしき黃(わう)に染めたり

風流 誰(たれ)か 似たるを得んや

兩兩(ふたりなが)ら 花(はな)を房(ばう)として宿(やど)れる

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一〇番 泥棒神

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一一〇番 泥 棒 神

 

 昔正直な男があつた。橫田の町(遠野町)の大鶴堰《だいかくぜき》と云ふ田圃路へ田の水見《みづみ》かなんかに行くと、何處からともなく妙な笛太鼓の囃子の音が聞えて來た。どうも其が幽かで不思議なので、其音をたよつて行くと、何でも堰《せき》に架《かか》つた古橋《ふるばし》の下の邊《あたり》らしく、覗いて見ると其所に小さな人形が居た。

 其男は、歌を唄つたりする人形だもんだから、窃《ひそ》かに其を拾つて來て家の誰にも氣づかれないやうな所に匿《かく》して置いた。ところが、どうも其人形の顏が見たくなつて堪《たま》らない。人形を見ると盜みがしたくて堪らなかつた。其の人形をふところへ入れて物を盜むと、何一つとして意《い/おもひ》のようにならぬことはなく、大びらに人の前で盜(ト)つても、決して人に氣づかれる事がなかつた。そして泥棒がとても樂しみになり、每日每夜それを巧みに行(ヤ)るので、家財も日增《ひまし》に殖えて、忽ち有福な生活向きとなつた。

 ところが每日每夜、町から在鄕へかけて物が頻繁に盜まれる。それに某《なにがし》は夜も晝も家に居らず出步いて居た、誰某《だれがし》は夜明けに歸つて來たのを見たとか、昨夜は斯《か》う云ふ物を背負つて居たとかと、其男について變な評判が立つやうになつた。愈々此頃ハヤル泥棒は某だと云ふ嫌疑がかゝつた。それを聞いた本家の主人が來て、此頃《このごろ》お前の事で大變騷いでゐるやうだが、今に重い刑罰(シオキ)を受けるから、今の中《うち》に改心しろと嚴(キツ)い意見をした。そして色々な話の末に某は遂に包み切れず、大鶴堰で不思議な人形を拾つてからの事を話して、其小人形を元《もと》在つた所へ棄てた。すると又もとの正直一方な男となつた。

(此話は大正十四年三月蒐集した物、話者岩城氏の話の九。奧州には泥棒神が小人形であつた話が、「江刺郡昔話」の中の五郞が欠椀《かけわん》のお蔭で出世したと謂ふ話などは村では欠椀と話すが、別に小さな人形コであつたとも云ふのもある。とにかく泥棒神なるものは器具や人形を拾つてから取つつくと謂ふのである。)

[やぶちゃん注:附記は、例によって、同ポイントで引き上げた。「欠椀」の「欠」の新字はママ。

「橫田の町(遠野町)」この地名は戦前の地図でも見当たらないが、グーグル・マップ・データの「横田城」及び「松崎町横田の石碑群」の附近と思われる。

「大鶴堰」の読みは、国立国会図書館デジタルコレクションの宝文館出版一九七四年刊「佐々木喜善資料 遠野のザシキワラシとオシラサマ」の「屋内の神の話」のここに同じ内容の話が佐々木によって記されており、そこに『大鶴(だいかく)堰』ルビが振られていたのに従った。また、しばしばお世話になるdostoev氏の「不思議空間「遠野」―「遠野物語」をwebせよ!―」の『遠野不思議 第八百三十六話「不気味な人形」』に「佐々木喜善資料 遠野のザシキワラシとオシラサマ」の同話を紹介された(但し、同書のものは後年出た別種も確認したが、文章は敬体であるから、或いはdostoev氏が常体に書き直され、手を加えられたものかとも思われる)を後、「大鶴堰」がどこにあるかを考証され、『「遠野市史(第三巻)」「町内用水堰と栃洞堰」に、その大鶴堰が載っていた。「鶯崎に水門を設けて水流を規制し、堰を造って現在の新屋敷を通って穀町に入らせるよう用水堰を設け、一日市町を経て新町の入り口で来内川に落とすようにして、これを大鶴堰と名付けた。」とあった。この大鶴堰は阿曽沼時代で鍋倉山に城を移転してからという事なので』、十七『世紀後半の頃であったろう』とされ、『鶯崎から始まる大鶴堰の終点は新町の入り口であるようだが、現在「とおの物語の館」から似たような感じに、堰から川へと落とすように造られている』。『実際は、新町の入り口に落すように…と記されているので、画像の場所あたりに、大鶴堰の落とし口があったのだろう』(リンク先に写真有り)。『人形に憑かれた男は、田を見に行っての事だったが、田圃は新町の裏側で猿ヶ石川沿いから愛宕にかけてあったようだが、稲荷下近辺から鶯崎近辺にある初音橋の辺りまで、かなり広い田圃があったようだ。物語の記述から、どうもひと気の無い場所の様であるから、新町の大鶴堰の終点から町中にかけては恐らく違うだろうという事で、この物語の場所は鶯崎での事件だったのかもしれない。堰にかかる橋は、立派な橋では無く粗末な小さな橋であったろうと想像する』と述べておられる。「ひなたGPS」では、現在の鶯崎町はここである。なお、以下、呪具としての人形の、この大鶴堰に纏わる『祓の行事』のことが書かれてあるが、引用が長くなったので控える。是非、引用元を参照されたい。

『「江刺郡昔話」の中の五郞が欠椀のお蔭で出世したと謂ふ』戦前の『炉辺叢書』版の原本で国立国会図書館デジタルコレクションのここから「五郞が缺椀のお蔭で出世したと謂ふ話」が読める。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「鷄鳴の爲に鬼神が工事を中止した譚」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○鷄鳴の爲に鬼神が工事を中止した譚(一號五八頁及び三號一八一頁)紀州西牟婁郡富士橋村の、陸から大島に向ひ、海上二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]許りの間、一行に細く高く尖つた大岩が立《たち》續いて居る。「橋杭岩」と云ひ、近處に弘法大師の堂が有る。昔し、大師、一夜に、此海上に橋を渡さんとて、杭を打つ中《うち》、鷄が鳴《ない》たので、半途、中止したと云ふ。伊豫に「切懸地藏」とて、生きた樟《くすのき》の幹に彫付《ほりつけ》た半成《はんでき》の地藏尊像あり。是も、弘法が細工中、鷄鳴の爲、中止したんだ相《さう》な。「奧羽觀跡聞老志」四に、苅田《かつた》郡小原村の「材木岩」は、建築の諸部に似た、岩石、無數、積み重なつた希世の壯觀だ。昔し、飛驒の工匠《たくみ》、一夜に不動堂を建てんと、かゝつた處ろ、夜、短くて、仕上らず、怒つて、折角しかけた諸材木を、谷になげ込《こん》だのが化石した、とある。備後の帝釋山にも、山鬼が、石橋を渡しかけて、鷄鳴の爲め、中止した跡有りと、黑川道祐《くろかはだういう》の「藝備國郡志」下に見ゆ。

 「テウトン」民族には、一八四三年伯林《ベルリン》出板、クーンの「マルキッシェン・サーヘン」一九六章に、パールスタイン村の一大工が、湖邊を迂回して、仕事に往復するを、不便とし、「魔が、一番鷄のなく迄に、其湖を橫切《よこぎつ》て、堤《つつみ》を築いたら、自分の魂をやろう。」といふと、魔、快諾して、築きにかゝつた。大工、見ておると、仕事が速くて、どうやら一番鷄がなかぬ内に出來上りそう[やぶちゃん注:ママ。]だから、今更、魂をやるのが恐ろしくなり、一計を案じて、鳥部屋に入《はいつ》て、鷄を起すと、南無三、夜が明けたと、鳴出《なきだ》した。魔は、欺かれたと知らず、「是は、したり。夜が、あけた。」と燒糞に成つて、手前の石材を、なげ散《ちら》したので、その堤は、不完成のまゝ現存す、と出づ。又、一八四九年三月の『印度群島及東亞細亞雜誌』に、リグ氏言《いは》く、瓜哇《ジャワ》に、梵敎、盛《さかん》なりし時、「ジャングガラ」の無月信《キリスチ》女王は、男知らずの英主だつたが、隣邦の王に婚姻を逼《せま》られた時、「『ヰリス』・『ロロトツク』兩山の間の大谷を、堰止《せきとめ》て、一夜間《ひとよのあひだ》に、湖と做《し》たら、汝の妻たらん。』と言《いつ》た。隣邦王、諾《だく》して、工事に掛ると、女王の念力で、工事央《なか》ばに、夜が曉《あ》け、堤、破れて、男王を埋殺《うめころ》した。

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭標題の下に編者注があり、「一號五八頁」は『中西利徳「岩の掛橋」』への、「三號一八一頁」の方は『真崎芳男「男鹿神社」』への論考であることが示されてある。

「紀州西牟婁郡富士橋村」「富士橋村」は「富二橋村」(ふじばしむら)が正しい。現在の東牟婁郡串本町(くしもとちょう:グーグル・マップ・データ)中心部の北方一帯に相当する。

「橋杭岩」ここ(同前)。サイド・パネルの画像を見られたい。私の車窓から眺め、何時かまた来たいと思った場所である。

「弘法大師の堂」橋杭岩の岩列の海岸端に今もある。ここ(ストリートビュー)。但し、大師が湧き出させたとする温泉に併設されている添物町って感じ。

『伊豫に「切懸地藏」とて、生きた樟の幹に彫付た半成の地藏尊像あり』まさかと思ったが、あることはある。「愛媛県観光物産協会」の「いよ観光ネット」の「切山(生き木地蔵)」のページに、所在地を愛媛県四国中央市金生町(きんせいちょう)山田井(やまだい:グーグル・マップ・データ)とし、『深い山中でひときわ異彩を放つ弘法大師の化身』という標題で、『平家伝説の残る切山地区山中にある生きたカゴの木に彫られた地蔵像。江戸時代中期に彫られ、拝めば』、『耳の病気が治ったり』、『願いが叶うと』、『多くの人々の信仰を集めた。長い間』、『祈願されてきたが、母体の木が枯れてしまい』、『現在の像に跡を譲ることになった。言い伝えでは、弘法大師の化身とも言われ、全国でも稀な仏像として注目を集めている』とあった(にしてもこの解説、「弘法大師の化身」「平家伝説」「江戸時代中期に彫られ」たブットんだ時間をこの短い中でギュッと短くしてあるのには脱帽じゃ)。ここに出る「カゴの木」とは、クスノキ目クスノキ科ハマビワ属カゴノキ Litsea coreana であるから、熊楠の「樟」は科のタクソンでクスノキであるから誤りではない。

「奧羽觀跡聞老志」(おううかんせきもんろうし)は享保四(一七一九)年に成立した仙台藩地誌。仙台藩主四代伊達綱村の命により藩儒で絵師でもあった佐久間洞巌(承応2(一六五三)年~享保二一・元文元(一七三六)年:本名は佐久間義和)によって書かれた。領内をくまなく踏査したもので、一度、宝永四(一七〇七)年に、草稿を焼失してしまったが、猶、書き継いで完成させた。名跡・故事・社寺等を、和歌・物語・伝説等によって浮彫にし、単なる地誌的記述に終わらず、領内の歴史・伝承や文化的遺産を明らかにしようとしており、藩撰地誌の嚆矢とされる名品である全二十巻(『日本歴史地名大系』に拠った)。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの『仙台叢書』第三巻(昭和三(一九二八)年刊)の活字本で調べた。「名蹟類一」の冒頭に、旧刈田(かった)郡が掲げられているのだが、原本では「材木岩」ではなく、「屋料巖(サイモクイハ)」と項立てされているため、見つけるのに少し戸惑った。この左ページ上段後ろから三行目以降。かなりしっかり書かれてあるので一見をお勧めする。全文漢文だが、訓点が綺麗に打たれてあるので、読み易い。飛驒の内匠の伝説は、最後に段落を改めて次のページにかけて記されてある。

『苅田郡小原村の「材木岩」』現在の宮城県白石(しろいし)市小原上台(おばらうわだい)にある天然記念物の「小原の材木岩」(大規模な柱状節理:グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの画像も見られたい。「宮城県」公式サイト内の「指定文化財〈天然記念物〉小原の材木岩」によれば、『白石川の左岸にあり、高さ100m、長さ200mほどの範囲に石英安山岩、角閃石に属する岩脈が続き、五角・六角・多角形など、さまざまな柱状節理を示し、材木を立て並べたように見える。昔、飛騨工匠が一夜のうちに不動堂を立てようとしたが夏の夜は短く、もう一息のところで夜が明けてしまったので、材木片を河中に投じて去った。それが岩と化して材木岩となったという言い伝えがある』とある。

「備後の帝釋山にも、山鬼が、石橋を渡しかけて、鷄鳴の爲め、中止した跡有りと、黑川道祐の「藝備國郡志」下に見ゆ」現在の広島県帝釈峡の中の広島県庄原(しょうばら)市東城町(とうじょうちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど)の地名となっている自然の形成した岩橋。国立国会図書館デジタルコレクションの『備後叢書』第二巻のここの左ページの「寺觀門」の、二条目の「帝釋天」が、帝釈峡の解説となっており、最後から七行目の箇所に『未渡(ミトノ)橋』として、この山鬼の未完譚のそれが出ている(漢文概ね返り点のみ)。

『「テウトン」民族』チュートン人(Teuton)。狭義には、古代ゲルマン人の一派テウトネス族(TeutonesTeutoni)を指す。彼らはユトランド半島に住んでいたが、浸食や高波による土地荒廃のため、隣接するキンブリ族(Cimbri)とともに南方移動を開始し、紀元前一一〇年頃までには、ヘルウェティイ族(Helvetii:スイス中部に住んでいたケルト系部族)の一部も加えて、ライン川に達し、ガリアへ侵入した。紀元前一〇五年には、「アラウシオの戦い」でローマ軍勢を全滅させ、ローマを震憾させたが、その後、キンブリ族は別行動をとってスペインへ向かった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

   *

 なお、以下、「クーン」から後のカタカナ表記の人名・書名を含む諸固有名詞は、一応、調べたが、総て不詳であった。向後、こうした「見出せなかった」「不詳」を示す注も馬鹿々々しいので省略する。悪しからず。]

2023/06/14

「新說百物語」巻之三 「猿蛸を取りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   猿蛸を取りし事

 大坂に「箔や嘉兵衞」といふ人あり。

 年々、西國へあきないに下りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、又、あるとし、いつもの通り、西國へ下りて、安藝の宮嶌《みやじま》へ參詣の心さし[やぶちゃん注:ママ。]ありて、舟に乘りたり。

 宮嶌の三里はかり[やぶちゃん注:ママ。]手前にて、その舩《ふね》のせんとう[やぶちゃん注:ママ。]、いふやう、

「さてさて、をのをの[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]は、仕合せなる事かな。めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]事を見せ申さん。半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]より、むかふの岩のうへに、一疋の猿、座《ざ》し居《ゐ》たり。よくよく、目をとめて見給へ。猿の、蛸を取るにて侍る。稀には見る事もあれとも[やぶちゃん注:ママ。]、めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]事なり。」

と、かたりける。

 舩中、いつれ[やぶちゃん注:ママ。]も、船をとめて見居たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、その一疋の猿のうしろに、いくらともなき猿、あつまり、一疋のさるを、うしろより、とらまへ、居《をり》ける。

 その時、海中より、何やらむ、しろきもの、

「ひらひら」

と、出《いで》ては、はいり、又、はいりては、出る。

 終《つひ》に、そのしろきもの、猿の首に打ちかけたり。

 其とき、あまたの猿とも[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、ちからを出《いだ》し、一疋の猿を、ひきけれは[やぶちゃん注:ママ。]、海中のしろきものも、一所に引上《ひきあげ》たり。

 おゝき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なる蛸にてぞ、ありける。

 そのゝち、あまたの猿とも、彼《かの》蛸をくひちきり[やぶちゃん注:ママ。]、ひきはなしければ、彼《かの》一疋のさる、殊の外、くたひれ[やぶちゃん注:ママ。]たるけしきにて、砂の上に、ふし居《ゐ》たり。外のさるとも、あつまりて、取《とり》たる蛸を、かみきりて、先《まづ》おゝきなる足、一本、ふしたる猿の枕もとに、をき[やぶちゃん注:ママ。]、その頭《あたま》[やぶちゃん注:生物学的にはタコの胴部分。]を、ちいさく、くひきり、一疋つゝ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]わけ、くらひて、ひと声つゝ、山手の方へ、迯歸《にげかへ》りけり。

 跡にて、ふしたる猿、やうやう、おきあがり、蛸のあしにも、目もかけす[やぶちゃん注:ママ。]、ぼうせん[やぶちゃん注:ママ。「茫然」。]として居《をり》たりけるが、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、蛸のあしを、手に持《もち》て、ひよろひよろと、しつかに[やぶちゃん注:ママ。]、あゆみ、をのをの歸りし道に、かへりける。

 近き頃の事にて、嘉兵衞、みづからかたり侍りし。

[やぶちゃん注:タコは悪食(あくじき)であり、獰猛であるが、流石に、磯の岩場にいる猿を襲うという話は、聴いたことはない。しかし、真面目に、岸辺の犬や猿どころか、人をも襲うと書いている江戸時代の文献はあり、その中には当時の博物学者の書いた本草書さえも含まれているのである。そこまでいかなくも、未だに、「タコが夜間に上陸して畑のジャガイモを食べる。」と、心底、信じている人も、有意に、いる、のである。「日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹」の「水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり」の私の注を引用しておく(多少、手を加えた)。

   *

 これは、タコのかなり知られた怪奇談であるが、私は完全に都市伝説の類いであると断じている寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚」にも、『一、二丈ばかりの長き足にて、若し、人、及び、犬、猿、誤りて、之れに對すれば、則ち、足の疣、皮膚に吮着(せんちやく[やぶちゃん注:吸着。])して、殺さざると云ふこと無し。鮹、性、芋を好(す)き、田圃に入り、芋を掘りて、食ふ。其の行(あり)くことや、目を怒(いか)らし、八足を踏みて立行(りつかう)す。其の頭、浮屠(ふと[やぶちゃん注:ここは僧侶の坊主頭のこと。])の狀のごとし。故に俗に「章魚(たこ)坊主」と稱す。最も死に難し。惟だ、兩眼の中間[やぶちゃん注:ここに脳に当たる神経叢があるので正しい仕儀である。]を打たむには、則ち、死す。』とあるが、そこで私は次のように注した(古い仕儀なので、一部を修正・省略した)。これを修正する意志は私には全くない

   *

「性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて、食ふ」は、かなり人口に膾炙した話であるが、残念ながら私は一種の都市伝説であると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。寺島良安の「和漢三才図会 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚 たこ」の章にも『性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ』とあり、そこで私も以前、長々と注した。 また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では、西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかし、この人は、知る人ぞ知る、御岳山で人魂を捕獲しようとしたり(飯盒に封じ込んだが、開けて見ると消えていたともあった)、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまう人物である。いや、その方面の世界にいる時の私は実はフリークともいえるファンなのだが。因みに、彼は母方の祖父の弟が島崎藤村で、兄に西丸四方(しほう)と島崎敏樹(共に精神科医)がいる)。実際に全国各地でタコが畠や田んぼに入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろう。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコ……じゃあない、イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚なく泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていた)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。たとえば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり(これは実際にある)、漁獲された後に逃げ出したタコが、畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは「海の忍者」と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、極めて数十センチメートルの大型の個体が、蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることは頓に知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ、極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(クロダイはサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等々といった辺りこそが、この伝説の正体ではないかと思われるのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、是非、見たい! 信望者の方は、是非、実写フィルムを! 海中からのおどろどろしきタコ上陸! → 農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿! → 腕足を驚天動地の巧みさで操りながら、器用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ! → 「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ! だ!(円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが、突けど、触れど、一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、「生き物はこりごりだ」と言ったと聴く)。

   *

――脱線――御免――]

「新說百物語」巻之三 「縄簾といふ化物の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。標題は「なはれん」と読んでおく。]

 

   縄簾といふ化物の事

 京城《けいじやう》の物に、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なる事、むかしより、あり。

 雨など、そほふる[やぶちゃん注:ママ。]夜、其所を通れは[やぶちゃん注:ママ。]、なにやらん、㒵《かほ》へ悬《かか》るものあり。[やぶちゃん注:「悬」は「懸」の異体字。]

 なわ[やぶちゃん注:ママ。]のうれんのごとくなり。とかく㒵へかゝりて、むかふへ、行《ゆき》かたし[やぶちゃん注:ママ。]

 無理に過行《すぎゆけ》れは[やぶちゃん注:ママ。]、又、うしろより、からかさの、ろくろを持《もち》て、ひきとめ、うこかせす[やぶちゃん注:総てママ。]。とやかくして、行《ゆき》れは[やぶちゃん注:ママ。]、あとは、なにの、さはりも、なし。

 むかしより、今にいたりて、たへす[やぶちゃん注:ママ。]、幾人も、あひたる人の、噂にて侍る。

[やぶちゃん注:古くから今にある京都の都市伝説である。ちょっと痛いのは、最後で、作者自身は、この年になるまで、その「縄簾の怪」に逢ったことがない点である。なお、妖怪サイトのこちらに、本話を紹介し、さらに類話も添えてある。

「京城」京の都。

「のうれん」「暖簾(のれん)」に同じ。「暖」は唐音で「ノン」「ノウ」で、その「のんれん」「のうれん」が変化して「のれん」となったもの。]

「新說百物語」巻之三 「槇田惣七鷹の子を取りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   槇田惣七鷹の子を取りし事

 都の西、嵯峨の邊に、纖田惣七といふ浪人あり。

 常に山㙒にいたり、殺生なと[やぶちゃん注:ママ。]しけるが、山城と丹波のさかひに俗に、「龍門」といふ所あり。

 其所に、殊にすくれ[やぶちゃん注:ママ。]ておゝき[やぶちゃん注:ママ。]なる大木の松あり。

 その梢に、ひとつの鷹、巣を作りて、子を、うみける。

 惣七、その鷹の子を、ほしく思ひけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、大木の事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、是非なく、杣人《そまびと》を、やとひて、其子をとらせ、持《もち》かへりて、そたて[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 又、あけの日、其所にいたりてみれは[やぶちゃん注:ママ。]、彼《かの》親鷹、物かなしくなきて、巣をめくり[やぶちゃん注:ママ。]て、かなしむけしきなり。

 歸りて、友たちなとかたりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、一人のいふやうは、

「鷹の子を取りては、そのあとヘ、紅(へに[やぶちゃん注:ママ。])の手拭(てぬくひ[やぶちゃん注:ママ。])を、かはりに、いれをく[やぶちゃん注:ママ。]ものなり。さすれは[やぶちゃん注:ママ。]、親鷹、尋ねす[やぶちゃん注:ママ。「尋ねず」で「所在のわからなくなったものをさがし求めようとはしない。」の意。]。」

と、かたりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、又々、杣人を、やとひて、紅の木綿《もめん》を、三尺斗《ばかり》入れ置《おき》たり。

 其日より、彼《かの》親鷹、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へやらん行きて、かなしむ声も、やみにける。

 そのゝち、十日はかり[やぶちゃん注:ママ。]も過きて[やぶちゃん注:ママ。]、惣七、ふと、表へ出《いで》けれは[やぶちゃん注:ママ。]、鷹、一羽、來たりて、何やらん、口に、くはへ、家のうへを、幾《いく》かヘりも、飛《とび》めくり[やぶちゃん注:ママ。]て、惣七か[やぶちゃん注:ママ。]前へ、くはへし物を、落して、そのまゝかへり、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へとも、しらす[やぶちゃん注:ママ。]なりにけり。

 その物を、取上《とりあげ》みれは[やぶちゃん注:ママ。]、さいせん[やぶちゃん注:ママ。「最前」。]、巢の内へ、いれをき[やぶちゃん注:ママ。]し、紅の手拭に、琥珀(こはく)を、つゝみて、おとしたり。

 悬目《かけめ》六十匁ありけるよし。[やぶちゃん注:」は「懸」の異体字。「掛目(かけめ)」で秤(はかり)にかけて量(はか)った正確な重さ。「量目」(りょうめ)。当初、「鳥目」(てうもく(ちょうもく))と判読したが、「鳥目」は「銭」(ぜに)の意で、「重さ」の意はないので、不審に思い、「続百物語怪談集成」を見たところ、この「」の異体字で「グリフウィキ」のこちらが当ててあったことから、「懸」の異体字を調べたところ、確かにこれに酷似するものが、あった。「懸」としてもいいと思ったほどだが、ここは以上の判読の経緯を示して、かく表字しておいた。「六十匁」は二百二十五グラムである。

 何《いづ》かたより、取り來たりけるやらむ、極上の琥珀のよし。

 その琥珀を見たる人、かたり侍る。

[やぶちゃん注:実話仕立てであるが、また聴きで、信憑性は下がる。また、何故、子を捕られた鷹が、この槇田に琥珀を届けた真意が、如何なる辻褄を以ってしても、解明出来ず、仮に奇談実話としても、肝心な核部分が全くのブラック・ボックスで、何やらん、読後の消化が悪いのである。異類のやることは人知では解明出来ないなどと言われても、やはり、因果的でも科学的でも似非科学的でもよいから、そこを示すか、嗅がせてこその怪奇談であろう。作者にこれを話した人物のデッチアゲの変奇創作だったとしても、どうも一抹の、その人物の人間としての偏頗したキビの悪さが、いっかな、拭えないのである。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「怨ごと」景翩翩

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  怨 ご と

            豈 曰 道 路 長

            君 懷 自 阻 止

            妾 心 亦 車 輪

            日 日 萬 餘 里

                  景 翩 翩

 

通ひ路いかで遠からむ

みこころゆえぞ通はざる

わが思ひこそめぐる輪の

日日に千里をたどれるを

 

   ※

景翩翩  十六世紀中葉。 明朝。 建昌の妓女。 字は三昧(さんまい)。 四川の人。 閩人(びんじん)といふのは誤であるらしい。 後に嫁して丁長發の妻となつたが、丁は人の爲めに誣(し)ひられて官に訴へられた時、景は竟(つひ)に自ら縊(くび)れた。その集を散花吟と名づけたといふのが、讖(しん)をなしたかとも思へて悼ましい。 才調の見るべきものがあると思ふ。

   ※

[やぶちゃん注:「景翩翩」は「けいへんへん」と読む。

「ゆえ」はママ。講談社文芸文庫版では『ゆゑ』と訂されてある。

「閩人」福建省の古い呼称が「閩」で、そこ出身の人。

「讖」予言。予兆。ここは凶兆。

・「怨ごと」講談社文芸文庫版では、「怨(か)ごと」とルビが振られてある。「託言(かごと)」で、「言い訳・口実」、「不平・愚痴・恨み言(ごと)」。ここは後者。

・「通はざる」「かよはざる」。「私のところへはやって来られないのですね」の意。

   *

 本篇は邦文記事には見当たらない。中文(繁体字版)のサイト「中華古詩文古書籍網」の「景翩翩的詩詞全集」のこちらで発見した。標題は「怨辭」で二首の其の一である。推定訓読を示す。

   *

 怨辭(ゑんじ)

豈に曰(い)ふに路の長きを道(い)はんや

君が懷(おも)ひの 自(みづか)ら 阻(さまた)げて止(や)めん

妾(わらは)が心は 亦(また) 車の輪にして

日日(ひび) 萬餘里たり

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一九番 オベン女

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      一一九番 オベン女

 

 昔、橋野村にオペンと云ふ女があつた。家の前の澤川で大根を洗つて居たら、ピカピカ光る物が沈んでゐた。拾ひ上げて見たらそれは黃金であつた。

 オベンはこれはきつと此の川上に黃金があるに違ひがないと思つて行つて見ると、川上の六黑見(ロクロミ)山に思つたとほりの黃金があつた。

 この話を聞いた惡者が、自分一人の物にしやうとオペンを殺した。後で村の人々がオベンを辨天樣に祀つた。その辨天山に男が登れば今でも雨が降つて來る。

  (上閉伊郡栗橋村地方の話。菊池一雄氏の御報告分の八。)

[やぶちゃん注:「橋野村」現在の釜石市橋野町(はしのちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。山間部である。

「六黑見山」「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、嘗つては、事実、この山に『六黑見山金山』があったことが判る(国土地理院図に現在は『廃坑』とある)。

「辨天山」不詳だが、先の「ひなたGPS」の旧金山のすぐ東に『829.1』のピークがあるので、ここか。なお、この沢筋を登ると、『高前鉄坑』があり、そのをさらに南に登ると、栗橋村内に『雄岳』(現在の標高は一三一二・二メートル)があるが、「雄岳」の別名に「辨天山」は相応しくないと思う。

「上閉伊郡栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった村。現在の釜石市栗林町・橋野町(南東に接して栗林町がある)に相当する(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧村域の大部分が山間部である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一八番 長須太マンコ

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一一八番 長須太マンコ

 

 昔、村の西内(ニシナイ)のお不動山の奧に、どこから來たか大層美しい女が來て住まつて居た。其所がナガスダと云ふ所であつたから、里邊の方では其女のことを、ナガスダ・マンコと呼んで居た。

[やぶちゃん注:現在の遠野市土淵町(つちぶちちょう)栃内(とちない)にある西内(にしない)。「ひなたGPS」のこちらで地名が確認出来る。遠野市街から十キロ以上の山間部である。]

 或時マンコが遠野ノ町へ行くと、市日であつたから方々から町へ多くの人々が入り込んでゐた。一人の馬喰(バクラウ[やぶちゃん注:ママ。])がマンコの美しいのを見染めて言い寄つたけれどもマンコはおれはキダガメの西内の川奧(カツチ)のナガスダと云ふ所に居る者だとだけしか敎へなかつた。そして其日はそれツきりで別れた。

[やぶちゃん注:「キダガメの西内川奧(カツチ)のナガスダ」「川奧(カツチ)」は一般名詞で「川流れの奥」であろうか。「キダガメ」や「ナガスダ」の地名は上記「ひなたGPS」でも確認出来ない。「キダガメ」は一般名詞の「北上」の訛りとも思ったが、次段の謂位から地名としか思われない。既にして異界の地名でもあるのかも知れない。]

 馬喰はマンコがどうしても忘れられないので、三日ばかり經つてから、キダガメの西内へ訪ねて行き、そしてカクラと云ふ所まで來ると路が二つに岐《わか》れて何方《どつち》へ行つてよいか分らなかつたので、路傍の家へ立ち寄つてナガスダヘ行く路を訊ねた。その時は既に夕方であつたので、何處へも行かれぬから其家に夜の宿を乞ふと、快く泊めてくれた。

[やぶちゃん注:「カクラ」この地名も上記「ひなたGPS」でも確認出来ない。これは異界の地名というよりも、以下、殺人を犯すことになる者の住む地であるから、名を仮名としたという方がしっくりくるようにも思われる。]

 馬喰は其夜、寢床の中で起き上つて、持參の金を算《かぞ》へて居た。その音を聽いた家の人達は馬喰を殺すべと、夜起きてゴシゴシと刀を磨《と》いだ。その氣配を知つた馬喰は其夜は少しも眠らないで起きて早立ちをした。其時家の人達はナガスダヘ行く僞路(ボガミチ)を敎へた。山中で迷はせて殺す氣であつた。それを馬喰は察してわざと岐道(ワキミチ)へ反《そ》れて行つた。あとはあて見當(ゲントウ[やぶちゃん注:ママ。])でマンコの棲家《すみか》を尋ねて行くと、幸ひに山中の一軒家に辿り着いた。訪ねて見ると先日町で見たマンコが其所に居た。

 馬喰は其家に半年ばかり居たがそのうちに山へ行つた時、どうした譯か以前宿つたカクラの家の人に殺された。

 マンコは其時はもう懷姙して居たので、悲しみの餘り家を出て地獄山と云ふ所まで來た。すると急に產氣がついて苦しみ出した。其所へ何所から來たか一人の和尙樣が來會(キア)はせて、色々介抱して居るうちに、男の子が生れた。和尙樣が自分の法衣の袖を引きちぎつて其子を包んで、抱き上げやうとして居るところへ、天から大鷲が飛び下りて其赤子を攫《さら》つて、何處ともなしに飛んで行つてしまつて見えなくなつた。

[やぶちゃん注:「地獄山」同前で不詳。]

 和尙樣はたゞ驚いて泣いて居るマンコを慰めて、これは何事も前生《ぜんしやう》の約束事であるから仕方が無い。然し彼《あ》の子は屹度何處かへ落ちて生きて居やうから、見つけ次第俺が大事に育て上げて置くから心配するな。そしてこれから十三年目の今月の今日《けふ》、此山でお前達は母子の面會をするがよいと言ひ置いて、マンコと別れて其所を立ち去つた。この和尙樣は山の麓の里の松崎と云ふ村の寺の住持であつたが、寺の門前まで來ると、鷲に攫はれた先刻《さつき》の赤兒が少しの傷もつかずに松の樹の岐枝(マツカエダ)に懸つて居た。そこで女との約束通りに拾ひ上げて大事に寺で育てゝ居た。

[やぶちゃん注:「山の麓の里の松崎と云ふ村の寺」「松崎」は現在の遠野市松崎町松崎としか思われない。而して、この地区内で現存する知られた寺としては、松崎観音堂(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイト『「遠野物語」現在進行形』のこちらによれば、『麦沢山松崎寺として大同』二(八〇七)年に『創建されたと伝えられる』古刹で、『現在の観音堂は享保』九(一七二四)年の『再建である。本尊は古代の立木仏を偲ばせる十一面観音立像で、慶長』一一(一六〇六)年の『銘がある』とある。ここで話者は「山の麓の里の松崎」と言っている。次段でも「この山奧へ行くと小石を多く積み重ねた地獄山がある」と言っており、さすれば、不明の「地獄山」は、ここの山塊のどこかの峰の旧山名と考えてよいことになろう。]

 それから十三年目になつた。その子は俺に母親があるならば是非其人に逢ひたいと言つた。和尙樣もそれ程逢ひたいなら、この山奧へ行くと小石を多く積み重ねた地獄山があるから其所へ尋ねて行つて見ろ、さうしたなら屹度母親に逢ふに違ひない。さあ今日いま直ぐに行けと言ふ。子供は喜んで今の慕峠(シダウトウゲ)を越えてその地獄山へ行つて見ると、其所には誰も許なかつたので悲しくなつて一心に御經を誦んで居た。

[やぶちゃん注:「慕峠(シダウトウゲ)」これは松崎観音堂の北を登った位置にある標高三百九十九メートルにある「忍峠」に音がかなり似ている。「ひなたGPS」のここで、戦前の地図では「忍」に『スダ』とルビを振り、国土地理院図では『しだ』と振るから、まず、この峠と考え良いと思う。さすれば、先の私の推理も、強ち、机上の空論として馬鹿にすることは出来ぬと感ずる。

 マンコはまた我が子に別れてから恰度《ちやうど》十三年目の其日になつたから、はて早く吾子に逢ひたいものだと思つて、地獄山へ來て見ると、美しい童子が一心に御經を誦んで泣いて居る。あれが吾が子かと駈け寄つて、吾子だかと聲をかけると、童子もお前が吾母親だかと、二人は抱き合つて泣いて居た。

 稍《やや》暫時《しばらく》あつて母親が童子にお前は今迄何所に居たと訊くと、俺は此の下澤《したざは》のお寺の和尙樣に育てられて居ると言ふ。あゝ其では矢張り彼《あ》の和尙樣だ。私も御目にかゝつて厚く御禮を申したいけれども其もならぬ身の上であるから和尙樣に宜敷《よろ》く申上げておくれ。お前とも此儘別れると言つて、泣きながら何處かへ行つてしまつた。それで童子もまたお寺へ還つた。

 其の後童子の居るお寺から餘り遠くもない、賽《さい》の神と云ふ所に、何所から來たか一人の巫女《みこ》が來て庵《いほり》を建てゝ住居《すまひ》して每日念佛を唱へて居た。それがマンコであつたらうと謂ふことである。

(昭和三年の秋頃、友人宮本愛次郞氏が聽いて來て敎へてくれた話の二。自分の村の話で今も山中にマンコ屋敷の跡がある。仕川戶(ツカヒド)の石垣もあり、坪前《つぼまへ》にはヒツチヨリツチギ(櫻草)などがあつて五月迄も咲き殘つて居ると云ふ。マンコは女盜賊であつたと謂ふ話もある。地獄山はこのマンコ屋敷の山の尾根續きで私も少年の時に行つたことがある。一つの塚があつて塚の前には小石が幾つも垣のやうに積まれてあつた。其所に一本の老松があつて、其幹に耳を押し着けて靜かに聽くと、多くの子供等の地獄で泣き叫ぶ聲が聽えると云ふて、さうした記憶も殘つてゐる。

 地獄山と云ふのは、此處ばかりでなく方々の山の嶺尾根等にある。每夜夜半には死んだ子供等が話したり泣いたり歌つたりする聲が聽えると謂ふて、子供を亡くした婦人達がよく詣でる。私の記憶では哀れなやうな變なところであつた。)

[やぶちゃん注:附記は長いので、ポイントを本文と同じにして引き上げた。

「長須太」は「長須田」とも書くようである(以下の引用参照)。「マンコ」は元「まんこう」で、「満功」「満行」「満江」「満紅」「万劫」「満公」と漢字表記する(同前)。平凡社「世界大百科事典」の山本吉左右氏の「満功」の解説を引く(私は正規のベーシック版を最初にパソコンを買った際に購入している。コンマを読点に代えた)。『満功』『まんこう』は、元は『曾我兄弟の母の名。または東京都調布市の深大』『寺など、各地の霊山の開基の僧の名。マンコウは満行(江、紅)、万劫(公)などとも書く』。享保九(一七二四)年に『市村座初演』の「嫁入伊豆日記」『以後の歌舞伎や、また各地に伝わる伝説でも曾我兄弟の母をマンコウとするものが多い。しかし』、「曾我物語」には『母の名は記されていない』「東奥軍記」「和賀一揆(わがいつき)次第」『(ともに江戸初期の成立か)などに伊東入道祐親の娘の名を』「まんこう御前」と『する。まんこう御前は伊豆配流中の源頼朝と契って若君を生む。平家をはばかった入道は若君を殺すよう』、『家臣に命ずるが、家臣のはからいで』、『ひそかに助けおかれて、後に和賀の領主の先祖となったとされる。この逸話は』「曾我物語」にも『あるが、娘の名は記さず、若君も殺されたことになっている。これらの逸話からいえることは、マンコウという名前が、愛児を失って悲しむ母の話、あるいはその異話に用いられていることである。佐々木喜善』の「聴耳草紙」に『採録されている長須田(ながすだ)マンコの話では、生まれたばかりの赤子を鷲』『にさらわれ』十三『年後に地獄山で愛児と再会する母の名前がマンコである。マンコは後に愛児が修行する寺の近くの地獄山に庵を建てて住み、巫女となって毎日念仏を唱えたとされる。地獄山には今日でもマンコ屋敷跡があって、あたりには賽(さい)の河原のように小石を積んだ小さな塔がたくさんある。そこは愛児を失った母たちの詣でる所とされ、松の木に耳をあてると地獄で子どもの泣く声が聞こえるといわれる。この話は昔話化されているものの、マンコが子どもの霊の口寄せをする巫女の名前であったことを伝えるものと推測される。子どもの霊の口寄せを業とする巫女が、遊行巫女や廻国の比丘尼となって、愛児を失った悲しみを自分の体験として語っていたものと考えられ、いつしかマンコウという巫女の名が物語の登場人物の名ともなったと思われる。さらに愛児を失った悲しみばかりではなく、悲惨な女性の物語を自分の体験として語るようになったのであろう』。「曾我物語」には、『伊東入道の娘に、頼朝と契った女性とは別に、もう一人の万劫が登場する。万劫は工藤祐経の妻となるが、父入道のために無理に離縁させられ、後に改めて土肥遠平に嫁がせられる』。「曾我物語」には『悲惨な女の物語が幾重にも織りなされているが、それらはマンコウなどと自称する遊行巫女や廻国の比丘尼が曾我兄弟の母とか伊東入道の娘と称し、自分の体験として兄弟や頼朝の若君の物語を語り伝え、一部が』「曾我物語」に『取り入れられてアレンジされ、他の一部はさらに口頭で語り継がれて』、「東奥軍記」『などに流れ込み、歌舞伎でも曾我兄弟の母の名前としてマンコウが採用されたものと考えられている』。『諸国の霊山の開基の僧の名前に多いマンコウにも、巫女との関係が見え隠れしている。深大寺の開山にまつわる伝説では、満功上人の祖母の名として虎という女性があらわれる。曾我十郎の愛人の大磯の虎(虎御前)や吉野山や立山の都藍尼(とらんに)の伝説を考え合わせると、この虎も巫女的な女性ではなかったかと思われる。すなわち、満功上人と虎との間には高僧・神童とその母、神とその育ての母の巫女といった関係があったものと思われる』とある。

「マンコ屋敷の跡」現行では確認出来ない。

「仕川戶(ツカヒド)」不詳。家屋のそばの下方にある小流れで炊事・洗濯をするための場所を指すか。

「坪前」屋敷地内の庭或いはその前方下方か。

「ヒツチヨリツチギ(櫻草)」漢字表記からは、ツツジ目サクラソウ科サクラソウ属サクラソウ  Primula sieboldii となるが、本当に同種を指すかどうかは、「ヒツチヨリツチギ」(「ちくま文庫」版では『ヒッチョリツチギ』)の異名をネット上で探し得ないので断定は出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、本書のみしか挙がってこない。]

2023/06/13

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一七番 母也明神

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。本文に従い、標題は「ぼなりみやうじん」と読んでおく。]

 

   一一七番 母也明神

 

 上閉伊郡松崎村矢崎に、綾織村宮ノ目から移つて來て住んで居る巫女婆樣《みこばばさま》があつた。此婆樣に娘が一人あつて可愛く育てゝ居た。齡頃《としごろ》になつたので聟を迎へたが、夫婦仲はよいけれども、婆樣はどうしても聟が氣に入らぬので、機會(オリ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])があつたらボンダシ(離緣)たいと思つて居た。

[やぶちゃん注:「矢崎」現在の岩手県遠野市松崎町松崎矢崎。「ひなたGPS」のこちらで、次に出る「猿ケ石川」とともに確認出来る。

「綾織村宮ノ目」遠野市綾織町新里宮野目。同じく「ひなたGPS」のこちらで確認出来る。戦前の地図の方では、拡大すると、『宮ノ目』とあるのが判る。]

 此所へ猿ヶ石川から村中へ引く堰口《せきぐち》の留(トメ)が、年々兩三回も破れるので村人は難澁して居た。其年も恰度《ちやうど》用水時に留が破れて大騷ぎになり、如何《どう》すればよいかと寄々《よりより》評定をした上、遂に其巫女婆樣の處へ行つて占ひを引いて貰つた。婆樣はこれは好い機(オリ)だと思つて、明朝白衣《びやくえ》を著て葦毛の馬に乘り、此村から附馬牛《つきもうし》村の方へ行く者を捕(オサ)へて、堰口に入れると留が破れないと告げた。村人は夜半から其留場(トメバ)に詰めかけて、其白衣馬上の人の通りかゝるのを今か今かと待構《まちかま》へて居た。

[やぶちゃん注:「附馬牛村」現在の岩手県遠野市附馬牛町(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 其朝早く、自分の身にそんな災難が降りかゝらうとは夢にも知らぬ巫女婆樣の聟は、姑婆樣《しうとばばさま》から言ひつけられたとほり、葦毛の馬に乘り祈禱着の白衣を着て川の留場の所へ差しかゝると、多勢《おほぜい》の村人が居て馬の前に立ち塞がつた。驚いてお前達は如何《どう》したと訊くと、村人もそれが朝夕見知越《みしりご》しの巫女聟なので、事の意外に騷ぎ立てると、巫女聟は譯を聽いて、さうか神の告げ事《ごと》なら仕方がない。俺は此所の川底に入つて村の衆の爲《ため》になる。けれども人身御供は單身(ヒトリ)ではいけない。男蝶女蝶《をてふめてふ》揃ふてこそ神も喜ぶものだから、妻を呼んで一緖に入らうと言つて居るところへ、母親の惡計《わるだくみ》を後から聽き知つた娘が白衣を着て葦毛の馬に乘つて其所へ駈け着けた。そして二人は二匹の馬頭《ばとう》を並べて淵の中へ駈け込んで底に沈んでしまつた。其所へまた娘の後を追ふて來た巫女婆樣も、自分の計企(タクラミ)の齟齬《そご》したのを後悔して泣きながら水中に飛び込んだ。

 此時から空が曇つて烈しい雷雨となり三日三夜降り續いて大洪水が出た。そしてその引き跡に今迄見たことのない大石《おほいし》が現はれた。其石を足場として留(トメ)が造られた。其石を巫女石《みこいし》と云ふた。

 聟夫婦をば堰神《せきがみ》として祀つた小さな祠がある。また母親の巫女が死んだ所をば母也(ボナリ)と云ひ、母也明神《ぼなりみやうじん》として祀つてゐる。

 また神子石《みこいし》は堰口にあつたが近年の洪水で川中へ出た。此石には馬蹄の跡がある。又御前石とも云ふて魚釣りも上《あが》らず、蛇《へび》蟲ケラ《むしけら》の類《たぐゐ》も上れば忽ち死ぬと云ひ傳へ、近年まで用水時の壬辰(ミヅノエタツ)の日に小杭《ちいさきくひ》三本を堰神の境内に打ち込んで拜んだ。さうすれば一夜のうちに矢﨑部落中の田の一面に水がかゝつた。その時には大屋(オホヤ)のオシトギ田《だ》と云ふて、男ばかりの手で耕作して穫(トリ)入れた米でシトギ(生米團子)を作つて堰神樣や母也樣に供へる。此祭典の時精進をせずに行くと嘔吐する。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げとなっている。「ちくま文庫」版では本文と同じ位置から書かれてある。結果して、それと同じに電子化したことになった。]

 又此祭日は甘酒と豆をツトに入れて、神前に供へる。甘酒と豆は二頭の馬の靈に供へるとの事である。[やぶちゃん注:底本では以上は行末で句点がないが、]

 聟夫婦達が入水《じゆすい》して人身御供《ひとみごくう》になつたのは何年(ナニドシ)かの壬辰に當る六月十八日であつたと言ふ。

 (大正十四年十月、駒木小學校の瀨川敎師蒐集資料から。)

[やぶちゃん注:この話は柳田國男が佐々木の「遠野物語」の続篇の原稿をなかなか整理せず、佐々木が痺れをきらして本「聽耳草紙」を出した結果、それを柳田は不快に感じて、佐々木の死後に「遠野物語拾遺」として出した(これは以下の同書の「再版覺書」を読めば明らかである。だから、私は「遠野物語拾遺」を電子化するつもりは今のところ、ない、のである)、その「二八」にも載っている。「遠野物語 増補版」(郷土研究社昭和一〇(一九三五)年)のここから読めるが、佐々木の本記事の方が、遙かに、この悲惨な哀譚を正しく民話として纏めてある。こちらの遠野の文化遺産を解説するサイト内の「母也明神と巫女塚」によれば、現存している。そこに『この母也明神は神明神社と合祀されていたが、昭和』五六(一九八一)年三月十五日の『壬辰の日に現在の地に遷座した。また、近くには巫女、娘、婿の石碑があり、巫女塚として供養されている。矢崎地区では旧暦』四『月の壬辰の日を祭日として甘酒を作り』、『大豆を煮て』、『供養している』とあった。場所は『松崎町松崎町2地割』で、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の中央附近である。何時か、遠野を再訪したら、最初に行ってみたい。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「むつごと」子夜

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  む つ ご と

 

            芳 是 香 所 爲

            冶 容 不 敢 當

            天 不 奪 人 願

            故 使 儂 見 郞

                  子  夜

 

紅(べに)おしろいのにほふのみ

色も香もなきわれながら

願ひ見すてぬ神ありて

わが身を君に逢はせつる

 

[やぶちゃん注:既に出た「女ごころ」と同じ「子夜」歌群の一つ。以上の原詩は、所持する岩波文庫の松枝茂夫編の「中国名詩選」の「中」(一九八四年刊)を参考に訓読文と注を示す。

   *

 

 子夜歌

「芳(はう)」は是れ 香(かう)の爲(な)す所

「冶容(やよう)」は 敢へて當らず

天は 人の願ひを奪はず

故(ゆゑ)に 儂(われ)をして郞(らう)に見(まみ)えしむ

   *

 これは、松枝氏によれば、これは「子夜歌」群の中の、男(に成り代わって詠んだ)の詠である、

   *

落日出前門

瞻矚見子度

冶容多姿鬢

芳香已盈路

 落日 前門に出でて

 瞻矚(せんしよく)するに 子(し)の度(わた)るを見る

 冶容(やよう) 姿鬢(しびん)多く

 芳香(はうかう) 已(すで)に路(みち)に盈(み)てり

   *

に応じた女の歌とされる。一種の歌垣、相聞歌である。「瞻矚」「見る・見つめる・眺め渡す」の意。「冶容」は艶(あで)やかな姿や容貌の意。「姿鬢」は今枝氏の注に、『「姿首」「姿髪」ともいう。特に女の髪の美しさをいうのだろう』とある。

・「儂」松枝氏の注に『呉の方言でわたし。男女ともに用いる自称』とある。

   *

「むつごと」「睦言」原義は「仲よく語り合う会話」だが、特に男女の閨(ねや)での語らいを指す。]

「新說百物語」巻之三 「深見幸之丞化物屋敷へ移る事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。底本の本篇はここから。

 この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正と合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

新說百物語巻之三

 

   深見幸之丞化物屋敷へ移る事

 備前岡山の近所に、中頃、深見幸之丞といふ武士あり。

 常には、詩文をこのみ、きやしや[やぶちゃん注:「華奢」。]、風流の男にて、誰《たれ》も、

「なまぬるき男なり。」

と、若きものは、評判いたしける。

 その邊《あたり》に、五、六十年このかた、人の住まぬ化物屋しきあり。

 いかなる丈夫なるものも、二夜とはとまらす[やぶちゃん注:ママ。]、迯(にけ[やぶちゃん注:ママ。])歸る所なり。わかき人々、寄會ひ、

「さしものものさへ、ゑ、一宿もせぬ化物屋しき、幸之丞などは、門内へも、はいるまじ。」[やぶちゃん注:「ゑ」は「え」が正しい。呼応の不可能の副詞「え」。]

と申しけるを、幸之丞、きかぬ顏にて、その座を立ちけるか[やぶちゃん注:ママ。]、夫《それ》より、宿へかへり、家内のものにも、かくし、獨(ひとり)、弁当・酒など用意して、彼《かの》化物やしきへ、おもむきける。

 誰すむ事もなけれは[やぶちゃん注:ママ。]、門には、錠《ぢやう》もおろさす[やぶちゃん注:ママ。]、たてよせて[やぶちゃん注:壊れた門扉の板を、形ばかりに立て寄せてあって。]、薄月夜にすかして見れは[やぶちゃん注:ママ。]、草、はうはうと、はへ[やぶちゃん注:ママ。]、しげり、屋ねなども、あれはて、緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])も、かたむき、疊(たゝみ)とても、あらされは[やぶちゃん注:総てママ。]、用意の尻敷(しり《しき》)を取出《とりいだ》して、臺所とおもふ所に、しきて、たはこ[やぶちゃん注:ママ。]を、のみて、居《ゐ》たりしが、秋の末の頃なれは[やぶちゃん注:ママ。]、あれたる庭にふく風も、身にしみて、虫の声、かまびすく、心ほそく[やぶちゃん注:ママ。]おもふ頃、奧のかたより、

「めりめり」

と鳴出《なりいだ》し、

『すは。』

と思ひて、刀、引《ひき》よせ、ゆたんせす[やぶちゃん注:総てママ。]、おくのかたを、見やりたれは[やぶちゃん注:ママ。]、なにかは、しらす[やぶちゃん注:ママ。]、女の声にて、

「たすけて、たすけて、」

と、なき來《きた》る姿を見れは[やぶちゃん注:ママ。]、㒵《かほ》、靑さめて[やぶちゃん注:ママ。]、髮をさはき[やぶちゃん注:ママ。]、拾貫目《じつくわんめ》の銀箱(かねはこ)とみゆるものを、手に持ちて居《をり》けるが、

「くわつくわつ」

と打《うち》て、火、もえ出でたり。

 

Hukamikounojyou

 

[やぶちゃん注:女の亡霊の持つ「銀箱」には「銀拾貫目入」と書かれいるのは、一寸、御愛嬌か。キャプションは、右幅中央上に、

   *

しやうたい

  を

 あら

  わせ

   *

左幅に中央下方に、

   *

こゝへこい

   こゝへこい[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

         あら

          くるしやくるしや[やぶちゃん注:後半は同前。]

   *

とある。]

 

 しはらく[やぶちゃん注:ママ。]あると、又、臺所の釜の下より、是れも、色、靑さめたる[やぶちゃん注:ママ。]男、髮をさはき[やぶちゃん注:ママ。]、繩(なは)にて、帶を、いたし、手に鍵(かぎ)とおほしき[やぶちゃん注:ママ。]ものを持ち、

「こゝへ、こい、こゝへ、こい、」

と、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 幸之丞、刀(かたな)に、そりを、うち[やぶちゃん注:「反りを打ち」。即座に抜くことが出來るよう、刀の鞘(さや) を上向きにして身構えて。]、

「何ものなれは[やぶちゃん注:ママ。]、此やしきに住んて[やぶちゃん注:ママ。]、諸人に[やぶちゃん注:ママ。]迷はし、かゝるわさをするそ[やぶちゃん注:総てママ。]。狐狸(こり)ならは[やぶちゃん注:ママ。]、正躰を、あらはすべし。」

と、

「はた」

と、にらみけれは[やぶちゃん注:ママ。]、二人のもの、少しもさはかす[やぶちゃん注:総てママ。]

「そろそろ」

と、そは[やぶちゃん注:ママ。]へ來り、

「わたくしとも[やぶちゃん注:ママ。]は、此家につとめし男女の下人にて候ひしか[やぶちゃん注:ママ。]、主人の目を、かすめ、念比《ねんごろ》をいたし、その上に、『土藏にありし銀子《ぎんす》の箱を盗(ぬすみ)出《だ》し、かけおちをいたさん。』と、おもふ所を、主人に見付られ、二人とも、手打《てうち》に合ひ、二所《ふたどころ》にうめられ、我身《わがみ》の罪は、おもはす[やぶちゃん注:ママ。]して、主人の家内を、皆〻、取《とり》ころし、かくまて[やぶちゃん注:ママ。]家は斷絕いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、そのつみにより、二人とも、今に、うかみもやらす[やぶちゃん注:ママ。]候。あはれ、御慈悲と覚しめし、御とふらひ下されは[やぶちゃん注:ママ。]、ありかたく存申《ぞんじまふ》すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、念比に賴みけれは[やぶちゃん注:ママ。]、幸之丞、とくと、聞きとゞけ、仏事、念比にいたしけるが、其後《そののち》は、何のさはりもなかりけるを、大守、きこしめされ、その屋しきを、幸之丞に、下されける。

 皆人、幸之丞が常のおこなひとは違《ちが》ひて、此度の、はたらき、其心、勇をかんしける[やぶちゃん注:ママ。]

 

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「牧牛人入ㇾ穴成ㇾ石語」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○「今昔物語」卷五の第卅一、「牧牛人入ㇾ穴成ㇾ石語」〔「天竺の牧牛(うしかひ)の人、穴に入りて出でず、石と成れる語(こと)」〕(一號四六頁)の原話は、唐沙門慧立本、沙門彥悰《げんそう》箋「大慈恩寺三藏法師傳」(黃檗板一切經第二〇三套、奄の卷四第一張裏至第二張裏)に出づ。一昨年、一九一一年新板、ビールの「玄奘傳」一二九至一三一頁に全譯され居る。「今昔物語」の作者は、專ら、此「慈恩傳」に據《よつ》たので、別に「法苑珠林」と「酉陽雜俎」を折衷したのでも、主として「酉陽」を本としたのでも無い。予、曾て「今昔物語」の諸譚の出處を、十八、九年前、調べた留書の中にも、『此譚、「慈恩傳」に出づ。』と誌《しる》し有る。然るに、「西域記」の硏究者堀君が、『腹が肥大して、石窟を出づるあたわず、とする點は、「西域記」に、なし。勿論、「慈恩傳」には見え不申候。』(一號四九頁)と云《いへ》るは、不思議極まる。因《よつ》て、全文を爰に引く。「慈恩傳」は玄奘の弟子が書いた者故、『彼《かの》三藏が渡天の日記に、此由、記されたり。』と、「宇治拾遺」に云《いへ》るも、餘りな誤見ぢや無《なか》らう。

[やぶちゃん注:「今昔物語集」の当該話は、本早朝、ブログで『「今昔物語集」卷第五 天竺の牧牛の人、穴に入りて出でず、石と成れる語第卅一』として電子化注しておいたので、そちらを、まずは読まれたい。そちらで注したものは繰り返さないからである。なお、熊楠が言及している「宇治拾遺物語」のそれは、以下に電子化する。底本は岩波文庫渡辺綱也校訂「宇治拾遺物語」下巻(一九五二年刊)を基礎とし、表記・読み・注は、新潮日本古典集成をも参看して弄ってある。一般の通し番号で「一七一」である。

   *

 

 渡天の僧、穴に入る事

 今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺に渡りて、他事(たじ)にあらず[やぶちゃん注:特別な目的があったわけではなく。]、たゞ、物のゆかしければ[やぶちゃん注:もろもろ見聞を広めたく思ったので。]、物見にし[やぶちゃん注:強意の副助詞。]ありきければ、所〻、み、ゆきけり。

 ある、かた山に、大きなる穴あり。

 牛の在りけるが、此の穴に入りけるを見て、ゆかしくおぼえければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。

 遙かに行きて、あかき所へ、いでぬ。

 みまはせば、あらぬ世界とおぼえて、見も知らぬ花の、色、いみじきが、さきみだれたり。

 牛、この花を食ひけり。

 心(こころ)みに、この花を、一房、とりて、食ひたりければ、うまきこと、

『天の甘露も、かくやあらん。』

とおぼえて、目出たかりけるまゝに、多く、食ひたりければ、たゞ、肥えに肥え、ふとりけり。

 心得ず、おそろしく思ひて、ありつる穴のかたへ、かへり行くに、はじめは、やすく通りつる穴、身の太くなりて、せばくおぼえて、やうやうとして、穴の口まではいでたれども、え出でずして、耐へがたきこと、かぎりなし。

 前を通る人に、

「これ、助けよ。」

と、呼ばはりけれども、耳に聞き入るゝ人も、なし。助くる人も、なかりけり。

 人の目にも、何と見えけるやらん、不思議なり。

 日ごろ、重なりて、死ぬ。

 後(のち)は、石に成りて、穴の口に、頭をさし出だしたるやうにて、なん、ありける。

 玄奘三藏、天竺に渡り給ひたりける日記に、此のよし、記(しる)されけり。

   *]

 本文に、贍波《せんば》國の、南界數十由旬、有大山林云々、人無敢行、相傳云、先佛未ㇾ出之時、有一放牛人、牧數百頭牛、驅至林中、有一牛、離ㇾ群獨去、常失不ㇾ知所在、至ㇾ暮欲ㇾ歸、還到群内、而光色姝悅、鳴吼異常、諸牛咸ㇾ畏、無敢處其前如ㇾ是多日、牧牛人怪其所以、私候目ㇾ之、須臾還去、遂逐觀ㇾ之、見牛入一石孔、人亦隨入、可行四五里豁然大明、林野光華、多異花果、爛然溢ㇾ目、並非俗内所一ㇾ有、見牛於一處上レ草、草色香潤、亦人間所ㇾ無、其人見諸果樹、黃赤如ㇾ金、香而且大、乃摘取一顆、心雖貪愛、仍懼不敢食、少時牛出、人亦隨歸、至石孔、未ㇾ出之間、有一惡鬼、奪其菓留、牧牛人以ㇾ此問一大醫、幷說菓狀、醫言、不ㇾ可卽食、宜方便將ㇾ一出來、後日復隨ㇾ牛入、還摘一顆、懷欲將歸、鬼復遮奪、其人以ㇾ菓内於口中、鬼復撮其喉、人卽咽ㇾ之、菓既入ㇾ腹、身遂洪大、頭雖ㇾ得ㇾ出、身猶在ㇾ孔、竟不ㇾ得ㇾ歸、後家人尋訪、見其形變無ㇾ不驚懼、然尙能語、說其所由、家人歸還、多命手力、欲共出一ㇾ之、竟無移動二一、國王聞ㇾ之自觀、慮ㇾ爲後患、遣ㇾ人掘挽、亦不能動、年月既久、漸變爲ㇾ石、猶有人狀、後更有ㇾ王、知其爲仙菓所一ㇾ變、謂侍臣曰、彼既因ㇾ藥身變、卽身是藥、觀是石、其體終是神靈、宜遣ㇾ人將鎚鑚取少許將來臣奉王命、與工匠往盡力鐫鑿、凡經一旬、不ㇾ得一斤、今猶現在。〔南界、數十由旬に大山林有り云々、人の敢へて行く名無し。相傳へて云ふ、「先佛、未だ出でざるの時、一(ひとり)の牧牛人(うしかひびと)有り。數百頭の牛を牧し、驅(かけ)りて、林中に至る。一牛有りて、群れを離れて、獨り去り、常に失せて所在を知らず。暮に至りて歸らんと欲するに、還(ま)た群れの内に至る。而して、光色、姝悅(しゆえつ)にして、鳴き吼(ほ)ゆること、常に異なれり。諸牛、咸(みな)、畏れて、敢へて其の前に處(よ)る者、無し。是(かく)のごときこと、多日にして、牧牛人、其の所以を怪しみ、私(ひそ)かに候(うかが)ひて、之れを目(もく)す[やぶちゃん注:注意して見ること。]。須臾(しゆゆ)にして、還(ま)た、去る。遂(つひ)に逐(お)ひて、之れを觀るに、牛の、一(ひとつ)の石の孔(あな)に入るを見、人も亦、隨ひて入る。行くこと、四、五里可(ばかりにし)て、豁然(かくぜん)として、大いに明(めい)たり。林野は、光り華(かがや)き、異(めづら)かなる花果、多く、爛然として、目に溢(あふ)る。並(みな)、俗内に有る所に非ず。牛の、一處に於いて、草を食らふを見れば、草の色、香潤(かうじゆん)にして、亦、人間(じんかん)に無き所なり。其の人、諸(もろもろ)の果樹を見るに、黃赤(わうせき)にして金(こがね)のごとく、香(かんば)しくして、且つ、大なり。乃(すなは)ち、一顆を摘み取れり。心に貪愛(どんあい)すと雖も、仍(なほ)、懼(おそ)れて、敢へて食らはず。少時(しばらく)して、牛、出で、人、亦、隨ひて歸る。石の孔に至りて、未だ出でざるの間(あひだ)、一惡鬼(いちあくき)有り、其の菓(み)を奪ひて留(とど)む。牧牛人、此れを以もつて、一(ひとり)の大醫(だいい)に問(たづ)ね、幷(あは)せて、菓の狀(さま)を說(と)きたり。醫、言はく、『卽(ただち)には、食らふべからず。宜しく、方便をして、一(ひとつ)を將(も)つて、出で來たるべし。』と。後日、復(ま)た、牛に隨ひて、入り、還(ま)た、一顆《いつくわ》を摘み、懷(いだ)きて、將(も)ち歸らんとす。鬼、復た、遮(さへぎ)り、奪はんとす。其の人、果を以つて、口の中に内(い)れたり。鬼、復た、其の喉(のど)を撮(つか)む。人、卽ち、之れを咽(の)み、菓、すでに腹に入る。身、遂に、洪大となり、頭は出で得(う)と雖も、身は、猶、孔にあり。竟(つひ)に、歸るを得ず[やぶちゃん注:下線を施した箇所は「選集」では、何故か、傍点「﹅」が附されてある。]。後、家人尋ね訪(おとな)ひて、其の形、變じたるを見、驚き、懼(おそ)れざる無し。然(しか)も、猶、能く語り、其の由(よ)るところを說けり。家人、歸還し、多く手力(にんぷ)を命(つか)ひ、共に、之れを出ださんと欲するも、竟に、移り動くこと、無し。國王、之れを聞きて、自(みづか)ら觀(み)、後(のち)の患(わざは)ひとならんことを慮(おもんぱか)り、人を遣(つかは)し、掘り挽(ひ)かしむるも、亦、動かす能はず。年月、既に久しくして、漸(やうや)う、變じて、石と爲(な)り、猶、人の狀(かたち)、有り。後、更に、王、有りて、其れ、仙果(せんくわ)の變ぜし所なるを知り、侍臣に謂ひて曰はく、『彼は、既に、藥(くすり)に因りて、身、變じたれば、卽ち、身、是れ、藥なり。是の石を觀るに、其の體(からだ)は、終(つひ)に、是れ、神靈なり。宜しく、人を遣はし、鎚鑽(ついさん)[やぶちゃん注:叩き削ること。]を將(も)つて、少しばかりを斲(けず)り取り、將ち來たるべし。』と。臣、王の命を奉(ほう)じて、工匠と與(とも)に往(ゆ)き、力を盡して鐫鑿(せんさく)し、凡そ、一旬を經たるも、一片をも、得ず。今、猶、現に在り。」と。〕

[やぶちゃん注:「選集」では、冒頭標題に編者注があり、『赤峰太郎「今昔物語の研究」』に対する論考である。]

 

「新說百物語」巻之二 「脇の下に小紫といふ文字ありし事」 / 巻之二~了

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   脇の下に小紫(こむらさき)といふ文字ありし事

 西國の遊女町に「小紫」といふ傾城ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、田舍には、そたち[やぶちゃん注:ママ。]ながら、姿・心、ともにやさしく、哥なと[やぶちゃん注:ママ。]もよみて、ゆき通ふ旅人も、「小むらさき」と、いふては、誰《たれ》しらぬ者も、なかりけり。

 長崎へ通ふ商人《あきんど》に、「さぬきや藤八」といふものありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、是も、やさしき生まれつきにて、一年に兩度のおり下りには、かならす[やぶちゃん注:ママ。]、此小紫かゝた[やぶちゃん注:総てママ。]に立ち寄り、一宿して、あそひ[やぶちゃん注:ママ。]けること、四、五年に及ひ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 小紫、いかゝ[やぶちゃん注:ママ。]おもひけるやらん、外の客とはちかひ[やぶちゃん注:ママ。]て、一年に兩度の藤八のおり下りを相《あひ》まち、むつましく、もてなしけるに、あるとし、藤八は、又、いつものことく[やぶちゃん注:ママ。]長崎へ下りけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、いつものことく[やぶちゃん注:ママ。]小紫の方に立ちよりて、一宿したりける。

 小紫、さる頃より、大病にて、なかく[やぶちゃん注:ママ。]快氣の樣子もみへす[やぶちゃん注:ママ。]、次第におとろへけるか[やぶちゃん注:ママ。]、唯《ただ》、あけくれ、藤八か[やぶちゃん注:ママ。]事のみ、うつゝにも、いゝ[やぶちゃん注:ママ。「謂ひ」。]、くらしける。

 もはや、命も、けふか、あすか、といふおり[やぶちゃん注:ママ。]に、下りあはせ、さつそく枕元にたちより、

「いかゝにや[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いゝけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、今まて[やぶちゃん注:ママ。]ねふれることき[やぶちゃん注:ママ。]目を、あきて、につこりと、打ちわらひ、

「わたくし、命も、もはや、けふきりとそんし[やぶちゃん注:ママ。]侍る。いかなるゑん[やぶちゃん注:ママ。]にや、其元樣《そこもとさま》、御事、わするゝ間《ま》もなく、『何とそ[やぶちゃん注:ママ。]、命のうちに、夫婦とならん。』と存せし事も、あたことゝなり侍る。相《あひ》はてゝ後に、何にても、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なること、是《これ》あらは[やぶちゃん注:ママ。]、よろしく賴み奉る。」

と、いふかと思へは[やぶちゃん注:ママ。]、其まゝ、死して、事切れたり。

 心だても、よろしきものなりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、家内のなけき[やぶちゃん注:ママ。]、藤八か[やぶちゃん注:ママ。]かなしみ、是非に及はす[やぶちゃん注:ママ。]

 藤八も、一兩日、滯留して、葬礼なと[やぶちゃん注:ママ。]、まかなひ、それから、長崎旅も、しゆひよく[やぶちゃん注:ママ。]仕《し》まふて、上かたへのほり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 その年の霜月、となりの米屋の女房、安產して、うつくしき女の子を產(うみ)たり。

 近所の事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、每日每日、見まひにゆき、其女の子を、みれは見るほと[やぶちゃん注:総てママ。]、小紫かおもさし[やぶちゃん注:総てママ。]に似たりける。

 人には、かたりもせす[やぶちゃん注:ママ。]、何とやら、なつかしく思ひ居たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、百日はかり[やぶちゃん注:ママ。]、すきて[やぶちゃん注:ママ。]、親、湯をあみせけるとき、ふと、見つけ、脇の下をみれは[やぶちゃん注:ママ。]、あさ[やぶちゃん注:ママ。「痣(あざ)」。]なと[やぶちゃん注:ママ。]のやうに、「小紫」といふ文字、ありありと、あり。

 おりふし[やぶちゃん注:ママ。]、藤八、居あはせて、淚をなかし[やぶちゃん注:ママ。]、ありし次㐧をかたりて、世間へは、さたなしに、そだてけるか[やぶちゃん注:ママ。]、彼《か》の藤八、四十七才のとき、むすめ、十八歲にて、女房にもらひて、中《なか》むつましくらしける。

 むすめ、廿八のとき、相わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]、あい[やぶちゃん注:ママ。]はて、藤八は浮世を、おもひきり、五十七歲にて出家して、ちかころまて[やぶちゃん注:総てママ。]、居たりける。

 

 

新說百物語巻之二

[やぶちゃん注:なお、この巻之二には、ここに奇体な挿絵が入っているが(底本のこれ)、巻之二の中には、当該するような話は、ない。化け物がオール・スター・キャストで家に押し入ってくるといった図だが、これは、実は次の「巻之四」の「疱瘡の神の事」の挿絵である。巻を変えて、それも、話しに先駆けてここへ入れたのは、確信犯か、或いは、単純な製本上の制約かは、判らない。しかし、巻を違えてというのは、当時でも、ちょっと掟破りと言えよう。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「ほほ笑みてひとり口すさめる」呂楚卿

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  ほほ笑みてひとり口すさめる

 

            覽 鏡 獨 無 語

            凝 眸 意 似 痴

            遙 遙 無 住 着

            若 箇 是 相 思

                  呂 楚 卿

 

鏡とりでてうつとりと

うつけ心のまなざしや

見入るもとほきうはのそら

戀ぞうれしきかくもこそ

 

   ※

呂楚卿  明朝の妓女。 萬曆の頃であらうか。 未詳。

   ※

[やぶちゃん注:「呂楚卿」「りよそけい」と読んでおく。

「萬曆」明の第十四代皇帝神宗の在位中に使われた。一五七三年から一六二〇年まで。

   *

 ネットではこの詩は見当たらない。従って、題名も判らない。推定訓読しておく。

   *

鏡を覽(み)て 獨り語る無し

眸(ひとみ)を凝(こ)らし 意(おも)ひは痴(ち)に似たり

遙遙(えうえう)として 住み着くこと無し

若箇(いかばか)りか 是れ 相ひ思はんに

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一六番 髮長海女

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。本文に従い、標題は「かみながうんなん」と読んでおく。]

 

      一一六番 髮長海女

 

 閉伊郡の宮古濱、長崎のシタミヨウと云ふ家の娘が、或年の三月三日の潮干《しほひ》へ行つたまゝ遂に歸らなかつた。家では嘆き悲しんで家出の日を命日と定めて型の如くに葬式も濟ませて、後生《ごしやう》を弔ふて居ると、それから三年目の同日に其娘が懷姙して歸つて來た。腹の子の父親は何處の何者だとも娘は語らなかつた。

 それから十月充ちて女の子を安產した。其子は生れながらに髮の毛が八寸ばかりも伸びてゐた。十七八の美しい娘になると其髮がいよいよ伸びて七尋《ななひろ》三尺[やぶちゃん注:約十三メートル五十一センチ。]あつた。

 京都の時の帝が或日右近の櫻と云ふ名木の花を御覽になつて居られると、其枝に三尋《みひろ》[やぶちゃん注:五・四メートル。]に餘るほどの長い髮の毛が三本引つ懸つてをつた。これは何者の髮の毛かと言つて安部《あんべ》の晴行《せいぎやう》と云ふ博士にうらなはさせると、これは人間の髮に相違ないと卜《うらな》ひを立てた。然からば其女を探し出せとの御命令で、卽時に猿樂と云ふものを仕立てゝ京の東と西へ分けて出させた。

 東の國々を𢌞《めぐ》つて居た猿樂の一組が𢌞り𢌞つて、奧州は閉伊ノ郡《こほり》、山田の港の近くの小山田と云ふ里に差《さし》かゝり、ある小山の峠の上で猿樂と云ふものを行ふ由の觸れを出した。但し見物人は女人《によにん》に限ると云ふのであつた。其日になつて其里の老若《らうにやく》の女子《をなご》どもが、われもわれもと其峠へ見物に押し寄せて行つた。其中にシタミヨウの母娘も交つてゐた。

 娘は其七尋三尺といふ長い髮をば桐の箱に入れて背負つて、舞ひを見物に行つた。猿樂は直ちに中止されて、娘は京へ連れていかれた。後で此女は、土地の海女神(ウンナン《がみ》)と祀られた。

 ウンナン神は濱の方々にあると謂ふ。都の人達が猿樂を舞つた峠は、今の猿樂峠であるさうだ。

  (昭和五年九月二日の夜、折口信夫氏と共に下閉
   伊郡刈屋村で佐々木恂三翁から聽く。)

[やぶちゃん注:「閉伊郡の宮古濱」宮古市の海浜部はここだが、特に現行、「宮古浜」と呼称する浜はないので、特定は出来ない。但し、「宮古濱」と称しているからには、宮古市街に近い宮古湾内、或いは、その開口部の北西にある浄土ヶ浜辺りが相当するか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「長崎のシタミヨウ」このカタカナの名には、漢字が想起出来ず、何か特別な意味が隠されている感じがしてならない。「長崎」は現行では宮古に地名としてはないようだが、海浜であるから、旧通称とすれば、あっておかしくはない。

「安部の晴行」陰陽師であることは姓名から判るが、不詳。

「猿樂」語り出すと大変なので、当該ウィキを見られたい。

「閉伊ノ郡、山田の港の近くの小山田と云ふ里」「山田の港」は現在の岩手県下閉伊郡山田町山田のここであるが(ちゃんと「山田漁港」がある)、宮古からは十六キロ以上も離れてはいる。都市街地に「小山田」はあるが、そもそも語り手はわざわざ「山田の港の近くの」と冠して「小山田」と述べているのだから、宮古のそれと誤る可能性は零であり、だいだいからして、この宮古の「小山田」は閉伊川河口近くの右岸で、設定である峠に合わないから絶対に違う。以下で、「其日になつて其里の老若の女子どもが、われもわれもと其峠へ見物に押し寄せて行つた。其中にシタミヨウの母娘も交つてゐた」とある。京都の猿楽一座がやって来て、女人限定で興行するとなれば、この程度の距離はなんでもない。されば、やはり、郡山田町山田である。「猿樂峠」は見当たらないが、一つ、宮古方向から越える峠で、山田町内に「祭神峠(さいのかみとうげ)」を認める。この「祭神」を別に読むと、「み」とも読め、「く」と似てはいる。位置的にも、これが「猿樂峠」の候補として挙げてよいようにも思える。「ひなたGPS」のその峠をリンクさせておく。

「ウンナン神」平凡社「世界大百科事典」の「ウナギ(鰻)」の解説中に(コンマは読点に代えた)、『旧仙台藩領に特徴的に分布するウンナン神』(がみ)『はウナギ神で、近世初期の新田開発と洪水の頻発から、ウナギは洪水を起こすものとして、これを慰撫(いぶ)、祭りこめたものと考えられる。ウンナン神社の多くは』、『湧水地や水流の近く,さらに落雷の跡に祭られるなど水神、作神的性格が強い』とあった。

「下閉伊郡刈屋村」現在の宮古市刈屋・和井内(わいない)に相当する(グーグル・マップ・データ。北に「和井内」)。

「今昔物語集」卷第五 天竺牧牛人入穴不出成石語第一

[やぶちゃん注:テクストは「やたがらすナビ」のものを加工データとして使用し、正字表記は国立国会図書館デジタルコレクションの芳賀矢一編「攷証今昔物語集 上」の当該話で確認した。本文の訓読はそれに加えて、所持する岩波書店「新日本古典文学大系」版「今昔物語集 一」(今野達校注一九九九年刊)の訓読と注を参考しつつ、カタカナをひらがなに代えて示した。漢文訓読の基本に基づき、助詞・助動詞の漢字をひらがなにしたりし、読み易さを考えて、読みの一部を送り出したり、記号等も使い、また、段落も成形した。]

 

   天竺(てんぢく)の牧牛(うしかひ)の人、穴に入りて出でず、石(いは)と成れる語(こと)第卅一

 

 今は昔、天竺に、佛(ほとけ)、未だ出で給はざる時、一人の牛飼ふ人、有りけり。

 數百頭(すひやくづ)の牛を飼ひて、林の中に至るに、一(ひとつ)の牛、共(とも)を離れて、獨り去りて、常に失せぬ。行く所を知らず。

 牛を飼ひて、日暮れに成りて、返らむと爲(す)るに、此の一の牛を見れば、他の牛にも似ず、殊に美麗なる姿なり。亦、鳴き吠ゆる事、常に似ず。亦、他(ほか)の諸(もろもろ)の牛、皆、此の牛に恐(おぢ)て、近付かず。

 此(か)くのごとくして、日來(ひごろ)有るを、此の人、恠(あや)しび思ふと云へども、其の故(ゆゑ)を知らず。

 然(さ)れば、此の人の、

『牛の行く所を見む。』

と思ひて、伺ひ見るに、此の牛、片山(かたやま)に、一の石(いは)の穴、有り、其の穴に入(い)る。此の人、亦、牛の尻(しり)に立ちて、入る。

 四、五里許(ばか)り入て、明らかなる野、有り。天竺にも似ず、目出たき花、盛りに開けて、菓(このみ)、滿ちたり。牛を見れば、一の所にして、草を食(じき)して立ちたり。此の人、此の菓の樹(うゑき)を見るに、赤く、黃にして、金(こがね)のごとし。菓一果(いつか)を取りて、貪(むさぼ)り愛(め)づと云へども、恐れて、食はず。

 而(しか)る間(あひだ)に、牛、出でぬ。此の人も、亦、牛に次ぎて、返り出づ。

 石の穴の所に至りて、未だ出でざる間に、一(ひとり)の惡鬼、出で來たりて、其の持ちたる菓を、奪(ば)ふ。此の人、此の菓を口に含みつ。鬼、亦、其の喉(のむど)を搜る。其の時に、此れを飮入(のみい)れつ。菓、既に腹に入りぬれば、其の身、卽ち、大きに肥えぬ。

 穴を出るに、頭(かしら)は、既に出(い)づと云へども、身、穴に滿ちて、出づる事を得ず。通る人に助くべき由を云へども、更に助くる人、無し。

 家の人、此れを聞きて、來たりて見るに、其の形、變じて、恐れずと云ふ事無し。其の人(ひ)と、穴の内にして有つる事を語る。家の人、諸(もろもろ)の人を集めて、引き出ださむと爲(す)れども、動く事、無し。

 國王、此の事を聞きて、人を遣(つかは)して掘らしむるに、亦、動く事、無し。

 日來(ひごろ)を經るに死にぬ。

 年月、積(つも)りて、石(いは)と成りて、人の形と有り。

 其の後(のち)、亦、國王、

「此れは、仙藥を服(ぶく)せるに依りてなり。」

と知りて、大臣に語りて云はく、

「彼れは、既に藥に依りて身を變ぜるなり。石(いは)なりと云へども、其の體(かたち)、既に神靈なり。人を遣して、少し許(ばか)りを、削(けづ)り取りて來たるべし。」

と。

 大臣、王の仰せを奉(うけたま)はりて、工(たくみ)と共に、其の所に行きて、力を盡して削ると云へども、一旬を經(ふ)るに、一斤(いつきん)も削り得ず。

 「其の體(からだ)、今に猶ほ有り。」となむ語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版の今野氏の脚注冒頭に、『出典に中インド贍波』(せんば:チャンパ)『国の事とする。「相伝云」とあり、もと現地で伝承されていた話らしい』とある。「付録」の「出典考証」によれば、原拠は知られた初唐の訳経僧玄奘三蔵の伝記「大慈恩寺三蔵法師伝」(玄奘の死から二十四年後の六八八年完成)の巻四の「贍波国」の条とあり、『同文性が顕著で、原文に依拠したことは確実』とある。なお、「贍波国」とは、チャンパーナガラChampānagara。紀元前六〇〇年頃、北インドに栄えた十六大国の一つであるアンガ国の首都チャンパーChampāの遺址とされ、マガダ国による占領後の釈迦の時代にも、インドの六大都市の一つとして栄えた。七世紀前半に玄奘がここを訪れ,瞻波(せんば)国として「大唐西域記」に記している。現在の、この附近に当たるようである(主文は平凡社「世界大百科事典」の「バーガルプル」の記載に拠った)。

「共」群れ。

「四、五里」唐代の一里は五百五十九・八メートルであるから、二・二四~二・八キロメートル。

「貪(むさぼ)り愛(め)づと云へども、恐れて、食はず」今野氏の注に、前半は『ひどく気に入ったけれども』とある。

「一斤(いつきん)も削り得ず」芳賀矢一編「攷証今昔物語集 上」では、『一片削得』。今野氏は『斤は片ともよめる』とされた上で、『一斤は十六両、普通一六〇匁(約六〇〇グラム)』と記しておられる。厳密には当時の一両は三十七・三グラム、「匁」は本邦の重量単位で、中国では「錢」に相当し、一錢は三・七三グラム、一斤は五百九十六・八二グラムである。

「其の體(からだ)、今に猶ほ有り」今野氏の脚注には、興味深いことが記されてある。『玄奘は実見したわけであるが、』勅官撰の「西国志」『には、時』の『人はこれを大頭仙人と称し、また「近有山内野火、焼ㇾ頭焦黒。命猶不ㇾ死」』(近きに、山の内に野火有りて、頭を焼きて、焦(こ)げ、黒し。未だ猶ほ、死なず。)『とする。ちなみに、こうした事情を伝えたのは玄奘と同時代』、『インドに使いした王玄策で、彼は三度現地を訪れてその頭を摩』(な)『でて会話し、意思疎通をしたという』とあって、驚天動地!]

2023/06/12

「新說百物語」巻之二 「幽霊昼出でし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

     幽霊昼出でし事

 一兩年先の事にてありしか[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、寺町蛸藥師の寺へ、あるさふらひ[やぶちゃん注:ママ。]、來たりて申されけるは、

「我等事、御存之通り、父母もなく、夫婦・家來はかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、くらし申し候ふ所、近頃、養子むすめをいたし、當年十六才になり申し候。此間、三夜があいた[やぶちゃん注:ママ。]、おなし[やぶちゃん注:ママ。]夢を見申し候。そのやうすは、わかきさふらひ、來りて、

『我は、此世に、なきものなり。名を申さぬとも、御亭主の覚へあるへし[やぶちゃん注:ママ。総てママ。]。とむらふ人もなきゆへに、中有(ちうう)に迷ふなり。念比に、とむらひ給はるへし[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。』

と申して歸へる、と。夢に申せしよし、少しは覺へ[やぶちゃん注:ママ。]も是あるなり。我等、傍輩(はうばい)の、おとをと、兄と、不和にて、別にくらして居たりしが、先年、相果て候ひて、當年八年になり候ふ。ことしも、それにてや候はん。御とふらひ、下さるへし。」

と、包銀《つつみぎん》やうの物を出して、賴みける。

 住持も、下池より、念比《ねんごろ》の人の申す事なれば、

「相《あひ》心得候ふ。」

とて、念比に、とむらひを、いたされける。

 そのゝち、又々、かの幽㚑(ゆうれい)、昼中《ひるなか》に、かのさむらひの方に來たりければ、夢に見たる人ゆへ、娘、殊の外、おどろき、にげんとするを、かのさむらひ、申しけるは、

「さらさら、おとろく[やぶちゃん注:ママ。]ものに、あらず。先日、夢に見へし侍なり。お影(かげ)にて、とむらひを受け、ありがたし。猶々、此上ながら、御たのみ申すなり。去年、七年忌にも、御法事にあつかり候へとも[やぶちゃん注:総てママ。]、わたくしかたへは、相《あひ》とゝき申さす[やぶちゃん注:ママ。]、殘念にそんし[やぶちゃん注:ママ。]候ふ。」

と申して歸りけるが、あるし[やぶちゃん注:ママ。]の侍と、行きちかひて[やぶちゃん注:ママ。]歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるし[やぶちゃん注:ママ。]の目には見へす[やぶちゃん注:ママ。]、とぞ。

 その後、猶々、寺へ賴み、法事をつとめける。

「七年忌に、さはる事、ありし。」

と申しける。

 住持、思ひ出せは[やぶちゃん注:ママ。]、折ふし、用事ありて、住持、外に一宿し、明日《あす》、歸りて、𢌞向いたされけるよし。

 其後、二月はかり[やぶちゃん注:ママ。]過《すぎ》て、またまた、娘のゆめに見へて、

「いよいよ、うかみ侍る。」

と申し、礼に來たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其後は、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]きたらさる[やぶちゃん注:ママ。]、となん。

[やぶちゃん注:「寺町蛸藥師の寺」現在の京都市中京区新京極蛸薬師東側町にある浄土宗西山深草派の浄瑠璃山永福寺(えいふくじ:グーグル・マップ・データ)。本尊は薬師如来(蛸薬師)で、通称で「蛸薬師堂」「蛸薬師」と呼ばれる。当該ウィキの「蛸薬師の名前の由来」によれば、『かつて永福寺があった二条室町の地(現・蛸薬師町)』(ここ。同前)『には池があり(現・御池之町や御池通)、当寺は俗称として水上(みなかみ)薬師や澤(たく)薬師と呼ばれていた。それがいつしか「たくやくし」が転訛して「蛸(たこ)薬師」となったというものである』が、『他にも、建長年間』(一二四九年~一二五六年)『の初め頃に僧善光が、病の母』が、『タコが食べたいとの願いを聞き、悩みながらも』、『自らタコを市場で買った。それを町の人たちに僧がタコを食うのかと咎められ、タコが入っている箱の中身を見せるようにと』、『皆で』、『善光を責めた。そこで善光は一心に薬師如来に「この蛸は、私の母の病気が良くなるようにと買ったものです。どうぞ、この難をお助け下さい」と祈るや、八本足のタコが光を放ちながら』、「法華経」『八巻に変化した。この光景を見た人たちは』、『皆』、『合掌して南無薬師如来と称えたところ、法華経八巻は』、『また』、『タコの姿に戻り、永福寺門前の池に潜っていった。そして、そのタコが放った瑠璃光を善光の母が浴びたところ、病気はたちまち回復した。それ以来、永福寺は霊験あらたかな蛸薬師堂と呼ばれ、その本尊は蛸薬師如来、親しみを込めて「蛸薬師さん」と称されたというものである』とあった。

「中有(ちうう)」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。所謂、逝去から七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。

「下池」不詳。但し、冒頭の注に、永福寺が元あった周辺には池が多かったということから、その旧地周辺にも檀家は多かったであろうことから、それを、かく呼んでいる可能性はあるように思われる。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「三輪式神話」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。「選集」の本篇全篇の終りには、編者注があり、その中には、『初出雑誌では、一節』(私が「章」と称しているものを指す)『は「郷土研究第一至山号を読む」、二節は「南方随筆」、三および四節は「南方雑記」と題されていた』とあり、この、本「續南方隨筆」に収録される際、『多くの増補、追加が行なわれ、「郷土研究一至三号を読む」という論題に統一されたものである』とある。]

 

    『鄕土硏究』一至三號を讀む

 

       (大正二年七月『鄕土硏究』第一卷第五號)

 

○三輪式神話(一號三四頁) の飜案らしいのが、「新編御伽草子」の内の「化物草紙」の第五條だ。足利義政頃、若《もし》くは其少し前の作らしい。山里の孤女《ひとりをんな》が案山子《かがし》でも來て吾《わが》夫になれば佳いと言ふと、弓箭《きゆうぜん》持つた男が、每夜、來て、語らふ。怪しき廉《すだれ》あつて、竊《ひそ》かに長い糸を付て止りたる所を尋《たづぬ》ると、田中の案山子だつた。爾來、跡、絕《たえ》た、とある。「平家物語」、緖方三郞が、蛇の遺子と云ふ話は、誰も能く知るが、同時《おなじとき》の人、河野通淸《かはのみちきよ》は、其母、嗣《あとつぎ》なきを憂ひ、氏神三島宮に祈つた處、明神、十六丈餘の大蛇と現じ、密通して㚺《はら》んだ子で、身、長く、鱗有《あつ》た、と「予章記」に見ゆ。「ダホメイ」國の蛇神は、近時迄、多くの婦女を娶《めと》り、人間の子を生んだ(アストレイ『新編紀行航記全集』卷三、三七頁、一七四六年板)。但し、是等には苧環《をだまき》の一件が無い。

[やぶちゃん注:初出の書誌は、底本で、は大標題の下にあるが、これは第「一」章の初出であるので、「一」の下に移動しておいた。

「三輪式神話」かなり知られたものだが、平凡社「百科事典マイペディア」の「三輪山伝説」から引くと(コンマを読点に代えた)、『三輪山の神をめぐる神婚説話。活玉依姫(いくたまよりひめ)に、夜ごとに通う男がいた。その正体をつきとめるため、糸巻の糸を通した針を』、『そっと』、『男の衣に付けておくと、翌朝』、『糸は鍵穴から抜け出ていた。辿っていくと〈美和山〉の社に着き、正体は神とわかる。糸巻に糸が』三『勾(みわ)』(三巻)『残っていたことから、その地を三輪と名づけた。生まれた子は三輪氏の祖〈大田田根子(おおたたねこ)〉となり、三輪山の神、大物主神を斎き祭ったと』「古事記」は『伝える。氏族伝承を三輪の地名起源説話としたもの』で、「日本書紀」の『崇神天皇』の『条では、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に通う神が、蛇体の正体をあらわすことになっている』とある。

「(一號三四頁)」「選集」には、編者による割注があり、そこには『高木高木敏雄「三輪式神婚説話について」』とある。

『「新編御伽草子」の内の「化物草紙」の第五條』国立国会図書館デジタルコレクションの萩野由之輯「新編御伽草子」(一九〇一年誠之堂書店刊)のここの左ページ最終行から、次のページにかけてで読める。終りの部分の頭注にも、『蓋大三輪神の故事を本として換骨脫胎せしものならむ文詞簡勁以て範となすべし』と記されてある。

「緖方三郞」緒方惟栄(これよし 生没年不詳)平安末期の豊後国(大分県)の武士。朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」によれば(コンマを読点に代えた)、惟能・惟義・伊能とも書く。『本姓は大神氏。宇佐八幡宮領緒方荘の荘司で、平重盛の家人であったが、豊後国知行国主藤原頼輔の説得で』、『反平家方に付き』、寿永二(一一八三)年八月に『京から太宰府に落ちた平家を一族で攻撃し、豊前方面に追い落とした。その後、元暦』元(一一八四)年七月には『平家方に付いた宇佐宮大宮司を攻撃するため、宇佐宮に乱入している。この事件は』、『朝廷の宗廟を汚したということで、京都でも大問題となった。その年の秋、源範頼の軍は平家追討のため』、『九州に向かう。翌年』二『月に緒方惟栄とその一族が』、『渡海に際し』、『船を調達し、大功をたてるが、先の宇佐宮焼き打ち事件のために配流の官符を受ける。その後、義経の九州下向計画に失敗し、摂津で捕らえられ、上野(群馬県)沼田荘に配流された』。「平家物語」巻八『「緒環」によれば、緒方氏の先祖は』、『豊後山里の娘と』、『そこに通っていた日向』『の姥岳の蛇神の間に生まれた男子で、あかぎれが多いので「胝大太」』(あかがりだいた)『と呼ばれたとある。惟栄はその』五『代目の孫で』、「源平盛衰記」には『身体に蛇の尾の形と鱗があるとされている。緒方氏の始祖伝承は』、「古事記」に『ある三輪山伝説(大神伝説)と同型の伝承であり、それが惟栄の強さの秘密を語る物語として利用されたものであろう』とあった。思うに、この緒方の直系には、遺伝性の先天性魚鱗癬(ぎょりんせん)があったのかも知れない。

「河野通淸」(?~養和元(一一八一)年)は武士。豪族親清(ちかきよ)の子。伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)を本領とし、伊予権介に任ぜられ、「河野介」と称した。治承四(一一八〇)年、源頼朝を始めとする反平家勢力が各地で蜂起した際、伊予国内で競合関係にあった高市(たかいち)氏が平家と結んでいたことから、通清も、同年の冬に挙兵、国中を管領して、正税官物を抑留した。しかし、翌養和元年、平家方の備中国住人沼賀(奴可:「ぬか」か?)入道西寂(=沼賀高信)に攻められ、高直(高縄)城に立て籠もって戦ったが、敗れて討死した(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。

「㚺」は底本は「奶」の字である。「選集」では「妊」に代えてある。しかし、「奶」は音「ダイ・ナイ」で、意味は「乳・乳汁・乳房」や、「母・乳母」、「育(はぐく)む」の意で、妊娠するの意味はないので、その字形に近い「孕」の異体字であるこれを採用した。

「苧環」糸によった麻(あさ)を、中を空虚にし、丸く巻きつけたもの。ここは不審の人物の追跡に用いる小道具としてのそれを指す。]

 苧環の話に似て、全然、情事なき支那譚は、永樂中、成《なつ》た「神僧傳」九にある。釋谷泉(宋の嘉祐十五年、九十二歲で寂す)、夜地坐祝融峰、下有大蟒繞之、泉解衣帶、縛其腰、中夜不ㇾ見、明日杖ㇾ策、遍山尋ㇾ之、衣帶纒枯松上、蓋松妖也。〔夜、祝融蜂の下(もと)に地座(ぢざ)するに、大いなる蟒(うはばみ)有りて、之れを盤繞(ばんねう)す。泉は、衣帶を解きて、其の腰に縛(つな)ぐ。中夜(ちゆうや)にして見えず。明日(みやうじつ)、策(つゑ)を杖(つ)き、遍(あまね)く、山に之れを尋ぬるに、衣帶は、枯れ松に纏(まと)へり。蓋し、松の妖なり。〕「夜譚漫錄」上にも、小兒の夜啼《よなき》を止《と》むる術を行ふ老婦が、小さな桑の弓に、桃の矢をはげ、矢に、數丈、長い絲を付《つけ》てまつと、長《たけ》、六、七寸の婦人樣の者、馬にのり、戈《ほこ》を操つて來《きた》る。それを射ると、迯出《にげだ》すを、糸をのばし、追迹《ついせき》して、其家の祖父が殘した老妾の肩に、矢が中《あた》り居《を》るを見出《みいだ》した、とある。又、常陸國人《ひたちのこくじん》、其妹を殺せし雷神の所在を尋ねるに、雉の尾に、績纏《へそ》を付けて維《つな》ぎ往きし話、昨年九月の『人類學雜誌』に出口君が引《ひい》て居る。

[やぶちゃん注:「永樂」明の永楽帝の元号。一四〇三年から一四二四年。

「神僧傳」二百人余りの神異僧の伝を集めたものであるが、作者は不詳。「大蔵経データベース」で校合した。

「宋の嘉祐十五年」「嘉祐」北宋の仁宗の治世で用いられた元号である(一〇五六年~一〇六三年)。前注で示した「大蔵経データベース」では、その年に示寂した、と、確かに書かれてあるのであるが、しかし、「嘉祐」は「八年」で終わっており、「十五年」は、ないのである。因みに、あったとして仮に数えてみると、熙寧四年(北宋の神宗の治世で用いられた年号)が、それに当たり、西暦では一〇七一年になる。

「夜譚漫錄」不詳。

「出口君」「選集」の割注により、在野の民俗学研究者出口米吉(よねきち)である。彼については、『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』の私の冒頭注を参照されたい。]

追 記 (大正十五年九月記) 「大淸一統志」八四と一三五に、憨子《かんし》[やぶちゃん注:「うすのろ・馬鹿者」の意。]、其の師の命により、水を汲む每に、一童子、來りて共に戲むる。其師、之を異とし、鐵針《てつばり》と紅線《べにいと》を以て、其童子の頂《いただき》にさゝしむると、葡萄の木の下に入《はいつ》た。由《よつ》てそこを掘ると、童子の形した人參を得、師が之を烹《に》かけて出ていつた間に、憨子と犬と、それを食ふて飛び去《さつ》た。又、明の樊玉衡《はんぎよくかう》は、商城に知縣たりし時、茄《なす》を盜まると訴ふる者あり。「そんな訴へは、きかぬ。」と却下した後ち、訴人をして、その茄每に、糸を、竹針につけて、腹を貫きおかせた。扨、又、盜まれて、翌朝、市え[やぶちゃん注:ママ。]往つて、竹針の入《はいつ》た茄を搜させたら、誰が盜んで賣《うつ》たと判つた、とある。

 歐州には「ゲスタ・ロマノルム」六三語に、或る武士が、羅馬帝の娘に、婚を求めて迷路に入る際、其帝女が、糸の玉を、其武士に授け、糸を牽《ひい》て、迷路に入つて、獅《しし》を殺し、又、糸を尋ねて、無事に出還《いでかへ》らしめ、めでたく婚姻した、とある。

 是は、希臘のテセウスが、迷路に入て、半人半牛の怪物ミノタウロスを殺す前に、王女で件《くだん》の怪物の妹たるパシファエーが、テセウスに糸を與え[やぶちゃん注:ママ。]、それを便りに、迷路から出で得たちう話から出たのだ。一八七六年板、ギルの「南太平洋の神誌及民謠」二八七頁に、トンガ人がトンガイチ・アカレヴァ・モアナに乘《のつ》て初めてマンガヤ島に着《つい》た時の大將は、ツランガ神の祭主で、その手に宏大な糸の球をもち、舟、進むにつけて、糸を牽き伸《のば》して、航海を遂《とげ》たが、島の南濱に達した時、さしもの糸が、盡き居《をつ》た。但し、其頃の洋面は、今の小湖の如く、至つて穩《おだや》かだつたといふ。是も、航海難儀とならば、糸を尋ねてトンガ島へ還る積《つもり》だつたと見える。トンガイチ・アカレヴァ・モアナは、獨木舟隊《まるきぶねたい》の名で、「トンガ人が天を航行する」てふ意味といふから、日本神代の天《あめ》の鳥船《とりふね》、天《あめ》の磐豫章船《いはくすふね》等の稱に近い。

追 記 (大正二年十二月『鄕土硏究』第一卷第十號) 三輪式神話の飜案らしいのが、今一つある。鎌倉幕府の世に成りし「今物語」に、小式部内侍、大二條殿(敎通)に愛せられし頃、公、久しく來らず。一夕、頻りに公の事を思ひ居ると、「御車の音抔も無くて、ふと、入らせ給ひたりければ、侍りえて、終夜、語らひ申《まをし》ける。曉方に、いささかまどろみたる夢に、糸の付《つき》たる針を、御直衣《おんなほし》の袖に刺すと見て、夢、寤(さめ)ぬ。偖《さて》、歸らせ給ひける晨《あした》に御名殘《おんなどり》を思ひ出で、例の端近く眺め居《ゐ》たるに、前なる櫻の木に、糸の下がりたるを、『怪し。』と思ひて見ければ、夢に御直衣の袖に刺しつる針なりけり。いと不思議也。あながちに物を思ふ折《をり》には、木草《きくさ》なれどもかやうなる事の侍るにや。其夜、御渡りある事、誠には無《なか》りけり」。是は、櫻の精が、敎通公に化《けし》て、小式部内侍を犯したので、一八九三年板、オエン女史の「オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー」四八頁にも、野櫻の靈が、印甸《インジアン》女に通じて、勇士を生んだ話がある。玄奘の「西域記」八には、一書生が波吒釐樹《ばたりじゆ》(きさゝげの類)の精と婚し、男子を擧《あげ》た事を記してゐる。

[やぶちゃん注:「今物語」は説話集。全一巻五十三話。延応元(一二三九)年以降の成立。画家・歌人として高名だった藤原信実が編んだとされる。当該ウィキによれば、『書名は、「当代の語り草を集めた」という意』。『対象とする時代は、鳥羽院政期』から『鎌倉時代初期まで』で、『歌物語風の説話を中心に、大宮人の色恋沙汰や風流な応酬から、失敗譚・滑稽譚までを簡潔流麗な和文体で記す』とある。以上の本文は所持する講談社学術文庫の三木紀人(すみと)全訳注(新字原文付き)で校合し、読みはそれに従った。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「女ごころ」子夜

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  女 ご こ ろ

            宿 昔 不 梳 頭

            絲 髮 被 兩 肩

            腕 伸 郞 膝 上

            何 處 不 可 憐

                  子  夜

 

むかし思へばおどろ髮

油もつけず梳(す)きもせず

一たび君に凭り伏して

わが身いとしやここかしこ

 

   ※

子 夜  三四世紀。 晉曲で有名な子夜歌の原曲である。 子夜は歌曲の名であって作者の名ではない、といふ說もあるけれども、今はこの曲の作者たる晉の女子の名だといふ說に從ふ。 傳は無論、未詳である。 子夜歌の今に傳はるものは四十二章あるが、玉石相半している。 佳なるものはその體の簡古、情緖の切實、眞(まこと)に秀絕(しうぜつ)で不朽の歌と稱していい。 宜(むべ)なる哉(かな)、李白なども之に學ぶところがあつた。 後人はこの體(たい)に倣つて、子夜四時歌、大子夜歌、子夜警歌、子夜變歌等の體を作つた。

   ※

[やぶちゃん注:この楽府題で最も知られるのは、李白「子夜吳歌」であろうが、ここにわざわざ注としてしゃっちょっこばって掲げるべきものではあるまい。原「子夜歌」は「楽府詩集」に全四十二首が載る。

・「凭り」「もたり」。

 以上の原詩は、所持する岩波文庫の松枝茂夫編の「中国名詩選」の「中」(一九八四年刊)を参考に訓読文と注を示す。

   *

 子夜歌(しやか)

宿昔(しゆくせき) 頭(かみ)を梳(くしけず)らず

絲髮(しはつ) 兩肩(りやうけん)に披(ひら)く

郎(らう)が膝の上に 婉伸(ゑんしん)して

何(いづ)れの處か 可憐ならざる

   *

・「宿昔」ここは「昨夜」の意。

・「絲髮」寝乱れて、すっかり絡んでしまった髪。

・「郎」男子の二人称。貴方。

・「婉伸」体を嫋(たお)やかにくねらせること。

・「何れの處か 可憐ならざる」松枝氏はこの結句部分の訳を直接話法として、『「ねえ、可愛いでしょ、あたしのどこもかしこも。」』とされておられる。実にお洒落!]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一五番 オシラ神

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一一五番 オシラ神

 

 昔、或所に百姓の爺樣婆樣があつて、美しい娘を一人持つて居た。そして又厩舍には一匹の葦毛(アシゲ)の馬を飼つて居た。その娘が年頃になると、每日每日厩舍の木戶木(キドギ)に凭れて、何か頻りに話をして居《を》たつたが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]其馬と夫婦になつた。

 父親はひどく怒つて、或日其馬を曳き出して、山畠へ連れて行つて、大きな桑の木の枝に釣《つる》し上げて責め殺した。そして生皮《なまがは》を剝いで居るところへ娘が來て見て泣いて居た。するとその生皮が、父親に剝ぎ上げられると、側(ソバ)で見て居た娘の體の方へ行つてぐるぐると卷き着(ツ)いて、天へ飛んで行つた。

 爺樣婆樣は家で娘のことを案じて每日每夜泣いていた。すると或夜娘が夢に見えて、父(トト)も母(ガガ)も決して泣いてくれるな。オレは生れやうが惡くて仕方がないので、あゝした態(ザマ)になつたのだから、どうかオレのことはあきらめてクナさい。その代り春三月の十六日の朝間《あさま》、夜明けに土間(ニワ)の臼の中を見てケテがんせ。臼の中に不思議な馬頭(ウマノカシラ)の形をした蟲が、ずツぱり(多數)湧いて居るから、それを葦毛(アシゲ)を殺した桑の木から葉を採つて來て飼つて置くと、其蟲が絹糸をこしらへますから、お前達はそれを賣つて生活(クラ)してケテがんせ。それはトトコ(蠶)と謂ふ蟲で世の寶物だからと言つた。さう聞いて兩親は夢から覺めた。

 爺樣婆樣は不思議な夢もあればあるものだと思つて居たが、三月の十六日の朝間になつたから、早く起きて土間の臼の中を覗いて見ると夢で見た通りの馬の頭の形をした蟲が多く湧いて居た。そこで山畠へ行つて桑の木の葉を採つて來てかけると、よく食つて繭をかけた。

 これが今の蠶の始まりであるという。さうして馬と娘は今のオシラ樣と謂ふ神樣になつた。それだからオシラ樣は馬頭(ウマガシラ)と姬頭《ひめがしら》との二體がある。

(私の稚《をさな》い時聽いた記憶、村の大洞お秀婆樣と云ふ巫女《みこ》婆樣が殊の外私を可愛(メゴ)がつて、春の野に蓬草《よもぎさう》などを摘みに私を連れ出して、こんな話を多く語つて聽かしてくれた。此婆樣から他の多くの呪詛の文句やカクシ念佛の話を聽かされた。此人は私を育ててくれた祖母の姉である。)

[やぶちゃん注:附記は、ポイントは本文と同じにして、引き上げた。

「オシラ神」「オシラ樣」については、ウィキの「おしら様」を参照されたいが、私は既に『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六九~七一 「おひで」ばあさまの話(オシラサマ他)』の注で、「ちくま文庫」版で本話を紹介している。そこで述べたが、一見、本伝承は全く以って中国の蚕馬(さんば)・蚕女(さんじょ)・馬頭娘(ばとうじょう)等の古伝承のマンマの翻案のように見える。この中国の神話は「柳田國男 うつぼ舟の話 三」「柳田國男 炭燒小五郞が事 五」の私の注で説明しているので、そちらを参照されたいが(先のウィキにも載る)、私は個人的には、馬と娘の異類婚姻譚が、中国と日本とで共時的に発生し、蚕と馬の相似形で後付けされた「養蚕創造神話」としての共通はあるものの、全体は一種の平行進化ではないかという考えを捨てきれないでいるのである。

「カクシ念佛」小学館「日本大百科全書」の「隠し念仏」から引く。『東北地方のうち、とくに岩手・宮城両県から北海道の一部にかけて行われている秘密宗教』的な『細胞組織』に相当するもの。『信徒たちは自ら「御内法(ごないほう)」とよぶが、世間からは「御庫(おくら)念仏」「庫法門(くらほうもん)」「土蔵秘事(どぞうひじ)」などとよばれる。西の隠れキリシタンに対して、東の隠し念仏といわれる。もと室町時代に東北地方に行われていた密教系の念仏が、江戸幕府の宗教政策のもと』で、『寺院本末化、檀家』『制度化が進むに』際し、『浄土真宗の傘下に入るのを得策として、表面からは密教色を去り、真宗の教義による外貌(がいぼう)をとり』ながら、『内面では秘密念仏的性格を堅持し続けた。それゆえ、真宗に往々みかけられた異端としての秘事法門(ひじぼうもん)の一種のごとくに扱われたことが多い。所依の経典としては』、覚鑁(かくばん:興教大師)の「五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)」(「五輪九字秘釈」とも呼ぶ)で、『弘法』『大師、興教大師、親鸞上人』の三者の『像を崇(あが)め、とくに親鸞上人』七十一『歳御自作と称する木像を秘蔵することもあり、「御執上(おとりあげ)」と称する入信式では「指を組む」と』言って、『真言の印契(いんかい)に似た法式をとるなど、密教色を中心に含んでいる。隠し念仏が世間に知られたのは』宝暦三(一七五三)年、『仙台藩水沢領主伊達主水(だてもんど)の家臣山崎杢左衛門(もくざえもん)ら』四『名が京都で鍵屋(かぎや)五兵衛善休から相伝を受けて帰り』、『布教するうち、邪宗として摘発され、翌年磔刑(たっけい)に処せられた一件であった。この善休の系統は京都の鍵屋宇兵衛道清(どうせい)』(寛文三(一六六三)年没)『に始まり、幕末から』は『分派も多く発生し、広く行われているほか、福島県の大網常瑞(じょうずい)寺(白河市)系統の秘事法門は、親鸞―善鸞―如信と相伝したものと伝え、同じく東北の隠し念仏として知られている。その儀式の多くは、暗夜に』、『わずかの燈火のもとで行われ、俗人の指導者に導かれて、ひたすら念仏または「助けたまえ」の繰り返しのうちに、放心状態になると、口中やまぶたを調べて、救済された旨』、『宣言をし、意識の回復したのちは、けっして他言しないと誓約させられる、というものである。また』、『村ごとに役員を置くが、農閑期を利用して「御執上」(入信式)を』六~十五『歳の児童に施し、それを済ませると』、『共同体成員として一生涯が安定することになっており、嫁取り・婿取りに際して』、『これを行うことも多い』とある。]

南方熊楠「鷲石考」(「續南方隨筆」所収・正規表現版・藪野直史オリジナル注附・PDF一括版・2.86MB)公開

南方熊楠の「鷲石考」(「續南方隨筆」所収・正規表現版・藪野直史オリジナル注附・PDF一括版・2.86MB)(ブログ版で施した私の読みを総て除去したもの)をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

2023/06/11

「新說百物語」巻之二 「坂口氏大江山へ行きし事」

 

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   坂口氏大江山へ行きし事

 丹州福知山の邊に、坂口なにがしといふ侍(さふらい[やぶちゃん注:ママ。])あり。

 其所の地頭より、さしづにて、栂井(とがゐ)氏のむすめを、もらひて、何のふじゆうもなく、折ふし、おなし[やぶちゃん注:ママ。]年頃の友達、四、五人ありて、折々は、出會ひ、夜はなしなど、いたしけるが、ふと、其中のひとりの友、いふやう、

「大江山の洞穴(ほらあな)は、今にいたりて、はいれは[やぶちゃん注:ママ。]、あやしき事あるよし、いゝつたふ。ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なる事なり。」

といふを、彼の坂口なにがし、聞きて、

「夫《それ》は、おもしろき事を、うけ給はるものかな。それがし、近日、見て參らん。」

と申しける。

[やぶちゃん注:「福知山」「大江山」酒呑童子の根城として知られる、現在の京都府丹後半島の付根に位置し、与謝野町・福知山市(グーグル・マップ・データ)・宮津市に跨る連山。標高八百三十二メートル。ここ(同前)。]

 皆々、

「それは、いらぬ、ぶへんだてなり。かならす[やぶちゃん注:ママ。]、無用にいたさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しければ、其夜は、その分にて、すみぬ。

 坂口、つくつく[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。]と、おもふやう、

『何さま、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なる事かな。ひそかに、見て來ん。』

と、女房にも、

「外へ行く。」

と申して、大江山の洞穴にそ[やぶちゃん注:ママ。]、おもむきける。

 先《まづ》、洞の口を、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]はかり[やぶちゃん注:ママ。]行く間は、殊の外、せまくて、次㐧次㐧に、道も、ひろく、およそ二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]斗《ばかり》ゆくとおもへば、十間、弐拾間も、あいだを置きて、石の燈臺(とうだい)、あり。

 上よりは、唯(たゞ)、雫(しづく)、

「ほたほた」

と落ちて、うすぐらく、ひやひやしたる風、吹き來り、そのにほひ、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]、なまくさく、夫《それ》を、こらへて、四、五町、ゆきたれは[やぶちゃん注:ママ。]、洞の内、余ほど、あかく、むかふに、川音、聞へたり。しはらく[やぶちゃん注:ママ。]、腰(こし)打《うち》かけて、やすみける。

 其かたはらに、おもひもよらぬ女の、さしぐし一枚、おもたかのまきゑ、うきたるが、石のうへに、ありける。

[やぶちゃん注:「おもたかのまきゑ」その差し櫛の表面にオモダカ(澤瀉・面高。の水生植物で単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ Sagittaria trifolia )の葉或いは花を図案化した模様が描かれていたのである。]

 さしもの坂口、

「ぞつ」

として、何とやら、身の毛も、よだち、夫より、

『歸らん。』

と思ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]

『何さま、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なることなり。』

と、その櫛(くし)を、ふところにいれて、歸りける。

 今、來たりし時には、なかりしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、かうがひ[やぶちゃん注:ママ。「笄(かうがい)」。]、または、香箱(かうはこ)なと[やぶちゃん注:ママ。]、落ちてあり。

 なにとやら、見知りたる樣に覺へて、ことことく[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。]ひろひかへりける。

『今すこしにて、洞の口へ、いでん。』

と、おもふ頃、今、きりたると見へし、女の首、道の眞中に、あり。

 よくよく見れは[やぶちゃん注:ママ。]、我《わが》女房の首なり。

 坂口、おゝきおとろきなから[やぶちゃん注:総てママ。]、是非なく、これも、持ちかへりて、我内《わがうち》に、かへりぬ。

 表より、内を見れば、女房は、常のことく[やぶちゃん注:ママ。]針仕事いたし居《wり》けるにより、手にさけ[やぶちゃん注:ママ。]たる首を見れは[やぶちゃん注:ママ。]、大きなる自然生(じねんじやう)の「山のいも」なりけり。

 右の樣子を、女房にかたりて、右の櫛などを見せければ、女房の長持に、たしなみをきし手道具の内なり。

 最前の友たち、よびあつめ、始終を、かたりければ、をのをの、きもを、つぶしける。

 此坂口、後に京都に來たり、元文のはじめ、相果てけるが、直《ぢき》に物語いたしける。

[やぶちゃん注:我々が普通に食べている単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica の天然の「自然生(じねんじょう)」「自然薯(じねんじょ)」である。

「元文のはじめ」元文は六年までで、一七三六年から一七四一年まで。本書の刊行は明和四(一七六七)年春で、著者は京の版元であるから、筆者自身が、三十年ほど前、坂口自身の直談を記した実話怪談・都市伝説ということになる。]

「新說百物語」巻之二 「光顯といふ僧度々變化に逢ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正と合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   光顯(くわうけん)といふ僧度々變化(へんげ)に逢《あひ》し事

 大和の夕崎(ゆふさき)といふ所にて生れたる三五郞といふもの、あり。

[やぶちゃん注:「夕崎」現在の奈良県磯城(しき)郡川西町(かわにしちょう)大字結崎(ゆうざき:グーグル・マップ・データ)。平凡社「世界大百科事典」に拠れば、『奈良盆地中央部の低地で』、『寺川右岸に位置する。魚崎』・『夕崎とも書く。鎌倉時代から地名として土地売券等に所見するが』、『荘園としての領有関係は未詳。興福寺か春日社領であった可能性があり』、『地域内に春日社末社があったという。江戸時代初期の結崎村は』二千二百五十五『石余(元和郷帳)』である。『結崎が歴史地名として著名なのは』、『能楽の観世座が』、『その草創期に』、『ここに本拠をすえたことによる』とあった。]

 うまれつき、器量もよく、色しろ[やぶちゃん注:ママ。]なる生まれつきにてありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、幼少より、手習《てならひ》を好み、本などをよむ事を、たのしみにいたしけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、親も、男子は、外に弐人ありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、其村の寺へたのみ、出家に、いたしける。

 螢雪のつとめ、おこたらす[やぶちゃん注:ママ。]、十六才の冬、剃髮して、名を「光顯」とそ[やぶちゃん注:ママ。]申しける。

 殊の外、美僧にて、なかなか、田舍そだちとは、見へざりけり。

 又、其近在に、庄屋權九郞といふもの、あり。

 壱人の娘ありけるが、生まれつきも、きれいにて、心たて[やぶちゃん注:ママ。]も、やさしきものなりけり。

 權九郞、親の年忌にあたり、彼《かの》夕崎の老僧を招待しけるが、光顯も一所に佛事に來たりけるを、彼《かの》娘、ふと、見そめ、戀慕の心を生し[やぶちゃん注:ママ。]、そのゝち、何とやら、心あしく打ちふし居《ゐ》ける。

 たよりを求めて、光顯の方へ、文など送りけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、一圓、合点せす[やぶちゃん注:ママ。]

 彼のむすめは、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])に、むなしくなりにける。

 

Kuwaukenhenge

[やぶちゃん注:底本の方が綺麗なので、リンクさせておく。底本の方を見ると、光顕を挟んで左右にかけて、キャプションが、

なにを

 うらみ

   が

 

    ある

と視認出来る。]

 

 ある夜、光顯、四つ過きて[やぶちゃん注:ママ。]、机に悬(かゝ)[やぶちゃん注:「懸」の異体字。]りて、學文いたし居《をり》けるが、むかふの行燈(あんどん)、にはかに、うこき[やぶちゃん注:ママ。]出《いで》て、

「はつ」

と、燃上(もへあが[やぶちゃん注:ママ。])りけるを、打ちけしければ、火は、たちまち、消(きえ)て、その行燈、ありしむすめのかたちとなり、ものをも、いはす[やぶちゃん注:ママ。]

「つつくり」

と、立ちゐたり。

 光顯、さはかす[やぶちゃん注:ママ。「騷がず」。]、火打ちを取り出《いだ》し、火を、うちて、あんどんにうつさんとすれは[やぶちゃん注:ママ。]、姿は、きへて[やぶちゃん注:ママ。]、もとの行燈、きずもつかずに、ありけり。

 夫《それ》より、每夜每夜、かくの如くなれは[やぶちゃん注:ママ。]、さしもの光顯も、おゝきに[やぶちゃん注:ママ。]こまり、師匠に、いとまこひして、京都西山に登り、所化寮(しよけりやう)にくらしける。

[やぶちゃん注:「京都西山」京都市西京区(洛西)・長岡京市・向日市・大山崎町に跨る地域で、西山三山(善峯寺(よしみねでら)・光明寺・楊谷寺(ようこくじ))などm西山の名を冠する寺社も多い地区である。この中央の広域(グーグル・マップ・データ)。

「所化寮」所化は修行中の学生(がくしょう)僧で、彼らのための住み込みの僧堂を言う。]

 当分、四、五日は、何の事もなかりしか[やぶちゃん注:ママ。]、こゝにては、夜ふけて、ねいりぬれは[やぶちゃん注:ママ。]、彼のむすめ、枕もとに來たり、殊の外、つめたき手にて、顏を、なで、手をとりて、さめさめ[やぶちゃん注:ママ。]と、泣くていなり。

 此所《ここ》も、ながくいられず、京都へ出《いで》て、西寺町の寺に、しばし、住みけるが、又、こゝにても、夜分、夜着(よき[やぶちゃん注:ママ。])の裾より、手を、いれて、足などを、なて[やぶちゃん注:ママ。]けるか[やぶちゃん注:ママ。]、そのつめたさ、氷(こほり)のことく[やぶちゃん注:ママ。]、きみわるき事、いはんかたなし。

 其寺の住持、是を聞き、每夜每夜、「金剛經」を十遍つゝ[やぶちゃん注:ママ。]、枕もとにて、となへけれは[やぶちゃん注:ママ。]、その夜は、何のことも、なし。

 もしも、おこたれは[やぶちゃん注:ママ。]、前のことく[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 ある夜、住持、留主(るす)にてありける夜、又、例の變化、來たりけるを、數珠にて、拂(はら)ひ除(の)けんとしければ、その顏、すさましくなり、まなこ、ひかりて、

「此度《このたび》は、たすくるとも、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])に命をとらん。」

と申して、歸りける。

 光顯も、夫《それ》より、浮世を、おもひきり、諸國安脚に出でけるが、ふしぎなる事ありて、もとの大和に歸りて、宜しからぬ死を、いたしける。

[やぶちゃん注:「宜しからぬ死を、いたしける」前の過程部分がよく書けているだけに、ここは、是非とも、そのさまを描いて欲しかったな。ちょっと残念。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「よき人が笛の音きこゆ」黃氏女

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

  

  よき人が笛の音きこゆ

            欄 干 閑 倚 日 偏 長

            短 笛 無 情 苦 斷 傷

            安 得 身 輕 如 燕 子

            隨 風 容 易 到 君 傍

                  黃 氏 女

 

おばしまのわがつれづれに

憂き笛ぞいよよ切なき

なぞわが身つばくらならぬ

風に乘り君がり行かぬ

 

   ※

  十三世紀中葉。 宋朝の理宗の時代。 閩人(びんじん)の潘用中(はんようちゆう)といふ人が父に隨うて都に居住してゐた。 この靑年は笛を弄ぶことを愛したが、隣人黃氏の女は、潘の笛を聞いてその人を慕ひ、潘は彼女を見て帕(はく)に詩を題して胡桃をつつんで投げた。彼女も亦、同じく胡桃をつつんだ帕に題した返事の詩がここに譯出したものである。彼等は遂にこの緣によつてむつまじい夫妻となり、帕中の詩は佳話として世閒に擴まり、宮廷にまで傳はつて、理宗をして奇遇だと嵯嘆せしめた。

   ※

[やぶちゃん注:「十三世紀」北宋末から南宋前期。

「理宗」南宋の第五代皇帝。在位は一二二四年九月から一二六四年十一月まで。

「閩人」福建省の古い呼称が「閩」で、そこ出身の人。

「帕」多くは方形で、手・顔などを拭いたり、頭を包(くる)んだりするための布を言う。

   *

題は以上の通りのラヴ・レターの詩だから、本来、ないだろう。ネット上にはこの詩は見当たらない。推定訓読する。

   *

欄干 閑かに倚る 日 偏(ひと)へに長く

短き笛(ふえのね) 無情にして 苦(はなは)だ斷傷(だんしやう)

安(なん)ぞ身輕を得んや 燕子(つばくら)のごと

風に隨ひて 容易に君が傍(かたはら)に到らんことを

   *]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(5) / 「附錄」の「○雄鷲石」及び「○僞鷲石」 / 鷲石考~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。

 なお、初回の冒頭注も参照されたい。]

 

○雄鷲石 一八七六年板、ワーター編纂、サウゼイの『隨得手錄』第一輯五二七頁に、チャーレス一世(十七世紀)の時、バートレットなる人、多くの財寶を抄掠《せうりやく》[やぶちゃん注:略奪。]された内に雄鷲石《ゆうしゆうせき》一つあり。曾て、一醫士、三十金を以て之を買《かは》んと申し出た、とある。是は、既に第一篇の初めに述《のべ》た如く、プリニウスが鷲石は每(つね)に雌雄二つ揃ふて鷲の巢にあると云《いつ》た、その二つの内の雄石だろうか[やぶちゃん注:ママ。]。はた又、一六四八年、ボノニア板、アルドロヴァンジの「礦物集覽」第四卷五八章にみゆる、雄鷲《をすわし》の體内より見出《みいだ》された石だらうかと、大正十二年八月二十五日の『ノーツ・エンド・キーリス』一五五頁へ質問をのせたに、誰も答ふる者が今日迄ない。

○僞鷲石 一七四六年板、アストレイの「新編水陸紀行集」第三卷三七三頁に云《いは》く、喜望峯地方で、小石原や澤邊に僞鷲石《ぎしゆうせき》あり、ほゞ圓《まる》く、栗の大《おほき》さで、中空に砂等を滿てたり。其外面はサビで被はる。此物を大奇品として他邦人に贈る、と。是は、日本で、所謂、「饅頭石」の如く、石の中に、土砂斗《ばか》り藏《をさ》めた麁末《そまつ》な品で、日本で所謂、「スズイシ」程、石中の石が堅くて、遊離し居《を》るものを、「眞《しん》の鷲石」、さもない者を、「僞鷲石」と呼んだのだろう[やぶちゃん注:ママ。]。(大正十五年九月十九日朝十時稿成る。)

[やぶちゃん注:最後に私は所持している「南方熊楠を知る事典」(一九九三年講談社現代新書刊)のウェヴ・サイト内の原田健一氏の「鷲石考/孕石のこと」の記事をリンクさせておく。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(4) / 「附錄」の「○鷲石に關する一說」

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。

 なお、初回の冒頭注も参照されたい。]

 

○鷲石に關する一說 英語で書いた版本にn.d.というのがある。no date(日附けなし)の略字で、表題紙にも序文にも出板の年を記しおらぬ。是れはいつも新刊書とみせて客を釣るためで卑劣な行ひだ。チャーレス・デ・カイの「鳥神論」がその一例で、ニゥヨルク[やぶちゃん注:ニューヨーク。]のバーンス會社出板とだけ示して、其《その》年記なし。たゞ、表題紙裏に、細字で、一八九八年著者板權認可と出《だ》しあり、先《まづ》は其頃の著作か。根つから、素性のよくない本だが、鷲石のことを、一寸、論じあるから、こんな物さえ[やぶちゃん注:ママ。]買ふ人有《あら》ばこそ賣る人もあると、歐米崇拜家輩に、その議論の詰《つま》らなさ程度を示さう。その略に云く、フィンランドの古傳に、イルマリネンが鋼・鐵・焰の三物《みつもの》で鷲を作る。ポーヨラの醜婆、火の鷲をして、レムミンカイネンを呑《のま》しめんとした。エストニアの舊說に、島母《しまはは》が、海底よりかき上げた鷲卵《わしのたまご》を、晝は、日の熱、夜は、吾が身で、溫め、孵《かへ》した。印度の敎典には、金翅鳥王《こんじてうわう》は日神《ひのかみ》の馭者アルナと、一卵より、双生した等、鷲と、日や火を連ねた譚が、諸邦にある。扨、鷲が老《おい》て、動作、きかなく成《なつ》たを、みた人、なく、其死體を見た者、なし。數百年間、鳥類の王とし、統制した後ち、高く九天を凌いで、日輪の大光明中に入《いり》て、復た、見えず。それより、若返つて、海中に飛下《とびくだ》る。火に淨められて、二度めの生命を獲る事、ヘラクレスに異《こと》ならぬ。されば、古埃及人が日《ひ》の表章とし、火《ひ》の力で復活すと信じたフェニクスが鷲の事たるや、論を俟たず。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。附記の際に熊楠が行う仕儀。]

 フェニクスは、支那の「鳳凰」に當て譯したり、マルコ・ポロの「記行」や「千一夜譚」に見えたマダガスカルの「ロク」や、ペルシア書に出た巨鳥「シムール」や、ヒンズー敎・佛敎の經典にある「金翅鳥王」と混同された。ヘロドトスの「史書」第二卷七三章に、初めてフェニクスを記し、云く、『予は、此神鳥を繪で斗《ばか》りみた。實は、埃及でも希有の物で、ヘリオポリス(日都)人の說に、その老鳥が死んだ時、五百年に一度、此都へ來るといふ。繪でみた所ろ、羽毛、一部、赤、一部、金色で、形ちと、大きさは、殆んど鷲の如し。日都人の、この鳥の話はうそらしい。云く、此鳥の親、死したら、其尸《しかばね》を、全く、沒藥《もつやく》でぬりこめて、アラビアより日都へ將來し、そこに埋める。之を將來するに、先づ、自分が運び得る丈《だけ》の大《おほき》さに、沒藥を圓《まる》め、中を空にして、親の屍を納め、穴口を新しい沒藥で埋める、と。かうしない[やぶちゃん注:ママ。「選集」も同じだが、意味が通らない。「かうすると、」の誤記ではあるまいか?]内と正しく同重量となる。それを埃及に持來《もちきた》つて、日堂に納む。』と。プリニウスの「博物志」第十卷二章には、エチオピアと印度に、他に優れて、羽色多樣で、文筆の記述し能はざる鳥を產す。其第一は、フェニクス、是れ、アラビアの名鳥だ。全世界に唯《ただ》一羽、存し、屢《しばし》ば見える物でない。大さ、鷲の如く、頸のぐるりの羽毛、金色で、輝き、其他の諸部は、紫で、尾は碧色、其れに、桃色を雜《まぢ》えた長い羽あり。喉に垂囊《すいなう》、頭に、冠毛あり。精《くは》しく此鳥を初めて記載した羅馬人は議官マニリウス、此人は、敎師なしに博覽の高名を博した。其說に、此鳥、食事するを、見た者なく、アラビア人は「日の神鳥」と崇む。壽命は五百四十歲、老《おゆ》れば、カツシアと、香木の枝で、巢を作り、諸香を中に滿《みたし》て、之に臥して、死す。すると、其骨と、髓より、一疋の小虫、生じ、漸《やうや》く化して、小鳥となり、先づ、死鳥の葬禮を營なみ、彼《か》の巢を、そつくり、パンカイアに近い日都に運び、日神の壇に、之を、おく、と。「フィシヨログス」(動物譬喩譚)は、出處雜駁、或は、不明の怪しい物だが、中世、尤も廣く歐州で行《おこなは》れた。隨つて、其第七譬喩なるフェニクス譚は一番多く世間に傳播されて、今に、俗耳を鼓吹しおる[やぶちゃん注:ママ。]。云く、フェニクスは印度の鳥で、空氣を吸《すつ》て、五百年、生き、其後ち、翅に香類を載《のせ》て、日都に飛行《とびゆ》き、日神廟に入《いつ》て、壇上で、自《みづか》ら、焚《や》くと、翌日、其灰より、其雛、自《おのづか》ら生じあり。三日目に、翅、全く成《なり》て、祠官を禮し、飛び去る云々と。

[やぶちゃん注:一字下げは、ここで終わる。

「ヘリオポリス」(ギリシア語ラテン文字転写:Helioupolis/英語等:Heliopolis)は、当該ウィキによれば(地図あり)、『現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市。よく知られている都市の名はギリシャ人によって名づけられたもので、ギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意味である。古代名では「Iunu イウヌ」あるいは「On オン」と呼ばれていた』。『ヘリオポリスはヘルモポリス』(リンクは当該ウィキ)『と並んで、古代エジプトの創世神話の中心地として有名である』とある。

「沒藥」ムクロジ目カンラン科カンラン科 Burseraceae のコンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂を指す。ウィキの「没薬」によれば、『スーダン、ソマリア、南アフリカ、紅海沿岸の乾燥した高地に自生』し、『起源についてはアフリカであることは確実であるとされる』。『古くから香として焚いて使用されていた記録が残され』、『また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とある。

『プリニウスの「博物志」第十卷二章には、エチオピアと印度に、他に優れて、羽色多樣で、文筆の記述し能はざる鳥を產す。其第一は、フェニクス、是れ、アラビアの名鳥だ。全世界に唯《ただ》一羽、存し、屢ば見える物でない』当該部は、所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)で確認した。ただ、言っておくと、このフェニックス(不死鳥)の話の冒頭では、プリニウス自身が、『(これはたぶん架空な話と思うが)』と初めにしっかり附言している。

「喉に垂囊」この熊楠の謂いは、あたかも砂嚢を想起させるが、前記の訳では、『喉にはところどころ毛の房があり』で、印象が異なる。]

 鷲は、火に因て、自《みづから》再生するのみならず、又、實に、火に試されて生存を始む。蓋し、鷲、子を生み、其子、日を視て眴(ましろ[やぶちゃん注:「まじろく」「瞬(まじろ)ぐ」の古形。「またたく」の意。])げば、鷲として生活するに堪《たへ》ぬ者として殺し了《をは》る、と云ふ。鷲の巢より見出さるゝ鷲石は、二百年前迄、種々、奇効ありとて貴ばれた。酸化鐵にさび付《つか》れた粘土質の小石、又、圓い石で、其腹空しき内に、石、又は、結晶が離れあり、明らかに火の作用に基づくを示す。惟《おも》ふに、古人は、鷲が此石を、日、若《もし》くは、火山より持《もつ》て來た、と考えた[やぶちゃん注:ママ。]のだ。何にしろ、鷲石は、眼病を治し、難產を救ひ、又、奇な事には、盜賊を露はす功あり、とされた。多分、日より出たもの故、盜人がいかに匿《かく》すも、日の照覽をゴマカシ得ぬてふ譯だろう[やぶちゃん注:ママ。]。鷲は、其卵を速く孵すため、此石を巢に納《をさめ》ると云ふのも、亦、此石は日の熱を享《う》け持ちおる[やぶちゃん注:ママ。]としたからだ、と。

 デ・カイ氏は、種々の話を並べ立《たて》て、其出所を明示せず。是亦、庸人《ようじん》[やぶちゃん注:一般人。]を驚かし、學者を馬鹿にしたやり方で、見やう見まねに、近來、本邦にも、こんな著書や立論が大流行だ。「鷲が老《おい》て、動作、きかなく成《なつ》たを、みた人、なく、其死骸を見た人、なし。」とは、プリニウスの「博物志」第十卷四章に「鷲は、老と、病と、餓《うゑ》で、死なず。たゞ久しく生きると、上嘴《じやうし》が長く伸び、且つ、甚だしく曲つて、口を開く能はずして、死ぬる。」(熊楠謂ふ、そんなら、矢張、老と餓に殺されたのだ)とあるを、小刀細工したので、「數百年間、鳥類の王として云々」と冒頭して、鷲が日の大光明中に入《はいつ》て見えなくなり、其より、若返つて、海中に飛び下る云々、と云《いつ》たは、例の「フィシヨログス」の第六譬喩に、鷲、老ゆれば、日光にあたり、扨、噴泉に浴して、若返る、と有るを、デ・カイ自身が、其書の八章の初めに述た通り、米國東海岸で、米國產の鷲が、海から飛《とん》できて、山を踰《こ》え去《さつ》た景觀から思ひ付《つい》て、『日光に當《あた》り』を、日輪に直入する如く、吹き增し、『噴泉』を『海中』と改作したので、自論を翼《たす》けんとて、虛構・假說を、何か確かな古書に載りある樣に書立《かきたて》た、誠《まこ》とに、恥なきの至りである。

 扨、「フェニクスが鷲の事たるや、論を俟《また》ず。」とは、是れ亦、不實で、人を欺むかんとする者だ。「大英百科全書」十一板二十一卷、「フェニクス」の條に、『ホラポルロン(五世紀の初頃《はじめごろ》)とタキツス(紀元五五年頃―一一七年頃)は、明かに、フェニクスを日の表章と云た。今、吾人は、埃及の諸古文より、ベヌなる水鳥が日都鎭座の神の表章の一で、又、旭日の表章たり。隨《したがつ》て、日が、每旦《まいあさ》、復活するを標示し、曰神ラの魂、又、新たな日の心臟と稱せられた、と知る。去《され》ば、旭日が東方に出るを、ベヌが東方より諸香を持來《もちきた》るとしたので、埃及語で「ベヌ」、希臘語の「フェニクス」、何《いづ》れも鳥の名で、或る椰樹の名を兼《かね》たのをみると、どうも、「ベヌ」の「フェニクス」たるを疑ふ可らず。扨、プリニウスが記した、紫がちの羽色なフェニクスに最も恰當《かふたう》[やぶちゃん注:過不足のないこと。ぴったりしていること。]する埃及の水鳥は、アルデア・プルプレア(紫鷺《ムラサキサギ》)だ。ヘロドトスが、フェニクスの形ちも、大きさも、殆んど鷲のごとしと云《いつ》たは、全く記臆の失《しつ》だろう[やぶちゃん注:ママ。]、」と論じある。「紫鷺」は、中南歐州より、南阿、又、印度より、支那、呂宋《ルソン》に產す(「劍橋《ケンブリツジ》動物學」第九卷九三頁。バルフォール「印度事彙」、「アルデア」の條)。モレンドルフ說に、支那名「天果鳥」、天津で「花窪子《くわわし》」といふ由。和名「ムラサキサギ」とて、石垣島に來《きた》るは、同屬別種らしい(『皇立亞細亞協會北支那支部雜誌』第二輯第十一卷百頁。故小川實氏「日本鳥類目錄」三四四頁)。一九〇四年板、バツヂの「埃及神譜」第二卷三七一頁には、『ベンヌは、自《おのづか》ら生《うま》れ、日都の神木のペルセア樹の頂に燃《もゆ》る火より、出で、生來の「日の鳥」で、「旭」の表章で、又、死んだ日の神オシリスより生ずるから、其《それ》、神鳥たり。每旦、新生する旭を表わすのみならず、夙《つと》に、「人間再活」の象徵たり。昨日の沒日《いりひ》より、今日の旭日が生ずる如く、物質的の人尸《じんし》より、精神的の人身が、生ずるからだ。此鳥は、オシリスの心臟より生じ、最も神聖な鳥で、墓内《はかうち》の一室の、側に生《はえ》た木に、宿つた體に、畫《ゑが》かる。」と有《あつ》て、何の種と明言せぬが、鷺の一種と、しある。一八九四年板、マスペロの「開化の曉」一三六頁には、ヘロドトスが、形と大《おほき》さが鷲の如し、と明記せるより、フェニクスは、決して、鷺類でなく、金色の雀鷂(つみ)で、本《も》と、若日神《わかひのかみ》ホルスの現身だ、と云た。然るに、バッヂは、所謂、金色の雀鷂、乃《すなは》ち、ベンヌに外ならぬを證した(「埃及神譜」第二卷三七三頁)。だから、フェニクスは、雀鷂だつたて[やぶちゃん注:「だったって」の意か。]、鷲と別鳥で、紫鷺だつたら、一層、別鳥だ。

[やぶちゃん注:「アルデア・プルプレア(紫鷺)」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属ムラサキサギ Ardea purpurea 当該ウィキによれば、『アフリカ大陸、ユーラシア大陸、インドネシア西部、シンガポール、スリランカ、日本、マダガスカル』に分布し、『夏季にユーラシア大陸西部』、中国『北東部などで繁殖し、冬季になると』、『アフリカ大陸などへ南下し』、『越冬する。ユーラシア大陸南部、マダガスカルなどでは周年生息する。日本では、亜種ムラサキサギ』 Ardea purpurea manilensis 『が八重山列島に周年生息する(留鳥)が少ない。西表島、石垣島で繁殖記録がある他』、二〇〇三年には『池間島の池間湿原で繁殖が記録された』、『また』、中国『北東部などで繁殖すると考えられるものが、春・秋の渡りの時期に、主に西日本で見られることがある』。全長は七十八~八十センチメートル、翼開長は一・二~一・七メートル、体重は五百グラムから一・二キログラムある。『頭頂から後頭は黒い羽毛で被われ、後頭の羽毛』二『枚が伸長(冠羽)する。顔や頸部、胸部は褐色の羽毛で被われ、顔から頸部にかけて黒い筋模様が入る。頸部上面や胴体上面は灰黒色の羽毛で被われる。また』、『青みがかった灰色や赤褐色の長い羽毛が混じり、紫みを帯びる。体側面や脛は紫がかった赤褐色の羽毛で被われる。種小名purpureaは「紫の」の意で、和名や英名と同義。腹部や尾羽基部下面(下尾筒)は黒い羽毛で被われる。雨覆の色彩は灰褐色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は灰黒色』。『嘴は細長い。嘴の色彩は黄褐色で、上嘴は黒い。後肢はやや短い。後肢の色彩は黄褐色で、趾上面は黒い』。『卵は長径約』五・七センチメートル、『短径約』四・一センチメートル。『幼鳥は全身が黄褐色や赤褐色の羽毛で覆われる。後頭に冠羽が伸長せず、顔から頸部にかけて入る筋模様が不明瞭』とある。但し、熊楠は『支那名「天果鳥」、天津で「花窪子」』と記すが、検索をかけても、この漢名は今に生きていない。

「ペルセア樹」クスノキ目クスノキ科ワニナシ属 Persea がある。英文ウィキの「ワニナシ属 Persea」のページを見ると、本属が暁新世の西アフリカに起源を持つこと、今日でも多くの種がアフリカに生き残っているとあるので、エジプトにあってもおかしくない。なお、すっかり本邦でもおなじみとなったアボガド( Persea americana )は、御覧の通り、本属である。

「金色の雀鷂(つみ)」タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 。本邦にも棲息する猛禽類である。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

 次に、鷲、子を產んで、その子、日を視て、目がくらめば、鷲の生活に適せず、として、自《みづか》ら、其子を殺す、という話は、西曆二世紀に書いたエリアヌスの「動物の天性」第二卷二六章に出づ。

 成る程、かく列し來《きた》れば、鷲と、日、又、火を連ねた話は、隨分多い樣だが、是は、故《こと》さらに、鵜の目鷹の目で、大穿鑿をしたからで、凡て、火と、日は、熱の根本で、熱が有《あら》ゆる動植物の生存に、必要、大なれば、何の生物でも探索すれば、必ず、多少、日や火に聯《つら》ねられた譚は、ある筈。而して、日や火に、尤も顯著な關係あり、と見えたフェニクスが、デ・カイ氏の所見と違ひ、全く、鷲でないこと、埃及學專門の大先生共の口から揚《あが》つた以上は、鷲と、日や火の關係を、喋々《ちやうちやう》して、鷲石の諸功驗を、日や火に歸する論は根據を失ふ。而して、鷲石は、いかにも酸化鐵より成るが、上に第一篇に引いたスブランとチエルサンの「支那藥材篇」に云《いつ》た通り、鷲石の酸化鐵は、「沼鐵《せうてつ》」抔いふ水酸化鐵で、磁石如き純酸化鐵でない。其を、明《あきら》かに火の作用に基《もとづ》くを示す抔いふは、輕擧も、又、甚だしい。「本草綱目」十に、時珍曰、按别錄言、禹餘粮生東海池澤及山島、太一餘粮生太山山谷、石中黄出餘粮處有ㇾ之、乃殼中未ㇾ成餘粮黄濁水也、據ㇾ此則三者一物也。〔時珍曰はく、按ずるに「別錄」に言ふ、『禹餘粮は東海の池澤及び山島に生ず。太一餘糧は太山の山谷に生ず。石中黃は餘粮を出だす處に、之れ、有り、乃(すなは)ち、殼中の未だ餘粮と成らざる黃濁水なり。』と。之れに據れば、則ち、三者は一物なり。〕三物、みな、鷲石だ。そして、海・池澤・山島・山谷、黃濁水、何れも、水に緣なきは、なし。「大英百科全書」十一板第十六卷にも、鷲石は水酸化鐵の由、見ゆ。去《され》ば、鷲と、日や、火を連ねた談が多いからとて(和漢等に、そんな談、無く、印度には上に引た、金翅鳥王が日神の馭者と共に、一卵より生まれた譚あるのみ。それも精しく言《いへ》ば、金翅鳥は鳶に近い者で、學名ハリアスツル・インヅス、英語でブラーミニ・カイト、又、ボンヂチェリ・イーグル、鷲とも、鳶とも、見えるのだ。眞の鷲族の者でない)、鷲石を、『鷲が日から持つてきたと古人が信じ』抔は、丸つきりの妄斷ぢや。

[やぶちゃん注:『「本草綱目」十』は、「禹餘粮」(以前に述べた通り、「粮」は「糧」に同じ。以上の本文でも、「糧」ではなく、同書原本の表記で示した)の項ではなく、そのすぐ後に続いて載る「太一餘粮」の項の「集解」の一部である。「漢籍リポジトリ」のこちら[032-13a]の影印画像で校合した。

「ハリアスツル・インヅス」タカ目タカ亜目タカ上科タカ科トビ亜科シロガシラトビHaliastur indus 。英名“Brahminy kite”(インドのカーストの最上級に位置する「バラモン階級所縁の鷹」の意)、古い言い方で“"Pondicherry eagle”(インド南部の地方「ポンディチェリの鷲」の意)も英文サイトで見つけた。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一四番 鳥の譚(全十四話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一一四番 鳥 の 譚

 

        (其の一)

 或カケツ(飢饉)の年であつた。根餅にする蕨(ワラビ)の根掘りに父は山へ行つた。晝飯頃になつたので母親は子供に、これを父(テテ)の所さ持つて行けと言つて粉煎(コセン)をあずけた(持たせた)。子供は途中で遊びほれて、父の所へ行つた時には、父は飢死して居た。それを見て子供は鳩に化(ナ)つて、

  父(テテ)粉(コ)食(ケ)へツ

  父粉食えツ

 と父親を呼びながら、今に至るまでも啼いて居る。そして每日一日に四萬八千八聲啼かなければならぬという。もしも子供等がその啼聲をまねすれば、また改めて四萬八千八聲啼かねばならぬから決して眞似をするものではないと謂ふ。

  (岩手郡雫石村邊の話、昭和三年の冬採集の分。)

[やぶちゃん注:「カケツ(飢饉)」かなりネット上で調べたが、「カケツ」の語源は判らなかった。小学館「日本大百科全書」の「有力な方言」のリストの中に(以下総て、太字は私が施した)、「ガシン」と立項し、『飢饉(ききん)。近世語』として『餓死の転。(東北・中部・近畿・中国)』とあり、「東北文庫」(株式会社創童舎・東北文庫運営事務局のサイト)の二〇〇四年熊谷印刷出版部刊の本堂寛著「岩手方言の語源」の紹介記事ページには、『ケガズ=飢えること、飢饉、凶作』とあり、Jin氏の編になる「宮古弁 小辞典」では、『けかつ けがづ』に『飢渇(きかつ・けかつ) 飢饉 飢餓』とあった。これらから推測するに、「飢餓」の「餓」の濁音脱落の「か」と、「飢渇」の「渇」の「けつ」の合成か、或いは、「渇」の訓「かはく」の「か」と、音「ケツ」を畳語として合成したものかとも思われる。]

 

        (其の二)

 雀は昔は人間の娘であつた。お化粧をして、美しい衣裝を着飾つて、祭禮へ行く仕度をして居るところへ、親が臨終だと謂ふ報《し》らせが來た。そこで急ぎあわてゝ、今つけかけて居たお齒黑を口から垂(タラ)したまゝで、駈付《かけつ》けて行つて、やつと親の死目に遭つた。

 さうした孝行の報ひで、今では田畠の穀物の穗を自由自在に啄《つい》ばむことが出來ると謂ふ。

 

        (其の三)

 燕は元は綺麗な娘であつた。村の祭禮に行かうとして化粧をしたり衣裝を着替へたりして居た。ところへ親(母親)が臨終だと言つて使ひが來た。けれどもおらもう少し唇に朱(ベニ)をさしてからの、もう少し首のところに白粉《おしろい》を塗つてからのと言つて、なかなか親の所へ往かなかつた。そのうちに親は死んでしまつた。其罰で今では土ばかり啄《つい》ばんで居なければならぬと謂ふことである。

 俚謠に次のやうなのがある。[やぶちゃん注:底本では行頭に一字下げがないが、訂した。]

   つんばくらは親に不孝な鳥なれば

   稻穗を枕に土を餌《ゑ》むずく

   土を餌むずくる…

                (遠野鄕、月謠歌)

 

   つんばくらはなア

   橫屋の破窓(ハフ)に巢をかけて

   夜明ければ

   米(ヨネ)ふけ、ふけと囀《さへ》ずるとなア

                 (同、田植誦歌)

[やぶちゃん注:「餌む」は、或いは「餌食(ゑば)む」の縮約で、「ゑばむ」と訓じているかも知れない。

「月謠歌」不詳。見たことがない熟語である。月見の際に歌った歌謡か。

「破窓(ハフ)」は読みから「破風」を指すようである。但し、破風は窓ではない。切妻造や入母屋造の屋根の妻の三角形の部分。また、切妻屋根の棟木や軒桁の先端に取付けた合掌型の装飾板(破風板)をも言う。普通は凹曲線をなすが、途中が高くなった「起(むく)り破風」、反転曲線から成る「唐(から)破風」がある。また、尾根面につけられた「千鳥破風」や「向拝」などのような片流れの「縋(すがる)破風」などがある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

        啄木鳥(其の四)

 昔或所に一人の娘があつた。母親が死んで、葬禮は既にお寺へ行つて居たが、そこへたつた一人の娘が來ないので、皆してなんたら娘は來なかんべと言つて、人を娘のもとに迎へにやつた。ところが娘は家の中でゆつくりとお化粧最中であつた。迎《むかへ》の人がさあさ早く早くと言ふと、娘は私は今お化粧をして居るから濟んだら行きますと言つた。お寺では娘の來るまで葬式を待つてゐたが、それでもなかなか來ないので、復々《またま》た迎人《むかへびと》をやつた。すると娘は今衣裝を着替え[やぶちゃん注:ママ。]て居るところだから、一足先きへ行つてケてがんせと言つた。それでもなかなか娘が來ないので、お寺から三度目の迎人をやつた。すると娘は今私は帶を締めて居るから結び上げたら直ぐに行きますと言つた。お寺では娘の來るのを待ちかねて、遂に葬式を濟ませて、[やぶちゃん注:底本は句点であるが、読点に代えた。「ちくま文庫」版は句読点自体が存在しない。]土中に棺を埋めてしまつたところへ、やつと娘が駈けつけた。そして母親の墓の土の上に、そつと膝をついて、あゝ口惜しい、口惜しいと言つて大聲を立てゝいつまでもいつまでも泣きわめいて居た。ところがさうして泣いて居るうちに、段々と娘の姿が變つて、一羽の美しい小鳥になつた。其は今の啄木鳥(テラソヽキ)である。

 だから彼《あ》の鳥は每日每日お寺の近所へ來て居る。さうして寺の内を覗いて見たくて寺の板壁に穴を明ける。さうして又木の幹などを嘴で堀[やぶちゃん注:ママ。]つて、日に三疋の蟲を得て、一疋は佛の處へ、一疋は親のため、三疋目の蟲だけをやつと自分が食つてよいのだと謂ふ。親の罰で罪な鳥である。

[やぶちゃん注:「啄木鳥(テラソヽキ)」「ちくま文庫」版も同じだが、Jin氏の編になる「宮古弁 小辞典」には、『てらつづぎ』を立項し、『〔鳥〕寺突づぎ キツツキ(啄木鳥)』とある。これを見るに、本篇の「ソヽキ」というのは或いは「ツヽキ」の誤記か誤植の可能性が高いように私には思われる。

 

        長尾鳥(其の五)

 尾長鳥(これは靑灰色な鳩ほどの、體の割合ひに尾が女の裳のやうに長い鳥である。)此鳥は雨模樣の日に、山から群をなして下りて來て、彼方此方《あちらこちら》へ飛び、ギイギイと鋭い聲で鳴いてゐる。

 其譯は、明日は雨が降るべ。雨が降ると親の墓が流れると言つて、さう鳴き騷ぐのだと謂ふ。(何故と謂へば親の墓が川岸にあるからだ。[やぶちゃん注:底本は読点。訂した。])

  (これは大正十年の秋、此鳥の鳴聲を聽きつつ伯母が話してくれた話である。)

[やぶちゃん注:「尾長鳥」スズメ目カラス科オナガ属オナガ Cyanopica cyanus 当該ウィキによれば、現在は北海道を除く東日本に分布する。『鳴き声は「ギューイギュイギュイ」「ゲー、ギー」などと汚い大声がよく聞かれるが、これは警戒音声であり、繁殖期のつがい同士などでは「チューイ、ピューイ、チュルチュルチュル」など愛らしい声で鳴き交わす様子も観察される』とあった。]

 

        夫 鳥(其の六)

 或所に若夫婦があつた。或日二人で打揃ふて奧山へ蕨採りに行つた。蕨を採つてゐるうちに、いつの間にか二人は別れ別れになつて、互に姿を見失つてしまつた。若妻は驚き悲しんで山中を、ヲツトウ(夫)ヲツトウと呼び步いて居るうちに遂々《たうとう》死んで、あのオツトウ鳥になつた。

 また、若妻が山中で見失つた夫を探し步いて居ると、或谷底でその屍體を見つけて、それに取鎚《とりすが》り、オツトウ、オツトウと悲しみ叫びながら遂々オツトウ鳥になつた。それで夏の深山の中でそう鳴いているのだともいう。

 齡寄(トシヨリ)達の話に據ると、此鳥が里邊近くへ來て啼くと、其年は凶作だと謂ふて居る。平素(フダン)は餘程の深山に住む鳥らしい。

  (私の稚い記憶、祖母から聽いた話。)

[やぶちゃん注:「オツトウ鳥」調べたところ、どうも「声の仏法僧」であるフクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia のようである。同種の聴きなしは、「ウッ・コッ・コー」又は「ブッ・ポウ・ソウ」とするが、「ヲツトウ、ヲツトウ」の聴きなしも十分、有り得ると思う。]

 

        鉦打鳥と地獄鳥(其の七)

 昔或所に二人の腹異《はらちが》ひの姉妹があつた。繼母は自分の生んだ妹娘の方ばかり可愛(メゴ)がつて、先腹(センバラ)の姉娘をば何かにつけ、辛く當り散らして、責め折檻をした。それでも姉娘は少しもさからはないで、繼母の言ひつけ通りになり、何でもかんでもいろいろな手に餘るやうな仕事をもして居た。繼母は自分の子にばかり、日々每日(ヒニチマヒニチ[やぶちゃん注:])、髮日紅(ヒベニ)で大事にし、其上美しい衣物(ノヽ)を着せて、村の人達にこれを見よがしに、用もないのに彼方(アツチ)さ步かせたり、此方(コツチ)さ步かせたり、ぶらぶら遊ばせて置き、姉娘の方には襤褸衣物(ボロキモノ)ばかり着せて、每日每日山さ山芋掘りにやつたり、家さ置けば夜まで麥粉を挽かせたり、風呂さ水を汲ませたり、煮炊きをさせたりして、それはそれはひどく酷使(コキツカ)て居た。

[やぶちゃん注:「髮日紅(ヒベニ)」日々、欠かさずに、髪を梳(す)いて綺麗に結って、口紅を塗ってやることであろう。]

 或年の秋祭に姉妹二人で行くと、鄰村の長者どんの一人息子に、姉娘が見染められて、たつて嫁子《あねこ》にくれろと所望された。けれども繼母は姉娘は遣りたくなく、妹娘の方を遣りたいので、仲人(ナカド)の前でいろいろと姉娘のことを、あれなかれなと難癖をつけた。あのな申《まう》す、俺家(オラエ)の妹の方ならば色も白いし、髮も黑い、髮をけづるにもビリソコ、カリソコと面白い音がするが、姉の方ときたら色も黑いし、女ぶりも見臭(ミグサ)い。髮をけづる時にも、羽切鳥(ハツキリガラス)が屋棟(ヤナムネ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版は『やなむい』とルビするが、明かな誤りである。])を飛び越えでもする時のように、ズウワリ、ガアワリと大變な音をさせます。それでもよかべかと言つた。それでもよいと言つて、長者どんの息子は强いて姉娘の方を貰つて行つた。けれども姉娘はおらアいつまでも母親(ガガ)の側(ソバ)に居たいと言つて泣いた。繼母は、そんなに慕はれても邪樫にひどく叱り飛ばした上、一旦他へ嫁に行つたら、二度と俺に顏見せるべと思ふな、二度と家へ戾つて來てはならないと言つて追出《おひだ》すやうにして嫁にやつた。それでも姉娘は暇さえあれば、高い峠路を越えて、いろいろな珍らしい土產物(ミヤゲモノ)を持つて繼母の所へ訪ねて來た。

[やぶちゃん注:「羽切鳥(ハツキリガラス)」明らかにある特定種を指しているものと思われるが、私は鳥に冥いので、判らない。識者の御教授を乞うものである。]

 妹娘の方は家で遊んで居るうちに、近所のごろつき男と出來合つて、母親がもつとよい所へやりたいと言つて手離したがらないのを、無理やりに其男のもとへ逃げて行つた。母も仕方がないものだから、其男の家へ行つて、娘々、お前が好きな人なら嫁子《あねこ》になつても仕方がないが、一日の中《うち》に一度か二度は一寸(チヨツ)と走《は》せて來て俺に顏を見せてケろと言つて淚を流して賴んだ。けれども娘は頰をふくらせて、何たら切(セツ)なかべなアと舌打ちをして居た。其後母親は可愛(メゴ)い娘が今日來るか、明日は來るかと、每日每日待ち焦《こが》れて居たが、行つたきりでたゞの一度も親に顏を見せなかつた。

 其うちに繼母は病氣に罹《かか》つた。姉娘は夫の家に居ては思ふやうに、母親の看病が出來ないからと言つて、暇《いとま》を貰つて家に歸つた。そして邪樫な繼母を骨身を惜しまずに日夜看病した。けれども妹の方は近所に居ながら、たゞの一度も母を見舞に來なかつた。母親の病氣は日ましに惡くなつて、遂々《たうとう》或日の夕方命《いのち》を落してしまつた。繼母は息を引取《ひきと》る時、姉娘の手をとつて泣きながら、姉々(アネコ《アネコ》)、俺《おら》は今まで心得違ひをして居た。どうぞ許してケろやい。そして早く緣家(イヘ)に歸つてケろと言つた。そしてまたお前がこれ程親切に俺の死水《しにみづ》をとつてくれるのに、實際の生みの娘の仕打ちは何事だ。俺が屹度《きつと》思ひ知らせて遣ると言つて其儘《そのまま》呼吸(イキ)を引取つたのであつた。

 姉娘は繼母の屍《しかばね》に取縋《とりすが》つて、大變泣き悲しんで居たが、あんまり泣いたので遂々《たうとう》其儘《そのまま》鳥になつて。

   繼母戀(コヨ)しぜやいカンカン

   母親(アツパ)戀しぜやいカンカン

と鉦を叩いて飛んで行つた。それが今の鉦打鳥《かねうちどり》である。

[やぶちゃん注:「鉦打鳥」不詳。ある記事に、昆虫のカネタタキ(鉦叩き)と似た鳴き声を出すとあった、スズメ目セッカ科セッカ属セッカ Cisticola juncidis を候補として挙げておく。サイト「サントリーの愛鳥活動」のこちらで地鳴きを聴くことが出来る。]

 妹娘の方は母親が死んだのも知らないで居たが、それから間もなく咽喉(ノド)の病氣に罹つた。そして水を飮みたい、水を飮みたいと叫びながら、咽喉から胸へかけて眞紅《しんく》に火に燒けて死んでしまつた。眞實《まこと》の親の死水もとらない罪の報ひであつた。それが今の地獄鳥である。

[やぶちゃん注:「地獄鳥」不詳。鳥に詳しい方の御教授を乞う。以下の語りが参考になる。スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera aurea の異名であるらしいが、首から胸にかけて赤い色はしていないから違う。]

 鉦打鳥も地獄鳥も同じく水を探して谷川か、崖の下の水の上の川面を低く飛んでいる燕ほどの鳥である。鉦打鳥の方は羽は瑠璃で腹が白い。地獄鳥も略《ほぼ》同樣の羽色ではあるが、ただ咽喉から腹へかけて眞紅な色をしてゐる。ともに川魚などを捕つて食ふのであらう。

 但し口碑では、鉦打鳥はその啼聲《なきごゑ》から、あゝして繼母の後世を弔らひ、親のために谷川や崖の下で供養の鉦を叩いてゐるのだと謂ひ、地獄鳥は咽喉の病氣で、火で燒かれるやうに水を飮みたいが、自分の胸の炎が水に映り、それが火に見えてどうしても水が飮まれない、それであゝ謂ふ風に、水が飮みたい、水が飮みたいと苦しく叫んで居るのだと謂ふ。實際またその啼き聲を聽くと堪らない思ひがする。然し姉妹だというせいか、其姿も似て居れば、大凡《おほよそ》同じ水筋《みづすぢ》で、一緖に飛んでゐる。

 

        郭公鳥と時鳥(其の八)

 昔、或所に姉妹があつた。或日姉妹が一緖に山へ行つて、土芋(ホドコ)[やぶちゃん注:山芋であろう。]堀りをして[やぶちゃん注:「堀」はママ。]、それを燒いて食べた。妹思ひの姉は、自分は燒焦屋《やけこ》げて堅くなつたガンコ(上皮の堅くなつたところ)だけを食べて、妹には柔かな甘《うま》い所を選(ヨ)つて食べさした。

 ところが妹はこんな甘い土芋だもの、姉は自分でどんなにいゝところを食べて居るんだべと思つて傍にあつた庖丁《はうちやう》でもつて、姉の腹を斬割《きりわ》つて見た。すると姉の食べたものは皆堅いガンコだけであつたことが訣《わか》つた。そして姉は腹を割られながら、私はガンコばかり食べたものを…と言つて、泣いて泣いて死んであの郭公鳥(カツコウドリ)と化(ナ)つて飛んで行つた。

 妹はそれを見て、はじめて姉の慈悲(ナサケ)が訣つて、後悔して泣いて、泣いて、これもやつぱり鳥となつて、姉のあとを慕つて飛んで行つた。それは今の時鳥(ホトトギス)である。それで時鳥はあゝ謂ふ風に、庖丁かけた、庖丁かけたかと、自分で自分を疑つて泣き悲しんで夜晝啼いて居るのだと謂ふ。

[やぶちゃん注:「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 嵐雪 一」の私の注「五月雨の端居」(はしゐ)「古き平家ヲうなりけり」の引用を参照されたい(引用元は現在は消失しているようである)。そこでは姉妹ではなく、兄弟の設定になっている。]

 

        馬追ひ鳥(其の九)

 或所に、一人の馬放童(ウマハナチワラシ)があつた。每日々々多くの馬を連れて山へ野飼《のがひ》に行つた。或日夕方になつたから、これから馬を呼集《よびあつ》めて家へ歸るべと思ふと、馬がなんぼしても一匹不足した。あゝほオ、あほゝオと彼方此方《あちらこちら》を向いて呼んで見ても來ないし、澤ヘ下りて尋ね、谷さ廻つて探し、峯長嶺《みねながみね》を越えて探してもなぞにしても其馬が見つからなかつた。

[やぶちゃん注:「峯長嶺」岩手県二戸市福岡長嶺(グーグル・マップ・データ)はあるが、特定出来る根拠に欠けるので、「長い峰々」の一般名詞としてとっておく。]

 童は家へ還ることが出來ない。歸つたら旦那樣に叱責(シカ)られるのであつた。そこでなぞにしても見付けべと思つて、山の奧へ奧へと深く入つて行つて、

   あゝほウ、あゝほウ

 と一生懸命に呼んで步いた。そして遂々《たうとう》魂(コン)が盡きて鳥になつた。

 それは今の馬追ひ鳥だと謂ふ。今でも春五月頃になつて山々の若葉が伸びて來ると、深山の中でその鳥が恰度《ちやうど》鄕《さと》の童らが馬を呼ぶやうな聲で啼いて居る。

[やぶちゃん注:「馬追ひ鳥」スズメ目カササギヒタキ科サンコウチョウ属サンコウチョウ Terpsiphone atrocaudata の異名。地鳴きは「ギィギィ」だが、囀りは、「ツキヒーホシ、ホイホイホイ」(月、日、星、ほいほい)と聞えることから、「三光鳥」と呼ばれる。「サントリーの愛鳥活動」のこちらで囀りを聴くことが出来る。]

 

        雲 雀(其の一〇)

 雲雀は昔お日樣の下女であつた。それで天へ登つて行く時には、一生懸命に、天尊樣(テントウサマ)アリガタイ、天尊樣(テントウサマ)アリガタイ、と啼いて行くが、降りて來る時には糞食(クソケ)々々々々と言つて、逃げて來るのだといふことである。

 

        鴉と鳶(其の一一)

 昔、鳶《とび》は紺屋(コウヤ)であつた。或日鴉が訪ねて行つて、自分の衣物《きもの》を染めてもらひたいと賴んだ。ところが、鳶は先注文《さきちゆうもん》の、他の鳥どもの衣裝《いしやう》の染方《そめかた》に忙しくて、鴉のは、どこもかこも紺(眞黑)に染めてやつた。

 鴉は他の鳥どものは、色々な採色(イロドリ)をして美しく染めて置きながら、俺《おら》のばかり紺にすると謂ふことが何所《どこ》の世界にあると言つて、ひどくごせを燒いた(怒つた)。そして今でも鳶を見かけると、そのことで喧嘩を賣りかけるのである。

 

        葦切鳥(其の一二)

 葦切鳥(ヨシキリドリ)は元《もと》或城下の大きな宿屋の女中であつた。或夜其宿屋に一人の侍が泊つた。さうして翌朝立つ時、俺《わし》の草履《ざうり》が片方見えないと言つてひどく怒つた。そしてこれは女中の落度だと言つて、一人の女中を手打ちにした。すると其女中は、侍に斬られて、痛い々々と泣き叫びながら、傷口を洗はうと川原に走つて行つたが、其儘鳥となつた。

 それが今の葦切鳥である。それで其鳴き聲は斯《か》うであると謂ふ。

   草履片足ことごとし

   とうとう[やぶちゃん注:ママ。]おれの首切つたツ

   首切つたツ

   アタタチ、アタタチ[やぶちゃん注:後の聴きなしから「痛い! 痛い!」の意であろう。]

 又、行々子(カラカヘジ)は村きつての淫奔《いんぽん》な娘であつた。或夏の夜、川原の葦立《よしだ》ちの中に入つて淫事(ミダラゴト)をして居たが誤つて葦の葉でケツを切つた。それで斯う鳴くのだとも謂ふ。

   けつ切つた

   けつ切つた

   引繰返《ひつくりかへ》つてブツ通し

   四五六源二が仇情《あだなさ》け

   けつ切つた

   けつ切つた

   アタタチ

   アイタタチチ、チチ。

[やぶちゃん注:「葦切鳥(ヨシキリドリ)」スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ科 Acrocephalidaeのヨシキリ類。多数の種がいるが、よく知られるのは、オオヨシキリ Acrocephalus orientalis である。「サントリーの愛鳥活動」のこちらで囀りと動画が視聴出来る。]

 

        川熊と鷹(其の一三)

 或日、鳥の中で一番大きな、いはば鳥の頭《かしら》ともいうべき大鳥が木の股に挾まつて、いくら悶搔(モガイ)ても脫(ヌケ)出せなかつた。澤山の鳥共が集まつて、それを助け出さうとして、大鳥の羽を頻りに引ツぱつたので、羽根が拔けて大鳥の身體(カラダ)は赤ムクレになつた。其所へ川熊《かはくま》(黑い川鳥)が來て、そんなことをしたつてだめだからと言つて、一同を木の股の右左の枝に並ばせた。すると鳥共の重みで左右の枝が股のところから折れたので、やつと大鳥の身體が自由になつた。それから鳥共の羽根を一枚づつ拔かせて、それを大鳥の體にくツつけた。

 さあ頭の命拾《いのちびろ》ひのお祝ひといふ事になつたので、川熊は、大きなお馳走を取つてやらうと山へ飛んで行つた。すると向ふからシシ(猪)が步いて來た。川熊はすぐさまシシの耳の中に入り込んで暴れた。シシは苦しがつて遂々《たうとう》死んでしまつた。川熊はシシを鳥仲間の集まつて居る所に持つて來てひどく自慢した。

 それを見た鷹は、よしそんなら俺はシシを二匹とつて來て見せると言つて、山へ飛んで行つた。すると向ふからシシが二匹揃つて走つて來た。鷹はよしきた彼(アレ)を二匹一緖にとつてやらうと、二匹の背に同時に左右の足の爪を立てた。シシは驚いていきなり離れ離れになつて驅け出した。そのために鷹は足を折り爪を拔かれてしまつた。一匹のシシを狙へばうまく取れたのに。これが、慾の深い鷹《たか》爪《つめ》ぬけると謂ふ諺の始まりである。

[やぶちゃん注:「川熊」てっきり、カツオドリ目ウ科ウ属カワウ Phalacrocorax carbo のつもりで読んだが、猪の耳の中に入ったというところで、大きさが小さくないとおかしいことに気づいた。従って未詳としておく。

「慾の深い鷹爪ぬける」「欲(ほ)す鷹は爪落とす」が知られる。欲深いと良くないことが身に起こることの喩え。「二兎追うもの一兎をも得ず」と同じ。]

 

     ミソサザイ(其の一四)

 鷦鷯(ミソサザイ)は極く嘆言者(コボシヤ)であつて、每日每日藪から藪へと飛び移り飛び返り、あゝ此藪もつまらない、彼《あ》の藪もつまらないと苦情ばかり言つて、いつもああいふ風に、舌打ちばかりして、あくせくして居ることは、昔も今も變りがなかつた。

 然し又斯う謂ふ事もあつた。或時《あるとき》鳥仲間が寄集《よりあつ》まつて、互に御馳走を仕合《しあ》はうと謂ふ相談をした。そして其御馳走の順番が此鳥の所へ𢌞《まは》つて來た。けれどもみんなが、どうも彼《あ》のミソサザイではあんまり體が小さ過ぎるから、どうせ碌[やぶちゃん注:底本は「錄」。訂した。]なことはあるまいと豫想してひどく蔑《さげす》んで居た。また當《たう》のミソサザイもあまりよい當《あて》もないので、いつものように舌打ちばかりしながら、朝から晚まで、彼方《あちら》の藪蔭、此方《こちら》の藪蔭と、こぼしにこぼし𢌞つて居た。さうして居る中《うち》に不圖《ふと》或藪の中で大きな猪が晝寢をして居るのを見つけ出した。ミソサザイはこれはいゝものだと思つて、直ぐさま猪の大きな耳穴に潛り込んで、あの鋭い嘴《くちばし》で、コツコツと猪の腦天を突(ツツ)つきはじめた。猪は魂消《たまげ》て飛び起きて野山の分け隔てなく驅け𢌞つて、助けてケろ助けてケろと狂ひ叫んだが、仲間の獸《けもの》は何のことだか少しも譯が分らなかつた。そのうちにその猪はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]狂ひ死にをした。そしてミソサザイは誰よりも一番大きな立派な御馳走をして、仲間を魂消させた。

 其次の番は山の荒鷲の番であつた。荒鷲はあんな小(チツ)ぽけなミソサザイでさへあんな大猪《おほゐのしし》を捕つてみんなに振舞《ふるま》つたから、俺こそ、何かすばらしい物を生捕《いけど》つて、仲間の奴等を魂消させてやりたいと思つて、天氣の佳《よ》い日、中天に翅《つばさ》を擴げてくるくると𢌞つて下を視て居た。すると丁度目の下の山の洞合《ほらあ》ひ[やぶちゃん注:巌窟の間。]に、それこそ大きな鹿(カノシヽ)が二匹並んで日向ぼつこをして、ぐツすりと眠つて居た。荒鷲はこれはよい物を見付けたものだ、見ていると、直ぐさま颯《さつ》と風を起して飛び下り、己(オノレ)ツと一度に二匹の鹿《かのしし》を一つかみにした。すると二匹の鹿は魂消て、あれやツ大變だと言つて、跳り上つて兩方へ駈け出した。そのはづみに荒鷲は生爪《なまづめ》を剝(ハ)がして大怪我をした。さうして結局何も取れないで損をした。

 だから諺にある、慾する鷲は爪を拔かれると。

 それから鳥仲間の寄合ひで、ミソサザイは鳥の大將の荒鷲よりも上等な御馳走をしたからと謂ふので、鷲に代つて鳥の王樣となつた。

[やぶちゃん注:「鷦鷯(ミソサザイ)」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes当該ウィキによれば、全長は約十一 センチメートル、翼開長でも約十六 センチメートルと小型で、体重は七~十三グラムに過ぎない。『和名のサザイは、古くは「小さい鳥」を指す「さざき」が転じた』とも、『また』、『溝(谷側)の些細の鳥が訛ってミソサザイと呼ばれるようになったとする説がある』。『全身は茶褐色で、体の上面と翼に黒褐色の横斑が、体の下面には黒色と白色の波状横斑がある。雌雄同色』。『体つきは丸みを帯びており、尾は短い。よく短い尾羽を上に立てた姿勢をとる』とある。また、「人間との関係」の項には、『ミソサザイはアイヌの伝承の中にも登場する。人間を食い殺すクマを退治するために、ツルやワシも尻込みする中で』、『ミソサザイが先陣を切ってクマの耳に飛び込んで攻撃をし、その姿に励まされた他の鳥たちも後に続く。最終的にはサマイクル神も参戦して荒クマを倒すという内容のもので、この伝承の中では小さいけれども立派な働きをしたと、サマイクルによってミソサザイが讃えられている』とあった。なお、私の好きな野鳥の一つである。]

2023/06/10

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「謠」夷陵女子

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  

 

            楊 柳 楊 柳

            裊 裊 隨 風 急

            西 樓 美 人 春 夢 中

            翠 簾 斜 捲 千 條 入

                  夷 陵 女 子

 

やなぎや柳

なよなよと風になびきてしどけなし

色香も深き窻のひと春の夢いまうつつなし

すだれ捲くれてのぞき入る千條(ちすぢ)のやなぎ

 

   ※

夷陵女子 唐朝。 未詳。

   ※

[やぶちゃん注:「夷陵女子」は「いりようぢよし」(現代仮名遣「いりょうじょし」)。現在も生没年を含め、一切不詳である。但し、唐の牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)撰になる「幽怪錄」の「劉諷」の一節に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部(この最終行から次のコマにかけて)に従った)、

   *

何時歡樂又歌曰楊柳楊柳裊〻 随風急西樓美人春夢中翠簾斜巻千條入

   *

(「簾」は底本では「グリフウィキ」のこの異体字)と無名であるが、ほぼ同一の詩が載っている。牛僧孺(七七九年~八四九年)は中唐の政治家で、唐代伝奇集の「玄怪録」の撰者と見做されている人物である。彼の生没年から見て、この「夷陵女子」は、中唐初期以前の女流詩人であると限定は出来る。なお、この話は後の「太平広記」の「鬼十四」にも「劉諷」として収録されている(リンク先は同じサイトの電子化された同話の全文)。

・「謠」「うたひ」。

・「窻」「窓」の繁体字。

・「捲くれて」「まくれて」と訓じておく。

 本原詩の題名は探し得なかった。推定訓読を示す。

   *

楊柳(やうりう) 楊柳

裊裊(でうでう)として 風に隨ひて 急(きふ)たり

西樓(せいろう)の美人 春夢(しゆんむ)の中(うち)

翠簾(すいれん) 斜(なな)めに捲(ま)くれ 千條(せんでう) 入れり

   *

・「裊裊」(現代仮名遣「じょうじょう」は「嫋嫋」とも書く。ここは「風がそよそよと吹くさま」の意。

・「美人」ここは「美女」。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一三番 雉子娘

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。太字は底本では傍点「﹅」。標題は言わずもがな「きじむすめ」と読む。]

 

      一一三番 雉 子 娘

 

 或所に爺と婆があつた。齡《とし》はとつたけれども子供が無かつた。どうかして子供を一人欲しいと思つて、每夜近所の明神樣へ丑の刻詣りをして、たとえその子が蛇(ヂヤ)でも鬼神《きしん》でもよいから一人授けてたもれと願をかけた。すると或夜婆樣は、コサの花が自分のふところに咲いたと謂ふ夢を見た。それから軈《やが》て懷姙した。積《つも》る十月の月も算《かぞ》へ上げて生み落したのが、鬼でも蛇(ヂヤ)でもなく花(ハナコ)のような女兒(ヲナゴボツコ)であつた。夢の緣に因(チナ)んで其子の名前をこさんとつけた。こさんは蟲氣《むしけ》もなく大きくなつた。齡頃《としごろ》になればなるほど美(ウツク)しくなり增《まさ》つた。十八の時世話する人があつて、近所から似合ひの婿を貰つて、一緖にした。

[やぶちゃん注:「蟲氣」。所謂、「疳の虫」の広義なそれ。子どもが寄生虫などによって腹痛・ひきつけ・癇癪などの症状を起こすこと。]

 所が恰度《ちやうど》其頃から、こさんは每夜夜半(ヨナカ)になれば窃(ソツ)と寢床から拔け出して、何所へ往くものか外へ出た。そして物の二時(フタトキ)[やぶちゃん注:四時間。]も經つたと思ふ刻限に、手足を氷(スガ)のやうに冷たくして歸つて來た。最初の中《うち》は夫(ゴテコ)も別段氣にもかけなかつたが、それが餘り每夜續くのでこれはどうも不思議だと思ふやうになつた。それで或夜こさんの起きて往つた後をしたつて夫も續いて外へ出て見た。それとは知らないからこさんは家の脊戶《せど》から出ると眞直ぐに村のお寺の蘭塔場[やぶちゃん注:卵塔場に同じ。墓場。]の方へ走つて行つた。その走《は》せ工合いはまるで鳥が飛ぶやうであつた。夫はこれはいよいよ不思議だと思つて、やつぱり後をつけて妻の姿を見失わぬやうに走つて行つた。そして蘭塔場へ行つて物蔭にかくれて樣子を窺つて居た。するとこさんはひらひらと墓石の間をくぐつて新墓《にいばか》の所へ行つて一生懸命になつて堀發(ホリアバ)きはじめた[やぶちゃん注:「堀」はママ。近代文学では、著名な作家のものでもしばしば見られる。]。それを見ると夫は餘りのことに恐しくなつて後へ引返して來て、何事も素知らぬ振りして寢て居た。その夜もこさんは手足を氷のやうに冷たくして歸つて來たことは、いつもの通りであつた。

 翌日婿は、こさんの留守を見計らつて、舅姑《しうと》のところへ行つて、どうぞ俺に暇《いとま》をくれてケろと言つた。親達は氣の無いところ[やぶちゃん注:全くこれっぽっちも思いもしていなかったところ。]をさう言はれて魂消《たまげ》て、何して兄(アニゴ)はそんなことを言ふ。こさんに何か氣に入らぬ所でもあるのかと訊いた。婿も初めのうちはだまつて居たけれども、兩親から問詰《とひつ》められると、いつまでも包んで居る譯にも行かなくなつて、昨夜見たことを話した。それを聽いて姑《しうとめ》は、あリヤ兄は何の話をする。こさんに限つてそんな事があるべかや。お前は何か夢でも見たべと言つて恐しい顏をした。婿は、姑樣(カガサマ)々々俺は眞實《まこと》のことを言ふ。これが僞(ボガ)だと思へば今夜も必度《きつと》さうだべから姑樣もそれを見屆けてお吳れヤんせと言つた。姑はそれでは今夜おれも行つて其實否を見屆けたいから、若《も》しこさんが外へ出たらば窃つとおれの所まで知らせてケろといつて約束をした。

 其夜も若夫婦は寢についた。こさんは夫の寢息を窺つて居たが、夫が深く寢入つたと思ふと、床の中から又そろツと拔け出して靜かに靜かに足音を忍ばせて外へ出て行つた。婿もそのあとから起きて、今こさんが外へ出ましたと姑に報らせた。

 それから姑と婿とは、こさんの姿を見失はぬやうに後をつけて行くと、昨夜と同じやうに村の街道をまつすぐに行つて、寺の墓地に入つた。二人が墓の物蔭に匿れて見て居ると、こさんは新墓の所にひらひらと走せて行つて、土を堀り發いて[やぶちゃん注:ママ。同前。]棺から死人を取り出して、其屍をむしやむしやと喰ひはじめた。そして其時の形相《ぎやうさう》はまつたく鬼神か夜叉《やしや》のやうに怖(オツカ)なく變り果てゝ居た。

 それ迄婿と二人で物蔭に匿れて見て居た母親は、其時母子の情に惹《ひ》かされて思はず聲を立て、あれやツこさん何をすると言つて前へ飛び出した。こさんは魂消て振返《ふりかへ》つたが、母親の姿を見て、これや私の姿を見られたか、夫婦親子の緣もこれまでと言つたかと思ふと、體《からだ》から靑火《あをび》をぱちぱちと出して鳥の姿になつてばたばたと向山《むかひやま》の方へ飛んで行つた。こさんは雉子であつた。

(コサの花は土地ではゴマゼエカラのつく草で、初夏に小さな白色の醜い花が咲き、晚秋になれば所謂ゴマゼエカラが船形になり淸淨な綿を出す一種の蔓草である。其根は紫色で大根の如く昔飢饉の時には灰水《あく》で洒《さら》して漉《こ》し、その澱粉を食つたと謂ふ。灰洒《あく》が惡いために多くの人が中毒し死んだ事もあると謂ふ。日陰の植物である。[やぶちゃん注:「洒」(二箇所)はママ。前者は送り仮名から明らかに「晒して」としか読めない。それに合わせて後の「灰洒」も、二字で「あく」(=灰汁=「灰水」)と読んでおいた。「洒」には「そそぐ」「あらふ」の読みが可能だが、前者には適応出来ない灰汁(あく)を抜くために、最初に、「水を洒(そそ)きで、しっかりと揉み洒(あら)って後に、「晒して漉し」という手順ならば、いいが、そうした読み替えは不可能である。誤植の可能性もあるが、私は佐々木の誤用(思い込み)の可能性が高いように思われる。]

 此話は例の犬松爺樣から聽いた話の六。大正七年の冬の蒐集の分。)

[やぶちゃん注:附記は長いので、本文と同ポイントで引き上げた。

「コサ」「ゴマゼエカラのつく草」いろいろ調べてみたが、いっかな、種名が判らない。以下、当該植物の情報を纏める。

   *

◎遠野地方では「コサ」「ゴマゼエガラ」を草或いは花或いは成果の名とする。

◎初夏に小さな白色の「醜い」(佐々木個人の印象であり、誰もが醜いと感じるものと無批判には受け入れられない)花が咲く

◎晚秋に、遠野地方では「ゴマゼエカラ」と呼ばれる部位(果実か)が船形になる。

◎その船形の「ゴマゼエカラ」から綺麗な(佐々木個人の印象)「綿」(佐々木個人の印象。真の綿であるかどうかは無批判には受け入れられないを吹き出す。

一種の蔓草(佐々木個人の印象であり、本当に正しく蔓性植物であるかどうかは判らない。一部の細い枝が匍匐したり、空中に蔓のように長くしなやかに伸びるからといって、蔓草と断定することは出来ない)。

◎根が紫色で、大根に似ている。

◎昔は飢饉の際に救荒植物として、その「大根」のような根を十分な灰汁抜きを施して食べた。

★有意に強い毒性物質を持つ(少なくとも根に)有毒植物である。灰汁抜きが不十分で中毒して死んだケースが昔はあったと伝える。

   *

強い毒性と船形をした部位があるという点から、キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitumや、「ダチュラ」・「エンジェルズ・トランペット」の名で知られるチョウセンアサガオ属 Datura を考えたが、どうも以上の佐々木の言っている条件を、この二種類では、満たすものがないように私は感じた。私は植物には冥いので、これ以上の探索は出来ない。識者の御教授を是非とも乞うものである。強毒性である以上、種を同定しないで放置するのは私には極めて不適切に思われるからである。

2023/06/09

「新說百物語」巻之二 「死人手の内の銀をはなさゞりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、「死人」は本文にもルビはなく、本書全体を見ても、他の話でも「死人」に読みは振られていないため、「しにん」か「しびと」かは判らない。「はなさゝりし」はママ。「放さゞりりし」が正しい。]

 

   死人手の内の銀をはなさゝりし事

 京東山の、ある寺に、伊六と(しもおとこ[やぶちゃん注:ママ。])いふ下男ありしが、ふと、わづらひて、知るへ[やぶちゃん注:ママ。]の宿へ、さかり[やぶちゃん注:ママ。]て、半年はかり[やぶちゃん注:ママ。]、養生いたしける。

 ある時、かの伊六、寺へ來たり、

「もはや、よほと[やぶちゃん注:ママ。]、心よく御座候。歸りて、つとめたし。」

といふ。

 住僧のいはく、

「いまだ、いろあひも、あしく、力つきも、うすく見へけるほと[やぶちゃん注:ママ。]に、今しはらく[やぶちゃん注:ママ。]養生して、かへるへし[やぶちゃん注:ママ。]。その方も知る通り、給金の殘りも、五、六拾匁《もんめ》あるなれは[やぶちゃん注:ママ。]、是も、持《もち》かへりて、とくと、養生して、歸るへし[やぶちゃん注:ママ。]。又〻、其上にも、用事あるならは[やぶちゃん注:ママ。]、申すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、銀子六十匁、相《あひ》渡しける。

 伊六、うけとり、おしいたゝき[やぶちゃん注:ママ。]

「御なしみ[やぶちゃん注:ママ。]とて、忝《かたじけ》なし。」

と、いふかと思へは[やぶちゃん注:ママ。]、其まゝ、こけて、息、絕へたり。

 寺中、おとろき[やぶちゃん注:ママ。]、水なと[やぶちゃん注:ママ。]のませ、

「藥よ、針よ、」

と呼(よひ[やぶちゃん注:ママ。])あつめ、かいほう[やぶちゃん注:ママ。「介抱」は「かいはう」である。]しけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、其しるしもなく、其まゝにて、相はてける。

「是非に及ばづ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、宿本《やどもと》へ相知らせ、寺のことなれは[やぶちゃん注:ママ。]、其夜、すくに[やぶちゃん注:ママ。]、寺の墓所(はか《しよ》)へ、はふむりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、六十匁の銀子を、いかにしても、握りつめて、はなさず。

 色々、すれとも[やぶちゃん注:ママ。]、なかなか、うこかす[やぶちゃん注:ママ。]

「此銀に、執心の殘りけるものよ。」

と、そのまゝにて、はふむりける。

 そのとなりの寺の、重助といふ下男、ありける[やぶちゃん注:ママ。]か、つくつくと[やぶちゃん注:ママ。後半の「つく」は底本では踊り字「〱」。]、おもふやう、

『あたら、銀を、土中(どちう)にうつむ[やぶちゃん注:ママ。]事、せんなき事。』

と、思ひ、其夜、かの墓所に行き、死人を掘(ほり)いだし、銀子をとらんとすれとも[やぶちゃん注:ママ。]、一向に、はなさす[やぶちゃん注:ママ。]

『所詮、取りかゝりたる事。』

と、おもひ、小刀にて、指を、切りて、其銀を取り、立《たち》かへらむとしたりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、彼の死人、

「むつく」

と、おき、大(だい)のまなこを、むき出して、くいつきもせん。

 其いきほひ、さしもの重助、きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]、是れも、其《その》まゝ、目をまはして、息、絕へ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 あくる朝、住僧、廽向(ゑかう)のため、墓所にいたりて、是れを、見つけ、さまざま、いたはりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、重介[やぶちゃん注:ママ。]は、息、出《いで》て、つゝがなかりける。

「新說百物語」巻之二 「僧人の妻を盜し事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   僧(そう)人(ひと)の妻(つま)を盜(ぬすみ)し事

 百姓、九郞七といふもの、あり。

 高(たか)も、餘程ありて、不自由にもなく、くらしけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、質朴者(しつほくもの[やぶちゃん注:ママ。])にて、手づから、田地も作り、夫婦と、六歲になるむすめと、三人、くらしけるが、彼《かの》九郞七、ある時、用事ありて、一夜《ひとよ》、とまりにて、京へ出たり。

 其留主(るす)の夜九ツ時[やぶちゃん注:午前零時頃。]、九郞七か[やぶちゃん注:ママ。]家より、火、出《いで》て、燒(やけ)うせり。

 六才の娘は、其まきれ[やぶちゃん注:ママ。]に、近所に、うろつきて居たりけるに、母親の事を尋ねしかは[やぶちゃん注:ママ。]、むすめ、いふやう、

「わたくしは、よく、ねいりて居たりしか[やぶちゃん注:ママ。]、誰やらん、表へ、たき[やぶちゃん注:ママ。「だき」「抱き」。]て出たるはかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、何も、知らす[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ。あ

 くる日、灰を、かきて見けれは[やぶちゃん注:ママ。]、母親の死がいとおぼしくて、燒死(やけしゝ)たり。九郞七、是非なく、葬禮、とりまかなひ、かり屋など、しつらひて、忌中のいとなみをも、しける。

 七日たち、八日たちて、二七日《ふたなぬか》[やぶちゃん注:十四日]めに、彼《かの》九郞七、娘をめしつれて、旦那寺へ參りけるが、むすめが、いふやう、

「かゝさまか[やぶちゃん注:ママ。]、あそこから、のそひて[やぶちゃん注:ママ。「のぞいて」「覗いて」。]しや。」

と申しける。

 九郞七、聞きて、

『子供心に、何を、いふやらん。』

と思ひて、又々、かへりに、

「かゝさまが、藏の窓から、のぞきてござる。」

と申して、さめざめと、なきける。

 九郞七、ふつと、心つくことありて、そのまゝ、娘をつれかへり、近所のもの、壱兩人、やとひて、おもひかけなく、寺へまいりて、有無(うむ)のあいさつもなくて、すぐに、土藏へ行き、二階へあかりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、九郞七か[やぶちゃん注:ママ。]女房、息才(そく《さい》)[やぶちゃん注:漢字はママ。「息災」。]にて、かくれ、ゐたりける。

 かの僧、九郞七が女房と、密通して、あられもなき死がいを掘(ほり)おこし、九郞七が家に、火を付《つけ》て、燒死したるやうすにしたるものなり。

「僧の身にて、おもき罪なり。」

とて、成敗ありし、となり。

[やぶちゃん注:これは、猟奇的事件であるが、実録であろう。この僧、女犯(にょぼん)だけでなく、遺体を掘り起こして、遺体偽装をした上、当時、最も重罪とされた火付けをしているので、確実に打首獄門である。

「あられもなき死がい」土葬したてで、未だ腐敗の起こっていない新仏(にいぼとけ)の遺体。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「薔薇をつめば」孟珠

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  薔薇をつめば

            陽 春 二 三 月

            草 與 水 同 色

            攀 條 摘 香 花

            言 是 歡 氣 息

                  孟  珠

 

きさらぎ彌生春のさかり

草と水との色はみどり

枝をたわめて薔薇をつめば

うれしき人が息の香ぞする

 

   ※

孟  珠  三世紀前半。 ただ魏の丹陽の人とのみで未詳である。 陽春歌三章が今傳はつてゐる。譯出したものはその第二章である。 皐月まつ花たちばなに昔の人の袖の西を聞くに比べて、香花を愛人の氣息と思ふのは大膽で露骨で濃密な詩境である。 我彼(がひ)の詩情の相違を見るべきであらう。 西歐の詩には孟珠のものと同想があるだらうと思ふ。 この作者の他の二章をも併せ揭げて參考とする。陽春二三月、草與水同色、道逢游冶郞、恨不早相識。」 望觀四五年、實情將襖惱、願得無人處、回身與郞抱」。 蕩思放縱ではあるが詩美は充分に保たれてゐると思ふ。

   ※

[やぶちゃん注:解説の引用部の鍵括弧の始まりがないのはママ。「皐月まつ花たちばなに昔の人の袖の西を聞く」は「古今和歌集」の「卷第三 夏歌」の五首目に載る「よみ人しらず」、及び、「伊勢物語」第六十段「花橘」に採られていることで知られる一首である。後者を引く。所持する角川文庫石田穣二訳注「伊勢物語」を参考に漢字は正字化して示した。後の注も一部でそちらを参考にした。

   *

 むかし、男ありけり。

 宮仕へ、いそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自(いへとうじ)、まめに思はむといふ人につきて、人の國へ、いにけり。

 この男、宇佐の使(つかひ)にて行きけるに、

「ある國の祗承(しぞう)の官人の妻にてなむある。」

と聞きて、

「女あるじに、かはらけ取らせよ。さらずは、飮まじ。」

と言ひければ、かはらけとりて、いだしたりけるに、肴(さかな)なりける橘(たちばな)をとりて、

  五月(さつき)待つ花橘(たちばな)の香(か)をかげば

    むかしの人の袖(そで)の香ぞする

と言ひけるにぞ、思ひいでて、尼になりて、山に入りてぞ、ありける。

   *

「まめ」誠実さ。「家刀自」家庭を預かっている正妻。「宇佐の使」現在の大分県宇佐にある宇佐八幡宮への奉幣の勅使。「祗承」奈良・平安時代、勅使が地方に下向した際の供応などを掌る、その地の役人。「かはらけ取る」の「かはらけ」は素焼きの酒坏(しゅはい)であるが、ここではソリッドに「酒を勧める」の意。「いだしたりける」簾中(れんちゅう)に控えて顔を見せぬように内に控えているから、その御簾(みす)から「かはらけ」を「差し出し申し上げて」の意。「橘」双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana の実。酸味が強いが、当時は酒の肴として添えられた。「思ひいでて」自身が嘗つて妻だった人物であることを、である。

 紹介された二篇の詩を詩題を添えて示して推定訓読すると、

   *

 陽春歌 其一

陽春二三月

草與水同色

道逢游冶郞

恨不早相識

  陽春の歌 其の一

 陽春 二三月(にさんがつ)

 草と水と 色を同じくす

 道に逢ふ 遊冶郞(いうやらう)

 恨(うら)むらくは 早く相ひ識らざりしを

   *

 陽春歌 其三

望觀四五年

實情將襖惱

願得無人處

回身與郞抱

  陽春の歌 其の三

 望み觀ること 四 五年

 實情 將まさに襖惱(わうなう)せんとす

 願はくは得ん 人無き處にて

 身を回(まは)し 郞と抱(だきあ)はんことを

   *

而して、本篇は、

   *

 陽春歌 其三

陽春二三月

草與水同色

攀條摘香花

言是歡氣息

   陽春の歌 其の三

 陽春 二 三月

 草と水と 同じ色

 攀條(はんでう)して 香花(かうくわ)を摘めば

 言はく 是れ 歡氣の息(いき)

   *

「攀條」は「攀枝(はんし)」に同じで、「高い木の枝を折る」の意。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(3) / 「附錄」の「孕石」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。

 なお、初回の冒頭注も参照されたい。]

 

      附  錄

○孕石 『性之硏究』第一卷第六號二三二頁に、「獨逸には安產の爲に、『孕石』と云《いつ》てガラガラ鳴る固形物を包んだ一種の石を眞鍮に包み、產婦の左腰部に垂《たら》しおく習慣がある」と誰かゞ書いた。「孕石」とは獨逸語で何というか知《しら》ず。或は別にそんな意味の獨逸語はなきも、本邦に「孕石」てふ物あるに付《つい》て、獨逸で所謂アドレル・スタイン(鷲石《しゆうせき》)、一名クラッペル・スタイン(ガラガラ石)を、かく「孕石」と譯したのかとも推察する。藤澤君の『日本傳說叢書』「伊豆之卷」に、賀茂郡田子《たご》村平野山《ひらのやま》麓《ふもと》に「孕石」あり、高さ二丈、周《めぐ》り七、八尺ばかり、出產を祈ると、効驗あり、と信ぜられたが、今は、畠に落ち轉がりおる[やぶちゃん注:ママ。]由を記す。柳田君が『太陽』第一七卷第一號「生石《いきいし》傳說」に載せた通り、諸國に、小石、團結して大岩と成《なつ》たのが、風雨に削られて、時々、多少の小石を放ち落すを、「石が、子をうむ。」と誤り、產婦安產のまじなひに用いて、「子持石」と名《なづ》く。既に「子持石」と云《いへ》ば、「孕み石」と唱える[やぶちゃん注:ママ。]例も多々有《あつ》た事と記臆はすれど、差當《さしあた》り、確かに「孕み石」と名けたは、伊豆の一例しか知《しら》ぬ。其例有《あら》ば、識者の報道を冀《ねが》ふ。「雲根志」などみればよいのだが、座右にないから仕方がない。「類聚名物考」附錄三に「三河記」を引き、家康、幼時、駿河に人質たりし時、侮辱された仕返しに、後年、高天神《たかてんじん》落城の節、孕石主水《はらみいしもんど》に切腹させた、とある。此孕石は、多分、どこかの地名で、そこに「孕石」と呼《よば》れた石が有たで有《あら》う。

[やぶちゃん注:「孕石」「はらみいし」。

「『日本傳說叢書』「伊豆之卷」に、賀茂郡田子村平野山麓に「孕石」あり、高さ二丈、周り七、八尺ばかり、出產を祈ると、効驗あり、と信ぜられたが、今は、畠に落ち轉がりおる由を記す」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの原本(大正七(一九一八)年刊)のここで当該部を視認出来る。ブログ版の読みはそれに従った。そこでは転がっている場所を「卷田(まきだ)」と記している。「賀茂郡田子村」は現在の静岡県賀茂郡西伊豆町田子(グーグル・マップ・データ)。「平野山」は「ひなたGIS」の戦前の地図を見ても、旧同村域には無名のピークが複数あり、同定不能で、「卷田」の地名も見当たらない。

「柳田君が『太陽』第一七卷第一號「生石傳說」に載せた」国立国会図書館デジタルコレクションの『定本柳田国男集』第五巻(一九六二年筑摩書房刊)で視認出来る。また、誰でも見られる「私設万葉文庫」の同巻(一九六八年刊版)の「(493)」(ページ・ナンバー)で電子化されたものもある(新字と旧字の混淆版)ので、参照されたい。これは電子化する意志は私にはない。

『「雲根志」などみればよいのだが、座右にないから仕方がない』熊楠先生! 私が所持する現代思潮社の『復刻 日本古典全集』版の「雲根志」の「卷之五」で、「孕石 廿六」を見つけました! 以下に示します。それらしい絵も添えられてあるので、それも載せます(底本には『禁無断複製』とあるが、これは本書全体の複製を指す。平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解であるから、トリミング補正したこれは、違法ではない)。

   *

 

Haramiisi

 

     孕石(はらみいし)廿六

大さ鞠(まり)のごとく色黑く半(なかば)破(やふれ[やぶちゃん注:ママ。])たり石中に白色(しろいろ)にて大さ掌を合せしばかりのかたき石をはらめり外皮(そとがは)黑き物は數枚かさなれるかたち也鮓答(さくたう)の類にて生得(せうとく[やぶちゃん注:ママ。])の石也勢刕長野(ながの)の松原(まつばら)にて拾ひ得たり

   *

ここに出る「鮓答」とは、獣類の体内に出来る異物(多くは塊状の結石)で、種々の様態がある。古くは解毒剤として用いた。詳しくは、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(6:牛)」の私の「鮓答」の注を参照されたい。

「類聚名物考」江戸時代の類書(百科事典)。日本文物の類書中でも形式・内容ともに充実した最初のものとされる大著。成立年は不詳。編者は江戸中期の幕臣で儒学者で、賀茂真淵門下の国学者でもあった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年)。「日本大百科全書」の彌吉光長氏(懐かしい名だ。図書館概論で講義を受けた。受けていた女子が体調不良で卒倒し、皆で保健室から担架を持って来て、運んで戻ってみると、平然と講義を続けていて、流石にムッとして「先生!」と叫ぶと、「何かありましたか?」と平然と答え、そのままさらに授業を続けた。私はそれ以降、当該の講義をボイコットし、試験だけ受けたが、「優」を呉れたので文句はない)の解説によれば、『彼は博学で有名であったが、若いときから国書を広く読み、その抄をつくって整理していた。しかし、先輩の老人に、抄出しても急場に役だたぬから暗記せよと諭され、その教えに従って破り捨てたものの、記憶には限界と誤りがあると覚』『って、この編集にかかったという。そのため、基本的図書は破棄されたままに脱している。現存の』三百四十二『巻を精査すると、天文、時令、神祇(じんぎ)、地理など』三十二『類と抜き書きの部に分かたれている。各項目は総説と考証、文献からなり、その考証の行き届いて合理的なことは類をみない』とある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで活字本で当該部が視認出来る。右ページ上段の「切腹」がそれ。

「孕石主水」孕石元泰(はらみいしもとやす ?~天正九(一五八一)年)は、当該ウィキによれば、『今川氏、武田氏の家臣。諱の「元」は今川義元の偏諱と思われる』。『今川氏の家臣』『孕石光尚の子として誕生。孕石氏は遠江国原田荘(静岡県掛川市)を本拠とする原氏の庶流の一族で、孕石村を本拠とした。元泰の祖父にあたる行重のころより今川家臣となる。元泰の史料上の初見は』天文二一(一五五二)年九月七日に見え、『今川義元より父』『光尚の遺領相続に関して指示を受けている』。永禄一一(一五六八)年の『武田信玄の駿河侵攻によって今川氏から離反して武田氏の家臣となり、翌年』四月に『駿河国足洗郷(現・静岡市)や遠江国各所の知行地を安堵された。元泰は朝比奈信置や岡部元信と並ぶ駿河先方衆の』一『人であり、武田信玄の駿河平定戦に参陣して武功を挙げ、特に同年』十二『月の蒲原城』(かんばらじょう)『攻略戦では信玄より感状を賜った』。『武田氏の駿河平定後は江尻城代・山県昌景』(やまがたまさかげ)『の相備』(あいぞなえ)『に編成され、駿河国藤枝郷(現・藤枝市)に知行地を得て領内の市立てや』、『堤の再興に尽力した』。天正三(一五七五)年四月の『武田勝頼の三河侵攻に際しては』、『江尻城の在番を務め、三河戦線にいる山県昌景より』、『江尻城の普請・警固について指示を受けている』。同五年七月には『勝頼より』、『改めて駿河・遠江各所の知行地である』四百八十『貫文を安堵された』。天正七(一五七九)年より、『遠江高天神城』(ここ:グーグル・マップ・データ)『の在番を務める。高天神城は翌年から徳川軍の攻囲を受け、同』九年三月二十二日に『高天神城が徳川軍に攻略され』(「第二次高天神城の戦い」)、『元泰は捕らえられ、翌』二十三『日に切腹させられた』。『なお、降伏者で切腹を申しつけられたのは孕石一人であった。切腹の際、極楽があると信じられた西方向ではなく、南に頭を向けて腹を切ろうとし、それを指摘されても、敢えて方角を直さなかったと言われている』。『子の孕石元成は、土佐山内氏に仕えた』。「家忠日記」・「三河物語」に『拠れば、今川家臣時代は人質時代の徳川家康と屋敷が隣り合わせであった。鷹狩りが好きな家康が放った鷹が獲物や糞を隣家の孕石の屋敷に落としており、度々』、『苦情を申し立てていた。そのことに腹を立てていた家康により』、『十数年の』後、『彼は切腹させられた』とある。鷹の糞、恐るべし。]

 支那にも、そんな石、有《あつ》た證據は、「淵鑑類函」二六に、郡國志曰、乞子石在馬湖南岸、東石腹中出小石、西石腹中懷一小石故僰人乞子於此有ㇾ驗〔「郡國志」に曰はく、乞子石は馬湖の南岸に在り。東の石、腹中より、一小石を出だし、西の石、腹中に一小石を懷(いだ)く。故に僰人(ほくじん)子を此れに乞ひて驗(しるし)有り。〕と出《いだ》す。フジー島の都バウ近處《きんじよ》に、一石、立てり。高位の婦人、子を產む時、此石、亦、小石を產む(バルフォール「印度事彙」三卷七四二頁)。テオフラスツス、ムキアヌス、デモクリツス、サヴヲナロラ、カールダン抔が、石、時として、子を生む、と說《とい》たは、主として、こんな石から出た話で有《あら》う(ボストック及リレイ英譯、プリニウス「博物志」第六卷三五八頁)。去《され》ば、『性之硏究』にアドレル・スタインを「孕石」としたは、適當ならず。「孕石」は「鷲石」と別で、佩《おび》た女に安產せしむるでなく、拜む女に子を授くる石で、一汎に、「鷲石」よりは、ずつと大《おほき》い者だ。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」は「漢籍リポジトリ」の同巻の「石二」の「黃石」の[031-47b]の影印本と校合した。一箇所、脱落があり、それを補ったが、もう一箇所の誤りは、深刻な誤りで、「僰人」を熊楠は『楚人』(そひと)と誤っている。「僰」の字を見誤ったか、勝手に「楚」の異体字と思ったものだろう。「僰人」は、「Wiktionary」の「僰」(呉音「ボク」・漢音「ホク」)に、『棘(とげ)のある植物の多い地域に住んでいた古代の人々。現在の中国西南地域(四川省・貴州省・雲南省)の少数民族。僰人懸棺などの遺跡をのこす』とあるのがそれで、「楚」とは全く違う。しかも民族名であって国名ではないから、漢文の通例訓によって、「ほくひと」ではなく、「ほくじん」と訓じた。なお、「選集」の訓読された文では、二箇所とも正しくなっている。

「フジー島の都バウ」現在のフィジー共和国には「バウ島」があるが、ここは小さな島であるから、「都」はおかしい。現行の同国の首都は「スパ」(Suva)である。引用元の「バルフォールの印度事彙」はスコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India (一八八五年刊第三巻)の原本の「742」ページの“STONE- WOKSHIP.”(「石崇拝」)の項のここの終りから六行前に、確かに‘Baw’と確認出来る。原書がその綴りを誤ったか、呼称が違ったものか、よく判らない。

『プリニウス「博物志」第六卷』プリニウスの「博物誌」の当該部第六巻を、所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)で、三度、通読したが、この記載はない。「選集」でもこの第六巻とするのだが、これは調べたところ、第三十六巻の「石の性質」の中にあることが判ったので、「第六卷」は「第三十六卷」の誤りであることが発覚した。その訳本の『骨石、シュロ石、タエナルス石』の項に、『二九 さらにテオフラストスとムキアヌスは、他の石を産み出す石』(ここの編者注があり、『鷲石のことを言っている』とあり、この同巻の後の「三九」に「鷲石<アエティナス>」の項も存在する)『があると意見を発表する。テオフラストスはまた、骨が地中から生み出されたり、骨に似た石が見つかると述べている』とあるから、間違いない(「サヴヲナロラ、カールダン」の人名は探し得なかった。見つかったら、追記する)。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一二番 雌鷄になつた女

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

       一一二番 雌鷄になつた女

 

 或女が薪採りに山へ行くと、奧山に見たことのない立派な家があつた。不思議に思つて訪ねて行つてみると、そんな大きな家にたつた一人の女房が居て、あゝお前さんはよい所へ來てくれた。私は今出かけべと思つて居たところだが、私が歸るまで暫時《しばらく》の間留守をして居てくださらぬか、直ぐ歸るから、たゞ私の居ない中《うち》は此家のどの座敷を見てもよいけれども、十三番目の座敷だけは見てはいけない。必ず必ず其座敷ばかりは見てならないと言ひ置いて出て行つた。

 其家の女房はなかなか歸つて來なかつた。女はどんな家でどんな物があるだべと思つて一つ一つ座敷を見て行つた。座敷々々は黃金のある座敷もあれば、朱膳朱椀のある座敷もあり、鍬鎌のある座敷、唐銅鉢《からかねばち》に金屛風の座敷、馬の座敷、牛の座敷と數々の座敷があつた。さうして見て行くうちに遂々《たうとう》十二の座敷を見てしまつて、何時《いつ》の間にか十三番目の座敷の襖の前へ來て居た。あれ位見るな見るなと言つた此座敷にはどんな立派な物があるだらうと思つて襖を開けて見ると、其所は鷄の座敷であつた。[やぶちゃん注:底本は読点だが、「ちくま文庫」版で訂した。]そして其所へ女が一足踏み込むと忽ち雌鷄になつてしまつた。

 其時になつて館《やかた》の主《ぬし》の女房が歸つて來て、妾《わらは》があれほど見てはならぬと言つた座敷を見たから、お前はそんな鷄になつてしまつたんだと言つた。

   (閉伊郡岩泉地方にある話。野﨑君子氏の談話。
    昭和五年六月二十三日夜聽く。)

[やぶちゃん注:典型的な東日本に多く分布する「見るなの座敷」譚である。但し、鷄ではなく、鶯が登場することが多い。当該ウィキを見られたいが、この「十三」の数字の意味は明確でない。多くの場合、これは四季=一年の象徴とされることが多いが、本話ではそのニュアンスは見られず、人間世界に於ける人生の富みの総体を象徴を示しているようには見える。但し、「十二」が通常の一年を示し、そこに閏月の一月が現われる異時間・異界の禁断の時空間への入り口を示唆しているようには感じる。「ニッセイ基礎研究所」公式サイトのコラムの中村亮一氏の『数字の「13」に関わる各種の話題―「13」は西洋では忌み数として嫌われているようだが―』が考察されておられるので、見られたい。但し、そこにある、概ね西洋のキリスト教由来とされる不吉な十三の転用であるとは、私は無批判に受け入れることは出来ない。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「春のをとめ」薛濤

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  春のをとめ

            風 花 日 將 老

            佳 期 猶 渺 渺

            不 結 同 心 人

            空 結 同 心 草

                  薛  濤

 

しづ心なく散る花に

なげきぞ長きわが袂

情をつくす君をなみ

つむや愁のつくづくし

 

[やぶちゃん注:作者薛濤は前回分を参照。本詩は前回分の続きの一篇である。

   *

 春望詞 其の三

風花(ふうくわ) 日に將に老いんとす

佳期(かき) 猶ほ渺渺たり

結ばず 同心の人とは

空しく結ぶ同心の草と

   *

「佳期」ここは単なる「よい季節」「盛んな時」を表としつつ、さらに「楽しい時」「幸せな時期」の比喩の意のみではなく、より具体に「男女が逢うことを決めた時日」或いは「婚姻の日」の意を含ませている(この熟語にはそれら総ての意が実際にあるのである)ことは転・結句から言うまでもない。]

2023/06/08

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「音に啼く鳥」薛濤

 

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  音に啼く鳥 

            檻 草 結 同 心

            將 以 遺 知 音

            春 愁 正 斷 絕

            春 鳥 復 哀 吟

                薛  濤

 

ま垣の草をゆひ結び

なさけ知る人にしるべせむ

春のうれひのきはまりて

春の鳥こそ音にも啼け

 

   ※

薛  濤  六世紀末。 唐の名妓である。 もと長安の良家の女として生る。 八九歲のころから音律を解したが或る日、その父が井戶のそばの梧《あをぎり》を指ざして、庭除一古桐、聳幹入雲中と歌ふと、この女兒は直ぐに枝迎南北鳥、葉送往來風と續けたので、父はこの兒の前途を歎じたと傳へられてゐる。 蓋し、殆んど同時代の女子で詩を能くした李冶(りや)が六歲の時に抱かれて庭の薔薇を咏じ經時未架却、心緖亂縱橫と言つたのを父が聞いて、この子後には必ず身持の惡い女になるだらうと悲しんだが果してその通りであつたといふ逸話とともに、一種の詩的說話である。 役人であった父は蜀の任地で客死し、母は孀(やもめ)になつてこの娘を育てた。 長じて詩を能くするのと眉目の秀でてゐるのとで蜀の地方長官の官邸に召されて、長官が十一人も代る間も、詩をもつて愛せられて諸名家の詩宴に列した。 七十五歲の高齡で世を去るまでには、元稹、白居易、杜牧、劉禹錫、其他諸家とも酬和したといふことである。 世に薛濤牋(せつたうせん)と名づけて深紅で小彩のある牋は、彼女が吟咏を名士に酬獻した時に自ら工夫して用ゐたものである。 薛濤詩一卷が世に傳はつてゐる。 今古奇觀には薛濤の靈と一少年秀才との情事を寫した一篇があって有名である。 それは小泉八雲も譯してゐる。

   ※

[やぶちゃん注:・薛濤(せつたう(歴史的仮名遣)/せつとう 七六八年 ~八三一年)は中唐の伎女詩人として魚玄機と並んで超弩級に知られる人物である。「全唐詩」の「卷八百三」の「薛濤」には薛濤の詩が七十六首載っている。

・ここに伝説として出る詩は、

庭除一古桐

聳幹入雲中

枝迎南北鳥

葉送往來風

 庭除(には)の一古桐(きり) (の)びたり

 聳幹(しやうかん) 雲中に入る

 枝は迎ふ 南北の鳥を

 葉は送る 往き來きせる風を

といった感じか。

・「李冶」(七三〇年頃~七八四年)は薛濤の先立って知られるほぼ同時代人の同じ女性詩人。後に女道士となり、晩年には宮廷に召されたが、中文サイトを見ると、朱熹を批判した詩を作ったという咎で棒打刑を食らっているともあった。現存する詩は十八首だけである。

・ここに出る、詩句は、

經時未架却

心緖亂縱橫

時を經(ふ)るも 未だ架却(かきやく)せず

心緖(しんちよ) 亂れて縱橫たり

この「架却」はよく意味が分からない。「枝がちゃんと安定して伸び絡まって架かること」か。

・「薛濤牋」ウィキの「薛濤」によれば、『彼女が作った深紅の小彩がついた詩箋(色紙のようなもの)は、当時「薛濤箋」として持てはやされた』とある。「牋」は、ここでは「箋」と同義(異体字ともされるが、意味上では「牋」は木片・木簡で、「箋」は竹製のそれらを言うともある)。

・「今古奇觀には薛濤の靈と一少年秀才との情事を寫した一篇があって有名である。それは小泉八雲も譯してゐる」私の「ラフカディオ・ハーン Ming-Y 秀才の話 (落合貞三郎訳)」で、原拠の「今古奇觀」を含め、詳細な注をしてあるので、読まれたい。

 本詩は「春望詞」(全四首)の内の「其二」。推定訓読を示す。

   *

 春望詞 其の二

檻草(くわんさう) 同心を結びて

將に以つて 知音(ちいん)に遺(や)るべし

春愁(しゆんしう) 正(まさ)に斷絕し

春鳥(しゆんてう) 復(ま)た 哀吟す

   *]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「春ぞなかなかに悲しき」朱淑眞

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

   春ぞなかなかに悲しき

 

            滿 眼 春 光 色 色 新

            花 紅 柳 綠 總 關 情

            欲 將 鬱 結 心 頭 事

            付 與 黃 鸝 叫 幾 聲

                  朱 淑 眞

 

まばゆき春のなかなかに

花もやなぎもなやましや

むすぼほれたるわが胸に

啼けうぐひすよ 幾聲に

 

   ※

  十一世紀初頭。 宋朝。 海寧の人である。 幼少の時に兩親を失ひ充分に夫を擇(えら)ぶこともし得なかつた。 市井の民家に嫁して無知凡庸な夫を持つたことを常に歎き、吟咏(ぎんえい)によつて胸中の憂悶を洩した。 その詩詞集は斷膓集と呼ばれ、前集十一卷後集七卷があるが、その中には胸中の不平抑へがたいものが屢々現はれ風雅と稱するには激越にすぎたものも見える。 詩藁(しかう)も沒後夫の父母によって焚(や)かれたものの一部分が遺つたのを、好事者が顏色如花命如秋葉その薄命を憐れむの餘りにこれを編んだものだと傳へてゐる。 彼女は朱文公の姪だといふ說もあるけれども、朱子は新安の人で海寧に兄弟が居たといふことは聞かないから、多分後人が彼女を飾るための僞說だらうと言はれる。 とにかく生涯はあまり明かではないらしい。 ハイネの小曲に、「胸中の戀情は夜鶯(よるうぐひす)の聲となる」といふ意を咏じたものがあつたと思ふが、ここに掲げた絕句は正に同工異曲である。

   ※

 

[やぶちゃん注:・『ハイネの小曲に、「胸中の戀情は夜鶯(よるうぐひす)の聲となる」という意を咏じたもの』ここにあるハインリッヒ・ハイネの「死は涼しき夜」(Heinrich Heine 1827 "Der Tod, das ist die kühle Nacht" aus Buch der Lieder)か。(リンク先はTokio Fukazawa土のちり氏のサイト「土風空」のハインリッヒ・ ハイネ「死は涼しき夜」。訳は片山敏彦氏のもの)。ドイツ語の原詩は、これ(ドイツ語の「Wikisource」)。第二連二行目に“Nachtigall”とある。

・「夜鶯」スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos当該ウィキによれば、『西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声の美しい鳥で、ナイチンゲール(英語:Nightingale)の名でも知られる。この語は古期英語で「夜に歌う」を意味し』、『和名の由来ともなっている』とある。『ヨーロッパ中央部、南部、地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する。ヨーロッパで繁殖した個体は冬季にアフリカ南部に渡りをおこない、越冬する』、言わずもがな、本種は本邦には棲息しないし、また、本結句に出る「黃鸝」=スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone とも類縁種ではない。

   *

 愁懷(しうくわい) 其の二

眼(め)に滿つ 春の光り 色色(いろいろ)は新たなり

花は紅(くれな)ゐ  柳は綠(みどり)に  總て(じやう)に關(くわん)ず

欲せんとす 鬱結(うちけつ)せる 心頭(しんとう)の事を將(ま)ちて

黃鸝(わうれい)に付與(ふよ)して 幾ばくかの聲をか 叫ばんことを

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一一番 お月お星譚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一一一番 お月お星譚

 

 或所に繼母《ままはは》があつた。先腹(センバラ)の娘をお月と云ひ、自分の娘にはお星と名をつけた。父親が江戶へ行つて居る間に繼娘のお月を殺すべと思つて毒饅頭をこしらへてやり、自分の娘には砂糖を入れてアヅけ、そして娘に、お星々々、姉コの饅頭には毒が入つてゐるから食つてはならぬぞとよく言ひ聽かせた。

 お月お星は繼母から饅顛を貰つて外へ出た。するとお星は姉の袖を引ツ張つて、姉コ姉コ、彼方(アツチ)へ行つて遊ぶベエと言つて、姉を川端の方さ連れて行つた。そして姉コア饅頭は川さ投げもセ。おらアのを食(アガ)れと言つて、姉の饅顛をば川へ投げさせて、自分のを二ツに割つて食べさせた。

 繼母は自分のこしらへた毒饅頭を食つて、お月は死ぬ事だと思つて居たが、少しもそんな氣振《けぶ》りは見えなかつた。そこで今度は一層のこと鎗で突き殺すべと思つて、お星々々、今夜姉コを鎗で突き殺すから、お前は何も言ふなよと言つた。はいおらア何にも言はねアものと言つたが、姉想ひのお星はとても悲しくなつて、夕方そつと姉コ姉コ、今夜お前はおれの寢床(ネツトコ)さ來て眠もせヤと言つて、お月を自分の床に連れて來て寢させ、お月の寢床には瓢簞(フクベ)さ朱(ベニ)ガラを入れて布團をかぶせて置いた。すると繼母は眞夜中に二階から鎗をもつて來てお月の布團を(ツ)貫くと、ブツツと云ふ音がして赤い血が鎗の穗先きに附いて來た。だからてツきりお月は死んだものと思つて、そつと自分の寢床へ戾つて寢てゐた。そして翌朝になつてからいつものやうに、

   お月お星

   起きろやエ

 とさう呼ぶと、姉妹はハイと言つていつものやうに揃つて二人で起きて來た。これには繼母も驚いたが、斯《か》うなつては今度はいよいよ山奧へ棄てるより外に道がないと思つて、近所の石切りに多くの金を遣つて、一個(ヒトツ)の石の唐櫃(カラト)を作らせた。そしてお星を呼んで、お星々々、今度はいよいよ姉コを山奧の澤サ持つて行つて捨てるからお前は默つて居ろよと云つた。ほだら何(ナゾ)にして姉コを捨てると訊くと、石の唐櫃に入れて山サ連れて行くと云ふた。そこでお星は直ぐに石切りの所へ行つて、石の唐櫃に一つの小穴を開けて貰ふやうに賴んだ。二日三日經つと其石の唐櫃も出來上つたのでいよいよお月は其れに入れられて山奧さ連れて行かれることになつて、唐櫃の中に入れられる時、お星は、菜種を大きな袋サ一杯入れて持つて姉の側へ行き、姉コ姉コ、この穴コから此菜種を少しづつ滴(コボ)して行つてクナんせ。春になつて雪が消えて菜種の花が咲いたら、姉コ助けサ行くからと言つた。

[やぶちゃん注:「唐櫃(カラト)」は「脚の附いた櫃」で(櫃は大型の収納箱)、「からびつ」以外に「かろうど」「からうと」の読みがあり、地名にも「唐櫃」があるが、それらは「からと」と読むものが殆んどのようである(ウィキの「唐櫃」に拠った)。]

 お月の入れられた唐櫃は繼母に賴まれた惡い男どもに擔《かつ》がれて、ずつとずつと山奧の深い澤へ持つて行かれて土の中に埋められた。

 春になつて雪もとけて野原には草も萠え出る頃になつたから、お星は母親(カカ)々々親おらア今日は山サ三ツ葉採(ト)りに行つて來るから木割コを貸してケてと言つて、木割を持つて家を出た。さうして村端《むらはづ》れまで來ると、其所からずつとずつと山の麓の方へ、山の麓からずつとずつと山奧の方へ、一筋に續いて黃色な菜種の花が咲いて續いてゐた。その花をたよりにしてお星は何處までも何處までも行つた。行くが行くが行くと、もうあたりは深靜(シン)として鳥コの聲一つせぬ深山の奧の暗い澤の邊へ行き着いた。さうすると菜種の花が圓(マロ)く輪を畫《か》いて咲いてゐる所があつて、そこに姉コが埋められていることが分つた。だからお星は持つて來た木割で土を掘つた。するとガチリと石の唐櫃の葢《ふた》に木割の刄(ハ)が當つた。

[やぶちゃん注:「木割」この場合は、ミツバ採りであるから、今までのような「薪」の意ではなく、ごく小型の鉈のように思われる。]

 お星は木割で其の大きな葢を開けべと思つたが重くて開かなかつた。其蓋を押し開けやう押し開けやうと思つて押したので、手の爪は剝げ、指は裂けて血がたらたらと流れた。それでも一生懸命に手で葢を押すと、少うし開いて中のお月の帶の端が見えて來た。だから手を入れてその帶の端を引ツ張りながら、

   姉コやアエ

   姉コやアエ

 と呼ぶと、初めの中《うち》は何の返辭もなかつたが、やつと極く微(カス)かに、ほウエと云ふ返辭が聞えて來た。あれア姉コはまだ生きて居ると思ふと、お星は力が出て、姉コの名前を呼びながら死力(シニチカラ)を出して葢を押すと、不思議にもさすがの重い大石の葢もガツパリと開《ひら》かつた。お星は喜んで姉を石の唐櫃から抱き起すと、お月は晝夜泣いてばかり居たので、目を泣きつぶして盲(メクラ)になつて居た。それを抱いて泣くお星の左の目の淚がお月の右の目に入るとその目が開いたし、左の目の淚が姉コの右の目に入ると其目が開いた。そしてお星の淚が姉コの口に入ると漸々(ダンダン)と元氣が出て來て漸《やうや》く泣くことが出來て來た。そこで姉妹は抱き合つたまゝ、ただただ泣いて居た。

 其所へ殿樣が大勢の家來を連れて狩獵(カリ)に通りかかつた。そして姉妹の話を聽いて憐れに思召《おぼしめ》されて自分の馬に乘せて二人を館《やかた》の内へ連れて行つた。

 或日姉妹が館の窓から往來の方を眺めて居ると、一人の盲の乞食爺樣が鉦《かね》コを叩きながら斯う唱へて來た。

    お月お星が

    あるならば…

    何しにこの鉦

    叩くべや…

    カンカンカン!

 斯う繰り返し繰り返して唄つて來た。お月お星はアレアおらア家(エ)の父親(トト)ではないかと言つて駈け出して行つて見ると、盲でこそあれ、たしかに自分達の父親であつた。父親は用を濟ませて家へ還つて來て見ると、お月お星がいないので悲しくて目を位き潰(ツブ)して、斯うして姉妹尋ねて廻國して居るのであつた。

 親娘三人が、父親(トト)だか娘だかと云つて抱き合つて泣くと、お月の淚が父親の左の目に、お星の淚が父親の右の目に入ると、不思議にも兩方の目が開いた。親娘が喜んで殿樣の所へ行くと、殿樣も同樣に喜ばれて三人をいつまでも館に置いて大事にした。

 親孝行のおかげで、お月お星は死んだ後は天へ登つて今の月と星になつた。

(以上の話は私の古い記憶であつて專ら村に殘つてゐる話である。ところが仙臺へ來て仙臺市で行なはれている話を聽くと、大體の筋は同樣であるが、村での菜種の花はケシの花となつて居り、また盲目の父は天へ登つて太陽となり、姉妹は月と星となつたが、繼母は惡いから太陽を恐れて土中へもぐつて鼹鼠(モグラモチ)となつた。だから今でも太陽の光に當ると死んでしまふといふのであつた。〈石川善助氏談〉

 (また水澤地方での話は、後妻は或夜先妻の娘のお月をヒクス玉(礁臼)で殺すことに決めた。妹のお星がそれを知つて寢る前に姉に打ちあけ、姉の布團の中には枕を入れておき、自分達は他の所へ隱れて寢た。繼母はその夜二階からお月の布團の上ヘヒスク玉を落した。すると布團の中でビチビチと物の割れる音がしたので、お月が壓死したものと信じて、翌朝わざと優しい聲で、お月お早く起きて御飯たべろと呼んだ。ところが案に相違して姉妹がハイと返事して恙ない姿を現はしたので、これはきつと妹が敎へたに違ひがないと思ひ、こんどは兩人を山へやることにした。姉妹は山へ行つて、ある川端に腰を下して母親がこしらへてくれた握飯を食べやうとしたら、お月の握飯の臭《にほひ》が變なので折から近づいて來た犬に握飯を投げてやつた。犬がそれを食べるとすぐに斃《たふ》れた。それで毒の入つた握飯を食べることもなく無事に家へ歸ることが出來た。繼母はまたも失敗したので、次には兩人を胡桃拾ひにやることにした。さて姉妹はクルミ拾ひに出かけたが、お月の持たせられたフゴは底が拔けていゐたので、いくら拾つて入れても洩つてしまう[やぶちゃん注:ママ。]。それを見てお星は氣の毒に思つて、自分のフゴヘ二人分も拾ひ入れて家へ歸つた。(これは森口多里氏からの資料の一種であるが、同氏の言ふところに據れば、水澤町の東郊外シシと云ふ所で生れたタミと云ふ十七八歲の女中から聞いたもので、タミはこの話の始末を、ただ、繼母が片目になり、姉妹はよい所へ奉公に往き終《つ》ひに母親と一緖になつた…と斷片的に記憶してゐるに過ぎなかつた。父親は一度も出て來ない。或は終《つひ》に姉妹と一緖になつたと謂ふのは母親ではなく、父親であつたのか、それとも繼母の心が善良になつて姉妹と再び共に住むやうになつたのか…と云はれて居る。)

 又別話に、お月もお星も先妻の娘で、後妻がこの姉妹を憎んでいつもひどく扱つた。或日父親が町へ行つて來るといふので、お月は櫛を買つて來てくださいと賴み、お星は笄《かうがい》を買つて來てくださいと賴んだ。ところがその留守の間に後妻は兩人を八ツ入り釜に入れて煮殺して、ひとりを厠の前に、ひとりを厩の前に埋めた。さて父親が町から歸つて、厠の前を通ると、鶯が次のように啼いた。

   櫛もコガイもいりません

   八ツ入り釜でゆでられた

   ホーホケキヨ

 それから厩の前を通ると、矢張り同じやうに鶯が啼いたので、父親は家の中に入つて後妻にお月お星の安否を訊ねたが、知らぬと答へるばかりなので、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]六部になつて鉦を叩きながら、

   お月お星のあるならば

   なにしてこの鉦叩くべや

   カンカラカン

   カンカラカン

 と唱へながら姉妹の行方を尋ねて步いた。(森口多里氏の宅の江刺郡生れの盛夫という若者から聽かれた話。この話の殺された子供等が鶯になつて啼いて父親に在所を知らせた…他の繼母のある型とお月お星譚とが混合したように觀られるものの例。)

[やぶちゃん注:附記は非常に長いので、底本に従わず、本文同ポイントで上に引き上げた。

「水澤」現在の岩手県奥州市水沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。遠野の南西四十キロ位置。

「フゴ」「畚(ふご)」。竹・藁・縄などで網状に編み、四隅に吊り紐を附け、物を入れて運ぶ用具。「もっこ」に同じ。

「水澤町の東郊外シシ」「ひなたGPS」で戦前の地図を見たが、それらしい地名は見当たらなかった。

「八ツ入り釜」米八合を炊ける大釜のことか。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版・オリジナル注記附始動 / 箱題箋・表紙題箋・扉・本扉標題・献辞・薄少君悼夫句・「楚小志」引用句・「ただ若き日を惜め」杜秋娘

[やぶちゃん注:「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」は昭和四(一九二九)年九月十五日武蔵野書院刊で、裝釘は芥川龍之介晩年の盟友小穴隆一である。

 実は私は、このブログ・カテゴリ「佐藤春夫」を創始した最初に、「ただ若き日を惜め 杜秋娘作 佐藤春夫訳」と、「春ぞなかなかに悲しき 朱淑眞作 佐藤春夫訳」を講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」を用いて、甚だ不全な形で公開しているのだが、その不全性に直後から嫌気がさし、また、後には、同カテゴリで佐藤春夫の未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』等の電子化注にすっかり熱中してしまい、放置していたこともずっと忘れてしまっていた。今回、以下の訳詩集原本を視認出来るようになったので、仕切り直して行うこととした。但し、その不全な二篇は同カテゴリの初回と二回目であるので、削除せず、自戒の思いを含めて、残すこととした。

 本文の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本(リンク先は標題ページ)を以って視認する。

 可能な限り、原本通りに電子化するが、本書の一部のひらがな文字は草書の崩し字で活字印刷されており、これはUnicodeでも表示出来ないため、通常のひらがなに直した。踊り字「〱」は生理的に受けつけないので、正字化した。ストイックに注を附す。なお、本文の各詩篇は、標題がポイントが大きく、漢詩と作者が有意(漢詩よりはポイント大)に小さく、本文は中くらいという感じなのだが、少なくとも漢詩は読み難くなるだけなので、それらのポイント違いは必ずしも再現しないこととした。]

 

支那厯朝

     車塵集 佐藤春夫譯著

名媛詩鈔

 

[やぶちゃん注:箱題箋。但し、底本は表紙が補修されているため、原本自体の画像がない。しかし、幸いにしてmurasakinoyukari氏の「武蔵野書院のブログ」(『武蔵野書院』は原本の出版社)の「佐藤春夫譯著 『車塵集』」原本紹介記事に原本にあった箱(そこに『上製函入り本』とある)と、次の本体の原表紙の写真を見ることが出来たため、その画像を視認して、題箋を起こした。「支那厯朝」「名媛詩鈔」は底本では二行割注風に支那厯朝「車塵集 佐藤春夫譯著」の上にある。次も同じ。]

 

支那厯朝

     車塵集 佐藤春夫譯著

名媛詩鈔

 

[やぶちゃん注:原本表紙題箋。同様の理由で、同じくmurasakinoyukari氏の「武蔵野書院のブログ」(『武蔵野書院』は原本の出版社)の「佐藤春夫譯著 『車塵集』」原本紹介記事に拠った。単体画像はここ。]

 

            譯 詩 集

 

[やぶちゃん注:底本の(見返しかも知れない)。]

 

支那厯朝名媛詩鈔

 車 塵 集 佐藤春夫譯著

 

[やぶちゃん注:底本の本扉標題。前に薄紙が挟まれてある。小穴の二つの鳥籠が背景。先のmurasakinoyukari氏の「武蔵野書院のブログ」(『武蔵野書院』は原本の出版社)の「佐藤春夫譯著 『車塵集』」原本紹介記事の単体画像はここ。]

 

            芥川龍之介が

            よき靈に捧ぐ

 

[やぶちゃん注:以上のページを捲った左ページにある献辞。]

 

            濁 世 何 曾 頃 刻 光

            人 間 眞 壽 有 文 章

                 薄 少 君 悼 夫 句

 

[やぶちゃん注:献辞ページの裏にある。「薄少君」は明代の学者で詩人の沈承の才媛の妻の名。若くして亡くなり、それを悼んで、夫は百首の詩を読んだ。その中の第三十四の冒頭の二句であるが、「維基文庫」の「情史類略」の「薄少君」で確認したところ、一句目の「曾」は「爭」であり、国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここ以下によれば、原詩は「濁世(ぢよくせ) 何ぞ曾(かつ)て頃刻(けいこく)の光あらん 人間(じんかん) 眞(まこと)に壽(ひさ)しく文章有り」と訓読され、『訳者の加筆は明白である』とされている(以下、中国語の辞としての「爭」と「曾」の互換性の考証がなされてあるが、略す)。ともかくも、盟友芥川龍之介への悼辞として佐藤が手を加えて、『「この穢れた世の中では、しばらくの間もしばらくの間輝くことも難しい。しかし、君がこの世に残しした文は永遠不滅だ」と詠じて』芥川龍之介の『霊前に捧げた佐藤の意図を理解すべきであろう』と述べておられる。私も、その見解に賛同するものである(太字は私が附した)。

 なお、この後には、中国文学者で與謝野晶子門下の歌人でもあった奥野信太郎の「序文」(本文開始ページをリンクした)があるが、彼の著作権は継続中(昭和四三(一九六八)年没)であるので、電子化しない。]

 

     東 塵 集

 

[やぶちゃん注:序文の終わった左ページの本格本文の開始部分の標題。]

 

            美 人 香 骨

            化 作 車 塵

               「楚 小 志」

 

[やぶちゃん注:直前の標題ページの裏に記載された、本訳詩集の題の由来となった詩句。「美人の香骨 化して車塵と作(な)る」。知られた古代の銭塘の美妓蘇小小を詠んだものらしい。「楚小志」は明の銭希言撰。]

 

 

  ただ若き日を惜め

            勸 君 莫 惜 金 縷 衣

            勸 君 須 惜 少 年 時

            花 開 堪 折 直 須 折

            莫 待 無 花 空 折 枝

                  杜 秋 娘

 

綾にしき何をか惜しむ

惜しめただ君若き日を

いざや折れ花よかりせば

ためらはば折りて花なし

 

[やぶちゃん注:底本ではここ。原作者について「車塵集」には、末尾に無署名乍ら佐藤自身の筆になる「原作者の事その他」という後書があり、そこに各詩人の解説があるので、引いておく(「原作者の事その他」については、無論、再度、ちゃんと全文を電子化する。なお、この解説には一切ルビがないので、私が読み難いと判断した読みを推定で歴史的仮名遣で振った。その際、所持する講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」で編者によって振り仮名が振られているので、それも参考にした。句点や一部の有意な一字空けはママ。次以降では、この注記を略し、詩の後に※で挟んで示す。底本では作者名のみが解説の上に抜きん出て、その一字下から文が始まる形で、以下は、例えば、この組み方である。

    ※

杜秋娘  西曆七世紀初頭。 唐。 もと金陵の娼家の女。 年十五の時、大官李錡(りき)の妾となった。 常に好んで金縷曲(きんるきよく)――靑春を惜しむ歌を唱へて愛人に酒盞(しゆさん)を酭めた。 ここに譯出したものが今に傳はつてゐるが、「莫情」「須惜」「堪折」「須折」「空折」 など疊韻のなかに豪宕(がうたう)な響があるといふのが定評である。 李錡(りき)が後に亂を起して滅びた後、彼女は召されて宮廷に入り憲宗のために寵せられた。その薨去の後、帝の第三子穆宗(ぼくそう)が卽位し、彼女を皇子の傅姆(ふぼ)に命じた。 その養育した皇子は壯年になつて漳王(しやうわう)に封ぜられたが、漳王が姦人のために謀られ罪を得て廢削せられるに及んで彼女は暇を賜うて故鄕に歸つた。 偶〻杜牧が金陵の地に來てこの數奇にも不遇な生涯の終りにある彼女を見て憫れむのあまり杜秋娘詩を賦したが、それは樊川(はんせん)集第一卷に見られる。

    ※

 この小伝については、疑問があるので簡単に注しておく。なお、標題の「惜め」はママである。本文冒頭から、どうということはないが、僅かな躓きがあるのは、ちょっと作者の校正のいい加減さが透けて見えるようで、やや残念ではある。

・「酭めた」というのは、私は実は不遜にも誤字ではないかと疑っている。「酭」(音「ユウ」)という字は「報いる」の意で、とても読めない所持する大修館書店の「廣漢和辭典」にも載らない字である(だのに講談社文芸文庫にはルビが振られていないのは頗る不審である)。ところが、ここに、よく似た字体で「酳」(音イン)があり、これは「すすめた」と読めるのである。大方の御批判を俟つ。

・「豪宕」気持ちが大きく、細かいことに拘らず、思うがままに振る舞うこと。「豪放」に同じ。

・「傅姆」乳母。

 以下、原詩の題を添えて、通常の私の訓読を示す(以降も同じ形で注せずに注の最後に示す)。

   *

 金縷(きんる)の衣(ころも)

君(きみ)に勸む 惜(を)しむ莫(な)かれ 金縷(きんる)の衣

君勸む 須(すべか)らく惜しむべし 少年の時(とき)

花 開きて 折(を)るに堪へなば 直ちに須(すべか)らく折るべし

花 無きを待ちて 空(むな)しく枝を折る莫かれ

   *]

2023/06/07

「新說百物語」巻之二 「江刕の洞へ這入りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   江刕の洞(ほら)へ這(はひ)入りし事

 江州のある村の山の上に、大きなる洞穴あり。

 むかしより、誰(たれ)あつて奧のふかきを見とゝけ[やぶちゃん注:ママ。]たるもの、なし。

「奧には、大虵(《だい》じや)の住む。」

ともいゝ[やぶちゃん注:ママ。]、子どもなどは、

「鬼が、すまゐする。」

といふて、かたはらへ寄るものも、なし。

 あるとしに、勢州より來たりける神主あり。

「我は、いかで、奧のふかきを、見とゝ[やぶちゃん注:ママ。]けん。」

とて、又、其時に、大夫(だいふ)なるものありて、彼と二人連(づれ)にて、干飯(ほしいゝ[やぶちゃん注:ママ。])やうの物・酒など、用意して、はいりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]弐、三丁[やぶちゃん注:約二百十八~三百二十七メートル。]ほど、奧へ、はいりけるとおもふに、次㐧に、穴、ちいさくして、やうやうと、壱人つゝくゝるはかり[やぶちゃん注:総てママ。]にて、上より、

「したした」

と、雫、落ちて、松明(たいまつ)にて、すかしみれは[やぶちゃん注:ママ。]、鍾乳石、水柱(つらゝ)のごとくさがり、しろき蝙蝠(とんぼう[やぶちゃん注:ママ。コウモリの異名としては私は知らない。彫師が「蜻蛉」と誤読して読みをかく彫ったものか?])、

おゝく[やぶちゃん注:ママ。]、飛《とび》ちかひ[やぶちゃん注:ママ。]けるを、拂ひのけ、拂ひのけ、行きけれは[やぶちゃん注:ママ。]

『弐里はかり[やぶちゃん注:ママ。]、行く。』

と、おもへは[やぶちゃん注:ママ。]、すこしはかり[やぶちゃん注:ママ。]、あかりのさすやうなる所、あり。

 小川、なかれ[やぶちゃん注:ママ。]て、砂は、皆、銀のことく[やぶちゃん注:ママ。]、兩の岸には、ひつしり[やぶちゃん注:ママ。]と、松茸(《まつ》たけ)のやうなるもの、はへてありける。

 とくと見れは[やぶちゃん注:ママ。]、皆、水晶のいろにて、やはらかなるものなり。

 夫《それ》より、弐里ばかり行けは[やぶちゃん注:ママ。]、ちいさき小社あり。

 何の神といふことも知れす[やぶちゃん注:ママ。]

「迚(とても)の事に。」

と、石の戶を、ひらき見れは[やぶちゃん注:ママ。]、古《ふるき》文字にて、「三」の字と、「宝」の字はかり[やぶちゃん注:ママ。]見へて、その外は、見へす[やぶちゃん注:ママ。]

 猶、おくふかくゆきけれは[やぶちゃん注:ママ。]、大河あり。

 水、淺くして、步行渡(かちわたり)にわたりて、

『道、積り、十七、八里はかり[やぶちゃん注:ママ。]。』[やぶちゃん注:六十六・七六~七十・六九キロメートル。]

と思ふ頃、とある川上に出《いで》たり。

 常の村里にてありけれは[やぶちゃん注:ママ。]、所のものに、名を尋ねしかは[やぶちゃん注:ママ。]

「伊勢の五十鈴川(いすゝ《かは》)の川上なる。」

よし、申しける。

 洞へはいりたる日の、三日目にてありしよし、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「大夫(だいふ)」神社に従属する代行参拝・神社の宣伝・参詣人の世話や宿泊斡旋などに従事した御師(おし)の称号。]

「新說百物語」巻之二 「天井の龜の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない(次の見開きの絵は本篇と関係がない)。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   天井(てんじやう)の龜の事

 山城の岡崎といふ所に、ふるく住《すみ》なせる庵室(あんじつ)あり。その庵主は、西國の人にて、若年ものなりしか[やぶちゃん注:ママ。]、ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]あつて出家し、京の知るへ[やぶちゃん注:ママ。]を賴み、久々、京都に住けるか[やぶちゃん注:ママ。]、右の庵の、

「賣屋敷に出る。」

と聞きて、さつそくにとゝのヘ、庭のまかき[やぶちゃん注:ママ。]など、つくろひ、屋根も、ふるくなりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、屋根やを呼び、ふかせける。

 一兩人、やね、あかり[やぶちゃん注:ママ。]、古屋根を、めくり、とかくする内に、鳶(とび)、一羽、來たり、空より、物を、屋根のうへに、落したり。取《とり》あけてみれは[やぶちゃん注:孰れもママ。]、ちいさき錢龜《ぜにがめ》なり。

 夕かた、歸るさに、[やぶちゃん注:ここ以下の部分の主語は、その亀を見つけた屋根葺きの職人の一人である。]

「持ちて、かへらん。」

と、下を、のぞけば、天井のうへに、われたる壷、ひとつ、ほこりにうつみて[やぶちゃん注:ママ。]、是あり。

 其内へ、いれをき[やぶちゃん注:ママ。]、やねをふきて、其龜のことを、わすれ、ことこと[やぶちゃん注:ママ。後半は底本えは踊り字「〱」。]く、ふきしまひ、何方《いづかた》よりも取るへき[やぶちゃん注:ママ。]かたなく、其まゝ、打ち捨てゝかへりぬ。

 其後、十五年すきて[やぶちゃん注:ママ。]、寶曆[やぶちゃん注:一七五一年から一七六四年まで。]のはしめつかた[やぶちゃん注:ママ。]、又、其庵のやねを吹き[やぶちゃん注:ママ。]かへける時、彼《か》の屋根や、むかしの事を、おもひ出し、天井のうへを、のそき[やぶちゃん注:ママ。]見れは[やぶちゃん注:ママ。]、やはり、其壷、そのまゝにて、ありける。

 ほこりの中を、さかしてみれは[やぶちゃん注:総てママ。]、以前、入置《いれお》きし龜も、居たりける。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]に思ひて、敢《とり》あけみれは[やぶちゃん注:総てママ。]、少しは、やせたるやうなれども、目も、ひらき、手あしも、うこき[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 手桶の水に、いれけれは[やぶちゃん注:ママ。]、しつかに[やぶちゃん注:ママ。]およき[やぶちゃん注:ママ。]て、むかしに替ること、なし。

 取《とり》かへりて、泉水に、はなちをき[やぶちゃん注:ママ。]、はつかばかりして、見ければ、成程、よく肥(こ)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、常の龜のごとし。

「誠に。龜は、長生のものなり。」

と、始《はじめ》て思ひあたりける。

 十五年の間、水も、のまずして、命のつゞく事、靈物(れいぶつ)のしるしなり。

[やぶちゃん注:「錢龜」爬虫綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属クサガメ Mauremys reevesii(草亀・臭亀)、又は、カメ目イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica(日本石亀)の幼体。愛玩動物の一つとして、江戸時代以前から飼育されている歴史がある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(2) / 「第二篇 禹餘糧等について」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。

 なお、初回の冒頭注も参照されたい。]

 

    第二篇 禹餘糧等について

 

 支那の本草に、歐人の所謂、「鷲石」を、「禹餘糧」等《とう》に分類せる其區劃、諸家各《おのおの》說を異にして、判然せず。小野蘭山が「本草啓蒙」に說くところ、尤も分明と見受《みうけ》る。左に「和漢三才圖會」六一に「本草綱目」に出た諸家の說を折衷合考して摘要した文と、「重訂本草啓蒙」卷六なる蘭山の說を寫し出す。

[やぶちゃん注:『小野蘭山が「本草啓蒙」に說くところ』『「重訂本草啓蒙」卷六なる蘭山の說』事前に『小野蘭山述「重訂本草啓蒙」巻之六「石之四」中の「禹餘粮」・「太一餘粮」・「石中黃子」』として電子化しておいた。

『「和漢三才圖會」六一に「本草綱目」に出た諸家の說を折衷合考して摘要した文』こちらも、先行して『「和漢三才圖會」卷第六十一「雜石類」の内の「禹餘粮」』として電子化しておいた。なお、以上の二つで注したものは、ここでは、原則、省略するので、必ず、それらを見られたい。]

 本綱、禹餘粮、會稽山中多出、彼人云、昔禹王會諬于此、棄其所ㇾ餘食於江中、而爲ㇾ藥、則名禹餘粮(蒒草亦名禹餘粮、乃草實也、同名異物也。)生池澤及山島、石中細粉如ㇾ麪、黃色如蒲黃、其堅凝如ㇾ石者名石中黃、其未ㇾ凝黃濁水名石中黃水、而三者一物。〔「本綱」、『禹餘粮は、會稽山(くわいけいざん)の中に、多く出づ。彼(か)の人、云はく、「昔、禹王、此に會稽して、其の餘(あま)る所の食を、江中に棄(す)つ。而して、藥と爲(な)る。」と。則ち、「禹餘粮(うよらう)」と名づく。(「蒒草(しさう)」も亦、「禹餘粮」と名づく。乃(すなは)ち、草の實(み)なり。同名異物なり。)池澤(ちたく)及び山島(さんたう)に生ず。石の中の細粉(さいふん)、麪(むぎこ)のごとく、黃色にして、蒲黃(ほわう)のごとし。其の堅く凝(こ)りたるごとくなる石の者を「石中黃」と名づく。其の未だ凝らざる黃(き)なる濁水を「石中黃水(せきちゆうくわうすい)」と名づく。而して、三(みつ)の者、一物なり。』と。〕

 蘭山曰く、『禹餘糧、和名イシナダンゴ、ハッタイイシ、ハッタイセキ、コモチイシ。舶來和產共にあり。舶來のもの、大《おほい》さ、一、二寸。殼の厚さ、一、二分ばかり。甚だ硬く、黃黑褐色にして、打破《うちやぶ》れば、鐵色あり。其内、空虛にして、細粉、盈《み》てり。又、内に數隔ある者あり、藥には、此粉を用ゆ。所謂、「糧」也云々、其粉、白色或は靑白色を良とす。又、黃色・黃白色なる者あり。和產は、和・能・甲・泉・日・薩・但・江・作諸州、筑前・越中、其餘、諸國にあり。

 本綱、太一餘糧、又名石腦・禹哀、生太山山谷、其石形、片片層疊、深紫色、中有黃土也、其性最熱、冬月有餘粮處其雪先消。〔「本綱」、『太一餘糧、又、「石腦」・「禹哀」とも名づく。太山の山谷に生ず。其の石、形は片々として層疊をなし、深紫色なり。中に黃土有りて、其の性、最も熱す。冬月、餘糧の有ある處、其の雪、先づ、消ゆ。』と。〕

 蘭山曰く、『太一餘糧、イワッボ、ツボイシ、ヨロイイシ、オニノツブテ、フクロイシ、タルイシ、スズイシ。舶來、なし。和產、諸國にあり。形狀、大小、一《いつ》ならず。大《だい》なる者は斗《と》の如く、小なるものは桃栗の如し。禹餘糧の形に似て、外面、黃黑褐、雜色、質、粗くして、大小の砂礫、雜《まぢ》はり、粘《ねん》する事、多し。「雲林石譜」に『外多粘綴碎石』〔外に多く碎(くだ)ける石を粘綴(ねんてつ)す〕と云ふ、是也。其殼、堅硬、打破《うちやぶ》る時は、鐵の如く、光、有り。裏面は栗殼色《くりのからいろ》にして滑澤也。殼内は、空しくして、粉あり。黑褐色なる者、多し。又、黃褐色なる者もあり。全きものを用ひて、一孔を穿ち、粉を去《さり》て、小なる者は硯滴《みづいれ》となし、大なるものは花甁《はないけ》となす。凡そ禹餘糧・太一餘糧、共に、初めは内に水あり、後《のち》、乾いて、粉となり、久《ひさし》きをへて、石となる。其《それ》、桃・栗の大きさにして、内に石ある者、此《これ》を撼《うご》かせば、聲、有《あり》て、鈴の如し。故にスヾイシと云ふ。太一餘糧は、泉・紀・讃・和、諸州、城州・木津邊の山にあり。其中《そのうち》、和州生駒山に最も多し。名產也。

 「本草綱目」卷十に、斆曰、石中黃幷卵石黃、二石眞相似、其石中黃句裏赤黑、黃味淡微跙、卵石黃味酸、个箇卬卬、内有子一塊、不ㇾ堪ㇾ用、若誤餌ㇾ之令人腸乾。〔斆(こう)曰はく、『石中黃(せいきちゆうわう)幷びに卵石黃(らんせきわう)は、二石、眞(まこと)に相ひ似たり。其の石中黃は、句裏(くり)[やぶちゃん注:区切られた内部の意か。]は赤黑黃にして、味、淡く、微(かす)かに跙(しよ)なり[やぶちゃん注:意味不明。]。卵石黃は、味、酸(す)く、个箇(ここ)に卬卬(こうこう)として[やぶちゃん注:意味不明。性質が高ぶっていることか。]、内に子(こ)の一塊、有れば、用ふるに堪へず。若(も)し、誤りて之れを餌(くら)へば、人をして、腸を乾(かは)かしむ。』と。〕

 蘭山曰く、『卵石黃は「饅頭イシ」・「ダンゴ石」・「ダンゴ岩」・「土ダンゴ」。形、圓《まどか》にして、大抵、大きさ、五、六分より、一寸許りに至る。又、長き者もあり。外《そと》は黃白色にして、細土を固めたるが如く、柔かにして、碎け易し。中心に黑紫色の餡《あん》ありて、鰻頭を破《やぶり》たる狀《かたち》の如し。豐前中津・房州・氷上《ひかみ》郡・防州・豫州・奧州津輕・伯・能・武、諸州、甲州・荒井村、其他、諸州に產す。

 雜とこんな者だが、蘭山說も、一寸、解しにくい所なきに非ねば、熊楠、古人が集めた標本を多く藏するに、見比べて、蘭山說を槪要して申さば、禹餘糧は、全體を通じて、同質の堅い石で、太一餘糧も堅いが、多くの小石と砂粒が混在せるもの故、全體、同一質でない。卵石黃は、上述、田邊附近、岩屋山の「饅頭石」等で、石が柔らかく、脆《もろ》くて、固まつた細土の如く、中に黑紫色の餡あり。禹餘糧も太一餘糧も、未成の物は中に黃みを帶びた濁水あり、之を「石中黃子」と名づけ、三升迄、のむと、千年まで生き延びる、と「抱朴子」十に出づ。其水、おひおひ、砂、又、細土となるを、「石黃」と名づける。彩色に「石黃」といふは是れか。其後、益《ますま》す固まつて石となり、外を包んだ石と離れて、外の石をふれば、ガラガラ、鳴るを、日本で「鈴石」と名《なづ》く。「譚海」九に、駿州富士郡傳法《でんばふ》村住《ぢゆう》、吉川氏の先祖は、富士の牧狩《まきがり》に賴朝に供奉したそうで、百五十年程前、大風が、宅後の大木の楠を吹倒《ふきたふ》した。其跡より出た石槨《せつかく》を開くと、徑《わたり》七、八寸ほどの石のみあり。其石、眞中に、穴、有《あり》て、内に丸い石を含み、ふると、鈴の音に違《たが》はず、「鈴石」と號し、秘藏し、事ある每に、祈れば、驗《しるし》あり。近年は、石の靈、漸く薄らいだ物か、驗、稀に成《なつ》た、とあり。惟《おも》ふに、昔しは、鈴石の、よくなるものを、鈴の代りに、神前抔で用ひ、年久しく成て、アフリカ人のフィチシュ如く、靈、有《あつ》て、人を助く、と信じたところも、日本に有たらしい。

[やぶちゃん注『「譚海」九に、駿州富士郡傳法村住、吉川氏の先祖は、……」同篇は事前に「譚海 卷之十一 駿州吉川吉實家藏鈴石の事 /(フライング公開)」しておいた。前に同じくそちらで注したものは、ここでは、省略するので、必ず、それらを見られたい。

「フィチシュ」音写が不審だが、英語の“witch”で「女魔術師」「シャーマン」のことか。]

 禹餘糧、太一餘糧、共に、夏の禹王と其師太一が食ひ殘した穀粉《こくふん》の化石と見立《みたて》ての名だ。石の中にある砂や土が、穀の粒や粉に似居《にを》るからだ。他に草をも禹餘糧と名づく、とある。蒒草《しさう》は、本邦の本草家が海濱に多いフデクサ、一名ハマムギに當《あて》るが、當否を知らず。凡そ諸邦に、或る箇人《こじん》の飮み食ひの殘分《ざんぶん》が、化石し、若くは、不斷、ふえ增し、嫩くは常存《じやうぞん》し、又、代々、相嗣《あひつ》ぎ生《しやう》じて亡びないと信ぜらるゝ例、多し。少々述《のべ》てみやう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「蒒草は、本邦の本草家が海濱に多いフデクサ、一名ハマムギに當るが、當否を知らず」『「和漢三才圖會」卷第六十一「雜石類」の内の「禹餘粮」』で注したが、これは言っておくと、誤りである。これは単子葉類植物綱カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi の異名であり、「筆草」(フデクサ)はコウポウムギの異名である。而して、イネ科の多年草である「ハマムギ」は、単子葉植物綱イネ科エゾムギ属ハマムギ Elymus dahuricus var. dahuricus であって、全くの別種である。

 一八五二年カルカッタ刊行、『ベンガル皇立亞細亞協會雜誌』第廿卷二四四頁に、ヰルフォード大佐曰く、印度、タムラチレー山に、最大種の稷《きび》の大きさな細石、多く、麁挽《あらび》きの小麥粉に似おる[やぶちゃん注:ママ。]。土俗、傳へいふ、昔し、大天、十二年の不在中、天妃、每日、食を調のへて、一年、俟《ま》つても、まだ見えぬ、十年、俟つても、まだ見えぬ、と、きたので、每夜、捨て續けたのが、此石と化した、と。之を硏《と》ぎ、穴あけ絲を貫いて、千粒、一ルピーの割で、賣り、薄黃色だから、タムラ(眞鍮)と呼び、巡禮の輩、至つて之を尊《たつと》ぶ、と。支那では、建中の石粟《いしあは》は、諸葛武侯が馬を飼つた殘りの粟の化《か》するところといひ、江西の洞中の石田にある石稻も似た者らしい(「淵鑑類函」二五。「大淸一統志」二〇六)。日本には「播磨風土記」に、天日槍命(あまのひぼこのみこと)、韓國《からくに》より來り、到於宇頭川底而乞宿處於葦原志擧乎命云々、志擧乎卽許海中、爾時客神以ㇾ劍攪海水而宿ㇾ之、主神卽畏客神之盛行、而先欲ㇾ占ㇾ得ㇾ國、巡上到於粒丘而飡ㇾ之。於ㇾ此有口落粒、故號粒丘、其丘小石皆能似ㇾ粒。〔宇頭(うづ)の川底(かはじり)に到りて、宿處(やどり)を葦原志擧乎命(あしはらのしこをのみこと)に乞ふ云々、志擧乎、卽ち、海中に許す。其の時、客の神、劍を以つて、海水を攪(か)きて、之れに宿る。主(あるじ)の神、卽ち、客の神の盛んなる行ひを畏(かしこ)みて、先に國を占めんと欲し、巡(めぐ)り上(のぼ)りて「粒丘(いひぼのをか)」に到りて、之れを飡(くら)ふ。此に於いて、口より、粒(いひぼ)、落つ。故(かれ)、「粒丘」と名づく。其の丘の小石、皆、能く、粒に似たり。〕粒丘はイヒボノヲカと訓《よ》む。神の口より落《おち》た飯粒《めしつぶ》が化石したのだ。「諸國里人談」三には、周防の氷上山《ひかみさん》は、昔し、每年二月十三日、「北辰尊星の祭」有《あり》て、千種百味を備え[やぶちゃん注:ママ。]、日本第一の靈驗ある大祭だつた。「運の祭り」とて、多々良家、千餘歲續き祭つた内は、年每《としごと》に、星が降つた。天文十八年より、降り已《や》み、(二年後に)義隆、亡び、祭は斷絕した。昔しの祭供、土石と成《なり》て、地に埋《うづ》もり、米石餠・土饅頭あり。掘出《ほりいだ》して、流行病《はやりやまひ》を防ぎ、瘧《おこり》を落《おと》すに妙なり、と見ゆ。伊賀の淨福寺邊に、大きな集合岩あつて「御飯石」と呼《よば》れ、異僧が炊《かし》いだ飯の化石といふ。信濃飯綱山《いひづなやま》近く、黴菌土《ばいきんど》あつて、味、麥飯《むぎめし》の如く、食用すべし。「餓鬼の飯」と呼ぶ。越中新川《にいかは》郡の糟岩《かすいは》は、昔し、長者、酒糟を捨たのが、此岩と成たとて、神と崇め、祭禮の時、「南無糟明神」と唱ふる由。(藤澤君の『日本傳說叢書』伊賀の卷、二三一頁。同、信濃の卷、五九頁。「越中舊事記」上)。

[やぶちゃん注:「建中」後の対表現から地名としか思われないので、調べたが、この地名は見つからなかった。そこで「漢籍リポジトリ」で「淵鑑類函」の第二十五巻を調べたところが、熊楠の誤りであることが判った。「洞一」の[030-28a] 及び[030-28b]の箇所を見られたいが、『黔中郡南石厓屹立傍有石洞深數丈相傳諸葛亮征九溪蠻嘗過此留宿洞中設一牀懸粟一握以秣馬後遂化為石牀石粟至今』で、「黔中」が正しい。現代仮名遣で「けんちゅう」と読み、もと、戦国時代の楚の町の名で、後の秦代になって「黔中郡」が置かれた。 沅江中流に位置し、現在の湖南省常徳市(グーグル・マップ・データ)の西に相当する。

「イヒボノヲカ」底本では「イヒホノオカ」であるが(「選集」は歴史的仮名遣を廃しているため「イイボノオカ」で話にならない)、所持する岩波文庫「風土記」(武田祐吉編一九八七年刊)の「播磨風土記」に拠って特異的に訂した。

『「諸國里人談」三には、周防の氷上山は、……』「諸國里人談卷之三 土饅頭」は既に二〇一八年に電子化注しているので、見られたい。

「伊賀の淨福寺」三重県伊賀市古郡にある真言宗豊山派の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「餓鬼の飯」飯綱山はここ(グーグル・マップ・データ)だが、これは、長野県小諸市御幸町の天然記念物「テングノムギメシ」として知られるものと同じ。前注した「諸國里人談卷之三 土饅頭」の私の注を参照されたい。]

 後魏の楊衒之の「洛陽伽藍記」五に、宋雲と惠生と正光元年(西曆五二〇年)乾陀羅《けんだら》國に入り、肉を割《さい》て鴿《はと》を救ふたで、名高い尸毘王《しびわう》の倉の燒阯《やけあと》をみるに、焦《げ》た粳米《うるちまい》、今に在り、一粒を服《ぶく》すれば、永く瘧《おこり》を絕つ。國民、禁日を須(まつ)て之を取る、とあり(一九〇六年板、ピール「佛徒西域記」、第一卷一二五章)。印度より、支那を經て、日本に傳へた者か、日本、亦、昔し、燒けた倉趾《くらあと》から出る燒米石《やきまいいし》が熱病を治すという處あり(『鄕土硏究』第四卷第三號、中川氏の「白米城の話」)。

 「山州名跡志」六に云く、每歲六月十九日の夜、鞍馬寺の法事を左義長谷《さぎちやうだに》で行なふ。古《いにしへ》は、正月、左義長の如く、竹を立《たて》て燒《やき》たり。中頃より、松明《たいまつ》の如くして、燒く。傳《つたへ》て云ふ、多門天は、人道の衆生に福を授くる誓ひ有《あつ》て、其福、滿足せり。然し、衆生、諸煩《しよぼん》に遮られて得るに由なし。故に、徒《ただ》に朽《くつ》るを以て、燒亡《やきほろぼ》し給ふ。其相《さう》を擬して、衆生にみせしむ云々。大和志貴山《しぎざん》、亦、此天の燒き玉ふとて、土中に燒米《やけごめ》あり、そこを米尾《こめのを》といふ、と。

[やぶちゃん注:『「山州名跡志」六に云く、每歲六月十九日の夜、……』国立国会図書館デジタルコレクションの『京都叢書』第十九巻(増補・昭和一〇(一九三五)年刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ下段の「左義長谷(サギチヤウダニ)」の項)。上野本文中の読みは、一部をそちらの記載とルビに従って変更・補塡した。

「左義長谷」前注のリンク先の本文の頭にこの谷の位置を「樓門に向ふ巽の嶺に在り」(以上の原本では漢文訓点附き)とあるので、グーグル・マップ・データ航空写真で、この中央から南東に延びる谷ということになるか。]

 唐の末、兵起つた時、山西の趙氏の女が嫂(あによめ)と共に遁るゝ折から大旱《おほひで》りで、久しく行く内、喉が渴した。或人、見かねて米の洗ひ水を吳《くれ》たのを、嫂は飮《のん》だが、其夫の妹は受けず。溝中に、ぶちあけて、渴死《かはきじに》した。その溝の水は、今に、しろ水の樣に白いから、「漿中溝《しやうちゆうこう》」と名づく。日本でも、若狹の大飯《おほい》郡音海《おとみ》村の山下に、三の岩穴、各《おのおの》、常に水あり。一つは酢、一つは酒、一つは醤油の味、あり。野菜・海藻などに和して食へば、造釀のものと異《かは》らねど、魚・鳥を煮ると、味、必ず變《かは》る。弘法大師、こゝえ[やぶちゃん注:ママ。]來たり、修行の時、造つたそうで[やぶちゃん注:ママ。]、「大師洞《だいしがうろ》」と稱へる由(「大淸一統志」一一〇。「若狹郡縣志」三)。故高木敏雄氏の「曰本傳說集」二一〇頁に、飛驒の益田郡中原村の「孝行水」てふ小池は、路傍にあり。昔し、瀕死の父が、若い時、琵琶湖の水を飮んで旨かつたと思ひ出し、今一度、あの水を飮《のん》で死にたいと云《いふ》た。其子、孝心、篤く、直ぐ、出で立つて、琵琶湖え[やぶちゃん注:ママ。]急行し、其水を持來り、見れば、父は死んで居《をつ》た。大いに失望して、水を、器に盛つたまゝ、路傍に落《おと》し、そこが、忽ち、池となり、今に、增減・澄濁、みな、かの湖に應ずと云ふ。

[やぶちゃん注:「若狹の大飯郡音海村」若狭湾湾奥の西部分の岬の先端に福井県大飯郡高浜町(たかはまちょう)音海(おとみ:グーグル・マップ・データ航空写真)がある。ずっと以前からお世話になっている斉藤喜一氏のサイト「丹後の地名」の「音海(おとみ) 福井県大飯郡高浜町音海」のページで、この「大師洞」が岬の北の本当の先っぽの「音海断崖」(同前)にあることが判った。そこの「音海断崖」に、『内浦半島の突端にあり、北向き海岸で船で外海へ出ないことには見えない。壮大な海食崖という。「若狭国志」に「巌壁高サ数十丈、鷹鳥巣ヲ為ル。其下ニ巌洞有リ、大師洞卜称ス。広大宛モ大堂ノ若シ」とあるように、押回鼻と今戸鼻の間約2㎞にわたって最高260mの断崖が続く。安山岩質の岩石海岸が荒波により浸食されたもので、崖下には大師洞・十二艘洞など海食洞も多い。中でも十二艘洞は巨大で、高さ20m ・ 奥行60mもあるそう』とあって、「高浜町誌」から引いて、『押回鼻には洞穴があり』、『大師洞という。洞中に三つの岩壷があって醤油壺、醋壷、酒壷と海水の味がかわり泰澄大師が祀ってある』とあった。ただ、これが現存するかどうかは、ネットで調べたが、場所が場所だけに、よく判らない。

「若狹郡縣志」国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大正六(一九一七)年刊)所収の同書を確認、ここの左ページの下段に「大師ヵ洞(ウロ)」とあるのがそれ。

『高木敏雄氏の「曰本傳說集」二一〇頁』国立国会図書館デジタルコレクションで原本(大正二(一九一三)年刊)の当該部が視認出来る。附記もあるので、是非、読まれたい。]

 一向宗徒は、越後の八房の梅を祖師の靈驗と崇む。親鸞聖人、鳥屋野《とやの》に宿つた時、亭主馳走して鹽漬の梅を獻じた。聖人、食つて、核《たね》を取り、庭に投《なげ》て、「我が敎ゆる法《ほふ》が繁昌するなら、この核より、梅の木が生ぜよ。」と言《つ》た。後ち、果して、生え、其梅、千葉の紅花で、一朶に八顆あり、味ひ、やゝ鹹《しははゆ》しといふ(「和漢三才圖會」六八)。「本草圖譜」五八に圖、白井光太郞博士の「植物妖異考」一に說明あり。「三度栗」、亦、「親鸞の靈驗」と云ふ。聖人、分田《ぶんだ》村を過《すぐ》る時、一婦、燒栗を持つて餽《おく》つた。上野の原で休む時、之を食ひ、餘りを、地に埋めて、「我法、後世に昌《さか》えなば、此燒栗、再生すべし。」と言た。不日に、芽を出し、今は林となり、歲に、三度、實のる、と(「和三」其他同前)。天武天皇にも同樣の話あり、「宇治拾遺」に出づ。伯耆の後醍醐帝の「齒形栗」も同類異話だ。常陸鹿島の社の側の栗林も、神の食ひ殘しの燒栗より、生えた由(加藤咄堂「日本風俗志」三、新松氏「神道辯草」)。

[やぶちゃん注:『「和漢三才圖會」六八』の親鸞の事績二つは所持する原本の当該部(「越後」地誌パート内の「當國 神社佛閣名所」の一節)から訓読(送り仮名や読みの一部は私が加えてある)したものを以下に示す。そもそも、この二つは、並置さえれてある。なお、標題は原本では一行目冒頭からで(△もこれのみ、第一字目位置にある)、本文は全体が一字下げである。

   *

八房(やつふさ)の梅 同郡白川の庄(しやう)小島村に在り。

親鸞聖人鳥屋野(とやの)に止住(しぢゆう)ある時、民家に入り、亭主、饗應し、且つ、鹽漬梅を獻(けん)ずる。師、之れを吃(きつ)して、核(たね)を採りて、庭園に投じて曰く、「敎ふる所の法(ほふ)、如(も)し、宜しく繁昌すべくば、乃(すなは)ち、此の核、當(まさ)に活生すべし。」と。果たして、言ふごとくに生へて、而も、其の梅、千葉(せんえふ)の紅花、一朶(ひとえだ)に八顆(やつふさ)有りて、味、稍(やや)、鹹(しはゝゆ)く、人、以つて、奇と爲す。俗、之れを「八房の梅」と稱す。其の末孫(ばつそん)、「小島の佐五助」と名づく。其の家、相ひ續く。

三度栗 同郡上野(うはの)が原に在り。

 相ひ傳ふ、親鸞聖人、分田(ぶんだ)村を過(よぎ)る時、一婦、有り、燒栗(やきぐり)を持ちて、塗(みち)に[やぶちゃん注:道中に。]饋(を[やぶちゃん注:ママ。])くる[やぶちゃん注:「貴人に食事をすすめ供する」の意。]。安田村に至り、六字の名號を書きて、之れを賜ふ【其の名號、今、安田川の孝順寺に在り。】。休息し、彼(か)の燒栗を吃し、餘る所を以つて、地に埋めて曰く、「我が法、後世(こうせい)昌(さかん)ならば、乃(すなは)ち、燒栗、再生すべし。」と。不日(ふじつ)に、芽(め)を生(しやう)じ、果して、今、栗林と成る【長さ八町[やぶちゃん注:厄八百七十三メートル。]、横十五町[やぶちゃん注:約一・六三六キロメートル、]許(ばか)り。】。而も、毎歳(まいとし)、三度、子(み)を結ぶ云云(うんぬん)。

△按ずるに、常州、西念寺の前にも亦、此のごときの栗の林、有り。恐らくは、共に、是れ、後人の附會ならん。信州・總州・紀州熊野の山中に、栗、有り、俗、之れを「芝栗」と謂ふ。其の樹(き)、甚だは喬(たか)からず、其の子(み)、薄匾(うすひらた)に、小さくして、糓[やぶちゃん注:「穀」の異体字だが、「殼(から)」の誤刻であろう。]、焦黑色(こげくろいろ)を帶ぶ。「本草」に所謂る、「栭栗(ささぐり)」【一名「茅栗(しばぐり)」。】の類、是れならん。鸞師、嘗て鎌倉の選擧(せんきよ)に因(よ)りて、「一切經」を校合(きやうがふ)し、數千卷(すせんくわん)を紬繹(ちうえき)して、悉く、大意を諳(そら)んず。其の智德、以つて知るべし。而(しか)も自(みづか)ら「愚禿(ぐとく)」と称す。豈に華言(くわげん)を喜ばんや。然(しか)と雖も、億兆の祖と爲(な)る。皆、必ず、天性の妙、有り。故に其の餘(よ)の靈異は、悉く、詰(なじ)るべからず。

   *

この後者の「三度栗」は、「譚海 卷之二 同國宿運寺古錢土中より掘出せし事幷小金原三度栗の事」、及び、「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」)}(そこでの私の注が本篇に最も合う。「八房の梅」も出てくる)、『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「六」』では紀州熊野のそれへの言及がある。

『「本草圖譜」五八に圖』江戸後期の本草家岩崎常正(天明六(一七八六)年~天保一三(一八四二)年:号は灌園(かんえん)。幕府の徒士(かち)の子で江戸下谷三枚橋に生まれた。文化六(一八〇九)年に幕府に出仕した。本草学を、かの小野蘭山に学んだ)が文政一一(一八二八)年に完成させた一大図譜で全九十六巻九十二冊。天保元(一八三〇)年から没後の弘化(一八四四)年にかけて出版した。外国産も加えた実に約二千種もの植物を収載する江戸時代最大の彩色植物図鑑である。モノクロームであるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここが当該種。筆頭標題は「重葉梅(ちようえふばい)」とあって、以下に「ざくんばい」「やつうめ」「やつぶさ」とあって、『越後の国の名産也。花千葉淡紅色。良香あり。一蒂』(ひとへた)『に初よりは九実を結び、熟するに随て、二、三、実、残る』(句読点は私が振った)とある。

『「植物妖異考」一に說明あり』国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部を見られたい。九ページに及ぶ記載で、後半は植物学上の比定と学術的記載となっている。

「和三」「和漢三才図会」。

『天武天皇にも同樣の話あり、「宇治拾遺」に出づ』「宇治拾遺物語」の巻十五の第一話「淸見原天皇與大友皇子合戰事」(淸見原天皇、大友皇子と合戰の事)を指す。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたもので読める。

『伯耆の後醍醐帝の「齒形栗」』「米子市」公式サイト内の「安養寺の歯形栗」を見られたい。]

 ナスロルラー・セムマンドは網打ちに長じ、沙漠の砂上に網打つても必ず魚を獲《とつ》たといふ。予、曾て、ダマスクスより緣玉井(ペール・ゼムロッド)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]に到つた時、巡禮輩、沙原中より、大小の魚、夥しく集め持ち來り、煮て食ひ、昔し、囘祖が、ナスロルラー・セムマンドに、砂中に網打《うつ》て取《とら》しめた魚の殘りだと云《いつ》た、と、エヴリア・エッフェンジが言《いつ》た。或るマレー人は、ザンノイオは、囘祖が豕《ぶた》を食ふを禁ぜぬ内、食ふた豕の殘肉より生じたといふ。熊楠言く、是は、肉味が似たより言ふのだ。又、シサ・ナビ(囘祖の殘食)てふ鰈(かれ[やぶちゃん注:ママ。])は、最初、體の兩側に、等量の肉、あつた。その一側を、囘祖が食つて、殘りを海に投入《なげいれ》ると、蘇生して、今迄、繁殖したが、一側の肉、他側より多くて、扁魚と成り了《をは》つたといふ。西曆五世紀にカムボジアで活動した暹羅《シャム》[やぶちゃん注:タイ王国の旧名。]人ネアイ・ルオングが、クラン魚を食ふて殘した頭と背骨斗り、それが、復活して、今に生きおる[やぶちゃん注:ママ](一八七六年、ワーター編纂、サウゼイ『隨得手錄』二輯五二一頁。一九〇〇年板、スキート「巫來《マレー》方術」三〇六頁以下。一八八三年、パリ板、ムラ「柬埔塞《カンボジア》王國誌」二卷一三頁)。支那では、吳王、江を渡る船中で、鱠《なます》を食ふた殘りを、中流に棄てたのが、鱠片《なますへん》のやうな魚に化《くわ》し、今にあり、「吳王鱠餘《ごわうくわいよ》」とも「鱠殘魚」とも「王餘魚」とも名《なづ》く。和漢とも、「王餘魚」を「鰈(かれ)」と心得た學者、あり。予は、その何書によつて立說したかを知《しら》ねど、支那の一部、亦、巫來《マレー》人のシサ・ナビ同樣、鰈を某王の殘食と云傳へる所があるのだ(「和漢三才圖會」五一。「閩書南產志」二)。「筠庭雜錄《いんていざつろく》」上に、陸次雲の「纖志志餘」に、半面魚、相傳、越王食ㇾ魚未盡、半棄海中、故其種止具半面。〔半面魚。相傳ふ、「越王、魚を食(くら)ひて、未だ盡さざるに、半ばを海中に棄つ。故に、其の種は、止(た)だ、半面を具(そな)ふるのみ。」と。〕但し、吳王、越王、又、寶誌和尙がことなり、とも、さまざまに言《いへ》り、と。寧國府、琴溪に、一種の小魚あり。仙人琴高、藥滓《やくし》を投じて化した、とて、「琴高魚」といふ。每年、三月に、數十萬、一日に來り、集まるを、網で取《とり》て、鹽漬にし、乾し、土冝《みやげ》[やぶちゃん注:「冝」は「宜」の異体字。]となす、と(「琅邪代醉編」八)。

[やぶちゃん注:「ザンノイオ」話の流れから、食べた魚の一部を「残」して水中に投げ入れて生じたたところ「の魚」などととっては誤りなので、注意が必要である。これは本邦での「人魚」の正体の第一番にモデル候補とされる、インド洋・西太平洋・紅海に棲息する哺乳綱海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon の本邦の生息域である奄美群島から琉球諸島にかけての方言。ウィキの「ジュゴン」によれば、『英名』Dugong『はマレー語 の『duyung が』、『フィリピンで使われているタガログ語経由で入ったもので、「海の貴婦人」(lady of the sea)の意味だという』。なお、漢名「儒艮」はその音の当て字である。本邦の同地域で、『「ザン」、「ザンヌイユー」・「ザンノイヨ」・「ザンノイユ」(ザンの魚)、「アカンガイ」・「アカングヮーイュー」(アカングヮーは赤ちゃんで、イューは魚という意味)』『などと呼ばれる』。『なお、「ザンヌイユー」を大和言葉化した「ざんのいを」の語形もあって、「犀魚」の字をあてることもあるとされる』。『また、宮古列島には「ヨナタマ」・「ヨナイタマ」、八重山列島の新城島』(あらぐすくじま)『には「ザヌ」、西表島には「ザノ」の方言名があり』、『琉球王府公用語では「ケーバ」と呼ばれた』とある。辞書によっては、南西諸島方言に「ザン」は動物の「サイ」(奇蹄目有角亜目Rhinocerotoidea上科サイ科 Rhinocerotidaeのサイ類。現生種は五種)の意と断定しているものが殆んどであるが、いかがなものか? この場合の「犀」とは、中国から琉球王朝に入った書籍や談話から想像された実際には見たことがない「サイ」から転じた、自由な仮想獣「犀」の比喩モデルとすべきであるように私には思われる。無論、当時の日本本土の本草学者らは、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」を見るまでもなく、実際の「サイ」を情報としては知っていた。しかし、それを無批判に南西諸島のジュゴンを指す「ザン」と同じだというのは、寧ろ、安易で、非科学的であるように思われる。母音の口蓋化が起こる南西諸島で「サイ」を「ザン」と転訛するというのも、私には頗る怪しい気がしてもいるのである。私にも「ザン」の本来の意味は分からないが、少なくとも「犀」の音変化説には全く組み出来ないのである。

「鰈」北極海・太平洋・インド洋・大西洋の沿岸の浅海(種によっては汽水域も棲息可能)から水深千メートルの深海までに棲息する魚上綱硬骨魚綱カレイ目カレイ科 Pleuronectidaeのカレイ類だが、昔の一般人が太平洋西部(千島列島、樺太、日本、朝鮮半島などの沿岸から南シナ海まで)に棲息するカレイ目カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属 Paralichthys を識別していたとは到底思われないから、それも含むとしておく。

「クラン魚」現在の当該種不詳。識者の御教授を乞う。

『「和漢三才圖會」五一』私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「しろいを 鱠殘魚」を見られたい。そこで私はこれを、キュウリウオ目シラウオ科 Salangidaeに属するシラウオ類と比定している。なお、同巻の「かれゑひ かれい 鰈」も一緒に参照されたい。そこにも「王餘魚は、乃(すなは)ち膾殘(しろうを)なり。」という一文が出るからである。

「琴高魚」現在の当該種不詳。識者の御教授を乞う。]

 日本では「筠庭雜錄」上に、吉野山藏王權現の堂より左の方、道程二十町[やぶちゃん注:約二・一八二キロメートル。]斗り行けば、谷間に亘《わた》り、十餘間[やぶちゃん注:二十メートル弱か。]の池あり。其内の鯉は、身、瘦《やせ》て扁《ひら》たし、と。土人云く、昔し、義經、片身《かたみ》食ふて、池に放ちたるとぞ、と出づ。義經の兄賴朝は、江州淺井《あざゐ》郡高山村の安明淵で、鯉をとり、片身の鱗をふき放せしに、今に草野川に存す、と。高野山蓮金院《れんこんゐん》の覺弘の兒童、前なる池の魚をとり、焙《あぶ》つて奉りしを、加持すると、傍ら、焦げ乍ら、蘇り、池に放てば、本の如く泳ぎ、子孫、みな、半身、焦《こげ》た樣《やう》だ、と。或る東土旅行家の、カウカススより、黑海に流るゝ川の記に、此所え[やぶちゃん注:ママ。]、每歲、無數の魚來《きた》るを、土民、捕へて、其片かわ[やぶちゃん注:ママ。]の肉を切り取り、食ひ、魚を放つと、明年、魚、復た、來つて、他の側の肉を捧ぐるをみるに、去年、切り取られた跡に、復た、肉を生じあり、と。行基大士、曾て、自分の生れた村にゆくと、村人、池の傍らに飮みおり[やぶちゃん注:ママ。]、鮒の鱠《なます》を、上人に奉つた。上人、齟《かん》で、池へ吐くと、夥しい小鮒と成《なつ》て、數百年、繁殖したが、眼、一つ、なかつたと云ふ。其譯を知らぬ。播磨の腹辟沼(はらさき《ぬま》)は、上古、花浪神《はななみのかみ》の妻淡海神《あふみのかみ》が、夫を追つて、爰迄、來ても、埒《らち》明《あか》ず、怨み怒つて、自ら屠腹して、此沼に沒した。其から、沼中《ぬまうち》の鮒に、五臟、なし、と傳へた。熊楠、謹んで案ずるに、近松門左、元祿十三年[やぶちゃん注:一七〇〇年。]作の「長町女腹切《ながまちをんなのはらきり》」は、其頃、大阪長町の伽羅《きやら》細工師甚五郞の妻、其甥柄卷屋《つかまきや》半七がお花てふメテレツ[やぶちゃん注:「女天烈」か。「女の奇天烈なる者」の謂いか。]に打込《うちこん》で起こつた椿事を苦にし、み事《ごと》、男のする切腹を、女の身でした始末を演《やつ》た。それより二百八十三年前、應永二十四年[やぶちゃん注:一四一七年。]正月、上杉禪秀、敗軍して、鎌倉雪下で自殺の後、其妻、之を聞《きい》て、住國(甲斐か)藤渡の河邊で、守り刀で、腹、十文字に切つて、水中に沈む。女、腹切る事、古今不思議に聞えし。辭世の歌に「さなきだに五つの障りありときく 親さへ報ふ罪いかにせん コラサイ」と。熊楠、又、案ずるに、此夫人の父武田信滿は婿禪秀に加勢し、敗軍して、甲斐に歸り、上杉憲宗に伐たれ、衆寡、敵せず、同年二月、自殺したから、娘が親さへむくふ、と詠んだのだ。然し、此上杉夫人より、ズットむかし、神代、既に、淡海神が切腹した上、五臟を摑み出したればこそ、此女神が、沈んだ沼の鮒は、後世まで、五臟なし、と云ひ傳えた[やぶちゃん注:ママ。]ので、逈《はる》か下つて、九郞判官や、佐々成政が、割腹して、腸《はらわた》を繰出《くりだ》し、三好海雲が顯本寺の天井に、腸を投げつけて死んだ等より、大分、ツリを取らねば成《なら》ぬ。だから、世に多い自殺ずきの男や、りんきで「死ぬ死ぬ」言通《いひとほ》す女共は、專ら、此女神を開祖と仰ぐべしだ。扨、越中礪波郡やち川のざこに、腸、なし。親鸞、京都で寂した後ち、此邊に在《あつ》た俗弟が、偶《たまた》ま、ざこの腸を拔居《ぬきを》つたが、此報に愕《おどろ》き、ざこを、此川へ捨てたから、今に腸なし、といふ(「近江輿地誌略」八六。「高野山通念集」六。一八九一年板、コプレイ「奇異な迷信」一七頁。「行基年譜」。「元亨釋書」一四。「播磨風土記」。「兩武田系圖」。「野史」一一一、一一五、一五二。「義經記」八。「川角太閤記」三。「越中舊事記」下)。

[やぶちゃん注:「吉野山藏王權現」吉野山金峯山寺の秘仏金剛蔵王大権現を祀る蔵王堂(グーグル・マップ・データ)。

「十餘間の池」方向と堂からの距離からすると、この「菅原池」か(グーグル・マップ・データ航空写真)。但し、今はずっと大きい。

「江州淺井郡高山村の安明淵」「草野川」現在の滋賀県長浜市高山町(グーグル・マップ・データ)。同町内北部に、東㑨谷川(ひがしまたたにがわ)と西㑨谷川が流れ、それが南部で合流して草野川となる(同拡大図)。「安明淵」は不明だが、「草野川」に現存すると言っており、通常、淵が出来そうなのは、まず、上流二川の合流点、及び、そこを下る直下部分であろう。そのすぐ下流には、堂來清水(白龍神社)と白竜神社があり(グーグル・マップ・データ航空写真)、何となく、それっぽい雰囲気はある。

「高野山蓮金院」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兒童」僧附きの稚児。

「カウカスス」コーカサス。コーカサス山脈の中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「行基大士」別な場所での行基の逸話に、「諸國里人談卷之五 片目魚」(私のブログ電子化注)がある。なお、余りに多過ぎるので、逆に示し難いのだが、既に分割で電子化注を終えている柳田國男(リンク先は私の彼のブログ・カテゴリ)の「一目小僧その他」の「一つ目小僧」の中には、夥しい片目の魚の話が語られてある。例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十一)』の後半を参照されたい。

「自分の生れた村」行基の生地は河内国大鳥郡で、現在の大阪府堺市西区家原寺町(いえばらじちょう:グーグル・マップ・データ)である。

「播磨の腹辟(はらさき)沼」信頼出来る資料によれば、兵庫県小野市三和町に嘗てあった沼らしい。

「花浪神」「妻淡海神」サイト「神魔精妖名辞典」のこちらによれば、『「播磨国風土記」に見える神。同訓で「花波之神」とも記す。近江の国の神とされ、花波山はこの神が鎮座するが故にそう称するという。妻は淡海神で、淡海神は花浪神を追って来たが』、『遂に』『会えず、自分の腹を割き』、『沼に身を投げて死んだと伝わる。兵庫県多可郡多可町』(たかちょう)『にある「貴船神社(きぶねじんじゃ)」』(グーグル・マップ・データを見ると同町内には分祀されて四ヶ所ある)『は現在』、『高龗』神(たかおかみのかみ:「日本書紀」にのみ出る水神で、伊邪那岐命が妻の死の原因となった火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を怒って斬った際、その飛び散った血から生まれた神の一柱とされる)『を祭神とするが、古来は「花の宮」と称し』、『花浪神を祀っていたとされる』とあった。

「三好海雲」)戦国武将三好元長(文亀元(一五〇一)年~享禄(きょうろく)五(一五三二)年)の法名。三好之長の孫。阿波の国人。大永(たいえい)六(一五二六)年、細川晴元を補佐して挙兵、翌年、管領細川高国を京都から追い出し、足利義維(よしつな)を立てて、和泉国堺に公方府を開いた。享禄四年、再起を謀った高国を滅ぼしたが、忠誠心を疑った晴元の策謀により、本願寺の一揆軍に包囲され、堺で自害した。

「顯本寺」大阪府堺市堺区宿院町(しゅくいんちょう)に現存する法華宗本門流の常住山(じょうじゅうざん)顕本寺(けんぽんじ:グーグル・マップ・データ)。

「越中礪波郡やち川」富山県砺波市寺尾谷内(やち)の直近を流れる谷内川。「ひなたGIS」の戦前の地図の方で「谷内」の読み「ヤチ」が、国土地理院図で川名が確認出来る。]

 高野山御廟橋は、有罪者、渡り得ずとか。處が、大正十年十一月、予、爰で見居ると、殺生、犬をつれ、鐵砲を肩にし、橋の上で、屁《へ》を、三つ、放つて、行く者を見、其體《てい》を畫いて、座主に覽《み》せた。此橋の下に住むハエは、みな、背に孔ある、といふ。昔し、此魚を捉え[やぶちゃん注:ママ。]、燒きおる[やぶちゃん注:ママ。]處え[やぶちゃん注:ママ。]、弘法大師が來て、其惡業たるを諭《さと》した故、放つたら、串の跡が殘つたとか。實はジョルダンとトムソンが、學名をレンキスクス・アトリラツスと付《つけ》た者で、此田邊附近にも、どこにも、多く、特に色付《いろづけ》られた背鰭が、孤立して、水中で孔のやうにみえるのだ。

[やぶちゃん注:「高野山御廟橋」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。サイド・パネルで橋の画像が見られる)。

「座主」熊楠とはロンドンで際会以来、親しかった土宜(どき)法龍。

「此橋の下に住むハエ」(「ハヤ」に同じ)「レンキスクス・アトリラツス」何度もいろいろな記事で述べているが、再掲しておくと、そもそも「ハヤ」という種は存在しない。「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」をを見られたいが、そこの私の注から転写すると、本邦で「ハヤ」と言った場合は、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称である。この内、熊楠の属名の音写「レンキスクス」はアブラハヤ属Rhynchocypris の綴りに似ているように見える。しかし、学名の命名者の中にしばしば見られる連名の“Jordan & Thompson”と“synonym”、及び、それに“Rhynchocypris”を加えたフレーズ検索を何度もかけて、海外サイトの学名のシノニムの記載一覧を見たものの、「レンキスクス・アトリラツス」に相当する種自体が見当たらなかった。私は淡水魚は、守備範囲でないため、熊楠の言っているこれ以上は何とも言えない。識者の御教授を乞うものである。二種の幾つかの画像を見ると、熊楠の言う色づいた背鰭で孤立しているというのは、印象的には、アブラハヤっぽい感じはした。]

 「本草」に所謂、「卵石黃」は、卵に黃みあるに似たよりの名で、前篇に述《のべ》た田邊近所、岩屋山の「饅頭石」は、之に屬す。甲州の團子山邊を、昔し、弘法大師が通ると、婆が團子を作り居《をつ》た。一つくれ、といふを、斷《ことわ》つたので、大師、大《おほい》に立腹し、呪して、悉く、石にしたから、婆は、之を、宅後の山に捨てた。石は鷄卵の大《おほき》さで、人工が及ばぬ程、よくできおり[やぶちゃん注:ママ。]、雪程、白く、すこぶる滑《なめら》かで、破つて見れば、赤い米粒樣の物、滿つ。外用すれば、疱瘡を治すといふ。柳里恭《りうりきよう》[やぶちゃん注:柳沢淇園の唐風名。]、其粉を水飛《すいひ》して、畫料とし、よい色がでたが、膠水《にかはすい》に和し惡《にく》かつた由。常陸の足高《あだか》で、坂の兩側の崖の砂中から、石饅頭を出す。眞圓《まんまる》くて、中空、普通のモナカの大《おほき》さで、表の眞中に、小孔、あり。その周りに六角の花形、現はる。掘出《ほりだし》た時は、至つて脆いが、空氣に觸れると、瀨戶燒の如く、固まる。昔し、此邊、泥海だつた時、足高觀音堂の門前の小屋で、饅頭を賣る翁あり。或暮方、乞食、來つて、「一つ施こせ。」といふと、「石饅頭だ。食《くは》れない。」と云た。「然らば、眞實《まこと》の石に、してやらう。」と言《いつ》て、乞食が去《さつ》た跡で、饅頭、皆な、石となり、幾ら造つても、亦、石となる。據ろなく、之を棄てて、店を止めた。其時の饅頭が、今、砂から出るのだ、と。そして件《くだん》の乞食は、弘法大師だつた相《さう》な(柳里恭「獨寢」。高木氏「日本傳說集」二一三頁)。こは「劍橋《ケンブリツジ》動物學」一卷二四一圖にみえる北米產サンド・ダラー如き蝟狀動物(本邦でタコノマクラ、サルノマクラ抔いふ類《るゐ》)の化石だらう。

[やぶちゃん注:「甲州の團子山」サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の「団子石」のページに、この弘法大師のエピソードが載るが、そこでは『茅ケ岳の麓』をロケーションとしている。茅ケ岳(かやがたけ)は国土地理院図で示すと、ここである。記載された当該場所はズバリ、甲斐市団子新居(だんごあらい)字団子石(だんごいし:グーグル・マップ・データ)である。

「水飛」「水簸」とも書き、水中での固体粒子の沈降速度が、粒子の大きさによって異なることを利用し、粒の直径を二種以上に分離する操作を言う。陶土を調整したり、砂金から金を採取したりする際に行なう(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「常陸の足高」現在の茨城県つくばみらい市足高(グーグル・マップ・データ)であるが、「觀音堂」はそこから八キロ西北西の、つくばみらい市鬼長(おにおさ)にある「観音堂」のことか(同前)。

「蝟狀」(いじやう/はりねずみじやう)「動物」「タコノマクラ、サルノマクラ」後の「タコノマクラ」「サルノマクラ」は棘皮動物門海胆(ウニ)綱タコノマクラ目タコノマクラ科タコノマクラ属タコノマクラ Clypeaster japonicus を指す。英語の“Sand dollar”も同種の英名である。熊楠の言っているのは、本種を指していると考えてよいが、江戸時代以前の「タコノマクラ」は実は、タコノマクラ目ヨウミャクカシパン科ハスノハカシパン属ハスノハカシパン Scaphechinus mirabilis 等の仲間を指して言っているケースが多く、逆に現在のタコノマクラをそう呼称しているケースは殆んどないので、本草書に出る場合は注意が必要である。例えば、私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車・盲亀ノ浮木・桔梗貝・ヱンザヒトテ・タコノマクラ・海燕骨(キキヤウカイ)・総角貝 / ハスノハカシパン』を見られたい。

 或る食物、又、其持主や作り手を惡《にく》んで詛《のろ》ふてより、其食物が廢物となつて今にありてふ信念も、大《おほい》に弘《ひろ》まりおる[やぶちゃん注:ママ。]。例せば、弘法大師が、食ひ能はず、海の方へ投げた蕨《わらび》が、石と成《なつ》て、夥しく、阿波の或《ある》海岸に群がりあるといふ。之と反對な話は、羽州黑崎附近に、「黑崎の白蕨」てふ特異の物、生ず。昔し、法師に宿かした女が、海、荒《あれ》て、和布《わかめ》を取り得ず、何を汁種《しるだね》にして旅僧をもてなすべきと思ひ煩ふをみて、僧云く、「爰へ來る路に、蕨、多かつた。あれで十分だ。」と。女、笑ふて、「蕨は、灰汁《あく》で、先づ、煮て、ぬめりを去《さら》ずば、食へず。中々、手のかかる物。」といふと、坊主、「そんな事は、ない。」と云て、山へ行《ゆき》て、一握《ひとにぎり》、採り來たり、「灰を入れずに、すぐ、煮よ。」といふから、不審乍ら、煮ると、甚だ旨《うま》かつた。「斯《かか》る珍品を敎示し玉ふは、弘法大師に相違なし。」と、人、專ら云た。それから今に、所の者が汁菜とする程の、灰汁入らずの蕨が生えるとの事。藝州新庄村と佐東村の界《さかひ》に、大木の桃一樹あり。南は新庄、北は佐東なり。この桃の南枝の果は、苦く、北枝のは、甘し。昔し、弘法大師、佐東で桃を乞ふに、「苦くて食へない。」と欺むいた。新庄の人は「甘い。」と言つて進呈した。故に一木乍ら、甘苦の果を分ち生ず、と。この田邊町より遠からぬ富田《とんだ》地方は、土地、豐饒だが、豌豆《えんどう》を栽《うゑ》ず。栽ると莢の中に、蟲、自づと、生じ、食盡《くひつく》すから、物に成ぬ。大師、豌豆を乞ひしに與え[やぶちゃん注:ママ。]なんだ罰といふ。又此邊で、「ズバイ桃は、毛桃より變成した。」といひ傳ふるは、今日、科學者の意見によく合ふ。だが、變成の道筋が甚だ非科學的に說かれおり[やぶちゃん注:ママ。]、弘法が來て、少しの毛桃を乞ふと、「あれはツバキの實だ。桃なものか。」と嘲り拒んだので、大師、「しからば、眞《まこと》のツバキの實にしてやらう。」と言つて、去ると同時に、桃の毛、盡《ことごと》く落ちて、ツバキの實の樣に成つたと云ふ。桃に取《とつ》ては、毛を亡《うし》なふて、大損だが、毛桃が、ズバイ桃に成《なつ》たつて、作り主に、何程の損になるか。其頃のズバイ桃は、全く食へぬ物で有《あつ》たのか。一寸、分らぬ。何にしろ、無毛の桃は、ツバキの實の樣だから、ツバキ桃、それから、ズバイ桃、扨は、ズンバイ抔いふに至つたは爭はれぬから、此村民の傳說は、道理に外《はづ》れ盡しおらぬ[やぶちゃん注:ママ。](藤澤氏「日本傳說叢書」阿波の卷、三八三頁。「眞澄遊覽記」「小鹿の鈴風」の卷。「諸國里人談」四。ド・カンドル「栽培植物起原」一八九〇年紐育《ニューヨーク》板、二二七頁。「塵添壒囊抄」五の二三。「箋注倭名類聚抄」九)。

[やぶちゃん注:「弘法大師が、食ひ能はず、海の方へ投げた蕨が、石と成て、夥しく、阿波の或海岸に群がりある」最後の参考文献に挙げてある『日本伝説叢書』の「阿波の巻」(藤沢衛彦編・大正六(一九一七)年)の国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここの「蕨石(わらびいし) (郡賀郡見能林村大字中林)」で視認出来る。そこに、このロケーションを、『中林村(なかばやしむら)』とし、割注で『今の見能林〔ミノバヤシ〕村大字中林の地』とあり、続けて、その村『の内、南林の高岳(たかをか)の東北の海岸に』その「蕨石」と呼ばれる『蕨の並び生へたやうになつてゐるもの』がある、とある。ここは、現在は徳島県阿南市中林町(なかばやしちょう)で、ここである(グーグル・マップ・データ)。

『羽州黑崎附近に、「黑崎の白蕨」てふ特異の物、生ず』これは、同前の菅江真澄五十七歳の折りの男鹿半島に逗留した際の紀行文「小鹿の鈴風」文化七(一八一〇)年刊)が直接の出所である。国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田叢書 別集』第一の「菅江真澄集 第一」(昭和五(一九三〇)年)のここで当該部が視認出来る。なお、ネットの複数の記事を見るに、旧「黒崎の大明神崎(おおもつざき)」、現在の秋田県男鹿市北浦西黒沢地区にある岬が、このロケーションに比定されているようである。「ひなたGPS」のここ

「藝州新庄村と佐東村の界」広島県広島市西区新庄町と広島市安佐南区の間と思われる。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。この話は既に電子化注してある私の「諸國里人談卷之四 枝分桃」を参照されたい。

「富田地方」現在の和歌山県西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)及びその南・東・西部分。「ひなたGPS」のこちらを参照されたい。東西南北を頭に附した広域の旧富田村域が確認出来る。

「ズバイ桃」双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina 。ネクタリンの標準和名。原産地は中国南部のトルキスタン附近で、 桃の表面のうぶ毛が退化した変種で「油桃(ゆとう)」とも呼ばれ、本邦では、山梨県・長野県を中心に生産されている。桃よりもしっかりとした果肉で、酸味があるのを特徴とする。

「毛桃」モモの在来品種であるバラ科モモ亜科スモモ属モモ Prunus persica の異名。]

 僧に物を乞《こは》れて與へなんだ話は、古くより有り。西行「撰集抄」に、延喜帝の末年、仲算大德《ちゆうざんだいとく》、旱天に、近江の山中で、女が淸水を汲んで、頭に戴き行くを見て、少しを乞しに、「聖僧、自《みづか》ら、水を湧出せしめて、飮め。遠路を汲み來た者を、煩はし玉ふな。」と云《いつ》た。仲算、「誠に。さうだ。」と云て、劍で、山の鼻をきると、醒井《さめがゐ》の淸水が湧出《わきいで》た、と載す。この仲算の仕方は、弘法より、遙かに殊勝で、怨みに報ゆるに、直《なほ》きを以てした者だ。

[やぶちゃん注:以上は、「撰集抄」の巻七の「第五 仲算佐目賀江水掘出事」である。所持する岩波文庫版(西尾光一校注一九七〇年刊)を参考に電子化する。

   *

   第五 仲算佐目賀江水掘出

 延喜[やぶちゃん注:九〇一年から九二三年まで。]の御代の末つかたの比(ころ)、此仲算大德、同朋、あまたいざなひて、あづまのかたへ、修行したまひけるに、天(あめ)が下、日照りて、すべて、絕えせぬ淸水(しみづ)なども、皆、干(ひ)かわきて、飢ゑつかるゝ物、おほく侍り。

 しかあれど、佛・菩薩のおたすけにや侍りけん、近江の國、ある山中に、淸水のありけるを、はるかの遠(とを)き所よりも、あつまり、汲みける也。

 ある女の、水をいたゞきて行(ゆき)けるを、仲算大德、

「つかれ侍り。ちと、喉(のど)、うるゑん。」

と、あるに、此女、云(いふ)やう、

「貴(たうと)げなる聖(ひじり)の、水をも、わかして、飮み給へかし。われわれが、はるばるの所より、からくして、汲たる物を、乞ひ給ふべき理(ことわり)、なし。」

と、こたへければ、此大德、

「さらなり。さらば、水をわかして、飮みなん。」

とて、山の岸(きし)[やぶちゃん注:崖。]にはしりよりて、劍(けん)をぬいて、山のはなを切り給ひたりければ、まことにつめたく、淸き水の、瀧のごとくにて、ながれ出(いで)侍りけり。「さめがへの淸水」といふは、是なり。

 さて、その里の物ども、目も、めづらかに覺えて、あさみ、のゝしるわざ、事も、なゝめならず。

 そののち後は、いかなる日照りにも、絕えずぞ侍りける。

 さて、その、四、五日へて、淨藏貴所の過ぎられけるが、此淸水の事をきゝ給ひて、

「われも、さらば、結緣(けちえん)せん。」

とて、又、そば[やぶちゃん注:「岨」。崖。]をきられたりければ、さきのよりは、すくなけれども、淸水、わき、ながれけり。「小さめがへ」と云(いふ)は、是にぞ侍る。

 あはれ、目出いまそかりける人々かな。たゞし、此仲算大德は、箕尾(みのを)にて、千手觀音とあらはれて、瀧に、つたひて、登り給ひし後は、又も、見え給はずと、傳には、しるせり。されば、久遠正覺の如來にていまそかりければ、かやうの不思議も現(げん)じ給ふわざならずしも、驚き騷ぐべきふしも侍らず。淨藏、善宰相のまさしき八男ぞかし。それに八坂(やさか)の塔のゆがめを、なほし、父の宰相の此世の緣、つきて、さり給ひしに、一條の橋のもとに行きあひて、しばらく、觀法して、蘇生し奉られけるこそ、つたへ聞くもありがたく侍れ。さて、その一條の橋をば、「戾り橋」といへる、宰相のよみがへる故に、名づけて侍り。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 「源氏」の「宇治」の卷に、『行くは歸るの橋なり』と申たるは、是なりとぞ、行信は申されしか。「宇治の橋」と云(いふ)は、あやまれる事にや侍らむ。

   *

この仲算(生没年不詳)は、当該ウィキによれば、平安中期の法相宗の僧。奈良興福寺の空晴に師事。応和三(九六三)年の法華経講論では、南都仏教側の代表として、北嶺天台宗の代表良源を屈服させた。安和二(九六九)年、熊野の那智に赴き、その年に没したとも、貞元元(九七六)年に没したとも伝えられている、とあった。]

 弘法大師は、又、食用の芋を全く食へないクハズ芋に變じ、又、屋島の、或る梨の實を食へなくした(「葛飾記」下。「日本傳說集」二一二頁。「日本風俗志」三卷三五〇頁。『日本傳說叢書』「信濃之卷」、三二七頁。「本草圖譜」四七卷一六-一七葉。『日本傳說叢書』「讃岐之卷」、二八四頁。寺石正路氏「南國遺事」一四二頁)。較《や》や是等に近きは、鷄頭豆の話だ。其圖は「本草圖譜」四〇卷八―九葉にあり。その傳說は山中笑《ゑむ》氏が『鄕土硏究』第一卷第五號に出された。大要は、往時、駿州吉原町附近石坂てふ小村に、老夫婦あり。夫は、鷄冠花(けいとう)と豆を、年々、畑に蒔《まい》て樂《たのし》み、妻は、「鷄冠花抔、何の用に立つ。」と、每々、罵る。或年、夫、豆をまくを忘れ、ケイトウ斗り、まいた。秋に及び、畑一面に、ケイトウが眞赤に咲いた。老婆、之を見て、火の如く怒り、「鷄頭が、味噌になるか。」と罵る。其時、戶に佇《たた》ずんだ老僧、「そんなに怒るな。鷄頭が豆を生ずることも、ある。」と云ひ、老婆は、「役に立《たた》ぬ草から、豆が取れるか。」と罵る。法師、「いや。畑へ往《いつ》て見られよ。」と言たきり、行方しれず。婆、夫を罵り、熱く成り、風に當りに、畑へ行けば、鷄頭畑は、花をおさめて[やぶちゃん注:ママ。]一面の豆となり居り、夫は、例年の通り、入用だけを自家え[やぶちゃん注:ママ。]取て、餘分を上納し、官より、褒美さる。件の法師は弘法で、老夫の正直を賞し、老妻の邪見を誡めんと、此奇特を見せた、と。

 一八二一年パリ板、コラン・ド・プランシーの「遺寶靈像評彙」一卷二七〇頁に云く、聖地のカールメル山に深穴あり、「エリア窟」と稱《とな》ふ。エサペルの追究を避《さけ》て、この豫言者が隱れた處といふ。そこから二里に、エリア園てふ所あり。エリア、爰を過《よぎ》るに、疲れ、又、渴した。そこに、園人、有て、甜瓜《まくはうり》、多くある畑に息《いこ》ふをみて、「一つ、くれ。」と望むと、「お氣の毒だが、是は、石だと知らないか。」と云たので、エリア、「石なら、石にしておかう。」と云た。それと同時に、甜瓜が、少しも形をかえず[やぶちゃん注:ママ。]、皆、石に成て了つた。爾來、今日迄も、甜瓜と間違ふ程、似た石を、爰で見出す、と。伊人ピエロッチの「パレスチナ風俗口碑記」(一八六四年劍橋《ケンブリッジ》板)七九頁に、この甜瓜形の石は、石灰質で、中、空しく、殼の裏が、多くの(石灰)結晶で被はれた地形石(ジオード)、英國でポテートー・ストーン(ジャガイモ石)てふ物だ、と云た。

[やぶちゃん注:「カールメル山」イスラエル北部のハイファ地区ハイファにある山。南北三十九キロメートルに亙って広がる丘陵地。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「エリア」「旧約聖書」に登場する預言者。ユダヤ教では、モーセ以後、最大の預言者と見做された。

「エサペル」「旧約聖書」の「列王記」に登場する古代イスラエルの王妃。フェニキア人で、イスラエル(ユダヤ)人にとって異教であるバアル信仰を、イスラエルの宮廷に導入し、ユダヤ教の預言者たちを迫害したことで知られる。

「石灰質で、中、空しく、殼の裏が、多くの(石灰)結晶で被はれた地形石(ジオード)、英國でポテートー・ストーン」(potato stones)「(ジャガイモ石)とてふ物」晶洞(しょうどう)。当該ウィキによれば、『堆積岩や、火成岩玄武岩内部に形成された空洞の事で、鉱山などでは俗称で〈がま〉ともいわれる』。『ギリシア語で「大地に似た」を意味する語』『に由来する「ジオード(英:Geode)」との呼称が』、『国内外で一般的である』。『内部には熱水や地下水のミネラル分によって、自形結晶が形成される』とある。]

 豫言者エリアは、神力、殆んど、弘法大師に匹敵したとみえ、囘敎所傳に、次の話がある。云く、イスラエルの諸子の時、上帝に好愛された善信の囘敎徒エリツス、一名エリアスなる人あり。上帝、正道を踏違《ふみたが》へた輩を本復せしむる爲、此人を予言者たらしめんとて、彼に告《つげ》たは、「起《た》つて、眞道を說敎せよ。而して、此等の頑冥な罪人共が、汝の言を信受し得る様に、汝が足で踏む所は、どこでも、綠草と、美花、生じ、決して乾き荒(すさ)まざらしむべく、汝が、枯木の下に坐らば、其が、葉を生じて、再び、緣(ケデール)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]なるべし。」と。それより、エリアスが諸國を巡つて上帝の語《ことば》を宣《のぶ》る内、ケデール村に、强勢の村老、あつて、猛威、四隣を壓した。此人、「エリアスの說敎に、少しも隨喜する望みなし。だが、エリアスの働きを用ひて、己れを、利せん。」と欲し、エリアスがソロモンの開いた池に近づく處を、捕え、自宅へつれ來らしめた。「汝の足は、神力を、もつと、聞く。予の領地を步いてくれ。明日、予が案内せう。一旦、予につかまつた者は、上帝でも、取り離すことはできぬ筈。」と惡《にく》さげに言放つて、其夜を、狹い土牢中に過《すご》さしめ、明旦、エリアスを、重い鐵鏁(てつくさり)で括《くく》つて引出し、鏁の一端を自分が執《とつ》て、件の池の方へ步かせた。扨、エリアスがあるき出す。一步每に、草も、木も、穀類も、萎《しぼ》み枯れた。爾來、此地、永く荒廢し、草木、生ぜず。村老、かくと見て、大に怒り、エリアスを、池に沈めうと惟《おも》ふ内、エリアス、喉、乾いて、「池に入つて、水、飮まん。」と乞《こふ》た。村民、之を許し、逃がさぬように鏁を離さず[やぶちゃん注:主語は「村老」。]。所が、エリアス、池の底に到ると、狹い水道、忽然、開いて、よき通路となり、鐵鏁は、果てしなく伸び行くから、エリアス、思ひの儘に、進み步く。數步の後ち、水をのむと、鏁附きの足械《あしかせ》が外れ、岩、忽ち、彼の後ろを塞いで、村老と、係累を絕つた。それより、エリアスの形ち、人の眼に見えずに、世界中を步き𢌞り、到る處、草木、綠に茂らせ續ける内にも、年に一度は、ミノよりメッカへの巡禮を缺《かか》さない。惡性の村老は、エリアスが雲隱れとなるをみて、發狂し、まもなく死んだそうな[やぶちゃん注:ママ。](上に引たピエロッチの書、七二―七四頁)。

 又、聖地の雛豆(チツク・ピース)畑について、イサベル・バートン著「シリア内部生活」二卷一七八頁に云く、基督、爰で、雛豆をまく男に、「何を、まくか。」と尋ねると、「石を、まく。」と答へた。基督、「汝は、石を收穫すべし。」と云た。扨、此人の收穫となつた時、雛豆は、ならず、其形した石ばかり有た、と。ピエロッチ說に、之を、聖母の所爲《しわざ》とし、此所の石灰石が雛豆塊の如くみえるから、此話を生じた、と解《とい》た。ピエロッチ、又、死海に近いビルケット・エル・カーリル(アブラハム池)の緣起を記す。云く、アブラハムは、アラビア語でエル・カーリル(上帝の友)と云《いは》れ、ヘブロンに住《すん》だ。此池は、其東にあり、住民、そこで鹽を集め賣《うつ》た。アブラハム、一日、騾《らば》を牽《ひい》て、鹽を求めに來ると、製鹽工夫が、多量の鹽を擴げおき乍ら、「賣るほど、鹽がない。」と言た。すると、アが、詛《のろ》ふて、「今後、爰に、鹽も、出でず、爰から、ヘブロンへゆく道も、絕《たえ》よ。」と云た。其れと同時に、鹽、殘らず、石に化し、姿のみは、鹽、其まゝ、又、ヘブロンへの道も、丸で步かれなく、嶮岨に成た、と。

 弘法大師や基督が、氣に食《くは》ぬやつの、芋や豆を石にしたは、大分、茶目氣がある。アブラハムが鹽を賣て吳《くれ》ぬを憤つて、之を化石せしめた上に、萬人の通路を廢絕せしめたに至つては、過酷も、甚だし。但し、アフリカにも同樣の話あり。デンネットの「黑人の心裏」、一九〇六年板、一五二頁に、カコンゴで、子を負《おふ》た老女が、畑を栽《うゑ》る女に、水を乞ふと、「爰は、水、遠く、自分飮むだけ有て、人にやる程、ない。」と答へた。老女、又、行つて、椰樹《やしのき》の汁をとる男子に乞ふと、快く、椰子酒を飮せた。老女は、其靑年を褒賞し、水を吝《をし》んだ女の畑を、湖に化した、と載す。

 「酉陽雜俎」二に、衞國縣の西南に瓜穴《くわけつ》あり、冬・夏、常に水を出《いだ》し、之を望めば、練(ねりぎぬ)の如し。時に、瓜葉《うりのは》、あつて出《いづ》る。相傳ふ、苻秦《ふしん》の時、李班なる者あり、頗る、道術を好む。其穴に入《はいつ》て、三百步程、行くと、宮殿あり、牀榻《しやうたふ》[やぶちゃん注:現代仮名遣「しょうとう」。寝台。]上に、經書あり、二人、對坐して、鬚髮《しゆはつ》白きを見た。班、進んで、牀下に拜すると、其一人が、「早く還れ。」と、いふ。穴口迄出ると、瓜、數個あり。取《とら》んと欲すれば、乃《すなは》ち、石と成《なつ》た。家へ還ると、四十年立《たつ》て居たといふ、とあり。「大慈恩寺三藏法師傳」四には、贍波《せんば》國の南の大山林中に、牛を放ち飼《かつ》た男が、牛の往き處を尋ねて、岩穴に入り、金色の香果を取り還るを、鬼に取戾《とりもど》され、再び、往つて、口に入《いれ》て出る處を、鬼に、喉をつまゝれ、呑んでしまふと、其人の身が、大きく成り、首は、穴から出たが、體は出ず、漸々、化石し終つた話を出《いだ》す。

[やぶちゃん注:「衞國縣」後漢の時に置かれた衛県。後の北魏の時、衛県に改められた。故城は山東省の旧観城県の西にあった。現在は聊城(りゅうじょう)市の一画。この附近(グーグル・マップ・データ)。所持する平凡社『東洋文庫』の今村与志雄訳注を参考にした。

「苻秦」符秦の支配した前秦王朝(三五〇年~三九四年)を指す。同前。

「贍波國」チャンパーナガラChampānagara。紀元前六〇〇年頃、北インドに栄えた十六大国の一つであるアンガ国の首都チャンパーChampāの遺址とされ、マガダ国による占領後の釈迦の時代にも、インドの六大都市の一つとして栄えた。七世紀前半に玄奘がここを訪れ,瞻波(せんば)国として「大唐西域記」に記している。現在の、この附近に当たるようである(主文は平凡社「世界大百科事典」の「バーガルプル」の記載に拠った)。]

 話がこう長くなると、讀者のみかは、熊楠自身も何だか跡先が分からなくなる。因て、再讀、校字を兼ねて、始終を見通し、結論と出かけよう。

 西洋で鷲石といふは、褐鐵鑛、又、それより成た岩石が、多少、圓くて、中空、そして空處に、土や砂や小石を藏した者で、地方により、其產地近く、鷲が住み、其の鷲の巢から、此石を見出し、氣を付て見れば、多少、母胎に子を藏するの狀あるより、鷲が同感作用を心得、自分の卵を安全に孵《かへ》す爲に、此石を、其巢に納めたと判じ、鷲が卵を孵すも、母が子を產むも、同じ事ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、鷲にきく物は、人にもきく筈と、試し見ると、三度に一度は、よい加減に、効あり。由て、之を、安產催生の靈品とした。それから敷衍《ふえん》して、種々の効驗あると見立《みたて》て信じた次第を、第一篇に專ら述た。

 鷲石は、鷲が巢内に持ち込んで、其の孵化を助くるといふ信念は、東洋に、ない。しかし、鷲石、その物は、和漢共に、有り。「太一禹餘糧」抔呼び、其形が、母胎に子を藏するに似るを見て、西洋人と齊《ひと》しく、矢張、催生安產の靈物とした。又、西洋とちがひ、此石の中にある砂土が、穀物の粉に髣髴たるより、之を、古聖賢が食ひ殘した糧食と信じ、追ひ追ひ、之を食へば、長生して、仙人になり得、と信じた。それから、其成分の鐵等が、相當に働らくより、之を藥用して、甘寒無毒、牡丹爲之使、伏五金三黃、主治欬逆寒熱煩滿、下赤白、血閉癓瘕大熱、鍊餌服之不ㇾ饑、輕ㇾ身延ㇾ年、療小腹痛結煩疼、主崩中、治邪氣及骨節疼、四肢不仁、痔瘻等疾、久服耐寒暑、催ㇾ生固大腸。〔禹餘糧は、甘、寒。無毒。牡丹、之れが使(なかだち)と爲(な)り、五金を伏し、三黃を制す。主治は欬逆(かいぎやく)・寒熱・煩滿(はんまん)なり。赤白・血閉・癥瘕(ちようか)・大熱を下(くだ)し、鍊りて、之れを餌服(じぶく)すれば、饑ゑず、身を輕くし、年を延ばす。小腹痛・結煩疼(けつはんとう)を療す。崩中(ほうちゆう)を主(つかさど)り、邪氣及び骨節疼、四肢の不仁、痔瘻等の疾(やまひ)を治(ぢ)す。久しく服すれば、寒暑に耐へ、生を催(うなが)し、大腸を固(つよ)くす。〕又、太一餘糧、甘平無毒、杜仲爲之使、畏貝母菖蒲鐵落、主治欬逆上氣癥瘕血閉漏下、除邪氣、肢節不利、久服耐寒暑、不ㇾ饑輕ㇾ身、飛行千里、神仙、治大飽絕力身重、益ㇾ脾安臟氣、定六腑五臟。〔太一餘糧は、甘、平。無毒。杜仲、之が使と爲る。貝母・菖蒲・鐵落を畏る。主治は欬逆・上氣・癥瘕・血閉・漏下なり。邪氣・肢節の不利を除く。久しく服(ぶく)すれば、寒暑に耐へ、饑へず、身を輕くし、千里を飛行(ひぎやう)して、神仙となれり。大飽・絕力・身重を治す。脾(ひ)を益(えき)し、臟氣を安んず。六腑を定め、五臟を鎭(しづ)む。〕と「本草綱目」に見ゆ。是等、半分に聞いても、多少、據《よりどこ》ろある法螺《ほら》で、諸方に出る、禹餘糧・太一餘糧を、至細に分析でもしたら、實效ある藥物學上の發見もなる事だろうが[やぶちゃん注:ママ。]、自分、其方は、あんまりときてゐるから、立ち入らぬが、無手勝流の卜傳《ぼくでん》だ。

[やぶちゃん注:「本草綱目」は「漢籍リポジトリ」の同書の「卷十」の「金石之四」の「禹餘粮」([032-10a])と、続く「太一餘粮」([032-12a])の影印本画像と校合した。熊楠は、続けてソリッドに引用しているのではなく、パッチワークであるので注意されたい。なお、「粮」は「糧」に同じで、ここでは混乱を避けるため、熊楠の表記に従った。なお、症状名は、私も熊楠同様、「其方は、あんまりときてゐるから、立ち入らぬ」こととする。悪しからず。

 扨、第二篇には、太一禹餘糧の外にも、古人の食ひ殘した物が、石に化して、今にありてふ現品と傳說は、諸邦に存し、甚しきは、飮み殘した「しろ水」[やぶちゃん注:穀類の研ぎ水。]や、酒・醤油・酢、又、よそから運んだ水迄も、その儘、其所に續出するてふのも、諸處にあり。又、古人が食ひ殘した物が、化石せず、復活して、今に相續《あひつづき》蕃殖《はんしよく》しおる[やぶちゃん注:ママ。]ちふ、現品と傳說も、多くある由を述べ、次にはたゞ食ひ飽《あき》たり、好かなかつたりで、殘した物が、石に成《なつ》た外に、或る食物や、其《その》持主《もちぬし》、又、作り手を、嫌ひ、惡《にく》んで、之を、石にしたり、廢物にしたりしたのが、今に存するてふ信念も、諸邦に少なくない次第を例示し、己れの望む物を、くれなんだ奴の生產地を、全く、不生產にする事も出來るてふ信念に說《とき》及び、終りに、自分の愛惜する物を、他人が取ると、忽ち、石となし、又、其人を石となした昔話を、引出《ひきだし》たのである。

[やぶちゃん注:恐らく、今までの南方熊楠の電子化注で、最も時間を費やさねばならなかったパートである。「読みと注にほとほと疲れた」と呟くこと頻り、である。]

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一〇番 生返つた男

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      一一〇番 生返つた男

 

 氣仙の或村の生計(クラシ)のよい家の息子が死んだが、墓場へ持つて行つて、葬禮の鉢鉦《はちがね》を鳴らした時、棺の中で蘇生(イキカヘ)り、呻《うなり》り聲を出した。それツ息子が生き歸つたと言つて、悲しみが喜びに變り、息子をばそのまま棺から引出して死裝束を着替えさせて家へ連れ歸つた。ところが不思議なことには、現在二三日前に死んだ自分の家のことを少しも知らず、此所は俺の家では無い。俺の家は氣仙の某と謂ふ村の斯《か》く斯く謂ふ家であると言つて、速く自分の家に歸りたいと言ふて仕方がなかつた。けれどもその家では現在死んだ吾子であり、吾が夫なので、これは何かの魔がさしてこんなことを口走るものだらうと思つていろいろと說き聽かせたが、一向にその利目《ききめ》がなかつた。仕方がないので、その息子の口走る某と云ふ村の某家へ問ひ合はせると、其家でも恰度《ちやうど》二三日以前に忰《せがれ》が死んだので火葬にして葬禮を濟ませたと謂ふことであつた。それでもとにかく其人を見度《みた》いと謂つて、某家の人が其所へ來て見ると、今迄全く見たことの無い知らない若者であつた。しかし息子は其人を見るといきなり、さもさも懷かしさうに聲をかけて、俺はこれこれ斯《こ》んなに蘇生(イキカヘ)つて來て居る。早くこんな人の家に置かないで家へ連れて行つて吳れと言つて、嬉し泣きに泣くのであつた。其人が驚いて何か言ふと、息子はひどくなさけなさうにしながら、何たら話だ。そんだらば俺の子供は何と云つて幾歲になつて、妻はこれこれの所から來て幾歲、家の常居《とこゐ》の佛壇の下の簞笥の中には俺の取引上の斯く斯くの書付や、これこれのものがあり、父母の名、姉妹の名は斯く々々とて、巨細一切《こさいいつさい》詳かに說き聞かすのであつた。そうして實は俺は一且死んだことは確《たしか》であるが、屍(モガラ)が火葬にされたため、蘇生(ヨミガヘ)ることになつても、自分の元の體《からだ》では來られなかつた。そこで偶々(タマタマ)此家の息子さんが死んで、幸ひ土葬にされた所であつたのでその體をかりて蘇生つて來た。それで體は如何にも此家の息子さんであるが、正心《しやうしん》はさうでないと謂ふことであつた。

 それで兩家ではいろいろ相談の上で、それでは仕方がないから眞實の家に歸した方がよいと謂ふことになつて、息子はその火葬にされた人の家に引き取られた。それから兩家は親類の間柄になつたが、其人は其後二年ばかり生きて居て再び死んでしまつた。

  (昭和四年一月二十日の夜、遠野町菊池儀三郞君と
   謂ふ友人から聽く。此人が先年氣仙で聽いた話で
   あるが、村名人名は遂《つひ》忘れてしまつたと
   言つて居た。)

[やぶちゃん注:この入れ替わって蘇生する譚、かなり有名な話で、たしかに私は酷似した話をブログで電子化しているはずなのだが、生憎、探し得なかった。発見したら、追記する。]

2023/06/06

「新說百物語」巻之二 「奈良長者屋敷怪異の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   奈良長者屋敷怪異(けい)の事

 南都に「長者屋しき」といふ、ふるき家あり。

 成ほと[やぶちゃん注:ママ。]、むかしは、よしある人の住みける所と見へて、余程の大屋しきなり。

「化物あり。」

と、いゝふらして、今は、住む人もなかりしが、近き頃より、道心者(どうしんしや)・修行者(しゆぎやうじや)やうのもの、誰にことはるといふ事もなく、住居《すみゐ》いたしける。

 夜分になれは[やぶちゃん注:ママ。]、月影にても、ともし火のかけ[やぶちゃん注:ママ。「影」。光り。]にても、幾人も踊る影法師、壁に、うつりける。

 其かたち、小坊主もあり、又、すこしおゝき成《なる》影もあり。

 そのかげばかりにて、其すかた[やぶちゃん注:ママ。]は見へず。

 あやしき事なりしか[やぶちゃん注:ママ。]、近頃の火事に、屋敷も跡かたなく、燒けうせける。

 森氏の人、

「見に行きたり。」

と、後に、みつから[やぶちゃん注:ママ。]かたられし。

[やぶちゃん注:旧都奈良の近々の都市伝説である。影法師しか見せなかったこと、焼亡してより、怪異はなくなったらしいことから、狐狸の妖異の類いではなく、古屋敷及びそこに附帯していた家具等の古物の付喪神であったと考えられよう。]

「新說百物語」巻之二 「相撲取荒碇魔に出合ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

新說百物語卷之二

   相撲取(すまうとり)荒碇(あらいかり)魔(ま)に出合ひし事

 上京(かみ《ぎやう》)に、かち荷物をして、夫婦、くらすもの、あり。

 平生(へいぜい)、相撲を好み、「荒碇」と名のりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、すこし、訳ありて、後には「楯石(たていし)」と申しける。

 常に荷物をはこふ[やぶちゃん注:ママ。]に、大津、又は、伏見・鳥羽より、馬壱駄(だ)を、かろかろと、一荷にして、持ち通ひけるにより、外《ほか》の人よりも、賃錢(ちんせん)、おゝく取りて、夫婦、らくらくと、その日を送りける。

 あるとき、又〻、常の如く、大津へ荷物を持行《もちゆき》、歸りには、石の井筒《いづつ》の四枚にしたるを、弐枚づゝ、片荷にして、凡そ、壱負《ひとおひ》のおもさ、七拾四、五貫目[やぶちゃん注:二百七十七・五~二百八十一・二五キログラム。]、これ、あるへき[やぶちゃん注:ママ。]を、持ち歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、「日の岡」を越えて、息杖(いきつえ[やぶちゃん注:ママ。])をして、おもひけるは、[やぶちゃん注:「日の岡」京都府京都市山科区日ノ岡。この附近(グーグル・マップ・データ)。拡大したグーグル・マップ・データ航空写真で「旧東海道道標 (日ノ岡の峠道)」も示しておく。「息杖」(いきつゑ)駕籠舁きや重い物を担ぐ人が、一休みする際に荷物を支えたり、体のバランスをとったりするために使う長い杖。]

『此海道を、おゝく[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]の荷物を運ぶ人、おゝけれとも、七拾貫目餘《よ》の荷物を持つ者は、我ならては[やぶちゃん注:ママ。]有るまし[やぶちゃん注:ママ。]。』

と、休み居《をり》ける處に、何國《いづこ》より來たるとも見へす[やぶちゃん注:ママ。]、四十はかり[やぶちゃん注:ママ。]の女、おなしく[やぶちゃん注:ママ。]そは[やぶちゃん注:ママ。]に休み居《ゐ》たり。

 荒碇、聲をかけて、

「いづかた[やぶちゃん注:ママ。]へ行かるゝや。たはこ[やぶちゃん注:ママ。]の火を、かし申すべし。」

と申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、彼の女、こたへていはく、

「それは。かたしけなし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、懷中より、きせる取出《とりいだ》し、荒碇も、荷をおろして、はなしをいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、女のいはく、

「其荷物は、何ほと[やぶちゃん注:ママ。]おもさのあるものにや。」

と尋ねける。

 こたへて云ふやう、

「およそ七拾貫目餘もありぬへし[やぶちゃん注:ママ。]。此道を、このおも荷を持ちて通ふ者、我ならでは、あるまし。」

と、自慢を申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、此女、少しも、おとろく[やぶちゃん注:ママ。]けしきもなく、

「さあらは[やぶちゃん注:ママ。]、此風呂敷包を、持ちて見給へ。」

とて、ちいさきふろしき包を、さし出す。

「心やすき事。」

とて、手をさしのへけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、手の上へ、のするに、其おもさ、何百貫目あるをも、知らす[やぶちゃん注:ママ。]

 こたへす[やぶちゃん注:ママ。「こらえきれないで」。]、下に、をきて[やぶちゃん注:ママ。]、大きにあきれ果たり。

 女か[やぶちゃん注:ママ。]、いはく、

「此風呂敷さへ、もたぬ身にて、力じまんこそ、おかしけれ。[やぶちゃん注:ママ。]

といふ内に、㒵(かほ)のさま、かはり、色は、靑さめ[やぶちゃん注:ママ。]、まなこ、きらめきて、口は、耳の根まて[やぶちゃん注:ママ。]、きれ、

「すつく」

と、立ちたるありさま、さしもの男も、振(ふる)ひ、わなゝくはかり[やぶちゃん注:ママ。]なりしが、俄に、雨風、はげしく、空、かきくもり、眞(しん)の闇(やみ)とそ[やぶちゃん注:ママ。]、なりにける。

 男も仕樣なければ、常に信心し奉る天滿宮の御名、となへ、目を、ふさきて[やぶちゃん注:ママ。]、打ちふし居《ゐ》たり。

 しばらくすると、雨風も、やみ、彼《かの》女も、行方《ゆくへ》なく、往還(わうかん)の人、そばを、大勢、通りて、やはり、海道の側(そば)なり。

 此者の高慢をさまたけん[やぶちゃん注:ママ。]とて、魔の、かくは、いたしけるにや。

 そのゝち、かの男も、相撲も相《あひ》やめ、ちから事も、いたさざりける。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇九番 墓娘

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      一〇九番 墓 娘

 

 或所に放蕩息子があつた。親達に勘當されて何處へ行くと云ふアテもなく旅へ出て行つた。そして或町近くへ行つた時には、持ち出した路銀も盡きてしまひ、今では食ふ事も飮む事も出來なくなつたから、あて度[やぶちゃん注:ママ。「當て所」が正しい。]もなく廣い墓場の中へ入つて、松の木に凭《もた》れてつくづく身の行末のことを考へて居た。すると目の前の新墓《しんばか》の中で何か呻《うな》る聲がするので、よくよく氣をつけて聽くと、それは土の中で人の泣く聲であつた。これは何たらことだと思つて、墓を掘つて見ると、棺の中には美しい娘が蘇生(イキガヘ)つて泣いて居たので、その娘を助け出してから墓は元の通りに土を盛つて置き、そして其娘を連れて町へ行つて匿れて居た。

 其娘の家は町一番の長者であつたが娘の死んだ後で、一番番頭と娘の繼母とが密通(クツツ)いて、身上《しんじやう》を自分等の物にする惡企《わるだく》みをして居た。或日番頭と繼母とが馬に乘つて、娘の父親の長者主人を殺しに行くところへ、息子と娘が出會《であは》した。そこで名乘りを上げて息子は不義の者どもを討ち取つた。そして娘を連れて長者の家へ還つて行つた。

 長者樣は蘇生《いきがへ》つて來た娘を見て大層喜んで、それもこれもみな息子のお蔭だ。わが娘の命(イノチ)の恩人だし又此家の恩人でもあるから、どうか娘の聟になつてくれと賴んだ。息子は娘と夫婦になつて、舅親樣《しうとおやさま》に孝行を盡してそこの二代目長者となつた。

  (此話は私の村の大洞犬松爺の話の五。内容をも
   う少し委しく知りたいと思つて、後できくと一
   向知らぬと云ふ。老人の記憶は一日限りのもの
   だと云ふことをつくづく知つた。)

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇八番 オイセとチヨウセイ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一〇八番 オイセとチヨウセイ

 

 昔、或所に、オイセとチヨウセイと云ふ睦まじい姉弟があつた。母は長《なが》の病氣で寢てゐたが、姉弟は每日山へ柴刈りに出かけては、それを賣つて米や藥を買つて母を養つて居た。或時、弟のチヨウセイが姉に向つて姉(アネ)さん姉さんお母(ガガ)さんの御病氣《ごびやうき》は、とても何時《いつ》治るか見込みがつかないから、俺はこれから道々(ミチミチ)報謝を受けながらお伊勢詣(まゐ)りをして、お母さんの病氣が治る樣にすツから、アトはどうぞ何分宜しく賴みますぞと云ふと、姉のオイセは、お金は無し心細かんべが、行つて來てクナい、留守は決して案ずる事はないと云つた。そこでチヨウセイは姉に別れて遙々お伊勢詣りにと旅立つた。

[やぶちゃん注:「お伊勢詣り」既に「九五番 猫の嫁子」で、犬や豚でさえ伊勢参りしていた事実を述べたが、江戸時代に何度も発生した爆発的な多数の集中的な伊勢神宮参詣(「抜け参り」「お蔭参り」と称した)については、私の曲亭馬琴「兎園小説拾遺」の電子化注の中の、「松坂友人書中御陰參りの事」「伊勢參宮お陰參りの記」「駿州沼津本陣淸水助左衞門、或る人に與ふる書狀」「伊勢松坂人櫟亭琴魚【殿村精吉。】より來狀御蔭參りの事」を読めば、路銀を持たない者でも、かくも遠い東北の庶民が、伊勢参詣が出来たことが理解して頂けるものと思う。]

 姉のオイセは弟の留守中、相變らず山へ獨りで出かけては、せつせと柴を刈つて居た。或日のこと、山で柴を刈つてゐると、眠くなつてウトウトしてゐたら、こんな夢をみた。ひどく咽喉《のど》が乾いて水が慾しくなつたが、澤の奧の方に烟管《きせる》のラウ竹ぐらゐの細い樋(とひ)から水がチヨロチヨロ流れてゐたので、その水を呑むと、立ち所に咽喉もうるおひ疲れも治つた…というところで不圖《ふと》眼が覺めた。オイセは不思議に思つて、柴を背負つて澤の奧の方サ行つて見たら、夢の通り水がチヨロチヨロ流れてゐたので、一と口二た口呑むと例《たと》へやうもなく甘《うま》かつた。さア歸らうと柴を背負つて立つと、あんなに重かつた[やぶちゃん注:底本は「思かつに」。「ちくま文庫」版で訂した。]柴が急にふンわりと輕くなつた。これは不思議と、何遍も立つて見たけれども、輕いのでもつと柴を刈つて背負つたが、重くも何ともなかつた。そのまゝ家へ歸つて行くと、寢てゐた母は、オイセが何時もと異《ちが》つて山のやうに柴を背負つて來た姿を見て、びつくりして了《しま》つた。そこでオイセは、これこれかう云ふ譯だと、夢を見た次第を語つて聽かせたら、さう云ふ水だら屹度《きつと》おれの病氣にもよかんべから一と口飮んでみたいものだと云つた。そんではこれから直ぐ取りに行つて來るからと、オイセは言つたが、もう暗くなるから、あした行けと母が留めた。翌日[やぶちゃん注:底本は「羽日」。同前で訂した。]の朝早くオイセは、昨日の場所サ行つて水をとつて來て、母に飮ませると、母の體は非常に快《よ》くなつた。かうして每日水を飮ませたら、母の病氣は一枚々々紙をはぐやうに良くなつて、もとの體に治つた。そして柴は每日々々澤山取れるので、米を買つて餘つた分は賣つて段々福々《ふくぶく》しくなつた。近所の人たちが不思議に思つて、オイセにわけを尋ねると、オイセは澤の奧の水のお蔭だと言つて、そのありかを敎へてやつた。そこで近所の人たちは、われ先に澤の奧サ行つて水を持つて來て呑んだが、オイセの外は誰にも一人として効能が無かつた。然しオイセが掬《く》んで來て飮ませると効能が立ちどころに現はれた。しまひには遠方からも病氣で困つている人々が尋ねて來てオイセから水を貰ひ、お禮の金や品物が每日々々贈られるので、オイセの家では家を建て更《か》へたりして、段々と立派になり、しまひには村一番の分限者になつた。

 一方辛苦艱難して、お伊勢詣りに出かけた弟のチヨウセイは、うざにはいた念願が叶つて、お伊勢さまに母の大病平癒を祈つて歸途についた。[やぶちゃん注:「うざにはいた」「うざにはく」宮城方言で「難儀する・骨を折る」の異。三省堂「全国方言辞典」によれば、『「うざに(田下駄)」を履きながらの作業がひどく難儀であったことから』とあった。]或山坂まで來ると空腹と疲勞で一足も步かれなくなつた。報謝を受けようにも通る人は無し、ハテどうしたものだべと腰をかけて考え込んでいたら、そこヘ一人の人が通りかかつた。そして此坂の下の長者の一人娘が死んで今日は其お葬禮(トムライ)だが、今に此所を通る筈だから、そしたら墓場サ行つて團子なり饅頭なり貰つて喰ふがいいと、親切に敎えて吳れた。そのうちに夕方になつて、お葬禮がやつて來たので、後について行つて、人々が歸つてから、墓場に供へた團子や饅頭を腹一杯に喰つたが、ふと、此お葬禮の樣子では大した長者だどきに[やぶちゃん注:意味不明。]、あの長者の娘なら定めし棺の中には立派な持物が入つてることだべが、一ツ掘《ほ》つくり返して見んべと考へた。そこでチヨウセイは今埋めた許りのお墓を掘つくり返して、棺桶の蓋を開けて見たら、中にはチヨウセイの眼も眩《くら》むやうな、かんざしや指物《さしもの》等があつた。[やぶちゃん注:「指物」この場合のそれは「差(揷)物」で。 髪に刺す櫛・簪(こうがい)を言う。]チヨウセイは氣味が惡いのも何も忘れ果てて、先づ死人《しびと》の髮の毛を握つて引き起こすと、死人が突然ううむと呻《うな》つたかと思ふと生き返つた。チヨウセイはぞツとして逃げ出さうとすると、生き返つた長者の娘がチヨウセイの袖を摑んで、わたしは今日餠を喰べて咽喉に支《つか》へ、その儘氣を失つて死んだ[やぶちゃん注:ここは事実上は気絶・失神の意となる。]と見えますと語つた。そしてチヨウセイが髮の毛を握つて引き起した時に、餠が滑り落ちて生き返つたことがわかつた。長者の娘は、わたしの家はこの坂下で御座いますが、あなたはわたしの命の親だから、ぜひとも一緖に來てくださいと云ふので、チヨウセイは娘に連れられて長者の屋敷へ行つた。長者の家では娘が埋葬された晚なので、一同が嘆きに沈んでゐる處へ、娘の聲がしたので、幽靈が來たと言つて恐れたけれども、チヨウセイが出て譯を話したら、家では嘆きが悅びに變つて、チヨウセイを厚くもてなし、命の親ゆゑ、是非とも娘の聟になつてはくれまいかと云はれた。チヨウセイは家に母と姉が待つてゐるから、早く歸らなければならないと云つたら、それでは嫁に貰つてくれと言つて、簞笥《たんす》よ長持《ながもち》よと、あまたの道具に供人《ともびと》まで附けてくれた。かうしてチヨウセイは、長者の娘を嫁にして、家へ歸つて來て見ると、村は確かに自分の村だが、自分の家のアバラ家は、影も形も無くて、其所には立派な家が建つてゐた。はて此邊がおれの家だつたけになアと思つて、門番に聞いてみたら、果して自分の家だつた。チヨウセイはそこで嫁と一緖に久しぶりで、母と姉のオイセに會ひ、一家は目出度く永く榮へた[やぶちゃん注:ママ。]。

  (昭和五年四月六日靄の深い晚の採集として、
   三原良吉氏御報告の分の四。)

 

2023/06/05

「新說百物語」巻之一 「狐亭主となり江戶よりのぼりし事」 / 巻之一~了

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

     狐(きつね)亭主となり江戶よりのぼりし事

 

 京、からす丸《ま》の上(かみ)に、江戶に棚《たな》[やぶちゃん注:「店(たな)」に同じ。]を出し、每年、京より、一度つゝ[やぶちゃん注:ママ。]江戶へ下る人、あり。

[やぶちゃん注:「からす丸」烏丸通(からすまどおり:グーグル・マップ・データ)。]

 あるとし、例(れい)の頃よりは、少々、𨻶(ひま)入《いり》て、京へのほる[やぶちゃん注:ママ。]事、おそくなりけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、九月のはしめつかた[やぶちゃん注:ママ。]、思ひもよらす[やぶちゃん注:ママ。] 、亭主、江戶より、のほり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 家内の者、母親、女房、大きに悅ひ[やぶちゃん注:ママ。]、風呂なと[やぶちゃん注:ママ。]立《たて》させ、料理、こしらへなと[やぶちゃん注:ママ。]して、もてなしけれとも[やぶちゃん注:ママ。] 、亭主も、壱人の挾箱(はさみはこ[やぶちゃん注:ママ。])もちたる家來も、一ゑん、ものいふ事、なし。

 唯、食物《くひもの》はかり[やぶちゃん注:ママ。]喰(く)ひて、亭主も、家來も、臺所へも、出ること、なし。

『兎角(とかく)、所作(しよさ)がら、合点、ゆかす[やぶちゃん注:ママ。] 。』

と、おもひて、其《その》橫町に、親類のありける方《かた》へ、家内、殘らす[やぶちゃん注:ママ。] 、当分、入用《いりよう》の物なと[やぶちゃん注:ママ。] 、持ち行きて、表には、錠(でう)[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ぢやう」。]を、おろし、彼《か》の者弐人《ふたり》ばかり、留主《るす》に置きて、出行《いでゆき》ぬ。

 毎日、毎日、のそき行きけれとも[やぶちゃん注:総てママ。]、弐人とも、前の所に、すはり居《ゐ》て、飯(めし)など、燒(やく)てい[やぶちゃん注:「體(てい)」。様子。]も、なし。

 ある日、江戶の、亭主のかたより、書狀、到來し、

「來月上旬には上京すへし[やぶちゃん注:ママ。]

と申し來たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]

「すは、かの二人は、狐狸(きつね・たぬき)にてあるへし[やぶちゃん注:ママ。]。打ちころせ。」

と、近所の者、大勢、棒・ちぎり木にて、表をあけ、内へ入れは[やぶちゃん注:ママ。]、弐人の者は、行方もなく、あとに挾箱(はさみばこ)と見えしものは、破(や)れたるこもを、竹に、ゆはへつけたるばかり、殘りたり。

 是れ、まつたく、狐の所爲(しよゐ)なり。

 近所にて沙汰しけるは、

「此家、むかしより、裏に、古井戶の、ふたして、終《つひ》に汲(く)まぬ井戶、あり。『此ふたを、あくれは[やぶちゃん注:ママ。]、祟(たゝり)あり。』と、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]ならはせしが、今年、居《をり》ける男奉公人《をとこほうこうにん》、勝手を知らす[やぶちゃん注:ママ。] して、ちよと[やぶちゃん注:ママ。]、ふたを、あけたり。」

と物語しける。

「此たゝりにて侍るやらむ。」

と、人、申しける。

[やぶちゃん注:「是れ、まつたく、狐の所爲(しよゐ)なり。」と断定して以上、最後の「近所にて沙汰しける」とある附記の話は、後付けの流言飛語の類いである点で、注意が必要である。しかし、この附言によって、この事件自体は、事実あった話であるとする、サイドからの実話性補強ともなっているところにも着目したい。

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇七番 赤子の手

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「赤子」は言わずもがなだが、「あかご」と読む。]

 

      一〇七番 赤子の手

 

 或所に亭主(トト)と女房(カカ)があつた。亭主は用足しに町サ行く事になり、懷姙の女房一人で宿居(ヤドヰ)して居た。

 亭主が出かけて行くと、そのあとへ山婆《やまんば》が來て腹の大きい女房を取つて喰つた。夕方亭主が歸つて來て、今歸つたと言つても、普段なら直ぐ返辭する筈の女房が何の返辭もしなかつた。不思議に思つて、其邊を見てもいないので、暗シマ[やぶちゃん注:読み不詳。「くらしま」と仮に読んでおく。]の家の内に入つて、まづ火を焚きつけべえと思つて、爐(ヒボト)へ來て、火打道具で火を起して、フウフウと吹くと、テデなやアと言つて、亭主の頰をテラリと摩擦(コス)るものがあつた。又フウフウと吹くと、テデなやアと言つては其頰をこする者がある。亭主はいよいよ不思議に思つて、あたりを見ると、赤子の左手が肘からもげて轉《ころ》がつて居た。よく見ると血がついて居るので、さてはと思つて、寢床へ行つて見ると、女房は喰はれて其所邊中《そこらぢゆう》血だらけであつた。その血痕の跡を尋ねてだんだんと行つて見ると、常居《とこゐ》[やぶちゃん注:囲炉裏のある家族がいつもいる居間のこと。]の棚の上に、山婆が上つて居て口にはベツタリ血を塗つて居た。亭主はいきなり木割りで其山婆を斬り殺した。

  (田中喜多美氏の報告の分の二〇。摘要。)

[やぶちゃん注:特異点のリアリスティクなスプラッター猟奇譚である。これは、私が少年で、居間の囲炉裏端で聴いていたとしたら、佐々木喜善と同じく、その晩は、怖くて眠れなくなるであろう凄さだ。]

「新說百物語」巻之一 「見せふ見せふといふ化物の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。本篇には挿絵はない。]

 

   見せふ見せふといふ化物(ばけ《もの》)の事

 近き頃、さめかゐ通《どほり》[やぶちゃん注:ママ。]に、書物屋の利助といふものあり。常に、大坂より、奈良にかよひて、家業をいたしける。

[やぶちゃん注:「さめかゐ通」醒ヶ井通(さめがいどおり)は京都の通名(とおりめい)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 あるとしの事なりしか[やぶちゃん注:ママ。]、久しく相《あひ》わつらひて[やぶちゃん注:ママ。]、田舍のかたへも行かさりしか[やぶちゃん注:ママ。]、最早、快氣して、又〻、例年のことく[やぶちゃん注:ママ。]、大坂に行き、あきなひも致し、京・大坂の書物を荷物に作り、さきへ、つかはし、我身、壱人《ひとり》、奈良へ下りける。

 所用の事ありて、殊の外に、おそく、旅宿(りよしゆく)を出《いで》けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、道にて、日、くれける。

 奈良海道[やぶちゃん注:ママ。]に、人家をはなれし、三昧(《ざん》まい)[やぶちゃん注:墓場。]あり。

 壱人の事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、何とやら、心ほそく[やぶちゃん注:ママ。]おもひて、その所を通りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其夜は、空も、くもりて、星もなく、霜月の初つかたなれは[やぶちゃん注:ママ。]、㙒邊ふく風も、身にしみて、とほとほ[やぶちゃん注:ママ。]と、行きたりける。

 壱町斗《ばかり》[やぶちゃん注:約百九メートル。]むかふを見れは[やぶちゃん注:ママ。]、狐火とも見へす[やぶちゃん注:ママ。]、又は、挑灯(てうちん)とも見へぬ、火のひかり、

「ふらふら」

と、來たりける。

 次第次第に、近づきなれ[やぶちゃん注:ママ。] ぬれは[やぶちゃん注:ママ。]、何やらむ、女の、なく聲のやうに、きこへけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、道脇にありける大石塔のかけ[やぶちゃん注:ママ。「蔭(かげ)」。] に、身を、ひそめ、樣子をうかゝひ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 しはらく[やぶちゃん注:ママ。] ありて、彼《かの》火、次第に近つく[やぶちゃん注:ママ。]を見れは[やぶちゃん注:ママ。]、髮をみたし[やぶちゃん注:ママ。「亂し」。]たる女の首、かね、くろく付けて、胴は、なくて、地より、壱尺はかり[やぶちゃん注:ママ。]上を、風のふくことく[やぶちゃん注:ママ。]に行きけるか[やぶちゃん注:ママ。]、ものかなしき聲にて、

「見せふ、見せふ、」

と、はかりいゝて[やぶちゃん注:総てママ。]過行《すぎゆ》きける。

 そのものいふ度(たび)に、口より、

「くはつくはつ」

と、火のひかり、出《いで》たり。

 四、五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]はかり[やぶちゃん注:ママ。]は、見をくり[やぶちゃん注:ママ。]けるか[やぶちゃん注:ママ。]、其後は、かの利介、目をまわして、物をも、覚へす[やぶちゃん注:ママ。]

 夜明け前に、やうやう、正気になり、道をいそき[やぶちゃん注:ママ。]て、奈良に來たり、宿の亭主に物かたりしける。

「いまた[やぶちゃん注:ママ。]、そのふるひは、やまさり[やぶちゃん注:ママ。]ける。」

と、なん。

[やぶちゃん注:著者は書肆であるから、その関係でまた聴きした噂話か。直接聴いたしなかったところが、逆に信憑性を感じさせるものではある。にしても、この一篇、濁点が殆んどないのには、ほとほと、困った。五月蠅いが、悪しからず。]

「新說百物語」巻之一 「夢に見たる龍の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。本篇には挿絵はない。]

 

   夢に見たる龍の事

 伏見の町に伊藤氏なる医者ありける。

 その母なりける人、我が家の緣の下より、龍の天にのぼる、といふ事を、夢に見たりけれども、只、何の心もつかす[やぶちゃん注:ママ。] 、打過《うちすぎ》たりけるに、又の夜も、又の夜も、打《うち》つゞきて、夢に見ける。

 そのあさ、何心なく庭に出《いで》けるか[やぶちゃん注:ママ。]、ふと、夢の事を、おもひ出して、緣の下をなかめけれは[やぶちゃん注:二箇所ともママ。]、何やらん、

「きらきら」

と、ひかるもの、あり。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]に思ひて、つちを拂(は)らひて見けれは[やぶちゃん注:ママ。]、金の龍の目貫(めぬき)、かたし、拾ひ出したり。

[やぶちゃん注:「目貫」小学館「日本大百科全書」の「目貫」によれば、刀剣の柄(つか)に附ける装飾金具(柄の表裏(左右のこと)に二つ附ける)。「目抜」とも書く。普通、その上を柄糸(つかいと)で巻くが、巻かないものは「出(だし)目貫」と称する。本来は刀剣の茎孔(なかごあな)へ通して柄を留める目釘(めくぎ)の上を飾ったもの(「目」は「孔」のことで、「これを貫く」の意)であったが、近世に入って、目釘と目貫は分離し、目貫は刀装(拵(こしらえ))の装飾を専らとするようになった。室町後期に装剣金工を業とする後藤家が出現して以来のもので、獅子・虎・又は家紋などの意匠が多く見られる、とある。リンク先に太刀・刀剣の部分名称の画像があるので参照されたい。

「かたし」片方。]

 近所の者にも見せ、又は、知人に、みなみな、見せけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、其細工のたゝならぬ[やぶちゃん注:ママ。]さま、いきたることく[やぶちゃん注:ママ。]にて、誠に夢に見たる龍に、すこしもかはらす[やぶちゃん注:ママ。]

 常々、我《わが》張箱(はりはこ)に、いれをきける。

[やぶちゃん注:「張箱」(「はりばこ」が正しい)厚紙で作った芯材となる箱に、様々な色・雰囲気の貼り紙(化粧紙)を貼り付けて作った化粧箱。]

 七、八年もすきて[やぶちゃん注:ママ。]、其人、身まかりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、そのあけの日より、彼《かの》目貫、かいくれ[やぶちゃん注:全く。]、見えす[やぶちゃん注:ママ。]

 いかやうに吟昧すれとも[やぶちゃん注:ママ。]、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]出《いで》さりける[やぶちゃん注:ママ。]

 その夜、殊の外、大夕立《おほゆふだち》にて、

「葭島(よしじま)といふ所より、龍の、天上したる。」

と、遠方より申しける。

「若(もし)も、其《その》龍にや。」

と、みなみな、申しける。

 その人の子は、まさしく、我《わが》かたに常に來たるものなり。直(ぢき)にかたりける。

[やぶちゃん注:またしても、同時制の、つい最近の奇談・都市伝説である。

「葭島」現在の京都府京都市伏見区葭島金井戸町(よしじまかないどちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇六番 女房の首

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一〇六番 女房の首

 

 或所に、おつなと云ふ女が夫と暮して居た。其うちに夫は旅に出なければならぬ事があつて旅へ出て行つた。其留守におつな一人が家で、繩を絢《な》つて居た。其所へひとりの婆々が來て、おつなが絢つて居る繩を、爐火《ひぼとび》にどんどんとクベて、その燃(モ)え灰(アク)をさらつて皆食つてしまつた。おつなが婆々(ババ)婆々其んなに繩をクベるなと言ふと、婆々はそんだらまた明日來ると言つて歸つた。

 あとでおつなはおつかなくて怖(オツカナ)くて仕樣《しやう》がないから、次ぎの日には榧(カヤ)の實(ミ)を三粒持つて、二階の葛籠(ツヅラ)の中に入《はい》つて隱れて居た。其所へ昨日の婆々が亦やつて來たが、おつなが居ないので、二階へ上つて見るべと思つて、二階の階子段《はしごだん》の二ツ段に足を掛けた時、上の方でおつなが榧の實を一つカチンと嚙んで鳴らした。婆々はあれア何だツと思つて、はツとしたが、其後《そのあと》別段何事もないから、又一段上《のぼ》ると、上の方でおつなが亦カチンと嚙み鳴らした。婆々はまたはツとしたが別段變つた事もないから、又一段上ると、又おつながカチンと嚙み鳴らした。あとは榧の實がなく無つたので、鳴らすことが出來ないで居ると、また婆々が一段と上つて耳を澄ました。それでも鳴らぬので今度は平氣でどんどん上つて來て、女ア居るかと言つて其所らじゆうを探したが見つからない。しまひに屹度《きつと》此の葛籠だなアと言つて、かばツと葢《ふた》を開(ア)けると、おつなが震顫《ふる》へて居たので、此女《をな》ゴ取つて食ふぞツと言つて、おつなをむしやむしやと取つて食つてしまつた。體はみんな食つてしまつて、首から上だけ殘して皿に乘せて、これはまた明日(アシタ)と言つて戶棚の中に入れて歸つた。

 次ぎの日夫が旅から歸つて來て、おつな今歸つたぞ、おつな今歸つたぞ、と言つても返辭がない。はて不思議だなアと思つて家の中へ入つて呼んでみてもおつなは居ない。方々尋ねてみてもおつなが居ないから、しまひに戶棚を開けて見ると、おつなの首が皿に乘せられてあつた。

 夫は魂消《たまげ》て、何だおつなでアないかと言ふと、テテツと言つておつなの首が夫の體にかぶりついた。夫は大變びつくりして其女房の首を人に見えないやうに抱いたまゝ、ハタゴ屋へ行つて、二人分の膳をこしらへさせて二階へ上《あが》つて、御飯を食べ初めた[やぶちゃん注:ママ。]。するとおつなの首が、テテ、俺にも食はせろツと言ふので、夫がたべろと言ふと、おつなの首は夫の胸から放れて膳にフサバツテしまつた。そしていくら取らうと思つても放れぬから、自分の前にあつた飯鉢《いひばち》をかぶせて帶でぐるぐると結び締めて置いて、二階から下りてどんどんと逃げ出した。

 飯鉢の中のおつなの首は、夫の仕打ちを憎んで二階からごろごろと轉《ころ》がり落ちて、テテツテテツと叫びながら夫の逃げた方へ、後(アト)を追つて行つた。夫は堪《たま》らぬので蓬《よもぎ》と菖蒲《しやうぶ》の間《あひだ》に入つて匿《かく》れて居ると、首がテテツテテツと呼びながら其頭の上を飛んで行つた。これを見て夫は喜んで蓬、菖蒲を頭にかぶつて家に歸り、また家の窓だの戶口などに蓬、菖蒲を差して置いたので、この怖しい首は其所へ近づけなかつた。

 それで五月五日には蓬と菖蒲を魔除けのために軒下にサゲルと謂ふ話である。

  (秋田縣仙北郡角館邊の話、昭和四年同所高等
   小學校一年の中野キヌ子氏の筆記の摘要。武
   藤鐵城氏御報告の分の一一。)

[やぶちゃん注:本話は端午の節句の魔除けの軒飾りの起源譚であるが、どうにも「おつな」が浮ばれず、哀れでならないのである。首だけを残して「婆々」(正体は山姥)に食われてしまった「おつな」が、今度は「おつな」の怨念が首だけの妖怪となって夫を襲うという展開には、どうも正常な話柄形成とは思えない。何らかのもっと昔話的に話柄内ではある程度の納得がゆく別々な二つの話を、無理矢理、展開の自然さを失わせて、繋ぎ合わせような感じがするのである。例えば、首だけ残るという箇所は、皿の上というのは、不自然で、寧ろ、山姥が、「おつな」の首の皮だけを被って、葛籠の中に潜んで、帰って来る夫をも襲って喰らうという話柄の方が、民話的には「自然」ではかろうか?

「榧」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera当該ウィキによれば、『種子は食用となり、焙煎後の芳香から「和製アーモンド」と呼ばれることもある』。『生の実はヤニ臭くアクが強いので、数日間アク抜きしたのち煎るか、クルミのように土に埋めて果肉を腐らせて取り除いてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯で茹でるなどしてアク抜き後に乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある』。『また、カヤの種子は榧実(ひじつ)と称して漢方に用いられていて、種子の中の堅い核を取り出して天日乾燥したものである』。『これを使用するときは、核を打ち砕いて、胚乳を取り出す』。『榧実は』一『日』摂取標準『量』十『グラムを煎じて服用し、十二指腸虫の駆除に、民間では腸内寄生虫の虫下し、夜尿症、頻尿に用いる』。『種子』百『グラムほどを』、『一晩』、『水に浸けてふやかし、よく突き砕いて食べたりするほか』、『種子を炒ったものを』、『よく噛んで数十粒食べると』、『サナダムシの駆除に有効であるといわれる』ともあった。さらに、古くは『カヤの実には戦場のけがれを清浄なものにする力があるといわれ、武士が凱旋した際には搗栗(かちぐり)とともに膳に供えられた。カヤの実は相撲の土俵の鎮め物としても使われており、米、塩、スルメ、昆布、栗とともに、土俵中央部の穴に埋められている』とあった。私も食したことがある。ここのそれは、それらの処理を施したものである。葛籠の籠城が長くなった時のための、「おつな」が携帯食物として持って入ったものか、或いは、以上の最後に出る呪的な効果を期待して噛んだとも考え得るかも知れない。妖怪である「婆々」が、その音で進むこと躊躇させられている点が、後者の神話伝説中の呪物の様相を示唆しているようにも読みとれるのである。]

2023/06/04

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇五番 糞が綾錦

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一〇五番 糞が綾錦

 

 或山里に爺樣と婆樣があつて、美しい娘か二人持つて居た。ある日爺樣婆樣は娘を嫁子《あねこ》にやるために、町へ衣裳買ひに行つて、娘一人で留守居をしながら機《はた》を織つてゐた。すると其所へ山母《やまふあふあ》が來て、娘々此戶を開けろ、娘々此戶を開けろと言つた。そして娘が本意ないのに、山母は戶を開けて入つて來た。

[やぶちゃん注:「山母」の読みは前話「一〇四番 瓜子姬子」の第一話にある佐々木の振った読み方を採用した。]

 それから娘に米を磨《と》げと言つて米を磨がせて、それを大鍋に入れて、御飯を炊(タ)かせた。さうしてたくさんの握飯をこしらへさせて(何かの上に)ずらりと並べさせた。

 山母はそれから髮を解(ホド)いて、頭の腦天にある大口をあんぐりと開いて、その握飯を手毬(テダマ)をとるやうに、どんどん、どんどんと其口へ投げ込んで、見て居るうちにペラリと食つてしまつた。

 さうして其所に糞をベタペタと山のやうにたれた。

 そのありさまを隅(スミツ)コの方に隱れて、怖(オツカ)ながつて見て居た娘に、山母が言ふことには、娘々俺が歸つたら、この糞を川へ持つて行つてよくもんで洗つて見ろと言つて出て行つた。

 娘は山母が立ち去つた後で、山母のたれた糞を笊《ざる》に入れて川へ持つて行つて、よくよくもんで洗ふと、其がとても立派な綾錦となつて、ずつとずつと長く長く川下へ流れ晒(サラされて行つた…

   (昭和五年六月、藤原相之助先生から聽く。
    此後段の話もあつたやうであるが御忘れに
    なられたと謂ふ。斯《か》うして發表して
    置いたら何日《いつ》か何人《だれ》かが
    補遺完成してくれるかと思ふからである。)

[やぶちゃん注:ウィキの「山姥」の「山姥の正体」の項に、『山姥の原型は、山間を生活の場とする人たちであるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられている。土地によっては「山姥の洗濯日」と呼ぶ、水を使ってはいけないとか、洗濯をしてはいけないとする日があり、例えば北九州地方では、「山姥の洗濯日」は暮れの』十三『日または』二十『日とされ、この日は必ず雨が降るため洗濯をしないという風習が残っている。これはおそらく、雨を司る山神の巫女の禊の日であったものの名残りである』(☜この最後のシークエンスで洗濯をしろという山母(=山姥)との重要な通義牲が感じられるように私には思われる)(中略)『山姥は人を食う恐ろしい鬼女の性格の背理として、柔和で母性的な一面も伝えられ』いるとあるが、ここも、嫁に行くことになっている娘に対する祝儀としての結納の綾錦として、ここでは、この「山母」には別に娘の代理母的ニュアンスさえ私には感じられるのである(以下、中略)。『山姥の産霊神的な特質を挙げるものとして、山姥の惨死した死体からは、様々なものが発生するという話がある。例えば』、知られた「牛方山姥」では、『殺された山姥の死体が、薬、金などの貴重なものとなって牛方を金持ちにしており、また山姥の大便』(☜)『や乳が、錦や糸などの貴重な宝物や、不思議な力を持つ品になったという話もある』。「古事記」に『登場するオホゲツヒメは、鼻、口、尻から食物を出し、自らの死体から蚕や稲、粟など作物を生じさせ、イザナミも火の神を産んだために死ぬが、死の前に排泄物から金鉱の神、粘土の神、水の神、食物の親神を産んでいる』とあった。この見解には私は非常に共感出来るのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇四番 瓜子姬子(全七話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一〇四番 瓜子姬子 (其の一)

 

 齡寄(トシヨ)つた爺樣婆樣があつた。或日爺樣は山へ木伐りに行き、婆樣は川へ水汲みに行くと、川上から瓜が一つチンボコ、カンポコと流れて來た。それを拾つて、爺樣が山から歸つて來たら一緖に食ふべと思つて、戶棚に入れてとつておいた。夕方爺樣が山から、あゝ喉がかわいたざえ、あゝ喉がかわいたざえ、婆樣々々水コ一杯たんもれざアと言つて歸つて來た。婆樣は、爺樣々々水コよりええものを、俺が拾つておいたから、それを食ウベもしと言つて、戶棚から瓜を出して庖丁で二つに割つた。すると、中から美しい女兒(ヲナゴボツコ)が生れ出た。爺樣婆樣はひどく喜んで、瓜から生れたのだから、それに瓜子姬子と名をつけて大事に大事にして育した。

 瓜子姬子は齡頃《としごろ》になると美しい娘になつた。ある日爺樣婆樣は瓜子姬子に留守をさせて町さ瓜子姬子に着せる美しい衣物(ノヽ)買ひに行つた。爺樣婆樣は家を出る時、瓜子姬子誰(ダアレ)が來ても戶を開けるなやい。家の中で機《はた》を織つて居ろやいと言ひつけた。あいあい、さう答へて瓜子姬子は家の中でひとりこで、

   キコパタトン、カランコカランコ

   キコパタトン、カランコカランコ

 と機を織つて居た。すると奧山から山母(ヤマフアフア)が來て、瓜子姬子ア居たかア、瓜子姬子ア居たかアと聞いた。瓜子姬子が誰だますと訊くと、山母は俺はええ母だから此所の戶(トツ)コをスコウシ開けろと言つた。瓜子姬子は、おら厭(ヤ)んてがア、爺樣婆樣が誰ア來ても戶開けるなと言つたからと言つた。すると外の山母は、そんなことウ言わないで、ええから開けろと言つた。瓜子姬子は前の通り言つて斷つた。するとまた山母は、瓜子姬子々々々々、そんだらら此所を少し開けてけろ、おれの手の入るほど開けてけろと言つた。瓜子姬子はおら嫌(ヤ)んてが、爺樣婆樣にくられるから(叱られるから)と言つて斷つた。するとまた山母はそれだら瓜子姬子、おれの指コの入るぐらゐ開けてけろ、ほんだら瓜子姬子おれの指の爪コのかゝるほど開けてけろと言つてきかなかつた。山母があんまり賴むものだから、瓜子姬子はざつと爪コのかかるぐらい戶を𨻶《す》かしてやつた。すると山母はえらえらととがつた爪を其所へ引掛けて、戶をグエラと開けて中へ入つた。そして瓜子姬子を取つて食つてから、骨は糠室《ぬかや》の隅に匿して置いて瓜子姬子の皮を剝いでかぶつて、瓜子姬子に化けて機を織つて居た。

[やぶちゃん注:「山母」は山姥(やまうば/やまんば)の異名。]

 婆樣爺樣は瓜子姬子の赤い衣物を買つて、タ方町から歸つて來た。すると家の中から、

   ドツチラヤイ

   バツチラヤイ

 と機織る音がして居た。はてな、あの機織る音は、おら瓜子姬子の機織る音だべかなアと思つて、急いで戶を開けて見ると、中から山母の化けた瓜子姬子が、爺樣な婆樣な今歸つたますかと言つて迎へに出た。留守の間に何も來なかつたかと言ふと、山母が來たつたども、おら婆樣爺樣から言ひつけられて居たから、なんぼ戶を開けろと言つても、戶を開けねアものと言つた。どうも樣子がおかし[やぶちゃん注:ママ。]けれど爺樣婆樣はああそれはよいことをしたと言つて、町から買つて來た美しい紅い衣物を見せたがその瓜子姬子は紅い衣物を見ても、別に嬉しい風もしなかつた。

 其次ぎの朝、今日は瓜子姬子が嫁子《あねこ》に行く日だから、爺樣婆樣は早く眼を覺まして話をして居ると、厩舍桁《うまやげた》の鳥小舍《とりごや》の上で、鷄《にはとり》が時を立てたが、その鳴きやうは斯《か》うであつた。

   糠室(ヌカヤ)の隅(スマ)コを見ろぢや

   ケケエロウ

   糠室の隅コを見ろぢや

   ケケエロウ

 爺樣婆樣は、はてあの鷄の鳴きやうは、いつもと異《ちが》つて怪(オカ)しい鳴きやうだなアと思ひながら起きて、瓜子姬子の嫁子《あねこ》に行く仕度《したく》をした。さうして昨日《きのふ》町から買つて來た絹子小袖《きぬここそで》を出して着せて、鈴をつけた馬に乘せて、家の門口《かどぐち》から、ゴロン、ゴロンと云はせて引き出した。すると屋棟《やむね》の上で烏《からす》がまた斯う鳴いた。

   瓜子姬子ば乘せねエで

   山母(ヤマフアフア)乘せたア ガアガア

   瓜子姬子ば乘せねエで

   山母乘せたア ガアガア

 それで、これは怪(オカ)しいと思ひ、又今朝《けさ》も鷄があゝ鳴いたつけがやいと思つて、糠室の隅へ行つて見ると、そこにはほんとう[やぶちゃん注:ママ。]の瓜子姬子の骨がぢやくぢやくとあつた。この事だがやい。口惜しいぢえやい。そしてあの馬さ乘つて居るのが山母だと思つたから、爺樣婆樣は土間(ニハ)からマサカリを持つて行つて、馬の上の山母を斬り殺した。

(此話も多くの類型のある部類の一つである。私の蒐集したものばかりでも四種ほどあり、 尙二三他人の書物にあるのも異《ちが》つていた。あまりに普通であり、ありふれた昔話であるから此本には載せまいかと思つたが、此本は何も興味一方の書物でないから、吾々の比較資料のために敢て出して置いた。
「紫波郡昔話」にも別話を載せたが、其後小笠原謙吉氏から聽くと、同地方にある姬子譚の一種には、末段で姬に化けた山姥は山へ逃げて行き、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]の瓜子姬子が殺されて鶯になつて鳴いて飛んで行つたと語られるさうである。)

[やぶちゃん注:附記は例によって同ポイントで引き上げた。佐々木の指示した「紫波郡昔話」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「(七) 瓜小姬子」で視認出来る。]

 

        (其の二)

 昔或所に爺と婆があつた。爺は山へ柴刈りに、婆は川へ洗濯に行つていると、瓜が一つ流れて來た。婆はそれを拾ひ上げて、今に爺が山から還つたら、一緖に食べやうと、戶棚に藏《しま》つて置いた。夕方爺が歸つたから、戶棚を開けると、其瓜から美しい女の兒が產れて、おげえ、おげえ、と泣いて居た。

 爺婆は此齡《このとし》まで子供がなかつたから、大層喜んで、瓜から生れたから瓜子姬子と名を附けて、可愛がつて育てた。瓜子姬子は段々大きくなつて手習《てならひ》も算盤《そろばん》もよく覺え、其上に孝行娘であつた。又花(ハナコ)のやうに美しく、[やぶちゃん注:底本は句点であるが、読点に代えた。]機を敎へるとすぐに金欄緞子《きんらんどんす》までも織るやうになつて、每日每日家に居て、梭《ひ》の音をさせて居た。

 或日、爺は山へ行き、婆は用があつて隣へ行つて留守で瓜子姬子ばかりが居ると、戶をどんどんと叩く者があつた。戶を開けるなと兼々《かねがね》婆に言ひ付けられてゐるものだから、開けずに居ると、瓜子姬子、瓜子姬子、一寸戶を開けろと言つた。それでも瓜子姬子は默つて機を織つていると、また瓜子姬子、瓜子姬子、爪の立つほどでよいから此處の戶を開けて見ろと言つた。それでも瓜子姬子は默つて機を織つてゐた。外の者は怒り出して、瓜子姬子、瓜子姬子、俺の言ふことをきかなかつたら、此の戶を蹴破つて入るぞと言つた。瓜子姬子は恐ろしくなつて、ほんの少し、爪がかゝる位に戶を𨻶(ス)かすと、がらりと戶を開けて、アマノヂヤク[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「アマノジヤク」でよい。]が飛び込んだ。さうして瓜子姬子を食つて了《しま》つて瓜子姬子の皮を被り、瓜子姬子の衣物を着て、瓜子姬子に化けて機を織つてゐた。

 婆が隣から歸つて來ると、どうも機を織る梭の音が違ふ。瓜子姬子のなら、カランコロン、キコパタトン、カランコロン、キコバタトンと聞こえるのだが、只、ドジバタ、ドジバタと聞こえる。これには何か理(ワケ)のある事だと、障子の𨻶《すき》から覗いて見ると、アマノヂヤクの尻尾がだらりと下(サガ)つてゐた。婆は是を見て、ニワ(土間)から斧を持つて來て、アマノヂヤクが何も知らずに居る背後から、頭を擊ち割つて殺して了《しま》ひ、瓜子姬子の讐《かたき》を打つたと云ふことだ。

  (和賀郡黑澤尻町邊にある話。拙妻の記憶の分。)

[やぶちゃん注:「黑澤尻町」現在、岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)があるが、旧町域は遙かに広い。「ひなたGPS」の戦前の地図を確認されたい。]

 

        (其の三)

 昔或所に、爺樣と婆樣があつた。爺樣は山さ薪取りに行く。婆樣は川戶《かど》さ洗濯に出た。コツコツと洗ひ物してゐると、甘《うま》さうな瓜が一つツンブツンブと流れて來た。アエ奇麗な瓜子が流れて來た、獨りで喰ふにア痛ましい、爺ア來たら分けて喰ふベアと言つて、戶棚さ入れて藏(シマ)つて置いた。

 爺樣ア山さ行つて薪をズツパリ(たくさん)取つて背負つて來た。婆樣は俺ア家の爺樣山さ行つて難儀して來るベアと思つて、飯仕度《めしじたく》をしていると、爺樣が來たので、爺樣々々お前が山さ行つた小間(コマ)に瓜子(ウリコ)が流れて來たけア這入《はい》つて食つてゴザエと言つた。爺樣が戶棚さ行つてあけて見ると、瓜子ポカツと割れて、中から奇麗な女兒(ヲナゴワラシ)が生れた。コレコレ瓜の中からお姬樣が生れた。どれどれと言つて、婆樣も行つて見ると、本當に生れてゐるので、爺樣も婆樣も喜んで育てた。名を瓜子姬子と付けて育ててゐるとだんだん大きくなつて、每日每日トテンバタン、トテンバタンと機を織り、何處にもない位の美しい瓜子姬子になつた。或日、瓜子姬子、瓜子姬子、誰が來ても戶をあけてアなんねエぞと言ひつけて、爺樣も婆樣も稼ぎに出て行き、瓜子姬子一人で宿居(ヤドヰ)をしてゐた。トテンバタン、トテンバタンと機を織つて居ると、隣の娘が來て、瓜子姬子、瓜子姬子、機織りが餘り上手だが少し見せろと言つた。婆樣に叱(クラ)えるだす、やんたと言ふと、小指の這入《あいる》位でも開けて見せエでやと云つた。少し開けてやると、未《ま》だ見えねエ、もう少し開けて見せろと言ふ。亦少し開けると手の這入る位あけて見せろと云ふ。瓜子姬子がおつかなおつかなに開けてやると、隣の娘は無理無理に家の中さ這入つて、蚤捕《のみと》りするベエ俎《まないた》持つて來《こ》うと言つた。亦おつかなおつかなで持つて來ると、瓜子姬子お前が先だと言つた。瓜子姬子が俎の上に橫になると隣の娘ア山婆《やまんば》になつて、づたづた[やぶちゃん注:ママ。]に瓜子姬子を斬つて殺して食つたとサ。

 

        (其の四)

 此話の別話では、流れて來た瓜を婆樣が食べると非常に甘《うま》いので、もう一つ流れて來いと呼ぶと、果して流れて來たので、用のある瓜だら此方《こつち》來い、用の無い瓜だら彼方《あつち》行けと呼ぶと、傍《そば》へ寄つて來たので、これは爺樣の分だとしてとつて置いた。すると戶棚の中で二つに割れて姬子が生れてゐる。

 この姬子が大きくなつて機を織つてゐると、アマノヂヤクが來て、だまして庖丁とサイバン[やぶちゃん注:「菜板」。俎板のこと。]を姬子に出させて、代《かは》り番《ばん》コにシラミ捕りをすると言つて、サイバンの上に姬子を橫にして斬つて食べてしまつた。

 そして瓜子姬子に化けて機を織つてゐると、其所へ着物を買ひに行つた爺樣達が歸つて來て、何時もなら、トギカカ、チヤガカカ、トガカカ、チヤガカカと聞える筈の梭の音が、トダバタン、トダバタンと聞える。

 愈々嫁入《よめいり》となつて、僞《にせ》の姬子が家を出やうとすると、アマノジヤクが喰ひ殺してあつた姬子の左の手が鶯《うぐひす》になつて、

   瓜子姬子だとて

   アマノジャクが化けて

   嫁に行く…

   おかしでア

   ホウホケキヨ

 と鳴いたので、始めてすつかり化《ば》けが現はれて、アマノジヤクは殺された。

  (此二篇とも岩手縣雫石地方の話、田中喜多美氏の御報告分の一九。)

[やぶちゃん注:「アマノジヤク」と「アマノヂヤク」の混用はママ。]

 

        (其の五)

 昔々、お爺さんとお婆さんがあつた。二人のなかにオリヒメ子と云ふ娘があつた。或時爺婆がオリヒメ子を呼んで、オリヒメ子、オリヒメ子、アマノジヤクが來た時ア決して戶を開けてはならないぞと言ひ置いて外へ出て行つた。

 オリヒメ子が一人で機を織つて居ると、アマノジヤクが來て、オリヒメ子、オリヒメ子、戶を開けろと言つた。オリヒメ子が叱られるから厭だと言ふと、アマノジヤクは何べんも何べんも、戶を開けろ戶を開けろと賴むので、仕方なく戶を開けると、

   オリヒメ子

   オリヒメ子

   山さ栗拾ひに行くから

   下駄履いて來(キ)れ

 とアマノジヤクが言つた。

   下駄が鳴るから

   厭(ヤ)んた

 とオリヒメ子が言ふと[やぶちゃん注:読点なしはママ。]

   そんだら

   草履《ざうり》はけ…

 とアマノジやクは言つた。

   草履もないから

   厭んた

 とオリヒメ子が言ふと、

   それぢや俺が

   おぶつて行く

 とアマノジャクが言つた。

   刺(トゲ)があつから

   厭んた

 とオリヒメ子が言ふと[やぶちゃん注:同前。]

   それでア板を敷いて

   おぶるべえ…

 とアマノヂヤクが言つた。さうしてとうとう[やぶちゃん注:ママ。]アマノヂヤクの背中に板を當てがつて、オリヒメ子はおぶさつて山へ行つた。するとアマノヂヤクが自分一人だけ木へ登つて栗を取つて居るので、オリヒメ子も又その木へ登つて行くと、アマノヂヤクは、木をうんと搖(ユス)ぶつて、オリヒメ子を木から打(ブ)ち落して殺して、その皮を剝いで被(カブ)つてオリヒメ子に化けて家へ歸つた。そして御嫁《およめ》に行く事になつた。

 朝起きて顏を洗ふ時、アマノヂヤクが、あんまりそろそろと顏を洗ふので、爺樣婆樣が、今日はお嫁に來た[やぶちゃん注:「行く」と同義。]のだから、もつと、よく顏を洗へと叱ると、アマノヂヤクは、おら洗え[やぶちゃん注:ママ。]ないと言つた。そんだら俺が洗つてケルと言つて、爺樣が强く顏を洗つてやると、オリヒメ子の皮が脫(ハ)げてアマノヂヤクになつて、山へ逃げて行つた。

 其前にお嫁になつて行く時に、アマノヂヤクのオリヒメ子が駕籠に乘る時、鶯が飛んで來て駕籠にとまつて、

   オリヒメ子ア駕籠サ

   アマノヂヤク乘つたツ

   ホウホケキヨツ

 と鳴いて何處かへ飛んで行つた。

  (秋田縣角館地方の話、武藤鐵城氏の分九〇。)

 

        (其の六)

 或所に爺樣(ヂイサマ)と婆樣(バアサマ)とが二人あつた。子供が無いので、欲しい欲しいと思つて神樣に願かけした。或朝瓜畠《うりばたけ》へ行つて見ると、瓜畠の眞中に美しい女の子が居た。爺樣婆樣はこれア神樣が私達の願を叶へて下さつたものだと思つて、喜んで拾つて來て瓜子ノ姬子と名をつけて、大事に育てゝ居た。

 或日爺樣婆樣が山さ薪採りに行くとき、誰が來ても戶を開けんな。此邊は狼はひどえシケに…と言ひ置いて行つた。其後(アト)でウリコノ姬子は、トンカラ、ヒンカラと機を織つて居た。其所へ山の狼がやつて來て、

   瓜子ノ姬子

   アスンペヤア

 と言つた。瓜子ノ姬子は初めのうちは默つて居たけれども、餘り誘ふもんだから、

   ダアガやアえ、[やぶちゃん注:意味不明。「いやだよう!」の意か。]

   爺樣(ヂイサ)婆樣(バアサ)に

   クラアレンものを…[やぶちゃん注:「怒られる」の意か。]

 と答へた。すると狼が、ほんだら取つて食ふぞツと脅《おど》した。瓜子ノ姬子は仕方がないもんだから、ほんだら…と言つて窓コから顏を出して見せた。すると今度は、

   瓜子ノ姬子

   戶オ開(ア)けてがんせ

 と狼が言つた。

   ダアガやアえ

   爺樣婆樣に

   クラアレンものを…

 ほんだら取つて食ふぞツと亦狼が云ふので、仕方がなく開けると、狼はいきなり内ヘ入つて、

   瓜子ノ姬子

   さいばん(俎)出せツ

 と言つた。瓜子ノ姬子が

   ダアガやアえ

   爺樣婆樣に

  クラアレンものを…

 と言ふと、ほんだら取つて食ふぞツと言ふ。仕方がないもんだから、瓜子ノ姬子が俎を出すと、狼は今度は、

   瓜子ノ姬子

   庖丁出せツ

 と言ふ。

   ダアガやアえ

   爺樣婆樣に

   クラアレんものを…

 と瓜子ノ姬子は言ふ、

   ほんだら取つて食うぞツ

 と言ふ。仕方がないから瓜子ノ姬子が庖丁を出すと、

   瓜子ノ姬子

   このさいばんの上さ寢ろツ

 と言ふ。

   ダアガやアえ

   爺樣婆樣に

   クラアレンものを…

 と言ふと、狼は

   ほんだら取つて食ふぞツ

 と言ふ。仕方がないもんだから、瓜子ノ姬子が俎の上に橫になると、狼は庖丁で頭だの手だの脚だのを別々に切(キ)んなぐつて、そして、ああウンメヤエ、ウンメヤエと言つて食つて、骨コは緣側の下へかくして、殘つたのを煮て居た。

 爺樣婆樣が夕方山から歸つて來た。そして背負つて來た薪をガラガラツと下《おろ》して、瓜子ノ姬子、今歸つたぞと言ふと、瓜子ノ姬子に化けた狼は、さアさ腹が空(ヘ)つて來たごつたから、はやく飯食(マンマ)つとがれ[やぶちゃん注:「作って呉れ」か。「つと」は「苞」で、そこに飯を盛るからか。]と言ふ。爺樣婆樣が瓜子ノ姬子を煮た肉汁を、あゝウンメア、ウンメアと言つて食ふと、狼は、

   板楊の下を見サ

   骨こ置いたが

   見ろやエ見ろやエ

 と言つて狼になつて山サさつさと逃げて行つた。そして爺樣婆樣はまた二人つこになつた。

  (陸中下閉伊郡岩泉町邊の話、野崎君子氏の談話の分七。
   昭和五年六月二十三日。)

 

       (其の七)

 昔々ざつと昔、あるところに爺と婆があつた。爺は山へ柴刈りに、婆は川さ洗濯に行つたところが瓜が流れて來たので拾ひ上げて、家さ歸つてから、爺と二人で喰う[やぶちゃん注:ママ。]べと思つて、二ツに割つたら、中から小さこい女(オナゴ)おぼこが生れた。爺と婆は犬變悅んで、瓜子姬と名づけて可愛がつて育てた。瓜子姬は何よりも野老(トコロ)が好きだつたので、爺と婆は每日野老をゆでて喰べさせた。瓜子姬は又機織りが好きで每日機を織つて暮してゐた。或時爺と婆はよそへ出かけなければならぬ事があつて、誰が來ても決して戶を開けんなよと固く言ひ置いて出かけて行つた。瓜子姬が獨りで機を織つてると、戶を叩いて、此所《ここ》開けろ、此所開けろと云ふ聲がした。瓜子姬は爺と婆に言ひつけられた通り誰も居《を》りえんから開けられえんと云つたら、いいから開けろと云つて聽かないので、瓜子姬は仕方無く、ちくとばかり戶を開けたら、いきなり怪しい者が入つて來て、瓜子姬を殺して俎の上さ乘せて斬《き》つて喰つてしまつた。そして瓜子姬の皮をはいで、自分の顏にかぶり、衣裳も取り代へて、知らん振りして機を織つて居た。やがて爺と婆は歸つて來た。[やぶちゃん注:底本は読点。「ちくま文庫」版を採用した。]何も知らない婆はいつものやうに、瓜子姬や野老をゆでたから喰べろと云つたが、瓜子姬は返事もしなかつた。瓜子姬はいつも機を織り乍ら、

   くだねツちゃ

   ばんばなや[やぶちゃん注:この唄、意味不明。]

 と唄をうたふのに、今日は默つて機を織つて居るので、爺も婆も不思議に思つた。野老も喰はなければ唄もうたはないものだから、どこかあんべえでも惡《わ》るかんべか、と爺と婆は心配をした。次ぎの日も、また次ぎの日も、瓜子姬は默つてばかり居た。たまに出す聲は今までの瓜子姬とは似ても似つかない太い聲なので、何してこんなに變り果てだんべとますます案じ事《ごと》をした。さうしてゐるうちに長者のところから、瓜子姬を嫁にくれろと言つて來たが、爺と婆は、いやいやまだ上げられえんと斷つた。けれどもしやりにむに[やぶちゃん注:「遮二無二」の訛りあろう。]くれろと言われて、瓜子姬を長者殿サ嫁にやることに決めた。長者からは澤山立派な結納《ゆいなふ》の品々が來た。瓜子姬はお仕度《したく》をして、乘物に乘つて嫁入りをしたら途中で鳥《とり》コどもが木の上から、

   瓜子姬(ウリコウヒメ)の乘り懸《か》けさ

   天(アマ)ノ邪鬼乘(ノ)さつた

 と云つて口々に囃《はや》し立てた。爺と婆は奇妙な事を云ふ鳥どもだなと、首をまげまげ行つた。お嫁入りのきまつた翌朝、長者の家の召使が、瓜子姬に手水《てうず》をすすめると、瓜子姬は化《ば》けの皮が剝げないやうに、そろりそろりと手水を使つた。召使が見兼ねて側から手傳つて、手水を使つてやつたら、瓜子姬の化けの皮がはがれて、天ノ邪鬼となつて逃げて行つた。

  (三原良吉氏の昭和五年四月八日雨の夜の採集、
   其御報告の分の三。)

[やぶちゃん注:知られた「瓜子姫と天邪鬼」系の話柄群であるが、まず、小学館「日本大百科全書」の記載を引く。『果物から生まれた主人公の冒険を主題にした異常誕生譚』『の一つ。子供のいない老夫婦がある。婆(ばば)が川で瓜を拾い、爺(じじ)といっしょに食べようとすると女の子が生まれる。姫は成長して機』『織りが上手になる。嫁入りが近づいたとき、天邪鬼(あまのじゃく)がきて、姫をだまして木に縛り付け、姫に化ける。嫁入りの途中、木の上から、天邪鬼が嫁に行くという声がする。天邪鬼は殺され、助け出された姫が無事に嫁入りする。この昔話では、天邪鬼は、人の邪魔をする妖怪』『とされている。比較的まとまった形で分布している昔話で、室町期の物語草子の』「瓜姫物語」や、「嬉遊笑覧」(文政一三(一八三〇)年刊)にも『みえる。中国には、畑にできた瓜から生まれた英雄の昔話もあり、「桃太郎」と一対をなすことが注目されてきたが、「瓜子姫」には独自の歴史がある。ヨーロッパをはじめ、トルコ、インド、ビルマ(ミャンマー)、チベットなどに広がる「三つのみかん」の昔話の日本的変化である。東日本では、姫は殺されて小鳥が事件を告げるとし、西日本では殺されなかったように伝えるが、「三つのみかん」と比較すると、姫は殺されて小鳥の姿になり、天邪鬼が殺されたのち、よみがえって元の姿に戻ったというのが原形であったかもしれない』とある。ウィキの「うりこひめとあまのじゃく」もリンクさせておくが、私は少年期にこの話を読み、その残酷さに生理的嫌悪感を抱き、今もそれが続いていて、実は不快で好きになれない話である

「野老(トコロ)」「七八番 田螺と野老」の私の冒頭注を参照されたい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇三番 魚の女房

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一〇三番 魚の女房

 

 或所に、正直な漁夫があつた。每日々々、網を打つたり、釣つたりして、雜魚《ざこ》を取つて其日を暮して居た。慾が無いから別段金儲けをすべとも思はず、餘分にとつた魚などは川へ放してやるほどであつたから、家はひどく貧乏であつた。だから未だ妻もなく、ヤモメ暮しであつた。

 或日のこと、若い美しい女が、此男の家を訪ねて來て、どうか妾《わらは》を置いてくれと賴んだ。漁夫は俺は貧乏でダメだから、外《ほか》さ行つて賴んでみろと言つた。すると女は妾はお前さんの氣前《きまへ》に惚れて來たから、是非オカタにして置いてくれろと言つてきかなかつた。男は、俺はお前の樣な美しいオカタを持つても、この通り貧乏だから仕樣《しやう》がない。そだから歸つてくれと言ふと、女は妾はお前さんを見込んで來たんだから、今さら行く所もない。妾には親も兄弟もなく一人ポツチだから置いてくれと言つてきかないので、仕方なく漁夫は其女をオカタにすることにした。

[やぶちゃん注:「オカタ」東北地方の方言で「女房」の意。「御方様」語源とも言われるが、不詳。]

 亭主は相變らず每日々々漁に出ては、魚をとつて生活(クラシ)を立てゝ居た。此女房を置いてから、不思議な事に朝夕の味噌汁があまりウマイので、どうして斯《か》うウマイのかと、其譯を訊いても、ただ笑つて何とも答へなかつた。同じ味噌でも自分がやるとまづく、妻が作るととてもウマかつた。何時《いつ》かは妻の作り方をこツそり見てやらうと思つて居たが、なかなか見拔くことが出來なかつた。

 或日、明日は町へ行くからといつて、宵のうちに仕度をし、朝立《あさだち》をして表口から出て、そしてこつそり裏口から𢌞つて、戾つて、梁上(マゲ)に隱れて見て居た。妻は夕方になつて、夫の歸る時分だと思つて、夕飯の仕度に汁立(シルダテ)をして居た。夫がどんなことをするのかと思つて見てゐると、戶棚から味噌を出して摺鉢で摺り、それから自分の尻を浸し、尻をヤツサに洗つて、それを爐《ひぼと》にかけた。汚い眞似をすると思つて見て居ると、妻は水を汲みに川戶《かど》に出かけた。男は何食はぬ顏して、梁上から下りて、盛岡から歸つた振りをして、草鞋《わらぢ》に泥を塗つてゐた。

[やぶちゃん注:「ヤツサに」「矢庭に」の意か。

「川戶」集落を貫流する川、或いは、その畔(ほとり)。]

 夕餉《ゆふげ》の時、男は常にウマイと言つて食べる汁を今夜に限つて食べないので、妻は不審を抱き、何故食べないかと訊くので、實は默つて居るべと思つたが、實はこれこれで、お前には氣の毒だが、汚い眞似をするのは止めてくれと言ふと、妻はさてはサトられたと感づき、顏色を惡くし、本當はお前さんと一生連れ添ふて幸福にして上げたいと思つたが、さう見破られてはそれも出來なくなつた。私は本當の人間ではない。それで元の棲家《すみか》へ歸るから、お前さんもマメで暮すやうに… [やぶちゃん注:底本のママ。「ちくま文庫」版では『ように……。』。]受けた恩は決して忘れない。明日、いつも往くあの淵の際(原文波の際)の岩の上まで來ておくれ。そしたら妾の正體も分るし、お前さんに差上《さしあ》げたいものもあるからと言つて、其夜のうちに何處へか行つてしまつた。

 男は、女が汚い眞似さへしてくれなければ、いつまでも此所に居て貰ひたいのであるが、人間の性《せい》でないと言ふから、氣味が惡くもあり、とにかく明日淵バタ(原文濱バタ)へ行つてみれば萬事分ると諦めて居た。

 翌日、妻が告げた岩の上へ往《ゆ》くと、女は既に來て待つて居た。そして嬉し氣《げ》に見えるが、いつもより美しく着飾つて居るので、男も氣恥しいやうであるけれども、側へ近寄つて見ると、女はニツコリ笑つて、これをお前さんに上げますと言つて、立派な漆塗《うるしぬ》りの手箱をくれた。そして實は妾はお前さんに放《はな》されたことのある魚《さかな》であると言つて、忽ち水中に消えて行つてしまつた。

 手箱には、金銀の寶物が一杯入つて居りましたとサ。ドツトハライーヒ!

(田中氏の御報告の分一七。同氏は附記して曰《いはく》、此話は更に子供の方へ進展していくやうな氣もするが忘れた。[やぶちゃん注:底本では句点はなく、以下に続いているが、「ちくま文庫」版で訂した。]その場合はその箱の代りに、子供が置かれる。卽ち子供は魚を母として生れるのであると云つて居られる。話中盛岡へなどとある故、此魚を川の物にして置いた。)

[やぶちゃん注:附記は、例によって、上に引き上げ、ポイントも本文と同じにした。この話は、異類婚姻譚である「蛤女房」・「鯛女房」といったもののヴァリエーションの一つで、「見るな」型タブーの垣間見シークエンスによる排尿行為の露見による破綻に相同性が認められる。ウィキの「蛤女房」や、個人ブログ「恋女房ならぬ鯉女房。助けた魚が嫁になる」にある新潟市・長岡市に伝わる「鯛女房」の話などを、見られたい。なお、本篇の場合、魚であった女房の魚種が示されていないのが、遺憾なところであるが、これを明確に正体を「鮭」としたほぼ完全な相同話が、「岩手県文化スポーツ部文化振興課文化芸術担当」の公式サイト「いわての文化情報大事典」内の「魚の女房」(採取は大船渡市とある)としてある。ただ、私の少年期の記憶では、同類話柄では、この女房が田螺であったものを記臆するのだが、ネットでは見当たらなかった。]

2023/06/03

譚海 卷之九 駿州吉川吉實家藏鈴石の事 /(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考』に必要となったので、フライングして電子化する。]

 

○駿河國に吉川吉實(よしざね)といふ者有(あり)、先祖は賴朝卿富士の狩場に供奉(ぐぶ)せしとぞ。吉實、世々(よよ)、惣左衞門と稱して、富士郡(ふじのこほり)傳法村(でんばふむら)に住居す。宅のうしろに鏡塚とて、大なる楠樹(くすのき)生(おひ)たるあり。吉實より百五十年ほど以前、祖父法順といふもののとき、一夜大風吹(ふき)たる事ありしに、塚の楠を吹たふしたる下より、石槨(せつかく)を得たり。掘出(ほりだ)してひらき見しかば、其内に徑(わたり)七八寸計(ばかり)の石一(ひとつ)あり、其外には一物(いちもつ)もある事なし。此石眞中(まんなか)に穴ありて、穴の内に丸き石ふくみてあり。ふりならせば鈴の聲(こゑ)に違(たが)ふ事なし、夫(それ)より是をすゞ石と號し家に祕藏し、事ある時は祈禱するに、その應(わう)あり。近き年に至(いたり)て石の靈(れい)漸くうすろぎたるにや、その驗(しるし)も又まれなりとぞ。今年天明八年公儀御奥方御用承る中村景連(かげつら)といふもの、久能御普請の事によりて、 するがへおもむきしに、富士川に逗留せしほど、吉実方に行(ゆき)て此石を見て、殊に賞翫せしかば、かゝる田舍のはてに埋(うづめ)おかんよりは、江戶へ出(いだ)して人にしられんは、石にも面目(めんぼく)成(なる)べしとて、あるじ終(つひ)に此石を景連にあたへけり。悅(よろこび)にたへずもちかへりて、はじめて人々にも見せ興ずる事になり、此石のためにあまねく詩歌を人にもとむるよし、人のかたりしまゝしるしぬ。

[やぶちゃん注:「吉川吉實(よしざね)」名は推定。姓は「きつかは」か「よしかは」か判らない。

「世々」代々。

「富士郡傳法村」現在の静岡県富士市伝法(でんぼう:グーグル・マップ・データ)。濁音であるので注意されたい。

「中村景連(かげつら)」名は推定。]

小野蘭山述「重訂本草啓蒙」巻之六「石之四」中の「禹餘粮」・「太一餘粮」・「石中黃子」

[やぶちゃん注:現在、進行中の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考』に必要になった(というか、「和漢三歳図会」の「禹餘粮」を電子化した関係上、バランスをとるため)ので、電子化する。国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四(一八四七)年板行本の当該箇所(ここから)を視認した。最初に、本文そのままのもの(二行割注は【 】で示し、ルビは上附きで添えた)を可能な限り、再現し、後に、私が読み易く手を加えた推定訓読文を示した。注は私が躓いた箇所のみとした。]

 

禹餘粮  イシナダンゴ【讚州】 ハツタイイシ【同上】 ハツ

 タイセキ【土州】 コモチイシ【勢州】

 船來和産共ニアリ舶來ノ者大サ一二寸殻ノ厚サ一二分

 許甚硬ク黃黑褐色ニ乄打破ハ鐵色アリ其内空虛ニ乄細

 粉盈リ又内ニ數隔アル者アリ藥ニハ此粉ヲ用ユ謂ユル

 粮ナリ藥舖ニ僞テ殻ヲ賣者アリ冝ク詳ニスベシ其粉白

 色或ハ靑白色ヲ良トス又黃色黃白色ナル者アリ只磣セ

 ザルヲ擇ブベシ和産ハ和州能州甲州泉州日州薩州筑前

 但州江州越中作州其餘諸國ニアリ〔集解〕藤生禹餘粮ハ

 土茯苓ナリ草生禹餘粮ハ蒒草ナリ一名自然穀 コウボ

 ウムギ又オニゼキシヤウ𪜈云

太一餘粮  イハツボ ツボイシ ヨロヒイシ【阿州】 オ

 ニノツブテ フクロイシ タルイシ スヾイシ 〔一名〕

 祈闍石【雲林石譜】 天師食【石藥爾雅】 山中盈脂【同上】

 舶來ナシ和産諸國ニアリ形狀大小一ナラズ大ナル者ハ

 斗ノ如ク小ナル者ハ桃栗ノ如シ禹餘粮ノ形ニ似テ外靣

 黃黑褐色質粗クシテ大小ノ砂礫雜リ粘スルヿ多シ雲林

 石譜ニ外多粘綴碎石ト云是ナリ其殻堅硬打破トキハ鐵ノ

 如ク光アリ裏靣ハ栗殻色(クリイロ)ニ乄滑澤ナリ殻内ハ空ク乄粉

 アリ黑褐色ナル者多シ又黃褐色ナル者モアリ全キ者ヲ

 用テ一孔ヲ穿チ粉ヲ去テ小ナル者ハ硯滴(ミヅイレ)トナシ大ナル

 者ハ花瓶(ハナイケ)トス凡禹餘粮太一餘粮倶ニ初ハ内ニ水アリ後

 乾テ粉トナリ久ヲ經テ石トナル其桃栗ノ大サニ乄内ニ

 石アル者此ヲ撼セハ聲アリテ鈴ノ如シ故ニ スヾイシ

 ト云太一餘粮ハ泉州紀州讃州和州城州木津邊ノ山ニア

 リ其中和州生駒山ニ最多シ名産ナリ〔集解〕卵石黃ハ

 饅頭イシ ダンゴ石 ダンゴイハ【土州】 ツチダンゴ

 形圓ニ乄大抵大サ五六分ヨリ一寸許ニ至ル又長キ者モ

 アリ外ハ黃白色ニ乄細土ヲカタメタルガ如ク柔ニ乄碎

 ケ易シ中心ニ黑紫色ノ餡(アン)アリテ饅頭ヲ破タル狀ノ如シ

 豐前中津房州冰上(ヒカミ)郡防州奥州津輕伯州能州甲州荒

 井村武州其外諸州ニ産ス

石中黃子【寇宗奭曰子當ㇾ作ㇾ水】

 凡禹餘粮及太一餘粮初ハ中ニ水アリ久ク乄乾テ粉トナ

 リ其後又石トナル此石中黃子ハ其初ノ黃水ヲ云時珍ノ

 說ニ詳ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

禹餘粮(うよらう) 「いしなだんご」【讚州。】・「はつたいいし」【同上。】・「はつたいせき」【土州。】・「こもちいし」【勢州。】

 船來・和産、共にあり。舶來の者、大(おほ)いさ、一、二寸。殻の厚さ、一、二分許(ばか)り。甚だ硬く、黃黑褐色にして、打ち破れば、鐵色あり。其の内、空虛にして、細粉、盈(み)てり。又、内に數隔(すうかく)ある者、あり。藥には、此粉を用ゆ。謂ゆる、「粮」なり。藥舖(くすりみせ)に、僞りて、殻(から)を賣る者、あり。冝(よろ)しく詳(つまびら)かにすべし。其の粉、白色、或いは、靑白色を良(りやう)とす。又、黃色・黃白色なる者あり。只(ただ)、磣(ざらざら)[やぶちゃん注:意訓とした。]せざるを擇ぶべし。和産は、和州・能州・甲州・泉州・日州・薩州・筑前・但州・江州・越中・作州、其の餘、諸國にあり。〔集解〕「藤生禹餘粮(とうせいよらう)」は「土茯苓(つちぶくりやう)」なり。「草生禹餘粮」は「蒒草(しさう)」なり。一名「自然穀」。「こうぼうむぎ」、又、「おにぜきしやう」とも云ふ。

太一餘粮(たいいつよらう) 「いはつぼ」・「つぼいし」・「よろひいし」【阿州。】・「おにのつぶて」・「ふくろいし」・「たるいし」・「すゞいし」。 〔一名〕「祈闍石(きじやせき)」【「雲林石譜」。】・「天師食」【「石藥爾雅」(せきやくじが)。】・「山中盈脂(さんちゆうえいし)」【同上。】

 舶來、なし。和産、諸國にあり。形狀、大小一(いつ)ならず、大なる者は、斗(と)のごとく、小なる者は、桃・栗のごとし。「禹餘粮」の形に似て、外靣、黃黑褐色。質(しつ)、粗(あら)くして、大小の砂礫(されき)、雜(まぢ)り、粘(ねん)すること、多し。「雲林石譜」に『外、多く粘ずるは、綴碎石(てつさいせき)なり』と云ふ、是れなり。其の殻、堅硬にして、打ち破(やぶ)るときは、鐵のごとく、光り、あり。裏靣(うらめん)は、栗殻色(くりゐいろ)にして、滑澤(かつたく)なり。殻の内は、空(むな)しくして、粉(こな)あり。黑褐色なる者、多し。又、黃褐色なる者もあり。全(まつた)き者を用ゐて、一孔(いつこう)を穿(うが)ち、粉を去りて、小なる者は、硯滴(みづいれ)となし、大なる者は花瓶(はないけ)とす。凡そ、「禹餘粮」・「太一餘粮」、倶に、初めは、内に水あり。後(のち)、乾きて、粉となり。久(ひさし)きを經て、石となる。其の桃・栗の大きさにして、内に石ある者、此れを撼(ふる)はせば、聲(こゑ)ありて、鈴のごとし。故に「スヾイシ」と云ふ。「太一餘粮」は、泉州・紀州・讃州・和州・城州・木津邊(あたり)の山にあり、其の中(うち)、和州生駒山に最も多し。名産なり。〔集解〕「卵石黃(らんせきわう)」は「饅頭いし」・「だんご石」・「だんごいは」【土州。】・「つちだんご」。形、圓(まどか)にして、大抵、大いさ、五、六分より、一寸許りに至る。又、長き者もあり。外(そと)は黃白色にして、細土(さいど)を、かためたるがごとく、柔(やはら)かにして、碎(くだ)け易し。中心に黑紫色の餡(あん)ありて、饅頭を破りたる狀(かたち)のごとし。豐前・中津・房州・冰上(ひかみ)郡・防州・奥州・津輕・伯州・能州・甲州荒井村・武州、其の外、諸州に産す。

石中黃子(せいちゆうわうし)【寇宗奭(こうそうせき)曰はく、『子は、當(まさ)に「水」に作るべし。』と。】

 凡そ、「禹餘粮」及び「太一餘粮」、初めは、中(なか)に水あり。久しくして、乾きて、粉となり、其の後、又、石となる。此の「石中黃子」は其の初めの「黃水(わうすい)」を云ふ。時珍の說に詳かなり。

[やぶちゃん注:「冰上(ひかみ)郡」は兵庫県にあった旧郡名。現在の丹波市に相当する。

「甲州荒井村」不詳。

「寇宗奭」宋代の本草学者。彼の著になる「本草衍義」は本草書の名著の一つとされ(一一一九年頃成立)、李時珍は「本草綱目」で、しばしば当該書を引いている。]

「新說百物語」巻之一 「修驗者妙定あやしき庵に出づる事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。本話には挿絵はない。]

  修驗者(しゆげんしや)妙定(めうぢやう)あやしき庵(あん)に出づる事

 越後のかたへ、下《くだ》りける、妙定といふ山伏、あり。

 諸方の霊場・霊社、殘りなく拜みめぐりけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、越後の國にいたりて、ある日、宿をかりそこなひ、ある寺にいたりて、一夜の宿をたのみにけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、その夜、其寺に法事ありて、僧のとまり人、多く、

「上の山、ちいさき庵に、一宿し給へ。」

とて、夜食など、あたへて、寺よりは壱町[やぶちゃん注:百九メートル。]ほども上の、ちいさき庵に、とまらせける。

 山伏も、旅のつかれにて、宵のほと[やぶちゃん注:ママ。] は、よく寐(ね)いりて、八つ時《どき》[やぶちゃん注:午前二時。丑満ツ時。]と、おもふころに、雨、一通り、

「さつ」

と、ふりて、風、すさましく[やぶちゃん注:ママ。] 、身も、毛も、よたつばかりなるに、ふと、あをむきたれは[やぶちゃん注:総てママ。]、庵の棟木(むなき[やぶちゃん注:ママ。])の上より、

「そろそろ」

這(はひ)下《くだ》りるもの、あり。

 有明の火にて、すかし見れは[やぶちゃん注:ママ。] 、およそ、二十四、五歲の出家、瘦(やせ)おとろへてさ、かやき、長く、しろき小袖を着て、首に、繩の五尺はかり[やぶちゃん注:ママ。] なるを、まとひ、口より、

「たらたら」

と、血をながし、山伏の寢たりけるあたりを、はい[やぶちゃん注:ママ。]まはりける。

 その顏の、おそろしさ、いはんかたなし。

 何の仕方《しかた》もなけれは[やぶちゃん注:ママ。] 、唯、口のうちにて、不動明王の眞言を、となへて、夜着(よぎ)うちかふりて居たりけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、雨風も、やみて、そつと、かほ、さし出《いだ》して、みれは[やぶちゃん注:ママ。] 、最早、何のかたちも、見へ[やぶちゃん注:ママ。]さり[やぶちゃん注:ママ。] ける。

 夜も、明けかたになりけれは[やぶちゃん注:ママ。] 、寺にいたり、いとまこひも、そこそこにして、足はやに、其所《そこ》を通りけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「其時の㒵《かほ》のさま、今、おもひ出しても、身の毛もよたつはかり[やぶちゃん注:ママ。] なり。」

と、語りけるよし。

[やぶちゃん注:コーダから、作者が直接に聴いたのではなく、「また聞き」である点、所謂、典型的な「噂話怪談」であり、信憑性は低い。]

「新說百物語」巻之一 「但刕の僧あやしき人にあふ事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ

 挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正して使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   但刕《たんしう》の僧あやしき人にあふ事

  但刕の山よせに、何寺とかやいふ寺に、道幸といふ、四十はかり[やぶちゃん注:ママ。]の僧あり。

[やぶちゃん注:「但刕」但馬国。現在の兵庫県北部。]

 その寺のうしろの山は、むかしより、

「魔所(ましよ)。」

と、いふて、人々、おそる所にてありけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]

「おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]山ぶしにあひたる。」

の、又は、

「高入道(たかにうどう[やぶちゃん注:ママ。])が、見たる。」

とて、たしかに見きはめたる事はなけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、その奧山へは、ゆく人、なし。

[やぶちゃん注:「高入道」妖怪「見越し入道」のこと。当該ウィキを見られたい。私は前の大山伏も含めてブロッケン現象の誤認と断ずるものである。]

 道幸が云ふ。

「化物(はけ《もの》[やぶちゃん注:ママ。])も、魔障(ましやう)も、人にこそ、よれ。我、ゆきて、見ん。」

とて、ある日、彼《かの》山のおくに、いたりて、とある岩根に、腰、打《うち》かけ、たはこ[やぶちゃん注:ママ。] など、のみて居《ゐ》たりけるに、何のさはる事もなく、ありけれは[やぶちゃん注:ママ。]

「されは[やぶちゃん注:ママ。]、化物も、人にこそ、よれ。」

と、つふやきて[やぶちゃん注:ママ。] 、木の皮を、けづり、しるしをして、歸らむとするに、俄(にわか)に、嵐(あらし)、

「さつ」

と、吹き來たりて、さも、すさましく[やぶちゃん注:ママ。] 、空、かきくもり、いつとなく、

「とうとう」

と、なりて[やぶちゃん注:「鳴りて」ととっておく。何の音かは、不明。]、おそろしき事、いはんかたなし。

 されとも、道幸は、少しもさはかす[やぶちゃん注:ママ。] 、ゆうゆうと、下山したりけるか[やぶちゃん注:ママ。]

『山も、半(なかば)。』

と、おもふ頃、しはかれたる聲にて、

「此度《このたび》は、ゆるすとも、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])に、命(いのち)は、あるし[やぶちゃん注:ママ。] 。」

と、いひけるにそ[やぶちゃん注:ママ。]

 さしもの道幸、

「ぞつ」

として、足はやに、寺へ、かへりぬ。

 

Tansyuunosouayasikihitoniahukoto

 

[やぶちゃん注:右幅に寝ているのが主人公の僧。夢の内容を描いた左幅から流れる雲形の上に描かれているのは、七名の供奉する者を従えた貴人(鬼神)の乗った、馬が引く車である。左下方に記されたキャプションは、『けふより』『いのちを』『ちゞ』『むる』『そ』とある。] 

 其後《そののち》、四、五日も過《すぎ》て、道幸、夢に見けるは、その長(た)壱寸はかり[やぶちゃん注:ママ。]の、衣冠正しき人、輿車(こしくるま)に乘り、其外、供まはり、美々(ひゝ[やぶちゃん注:ママ。])しくして、枕もとに、來たり、

「我は、此山のうしろに住むものなり。先日は、おもひよらす[やぶちゃん注:ママ。] 、登山(とうさん)いたされけれとも[やぶちゃん注:ママ。] 、何の風情《ふぜい》も、なし。そのかはりに、今日より、其方の命を、毎日、毎日、ちゞむるなり。其ため、我等、來たりたり。明夜《みやうや》よりは、下官(げくわん)ども、かはるかはる[やぶちゃん注:ママ。底本は後半踊り字「〱」。]、來《きた》るへし[やぶちゃん注:ママ。] 。先《まづ》、今夜より、命を、ちゝめよ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、下役(したやく)と見へし、一寸はかり[やぶちゃん注:ママ。] の男、ちいさき鍬(くは)と、鋤(すき)とを持ちて、二人、耳の穴より、はいり、しばらくして、何やらむ、しろきあふら[やぶちゃん注:ママ。脂(あぶら)。] のやうなるものを、指さきほど、持出《もちいで》たり。

 それより、毎夜(まいや)、毎夜、かくのごとくするほどに、此僧、段々と、瘦せおとろへ、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、二月(ふたつき)ばかりして、死にたり。

「是は、元文の頃にて、まさしく見たり。」

と、人の申しける。

[やぶちゃん注:「元文」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。本書は明和四(一七六七)年の春に板行であるから、近過去の話柄である。]

「新說百物語」巻之一 「津田何某眞珠を得し事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ。本話には挿絵はない。]

 

  津田何某眞珠を得し事

 京、蛸藥師通《たこやくしどほり》に、中頃、津田何かし[やぶちゃん注:ママ。]といふあり。

[やぶちゃん注:「蛸藥師通」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中頃」そう遠くない昔。]

 是は、やんことなき人の孫にて侍りしか[やぶちゃん注:ママ。「しが」。]、量目《りやうもく》、四、五分《ぶ》[やぶちゃん注:約一・五~一・九グラム弱。]つゝ[やぶちゃん注:ママ。]の眞珠を、七粒、所持いたされけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、津田氏、つねに、人にかたりて云ふ、

「我等、七歲の時、常に膳(ぜん)にすはりけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、齒にあたるもの、あり。よくよく、みれは[やぶちゃん注:ママ。]、眞珠なり。

『貝のたぐひも喰(く)ひ侍らさる[やぶちゃん注:ママ。] に、ふしき[やぶちゃん注:ママ。] なる事かな。』

と、子供心におもひて、何心なく箱の中に、おさめ[やぶちゃん注:ママ。]置きぬ。

 其後《そののち》、田舍より、京に移りて、十五歲の春、またまた、飯(いひ)の中に、眞珠、一粒、あり。よくよく、おもひ出せは[やぶちゃん注:ママ。] 、九年以前と、同月同日なり。それより、成長にしたかひ[やぶちゃん注:ママ。] 、方々《はうばう》と、旅もいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、六十歲の時まて[やぶちゃん注:ママ。] 、飯の中にて、眞珠を得ること、七粒なり。近所の老婆なと[やぶちゃん注:ママ。] は、

「舍利(しやり)ならん。」

とて、おがみける、よし。

 吟味をとぐれは[やぶちゃん注:ママ。]、宝貝《たからがひ》の珠(たま)にて、まがひもなき、眞珠なり。

 老後(らうご)、勢州へ隱居いたされけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、今、その子、所持いたさるゝや、知らす[やぶちゃん注:ママ。]

[やぶちゃん注:これも、前話同様、創作怪談ではなく、著者の知人である津田氏から直(じか)に聴き、現物をも見て検証した、市井の奇談である。

「宝貝の珠(たま)」この「宝貝」は現在の種群としてのタカラガイ塁ではなく、生きた貝類の体内に入った異物により発生する粒状・石状の体内奇形物の中で、光沢を持った真珠層らしきものを表面に持つものである。私は光沢のない白い粒状のそれならば、ハマグリ・マガキ・ホタテを食している時に噛み当てたことが、四度あり(現在もそれらは所持している)、アワビの殻の内側に光沢質を持った小指の頭ほどの球状物質も見つけたことがあるから(これは、連れ合いと訪れた伊豆の温泉旅館の膳でのことで、うっかりして持ち帰らず、所持していない)、それほど珍しいものではない。但し、この話、孰れも時も、貝類を食していないのに、食事の中に見出だしているようにあるのは、奇異で、しかも初回と二回目は同月同日というのは、頗る怪しい出来事である。というより、この二回は、家内の親族或いは下男下女が入れ込んだものと推定される。一種の縁起物としてか、或いは、他愛のない悪戯であろう。三度目以降は、同月同日とは言っていないし、旅先などでの体験らしいから、私の以上の五回の経験からも(私は現在六十六歳である)、全く以って、異様なことではない。]

「新說百物語」巻之一 「甲刕郡内ほのをとなりし女の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。本話には挿絵はない。]

 

     甲刕(かうしう)郡内(ぐんない)ほのをとなりし女の事

 黑沢氏のかたられしは、甲刕郡内といふ所に、老人夫婦、下女壱人《ひとり》つかふて、くらすものあり。

 ある時、近所に佛事ありて、二人とも參り、下女壱人を、留主にをきて、出行《いでゆ》きけり。

 初夜[やぶちゃん注:午後八時頃。]もすぎ、四つまへ[やぶちゃん注:午後十時よりも前。]にもならんと、おもふ頃、

「火事よ。」

と、いひ出し、人々、さはき[やぶちゃん注:ママ。] あひけるが、いつかた[やぶちゃん注:ママ。] とも見さだめす[やぶちゃん注:ママ。] 、火の光(ひかり)、あちよ、こちよと、さまよひける。

 みなみな、とはうにくれけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、その火の所へ、いたりて、よくよく、見れは[やぶちゃん注:ママ。] 、火の高さ、およそ小家一軒はかり[やぶちゃん注:ママ。]燒けるほどにて、西、東、北よ、南と、あるきけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、其中に、女の、髮をさばきたるかたちありて、

「はあ、はあ、」

と、いふて、走りありくにて、ありける。

 しはらく[やぶちゃん注:ママ。] ありて、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]ふして、死したり。

 跡にて、よくよく、みれは[やぶちゃん注:ママ。] 、彼《かの》二人のもの、留主《るす》にをきたる、下女なり。

 何のゆへも、しれす[やぶちゃん注:ママ。]

 そのまゝ、親本(おやもと)へ、死がいを送り、ほふむりけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「前代未聞の事なり。」

と、人々、申しけるよし。

 まさしく、黑澤氏、

「見たる。」

との、物かたりなり。

[やぶちゃん注:「甲刕郡内」現在でも山梨県都留郡一帯を指す地域呼称。当該地方は当該ウィキの地図を見られたい。

「黑澤氏」著者高古堂小幡宗左衛門の知人であろう。されば、これは創作ではなく、実話であり、冒頭注で述べた噂話・都市伝説の類いであることが判る。ちょっと他に類話を見ない意味不明のホラーとして興味深い。]

「新說百物語」巻之一 「丸屋何某化物に逢ふ事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。本話には挿絵はない。]

 

     丸屋何某(なにかし[やぶちゃん注:ママ。] )化物(ばけもの)に逢ふ事

 

 近き比《ころ》の事なりしか[やぶちゃん注:ママ。] 、三条《さんでう》の西に、丸屋何某といふ、藥をあきなふ人、ありしか[やぶちゃん注:ママ。] 、ある時、仲間(なかま)の「より合《あひ》」にて、東山邊にゆき、河原にて、酒なと[やぶちゃん注:ママ。] 、のみて、夜ふけて、壱人《ひとり》、四条《しでう》を、にしへ、かへりけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、川原にて、下《した》のかたを見れは[やぶちゃん注:ママ。] 、うす月夜に、乞食(こつじき)とも見えす[やぶちゃん注:ママ。] 、うごめくもの、あり。

 さけのきけん[やぶちゃん注:ママ。] にて、そは[やぶちゃん注:ママ。] に立ちより、とくと見けれは[やぶちゃん注:ママ。] 、人のかたちにてはありなから[やぶちゃん注:ママ。] 、顏とおほしき[やぶちゃん注:ママ。] 所に、目・口・鼻・耳も、なく、朝瓜(あさうり)のおゝきさ[やぶちゃん注:ママ。]なるかしらにて、ものをも、いはす[やぶちゃん注:ママ。] 、はひまはりける。

[やぶちゃん注:「朝瓜」ウリ目ウリ科キュウリ属メロン変種シロウリ Cucumis melo var. utilissimus の異名。「白瓜」の他、「越瓜」とも書く。当該ウィキによれば、『呼称は、完熟すると』、『皮の色が白っぽくなることにちなむ。身が緻密で味が淡白であるため、奈良漬けなどの漬物での利用が適している。種を抜いて』、『螺旋状に切り塩をして干したものは』、『雷干し』や『雷乾し』(孰れも「かみなりぼし」と読む)『と呼ばれ』、『夏の風物詩であった』とある。]

 そのとき、はじめて、

「ぞつ」

と、こはげたち[やぶちゃん注:「怖氣立ち」であろう。]、あしはや[やぶちゃん注:ママ。]に歸りけるが、夜あけて、友だちなと[やぶちゃん注:ママ。] にかたるに、それは、或(ある)人の、いひける、

「『ぬつぺりほう』といふ化物。」

の、よし。

 其後《そののち》、また、彼(かの)丸屋なにかし[やぶちゃん注:ママ。]、黑谷《くろだに》へ、あきなひにゆきて、おそくなり、初夜[やぶちゃん注:午後八時頃。]のころ、二条河原《にでうがはら》を通りけるか[やぶちゃん注:ママ。] 、先達(さきたつ)ての事を、おもひ出し、小氣味(こきみ)あしく、通りけるに、河原の中程に、かの物、また、うごめきて居《ゐ》たり。足はやに通りけるに、

「するする」

と、這來(はいきた[やぶちゃん注:ママ。])たりて、裾(すそ)に、とりつきたり。

「こは、叶《かな》はじ。」

と、ふり切りて、一さんに、我が宿に歸りて、はしめて[やぶちゃん注:ママ。] 、正氣になり、我《わが》きるものゝ裾を見れは[やぶちゃん注:ママ。] 、ことのほか、ふとき毛、十筋(とすじ[やぶちゃん注:ママ。])ばかり、ありけり。なにの毛といふことを、見しる人、なかりける。

[やぶちゃん注:「ぬつぺりほう」言わずもがな、「のっぺらぼう」のこと。当該ウィキをリンクさせておく。私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』、及び、より本文・注をブラッシュ・アップした『小泉八雲 貉 (戸川明三訳) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)』もお薦めである。]

「新說百物語」巻之一 「狐鼡の毒にあたりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。本話には挿絵はない。]

 

   狐(きつね)鼡(ねずみ)の毒にあたりし事

 

 九条あたりの村に、九郞右衞門といふ百姓あり。

 毎日、京へ小便(せうべん)を取りに出《いで》けるか[やぶちゃん注:ママ。] 、久々、得意のかたへ來たらず。

「いかゝ[やぶちゃん注:ママ。] いたし侍るや。」

と、うはさなどして居けるが、三月ほどすぎて、まへのごとく、小便とりに來りける。

 あるじのいはく、

「久しく見へざりしが、病氣にても、おこりしにや。いまた[やぶちゃん注:ママ。] 、色もあしく、おも、やせたる。」

と、尋ねたりけれは[やぶちゃん注:ママ。] 、九郞右衞門、語りていはく、

「それにつき、ふしき[やぶちゃん注:ママ。] なるはなし、御座候。御聞き下さるへし[やぶちゃん注:ママ。] 。ある時、あまり、家内、鼡のあれけるを、氣の毒におもひ、京の町を賣《うり》ありく「鼡取藥(ねつみ[やぶちゃん注:ママ。] とり《ぐすり》」といふものを、とゝのへ、飯(いひ)の中(なか)にいれ、棚にあけ[やぶちゃん注:ママ。] をきたり。あくる日、鼡、五疋、その飯の側(そば)に死して居たり。何の氣もつかす[やぶちゃん注:ママ。] 、裏の藪へ捨てたりける。又、年頃、其うらに、穴をほりて住む狐あり。その子きつね、五疋、その鼡を一疋つゝ[やぶちゃん注:ママ。]喰ひて、是れも、毒にあたりて、五疋なから[やぶちゃん注:ママ。] 、死したり。

『不便の事。』

と思ひけれとも[やぶちゃん注:ママ。] 、すべきやうなく、打ちすき[やぶちゃん注:ママ。] たり。二、三日過《すぎ》て、ひとりの三歲になる「九郞一《くらういち》」といふ子、ゆきかた、なし。近所のものも、やとひて、方々、たづぬれども、行きかたなく、そのあくる日、背戶(せど)の井筒(ゐづゝ)の側に、死して居たりける。九郞右衞門夫婦のもの[やぶちゃん注:九郎衛門の直接話法であるのだから、こういう言い方は、やや違和感がある。]、なげき、腹を立て、彼の狐の穴のはたにゆき、なくなく、くどきけるは、

『鼡を取りて、何心《なにごころ》なく藪へ捨てしに、汝が子とも[やぶちゃん注:ママ。] 、毒としらて[やぶちゃん注:ママ。] 、喰ひけるは、此方《このはう》の、たくみて仕(し)たる事にてもなく、又、年月(としつき)、夫婦のものは、あきたらぬ日も、けだいなく、食事をくはせし事、何年そや[やぶちゃん注:ママ。] 。それにいかに畜類(ちくるい[やぶちゃん注:ママ。])なれは[やぶちゃん注:ママ。]とて、了簡もなく、我《わが》ひとり子《ご》をころす事、餘りの事なり。子の不便(ふびん)なるは、いつれも[やぶちゃん注:ママ。] 、おなじことなるに。』

と、かきくどきて、わめき、かなしみ、夜にいりて、夫婦ともに、ふせりける。其朝(《その》あさ)、いつものことく[やぶちゃん注:ママ。] 、とくより、おき出《いで》て、背戶口(せと《ぐち》)の井に、悬(かゝ)[やぶちゃん注:「懸」の異体字。]りて、水を汲(く)まんと、つるべを、あぐれども、おもくて、あがらす[やぶちゃん注:ママ。] 。立ちよりて、よくよくみれば、親の狐、弐疋、井戶へ、身をなげて、死したり。五日のうちに、狐七疋、鼡五疋、我《わが》子ひとり、十三の命(いのち)をとりけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、其日、すぐに、『出家に、ならん。』と、なせしを、近所の衆に、とゝめ[やぶちゃん注:ママ。]られ、思ひとまりけれとも[やぶちゃん注:ママ。] 、こゝち、すぐれず、ようよう、今日、はしめて[やぶちゃん注:ママ。] 、此所まて[やぶちゃん注:ママ。] 、來たりける。」

と、かたりし。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇二番 鰻の旅僧(二話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一〇二番 鰻の旅僧 (其の一)

 

 昔、瀧澤と鵜飼との境に、底知れぬといわれた古沼があつた。或時この沼の近所の若者達が七八人でカラカを作つて、一生懸命に臼で搗いて居ると、其所へ何處からか一人の汚い旅僧《たびそう》が來て、その木ノ皮の粉は何にするもんだと訊いた。若者達はこれは細谷地の沼へ持つて行つて、打ツて見る算段だが、さうしたら鯉だの鮒だの鰻だのが、なんぼう大漁だか、お前達にも見せてやりたいほどだと言つた。すると其お坊樣は悲しさうな顏をして、さうか、だが其粉を揉《も》まれたら、沼の中の魚は大きいのも小さいのも有るも無いも皆死ぬべが、親魚だらともかく一寸下《いつすんした》の小魚などでは膳の物にもなるまいし、又、生物《いきもの》の命を取ると云ふことは、なんぼ罪深いことだか知れないから、早く思ひ止《とど》まりませと言つて賴んだ。

 すると若者達は口を揃へて、何この乞食坊主が小言《こごと》をぬかせや、今日は盆の十三日だ、赤飯をケルから、それでも喰らつて、早くさつさと影の明るい中《うち》に何所さでも行きやがれ。そして同じクタバル(死ぬ)なら俺が領分でおんのめるな。後片付《あとかたづ》けに迷惑するからと云つた。すると旅僧も何も云はずにその小豆飯《あづきめし》を貰つて食つて、其所を立ち去つた。

 翌日若者達は、沼へ行つてカラカを揉んだ。するとあてにして居たやうに、しこたまの大漁であつた。泥を搔き分けて行くと、最後にひどく大きな鰻を捕つた。體が胡麻《ごま》ぽろで、まわりが一尺長さが六尺もあつた。あんまり珍らしいものだから仲間して人數割に、ズブギリ(輪切り)にして分配することにした。そして腹を割つて見ると中から赤飯が出た。そこで初めて昨日の旅僧が此沼の主であつたことが分つた。

(岩手郡瀧澤村瀧澤、細谷地の沼。カラカとは山村でよくやる山椒の木の皮を天日に干して、細かに切り、臼で搗いて粉にし、それに灰を交ぜて、川沼で揉み魚を捕るもの、地方によつてはナメとも云ふ。昭和二年十月十六日、大坊直治翁來翰其の三。)

[やぶちゃん注:附記は全部引き上げて同ポイントで示した。さても、これは一読、

「想山著聞奇集 卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」

と同源の話で、そのさらに原拠である、

「老媼茶話巻之弐 只見川毒流」

も既に電子化注している。而して、この原拠「老媼茶話」(三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ)は本話の直接の原話の有力な一つと考えてよいであろう。その板行は寛保二(一七四二)年(吉宗の治世)である。また、類話として江戸をロケ地とした、

「耳嚢 巻之八 鱣魚の怪の事」

もあるので、読まれたい。なお、「毒揉み」もそれらで注してあるので、そちらを見られたい。無論、現在は禁じられている漁法である。

「岩手郡瀧澤村瀧澤、細谷地の沼」岩手県滝沢市鵜飼細谷地(うかいほそやち)のこの中央に池沼が確認出来る(グーグル・マップ・データ航空写真)が、ここかどうかは、判らない。]

 

     (其の二)

 この鰻の旅僧の話は他にもあつた。和賀郡黑澤尻驛《くろさはじりえき》近くに見える和野と云ふ所の田圃の中に、こんもりとした森がある。これを浮島と云ふのである。

[やぶちゃん注:「和賀郡黑澤尻驛」現在の北上駅の旧称。明治二三(一八九〇)年十一月一日に日本鉄道の黒沢尻駅として開業、北上駅に改称したのは敗戦後の昭和二九(一九五四)年十一月十日。

「和野」「浮島」調べたところ、広報誌かと思われる『きたかみ』第四百四十号の抜粋(PDF)で、「北上の清水を歩く」という特集記事が読め(ダウン・ロード可能)、その「すずにまつわる伝説・伝承」(当地には約二百カ所もの清水が湧き、それを「すず」と呼称する)のパートに、『帰帆場(きはんじょう)公園(幸町)の南約70㍍から80㍍の所に「和野浮島」があります。豊富なわき水に恵まれていた和野は、江戸時代からセリ栽培が盛んな場所でした。その和野には、次のような伝説が伝えられています。』として、以下のようにあった。

   《引用開始》

  『和野の浮島伝説』

 和野には、源義経が東下りする際の側近、片岡八郎経春が逃げ隠れ、館を建てて住んだ田中浮島屋敷があった。ある年のお盆のくだんの日、旅から旅へと仏を拝んでまわって歩く六部(ろくぶ)が田中浮島の家に来て、家の中に入って仏様を拝んだ後、主人に何か食べ物を報謝してくれと頼んだ。主人が炊きたての赤飯を差し上げると六部はおいしそうに何杯もお代わりをし、あっという間におひつ一つをたいらげてしまった。六部は主人に向かってお礼し、「今、この家に来るときにお宅の若者たちが大きなウナギをつかまえて料理しようとしていました。もしあのウナギを殺すような事があれば、この家も日ならずして滅びてしまうでしょう。早く行って止めさせなさい」と言うやいなやその家を立ち去った。主人は急いで向かったが、ウナギはすでに若者に殺され、腹からは六部に食べさせた赤飯が出てきた。それから後、ウナギの供養をし神仏の加護を祈ったが、災難に見舞われ、屋敷も見る影もなくなってしまった。

 今も片岡一族の末孫は正月と盆の16日はウナギはもちろん、酒ともちを口にしない家が多いといわれる。

     (「北上の清水物語」より)

   《引用終了》

現在は岩手県北上市幸町の町内で、北上川右岸の住宅地の一画の少し盛り上がった木草の茂った空き地であるが、ストリートビューで発見した(「ひなたGPS」で戦前の地図を見たが、残念ながら既に市街化していた。現行、既に「森」ではない)。グーグル・マップ・データのこの中央のT字路の辻の西北寄りに、同前の画像で「和野浮島」とある指示板を確認出来る。

   *

以上の記事には、その指示板のある場所の写真も載り、そのキャプションとして、『和野の浮島。昔、北上川が洪水をおこしても、この場所だけは沈まずに浮いていたことから名付けられたという』とある。]

 昔この和野に長者があつた。極めて貪慾無道な人であつて、財寶が家倉に積み餘つてゐるくせに多くの下男下女をこき使ふ事が甚しかつた。雨降りの日などにはお前達は今日は働かないから、これでいゝとて、アメた飯や腐つた魚看を食はした。

[やぶちゃん注:「アメた飯」岩手方言で、食物が完全に腐る所までいっていないが、その手前の、いたんで、粘りや臭いが出て、腐りかけている状態を指す語である。]

 然し長者は、館の前に、多くの金をかけて大きな池を造つて、その池の四季の景色を眺めて樂しんで居た。或時いつものやうに池を眺めて居ると、門前へ貧乏たらしい旅僧が訪れて來て、何か食物(タベモノ)をタモれやと乞ふた。長者はお前にはこれが恰度《ちやうど》よいと云つて、猫の食ひ殘しの汚飯《おはん》を投げ與へた。

 然しその旅僧は、そんな汚い飯をさも甘(ウマ)さうに食べ了《を》へてから、さてさて長者殿の家もあと一年の運だなアと嘆いて、すごすごとそこを立ち去つた。

 果して一年經つと、門前の池の水が涸れて一滴も無くなつた。その時不思議にも口中に飯粒を一杯入れた大きな鰻魚《うなぎ》が死んでゐた。それからと云ふものは長者の家は災難續きで、段々と貧乏になり、遂に跡形なく滅びてしまつた。

 今ある浮島の森は、その池の中にあつたものだと謂はれてゐる。

  (村田幸之助氏の御報告の分。黑澤尻中學の二年生、
   高橋定吉氏の筆記摘要。)

 

2023/06/02

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇一番 鰻男

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一〇一番 鰻  男

 

 或時、雫石村の或所に美しい娘があつた。齡頃(トシゴロ)になると、每夜何處からか一人の男が娘のもとへ通つて來た。娘も不審に思つて、お前は何處の何と云ふ人だごやと訊いても、物も言はなかつた。親達もそのことを不思議に思つてゐた。

 或夜親達は家の軒下で何か囁く聲がするので、そつと近寄つて聽耳を立てゝゐると、その聲が、己(オレ)も永年の間、心がけて居た望みがかなつて人間の胎内に子種を下《くだ》したと言つた。すると又別の聲がして、それはよかつた。けれども若《も》しお前の素性が知れたら墮胎(オロ)してしまうべかもわからないと言ふと、いや大丈夫だ、誰にそれが分るものかといふ、いやいや人間と謂ふものは智慧のあるもんだから五月節句の五色(イツイロ)の藥草を煎じて飮まれたら、腹の中の子供は自然に水になる、それが至極なさけないと言つた。兩親はその話聲をはツきりと聽いた。そして驚いて娘にそれらの藥草を煎じて飮ませた。そのおかげで娘は何事もなかつた。

 夜々娘のもとに通うて來た男は、近くの沼に棲む古鰻であつた。後で見れば戶の棧に鰻の脂肪(アブラ)がついてゐた。

  (此話は岩手郡雫石村のヌマガエシと云ふ所の
   出來事の樣に聽いた。昔此邊に沼があつたと
   謂ふ。尙此話には縫針のミズもなく、又鰻男
   が死んだとも話されてゐない。昭和二年十月
   十六日同村の大坊直治翁の御報告の二。)

[やぶちゃん注:「岩手郡雫石村のヌマガエシと云ふ所」現在の岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)沼返(ぬまがえし:グーグル・マップ・データ)。小岩井農場の入り口にごく近い。拡大すると、小さな池沼が見える。その大きい方の近くに広がるメガ・ソーラ・パネル地区も何だか怪しい感じはする。ただ、「ひなたGPS」の戦前の地図でも、変わらない感じなので、例えば、広い沼があったとしても、近世以前であったようだ。

「縫針のミズ」正体を調べるための仕掛けである。何度か出ているが、初回の「五四番 蛇の聟」を参照されたい。]

畔田翠山「水族志」 チダヒ (仮比定:チダイ)

(二九)

チダヒ【同名アリ棘鬣ノ一種ワモチダヒト云】 セウゼウ【紀州在田郡湯淺】

形狀黃穡魚ニ似テ窄長ニ乄身薄シ頭亦窄ク口小也背紅色腹淡紅色

黃色ヲ帶背腹ノ間黃色深シ腹下翅黃色ニ乄上ノ方半赤シ背鬣上ハ

紅色黃ヲ帶下ハ黃色ニ乄本紅色腰下鰭本紅色ニ乄腰下鰭本紅色ニ

乄末淡紅色尾本赤色ニ乄端黃也鱗細也閩中海錯疏曰黃參鱗細黃赤

色黃閩書曰又有黃彡似鯧差長鱗細黃赤色

○やぶちゃんの書き下し文

ちだひ【同名あり。棘鬣(まだひ)の一種、「わもちだひ」と云ふ。】 「せうぜう」【紀州在田(ありだ)郡湯淺。】

形狀、「黃穡魚(わうしよくぎよ)」に似て、窄(すぼ)く、長(ちやう)にして、身、薄し。頭も亦、窄く、口、小なり。背、紅色。腹、淡紅色、黃色を帶ぶ。背と腹の間、黃色、深し。腹下翅(はらしたびれ)、黃色にして、上の方、半ば赤し。背鬣の上は紅色、黃を帶ぶ。下は黃色にして、本(もと)、紅色。腰下鰭(こししたびれ)、本、紅色にして、腰下鰭の本は紅色にして、末は淡紅色。尾、本、赤色にして、端(はし)、黃なり。鱗、細(こま)かなり。「閩中海錯疏」に曰はく、『黃參(わうさん)は、鱗、細かく、黃赤。色、黃なり。』「閩書」に曰はく、『又、「黃彡(わうさん)」、有り。「鯧(しやう)」に似て、差(やや)長し。鱗、細く、黃赤色。』と。

[やぶちゃん注:一応、スズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科チダイ属チダイ Evynnis tumifrons に比定しておく。畔田がマダイの一種と言っている通り、マダイに似ているが、マダイのように大きくはならず、体長四十五センチメートルで重さ一キログラムがせいぜいである。腮蓋(えらぶた)の後端が有意に赤く、血が滲んだように見える濃赤色を呈することから「血鯛」だとする説がかなり知れ渡っている(これを定説とする記載もあるが、異説もある)。しかし、肝心の決定的な、その腮蓋後ろの「血色の筋」が記されていないのが不審である。或いは、畔田は現地で新鮮な個体を見たのではなく、持ち込まれたものを見て、その特有の血のような筋を、採られた際の出血と誤認し、記さなかった可能性を考えることは出来るように思われるが、ここは一応、「仮比定」ということにした。

『同名あり。棘鬣の一種、「わもちだひ」と云ふ』という割注は、よく意味がとれない。これは――「ちだひ」と呼ぶ同名異種が、また、別に存在し、それも、「ちだひ」と同じくマダイの一種であって、その同名異種の方は別に「わもちだひ」という――の意でとるしかないと私は思うのだが、如何せん、「わもちだひ」の名が現在に残っていないので、どうしようもない。

「せうぜう」体色が全体に赤いことから、「猩々(しやうじやう)」の訛ったもののように感じられる。

「在田郡」近代以降は「有田(ありだ)郡」であるが、江戸時代まではこうも表記した。

「湯淺」現在の和歌山県有田郡湯浅町(ゆあさちょう:グーグル・マップ・データ)。

「黃穡魚」現代仮名遣の音なら「オウショクギョ」であるが、どうも不審である。何故なら「穡」は「農作物を収穫する・農業」や「惜しむ・物惜しみする」「吝嗇(けち)」の謂いでどうも意味としてピンとこないからで(敢えてコジつけるなら、鼻っ柱のやけに高いのが、吝嗇な珍言の面(つら)に見えるという比喩的な謂いなのかも知れない)、私は実は、ずっと以前から、この「穡」は「檣」(ショク:ほばしら)の誤字で、幾つかの異なった魚種に見られる、鼻筋が唇の上から、すぐに鈍角となって屹立しているさまを喩えている漢語ではあるまいか? と疑ってきた経緯があるのである。確かに、本邦に出回っている国内の本草書では、畔田が記すように、「閩書南產志」からの引用としてからが、「黃穡魚」とあるのだ。和刻の「閩書南產志」でもそうである(一例を挙げると、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある, 寛延四(一七五一)年の訓点附き和刻本のここを見られたい)。例えば、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「黄穡魚(はなをれだひ)」が、やはりそれなのだ(リンク先は私の電子テクスト)。「閩書南產志」の中国の原本の画像を見ることが出来ないので、未だに私のこの疑問と疑惑を解くすべがないのである。しかし、今回、中文「維基文庫」の電子化された「閩中海錯疏」の当該部(「鏡魚 圓眼」の項の三行目)を見たところ、表記が出来ない旨の注があった。「檣」なら、使えないはずがない。ということは、少なくとも――「閩中海錯疏」の方の原本のそれは「穡」である可能性が高い――ようにも思われた。さて、「閩中海錯疏」は、明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書で、一五九六年成立である。さても、こちらは、本邦の「漢籍リポジトリ」でも分割で全文が電子化されており、当該の「中卷」こで視認出来るのだが、[002-8b]の箇所に「鏡魚  圓眼」とあって、「黄彡」の後に「黄□」で、やはり電子化が出来ていないのであった。そこで――その影印本画像を見たら(ガイド・ナンバーのリンクを押すと画像が出る)――

あった!――

★「黃𩼒」★――だった!

一つは不審が解けた!

なお、「ハナオレ」・「ハナオレダイ」の異名は、例えば、このチダイの異名でもあり、他に、キダイ(タイ科キダイ亜科キダイ属キダイ Dentex tumifrons)・アマダイ(スズキ亜目キツネアマダイ(アマダイ)科アマダイ属 Branchiostegus 。上に示した「古典総合データベース」版では、しっかり「アマタイ」とルビが振られている)等の異名でもあるのである。因みに、私の考証した『毛利梅園「梅園魚譜」 黃穡魚(ハナオレダイ)』では、図の魚に悩みに悩んだ結果、条鰭綱スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio に比定している。]

「新說百物語」電子化注始動 / 序・「巻之一 天笠へ漂着せし事」

[やぶちゃん注:明和四(一七六七)年春に京都六角通り油小路西へ入町の書林小幡宗左衛門によって板行された怪奇談集「新説百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「新說百物語」は上記「続百物語怪談集成」の太刀川清氏の「解題」によれば、刊記は冒頭に記した通りで、本篇『作者高古堂は、本書の版元小幡宗左衛門であり、明和から安永にかけて自作の小咄風の作品の他、小説など数作を残したが』、『伝は不明である』とあり、『本書は高古堂版の第一作である』とある。この作品は創作物以外に『自分の身近な』京都の『身近な珍奇話』し『まで紹介』しており、中には『恐らく作者がじかに見聞したものであろう』と思われるものが含まれていることが、一つの特徴となっている。太刀川氏は、はっきりと『現実的な話が多い』とされておられ、本書は「百物語」風怪談集ではあるが、板行された当代の「噂話」、今で言う「都市伝説」(urban legend)の体(てい)を成す話柄が含まれているのである。

 字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。書名は底本の題箋に従った。本文では「說」は「説」にも見えるが、これは「說」で統一した。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正及び合成(総てが二幅ワン・セットで繋がっているため、なるべく中央を寄せる必要があるため)して使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 底本には目録がないが、総ての電子化が終わった後に、「続百物語怪談集成」にあるものを参考にして、附すこととする。

 「序」は底本では、ここから(画像にダブりがあり、この前にも同じ画像が挿入されてしまっている)、「天笠へ漂着せし事」は、ここからである。]

 

新說百物語 一

 

  

 先に、百物語、數多《あまた》あり、雨夜《あまよ》の伽《とぎ》ともなり、兒孫《じそん》の「めさまし草《ぐさ》」とも、なりぬ。又、こゝに、一書、有り。妖怪のみにも、かぎらず、佛神の靈驗まて[やぶちゃん注:ママ。「まで」。]も、殘さす[やぶちゃん注:ママ。「殘さず」。]、まのあたり、人のかたりしを、書《かき》とゝめて[やぶちゃん注:ママ。「書(かき)とゞめて」。]、一編と、なしたり。「題せよ。」といふ。たゝ[やぶちゃん注:ママ。「たゞ」。]ありのまゝ、「新百物語」[やぶちゃん注:ママ。]と名つけ[やぶちゃん注:ママ。「名づけ」。]侍ること、しかり。

               高古堂主人

[やぶちゃん注:序文は本文の字も有意に大きいが、それは無視した。] 

 

新說百物語卷之一

   天笠(てんぢく)へ漂着(ひやうちやく)せし事

 中頃(なかころ)、京都に伊藤某(それかし[やぶちゃん注:ママ。])といふ人、あり。

 年々、安南・跤趾(かうち)のかたへ、あきなひに渡りける。その頃は、いまだ、日本も物さはがしき折(をり)なれは[やぶちゃん注:ママ。「なれば」。]、船中に、武具などを、いれ、船盜人(ふなぬすびと)の用心などして、海上を渡海いたしける。

[やぶちゃん注:「中頃」(なかごろ)は、「歴史上、あまり遠くない昔」の意。

「安南」現在のベトナムの中部地方。この地に建てられたベトナム人国家の称。唐代に「安南都護府」が置かれて以来の呼称。

「跤趾」所謂、近代の「コーチシナ」(フランス語:Cochinchine:漢名「交趾支那」の音写)のこと。元ベトナム北部に侵攻した前漢の武帝がホン川中下流域に置いた「交趾(こうし/こうち)郡」と称したものに由来する古称。]

 あるとし、又、いつものごとく、種々(しゆじゆ)の商物(あきなひもの)を、船に、つみ、彼(かの)もろこしへ、渡りけるが、船中、にはかに、風、かはり、めさす[やぶちゃん注:ママ。] も知れず、くらやみになり、一向(いつかう)、船をよすべきかたもなく、大風雨にて、

『船も、すでに、かへらん。』[やぶちゃん注:「転覆してしまいそうだ」の意。]

と見へけるゆへ、帆柱も、切(きり)たをし[やぶちゃん注:ママ。]、いかりも取られて、せんかたなく、夜となく、ひるとなく、風にまかせてゆく程に、やうやう、『五日めの朝。』と、おもふ頃、何國(いづく)ともしれぬ山際(やまぎは)に、船は、とゞまりける。

 船中に、乘人(のりて)、弐拾壱人、ありけるが、はじめて、やうやう、㒵(かほ)を見合せ、ためいきつきたるはかり[やぶちゃん注:ママ。] なり。

 此五日があいた[やぶちゃん注:ママ。]、食事もせず、湯水(ゆみづ)も、たへて吞(のま)ざりければ、先々(まづまづ)、其山の岩根に、船を、つなぎ、湯を、わかし、飯を燒(た)き、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、すこしつゝ[やぶちゃん注:ママ。]給(た)べて、中にも、新三郞、丈夫なる男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])にて、其中より、壱人《ひとり》、舩《ふね》より、あがり、山の姿、木立(こだち)など見るに、いまだ、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、見なれぬ樹木ばかりにて、今まで通ひし国々とは、一向に替(かは)りたり。

 山のいたゞきに上(のぼ)りて、山のあなたを見渡しければ、大きなる城(しろ)あり。

 其城を、余所(よそ)より、せむる躰(てい)なり。

 人柄(ひとがら)は、常に聞《きき》及びし天笠人(てんぢく《じん》)と見へたり。

 新三郞、それより、舟へ歸り、殘りし弍拾人に申すやう、

「かくのごとく吹き流され、とても日本へ歸る事は、なるまじ。いざや、何方《いづかた》の味方(みかた)なりともいたして、打勝(うちかつ)たらば、日本へ送りてもらふまじくや。」

と、相談一决して、船より、用意の具足・荷物など、取出《とりいだ》し、身をかためて、又、もとの山にいたりて、軍(いくさ)の樣(やう)を見るに、兎角、城のかた、まけいろに、見えたり。

「いづれの味方をいたして、よからん。」

と心迷ひければ、太神宮(だいじんぐう)の御はらひを出《いだ》し、御鬮(みくじ)をとりけるが、

「城の味方」

と、ありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、山を、下りに、一さんに、寄手《よせて》のかたへ、切《きり》て入《いり》、あたるを幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])に、切《きり》まくりければ、寄手、おゝきに[やぶちゃん注:ママ。]きもを、けし、その所のならひにて、いくさにも、人を切るといふ事なく、たゞ、棒にて、勝負をいたしける、よし。

 

Tenjikuhyoutyaku

 

[やぶちゃん注:底本の挿絵の画像はこちら。キャプションは、右幅の右上に、

   *

天竺

 浪人に

  して

 くりやう

   *

中央下に、

   *

ねん

 ふつは

ゑてゝ

 あろ[やぶちゃん注:意味不明。「念佛は得(え)手であらう」(念仏を唱えるのは得手であろう:天竺(インド)と勘違いしているから攻め手を仏教徒と考えたか)か。

   *

左中央から、幅にかけて、

   *

日本の

 手なみを

  見て

   おけ

   *

左幅の中央下に、

   *

なむ

 かみ

 とかふ

  とかふ[やぶちゃん注:ここは画像では踊り字「〱」。しかし、全体が意味不明。「南無神とかうとかう(兎角兎角:なんとかかんとか)」か。攻め手の現地人の語であるから日本語ではないわけで、いい加減に書いたものか。]

   *

左下方に、

   *

めれちやよ

 かびなん

  きやうきやう[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。同前。]

   *

より正しい判読が出来る方は、是非、御教授願いたい。]

 

 なにが、はげしき日本人、刄物(はもの)は、よし、こゝをせんどゝ、切《きり》たりけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、寄手、皆々、迯失《にげうせ》せける。

 城方(しろかた)の軍勢、大きに、よろこび、

「天兵(てんへい)、あまくだりたる。」

とて、先々(まつまつ[やぶちゃん注:ママ。])、城中に入れ、よろこひ[やぶちゃん注:ママ。] あふ事、かぎりなし。

 新三郞、城主に、むかひ、通伺(つうじ)をもつて、吹(ふき)ながされし樣子を、くはしく語りければ、城主、いふやうは、

「我は、是れ、南天笠(なんてんぢく)の大王なり。近年、北天笠(ほくてんぢく)と合戰(かつせん)いたし、段々、敗軍(はいぐん)にて、今日、やうやう、此《この》舍麗迦城(しやりかじやう)、一城、殘りたり。其所へ、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]來られ、命(いのち)を拾ひし。」

と、申しければ、

「さらば、迚(とても)の事に、今まで、切(きり)取られし国々を、取《とり》かへさん。」

と、毎日毎日、先手(さきて)にすゝみ、月を經て、難なく、南天笠を取りかへし、

「最早、日本へ、かへるへし[やぶちゃん注:ママ。] 。」

と、申しければ、

「段々の高恩(かうをん[やぶちゃん注:ママ。])、申しつくされず、あはれ、願はくは、此所《ここ》に、ながく、とゞまり給へ。彼(かの)舍麗迦城を、あたへん。」

と申しけれは[やぶちゃん注:ママ。] 、貳拾壱人、打談《うちだん》して、

「唯今、日本へ歸りても、乱世の事なり。さらは[やぶちゃん注:ママ。] 、此所に住居《ぢゆうきよ》せん。」

とて、新三郞を「舍麗迦王」とし、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]は、臣下となりにける。

 そのゝち、外国、通路、なりかたくて、今は、便《たより》も、なかりける。

 其時分は、故鄕へ、天笠のものなど、度々、をくり[やぶちゃん注:ママ。]けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今に故鄕の家には、種々の奇物を、たくはへある、よし。

 凡そ、此頃は、七代目くらゐなるへし。

 是は、宮城(みやぎ)氏なる人の、その子孫に、直(ぢき)に聞きし物語なり。

[やぶちゃん注:「天笠人」通常は「インド人」を指すが、ここは、中国人でない人、「ベトナム人」ということではなかろうかと思って、何となく調べていたところ、瓢簞から駒で、ウィキの「天竺」の中に、『元和年間に「交趾国」(現在のベトナム中部)に漂着した茶屋新六(茶屋新六郎)は』、現在のベトナムの『ダナンの五行山』(ごぎょうさん:「グー・ハイン・ソン」:ここ:ベトナム語のそれも陰陽五行説の木火土金水の五行のことらしい)『を達磨大師の生誕地と考えた』とあるのに出くわした。本篇の「新三郞」と何だか同じような気がしてくる。

「舍麗迦城(しやりかじやう)」不詳。しかし、前の注から、五行山のあるダナンはベトナムの南北の中間地点に当たり、或いは、この附近にこの城があったと考えても、頗る納得出来るのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇〇番 鱈男

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

    一〇〇番 鱈  男

 

 昔、氣仙の或る所に小さな殿樣があつて、一人の美しいお姬樣を持つて居た。そのお姬樣が齡頃《としごろ》になると、每夜々々何處からか、美男の若者が通ふて來て、泊まつて翌朝歸つて行くのであつた。

 お姬樣がお前樣は何處のお方か、明かして下さいと賴んでも、その若者は遂に口を利いたことがなかつた。そこで侍女が怪んで、或る夜小豆飯を炊いて食はすと、食ひは食つたが、翌朝見ると死んで居た。それは鱈魚《たら》であつた。

  (鵜住居《うのすまゐ》村の大町と云ふ老人の
   話の二。大正九年八月二十一日聽記。)

[やぶちゃん注:この話、小豆飯で、何故、鱈の化け物が死ぬのかが、判らない。但し、調べると、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のここに、岩手県下閉伊郡岩泉町の採取として、『村のある女のもとに毎晩美男が通ってきた。小豆を煮た湯で足をすすがせると、男は具合が悪くなって帰り、それきり現れなかった。翌朝道ばたには大きな鱈が死んでいた。男の肌はいつもいつもひやひやとしていたといい、大鱈のフツタヅ(化物)かと言われた』とあるのが、よく似ている。さらに、同データベースのこちらには、宮城県本吉郡志津川町採取で(コンマを読点に代えた)、『昔、この地の素封家に美しい娘がいた。何時からともなく、夜毎娘の所に美しい若衆が通ってくるようになり、娘は目に見えて憔悴していった。母が色々問いただした結果、男はどうも化生の者らしいということになり、両親は田束山のお上人に相談した。上人の教えに従い、小豆』五『石を大鍋で煮てその煮汁を七日間川の上流から流したところ、翌日に川の主の年を経た大鱈が死んで浮かび上がった。娘もやがて回復した。その川を毒川と呼び、また鱈を煮るとき』、『小豆を入れると骨まで煮えると言われている』とあることから、小豆がタラにとっては有毒であるという言い伝えがあったことが判る。但し、ネットで調べると、東京都中央区八丁堀の「鶴見クリニック」公式サイト内の『鶴見医師に聞く「生の種は食べないこと」について』の中に、『小豆』など『を軽々しく炊いたりすると』、『確実に酵素阻害剤が残っており、せっかくの玄米ご飯が、毒になりかねない。炊く時は酵素阻害剤を解除しなくてはならない』。『浸水』させて『発芽させると』、『酵素阻害剤は代謝され無害な物になるため、栄養豊富かつ毒なしの玄米ご飯が食べられることになる。小豆や大豆は』十二『時間で酵素阻害剤は消失する(五分づきや三分づきはかなり酵素阻害剤が残っているので、食べない方がよいだろう)』とあった。「毒揉(も)み」漁は幾つか知っているが(この後の「一〇二番 鰻の旅僧」に出る)、これは知らなかったわ!

「鵜住居村」岩手県釜石市鵜住居町(うのすまいちょう:グーグル・マップ・データ)。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九九番 鮭魚のとおてむ

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「とおてむ」は「トーテム」、人類学・民俗学・民俗学用語の「totem」で、 ある社会集団が、自分たちの部族と血縁関係のある祖先として、特定の動物・植物を崇拝する場合、種としての、このような動物・植物或いは動物のある部分を指して言う語である。]

 

      九九番 鮭魚のとおてむ

 

 昔、遠野鄕が未だ大きな湖水であつた頃に、同町宮家《みやけ》の先祖が、氣仙口《けせんぐち》から鮭に乘つて、此鄕へ入つて來たのが、この鄕での人間住居の創始であると謂ふやうに語られてゐる。

 此家の幾代目かの主人、大層狩獵が好きであつた。其頃今の松崎村のタカズコと云ふ所に、鷹が多く棲んでゐて飛び𢌞り、人畜に危害を加へて仕樣がなかつた。此人或日其鷹を狩り獲らうと云ふので、山へ登つて行くと、かへつて矢庭に大鷹に襟首をとらへられて宙天高く引き上げられてしまつた。其人は如何《どう》かして逃れやうと思つたけれども、却つて下手(ヘタ)な事をしたなら天から墜落(オト)される憂ひがあるから其儘拉《らつ》し去られて行くと、稍《やや》久しくして高い斷崖の上の大きな松の樹の枝の上に下(オロ)された。其人は腰の一刀を引き拔いて𨻶があつたら其鷹を剌さうと構へたが、どうも寸分の𨻶もあらばこそ。さうして居るうちに何處からか一羽の大鷲が飛んで來て、鷹の上を旋囘して、鷹かまたは自分かを窺ふものゝやうであつたが、鷹が首を上げてそれを見る𨻶に、其人は得たり賢《かし》こしと一刀を擬《ぎ》して柄も通れよとばかり鷹の胸を刺し貫いた。何條《なんでう》堪《た》まるべき[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版ではここに読点がある。本来はそれが良い。なお、以下の読点はママ。そちらは「ちくま文庫」版であるように、句点であるべきである。]鷹は一たまりもなく遙か下の岩の上に墮ちた、其と一緖にその人も岩の上へ落ちたが鷹を下敷にしたので幸ひに怪我はなかつた。

 其うちに彼《か》の大鷲も、何處《いづこ》へか飛び去つたので、其所を立ち去らうとして、よく見ると其所は海と河との境に立つた大岩であつた。そこで自分の衣物を脫いで引き裂き斃《たふ》れた鷹の羽を絡《から》んで一條の綱を作つて、これを岩頭に繫ぎ、其を賴りとして段々と水の近くへ降りて見ると、水が深くてなかなか陸の方へ上らう由《よし》もなかつた。途方に暮れて居ると折りしも一群の鮭魚《さけ》が川を上《のぼ》つて來た。其中に一段と大きな鮭が悠々と岩の岸を通つて行くから、其人は思はずこの大鮭の背に跨《また》がつた。そして漸《や》つとのことで陸に近づき上陸をして四邊を見れば、其所は氣仙の今泉であつた。

 其人は直ぐに故鄕へ歸ることもならない事情があつたと見えて、暫く其地に足を停《とど》めて居るうちに、世話する人があつて鮭漁場の帳付《ちやうづけ》となつた。勿論文才もあり、勤めも怠けなかつたので、大層人望が厚かつた。

 今泉と川を隔てた高田とには常に鮭漁場の境界爭ひがあつて、時には人死《ひとじに》になどさへもあつた。そんな時には其人の仲裁で何方《どつち》も納まつて居たが、或年鮭が不漁なところから人氣《ひとけ》が惡く重ねて例年の川の境界爭ひも今までになく劇《はげ》しかつた。此時ばかりは其人の仲裁も何の甲斐もなく、日《ひ》に夜《よ》に打ち續いて漁師が川の中で鬪爭を續けてゐた。

 其時、其人は遂に意を決して川の中央へ出て行つて、兩方の人々に聞えるやうな高い聲で叫んで言つた。今泉の衆も高田の衆もよウく聽いてくれ。今度ばかりは俺の誠意(マゴヽロ)も皆樣に通らなくて每日每夜、夜晝斯《か》うやつて喧嘩を續けて居るが俺にも覺悟がある。俺は今此所で死んで、此の爭ひを納《をさ》めたい。そこで皆樣は俺の首の流れる方《かた》を今泉の漁場とし、胴體の流れる方《かた》を高田の漁場としてくれ。それよいか、と言つて、刀を拔いて後首(ウシロクビ)から力まかせに自分の首を搔き切つて落した。

 そして漸《しばら》く經つと暴風雨が起つて、其人が自害した邊に中洲が出來上つた。それで兩地の境界が定まつて、自然と川爭ひも絕えたと謂ふ。

 其後其人の子孫は先祖の故鄕の遠野へ歸つた。そして先祖が鮭のために生き又鮭のために死んだのであるからと謂ふので、家憲《かけん》として永く鮭を食はなかつた。若《も》し食へば病むと傳へられて今でも固く守つて居る。

(鈴木重男氏談話の三。遠野の口碑であるが、又曰く、宮家が鮭魚に乘つて氣仙口から遠野の湖に入つて來た當時には、鶯崎とか愛岩山などに穴居《けつきよ》の者が一二軒あつたと謂ふ。其人が或日狩獵に行くと常服の鹿の毛皮の上着を着て行つたために大鷲に攫はれたのであつた。それからは本話と同樣で結局鮭に助けられてまた家へ歸つたという。今泉と高田の鮭漁場爭ひの話は、時代も人物も違つて居るかも知れないのである。)

[やぶちゃん注:附記は例の通り、ポイント落ちで、冒頭丸括弧のみ二字下げ位置である以外は、全体が三字下げであるが、引き上げた。この話については、ネット上に多くの記載がある。グーグルの「宮家 鮭 遠野」のフレーズ検索をリンクさせておく。例えば、ブログ・サイト「遠野 勝手に観光ガイド」の「遠野の始まり」によれば、『縁結びの神様として知られている卯子酉様』(うねどりさま:神社名。ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『は嘗ては倉堀神社と言っていたそうな』。『遠野の一体が大きな湖であったその昔、鮭の背に乗って宮家と倉堀両家の先祖が猿ケ石川を遡ってここにたどり着いたという話があります』。『この当時の遠野は広い湖水で、この鮭の背に乗ってきた人たちは、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたそうです。そして鶯崎に二戸、愛宕山に一戸、その他に若干の穴居の人がいたばかりであったそうです』。『宮家というのは宮の付く苗字でしょうか』。『倉堀というのは実在する苗字です。遠野では名家として知られている倉堀家の多分末裔であろう友人に詳しい内容を聞いて見たかったのですが、何も知らないとのことでガッカリしました。本当は何か秘密があるのかも知れません』『(秘密がありそうです。)』。『憶測になりますが、当時、縄文時代さながらの生活を送っていた未開の遠野に文化的な物をもたらしたのが、どこか文化のある地域からやってきた宮家と倉堀家だったのではないでしょうか』。『宮家と倉堀家は農業や林業、商業を生業として起こし』、『集落を作ったと思われます。そこから遠野の歴史が始まったのではないでしょうか』。『確かに遠野盆地は湖だったのかもしれません。私は湿原だったと思います』。『その頃は鮭の遡上を阻むものも無かったでしょう。天然の鮎やウナギも遡上しており猿ケ石水系は本当に豊かだったのでしょう』。『冗談で倉堀家の末裔に「倉堀さんの先祖って鮭の背に乗れたくらいだから一寸法師みたいに小さかったんだね。」と言ったことがありますが、実際は遡上してくる鮭を追いかけて来たのでしょう。ちなみに、宮家と倉堀家は鮭を食べないという決まりがあったそうですが、現在の倉堀家は食べるそうです』とある。

「氣仙口」現在の岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市気仙町(けせんまち)。北部分が気仙川河口。但し、現在の気仙川は遠野には通じていない。現在の遠野を貫流するのは、ずっと北の北上川の支流猿ヶ石川(さるがいしがわ)である。但し、縄文海進の頃まで遡るならば、河川は現在とは全く異なっていた。

「松崎村」遠野市松崎町(まつざきちょう)。

「タカズコ」話から考えれば、「タカズ」は「鷹巣」であろうが、「ひなたGPS」の戦前の地図の「松崎村」を調べたが、該当しそうな地名はない。ただ、「高」ならば、複数の地名・山名にある(「高塲」・「高瀨」・「高淸水山」)。

「今泉と川を隔てた高田」現在の陸前高田市気仙町の中心部の今泉地区は気仙川の河口の右岸(高田町の対岸の気仙町愛宕下附近)にあり、その対岸に陸前高田高田町(たかたちょう)がある。

「鶯崎」岩手県遠野市鶯崎町(うぐいすざきちょう:グーグル・マップ・データ航空写真。次も同じ)。

「愛岩山」「ちくま文庫」版でもこの表記だが、私は「愛宕山」の誤記と考える。遠野市街の南西に火防(ひぶせ)の神として崇敬される新里愛宕(にっさとあたご)神社があるが、この神社は遠野市街を見下ろせる「愛宕山」の山頂にあるからである。]

2023/06/01

佐々木喜善「聽耳草紙」 九八番 鮭の大助

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   九八番 鮭の大助

 

 同郡[やぶちゃん注:前話を受けるので旧「氣仙郡」。]竹駒村の相川と云ふ家に殘る昔話である。此家の先祖は三州古河ノ[やぶちゃん注:カタカナはママ。]城主であつたが、織田信長との戰《いくさ》に負けて、遙々と奧州へ落ちのびて其所に棲まつて居た。或日多くの牛を牧場に放して居ると、不意に大きな鷲が來て子牛を攫《さら》つて飛び去つた。主人は大《おほい》に怒つて、如何《どう》しても彼《あ》の鷲を捕へなくてはならぬと言つて、弓矢を執り、牛の皮を被(カブ)り、牧場にうづくまつて鷲の來るのを五六日の間待つて居た。其《その》中《うち》に心身が疲れてとろとろつと睡《ねむ》ると、やにわに猛鷲《もうしゆう》が飛び下りて來て、主人をむんずと引つ提げたまゝ、杳冥《えうめい》遙かと運んで行つた。

[やぶちゃん注:「杳冥」 奥深く暗いさま。暗くてはっきりしないさま。]

 主人はどうとも爲《な》す術《すべ》がないので體を縮め息を殺して、鷲のする通りになつて居ると、遠くの海の方へ行く。そして或島の巨きな松の樹の巢の中へ投げ込んだまゝ、また何處ともなく飛去《とびさ》つた。

 主人は鷲の巢の中に居て、はて如何《どう》かして助かりたいものだと思つて、周圍《アタリ》を見𢌞すと、巢の中に鳥の羽がたくさん積まれてあつた。そこで其を集めて繩を綯(ブ)つて松の木の枝に結びつけて漸(ヤ)つと地上へ下りたが、それからは如何する事も出來ぬから、其の木の根元に腰をかけて、思案に暮れて居た。

 其所へ何處から來たのか一人の白髮の老翁が現はれて、お前は何處から此所へ來たのか、何の爲に來られたか、難船にでもあつたのなら兎も角にこんな所へ容易に來られるものではない。此所は玄海灘の中の離れ島であると言つた。主人は今迄の事を物語つて、如何かして故鄕へ歸りたいが、玄海灘と聞くからには既に其望みも絕えてしまつたと歎くと、老翁は、お前がそんなに故鄕へ歸りたいなら、俺の背中に乘れ。さうしたら、必ず歸國させて遣らうと言つた。主人は怪訝(ケゲン)に思つて、それではお前樣は何人《なんぴと》で、また何處へ行かれるとかと訊くと、俺は實は鮭ノ[やぶちゃん注:カタカナはママ。]大助である。年々十月二十日にはお前の故鄕、今泉川の上流の角枯淵(ツノガンブチ)へ行つては卵を生む者であるとのことであつた。そこで恐る々々其の老翁の背中に乘ると、暫時(シバラク)にして自分の故鄕の今泉川に歸つてゐた。

 斯《か》う謂ふ譯で、今でも每年の十月の二十日には禮を厚くして此羽繩《はねなは》に、御神酒《おみき》供物を供へて今泉川の鮭漁場《さけりやうば》へ贈り、吉例に依つて鮭留《さけど》め數間《すうけん》を開けることにすると謂ふのである。

  (末崎《まつさき》村及川與惣治氏より報告。
   大正十四年冬の頃。)

[やぶちゃん注:「竹駒村」現在の陸前高田市竹駒町(たけこまちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「三州古河ノ城主」尾張国海西(かいさい)郡、現在の愛知県愛西市森川町村仲のここにあった「古木江(こきえ)城」の別称は、調べたところ、「古川城」ではある。しかし、ウィキの「古木江城」によれば、『永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『に織田信長の』四『番目の弟』『織田彦七郎信興』(のぶおき)『によって築かれたとされる城で』、『伊勢長島の一向宗の抑えとして置かれた』が、元亀元(一五七〇)年九月、『本願寺と信長との間で石山合戦が始まると、長島でも門徒勢が蜂起。長島城を落した門徒勢は』十一月十六日、『古木江城を襲撃した』。『信興は信長や』、『桑名城の滝川一益』(かずます/いちます)『に援軍を要請したが、信長は浅井長政・朝倉義景の軍勢と延暦寺の僧兵によって大津に足止めされており』(「志賀の陣」)、『一向宗に攻められて籠城していた一益も援軍を出すことができなかった』ため、六日後の十一月二十一日、『古木江城は落城』した。「信長公記」によれば、『信興は櫓に上って自害したとされるが、地元では城外で討たれたと伝わっている』。『その後、城は廃城となった』とあって、本文の「織田信長との戰に負けて」落ちのびたというのと一致を見ない。ただ、別名を確認した成田三河守氏のサイト「城郭写真記録」の「尾張 古木江城」には、『信長は岐阜から津島へ出陣し、城を奪回するが、その後も一向宗徒との対立は続いた』とあるので、その僅かな間の一向宗側の城主であったものか。ところが、また、ウィキの「異説」を見ると、宝暦二(千七百五十二)年板の「張州府志」では、『彦七郎の居城を「古川城」と記しており、古木江城とは別の城であった』(☜)『としているが、天保』一五(一八四四)年板の「尾張志」ではこの説を否定している』とあり、さらに、『愛知県教育委員会の資料では大森村(現在の愛西市森川町村仲)にあった城が下古川城(小木江城)』で、そこから少しだけ東にある『下古川村(現在の愛西市森川町下古川)』(ここ)『にあった城を古川城としている』とあって、錯綜している。まあ、落ち武者の言い伝えに過ぎないのだから、どうでもいいことではあるのだが。

「玄海灘の中の離れ島」「玄海灘」はここ。離れ島として知られる大きな島は「壱岐島」である。この民話、特異的に語りのロケーションが南北に超ワイドである。

「今泉川の上流の角枯淵(ツノガンブチ)」前話に出たが、そこでは「すのがしぶち」と読んでおいた。その淵の位置は具体には判らないが、旧気仙郡であることは確かである。しかし、旧気仙郡には「今泉川」は現認出来ない。但し、気仙郡であった現在の陸前高田市気仙町の中心部の今泉地区は気仙川の河口の右岸(高田町の対岸の気仙町愛宕下附近)にあり、しばしば見られる河川の異名か、気仙川の河口附近での別称の可能性が高いように感じられる。だから「上流」が有意に利いてくるとも言えるのではなかろうか。

「鮭留め數間」(一間は約一・八二メートルであるから、六掛けで約十一メートル弱)「を開ける」本話では「鮭ノ大助」の遡上を妨げないための部分開口となっているのだが、これは、本来は仏教徒の部分的な殺生忌避、所謂、施餓鬼供養が元であろう。

「末崎村」旧気仙郡末崎(まっさき)村。現在の大船渡市末崎町(まっさきちょう:グーグル・マップ・データ)。但し、「ひなたGPS」の戦前の地図を見るに、古くは現在よりももっと西にも延びている広域である。]

「近代百物語」 巻五の三「悲を感ずる武士の返礼」 / 「近代百物語」電子化注~完遂

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、本篇を以って「近代百物語」は終わっている。]

 

   慈悲を感ずる武士の返礼

 今はむかし、丹後のみや津に、「もめんや藤兵衞」といふ人あり。生れついての実氣(じつき)もの[やぶちゃん注:誠意や親切心に富んだ者。]、人にそむかず、人をあはれみ、万事、正路(しやうろ)[やぶちゃん注:正直。廉直。]にくらせしが、あるとき、家業のもめんの買(かひ)出し、春部(はるべ)の村に、ゆきけるが、麥かる男、六、七人、

「うちころせ、ふみころせ。」

と、何かはしらず、立ちつどふ。

 藤兵衞、はるかにこれを見て、

「何事やらん。」

と、はしりゆき、たちより見れば、小狐(こきつね)の、わなにかゝりて、くるしめり。

 藤兵衞、見るにたへがたく、分け入りて兩手をつき、

「定めて、にくきやうすありて、かやうに打擲(てうちやく[やぶちゃん注:ママ。])なさるゝならん。さりながら、ものゝいのちを取る事は、大ひ[やぶちゃん注:ママ。]なる罪ぞかし。我ら、ひとへに[やぶちゃん注:ひたすら。全く以って。]申しうけ、かさねて𢙣事(あくじ)を、いたさぬやうに、いひ聞かせて、にがすべし。とかくに、ゆるしたまはれ。」

と、おもひ入りての、ひら望み。

 農民(ひやくしやう)ども、口々に、

「こなたは、いづくの人なれば、せつかくとらへし狐めを、『たゞ、くれい。』との無理のぞみ。それほど、ほしくば、買(かは)しやれ。」

と、にがさんけしき、見へざれば、藤兵衞は、よろこびて、

「先(まづ)もつて、かたじけなし。價(あたひ)は、何《いか》ほど、しんじ申さん、仰せられよ。」

と、たづぬれば、

「にくき狐め、うちころし、皮(かは)引(ひつ)ぱがんとおもへども、こなたの、のぞみも、もだしがたし。壱〆文(《いつ》くはんもん)で負(まけ)ませふ[やぶちゃん注:ママ。]。」[やぶちゃん注:「壱〆文(くはんもん)」は漢字も読みもママ。但し、「貫」に「〆」の字を当てることは古文書でも多く見られるので誤りではない。]

と、傍若無人の、見かけあきなひ。

 藤兵衞は、うれしげに、ふろしき、とひて、錢、とり出だし、

サアうけ取りて下され。」

と、狐を、いだき、四、五町[やぶちゃん注:約四百三十六~五百四十五メートル。]も立《たち》わかれて、四方(《し》ほう[やぶちゃん注:ママ。])をながめ、

「こゝにや、にがさん、かしこにや、」

と、見やるむかふにくる人は、三十ばかりの壯士、内儀と見へて、女中をともなひ、家僕にもたせし食籠(じきろう)は㙒(の)あそびのかへりがけ。

 藤兵衞に、ちかづきより、

「ふしぎや、御身は、きつねをいだき、何ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]こゝに居(い[やぶちゃん注:ママ。])給ふぞ。いぶかしさよ。」

と、問(とひ)かくれば、藤兵衞は、うちわらひ、

「きやつ、あの村にて、わなかゝり、農民ども、よりあつまり、打ちころさるゝその所へ、わたくし、不慮(《ふ》りよ)にまいり、あはせ、壱〆文に、相もとめ、たゞ今、こゝにつれ來たり、にがしてやらんと、ぞんずるところ。」[やぶちゃん注:「きやつ」はママ。「彼奴」としても、どうも、しっくりくる語ではない。しかし、他に読みようがなく、「続百物語怪談集成」でも同じ字起こしである。「さつき」(「さっき・先程」の意。)の彫り誤りかも知れない。]

と、かたれば、士(さふらひ)、手をうつて、

「おどろき入《いり》たる御仁心(《ご》じんしん)、ちくしやうなれども、こゝろあれば、さぞや、よろこび申すべし。さいわひ[やぶちゃん注:ママ。]、こゝは、人もなく、はなちてやるは、きどくの場所、かゝるきどくの御人、へお目にかゝるは、拙者が大慶(たいけい)、にがさせたまへ。」[やぶちゃん注:「きどく」「奇特」の古い読み。非常に優れているさま。「ちょうどいい」の意。]

と、すゝむるにぞ、内儀も、ともども、うれしげに、

「人間の子をおもふも、きつね・たぬきの子をおもふも、すこしも、ちがひは、あるべからず。さぞ、うれしかろ、可愛(かあい)や。」

と、菓子など、とらせて、なで、さする。

 藤兵衞は、小狐に、

「かならず、かならず、村へ出て、わるい事を仕(し)やるなへ[やぶちゃん注:ママ。]。ころされたら、なんとする。千ねんも生きのびよ。はやふ[やぶちゃん注:ママ。]、住所(すみか)へ、たちかへり、親どもへ、たいめんせよ。」

 

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[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

ちく類(るい[やぶちゃん注:ママ。]

恩(おん)を知(し)る事

人に替(かは)]らず

さすればあだを

報(ふく)することも同(おな)し

かるべし無益(むえき)の

事に物の

命(おいのち)を

取(とる)べ

       から

         ず

《左の小狐を抱いた藤兵衛の足元にある彼の台詞。》

これはにが

してやり

    ま

     す

《右手の土下座する武士と内儀(既に正体が判るように二人に尾が描かれてある)の台詞。》

御ありがたふ[やぶちゃん注:ママ。]

ござります

   *]

 

と、はなせば、きつねは尾をふりて、草のしげみに、にげてゆく。

 藤兵衞は、こゝちよく、

「あれ、御らんなされませ、うれしそふ[やぶちゃん注:ママ。]に、かへります。」

と、ふりあをのけば[やぶちゃん注:ママ。]、さぶらひ夫婦、つちに、手を、つき、かしらを、さげ、

「まことは、われわれ、人間、ならず。おはなちなされ下されしきつねがふたおや、これなる奴子(やつ《こ》)は、かれが兄、御仁心に、いのちをたすかり、御厚恩とも、大おんとも、ことばにあまる御なさけ。お禮は、かさねて、申しあげん。いざ、おいとま。」

との聲のした、三人ともに、きつねと現(けん[やぶちゃん注:ママ。])じ、とんづ、はねつの、四疋づれ、いづれも、一度に、手をあはせ、ふしおがみ[やぶちゃん注:ママ。以下は底本では踊り字「〱」。]、ふしおがみ、すがたをかくし、うせければ、藤兵衞は、ゆめ見しこゝち、はじめて見たるきつねの妖怪、人にも、かたらず、くらせしが、次㐧(しだい)に、あきなひ、はんじやうして、一ねんばかりに、家、とみさかへ、ひゝきの、撥(ばち)に、おふずる[やぶちゃん注:ママ。「應(わう)ずる」だろう。]、さいわひ[やぶちゃん注:ママ。]

 藤兵衞は、こゝろづき、

「これぞ、きつねの、へん礼ならん。」

と、やしきのうちに、一社をこんりうすれば、いよいよ、まさる家内の、にぎはひ。

 たからを、子孫に、のこしける。

 

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[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

いなりの

 社(やしろ)方〻(ほうほう[やぶちゃん注:ママ。]

         に

  出(で)き

  たる

    は

おの

  づから

神德(しんとく)

  も

 有べ

  し

《神主の台詞。》

大ぶんの

 さんけい

     じや

《中央下方にある台詞。これは、鳥居の前に、しゃがんで手を合わせている老婆の台詞であろう。而して、その右隣で同じようにしゃがんで手を合わせているのが、その孫なのであろう。》

まごめが

 ふくを

  ねかひ[やぶちゃん注:ママ。「ねがひ」。]

   ます

   *

これは、藤兵衛の家内の稲荷社ではなく、一般の稲荷神社の景である。]

 

                   五之巻大尾

 

 明和七【庚寅】年 正月吉旦

          大坂心齋橋南四丁目

                 吉文字屋市兵衞

      書肆  江戶日本橋南三丁目

                 同  次郞兵衞

 [やぶちゃん注:「【庚寅】」は原本では【 】なしで左右に並ぶ。]

「和漢三才圖會」卷第六十一「雜石類」の内の「禹餘粮」

[やぶちゃん注:〔○○〕や〔→○○〕は、表字・訓読が不完全で私がより良いと思う表字・訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]

 

Uyorou

 

うよろ 白餘粮

禹餘粮

イユイ イユイ サヤン

本綱禹餘粮會諬山中多出彼人云昔禹王會諬于此棄

其所餘食於江中而爲藥則名禹餘粮【蒒草亦名禹餘粮乃草實也同名異

物也】生池澤及山島石中細粉如麪黃色如蒲黃其堅凝如

石者名石中黃其未凝黃濁水名石中黃水而三者一物

太一餘糧【又名石腦禹哀】生太山山谷其石狀片片層疊深紫色

 中有黃土也其性最熱冬月有餘粮處其雪先消

禹餘糧氣味【甘寒】手足陽明血分重劑也性濇故主下焦

 前後諸病久服耐寒暑輕身延年不老【太一餘糧石中黃水共功用同】

△按禹餘粮卽石中黃麪其未凝者名石中黃水如此物

 本朝石中亦稀有之然是秘藥不常用故識人亦鮮焉

 以爲禹王食餘者浮說也

 

   *

 

うよろ 白餘粮〔はくよらう〕

禹餘粮

イユイ イユイ サヤン

「本綱」、禹餘粮は、會諬山〔くわいけいざん〕の中に、多く出づ。彼〔か〕の人、云〔はく〕、「昔、禹王、此〔ここ〕に會諬して、其〔その〕餘る所の食を、江中に棄〔すつ〕。而〔しかして〕、藥と爲〔な〕る。則ち、「禹餘粮」と名づく。」と【「蒒草〔しさう〕」も亦、「禹餘粮」と名づく。乃〔すなは〕ち、草の實〔み〕なり。同名異物なり。】。池澤及び山島に生ず。石の中の細粉、麪〔むぎこ〕のごとく、黃色にして、蒲黃〔ほわう〕のごとし。其〔その〕堅く凝〔こりたる〕ごとくなる石の者を「石中黃」と名づく。其〔の〕未だ凝らざる黃〔き〕なる濁水を「石中黃水〔せきちゆうくわうすい〕」と名づく。而〔しかして〕、三〔みつ〕の者、一物なり。

太一餘糧【又、「石腦」「禹哀」と名づく。】太山〔の〕山谷に生ずる。其〔の〕石の狀〔かた〕ち、片片層疊〔へんぺんそうでう〕と〔して〕、深紫色。中に黃土〔わうど〕有るなり。其〔の〕性、最も熱す。冬月に「餘粮」有る處は、其(そこら)の雪、先づ、消ゆる。

禹餘糧の氣味【甘、寒。】手足〔の〕陽明血分の重劑なり。性、濇(しふ→しぶ)る故、下焦〔かしやう/げしやう〕前後の諸病を主〔つかさど〕る。久しく服〔ぶく〕すれば、寒暑に耐へ、身を輕くし、年〔とし〕を延へ〔→べ〕、老いず。【「太一餘糧」・「石中黃水」共に、功用、同し〔→じ〕。】

△按ずるに、「禹餘粮」は、卽ち、石中の黃麪〔わうべん〕。其の未だ凝らざる者を、「石中黃水」と名づく、と。此〔この〕ごとくの物、本朝の石中にも亦、稀れに、之れ有り。然れども、是れ、秘藥にして、常に〔は〕用〔ひ〕ざる故、識〔し〕る人、亦た、鮮(すく)なし。焉〔これ〕〔を〕以つて、禹王の食〔しよく〕の餘りと爲(す)る者は、浮說なり。

 

[やぶちゃん注:「禹餘粮」については、前日に電子化注した『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考(1) / 序文・「第一編 鷲石に就て」』の次の「第二 禹餘糧等に就て」で語られるのであるが、類似石である「鷲石」(しゅうせき)についての私の冒頭注が参考になる。詳しくは、次回のそちらの電子化をお待ちあれ。されば、ここでは、「太一餘糧」や「石中黃水」も注は附さない。

「うよろ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「うよらう」。

「會諬山」「會稽山」に同じ。越王句践の「会稽の恥を雪(すす)ぐ」の故事で知られる浙江省紹興市南部にある山。当該ウィキによれば、中国の歴代王朝で祭祀の対象となり、「五鎮名山」の中の「南鎮」とされる。『山麓には長江流域最古の新石器文化を示す河姆渡遺跡(かぼといせき)が存在し、古くからの人類の活動が確認できる地域である』。『旧名を茅山、別名を畝山』(ぼうざん)『と称す。夏朝禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。禹が死去した地であると記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。』(本文の「會諬」はその意味である)『地名は禹が死去する際、諸侯が一堂に会し』、『その業績を計ったことから「会稽(会計に通じる)」と称されるようになった。しかし近年の言語学者らの研究により、会稽は越語の「矛山」という意味であることが分かった。江南は古代中国では越国』(後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは全く別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたとされる国)『の領地であって、言語も当然』、『越語が使われていた』とある。最高峰は「香炉峰」で三百五十四・七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、知られた廬山のそれとは同名異山であるので注意)。

「蒒草」砂浜に群生する海浜植物として知られる単子葉類植物綱カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi のこと。日本全土と東アジアの海岸の砂地に植生する多年草。茎は太く、高さ十〜二十センチメートルで、地中を横走する根茎から出る。葉は堅い革質で、線形、幅は四〜六ミリメートル。雌雄異株。春、茎頂に多数の小穂を密生し、淡黄緑色を呈し、長さ四〜六センチメートルの頭状花序をなす。根茎の節に繊維があり、古くは筆の代用としたので「弘法」の名があり、「麦」は熟した花序の形によるものである。また、「筆草」(フデクサ)という異名もある(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。中文の同種のウィキでも、現在も、この漢名(但し、「蒒」は簡体字)を用いていることが確認出来る。さて、所持する平凡社『東洋文庫』(一九八七年刊)の第八巻の訳では、この熟語に『はまむぎ』とルビする。恐らく、植生から安易に振ってしまったものであろうが、非常にまずい。「浜麦」は全くの別種で、イネ科の多年草である単子葉植物綱イネ科エゾムギ属ハマムギ Elymus dahuricus var. dahuricus である。こちらは、東アジアの温帯に分布し、日本各地の海岸に植生する。稈は叢生し、細く、無毛で、地下茎を出さない。葉は線形をなし、先は細くなって、小麦に似ているが、葉鞘に毛がない。夏に一個の穂状花序を出し、小穂を密生させる。各小穂に二~三個の花がつく。芒 (のぎ) は細くて軟らかい。花序の形も小麦に似ている(こちらの主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。なお、大脱線だが、私は「弘法麦」というと、芥川龍之介の「彼」(リンク先は私の詳細注附きのサイト版)を直ちに想起してしまう。私の遺愛の哀しい名小品である。未読の方は、是非、読まれたい。

「蒲黃」(現代仮名遣「ほおう」)は単子葉類植物綱イネ目ガマ科ガマ属 Typha(タイプ種:ガマ Typha latifolia )の円柱状の、所謂、「蒲の穂」の雄化穂から吹き出る花粉のこと。漢方で薬用とされる。

「片片層疊」『東洋文庫』版の訳では『片片層層として』とある。

「陽明血分」「陽明」は多気多「血」の経であり、その経気の盛衰が、直接に人体全体の血の盛衰に影響することから、この経(けい)は「『血』による疾病をつかさどる」とされる(信頼出来る漢方サイトを参考にした)。

「濇(しぶ)る」「直ぐに体外に排出されず、とどまる」。の意。

「下焦前後」漢方で六腑の一つとして措定される架空の臓器部分を言う「三焦」の一つ。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。されば、この禹餘糧の効用は稀れなる効力を持つと考えられたことが判るのである。

「黃麪」石(鉱物)から変成した黄色い小麦粉のような(と同じ栄養・薬効を持つ)物質。一種のフレーザーの言った類感呪術的発想である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九七番 鮭の翁

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      九七番 鮭の翁

 

 氣仙郡花輪村の竹駒と云ふ所に美しい娘があつた。或時此娘を一羽の大鷲が攫《さら》つて、有住村の角枯《すのが》し淵《ぶち》に落した。すると淵の中から一人の老翁が出て來て其背中に娘を乘せて、家に送り屆けてくれた。

 實は此老翁は鮭の大助であつた。そして後に其老翁は强いて娘に結婚を申込んで遂に夫婦となつた。その子孫は今でも決して鮭を食はぬさうである。

(大正九年八月二十一日。柳田先生、松本信廣氏と共に閉伊海岸を旅行して鵜住居《うのすまゐ》村の大町久之助翁から聽いた話の一。遠野町裏町のコーアンと云つた醫者の愛娘《まなむすめ》が一夕表へ出で街路を見て居たが、そのまゝ行衞不明《ゆくへふめい》になつた。それから三年ばかり經つてからの或日、不意に、あろう事か臺所の流シ前から一尾《いちび》の鮭が家の中へ跳込んだので、其れが失踪した娘と關はりのあることであらうとの事から此家では鮭を食はなかつた。これは友人俵田浩氏談。)

[やぶちゃん注:附記は底本では頭の丸括弧が一字分、上に出ている外は、全体が三字下げでポイント落ちであるが、長いので、同ポイントで総て引き上げた。

「氣仙郡花輪村の竹駒」現在の岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市竹駒町(たけこまちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「有住村」旧気仙郡。現在の岩手県陸前高田市下有住(グーグル・マップ・データ航空写真)、及び、その東に接する上有住。竹駒町の北方十七キロメートル以上にある。

「角枯し淵」不詳。読みは「ふりがな文庫」のここの、佐々木の「東奥異聞」の読みを参考に、原文当該部(国立国会図書館デジタルコレクションの一九六一年平凡社刊『世界教養全集』第二十一巻のここ(右ページ下段二行目))で確認した。

「柳田先生」柳田國男。

「松本信廣」(のぶひろ 明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。事績は当該ウィキを参照されたいが、そこにも書かれている通り、彼は戦中に『「大東亜戦争の民族史的意義」を唱え、南進論を主張』し、一九三〇『年代に、大日本帝国が南進政策を展開しはじめると、日本神話と南方の神話の類似を指摘する松本の研究は、日本が南方に進出し、植民地支配を正当化する根拠を示すという点で、政治的な意味を持つようにな』った結果を惹起しており、好きでない。

「閉伊海岸」旧閉伊郡(へいぐん:明治一二(一八七九)年一月四日完全廃止)はこの中央の南北が海岸線に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「鵜住居村」現在の岩手県釜石市鵜住居町(うのすまいちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。]

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