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2023/06/30

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四二番 坊樣と摺臼

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一四二番 坊樣と摺臼

 

 或時、座頭の坊樣が來て泊まつた。宿語《やどがた》りを夜明まで語つて聽かせたら、をオカタ[やぶちゃん注:「妻」。]に遣ると言はれ、一夜中寢ないでジヨロリコ[やぶちゃん注:不詳。]を語り明して、朝は約束通り娘の手を引いて其家を出た。

 娘が出る時、家では米俵だと言つて、スルス(摺り臼)を背負せてやつたが、村端《むらはづ》れの淵の上に架《かか》つた橋の上へさしかゝつた時、坊樣は娘の手をとつて歎いて、お前もその齡若《としわか》い身空《みそら》で、目もない盲人(メクラ)などのオカタになつて、一生ウザハク(苦勞する)こつたべえ。それよりも一層のこと俺と一緖に此の川へ入つて死なないかと言ふと、娘はそれではさうしますと言つて、背負つて居たスルスを橋の上からザンブリと淵に投げ込んでからそつと傍の葭立《あしだち》の中に入つて隱れて居た。

 ドブンと高い水音が立つと、坊樣はメゴイお前ばかりを何して殺すべえやえと言つて、後から飛び込み、

   お花コや

   お花コや

   死んで行く身は

   いとわなえど

   お花コ流すが

   いとほしい

   ほウい、ほウい

 と言つて流れて行つた。

(この話は家の老母から聽いたものである。又村の萬十郞殿も覺えてゐた。ただ川へ投げ入れたのがスルスではなくて藁打槌《わらうちづち》であつた。「眞澄遊覽記」には…娘がいきなり其臼を出して水の中へどんぶりと投げ込んで、其身は片脇の葭の中に入つて匿れて見てゐると、盲人は泣きながら續いて淵へ飛び込んだ…して身は沈み琵琶と摺り臼は、浮いて流れてしがらみに引つかかる。そこで今でも琵琶と磨臼の例《たと》へあり…と語つたと書いてある(雪國の春)。)

[やぶちゃん注:附記はポイントを本文と同じにして、引き上げた。

「眞澄遊覽記」江戸後期の偉大な旅行家にして多才な本草学者であった菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年:本名は白井秀雄)の自筆本「真澄遊覧記」八十九冊は秋田県有形文化財で国の重要文化財となっている(詳しい事績は当該ウィキを参照されたい)。ネット上では当該篇を探し得ないが、佐々木が引用元としている柳田國男の「雪國の春」(昭和三(一九二八)年岡書院刊)の「眞澄遊覽記を讀む」の「一〇」で、当該部分が視認出来る。真澄が、その話を座頭が語ったを聴いたクレジットを『天明八年二月廿一日夜』と記している。グレゴリオ暦で一七八三年三月二十三日であった。而して、そこで柳田は、一読、私も直ちに連想した『昔の「猿の聟」の作り替へのやうなものであつた』という感想を述べている。「猿の聟入り」も私は猿が可哀そうで大嫌いなのだが、まず、異類婚姻譚であるから、それでも、まだ架空のお伽話として読めなくはないが、本篇は――葭間に隠れた娘の――慄っとするほど冷たい視線――に、もう、全く我慢がならぬのである。

「奇異雜談集」巻第一 ㊃古堂の天井に女を磔にかけをく事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は怪奇談では珍しい二行割注。

 なお、この「磔」の「はつけ」と言う読みはちょっと見たことがないが、磔刑(たくけい)は本来、板や柱に身体を。縛りつけて「張り付け」にした後に、釘や鎗で突き殺すしたことから、「はっつけ」とも呼ばれたが、その「っ」の促音を後に同じ「つ」が続くことから、省略したものだろう。

 なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵をトリミング補正して掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   ㊃古堂(ふるだう)の天井に女を磔(はつけ[やぶちゃん注:ママ。])にかけをく[やぶちゃん注:ママ。]

 

 ある人、語りて、いはく【奇異の儀にもあらずといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、女人《によにん》の執心𢙣業をかたる。】、[やぶちゃん注:この割注の意味が、コーダのシークエンスで明らかになる。]

「中国の事にてあるに、山路(《やま》ぢ)を、とをどを[やぶちゃん注:遙かに。]、ゆきて、林を出づれば、日、すでに暮れたり。

 右のかた、麓をみれば、家里(《いへ》ざと)あり、ひだりの山ぎわに、古堂一宇(《いち》う)あり。

 行きてみれば、昔は結構なりしが[やぶちゃん注:立派な寺院であったようだが。]、今は忘れて、人跡(じんせき)なし。

『麓の里にゆきても、一宿(《いつ》しゆく)あらんも、しらず。たゞ、此の堂に一夜(《いち》や)をあかさん。』

と思ふて、堂にのぼれば、から戶、やぶれて、のこり、佛檀・後門(こうもん)は、かたのごとく、あり。

 いたじきのうへ、かき[やぶちゃん注:「垣」。]の隅によりかかりてきうそくするに、とぜんあまりに[やぶちゃん注:「徒然の餘りに」。することもなく、退屈に過ぎていたので。]、垣(かき)のすきより、外をのぞけば、しんのやみなり。

 麓の里に、火の影、見えたり。

 ときどき、のぞけば、その火、ちかく、きたる。

 又、のぞけば、その火、坂に、登りきたる。

『かいだうをゆく人か。』

と、おもへば、松明(たいまつ)をふりたてて、堂のかたに來(きた)る。

 俗人、たち[やぶちゃん注:「太刀」。]に、はかまのももだち、たかくとりて、堂の後門にゆきて、内に入(いる)。

 はしご、ありて、天井に、のぼる。

 客僧、しづまりて、声をもせず。

 

Haritukenisaretaonana

 

[やぶちゃん注:底本の画像はここ。上部の空白が、却って、猟奇的な「はりつけ」にされた女の猟奇的シークエンスを妄想させて、面白い。]

 

 きけば、男、杖をとつて、

「まだ、死にをらぬか。」

と、いふて、ちやうちやく[やぶちゃん注:「打擲」。]する音、聞こゆ。

 女人のこゑにて、息の底にて、[やぶちゃん注:「息の底にて」は同前の高田氏の注に『息もたえだえに』とある。]

「もはや、おゆるしあれ。」

と、いへば、なほ、ちやうちやくして、杖をすてて、はしごをおりて、後門(うしろど[やぶちゃん注:先の「こうもん」と読みが異なるのはママ。])にいでて、もとのごとくにかへる。

 火のかげ、ほもとの里にゆきて、きゆるをみて、

「我、不審千萬《ふしんせんばん》なり。是を見ずんば、有るべからず。」

とて、藥籠(やくろう)より、火うち・らうそくを、とり出《いだ》し、火を、ともし、天井に、のぼりてみれば、女人を磔(はつけ[やぶちゃん注:ママ。])にかけて、をけり[やぶちゃん注:ママ。]

「これ、何事ぞ。」

と問へば、

「あら、御はづかしや。御僧《おんそう》のりやくに、御たすけ候へ。」[やぶちゃん注:「りやく」「利益」。この場合は、仏教で自分以外の他人や他の対象に対してよいことを施してやることを指す。狭義のそれに対して、対象を自身に向けて行う場合を「功徳(くどく)」と称して区別する場合もある。]

といふ。

 仔細を、

「何事ぞ。」

ととへば、

「人のむしつ[やぶちゃん注:ママ。「むじつ」で「無實」。]を申《まふし》かけて、『外夫(まおとこ[やぶちゃん注:ママ。])をしたり』とて、男を生害(しやうがい)させて、首をとりて、そこに、おかれ候。」

といふ。

 見れば、まことに、首、あり。

 さて、

「今日、幾日(いくか)ぞ。」

と、とへば、

「六日に成《なり》候ほどに、人のかたちにても、なく候。縄(なは)を切りて、おろして給(たび)候へ。」

といふ。

『りやく。』

と思ふて、なはを、きりて、いだき、おろす。

「水飮みたき。」

よし申すほどに、おりて、井(ゐ)をたづね、めんつに汲んで、天井に、のぼりて、あたふ。[やぶちゃん注:「めんつ」「面桶」。「めんつう」とも読む。「つう」は「桶」の唐音。一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物を言うが、後には、乞食の持つ入れ物を指した。「めんぱ」とも。]

 女人、水をのみて、よろこび、

「御僧は、先《まづ》、御くだりあつて、火を御《お》きやし候へ。」[やぶちゃん注:「御きやし」「江戸怪談集」では、本文は『御消やし』となっており、それへの高田氏の注に『「御消し」と同じ。上方語法。』とある。]

といふ。

 我は、まづ、降りて、まづ、女人、しづかに、はしこ[やぶちゃん注:ママ。]を、おりて、

「杖を、つきたき。」

よし、申すほと[やぶちゃん注:ママ。]に、林の中に入りて、杖を、きりて、やる。

「是より、一里ばかり北に、我(わか[やぶちゃん注:ママ。])里、あり。それへ、行きたく候。」

といふ。

 我は、ぶあんないなれども、つれてゆく。女人、案内者(あんないしや)にて、よろよろとして、ゆく。あやうき所をば、手を、ひき、助けて、行(ゆく)。

 やうやく、人家(じんか)あつて、火のかげ、見えたり。

 あかつきなるに、大なる家に、念仏の声、おほく、聞こゆ。

 かの女人、いはく、

「その家は。我里(わがさと)なり。『我は、はや、六日以前に殺されたり。』と思ひて、中陰(ちういん)をする念仏なりと思ふ。御僧、行きて、門をたゝきて、『娘を、連れてきてある。』とおほせ候へ。聞きて、驚くところへ、我々[やぶちゃん注:謙遜の単数の自称。]ゆくべく候。」

と申すほと[やぶちゃん注:ママ。]に、そのごとくにて候へば、家中の人、念仏を、さしおきて、みな、門に出《いで》て、おとろく[やぶちゃん注:ママ。]

 かの女人、うちへ、いりて、しづかに、事のよしを語れば、二人(ふたり)のおや、いだきつきて、なくのみなり。

 さて、

「その御僧(《おん》そう)は神仏《かみほとけ》にて御入《おはい》り候。」

とて、おもての座敷にしやうじ[やぶちゃん注:「請じ」。]入れて、たつばいする事、かぎりなし。[やぶちゃん注:「たつばい」「答拜」で「たつぱい」(現代仮名遣「たっぱい」)と読み、貴族の大宴会である「大饗」(たいきょう)の際などに、身分の高い人が来臨した時、主人が堂を降りて、皆、ともに拝礼することを言った。後に転じて「丁重なお辞儀」の意となった。]

 風呂にいれ、齋(とき)・点心(てんじん)、種々(しゆじゆ)にもてなして、二、三日とむるなり。[やぶちゃん注:「齋」ここは広義の「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時(ひじ)」と称して、午後も食事をした。「点心」前出の高田氏の注に『禅家で、定まった食事の前後に食べる少量の物』とある。]

「一期(《いち》ご)をも、よういく申《まうす》べき。」

といへども、

「しゆぎやうじやなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、とゞまるべからず。」

といふ。

 しゆじゆ、引出(ひきで)もの、ほどせども、すこしも、

「路次《ろし》のざうさなり。」[やぶちゃん注:「ざうさ」「造作」で、ここは「面倒な物」の意。]

とて、一向にとらざるなり。

 かの女は、二、三日、よういきするほどに、もとのごとく、よき姿になりて、眉をつくり、けつかうに、よそほふて、

「かの御僧にいとまごひ申さん。」

とて、おかたへ呼ぶほどに、行きてみれば、見代(みかへ)たるすがたなり。

 いろいろに、礼を、いうて、

「何をも、まいら[やぶちゃん注:ママ。]せたく候へとも[やぶちゃん注:ママ。]、御とりなく候事、曲(きよく)もなく候[やぶちゃん注:「あまりにもそっけないありさまにて御座います」。]。さりながら、このつづらをば、御とり候てたまはり候へ。」

といふて、脇より、小つゝら[やぶちゃん注:ママ。「小葛籠」。]を、上を、よく、ゆひからげたるを、差し出だす。

「いや。中中《なかなか》、路《ろ》しのわづらひにて候ほどに、いや。」

と、いへば、

「心ざしにて候ほどに。道にて、御すて候とも、御とり候へ。」

と、いふほどに、じひ[やぶちゃん注:「慈悲」。]にて助けたる人の事なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、うけとりて、いとまごひして、出《いづ》るなり。

 みなみな、門送りに出《いづ》るを、申《まふし》とめて、ひとり、行《ゆく》なり。

 道、十町[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]ばかりゆくに、此のつゞら、重きゆへに、

『すてん。』

と思ひて、緖(を)を、ときて、ふたを、あけてみれば、物に、つゝみたり。

 又、開いてみれば、かの天井にありつる首(くび)なり。

 くさりて、くさき事、かぎりなければ、はやく、谷になげすてたり。

『此の首をば、何として、もち來たりつるぞや。袖に入れたるにや。さては、外夫(まおとこ[やぶちゃん注:ママ。])一定(《いち》ぢやう)なり。磔(はつけ)にかけられ、うきめを見るにも、こりず、外男《まをとこ》をしうしんして、首をとりて來(きたり)たり。あさましきあくごうしうしんや。』

と、かへつて憎めば、慈悲利益、無になるものなり、と云々。

 

「奇異雜談集」巻第一 ㊂人の面に目鼻なくして口頂の上にありてものをくふ事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は怪奇談では珍しい二行割注。本篇のメインは、知人の知れる人のまた聴きの語りであるので(故に所謂、怪しげな「噂話」「都市伝説」の属性を持っているとは言える)、「……」と行空けを用いて、鍵括弧(「」・『』)の五月蠅い使い分けを簡略した。

 なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵をトリミング補正して掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   ㊂人の面(おもて)に目鼻(めはな)なくして口(くち)頂(いたゝき[やぶちゃん注:ママ。])の上にありてものをくふ事

  予、若年(ぢやくねん[やぶちゃん注:ママ。])のとき、丹後の府中に居住(きよぢう[やぶちゃん注:ママ。「きよぢゆう」が正しいが、しばしばこの発音の歴史的仮名遣では「ゆ」が脱落する。])す。

 津の國の聖道(しやうだう)一人《ひとり》【名、藤姓。】、九世戶參詣のついでに、予が居所(きよしよ)にきたりて、數日(す《じつ》)とうりう[やぶちゃん注:「逗留」。]のとき、語りていはく、

 

……津の国に、一人の聖道あり。日本六十六ケ国をしゆぎやう[やぶちゃん注:「修行」。]するに、国ごとに十日、廿日、とうりうして、その国中のめいしよ・きうせき・大社(たいしや)・驗仏(けんぶつ)、殘りなく、一覽をとげて、かへるなり。……

[やぶちゃん注:「聖道」 岩波文庫の高田氏の注に、『唱導に同じ。唱導師の略。民衆敎化のため説法をして歩く者』とある。

「九世戶」同前で、『京都府宮津市の天橋立の南対岸周辺。当地の五台山智恩寺の文殊堂は、久世戸の文殊、又は切戸の文殊と称され、諸人の信仰を集めた』とある。五台山智恩寺の中の文殊堂はここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「九世戸縁起」(この智恩寺に伝わる古文書)よれば、『九世戸(くせど)は「くせのと」とも称し、智恩寺と廻船橋』『で結ばれた小島との間の海を示す。智恩寺は別称を「九世戸・文殊堂」ともいい、中世、その存在を天橋立と一帯のものとしてとらえ』、「九世戸縁起」の冒頭では「九世の戸あまのはしたてと申は本尊は一字文殊」と記して、その由来を述べている』。『同時に』、この「縁起」は『丹後半島の他の地名の由来も語っており、丹後地方の起源伝説とみなすこともできる地名由来伝承のひとつである』とある。私は一度、友人らと訪れたことがある。

「驗佛」霊験あらたかな仏像。]

 

 その人、かたりて、いはく、

 

……ある国にて【国名、忘却。】、ここかしこ、はいくわいするに、はるかにみれば、大《おほき》なる家、あり。行きてみれば、農作の家なり。甚だ、はんじやうす。牛馬(うしうま)、おほく養なひ、奴婢(ぬび[やぶちゃん注:ママ。])・僕從(ぼくじう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ぼくじゆう」。])、多く群らがる。

 われ、門庭(もんてい)の中に入《いり》てみれば、家主(いへぬし)の内婦(ないふ)、はるかに我をみて、侍女をもつて、我を奧に請(しやう)ず。

 我、しんしやく[やぶちゃん注:「斟酌」。ここは「遠慮して」の意。]して行かず、あひはかりて、先《まづ》、かまどのへんに佇立(たちやすらふ)。

 また、侍女、きたりて、上にしやうず。

 我、行《ゆき》てみれば、つねに客僧をくやうするざしきあり。我、ちやくざす。[やぶちゃん注:「くやう」は「江戸怪談集」版では、『供応』となっており、注で『もてなすこと』とある。]

 わかたう[やぶちゃん注:「若黨」。]、數輩(すはい)ありて、經営す。

 侍女、齋饌(とき)を持ちきたりて、我に供(くう)ず。我、よく受用(じゆよう)す。

[やぶちゃん注:「齋饌(とき)」ここは広義の「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時(ひじ)」と称して、午後も食事をした。]

 齋、おはれる[やぶちゃん注:ママ。]に、内婦、來《きたり》て、

「いづかたの客僧ぞ。」

と問へば、

「我は、上がたのもの。」

と、こたふ。

「上かた[やぶちゃん注:ママ。]の御僧《おんそう》ときけば、御なつかしく候。御覽候ごとく、家は冨貴(ふうき)に候へとも[やぶちゃん注:ママ。]、亭主は、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]の『かたわ人《びと》』にて候。その人の果報にて、斯くのことく[やぶちゃん注:ママ。]栄え候。菩提けちえん[やぶちゃん注:「結緣」。]のために、亭主を見せ申したく候。」

「なかなか見しべし。」[やぶちゃん注:同前で「なかなか」は『ここでは「いかにも」の意』とし。「見しべし」は『「見るべし」と同じ。上方語法』とある。唱導師であるからには、成すべきこととなるので、積極的に受諾したのである。]

といへば、

「さらば、こなたへ。」

とて、内婦、先に行く。我は後に行く。

 その家づくり、廣大にして、びゝしく[やぶちゃん注:「美々しく」。]、きれい・ごんじやう[やぶちゃん注:「綺麗・嚴淨」。]、目を驚かす。

 又、別に小殿(《しやう》でん)一宇あり、らうかを、わたりてゆく。

 なほもつて、けつこう[やぶちゃん注:「結構」。造り。]、きら[やぶちゃん注:「綺羅」。]をみがく。

 内婦、立《たち》かへりて、いはく、

「亭主のかたちを見て、をどろき[やぶちゃん注:ママ。]、にぐる人、あり。くるしからず候。御心得ありて、御覽候へ」

とて、内婦、こししやうじを開くれば、四間(よま)の座敷の中に、座してゐたり。

[やぶちゃん注:「こししやうじ」腰障子。同前の高田氏の注に、『腰板の高さが約三十センチメートルほどの明り障子』とある。「四間(よま)」同前で『二間四方の広さ』とある。約三・六四メートル四方。]

 

Syoudousinohanasi

 

[やぶちゃん注:より鮮明で大きな底本早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はこれ。]

 

 頸(くび)より上は、つねの頭《かしら》の大きさにして、ゆふがほ匏(ひさご)のごとくに、目・鼻・口、なし。[やぶちゃん注:「ゆふがほ匏(ひさご)」瓢箪(ひょうたん)のこと。]

 耳は、兩方に、少し、かたち、ありて、穴(あな)、わづかに、みえたり。

 頭上(づ《じやう》)に、口、あり、蟹の口に、にて、

「いざいざ」

うごく。

 うつは物に、飯(いひ)を入《いれ》て、箸を、そへて、棚に有《ある》を、内方《うちかた》[やぶちゃん注:「内婦」。妻女。]、とりて、

「物を食はせて、みせ申さん。」

とて、箸にて、飯を、頭上の口にをけ[やぶちゃん注:ママ。]ば、

「いざいざ」

と、うごく。

 飯、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]入りぬ。

 ふためとも、見がたし。

 頸より下は、つねの人なり。

 皮膚、さくら色にして、ふとらず、やせず、手あし・指・つめ、美容(びよう)にして、あざやかなり。いしやうは、花色(くはしよく)[やぶちゃん注:「華美」に同じ。]、事をつくす。上には、もぢのすきすわうに、白袴にちぢみを寄せたり。[やぶちゃん注:「もぢのすきすわう」「綟の透素襖」。同前の高田氏の注に、『麻糸をもじって目をあらく織った布で仕立てた、夏用の素襖。室町時代の略儀用上衣』とある。]

 しかしながら、皆、夜(よる)のにしきにして、詮(せん)なし。[やぶちゃん注:「夜のにしき」「夜の錦」で、亭主には目がないので、その金襴もあたら空しいことを言う。]

 久しく見ること、あたはずして、さる。

 かへりて、元の座敷につく。

 内婦も、また、來たりて、いはく、

「ふしぎの人を見せ申して、恥かしく候。夫婦となり候事、我が身の業障(ごつしやう)あさましく候。結緣のため。」

とて、路錢(ろせん)、すこし出《いだ》し、ほどこすを、客僧、とりて去る、と云々……

[やぶちゃん注:先だっての『佐々木喜善「聽耳草紙」 一二五番 駒形神の由來』の注でも述べたが、病態としては、サイクロプス症候群(単眼症)の単眼も失った奇形が想起されるが、単眼も失っていて、しかも口が頭頂にあるというのは、おかしい。しかも、サイクロプス症候群は、脳の形成異常を伴う重症の奇形で、殆んどが死産、若しくは、出生直後に死亡し、長くても一年以内に死亡するようである。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」で単眼症の少年が登場するが、ああいうことは一寸考え難い気がする。しかし、この人物は成長しており、首から下は完全な成人男性であるというのは、全く以って信じることは出来ない。奇形を怪談化するものは、どうもそういったものを考え出すこの唱導師や、或いは、創作した著者自身の猟奇的変態性を感じさせて、そうした向きから極めて残念な感じがするのである。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「秋の江」劉采春

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  秋 の 江

            不 喜 秦 淮 水

            生 憎 江 上 船

            載 兒 夫 婿 去

            經 歲 又 經 年

                  劉 采 春

 

うたてしや秦淮の水

おぞましや江に浮ぶ船

わが夫(せ)をのせて去(い)にしより

流れけむ 年を幾年(いくとせ)

 

   ※

劉 采 春  九世紀初頭。 唐朝、元和年間、薛濤や杜秋娘などと同時代。 越の妓女である。 その囉嗊曲――望夫の歌は古來喧傳されてゐるものである。

   ※

[やぶちゃん注:台湾のサイト「人間福報」のこちらによれば、劉采春は魚玄機・薛濤・李冶と合わせて「唐朝四大女詩人」とされるとあり、清代の儒者で詩人の潘徳輿「養一齋詩話」では彼女の作品を「天下の奇作」と称したとあって、「全唐詩」には彼女の詩が六首収録されているとある。「囉嗊曲」(らこうきょく)は古歌の曲名で、別名を「望夫曲」と言い、「夫をあこがるる歌」の意である。この詩もその総題を持つ一つである。

 推定訓読を示す。

   *

 囉嗊曲

喜ばず 秦淮の水を

生憎(あいにく)や 江上(こうしやう)の船(ふね)

兒(こ)を載せ 夫壻(ふせい)は去れり

歲(とし)を經(へ) 又 年を經(ふ)れり

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四一番 座頭の夜語

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。標題の「夜語」は「よがたり」と訓じておく。]

 

  一四一番 座頭の夜語

 

 或時、座頭ノ坊樣が來て泊つた。其家では久しぶりに𢌞つて來た坊樣だから、珍しい語り物を聽くべえツて、邊り近所の人達を呼び寄せたり、坊樣には、わざわざ餅を搗いて御馳走したりした。

 坊樣もいい氣になつて、うんと餅を食つた。さあそれから段々夜も更けるから、坊樣々々、何か語つて聞かせもセと言つた。村の人達だの隣家の婆樣だのが、坊樣をずらりと取卷《とりま》いて、今に面白い話でも語り出すかと、堅唾《かたづ》を喰《く》ン呑んで待つて居た。だがいくら待つていてもなかなか語り出さぬので、[やぶちゃん注:底本では「ので」で行末で読点はないが、「ちくま文庫」版で挿入した。]其家の嚊樣《かかさま》が、さあさあ早く語つて聽かせもセざと、催促した。

 坊樣はさう責められて、はアそんだら語り申すべえ、

   ああ腹ちえエ

   ああ腹ちえエ

   小豆餅一杯二杯三杯

 と語つた。嚊樣はあきれて、なんたら坊樣、早く語つて聽かせてケでばと云ふと、坊樣はまた、はいはい、

   ああ腹ちえエ

   ああ腹ちえエ

   小豆餅三杯四杯……

 と語つた。嚊樣はなんたら早くしてゲでば、これこんなに近所の婆樣達が來て待つて居るんだからと云ふと、坊樣は、はいはい、

   小豆餅三四杯

   五六杯

   食い申し侯へば

   ああ腹ちえ

   ああ腹ちえエ

 と聲張り上げて語つた。嚊樣は少々聲をとがらして、又しても坊樣はそんなことばかり、早く語つて聽かせもセでばと云ふと、坊樣は向き直つて、はい今語り申したが、聽き取れ申さねえかつたか、宿語《やどがた》り三段繼(ツン)んでも語るなということがあるから、あとは語り申されないと言つた。

 嚊樣はじめ皆は呆れたり腹が立つたり、それよりも切角《せつかく》[やぶちゃん注:「折角」が正しい。]斯《か》うして寄り集まつて來て吳れた、邊り近所の人達に、申譯《まうしわけ》がなくて…なんたら藝無し坊樣だべと繰り返して皆を歸した。

 翌朝、坊樣はなかなか起きなかつた。あんまり起きないものだから、嚊樣が行つて、なんたら坊様だべ、ならひ風と座頭ノ坊は晝立ちと云ふことがあツから、早く起きて飯でも食つて立つてゲじやと言つた。坊樣は、はいはいと言つて、漸《や》つと起き出して、飯膳《めしぜん》に向つた。そして飯を一杯食つてはハイ二杯食つてはハイ、三杯食つてはハイと、四杯目の椀をまた突《つ》ン伸べた。嚊樣はなんたらこつた坊樣、座頭の四杯飯さ、つツかけてもワケンなと云ふことがあるが、坊樣は知らねますかと言つた。すると坊樣は伸べた椀を膳頭《ぜんがしら》に置いて默つて居たが、なに嚊樣、スツケエツタ、モツケエツタ、ノツケエツタ、ソツケエツタといつて、四杯飯食つてもなんともないもんだと言つた。

[やぶちゃん注:「ならひ風」は単に「ならひ」(現代仮名遣は「ならい」)とも言い、特に東日本の海岸沿いの地方で使われた語で、本来は「冬の寒い時期に吹く風」のことを指す。但し、風向きは、その地方によって異なる。]

「奇異雜談集」巻第一 ㊁江州枝村にて客僧にはかに女に成りし事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇のメインは、老人の語りであるので、「……」と行空けを用いて、鍵括弧(「」・『』)の五月蠅い使い分けを簡略した。【 】は怪奇談では珍しい二行割注。]

 

   ㊁江州(がうしう)枝村(えだむら)にて客僧(きやくそう)にはかに女に成りし事并《ならびに》智藏坊の事

 それがし[やぶちゃん注:著者自身。]、若年のとき、江州嶋鄕(しまのがう)に、數日(すじつ)逗留する事あり。

[やぶちゃん注:「枝村」所持する高田衛編・校注「江戸怪談集」(全三冊)上(岩波文庫一九八九年刊)の高田氏の注によれば、『室町から江戸期にかけて東山道沿いに存在した市場・宿場町。現在の滋賀県愛智(えち)郡豊郷町』(とよさとちょう)『上枝・下枝付近』とある。現在は滋賀県犬上郡豊郷町となっている。グーグル・マップ・データ(無指示は以下同じ)のこの附近となる。米原と近江八幡の中間点に当たる。さらに、逆に拡大すると、「上枝(かみえだ)」と「下枝(しもえだ)」の間を旧「中山道」が貫通しており、ここが嘗ての宿場町として栄えたことが地図上からも判明する。]

 諸人、しゆじゆ、雜談の中に、一人の老者(らうしや)、語りていはく、

 

……當国、枝村といふ宿(しゆく)に、むかし、不思議の事あり。

 たとへば、年、廿(はたち)ばかりなる客僧一人、きたりて、一宿す。

 そのかたち、美容(びよう)にして、比丘尼に似たり。言声(ごんせい)・形儀(ぎやうぎ)は、僧なり。

 その夜、大雨(《おほ》あめ)ふりて、翌日も、はれず、かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、日とまりす。[やぶちゃん注:「日とまり」日がな一日、行動せず、宿に滞留することを言う。]

 此の人、夜明けてより、そのすがた、軟弱にして、ぎやうぎ・音声、變じて、女と見えたり。

 亭主、怪しく思ひて、

「いづかたより御とほり候ぞ。」

と、とへば、

「我々は、越後の者なるが、丹波の大㙒原(おのばら)の會下(ゑげ)に、二、三年ありて、いま、越後へくだり候。」[やぶちゃん注:「我々」この場合は自称の謙譲語で単数を表わす。「わたくし」。「大㙒原の會下」同前の高田氏の注に、『会下は禅家などで、師の膝下で修行する所。実際の寺は未詳。丹波國桑田郡大野村といわれた所に、弘治元年(一五五五)―寬保元年(一七四一)に、孤峰禅師中興曹洞宗林昌寺が存在した。現在の京都府北桑田郡京北町字大野付近』とあるのが、その旧跡候補地らしい。今は京都府北桑田(くわだ)郡京北町(けいほくちょう)大野(おおの)。]

と、いへば、亭主、丹波の事、ぶあんない[やぶちゃん注:「無案内」。]なり。ゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、くはしくは、とはず、そのすがた、あやしきゆへに、

「僧にて、御入《おはい》り候か。比丘尼か。」

と問へば、うちわらひて、

「比丘尼にて候。」

と、こたふ。

 亭主、おもしろく思ひて、その夜、ふし所《どころ》に行きて、とりかかれば、じたい[やぶちゃん注:「辭退」。前後は言わずもがな、「体を求めて迫ったので、当初は拒んでいたが」の意。]すれども、つひに、したがふて、嫁宿(かしゆく)す[やぶちゃん注:共寝・同衾すること。]。常のごとし。

 亭主、先婦を失ひて、やまめ[やぶちゃん注:「やもめ」に同じ。]なるゆへに、

「さいはひの事なり。夫婦となり、これにとめ申《まうす》へし[やぶちゃん注:ママ。]。」

といへば、比丘尼、りやうじやう[やぶちゃん注:「領承」。]す。

 すなはち、つつみて、髮をながくす。[やぶちゃん注:頭を剃っているので、それを布で包んで隠し、髪が伸びるのを待ったのである。]

 ほどなく、くわいにんして、男子(なんし)を生(しやう)ず。

 やしなひて、好(よき)子を、えたり。

 その子、十二、三の時、道者(だうしや)十人あまり、此里につきて、一宿を、此家にさだむ。[やぶちゃん注:「道者」この場合は、見た目で広義の「一般の修行者・巡礼者」を指す。]

 みれば、みな、僧衆(そうしゆ)なり。

 ひとり、仁(じん)たる老僧あり。[やぶちゃん注:「仁(じん)たる」高徳な。]

 亭主、ちそう[やぶちゃん注:「馳走」。]し、洗足(せんそく)を、まいらせ、座敷を、はいて、請(しやう)じいれ、やすめ申し、茶をすすむ。

 その子、いでゝ、給仕す。すなはち、非時(ひじ)を、調へ、すすむ。[やぶちゃん注:「非時」ここは広義の「僧侶の食事・その糧」の意。狭義のそれは以下。仏教僧は原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは身が持たないので「非時」と称して午後も食事をした。]

 亭主、旅人の僕從(ぼくしう[やぶちゃん注:ママ。])に問ふて、

「いづかたより、御とをり[やぶちゃん注:ママ。]の衆ぞ。」

と、いへば、

「是は、丹波大㙒原會下(たんばおのばらゑげ)の長老にて御座候。」

と、いへば、此のよしを、内婦、聞《きき》て、おほきに驚き、氣色(きしよく)、へんじ、たつて[やぶちゃん注:「立つて」。]、かきのすき[やぶちゃん注:「垣の𨻶」。但し、同然の高田氏の注では、『ここでは室内を仕切る障子、ついたての類』を指しているとされる。]より覗けば、

「まことに。その長老にて、おはしますよ。」

と、いふて、なみだを、なかす[やぶちゃん注:ママ。]

 ともしびを出《いだ》す時分に、内婦、

「此の長老樣は、見しり申候。出《いで》て、相看(しやうかん)申《まふし》たく候。」[やぶちゃん注:「相看」同前で高田氏注に、『禅宗で「面会」の意の語』とある。]

といへば、亭主、

「もつとも。しかるべし。」

といふ。

 内婦、よそほひを改め、あんないを啓(けい)し[やぶちゃん注:申し上げ。]、子息を先に立てて、長老の御まへに出て、

「よく御げかう候よ。」

と申せば、長老のことばに、

「此里、家、おほしといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、是に一宿する事、きゑん[やぶちゃん注:ママ。「機緣」。]にて候。」

と、おほせらる。

 内婦、なみだを流し、やゝ有《あり》て、和尚の御前近くまいり[やぶちゃん注:ママ。]て、申す。

「みづからをば、御見しり有るまじく候。和尚樣をば、よく見しり申し候。

 みづからは、ゑちご[やぶちゃん注:ママ。]の国より、十八のとし、のほり[やぶちゃん注:ママ。]て、御寺に、三年、沙弥(しやみ)を經(へ)候。名をば、何と申して、洒掃(しやさう)をいたし、古則法問(こそくはう[やぶちゃん注:ママ。仏教用語では「ほふ」が正しい。]もん)を糺明し、夜話(やわ)坐禅、をこたる[やぶちゃん注:ママ。]事なく、つとめ申しさふらひしが、故鄕(こきやう)に所用ありて、請暇(しんか)申して、まかり出で候。京へのぼり、江州にわたり、枝村につきて、此の家に一宿し候。その夜、夢に、『女になる』と思ふて、夢さむれば、男根(なんこん)、なくなりて、女根(によこん)になり候。心、うかうかとして、ふしんながら、ふかく怪しむ心もなくて、夜、あけ候。その夜、大雨ふりて、翌日も、はれざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、逗留し候。心も、声も、女になりて候。[やぶちゃん注:「沙弥」同前の高田氏注に、『出家した新学年少の者で、具足戒を受けるために修行中の者、あるいはその期間』とある。「洒掃」「さいさう」とも読む。「水を注ぎ、塵を払うこと。掃除の勤めをなすこと。「古則法問」同前の高田氏注に、『禅宗修行者が瞑想すべき先人の敎えと、仏法についての問答と』とある。「夜話」禅宗で、夜、修行のためにする訓話。「古則」は一般に禅の「公案」とともに用いられるが、「公案」普通は「問答」或いは「答え」の意であるから、この「古則」というのは、「古くからある禅の命題」の意と採れる。「請暇」同前の高田氏注に、『禅家で、十五日以内の外出許可を求め他行すること。十五日を過ぎると籍を拔くことを原則とした』とある。]

 亭主、抑留して、夫婦のけいやく[やぶちゃん注:「契約」。]をなすゆへに、今迄、十五年、此の家にありつき候。もと僧にてありしことをば、亭主にかくし、今に、かたらず候。抑(そもそも)かくのごときの事、先例もある事に候や。「變成男子(へんじやうなんし)」といひ、あるひは、「轉女成男(てんぢよじやうだん)」と聞きしに、我々は、男身(なんしん)、にはかに變じて、女身《によしん》となり候こと、あさましき進退、業障(ごう[やぶちゃん注:ママ。]しやう)深重(じんぢう)に候。」[やぶちゃん注:「變成男子」「轉女成男」女性は如何に男性の僧と等しい厳しい守戒・修行・布施を成し遂げても、一度、死んで男性に生まれ変わって同様の行為をしない限り、極楽往生は出来ないという、原始仏教時代からある誤った強烈な女性差別である。釈迦はそんなことは言っていない。]

と申せば、和尚のいはく、

「闡提半月二根無根(せんだいはん《げつに》こんむこん)のたぐひになるは、世に多きものなり。」[やぶちゃん注:「闡提半月二根無根」同前の高田氏の注に従えば、「闡提」は『佛敎で、到底成仏しえぬ者である』『身』を言い(真の教えを実際には信じておらず、ひたすら名聞利養を欲求し続ける者の意)、「半月」は医学的に男女両性器を具有する『半陰陽の者』を指し、「二根無根」は『男根と女根(女陰)の二根いずれも持たない者』を指すとある(一部に私が補塡した)。「二成」男女の生殖器を一体に共に具えている両性具有者。]

と、のたまへば、内婦、

「いや、二成(ふたなり)にては、なく候。僧のときは、男根(なんこん)、つれのごとくにして、別義[やぶちゃん注:具合の悪いこと。]なく候。女になりては、女根《によこん》つねのことく[やぶちゃん注:ママ。]にて、べつぎなく候。たゝ[やぶちゃん注:ママ。]今、和尚にしようかん[やぶちゃん注:前に出た「相看」。]申して、むかしにたちかへるこゝちして、たつとく有がたく、思ひたてまつり候。」

とて、發露涕泣(はつろていきう[やぶちゃん注:ママ。])すれば、和尚、示(しめす)に頌(しゆ)をつくりていはく、[やぶちゃん注:「發露涕泣」高田氏注に、『わっと涙を流して泣くこと。發露は心の中をあらわす意』とある。「頌」同前で『伽陀』(かだ:サンスクリット語「ギャーター」の漢音写)『のこと。経文の字をとって三十二字にするものと、四句をつくるものとがあり、後者を特に頌と呼ぶ。法義を述べたり、佛德を讃嘆するもの』とある。なお、以下の「頌」はまず、返り点のみを附したものをまず示し、その後に〔 〕で訓点に従って読み下したもの(一部に送りがなを挿入した)を一段で示した。仮名遣は総てママである]

   天地異法生  人五薀假合

   鷹依日成鳩 雀入水成

   〔天地 異法(いほう) 生(しやう)ず

    人(ひと) 五薀(ごうん) 假(かり)に合(がつ)す

    鷹 日(ひ)に依(よ)つて 鳩(はと)に成り

    雀(すゝめ) 水に入つて 蛤(はまくり)に成る〕

 その時、ざしきのくはし[やぶちゃん注:「菓子」。]の、のこりの、山のいも、ありしを、和尚、ゆびさしていはく、

「やまのいもの、うなぎとなれるがごときぞ。これ、みな、先例なり。うれふること、なかれ。たゞ、汝が、いにしへ、知るところの、古則話頭(こそくわとう)、よく臆持(おくぢ)して、わするゝ事なく、單々(たんたん)に截斷(せつだん)せば、何のざいしやうしんぢう[やぶちゃん注:「罪障深重」。]か、あらんや。心やすくおもふべし。」[やぶちゃん注:「話頭」高田氏注に、『禅宗で、古則・公案の一節。または、その一則』とある。]

と、のたまへは[やぶちゃん注:ママ。]、内婦、しうるい[やぶちゃん注:「愁淚」。]をはらし、㐂悅大悟(きえつだいご)して、礼拜(らいはい)をなして去(さり)ぬ。

 その同行の中の一僧、いでゝ、和尚にとつていはく、[やぶちゃん注:同前で高田氏は『不詳。「によつて」の誤刻か』とされる。私の底本を見ると、確かに「とつて」なのだが、眺めていると、「つ」の崩しは「川」の崩し字なのだが、これの中央の部分を波打たずに書いた場合、「ひ」「い」の崩しにかなり近く見えるように感じた。とすると、「とひて」「といて」で「問ひ(い)て」の可能性もあるやに思われた。]

「いまの五言一頌(ごごんいちじゆ)の垂示(すいじ)、何のいはれぞや。」[やぶちゃん注:以下の和尚の台詞中に漢文部が出現するが、先の「頌」と同じ処理をした。]

 和尚、解(げ)していはく、

「肉身(にくしん)は、地水火風空の五薀(うん)、かりに和合して、実(じつ)なる物にあらざるなり。又、本來、空の處に、天地(てんち)、出現して住(ぢう)する、これ、異法なり。異法の性《しやう》によつて、異法の萬物(ばんぶつ)を生ず。異法の氣にしたがつて、異法の萬物、轉變(めぐりへん)ずるなり。葵藿(あをひ[やぶちゃん注:ママ。])は、日にむかうて、轉(めぐり)、芭蕉(ばせを)は雷(かみなり)をきいて、長(のぶる)。それ、目(め)、なふして、日を見、耳、なふして、雷をきく。これ、みな、異法の氣のいたす所なり【「涅槃經」巻三十二に見《みえ》たり。】。異法の變にあづからざるものは、たゞ本來の佛性《ぶつしやう》なり。おなじき卷にいはく、『如來常住无ㇾ有變易、一切衆生悉有佛性〔如來、常住にして變易(へんやく)有ること无(な)し。一切衆生(いつさいしゆじやう)、悉(ことごと)く佛性有り〕云〻。七十二候(《しちじふに》こう)を按ずるに、五日を一候とす。七十二候は、すなはち、一年の日數(《ひ》かず)なり。はじめ、立春よりして、一候一候に、萬物、轉變(てんべん[やぶちゃん注:ママ。])するなり。二月の節(せつ)、第三候、五日の間に、鷹、變じて、鳩となり、九月の節、第三の候、五日の間に、雀、水に入つて蛤となる。かるがゆへに、日による、と、いふなり。七十二候に萬物變ずる事、おほき中に、此の二か条、『僧の女になれる』たぐひなるゆへに、これをいへるなり。七十二候は、人、知らざるなり、山の芋の、うなぎとなるをば、世俗、みな、これを知るゆへに、これを引きて、もつて、たとへとするなり。是、僧、變じて、女になれるの先例なり。」[やぶちゃん注:「五薀」サンスクリット語「スカンダ」の漢訳。「蘊」は「集合体」の意。色(しき:物質)・受(印象や感覚)・想(知覚や表象)・行(意志などの心の作用)、識(心)の五つを指し、総じて、有情(うじょう)の物質性と精神の両面に亙る要素を指し、因縁によって生ずるところの有為(うい)法を言う。同時に人間の心身環境全体をも示す。「五陰」(ごおん)とも言う。「七十二候」これは古代中国で考案された季節を表わす方式の一種で、本来は仏教とは関係がない。二十四節気(戦国時代(紀元前四世紀)に発明された四季・気候などの視点で地球上の一年を仕分ける方法)を、さらに約五日毎の三つに細分した期間の総体を言う。当該ウィキによれば、『各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。中には、「雉入大水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている』。『古代中国のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度か変更されている。 日本でも、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成された。現在では』、明治七(一八七四)年の『「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われている。俳句の季語には、中国の七十二候によるものも一部残っている』とある。リンク先には一覧があるので見られたいが、それによれば、ここで挙げている「鷹化爲鳩」は中国の「宣明暦」のもので、「啓蟄」の「末候」で旧暦二月の前半の終りの方で、「雀入大水爲蛤」も同前で「寒露」の「次候」で旧暦八月末から九月初めに相当する。]

と云々。

 それがし[やぶちゃん注:冒頭に出たこの話をしている老人。]、此のざうだん[やぶちゃん注:「雜談」。]を聞きて、まことしからず思ふゆへに、人に語ること、なし。

 それがし、天文十年[やぶちゃん注:一五四一年。]の比、播州にくだりて、上洛の時、たんばのおのばらにて、ひる[やぶちゃん注:昼。]のやすみをするに、同道の人、

「『大㙒原の會下』に所用あり。これより、一里ばかりあるほどに、ゆき、やがて、かへらん。」

とて、ゆく。その間に、宿(やと[やぶちゃん注:ママ。])の亭主と物がたりするに、會下の事をかたるうちに、

「むかし、ふしぎの事、あり。廿(はたち)ばかりの僧、故鄕ゑちご[やぶちゃん注:ママ。]ヘくだるとて、江州枝村の宿にて、女になりたる事あり。」

と、かたる。それがし、やがて聞き得て、りやうじやう[やぶちゃん注:「領承」。]す。

 さるほどに、四十年以前に、江州にて、此の事を、人のかたりしを聞《きき》て、まことゝも思はざりしに、今、また、この方《かた》にて、聞くうへは、まことなり。……

 

 此の雜談を聞きて、喜悅なり。それがし[やぶちゃん注:冒頭の著者自身。]、かへつて、枝村にてのしだいを、あらあら、語るなり。亭主、聞きてよろこぶ。

 寶幢院(ほうどう《ゐん》)の宗珎(そうちん)、この雜談をきかれて、ついでにいはく、[やぶちゃん注:「寶幢院」高田氏の注に『比叡山西塔』(さいとう)『にある塔頭の名』とある。調べたが、現在の釈迦堂(グーグル・マップ・データ。以下も同じ)の北東にあった最澄が構想した十六院の一つであったが、廃絶して現存しない。「宗珎」不詳。]

「下㙒(しもつけ)の国にも、また、僧の女人に成りたる事あり。是は叡山の東堂(《とう》だう)[やぶちゃん注:「東塔」に同じ。]西谷(《にし》だに)の吉祥院(《きち》しやう《ゐん》》智藏坊の說なり。たゞ、一往(《いち》わう)[やぶちゃん注:「一度だけ」或いは「大略のみ」。]にして、くわしく事をとかざるなり。智藏坊、実(じつ)なる人なり。きよごん[やぶちゃん注:「虛言」。噓。]にてあるべからず。」

といふ處に、むらさき㙒大德寺の正首座(《せい》しゆそ)、[やぶちゃん注:「むらさき㙒大德寺」現在の京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派大本山龍寶山大徳寺。「正首座」同前の高田氏の注に、『禅寺で修行僧中、首席にあるもの。修行僧中の第一位で、長老(住持)の次位にあり、僧堂内のいっさいの事をつかさどる者』とある。]

「此の事、東国にて、きゝをよぶ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いふて、かたりて、いはく、

「下㙒の国より、僧二人、足利にゆきて、がくもんす。又、同じき国の僧、文長といふ人、一人、おなじく學問す。ともに數年(す《ねん》)すぎて、故鄕(こきやう)にかヘる。又、十年をすぎて、前の二僧、同道して、他所(た《しよ》)にゆく。路地の小家(《こ》いへ)に酒箒(《さか》はうき)あり。二人、よりて、濁醪(にごりさけ)を、のむ。家主内婦(やぬしないふ)、二僧を、つくつく[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。後も同じ。]と、みる。二僧、ひそかにいはく、[やぶちゃん注:「酒箒」昔の酒屋の看板。「酒林(さかばやし)」「酒旗(さかばた)」「杉玉」とも称する。一~二尺の長さの杉の枝葉を束ねて箒のようにしたり、球状にしたもので、戸口に立て掛けたり、軒先に吊り下げたりした。江戸末期まで一般に見られた風習で、今日でも一部の酒造家の間に残っている。杉が用いられるのは、古く神酒やそれを入れる瓶(かめ)のことを「みわ」と呼び、また、酒の神である大和国三輪山に鎮座する大神(おおみわ)神社が杉を神木とした縁にちなむといわれる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

『此の内婦は、足利にての、文長に、よく似たり。』

といふて、つくつくみれば、内婦のいはく、

『二人の御僧は、見しり申し候。われわれ[やぶちゃん注:先に出た謙遜の一人称。]をば、御見しりあるまじく候。」[やぶちゃん注:後半は「でも、私のことは、お見知りとは思われないで御座いましょう。」の意。]

といふ。二僧のいはく、

『されば、此の方も、見知りたるやうに覺え候。」

と、いヘば、内婦のいはく、

「我々は、文長にて候。」

といふ。二僧、驚きて、いはく、

『いかんとしたる事ぞ。』

といへば、内婦のいはく、

「ちかごろ、はづかしき事なれとも[やぶちゃん注:ママ。]、かたり申し候。足利より、かへりて、三十二のとし、裸根(らこん)、はなはだかゆきゆへに、熱湯をもつて、たづる事、かぎりなし。はなはだ、たづるとき、裸根、陰嚢(いんのう)ともに、ぬけ落(おち)たり。とりて見るに、用(よう)にたたざる物なるゆへに、すてたり。そのあと、開閇(かいひん)になりて、常のごとし。のちに、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])を、まうけて、子を、うむ事、二人なり。」[やぶちゃん注:「裸根」男根。陰茎。「たづる」同前の高田氏の注に、『炎症や充血をとり去るために、冷水または温湯に浸した布を患部にあてて、湿布する治療法。「開閇になりて」同前で『閇は閉の別体。女陰ができて』とある。男性生殖器部分が脱落して「閉」じ、女性生殖器が新たに「開」いたということか。]

と、かたれば、二僧、怪しみ、驚きて去る、と、きくなり。」

と云々。

 宗珎、ちなみに智藏坊のしんだい[やぶちゃん注:「身代」。]を語りていはく、

「是は、しもつけの国の人なり。国にて、弁才天をしんがう[やぶちゃん注:ママ。「信仰」。]するゆへに、安藝の、いつく嶋の弁才天に、さんけいして、七日、さんろうす。毎日、三千三百三十三度(ど)のらいはいをぎやうず。あるとき、高しほ、さしのぼりて、大浪(おほなみ)、うちきたる。此の人、

『いのちを、天女にまかせる。』

と思ふて、にげさらず。かへる波にひかれて、すでに、おぼれ死す。波、また、よせきたるに、此人を乘せて、なぎさにうちあくる[やぶちゃん注:ママ。]なり。社家(しやけ)の人、これをみて、

『社中(しやちう)に死人(しにん)を忌む。はやく、すつべし。』

とて寄りてみれば、息、いまだ、たえず。さるゆへに、人みな、すくひたすくるなり。心ただしくなりて[やぶちゃん注:正気を取り戻して。]、いはく、

『いのちをしんりよ[やぶちゃん注:「神慮」。]にまかせたてまつりて、かくのごとし。』

といふ。

『さては。天女のみやうかん[やぶちゃん注:「冥感」。]にかなふ人なり。』

と、みな、いへり。たつとく思ひて、行(ぎやう)を滿(まん)じて、かへりさる。また、竹生嶋(ちくぶしま)にさんけいす。

『後生(ごしやう)ぼだいの行業(ぎやうごう)、じやうしう[やぶちゃん注:ママ。「成就」。]をいのりて、湖水に身をなげん。』

と、おもひて、「身なげいし」[やぶちゃん注:「身投げ石」。]の上にのぼりて、身をなけ[やぶちゃん注:ママ。]たり。その下に、大なる龜あり。わたり、五、六尺の甲のうへにおちあたるゆへに、龜、此人をのせて、水のうへに、浮きあがるなり。人、これを見て、

『智藏坊なり。』

とて、引《ひき》あくる[やぶちゃん注:ママ。]なり。智藏坊のいはく、

『石を袖にいれざるゆへに、死せざるなり。又。石をいれて、身をなけん[やぶちゃん注:ママ。]。』

といふ。人みな、をさへ[やぶちゃん注:ママ。]とゝめて[やぶちゃん注:ママ。]いはく、

『天命、いまだつきざるゆへなり。何とせられたりとも、死なるべからず。』

といふて、とむるなり。

『もつとも。』

といふて、かへりさつて、えいざんにぼりて、吉祥院(きちじやうゐん[やぶちゃん注:前出では「祥」のみに「じやう」と振っている。])に入《いり》て、十六年、住山(ぢうさん)せらるる也。」

[やぶちゃん注:「五、六尺の甲」本邦の淡水産のカメの在来種ではこの大きさはあり得ない。

 さても。この女に変じたとするのは、遺伝子上の女性の卵精巣性性分化疾患(旧称「真性半陰陽」)であろう。「小児慢性特定疾病情報センター」公式サイト内の同疾患によれば、本邦における現代の百二十五『例での検討では』、四十六例がXX(遺伝子上は正規の女性)が六十一・六%とある。]

2023/06/29

佐々木喜善「聽耳草紙」 一四〇番 座頭ノ坊が貉の宿かり

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。]

 

   一四〇番 座頭ノ坊が貉の宿かり

 

 或時、座頭ノ坊樣が廣い野原で日が暮れて、[やぶちゃん注:底本は句点だが、「ちくま文庫」版で訂した。]行つても行つても家が一軒あるでなし、これは何(ナゾ)にしたらよかべと思つて、思案に暮れて行くと、ひょツくりと一軒家にたどり著いた。そこで俺は旅の盲目坊だが、一夜の宿をかしてたんもれと賴むと、其家の人は喜んで泊めた。そして、坊樣々々、さあさ早く此方《こつち》さ上つて休みなさいと言はれて、廣い座敷に上げられた。

 とにかく定通(オキテトホ)りの宿語りを、ろれんろれんと一くさり語り終つて寢たが、どうも其座敷が奇態な匂《にほひ》で、氣が落著《おちつ》けなかつた。それに不思議と思へば、足洗ひ湯も汲んで出さなかつた。ハテ奇態だなアと思つて、夜半にソロツと起き出して、座敷の彼方此方(アツチコツチ)を探つて見ると、案の定、疊の緣(ヘリ)がなく、のツペりとした澁紙のやうな物で、しかも柔らかで溫味《ぬくみ》のあるものであつた。

 是は只事《ただごと》ではないと、背負荷《せおひに》から小刀を取り出して、カリリツと疊を切り裂いた。すると其座敷がゴロリと澤《さは》へ轉がり落ち、坊主は野中の草ツ原へ張飛《はりと》ばされた。狢の睾丸《きんたま》に泊つて居たのであつた。

 

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三九番 座頭ノ坊になつた男

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。]

 

      一三九番 座頭ノ坊になつた男

 

 或所に正直者があつた。なんぼ稼《かせい》でも善い目が出ない。何とかして運が向いて來るやうにと、淸水《きよみづ》の觀音樣へ行つて願をかけた。すると滿願の前の夜、觀音樣が夢枕に立つて、お前の願ひは木の枝を搖(ユス)ぶつても草葉の蔭を探しても叶はせ難い事だが、それでは餘りお前がふびんだから、たつた一事《ひとこと》よいことを授けてやる。明日の朝目が覺めたら御堂の高椽《かうえん》から飛下りて見ろとの御告げがあつた。男はこれはよい事を聞いたと思つて、翌朝目が覺めるといきなり御堂の高緣からぱツと飛下《とびお》りた。するとその拍子に自分の眼玉が拔け落ちた。あれやツことだと思つて大急ぎでそれを拾つて目にはめ込むと、けえツちやくれ(反對)に入れてしまつた。ところが腹の中の五臟六腑が、すつかり見えるやうになつて、それから忽ち名高い醫者となつて大層金儲けをした。

 そのことを見聞(ミキキ)した隣家(トナリ)の怠者《なまけもの》は、俺もそんだらと思つて同じ觀音樣へ行つて願をかけた。すると觀音樣が滿願の前の夜夢枕に立つて、お前には草葉の蔭や石塊《いしくれ》の下を探しても授ける運とては無いが、お前もふびんだから明日の朝、御堂の高緣から飛び下りてみろとお告げになつた。これはよいことを聞いた。俺もはア隣のやうなお醫者樣になれたと思つて、夜中に搔這(カツパヘ)起きて御堂の高緣からばえら飛び下りた。するとぽつツと眼玉がぶん拔けた。それや今だと思つて狼狽(アワ)てゝ拾込《ひろひこ》むと、誤つて橡實(トチンミ)を目にはめ込んでしまつた。何のことお醫者樣になるどころか一生座頭ノ坊になつた。

 

「奇異雜談集」始動 / 序・第一巻目録・㊀五条の足輕京にて死するに越中にて人これにあふ事

[やぶちゃん注:「奇異雜談集(きいざうだんしふ)」の本文電子化を始動する。これは、江戸初期の怪談集で、編著者は不詳(中村某)。貞享四(一六八七)年刊で全六巻であるが、原形の成立は遙かに古く、天正元(一五七三)年頃かともされ、写本で伝わっていた。諸国の怪談三十話と、注目すべきは、後代の怪奇談集に踏襲されるところの、明代の瞿佑(くゆう)の「剪灯(せんとう)新話」等から四話を翻訳している点で、江戸時代の怪異小説の濫觴と言ってよい作品である。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の京都の「落葉書肆 柳枝軒藏板」(出版年不明)の画像を視認する。他に、国立国会図書館デジタルコレクションの国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」(『近世文芸資料』第三・吉田幸一 編一九五五年古典文庫刊)所収のもの(但し、これは新字体。リンク先は第一巻第一話の冒頭)、及び、「国文学研究資料館」の「国書データベース」の写本を参考にする。

 但し、底本は画像使用が許可されていないので、挿絵に関しては、単体画像は一部を除き(後述)の以下のように底本のリンクのみに留める。正字正仮名ではあるが、同書全体を納めることが出来ないので、例えば、表紙見返し・その左から漢文訓点(読みも含む)附き崩し字の「序」の前半が、次のこの右に後半が載る。以上のリンクは底本早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像)なども画像では挙げられない。底本や国立国会図書館版は、使用許可をとれば、画像使用が出来るが、底本は許可申請手続きがかなり面倒で、最終許可は二週間かかるので、私の電子化とはタイム・ラグが生ずるため、今まで一度も早稲田大学図書館への申請はしたことがない。また、国立国会図書館デジタルコレクションは総てが使用許可申請を必要とした頃でも、比較的直ぐに許可を出して呉れるのだが、如何せん、国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」版の挿絵などの画質が、底本に比して、薄く、黄色く、画素が粗く、よくない――例えば、巻頭第一話の挿絵は底本ではこちらだが(大型で画質も細部までしっかりしている)、国立国会図書館ではこれで、後者は画像補正をして拡大しても人物の表情などは、凡そしっかりとは見えないことが判るはずある――ので、許可を取ってまでする食指は、これ、動かないのである。されば、同書全体を電子化することは諦め、以上のリンクに換え、序の漢文(訓点附き)は訓点に従って訓読したものをのみ示す。

 但し、「奇異雑談集」から二十二話(新字旧仮名)を抄録する高田衛編・校注「江戸怪談集」(全三冊:本集は二十九歳の私が最も心躍らせ精読した怪談集の一つであった)上(岩波文庫一九八九年刊)を一部の加工データとして使用させて戴く(これによって格段に時間を節約出来る)こととし、そちらの注も、一部、参考にさせて戴く予定(引用する場合は必ず書誌を示す)なれば、ここに御礼申し上げる。また、この岩波文庫版では、何枚かの挿絵が示されているため、それをせめてもの遺愛として、トリミング補正して掲げることとする。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 底本は崩し字であるため、字体に迷った場合は、正字を採用する。注は私が躓いた箇所、また、特に注をしたく感じた場合に附す。読みは、必要と感じた読みの振れると判断したもののみに留めた。

 以下、序の私の訓読文。濁点がない箇所や歴史的仮名遣の誤りはママ。句読点・中黒(「・」)は私が振った。送り仮名の内、漢字表記の箇所は特異的に漢字を用いた。《 》は私が推定した読みである。]

 

 奇異雜談序(きいさうたんじよ)

奇異雜談集六卷を廣刻(くはうこく)するは、昔、江州佐ゝ木屋形(さゝきやかた)幕下(まくか)に、中村氏(なかむらうぢ)豊前守(ぶぜんのかみ)と云ふ者、其の裔(えい)(それかし)(えら)ふ所にして、唐土(とうど)・本朝(ほんてやう)の怪異(くわいい)の説(せつ)を錄して、以て、後人(こうじん)に遺(のこ)す。実(まこと)に是れ、童蒙(とうもう)の至寶(しほう)なり[やぶちゃん注:「近世怪異小説」版の漢文の活字起しでは、ここに読みを示さない「在」を打っているが、これは前に送られている「なり」の「也」の崩し字であって、「在」は誤判読である。]。予、玆(こゝ)に一《ひと》たひ、閲(えつ)するに、兩(りやう)の翅(つはさ)を張(は)つて、自(みつか)ら邊鄕(へんきやう)に遊び、偭(まのあた)り、其の事に遇(あ)ふかのことくにして、愼(つゝし)むへく、而《しか》も懼(をそ)るへし。此の集(しふ)を讀むことを得(ゑ)は、博(ひろ)く、(きんこ)希奇(けき)の、大怪(たいくわい)なることを知つて、庶幾(こいねかは)くは、自(みつか)ら戒(いまし)めんと、云ふのみ。

 

[やぶちゃん注:以下、巻第一の目録。頭の漢数字は底本では二重丸の中に入っている。底本では長い標題はある一定のところで、二行目に同一の位置に改行されてあるが。ここでは無視して、繋げた。歴史的仮名遣の誤りはママ。なお、以下、どの巻でも「目錄」の標題は字の大きさが、本文よりも大きいが、読みを附している関係上、無駄に改行されてしまうだけなので、本文と同じ大きさにした。]

 

竒異雜談集卷第一

          目錄

㊀五条の足輕京にて死するに越中にて人これにあふ事

㊁江州枝村(えだむら)にて客僧(きやくそう)にはかに女(をんな)に成し事智藏坊の事

㊂人の面(おもて)が目鼻なくして口(くち)頂(いたゞきの)上にありて物をくふ事

㊃古堂(ふるだう)の天井に女を磔(はつけ[やぶちゃん注:ママ。])にかけをく事

㊄九世戶(くぜのと)の蚊帳(かちやう)の中におもひの火僧のむねより出し事龍灯(りうとう)の事

㊅作善(さぜん)の齋會(さいゑ)に僧衆中(そうしゆちう)酒をのめるとき位牌の靈魂の喝食(かつしき)のかたちを現じて火炎(くはゑん)にやけし事

 

[やぶちゃん注:以下、本文となるが、読み易さを考え、段落を成形し、句読点・記号も自由に追加した。踊り字「〱」「〲」は正字又は「々」に代えた。【 】は二行割注。]

 

竒異雜談集巻第一

   ㊀五条の足輕京にて死するに越中にて人これにあふ事

 「應仁の乱」中のことなるに、東洞院と高倉との間に、足輕、一人あり【名字は忘却。】。

[やぶちゃん注:]この南北の同名の通りの間(グーグル・マップ・データ)。

 夏の比なるに、淸水(きよみづ)に、さんけいす。

 あさめしいぜんに、隔子(かうし)のもんのかたびらに、もよぎのもぢの十德(じつとく)に、かたな・わきざしにて、やどを出《いで》つ。

[やぶちゃん注:「隔子(かうし)のもん」「格子の紋」。

「もよぎのもぢ」「萌黃の綟(綟子)」。萌黄(もえぎ)色の麻糸で織った目の粗い布。

「十德」室町時代、下級武士の着た、脇を縫った素襖(すおう)のこと。江戸時代になると、腰から下に襞をつけ、医師・儒者・絵師などの礼服となった。絹・紗などを用い、色は黒に限った。僧衣の「直綴(じきとつ)」の転とされる。]

 中間(ちうげん)は、かたぎぬ、よのばかまにて、主(しう)の笠を頸にかけ、手やりを、かたげて、あとにゆく。

[やぶちゃん注:「かたぎぬ」「肩衣」素襖(すおう)の袖を取り除いたもので、戦さでは甲冑の上に着用したもの。

「よのばかま」「四幅袴・四布袴」。四幅で、裾短かに仕立て、菊綴(きくとじ)を添えた労働用の袴。多くは中間・小者などが着用した。]

 畠山方《はたけやまがた》より、このあしがるを、

「生害(しやうがい)せん。」

とて、れんれん、ねらふて、此時、「三本そとは」の邊(へん)にて、人數《にんず》ありて、うたるゝなり。

 

[やぶちゃん注:挿絵有り。底本ではここ。二人が襲撃されるシーン。右幅奥に足軽、その手前に正面真向頭部を斬られているのが、中間。]

 

 主從二人、生害す。

[やぶちゃん注:「三本そとは」挿絵から「三本卒塔婆」(さんぼんそとば)という通称らしいが、位置不詳。識者の御教授を乞う。]

 やがて、しがいを、やどに、とる。

 刀・わきざしは、なし。かたびら、十德に血のつきたるを、あらひて、ほす。

「後に、ひにんに、やるべし。」[やぶちゃん注:「ひにん」非人。血の穢れがあるため。]

とて、ゆひからげて、せど[やぶちゃん注:「背戶」。裏口。]の小屋に、をく[やぶちゃん注:ママ。]

 死骸は、その日、葬(さう)をするなり。

 中陰をするに、十四、五日のころ、となりの亭主、善光寺さんけいより、下向(げかう)して宿(やど)につく。

[やぶちゃん注:「中陰をする」人の死後、七七日(なななぬか)、則ち、四十九日の喪に入ることを言う。]

 留《る》すの内方(ないはう)[やぶちゃん注:妻。]、よろこふで、

「はやくげかう候よ。」[やぶちゃん注:「もっと早くお帰りになってほしう御座いましたわ。」の意。]

といふ。

「京には、何事もなきか。」

といふ。

 内のいはく、

「となりの亭主、死去(しきよ)候。」

といふ。

「いや。それは、越中にて、あひ候ものを。」

といふ。

 内のいはく、

「此十四、五日さきに、畠山方より、淸水の道にて、うたれ候。いま、中陰にて候。越中にてあひ候と、おほせられ候は、べちの人にて、あるべく候。」

と、いへば、亭主、おほきにおどろき、まづ、となりへゆく。

 となりの内方、

「はやく御《おん》げかう候よ。」

と、いふて、なみだをながす。

「さて。ふしぎの事をきゝ候ほどに、おどろきて、まづ、わらんづ[やぶちゃん注:草鞋。]も、ぬがず參《さん》じ候。さて、まことにて候や。下向のとき、越中にて、あひ申候。」

といへば、内方、おどろきて、きゝたるほどに、

「越中にて、ある里にとまりて、早朝に、したゝめ[やぶちゃん注:仕度・準備。]して、出(いで)くれば、山きは、田のある間のみちにて、是(それ)の御亭(ごてい)に、ふとあひ申候。[やぶちゃん注:「御亭」御亭主の略。]

『さて、はやく、下向候よ。』

と、おほせらる。

『いづかたへ、御くだり候や。』

と申せば、

『ちと、所用あつて、くだり候。』

と、おほせらる。

『京には何事もなく候や。』

と申せば、

『中々、何事もなく候。われわれに御あひ候よしを、わたくしの宿(やど)にて、おほせられ候へ。ことばにておほせられ候かたは、まことゝ思ふまじく候。手《て》じるしを、まいらすぺく候。』[やぶちゃん注:「手じるし」自身に確かに逢ったことを示す手ずから作った証拠の印。]

とて、道のはたに、五、六尺なる木の、しろきがあるに、十德の袖をあてゝ、そこにて、袖のすみを、きりて、たまはり候ほどに、

『我々、まいりて申候に、御うたがひは、あるまじきに、むようの御手じるしや。』

と申せども、はや御きり候間、とり申候。なを[やぶちゃん注:ママ。]、京のこと、とひ申たく候へども、いそがはしく御とをり[やぶちゃん注:ママ。]候あひだ、是非にをよはず[やぶちゃん注:ママ。]候。すこしあとに、中間、かたぎぬ、よのばかまに、笠を、頸にかけ、手鑓《てやり》をかたげ、あしなかにて、ゆけり。[やぶちゃん注:「あしなか」「足半」。踵(かかと)に応ずる部分がない前半分の短小な草履。鼻緒を角(つの)結びにするのを特色する(これに対して普通の長さのものを「長草履」とも呼ぶ)。これは、軽くて走るのに便利で、武士などが好んで用い、農山漁村でも作業用に広く用いられた。]

『めづらしや。』

と、いへぱ、

『されば。』

と申《まふし》て、いそぎ、ゆきぬ。旅の躰《てい》にもあらず、いつも京中(《きやう》なか)を歩(あり)かるゝ躰にて、かうしの紋のかたぴらに、もよぎのもぢの十德に、わらこんがうにて候つる。其日をおもへば、十五日になり候。さて此方《こちら》にて、死去は一定(いち《ぢやう》)にて候や。」[やぶちゃん注:「わらこんがう」「藁金剛」は「金剛草履」のこと。藁や藺(い)などを丁寧に緻密に編んで作った形の大きい丈夫な草履。普通のものよりも後部が細い。「一定」死の事実と時間経過が一致していること。]

と申せば、内方そのほか、内衆(ないしゆ)、中陰の僧衆(そうしゆ)、みな、おどろく所に、かの十德の袖のきれを、火うちぶくろより、とり出し、内方へ、なげやる。

 内《ない》が、とりてみて、

「是は。まことに。是《こ》の十德の色なり。生害の時、十德の袖のはし、きれたるよ、と、おもひて、ありしぞ。」

 その小屋なるかたびら・十德、とりよせて、ときひろぐれば、となりの人、見て、

「越中にても、まさしく、此かたびら・十德にて、候つる。」

 内方、いまのきれを、袖にあてゝみれぱ、よく、あふて、はたの、まくれたる處のきれくちまで、能(よく)あふなり。

 みなみな、これを見て、あきれて、ぜひを、わきまへず。

「その日を、今日まで、十五日になり候と、おほせられ候。きのふ、二七日《ふたなぬか》の作善《さぜん》をし候ほどに、まことに、十五日になり候。」

 夏なれども、おうへ[やぶちゃん注:「奥方」か。奥の部屋。]に、炉(ゆるり)[やぶちゃん注:「いろり」に同じ。]をあけて、釜を、つり、荼の湯をするなり。

 内方のいはく、

「葬(さう)のまへに、こゝにゐて、ゆるりのふちをみれば、刀にて、ふかく、ものを、きりたるあと、あり。藁を御覧候へ。此きりめのくちに、もよぎ[やぶちゃん注:先の萌黄色に同じ。]の糸のほつれ、すこし、二つ、三つ、はさまりてありしを、とりて、ひねりて、すて候。

『こゝにて、誰か、あらけなく、物を、きるや。』

と、おもひ候つる。」

 となりの人、又、いはく、

「越中にて、袖を御きり候て、たまはり候とき、木のうへを、そつと、みれば、きりくちのあとに、もぢ[やぶちゃん注:先の「綟子」。]の糸の、ほつれ、すこし、二つ、三つ、はさまりてありしぞ。こは、そも、何と申《まうす》事にては候や。」

 あまりにふしぎの事なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。] に、やがて、越中へくだる人に、その所を申《まふし》きかせ、

「その道ばたの木を、みよ。刀のきりめ、あるべし。」

と申せば、越中にて、その所にゆき、道ばたの木を、たづぬるに、さらに、その木、なし。

 その里にて、たづぬるにも、

「さやうの木、ありたる事、なし。」

と申也。

 此事、ふうぶんして、諸人(しよにん)、五条の家に、きたつて、かの十徳を見る事、かぎりなし。

 それがし[やぶちゃん注:本書の著者自身。]、幼少より、しげく、此ざうたんを、きく。今は此事をしる人、なし。

 かるがゆへに、これを、しるして、のこすなり。

 およそ、越中にて、死(しし)たる人に、あふ事、むかしより、これ、あり。

 みな、善光寺さんけいの人、あるひは、修行眞実(しゆぎやうしんじつ)の人は、死たる人に、あふなり。

 たび人・あき人等は、あふこと、なし。又、出家・善人の、死たるにあふ事、なし。

 かるがゆへに、

「越中は、地獄道なり。」

と、いへり。

 立山のふもとにおゐて、「老婆堂(うばだう)」をつくり、

「木像の老婆(うば)、むかし、天(てん)より、下(ふる)。」

と、いひつたへたり。

 是、三途河(さんづがは)の老婆(うば)なり。

 堂の前をすぎて、立山にのぼれば、もろもろの「ぢごく」の躰《てい》あり。

 人みな、めぐり行(ゆき)みれば、熱湯、帀〻《さふさふ》と、わきかへり、けぶり、地より、いでゝ、熱(あつき)處、おほし。これを「地獄」と名づくるなり。

[やぶちゃん注:「帀〻《さふさふ》」この熟語は知らない。「帀」は「めぐる・周囲をまわる・取り巻く」・「あまねし」・「揃い」の意であるから、熱湯が止まることなく沸き返ることを繰り返すことを言っているのであろう。

 立山の現在地獄の記載は、怪奇談は私の電子化物でも枚挙に暇がないが、「諸國里人談卷之三 立山」と、「諸国因果物語 巻之四 死たる子立山より言傳せし事」、及び、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十二 亡者錢を取返す事 附 鐵を返す事」を例として挙げておく。

2023/06/28

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「三」 の「黑猫」 / 「三」~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 以下の本篇は、南方熊楠自身の先行する『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』の第一節『〇田邊で黑き猫を腹に載れば、癪を治すと云ふ。明和頃出板?壺堇と云ふ小說に、鬱症の者が黑猫を畜ふと癒ると有た。予曾て獨逸產れの猶太人に聞しは、鬱症に黑猫最も有害だと。又猫畜ふ時年期を約して養ふと、其期限盡れば何處かえ去る。又猫長じて一貫目の重量に及べば祝ふ、何れも田邊の舊習也。』に対する附記である。]

 

○黑猫(第三號一七五頁)は癪や鬱症《きやみ》を癒すと、本邦で言ふに、獨逸生れの猶太《ユダヤ》人は、「鬱症に、黑猫、最も有害だ。」と予に語つた。然し、此一事を以て、西洋で、一汎に猫を病人に有害とすと言ふ譯に、往かぬ。其證は一八九五年六月の『フォークロワー』に出た、グルーム博士の英國サッフォーク州の俗醫方の中に、喘息を病む者、猫を畜《か》ひ、愛翫すると、喘息、猫に移り、終《つひ》に死ぬが、病人は、全く治《なほ》る、と有る。(大正二年十月『鄕土硏究』第一卷第八號)

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「三」 の「大豆を埋て腰掛」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 なお、底本では冒頭の「三」の四字下げで初出書誌が載るが、引き上げた。

 以下の本篇は、南方熊楠自身の先行する『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』の第一節『〇田邊で齒痛を病む者、法輪寺と云ふ禪寺の入口の六地藏の石像に願を立て、其前へ豆を埋め置くと、豆が芽を出さぬ内は齒が痛まぬ。因て芽が決して出ぬ樣に、炒豆を埋め立願する、丸で詐欺其儘な立願だ。』に対する附記である。]

 

      (大正二年十月『鄕土硏究』第一卷第八號)

 

○大豆を埋《うめ》て腰掛(第三號一七三頁)すると、豆の芽が出ぬ内は齒が痛まぬ。因て豆が何時迄も芽を出さぬ樣に炒豆を埋る由を書《かい》た後、不圖《ふと》、西鶴の「男色大鑑《なんしよくおほかがみ》」二の五章を見ると、疱瘡を治すに、『河内國、「岸《きし》の堂」と云ふ觀音の靈場に、煎豆《いりまめ》を埋《うみ》て祈る事有り。』と出て居《を》る。是も、多分、似た事で、炒豆が芽を出さぬ内は、健康《まめ》(豆)で居《ゐ》る(炒る)と云ふ樣な洒落から起つたのかとも思ふ。之と反對で、豆が地下で腐ると、同時に病《やまひ》が治るとする國も有る。例之《たとへば》、英國で、疣《いぼ》の數だけ、生豌豆《なまえんどう》を採り、一々、疣を觸り、別々に紙に裹《つつ》んで埋置《うめお》くと、豆が腐ると齊《ひと》しく、疣が落《おち》る、又、豆莢《まめさや》で撫《なで》て理むるも有りとか(一八八三年板、フレンド「花及花譚《フラワース・エンド・フラワーロワー》」三六七頁)。〔(增)(大正十五年九月記)又、蔓(つる)一條を取て、疣の數だけ、結び、結び目一つづゝで、疣一つづゝを、さはり終つて、「汝でなくば、疣をとり返し得ない。」と唱へ乍ら、濕地に埋める。又、肉屋の店か、籃《かご》にある肉を、秘密に盜み、人に知れぬ樣、疣を撫でゝ後、門口、四つ辻、又、隱れた處に埋める。何れも、其物が腐るだけ、疣も癒るといふ(一八五九年板「ノーツ・エンド・キーリス撰抄」二五〇頁)〕。

[やぶちゃん注:以上も類感呪術。

「男色大鑑」は貞享四(一六八七)年刊の浮世草子では最初の本格男色物。国立国会図書館デジタルコレクションの『西鶴全集』第四巻(昭和二一(一九四六)年日本古典全集刊行会刊)のこちらの「雪中の時鳥(ほとゝぎす)」の冒頭の一節で確認出来る。

「岸の堂」不詳。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三八番 貉堂

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「貉」と本文の「貉」(孰れも「むじな」でタヌキのこと)の混用はママ。]

 

      一三八番 貉 堂

 

 上鄕《かみがう》村(上閉伊郡)大字板澤《いたざは》に曾源寺《さうげんじ》と謂ふ寺がある。昔この寺がひどく荒廢して、住持も居《を》らないことがあつた。

 或日此邊ヘ一人の旅僧が來て、寺の近くの農家に泊つた。そして夜其所の主人(アルジ)から、この近くにも寺はあるが、不思議なことには來る住持も來る住持も、皆一夜のうちに行衞不明になつて、今では誰《たれ》一人寺を守る者もなく建物なども荒れほうだいにしてあると謂ふことを聽かされた。旅僧はハテ不思議なこともあればあるものだ。よしそれでは明日俺が其寺へ行つて見て、若《も》し化物でも居《を》つたら退治してやると言つた。そして其夜は寢た。

 翌日旅僧が山の麓の荒寺《あれでら》へ行つて見ると、本堂に一人の爺樣が寢て居た。なんぼ呼んでもその爺樣は眼を覺まさなかつた。旅僧は仕方がないから一寸宿へ歸つて、また行つて見ると、まだその爺樣は寢て居た。また夕方行つて見ると、まだ爺樣は目を覺まさなかつた。さうして遂々《たうとう》二日二夜、打通(ブツトウ)しで眠り續けて居た。三日目の朝になると、その爺樣はやつと目を覺まして、旅僧に言ふには、俺もとうとう[やぶちゃん注:ママ。]お前樣に本性を看破《みやぶ》られた。俺はお前樣の察する通り年久しくこの寺に住む古狢《ふるむじな》だ。そして住持を食ひ殺すこと七人、魔法で人を誑《たぶら》かした事は數知れない。けれどもお前樣に看破られたので俺の天命も盡きたから、一つ俺の技倆を觀《み》せてやる。俺は今此所に、釋迦の檀特山《だんとくさん》の說法の有樣《ありさま》を目《ま》の當りに現はして見せるからよく見ろ、その代り念佛は忘れても[やぶちゃん注:ここは「決して」の意。]唱へてはならぬぞと言つた。そして旅僧の目の前に忽然と、恰度《ちやうど》極樂繪圖を眞實にしたやうな景色(ケイシヨク)を現はした。旅僧はお釋迦樣やその他の尊者達が皆御光を射して、雲に乘つて靜々と現はれたのに、合掌して、貉の言葉も忘れて思はず、念佛申すと、その景色は忽ちペカリと搔き消えた。そして自分は破れた檀の前に座つて居た。

 旅僧は夢から覺めたやうな心持ちで、ぼんやりして居ると、ポタリと屋根から一滴の水が落ちて來た。すると忽ちに大雨が降つて來て、見て居る間《ま》に大洪水となつた。そして見渡す村々もことごとく水の下になつた。そして寺も既にハヤ押流《おしなが》されそうに[やぶちゃん注:ママ。]、グワラグワラと震《ゆ》れ動いて來た。旅僧はこれは何のことだ。大變だと思つて居ると、西と東の山蔭から多くの軍船が起り出てひどい船戰《ふないくさ》となつた。そこで旅僧も初めて、ははアこれは狢の惡戲《いたずら》だなアと思つて、印を結んで九字を切ると、ざあツと水が引いた。それと同時に屋根の上でギヤツといふ叫び聲がしたかと思ふと、大きな狢がごろごろと轉び落ちて斃《たふ》れた。村の人達はそれを狢寺《むじなでら》の境内に埋めて堂を立てた。それが今もある狢堂である。

  (鈴木重男氏から聽いた資料の四に據る。
   傳說には、此旅僧は遠野鄕の佛敎開弘で
   有名な無盡和尙だと謂ふ。)

[やぶちゃん注:本話と同類のもの(幻術部分は極端に短縮されている)が、国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著「遠野物語」増補版(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社)の「貉堂」の「一八七」で視認出来る。

「上鄕村(上閉伊郡)大字板澤に曾源寺と謂ふ寺がある」現在の岩手県遠野市上郷町(かみごうちょう)板沢にある曹洞宗滴水山曹源寺(そうげんじ:グーグル・マップ・データ航空写真。以下無指示は同じ)。なお、サイド・パネルのこちらの説明版画像で、新字新仮名(割注有り)で先のリンク先の内容が読める。

「無盡和尙」無尽妙什和尚。遠野にあった「附馬牛東禅寺」(寺は現存しないが、地名として附馬牛町東禅寺が残り、その16・17割内(この中央附近)が旧跡とされるようである)、及び、現存する「盛岡東禅寺」の開山とされる臨済僧で、南北朝初期には、この遠野や盛岡で活躍した名僧であるらしい。恐らく、個人ブログ『「遠野」なんだり・かんだり』の「東禅寺」が、やや明確でない「無盡和尙」の行跡と以上の寺との関りをよく検証されているものと思うので、読まれたい。]

「新說百物語」巻之五 「ざつくわといふ化物の事」 / 「新說百物語」全電子化注~完遂 附・目録

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、これを以って「新說百物語」は終わっている。]

 

   ざつくわといふ化物の事

 讃刕のかたほとりに、妙雲寺といふ寺あり。

[やぶちゃん注:「妙雲寺」不詳。少なくとも、現在の香川県にはない。]

 其寺に、むかしより、

「『さつくわ』といふ化物、あり。」

と、はかり[やぶちゃん注:ママ。]、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳ヘ、誰《たれ》見たるといふものも、なかりける。

 その時の住持を、良賢とかや、いへりける。

 其弟子に、良敬といふ若僧ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、博學にして、美僧なりける。

 あるとき、良敬、学文《がくぶん》のいとまに、門前にいて[やぶちゃん注:ママ。]ゝ、夕暮、凉み居《を》られける。

 蛍の、ふたつ三つ、飛ふ[やぶちゃん注:ママ。]にさそはれて、思はす[やぶちゃん注:ママ。]、壱、弐町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]もあるきける所へ、あとより、又々、しつかに[やぶちゃん注:ママ。]あゆみ來《きた》るものあり。

 ふりかへりて見れは[やぶちゃん注:ママ。]、やせたる女《をんな》の、色しろなるか[やぶちゃん注:ママ。]、髮、打《うち》みたし[やぶちゃん注:ママ。]てあとより來る。

 さしも丈夫なる良敬も、

「そつ[やぶちゃん注:ママ。「ぞつ」。「慄(ぞつ)」。]

として、立ち歸らんとしたりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、彼《か》の女、

「につ」

と笑ひて、

「是れまて[やぶちゃん注:ママ。]來たりたまへは[やぶちゃん注:ママ。]、今すこしにて、我《わが》すむかたなり。御出《おいで》なさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、手をとりて、行かんとす。

 良敬は、

『ゆかし。』

と思ひて、彼れ是れする内に、日も、とくと、くれて、物のいろめも見へぬやうに成《なり》たり。

 女のいはく、

「この年月の、我思ひ、今宵、はらさて[やぶちゃん注:ママ。]、をくへきか[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、引き立てゆくとおもへは[やぶちゃん注:ママ。]、良敬、夢のことく[やぶちゃん注:ママ。]になり、其後《そののち》は、ものを覚へす[やぶちゃん注:ママ。]なりたり。

 其夜、良敬、見ヘさりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、良賢、おとろき[やぶちゃん注:ママ。]

「あちよ、」

「こちよ、」

と、尋ぬれとも[やぶちゃん注:ママ。]、行きかた、なし。其あけのあさ、四、五町[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五半メートル。]わきの山際に、たはひもなく、打《うち》ふしたり。

 よりて見れは[やぶちゃん注:ママ。]、衣の惣身に、しろき針のことき[やぶちゃん注:ママ。]毛、所々に、付きたり。

 夫より、寺へつれ歸り、介抱して、息才《そくさい》には、なりたれとも[やぶちゃん注:ママ。]、折々は、狂気のことく[やぶちゃん注:ママ。]、其女の事のみ、口はしり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 良賢、

『口おしき[やぶちゃん注:ママ。]事。』

に、おもひ、別して、祕藏の弟子なれば、我が居間に、壇(たん[やぶちゃん注:ママ。])を、かざり、一七日《ひとなぬか》があいだ[やぶちゃん注:ママ。]、護摩を修《しゆ》せられける。

 七日めの夜《よ》、何かはしらす[やぶちゃん注:ママ。]、壇上に落《おち》かゝりたり。

 良賢は、取つて、おさへ、脇さしを以て、さし通す。

 はねかへさんとする所を、指通《さしとほ》し、指通し、終《つひ》に、化物を、しとめたり。

 其形をみれは[やぶちゃん注:ママ。]、おゝきさ[やぶちゃん注:ママ。]は、犬程にて、毛色、しろく、口は、耳きはまて[やぶちゃん注:ママ。]、きれて、背筋に、くろき毛、あり。

 何といふけものといふ事を、知らず。

「かの寺の『ざつくわ』といふ化物は、是れならん。」

と、皆人、申《まふし》ける。良賢の名、それより、高く、智行兼備(ちかうけんび)を、うやまひける。

[やぶちゃん注:良敬が妖女に誘われた際に思わず、「『ゆかし。』と思」った時が、変化(へんげ)の妖獣の術に完全に捉われて堕ちた瞬間であった。モデル動物は絶滅したニホンオオカミと四国犬の雑種か?

 以下、奥書。]

 

作物詞

      右追出來

拾遺百物語

 

 明和四亥春

     京六角通油小路西入町

       書林 小幡宗左衞門板

新說百物語巻之五終

 

[やぶちゃん注:ここに宣伝してある「拾遺百物語」は題名からしても本書の続篇らしいが、「続百物語怪談集成」の太刀川清氏の解題によれば、『出版された様子はない』とある。

 なお、底本には目録は存在しないが、予告通り、本ブログの読者のために、以下に、本文の表記で目録を配しておく。頭の巻内の番号は「続百物語怪談集成」に拠った(底本では標題番号は打たれていない)。「說」は拘った正字とし、「巻」は底本では総て「卷」ではなく、「巻」なので、統一した。読みは各ブログ標題に合わせ、附さずにおいた。]

 

 

新說百物語巻之一 目錄

 

一 天笠へ漂着せし事

二 狐鼡の毒にあたりし事

三 丸屋何某化物に逢ふ事

四 甲刕郡内ほのをとなりし女の事

五 津田何某眞珠を得し事

六 但刕の僧あやしき人にあふ事

七 修驗者妙定あやしき庵に出づる事

八 夢に見たる龍の事

九 見せふ見せふといふ化物の事

十 狐亭主となり江戶よりのぼりし事

 

新說百物語巻之二 目錄

 

一 相撲取荒碇魔に出合ひし事

二 奈良長者屋敷怪異の事

三 天井の龜の事

四 江刕の洞へ這入りし事

五 僧人の妻を盜し事

六 死人手の内の銀をはなさゞりし事

七 光顯といふ僧度々變化に逢ひし事

八 坂口氏大江山へ行きし事

九 幽霊昼出でし事

十 脇の下に小紫といふ文字ありし事

 

新說百物語巻之三 目錄

 

一 深見幸之丞化物屋敷へ移る事

二 橫田惣七鷹の子を取りし事

三 縄簾といふ化物の事

四 猿蛸を取りし事

五 僧天狗となりし事

六 狐笙を借りし事

七 あやしき燒物喰ひし事

八 猿子の敵を取りし事

九 親の夢を子の代に思ひあたりし事

十 先妻後妻に喰付し事

 

新說百物語巻之四 目錄

 

一 沢田源四郞幽㚑をとふらふ事

二 疱瘡の神の事

三 何國よりとも知らぬ鳥追ひ來る事

四 鼡金子を喰ひし事

五 牛渡馬渡といふ名字の事

六 長命の女の事

七 火災婆々といふ亡者の事

八 仁王三郞脇指の事

九 碁盤座印可の天神の事

十 澁谷海道石碑の事

十一 人形いきてはたらきし事

十二 釜を質に置きし老人の事

 

新說百物語巻之五 目錄

 

一 高㙒山にてよみがへりし子共の事

二 女をたすけ神の利生ありし事

三 神木を切りてふしきの事

四 定より出てふたゝひ世に交わりし事

五 肥州元藏主あやしき事に逢ひし事

六 ふしきの緣にて夫婦と成りし事

七 針を喰ふむしの事

八 桑田屋惣九郞屋敷の事

九 薪の木こけあるきし事

十 鼻より龍出でし事

十一 ざつくわといふ化物の事

 

「新說百物語」巻之五 「鼻より龍出し事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   鼻より龍出し事

 武州の事にてありしか[やぶちゃん注:ママ。]、あるやしきの若黨、晝寐して居りけるが、鼻の内、こそはく[やぶちゃん注:ママ。「こそばゆく」。]、目をあきて、鼻をかみける。

 そのとき、鼻の内より、飛虫《とびむし》のごとくなるもの、飛出《とびいで》て疊の上に落ちたり。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]におもひて、枕もとの茶わんにて、ふせ置き、又、一寐いりいたしける。

 目をあきて、おもひ出し、茶わんを、のけてみれば、甚《はなはだ》おゝきく[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]成《なり》、茶わん、一はい[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、なりたり。

 主人、是を聞《きき》て、桶に入れて、ふたを、いたしをき[やぶちゃん注:ママ。]、夕方、見たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、桶、一はいになりたり。

 又、おゝき成《なる》半切桶《はんぎりをけ》に入《いれ》て置きけれは[やぶちゃん注:ママ。]、是にも、一はいに、なりたりける。

[やぶちゃん注:「半切桶」「盤切桶」とも書く。盥(たらい)の形をした、底の比較的浅い桶のこと。]

 何とやらむ、おそろしく、

「明日は、河へ捨つへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、庭に出しをき[やぶちゃん注:ママ。]、大石を、おもしにして、おきけるか[やぶちゃん注:ママ。]、夜明けて、みれば、石も、ふたも、其まゝにて、其物は、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へ行《ゆき》けん、見へす[やぶちゃん注:ママ。]、となん。

「是ほと[やぶちゃん注:ママ。]の㚑妙(れい《みやう》)なるものは、あらし[やぶちゃん注:ママ。]。もしも、龍にてや、ありなん。」

と沙汰致しける。

[やぶちゃん注:その形状を記していないので、何とも言えない、というか、そこが甚だ噓臭い。鼻腔内に節足動物が侵入し、長く寄生することがある(十数年前、東南アジアで女性のそこに何年も数センチのムカデが寄生していたという記事を読んだことがある)が、ここにあるように、短時間の内に巨大化するというのは、ちょっと考えられない。江戸時代にはヒト寄生虫感染者は有意に多くおり、余りに多数の個体が寄生したために口から虫を吐く症状、所謂、「逆虫(さかむし)」という疾患名が残っているものの、それでも、この話は説明がつかない。気味は悪いものの、創作とせざるを得ぬ。]

「新說百物語」巻之五 「薪の木こけあるきし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

     《たきぎ》の木こけあるきし事

 因州の人の語りしは、其人の伯父なりける家に、むかしより、代々、奇異なる事あり。

 薪を買ひて、十束《じつたば》つみをけは[やぶちゃん注:ママ。]、九束めを、部屋へ取りにゆくと、十束めの薪木、をのれと[やぶちゃん注:ママ。]ころひて[やぶちゃん注:ママ。]、裏口より、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へ行くとも見へす[やぶちゃん注:ママ。]失せる事、むかしより、今に替る事、なし。

 二十束、三十束、調へて、もうせる薪木は拾束めの薪なり。

 それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、工夫《くふう》を致し、いつにても、九束つゝ[やぶちゃん注:ママ。]取置《とりおき》けれは[やぶちゃん注:ママ。]、何のさはりもなく、うせる事もなかりしか[やぶちゃん注:ママ。]、九度めの薪木を取置きけるときに、部屋へ入れ置き、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、九束の薪木、一把もなく、失せたり。

 是非に及はす[やぶちゃん注:総てママ。]、今にても、十束つゝ[やぶちゃん注:ママ。]取《とり》よせ、いつにても、一束は、失せ次㐧に、いたしけるよし。

 あやしき事なり。

[やぶちゃん注:この怪異も類を見ないオリジナリティがあるポルター・ガイストである。本邦ではポルター・ガイストは近世以前では、それほどメジャーではないからである。しかも、これは意識的詐欺やカラクリ物ではなく、実際に薪の一束が自動的によろよろと出て行くのであって、付喪神の範疇でさえない。因みに、昨今の外国の心霊動画はポルター・ガイスト大繁盛で、殆んどは作り物としか見えず、最近は批判的視聴も馬鹿々々しいので、見ていないほどである。]

「新說百物語」巻之五 「桑田屋惣九郞屋敷之事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   桑田屋惣九郞屋敷之事

 京油小路に桑田屋惣九郞といふ茶屋ありけるが、夫婦と、むすこ壱人、小者一人、四人、くらしける。

 ある朝、親友心、とくおきて、小便に出《いで》けるに、屋敷の下に、火の影、見へたり。

[やぶちゃん注:「心」茶屋であるから、親友が泊まるのはいいとしても(と言っても、後にも普通に出るので、殆んど居候状態の親友らしい)、「心」を名と採るのは、、如何にも厳しい。ここは「心」友(心の通い合った友)である「親友」で、「親友心」(しんゆうしん/しんゆうじん)と呼んだものか。にしても、私はこんな熟語は見たことがなく、どうも躓かざるを得ない。江戸時代に用例はあるが、この「心友」という熟語も親友を差別化していて、私は大嫌いである。]

 ふしぎに思ひ、のそきみれは[やぶちゃん注:総てママ。]、ゑん[やぶちゃん注:ママ。]の下に、あたらしき土器に、火をとほし[やぶちゃん注:ママ。]てあり。

「いまた[やぶちゃん注:ママ。]誰《たれ》もおきぬに、いかなる事。」

と、たれかれと尋ぬれと[やぶちゃん注:ママ。]、壱人も、めのさめたるも、なし。

 其分に致し置きけるか[やぶちゃん注:ママ。]、又、一兩日過《すぎ》て、母親、二階へあかりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、麻上下《あさかみしも》着たりける男と、打《うち》かけ・わた帽子の女と、さしむかひ、居たりける。

 二階より飛び下りて、

「かく。」

と告《つげ》たりけるにより、惣九郞諸共《もろとも》、あがりて、見ければ、壱對の燭臺《しよくだい》に、小袖をきせ、上下・打掛を、きせ置きたり。

 やうやう、かた付け、二階より、四人とも、おりけるが、四人のものゝ帶に、紙にて四手《しで》を切りて、皆々、付け置きたり。

[やぶちゃん注:「四手」「垂(しで)」で動詞「し(垂)ず」の連用形から名詞化したもの。「四手」は当て字。玉串(たまぐし)や注連縄(しめなわ)などにつけて垂らす例の紙のこと。]

「すこしの間に、いかゝ[やぶちゃん注:ママ。]したる事にや。」

と、肝をつぶして居たる所に、又々、ゑん[やぶちゃん注:ママ。]の下に、とほし火[やぶちゃん注:ママ。]のひかりあり。

 よくよくみれは[やぶちゃん注:ママ。]、ちいさき[やぶちゃん注:ママ。]あたらしき宮居《みやゐ》を置《おき》て、燈明《とうみやう》を、とほし[やぶちゃん注:ママ。]、あらひ米を供へたり。

 又、其夜、ねてゐる内に、親友、心の夜着の下へは、小者を入れをき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、むすこ惣九郞の夜着のすそへは、母親を、いれをきける。

 目をさまして、皆々、きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 廿日はかり[やぶちゃん注:ママ。]の内、いろいろ、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]あやしき事とも[やぶちゃん注:ママ。]ありて、ある日、

「はしりの水ぬきより、何やらん。出《いで》たり。」

と、小者の告《つげ》ける故、追《おひ》かけけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、最早、見へす[やぶちゃん注:総てママ。]

[やぶちゃん注:「はしりの水ぬき」台所の流しの外の下水口を指す。]

 夫より、あやしき事は、やみけるか[やぶちゃん注:ママ。]、果《はた》して、兩親、惣九郞、三人とも、打《うち》つゝき[やぶちゃん注:ママ。]て相果《あひはて》ける。

[やぶちゃん注:あらゆる説明不能な怪現象が目白押しで、怪談としては、オリジナリティがあり、よく書けている。最後のあたりと奇怪な宮居を縁の下に立てたり、侍や花嫁御寮に化けたりするところは、妖狐(最後の脱出箇所からは、江戸時代には狐狸とともに人を化かす妖怪とされた獺(かわうそ)の可能性も候補に挙げておきたい)が正体らしいが、夫婦と息子を、皆、死に至らしむというのは、かなり兇悪な狐である。]

「新說百物語」巻之五 「針を喰ふむしの事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   針を喰《くら》ふむしの事

 京都三条の西に、貞林《ていりん》といふ尼ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、わかき時は、備前に、くたりて[やぶちゃん注:ママ。]御物縫《おんものぬひ》の奉公を、つとめけるか[やぶちゃん注:ママ。]、その折の事なりしが、此《この》貞林、物、縫ひける針の「おれ[やぶちゃん注:ママ。「折(を)れ」後も同じ。]」を氣遣ひに思ひて、隨分と、ひろひあつめ、針箱の底に置きけるか[やぶちゃん注:ママ。]

『取出《とりいだ》し、捨《すて》ん。』

と思へは[やぶちゃん注:ママ。]、見ヘす[やぶちゃん注:ママ。]

 弐度も、かやうなりける。

 あるとき、針箱の掃除をいたしけるに、おゝきさ[やぶちゃん注:ママ。]、三分[やぶちゃん注:九ミリメートル。]はかり[やぶちゃん注:ママ。]ある虫、出《いで》たり。

 めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]物ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、針さしの上に置きける。

 此虫、

「そろそろ」

這《はひ》あるき、針さしの針を、

「ほろほろ」

と喰《くらひ》ける。

『さては、先達《せんだつ》ての針のおれも、此虫の喰ひけるものよ。』

と、おもひて、ちいさき[やぶちゃん注:ママ。]箱に入れ、針の「おれ」にて、飼ひ置きけれは[やぶちゃん注:ママ。]、二月《ふたつき》はかり[やぶちゃん注:ママ。]に、

一寸程になりたり。

 此よし、御主人、聞き給ひて、後には、古かねなと[やぶちゃん注:ママ。]あたへ給へは[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ、大きく成りける故、

「あやしきもの。」

とて、火にて、燒きころされしとなん。

 直(ぢき)に、此《この》貞林、かたられし。

[やぶちゃん注:特殊なバクテリアならまだしも、粗鉄を直に食う昆虫はいないから、これは貞林尼の作り話であろう。]

「新說百物語」巻之五 「ふしきの緣にて夫婦と成りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。但し、和歌の濁音のない箇所は無粋なので、ママ注記を打たなかった。

 挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成して使用した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   ふしき[やぶちゃん注:ママ。]の緣にて夫婦と成りし事

 河刕に、森氏の人、ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、語り侍りしは、其友に、武田直次郞といふものあり。

 はたちはかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、ふらふらと、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]、養生致しけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、其しるし、なかりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、兩親、なけき[やぶちゃん注:ママ。]、あるとしの春、兩親、つきそひ、京へのほり[やぶちゃん注:ママ。]、借座敷《かしざしき》に滯留(たいりう)し、養生致しける。

 療治も、能(よ)くのりて、次第に快氣して、おゝかた[やぶちゃん注:ママ。]平生のことく[やぶちゃん注:ママ。]なりたり。

『今一月も、いたしなは[やぶちゃん注:ママ。]、國もとへ歸へらむ。』

と、おもひて、あなたこなたと、遊山《ゆさん》に出《いで》ける。

 三月の初《はじめ》つかたの事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、直次郞も、供、壱人、つれて、東山の花なと[やぶちゃん注:ママ。]、見めくりて[やぶちゃん注:ママ。]、さまよひ、あるきける。

 

Naojirou

 

[やぶちゃん注:底本の画像はここ。キャプションは、右幅の娘の台詞、

   *

もふしもふし[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。]

 これへ

 おこし

   かけ

(桜の幹を挟んで)

      られ

       ませ

   *

左幅は以上の通り、ごやごちゃと五月蠅い台詞が見えるのだが、底本の挿絵にはない箇所に、明かに、墨の色の薄い文句が記されてあって(侍女の上部、及び、木戸の開いた箇所の右手の柱と開いた空間部の弐箇所)、思うにこれは、底本の旧蔵者が落書したものと思われるので(絵のキャプションとしては、あまりにも五月蠅過ぎるばかりか、どうもかなり猥雑な感じがある。例えば、右手のそれは「よく白きちゝを」「むきだして」云々である)、落書までちゃんと判読する気は、毛頭、ない。正規の原板本のキャプションは、侍女の左下方に、

   *

   まづあれへおかけ

    遊ばしてゆるり

           と

      ごらんあそは

         し

          ませ

   *

直次郎の台詞、

   *

あまり

 花の見事

    ゆへに[やぶちゃん注:ママ。]

ながめ

 いり

 ま

 した

[やぶちゃん注:次の行の濃い「とは」は既に落書で、「いつはりなり」「どうぞひとばんをかして」「下を」云々と読むに堪えないえげつない落書と判明する。この落書を書いたのは、年少者ではあるまい。

(右足の脇に)

        それは

         かたじけ

           ない

   *

とある。]

 

 

 とある所に、是れも借座敷とみへ[やぶちゃん注:ママ。]て、一本の桜、さきけるを、何心《なにごころ》なく、立ちやすらひて、なかめ[やぶちゃん注:ママ。]居《をり》けれは[やぶちゃん注:ママ。]、内より、わかき女、いてて[やぶちゃん注:ママ。]

「此所は、かし座敷にて、今日一日、かり申して、主人、花見いたさるゝ也。くるしからぬ所にておはしませは[やぶちゃん注:ママ。]、御いりありて、ゆるゆる、花を御らんなさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申《まふし》ける。

 直次郞は、

「かたしけなし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、庭に入りて、えんに、腰、打《うち》かけ、詠《なが》め居《ゐ》たりける所に、奧より、いとやさしき、十六、七の娘の、物のけはひも、きよらかなるか[やぶちゃん注:ママ。]、立出《たちいで》て、

「私事《わたくしこと》は、今日、是《これ》へ、花見に參りしものなるか[やぶちゃん注:ママ。]、母、用事ありて、先へ歸へられ、私は、日暮《ひぐれ》てかへるなれは[やぶちゃん注:ママ。]、まつまつ[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]、是へ御あかり[やぶちゃん注:ママ。]、ゆるゆると、花も御覽なさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、菓子・酒なと[やぶちゃん注:ママ。]、もてなしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、直次郞も、わかきものなれは[やぶちゃん注:ママ。]、とやかくと、たはむれて、思はぬ枕を、かはしける。

「日も、はや、夕くれになりたり。」

とて、供のものに、おとろか[やぶちゃん注:ママ。]されて、名殘《なごり》をしくも、立ちかへりけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「又、逢ふことの、かたみ。」

とて、香箱《かうばこ》に、はまぐりの繪《ゑ》かきしを敢り出して、ふたはかり[やぶちゃん注:ママ。]を、かたみに送りて、身のかたは、我《わが》ふところにそ[やぶちゃん注:ママ。]入れにける。立《たち》さま[やぶちゃん注:ママ。]に、かくなむ、

  玉くしけふたみの浦による貝の

   またこと方に打ちやよすらん

かく、申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、むすめ、かへし、

  玉くしけふたみの浦による貝の

   ことかたならてあふよしもかな

と、いふて、なみたなからに[やぶちゃん注:総てママ。]立ちわかれける。

 そのゝち、一兩年も過《すぎ》て、直次郞も、いよいよ、息才[やぶちゃん注:ママ。「息災」。]になりて、江戶つとめをいたし、東へ、をもむき[やぶちゃん注:ママ。]、みやつかへをそ[やぶちゃん注:ママ。]いたしける。

 又、あるとしの春にいたりて、上㙒の花なと[やぶちゃん注:ママ。]、見めくり[やぶちゃん注:ママ。]、過《すぎ》し事なと[やぶちゃん注:ママ。]思ひ出して、ふと、とある幕の内を見いれけるに、何とやら、見知りたる女、ありて、あの方[やぶちゃん注:離れた位置。]よりも、つくつく[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]なか[やぶちゃん注:ママ。]めけるにより、おもひ出《いだ》せは[やぶちゃん注:ママ。]、さりし時、都にて、あひし女なり。

 とやかく、むね、打《うち》おとろき[やぶちゃん注:ママ。]

『いかゝ[やぶちゃん注:ママ。]は、せん。』

と思ふ折ふし、娘も、それと、幕の内より立ちいてゝ[やぶちゃん注:ママ。]

「そのゝち、別れてより、去る御方《おかた》[やぶちゃん注:「の所へ」が欲しい。]、宮つかへいたし、露《つゆ》わするゝ間《ま》もなけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、何をあてに尋ねんやうもなくて、その姬君につきそひて、去年《こぞ》の秋、こゝもとへ下り侍る。必《かならず》、わすれ給ふな。」

と、そこそこにて、別れける。

 それより、よすか[やぶちゃん注:ママ。]を求めて、首尾よく、御いとま、給はり、兩親とも、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]のえんに、めて[やぶちゃん注:ママ。「愛(め)てける」。愛し合う。]けるや。

「まことの夫婦と、なりたり。」

と、森氏の人、かたられし。

[やぶちゃん注:怪奇談性はなく、男女の不思議な縁(えにし)の、テツテ的な「赤い糸で結ばれた」恋愛実話と思われる。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「秋の鏡」趙今燕

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  秋 の 鏡

            憶 昨 花 前 別

            秦 淮 水 又 秋

            朝 來 怯 臨 鏡

            孤 影 空 自 愁

                  趙 今 燕

 

別れしは昨(きそ)、 花さく日

いま秦淮の水は秋

朝(あした)うたてきかがみには

わが面かげぞいたましき

 

   ※

趙今燕  十六世紀中葉。 明朝萬曆年間。 名は彩姬。 吳の人。 秦淮の名妓である。 才色ともに一代に聞えてゐた。 日ごろ風塵の感を抱いて妄(みだり)に笑(しやう)を賣ることを好まず、書を讀むことを喜び、靑樓集を著したといふ。

   ※

作者は明の第十四代皇神宗の時(万暦年間:一五七三年~一六二〇年)、「秦淮四美人」に数えられた美妓であった。標題は中文サイトを調べた限りでは、「臨鏡」である。以下に推定訓読を示す。

   *

 鏡に臨む

昨(きのふ)を憶(おも)ふ 花(はな)の前の別れ

秦淮(しんわい)の水(みづ) 又(また) 秋たり

朝(あした)の來たりて 怯(おび)えつつ 鏡に臨むに

孤影 空(むな)しく 自(おのづか)ら愁(うれ)ひあり

   *

・「秦淮」六朝時代の首都南京の近くを流れる川名(秦代に開かれた運河)。両岸には酒楼が多く、今に至るまで、風流繫華の地である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三七番 龍神の傳授

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     一三七番 龍神の傳授

 

 或所に一人の男があつた。每日每日何もすることなく、渚邊へ出て海の方ばかりを眺めて居た。だから村の人達から彼(ア)れは愚者(バカモノ)だと云はれて居た。

 或日のこと靈(イツモ)の通りに渚から海の方を眺めて居ると、海から龍神樣が出て來て、これヤこれヤお前にこれを與(ヤ)るからと言つて、一個(ヒトツ)の瓶を吳れた。そしてこの瓶の水は萬病に利く靈藥だから、これからさうして居ないで萬人を救へと言つた。男は其瓶を家ヘ持ち歸つて土藏の奧に秘藏(シマ)つて置いて、村に病人があればそつと土藏の中へ入つて行つて、瓶の水を汲取《くみと》つて來て遣つた。そのために男は藏(クラ)の中へ入るのが日に幾度となく度重《たびかさ》なつた。

 それを妻が見て、これは怪(オカ)しいと思ひ出した。そして男の留守の間にそつと土藏の中へ入つて行つて見ると、隅に見た事のない瓶が一個あつた。あらこれは何だべと不思議に思つて葢《ふた》を取退《とりの》けて中を覗いて見ると、自分の顏が瓶の水に映つた。あれヤ夫は此女の顏を見べとあゝして始終來るのだと思つて嫉妬(ゴセ)が燒けて來て、外へ駈け出して石を拾つて來て瓶を眞つ二つに割り碎いた。

 男が外から歸つて來て、すぐさま土藏の中へ入つて見ると瓶が碎けてゐた。あゝこれは妻のしたことだなと思つて、妻を呼んでお前は何《な》してあの瓶を割つてしまつた。あの中に入つてをつた水は藥でそれで人の病氣を直して居たのに、さてさて女と謂ふものは邪心が深くてあさはかものだと言つて嘆いた。そして瓶の破片を拾ひ集めて、邸《やしき》の内の古池のほとりに打ち棄てた。

 其次の日からまた男は以前のやうに渚邊へ出て、遠くの沖の方を眺めて居た。すると或日再び龍神樣が現はれて、お前はまた此所へ來て居るのかと言ふから、男はあの瓶を割られたことや、その破片を拾ひ集めて古池のほとりに棄てたこと等を話した。龍神樣はそれを聽いて、そんなら其瓶の破片を棄てた所へ行つて見ろ、見たことの無い草が生へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]てゐるから、それを採つて陰干しにして揉草(モミグサ)にして、これこれの事をしてお前は復《また》人間の病氣を直せと言つた。そして其方法を詳しく敎へた。男は龍神樣に別れて家へ歸つて、古池のほとりへ行つて見ると本當に見たことの無い草が生へてゐた。これだと思つて其草を採つて龍神樣から傳授された通りにして再び人間の病氣を直してやつた。それが今の灸《きう》の始りである。そして其草は蓬《よもぎ》であつた。

  (前話同斷の八。)

[やぶちゃん注:「前話」こちら。]

2023/06/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「小兒の陰腫」 /「二」~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 本篇は南方熊楠自身の先行する『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』の第一節『〇小兒の陰腫を蚯蚓の所爲とし、火吹竹を逆まにして吹き、また蚯蚓一匹掘出し、水にて洗ひ淸めて放つときは治ると云ふ。』に対する附記である。]

 

○小兒の陰腫(三號一七三頁)に、紀州で、蚯蚓一疋、掘出し、水で洗ひ、放つ、或は、鹽で淨めて放つとも云ふ。支那から傳へた事らしい。「嬉遊笑覽」卷十二、『爰にて、小兒の陰、腫《はる》る時、蚯蚓を取《とり》て、洗《あらひ》て放つ、咒《まじなひ》有り。「鎭江府志」、今小兒陰腫、多以爲此物所一ㇾ吹、以鹽湯浸洗、則愈。〔今、小兒の陰腫《いんしゆ》は、多く、以つて、此の物の吹く所と爲(な)す。鹽湯(しほゆ)を以つて浸(ひた)し洗へば、則ち、愈ゆ。〕爰《こゝ》の咒は、何《ど》の蚯蚓にても、取りて洗ふに、功驗あるも、奇ならずや。」と言《いへ》るは、喜多村氏、支那では、當《たう》の敵《かたき》たる其蚯蚓を、探し中《あて》て洗ふ、と解したらしいが、其は六《むつ》かしい尋ね物だ。「府志」の文意は、小兒の陰部を、鹽湯で浸洗《しんせん》することと、見える。それを誤りて、本邦で、どの蚯蚓でも構はず、一疋、掘出し、淨めて、放つ事と成《なつ》たらしい。紀州で、幼男の「陰」を「ちんこ」と云ひ、其に緣《ちな》めるにや、子供芝居をも「ちんこ」と呼ぶ(但し、別聲で、呼別《よびわけ》る)。「ちんこ」病《やまひ》の治法を「鎭江府志」で見出《みいだ》すも、亦、奇ならずやだ。墨土哥《メキシコ》人、蜘蛛に嚙《かま》れた時、嬰兒の「陰」で、創《きず》を撫《なで》ると、毒、忽ち、去り、痛み、止む事、妙也と、一六七六年馬德里《マドリツド》板、フェルナンデツ・ナワレツテの「支那歷史政治道德宗敎論《トラタドス・ヒストリコス・デ・ラ・モナルチア・デ・チナ》」三百頁に云へり。一七三二年、チャーチルの英譯には、蜘蛛を蠍(さそり)としてゐる。

[やぶちゃん注:『「嬉遊笑覽」卷十二、『爰にて、小兒の陰、腫《はる》る時、……』例の熊楠所蔵の系統と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像をリンクさせておく。右ページ最後から左ページ初行まで。

「鎭江府志」清代に書かれた現在の江蘇省鎮江市(グーグル・マップ・データ)の地誌・物産誌。朱霖(しゅりん)編纂。現存する版は清の乾隆一五(一七五〇)年に書かれた増刻本である。当該部を「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該箇所を視認して起こしておく。

   *

蚯蚓

 俗呼回䗾其曲蟺之訛乎。今小兒陰腫、多以爲此拘所吹、以鹽湯浸洗、則愈。

   *

「蟺」は画像では(つくり)の下方が「且」であるが、この「蟺」自体がミミズを指すので問題ない。

「別聲」アクセント或いはイントネーションを変えて呼び分ける。例えばフラットに「ンコ」と「チン」等。

「喜多村氏、支那では、當の敵たる其蚯蚓を、探し中て洗ふ、と解したらしいが、其は六かしい尋ね物だ」熊楠の言う意味はよく判るね。先行する方で注をした通り、私は「喜多村」氏のように少しもヘンに思わないのだ。小児の男の子の陰茎は、蚯蚓に似ているからである。フレーザーの言う類感呪術だ。確かに、蚯蚓を洗うと同時に、腫れたそれを同じ場所で洗ってやるのだ、そこまで、熊楠先生、言わないと、現代に生きている喜多村氏には判りませんぞ!]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「頭白上人緣起」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 標題は「ずはくしやうにんえんぎ」と読む。対象論考は「選集」に『吉原頼雄「頭白上人縁起伝説」』』とあるが、冒頭で、「頭白上人緣起(第二號一一一頁)は佐夜中山夜啼石の話と同類らしいと、知た振で、三號一六五頁に書いた」とあって、これは、先行する『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む』の中の一節を指している。従って、そちらを再読された上で、以下を読まれるのがよい。そちらで注したものは繰り返さないからである。また、「頭白上人」は、そこでリンクさせたサイト「茨城の民話WEBアーカイブ」の「頭白上人伝説:生まれ変わって敵を倒す」、及び、「頭白上人伝説:飴を買う幽霊」を見られたい。正直、私は、この話、よく知らんかったのだわ。

 

○頭白上人緣起(第二號一一一頁)は佐夜中山夜啼石の話と同類らしいと、知《しつ》た振《ふり》で、三號一六五頁に書いたが、予、實は、夜啼石の話を詳しく知らぬ。止《ただ》、「東海道名所記」三に、昔し、西坂《につさか》の里に、女あり。金谷里《かなやのさと》なる親を訪《おとな》ふ。途中、盜《ぬすびと》に殺さる。孕みて、當月なりしを、近所の山に住む法師、其腹を割《さ》き、子を出《いだ》し、育《そだ》つ。十五に成《なり》し時、仔細を語りければ、僧に成らず、池田宿に出《いで》て、僕《しもべ》となり、田作り、柴苅り、居常《いつも》、「命なりけり佐夜中山」を吟《くちずさ》む。主人、其故を問ひ聞き、助けて、仇《かたき》が隣家に住めるを、討《うた》しむ。「命なりけり」という歌を唱へて、仇を討《うて》り。其子は、出家して、山に籠り、父母の菩提を弔ふ。其寺に「無間《むげん》の鐘」有り。佐夜中山より十町許り過《すぎ》て、「夜啼《よなき》の松」有り。この松を燈《とも》して見すれば、子供の夜啼を止《とめ》るとて、往來の人、削り取り、切り取り、松、遂に枯《かれ》て、今は根許りに成けり(以上撮要)、と出《いで》たるを知るのみ。寶永七年板、「增補松の葉」に、佐夜中山長歌、有り。大意は、佐夜中山を通る者、孕婦《はらみめ》を挑めど、靡かぬを憤り、刀試しにする。創口より、男子生まれたのを、和尙、來たり、佐夜淸水で取上げ、衣の裾へ包み、門前の人に預け、其人、貰ひ乳《ぢち》で育て、十四に成た春、亡親の靈夢の告《つげ》により、京の硏屋《とぎや》に奉公する。二年目に、刄《やいば》損ぜる刀を持ち、「硏いでくれ。」と賴む人有り。賺《すか》して親の仇たるを聞出《ききいだ》し、遂に復讐したと云事ぢや。右の二書共に、死《しん》だ母の力で育つたと言はぬ。故に、予が、「頭白上人傳と、佐夜中山譚と、同類らしい。」と云たのは、單に孕婦が殺されて、後に子が生まれた一事に止《とど》まる。「奇異雜談」下卷に、『世俗に曰く、「懷姙不產《はらみてうまず》して死せる者、其儘、野捨《のずて》にすれば、胎内の子、死せずして、野にて生るれば、母の魂魄、[やぶちゃん注:ここには底本では「□」の記号が埋め込まれてあるが、恐らく誤植である。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」所収の本文で確認した(右ページ二行目下方から)。「選集」に従い、読点に代えた。読みも原本と校合した。]形に化して、子を抱《いだ》き養ふて、夜、行《ある》く。其赤子の泣《なく》を、「うぶめ啼く」と云也。其形、腰より下《しも》は、血に浸《ひたつ》つて力《ちから》弱き也。人、若《も》し、是に遭へば、「負《おふ》て玉はれ。」と云を、厭《いと》はずして負《おは》ば、人を福祐に成すと、云傳へたり。』云々。「うぶめ」のことは、予、『東京人類學會雜誌』明治四十二年五月の分、三〇五―六頁[やぶちゃん注:先行する南方熊楠の「小兒と魔除」(私のPDF一括版)の初出。初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」であった。ブログ分割版では「南方熊楠 小兒と魔除 (5)」で、そこで、『故に一種の夜鳥、胸前の斑紋兩乳に似て、多少女人の相有るを純雌無雄とするも尤もにて』(中略)『之に件の鵂鶹嬰兒を食ふ事、土梟抱塊爲兒の語抔を和して、姑獲養人子の迷信を生ぜるやらん』の箇所がそれである。]に、何か實在する、或鳥の外貌が、婦女に似たるより生じた訛傳だらうと云て置《おい》たが、其後、「梅村載筆」天卷に、『「夜中に小兒の啼き聲の樣なる物を、『うぶめ』と名《なづ》くと雖も、其を竊《ひそ》かに伺ひしかば、靑鷺なり。」と、或人、語りき。』と有るを見出た。又、鯢魚(さんせううを)も、鼈《すつぽん》も、啼聲、赤兒に酷似するを、永々、之を扱ふた人から聽《きい》た。ポリネシア人が、胎兒の幽靈を、事の外恐るゝ由、繰返し、ワイツ及ゲルラントの「未開民史《ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル》」(一八七二年板、卷六)に言《いへ》り。又「奇異雜談《きいざうだん》」下卷に、京都靈山《りやうぜん》正法寺《しやうぼふじ》の開山國阿《こくあ》上人、元と、足利義滿に仕へ、伊勢へ出陣の間に、懷姙中の妻、死す。其訃を聞《きき》て、陣中、作善《さぜん》を營む代りに、每日、錢を、非人に施す。軍《いくさ》、畢《をへ》て、歸京し、妻を埋めた處へ往見《ゆきみ》ると、塚下に、赤子の聲、聞ゆ。近處の茶屋の亭主に聞くに、「其邊より、此頃、每日、婦人の靈《れい》、來り、錢を以て、餅を買ふ。」と。日數《ひかず》も、錢の數も、伊勢で施した所と合ふから、「必定、亡妻が施錢《ほどこしぜに》を以て、餅を求め、赤子を養ふたに、相違無し。」と判じて、塚を掘ると、赤子は活居《いきをつ》たが、母の屍《かばね》は、腐れ果居《はててをつ》た。依て、其子を、彼《か》の亭主に養はせ、己れは、藤澤寺で出家し、五十年間、修行・弘道《ぐだう》した、と有る。是は、確かに、頭白上人、又、旃陀王子《せんだわうのこ》の傳に酷《よく》似て居る。〔(增)(大正十五年九月記)「因果物語」中卷廿三章。「越前名勝志」、『府中』の『龍泉寺開基』『寂靈和尙』の條。「琅邪代醉編」三三、『盧充』の條の第二章。「南方閑話」四一―五九頁、「死んだ女が子を產んだ話」を參看すべし。〕

[やぶちゃん注:『「東海道名所記」三に、昔し、西坂《につさか》の里に、女あり。……』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、昭和一一(一九三六)年昭和堂刊の、懐かしいガリ版刷りのようなものだが、当該箇所が視認出来る(右ページの三行目から)。

『寶永七年』(一七一〇年)『板、「增補松の葉」に、佐夜中山長歌、有り』とあるが、これは、所持する増補「松の葉」(岩波文庫)を調べたが、そんな長歌は載っていなかった(「松の葉」は歌謡集で全五巻。秀松軒編。元禄一六(一七〇三)年刊。当時の上方で伝承・演奏されていた三味線歌曲の歌詞を分類・集成したもの)。「もしや!」と思って、国立国会図書館デジタルコレクションで、種々のワードとフレーズで何度も検索してみた結果、図に当たった! これは「増補 松の葉」ではなく、それより三十四年も前に出た、江戸初期の江戸の流行歌謡を集めた歌謡集「淋敷座之慰」(さびしきざのなぐさみ)であることが判明した。同書は全一冊で、編者は不詳。延宝四(一六七六)年の成立で、内容的には。「吉原はやり小哥そうまくり」の姉妹書として,寛永(一六二年~一六四四年)以来の流行歌謡、長短二百七十編を、書物から摘出したり、見聞に従ったりなどして、収録したものである。「壱 本朝王代記之謡」に始まって、「七十 吉原しよくりしよ節品々」に至るまで、小舞・浄瑠璃・祭文(さいもん)・万歳・たたき・大黒舞・西国巡礼歌品々・木遣(きやり)・船歌・琴の歌品々・鞠つき歌・盆歌品々・弄斎片撥(ろうさいかたばち)昔し節品々・昔し小六(ころく)節・はやり長歌・なげぶし品々・山谷源五兵衛節品々などを収載している(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類従』第六(明治四〇(一九〇七)年国書刊行会刊)のこちらの「さよの中山長歌」で、当該全一首を視認出来る。熊楠は、恐らく、まさにこの、『新群書類従』第六を調べたのであろう。本書では「淋敷座之慰」の直前に「增補 松の落葉」(注意!「松の葉」ではなく、「松の落葉」である。これは大木扇徳の編になる「松の葉」に漏れた歌謡をとった(それが「增補」)もので、これが宝永七年刊なのである。則ち、熊楠は多重に誤認していることが判るのである)が載っており、それより前に「松の葉」も載せてあるからである。熊楠は、出典を示すのに、同一書の直前にある「增補 松の落葉」と誤認してしまったのであろう。

「梅村載筆」林羅山の随筆。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷一のここで視認出来る。

「靑鷺」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を参照されたい。アオサギのような中・大型のサギ類は、江戸時代から妖怪と見間違えるケースが多々あり、私の怪奇談集の中にも、複数、見受けられる。一つ挙げておくと、「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事」の私の注の最後を見られたい。

「鯢魚(さんせううを)」ルビでは、広義の両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ科 Hynobiidae の多くのサンショウウオ類となるが、漢字表記の「鯢魚」は世界最大の両生類の一つで、日本固有種のサンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus を特に指すことが多い。但し、同種の研究家でオオサンショウウオが鳴くとする記載を載せるておられる方は皆無に等しい。この「サンショウウオ類は鳴くか?」という問題については、「日本山海名産図会 第二巻 鯢(さんしやういを) (オオサンショウウオ及びサンショウウオ類)」の私の注で、かなり詳細に書いたが、オオサンショウウオや、一部のサンショウウオが鳴くと主張された記事は、実際に、ある。但し、サンショウウオ類には、小学生の実際の体験教室では「『ウー』という感じの声だった」とあった。しかし、両生類であるオオサンショウウオを水から引き揚げて計測しており、とすれば、消化管内に空気が取り込まれて、物理的に腹が鳴った可能性がありそうだが、サンショウウオ類に呼鳴器官はないとされているようだからなぁ、熊楠先生?

「鼈」カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。博物誌は私のブログの「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鼈(スッポン)」、或いは、サイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「鼈(すつぽん) かはかめ」を見られたいが、スッポンが鳴くというのも、信じがたい。カメを飼育しているかなりの専門家の方の複数の記事でも、カメは基本的に鳴かない、とあって、鳴いているように聴こえるのは、呼吸音、或いは、呼吸器疾患による病的な物理的擬似音であるとある。やっぱ、熊楠先生、ちょっと難しい感じですねぇ!

『ワイツ及ゲルラントの「未開民史《ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル》」』ドイツの心理学者・人類学者テオドール・ヴァイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)、及び、その死後に著作を補巻したドイツの人類学者・地球物理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)による共著‘Anthropologie Der Naturvolker’(「原始人の人類学史」)のこと。

『「奇異雜談」下卷に、京都靈山正法寺の開山國阿上人、……』「奇異雜談」は正しくは「奇異雜談集」で、江戸初期の怪談集。編著者不詳。貞享四(一六八七)年刊で全六巻であるが、原形の成立は遙かに古く、天正元(一五七三)年頃かともされ、写本で伝わっていた。諸国の怪談三十話と、注目すべきは、後代の怪奇談集に踏襲されるところの、明代の瞿佑(くゆう)の「剪灯(せんとう)新話」等から四話を翻訳している点で、江戸時代の怪異小説の濫觴と言ってよい作品である。いつか私も電子化注してみたい一つである。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世怪異小説」(『近世文芸資料』第三・吉田幸一 編一九五五年古典文庫刊)のこちらで、当該話(第四巻の「㊄国阿(こくあ)上人発心の事」)を視認出来る(但し、新字)。【二〇二三年七月八日追記】実は、直後に「奇異雜談集」の電子化注に着手し(正字表現)、本日、当該話に到達した。「奇異雜談集巻第四 ㊄國阿上人發心由來の事」を読まれたい。

『「因果物語」中卷廿三章』同書は全巻を電子化注済み。『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十三 幽靈來りて子を產む事 附 亡母子を憐む事」』がそれ。

『「越前名勝志」、『府中』の『龍泉寺開基』『寂靈和尙』の條』国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊・『諸国叢書』「北陸一」(大正六(一九一七)年刊)のこちらの「同所[やぶちゃん注:越前の府中。]龍泉寺」の条。「小夜の中山仇討」の酷似した話が読める。

『「琅邪代醉編」三三、『盧充』の條の第二章』「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの最後からだが、この話、読んだことがあるぞ? 「捜神記」第十六巻にあるこれだ(同前サイトのもの)! 個人ブログ「プロメテウス」の「第十六巻:捜神記を翻訳してみた」の「盧充が幽婚する」で和訳が読める。

『「南方閑話」四一―五九頁、「死んだ女が子を產んだ話」』国立国会図書館デジタルコレクションの「南方閑話」(一九二六年坂本書店出版部刊)のここから視認出来る。同書は、そのうちに電子化注する予定では、いる。]

「新說百物語」巻之五 「肥州元藏主あやしき事に逢ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、「藏主」(歴史的仮名遣「ざうす」・現代仮名遣「ぞうす」)は、本来は「経蔵を管理する僧」を指すが「出家した僧」の意であり、「元藏主(げんざうず)」で固有僧名である。]

 

   肥州元藏主あやしき事に逢ひし事

 肥後の國に、元藏主といふ僧あり。或時、旦那の方より、亡者ありて、葬礼をいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、寺にて、引導のときにいたりて、死人《しびと》、棺の内より、

「すつくり」

と、立ちたり。

 元藏主、是れを見れとも[やぶちゃん注:ママ。]、すこしも、さはかす[やぶちゃん注:総てママ。以下も同じ。]、居《ゐ》たりけるに、かたはらの僧、

「死人、立《たち》申《まふし》たり。」

と申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、元藏主、是れを、

「はつた」

と、ねめつけ、すこしも、さはかすして、側(そば)に、燒香箱《しやうかうばこ》もち居たりける小僧のあたまを、扇を持《もち》て、

「はた」

と、打ちけれは、彼《かの》死人、もとのことく[やぶちゃん注:ママ。]に、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 其後、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「く」。後も同じ。]、佛事をなして、何のさはりも、なかりけるが、一七日《ひとなぬか》過きて[やぶちゃん注:ママ。]、ある夜、死人、元藏主の座敷に來たりて、

「さまさまの御とむらひ、ありかたく[やぶちゃん注:ママ。]こそ存し[やぶちゃん注:ママ。]奉る。御礼のために、今度《このたび》、御くに、𢝝《へだた》り申すなり。此以後とても、かやうの事もあるへき[やぶちゃん注:ママ。事なり。必す[やぶちゃん注:ママ。]、その死人の㒵《かほ》は、御らんあるまし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しける。

 元藏主、後にかたられけるは、

「成る程、その㒵、ゑ[やぶちゃん注:ママ。不可能の呼応の副詞「え」の誤記。]もいはれぬ㒵にて、おそろしきもの也。」

と申されし。

 是《これ》は、小僧の、『こはき、こはき、』と思ひし一念にて、引き出《いだ》したるものなりと、すいりやうし、扇ににてたゝかれしものなり。

 頓智の僧にて、ありしなり。

[やぶちゃん注:「御くに、𢝝《へだた》り申すなり」「𢝝」は「懸」の異体字で、「懸」には「隔てる・かけ離れる」の意があるので、かく訓じておいた。「御國、懸(へだ)たり申すなり」で、「現世を隔てた、あの世に参ることとなり申しました」の意で採ったものである。但し、底本のこの崩し字部分(左丁一行目五字目)は、「懸」の崩し字と採っても問題はない(「人文学オープンデータ共同利用センター」の「「懸」(U+61F8) 日本古典籍くずし字データセット」の頭の画像を参照されたい)。ただ、「続百物語怪談集成」の本文がわざわざ、この漢字を「グリフウィキ」のこの同じ「懸」の異体字((上)「県」+(下)「心」の字形。電子活字では表字不能)で起こしておられたいので、敢えてそれに近い異体字を選んだまでである。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「はつ秋」王氏女

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  は つ 秋

            白 藕 成 花 風 已 秋

            不 堪 殘 睡 更 回 頭

            晚 雲 帶 雨 歸 飛 急

            去 作 西 窗 一 枕 愁

                  王  氏  女

 

白蓮(びやくれん)さきて風は秋

ねざめ切なく見かへれば

雲あしはやき夕ぞらの

夜半や片しく袖に降るらん

 

   ※

王氏女  明朝。 未詳。 年ごろになって良緣がなかつた。 その悲しみを歌つたこの詩を見て、趙德麟といふ人が彼女を娶(めと)つた。 世人は二十八字媒と呼んで佳話とした。 轉句の「晚雲」を一本では「曉雲」に作つてゐる。 しかし晚雲でなければ詩情に乏しいかと思ふ。 南方の支那では一般に夏時は午睡をする習慣があることを思へば、殘睡に回頭して晚雲を見ても不自然ではないわけである。

   ※

[やぶちゃん注:調べたところ、この解説の「明朝」は誤りで、王氏女は宋代の女流詩人である。以下、推定訓読を示す。標題は「咏懷」のようである。佐藤も述べている通り、「晩雲」は一本に「曉雲」とするが、佐藤の説が相応しいので、それに従う。なお、この詩が婚姻の契機となったことは、中文サイト「中國古典戲棘資料͡庫」の「堅瓠六集」卷一の「詩媒」に記されてある。

   *

 咏懷(えいくわい)

白き藕(はちす) 花を作(な)して 風(かぜ) 已(すで)に秋たり

殘睡(ざんすい)に堪へず 更に頭(かうべ)を回(めぐ)らせば

晩(くれ)の雲(くも) 雨を帯び 歸へり飛ぶこと 急なり

去りて 西の窗(まど)に一枕(ひとつまくら)の愁ひを作(な)せり

   *

この「藕」の字(音「グウ」)は狭義には蓮根を指すが、広くハスの花を含む意でも用いる。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三六番 人間と蛇と狐

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一三六番 人間と蛇と狐

 

 或大海潚(オホツナミ)があつた時、旅人が浪にもまれて居る人間を助けた。そして、あゝ危いところであつた。幸ひ俺が通りかゝつてよかつたと言ひ、又其人間も、お蔭樣で大切な生命(イノチ)を助けて貰つた、此御恩は如何(ナゾ)にして返したらよいかと淚を流してお禮を言ひながら、一緖に步いて少し行くと浪にもまれて溺れかゝつて蛇が居た。それを又旅人が助けて連れて行つた。又少し行くと一匹の狐が浪に押し流されて溺れかゝつて居た。これも又助けてやつて人間と蛇と狐とを連れて旅を重ねて行つた。

[やぶちゃん注:「大海潚」の「潚」はママ。通常、海鳴り(熟語としての「海」の場合は、津波を含まず、その海鳴りの音だけを指す場合もある)を伴う大津波(基本的には地震に限らず、科学的には、満潮の際、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になって、砕けながら、川上に遙かに進んで大逆流する現象を狭義には言う。しかしまた、台風や暴風雨と気圧と干満の関係から発生する海鳴りを伴う大きな津波も、かく呼ぶ。岩手・宮城を中心とする東北太平洋岸はリアス式海岸が多く、大・中型の台風の襲来でも、これに似た現象は起こるので、これを我々の記憶に近い大地震による大津波と理解するのは正しくない。そもそもここでは、大津波の前に発生した地震を述べていないから、猶更である)を意味する歴史的仮名遣「だいかいせう」の漢字表記は「大海嘯」(現代仮名遣「だいかいしょう」)が正しい。「ちくま文庫」版でも『大海嘯』に訂されてある。一見すると、「潚」でも同音で、いいように見えてしまうが、「潚」には、・「清い水が深くて清い」、「対象の運動性能が速いことの形容」、「米を研ぎ洗う」などが、単漢字として意味で、一つ、「潚潚」の熟語に「風雨の激しい形容」の意はあるが、「大きな海鳴りを伴う大津波」の意味で「大海潚」と表記することはない。従って、ここは誤記か誤植である。

 或日或大層威勢のいゝ長者のゐる國へ行つて、其長者の館にこの連中が泊つた。其旅人は元來醫者であつたが、その國に醫者が居なかつたので、方々から診て貰ふ人々が每日每夜來て、それを癒してやり、大層其國の人達からアガメられて、多くの贈物などを貰つた。

 其を見て、助けられた人間は旅人をひどく妬んだ。そして或日長者檀那に、あの人は眞實(ホントウ)の醫者ではない。實は恐しい魔法使ひでどんな惡い事を企《たくら》んで居るか分らないから要心めされと讒言《ざんげん》をした。長者は驚いて、役人どもを多勢を連れて來て旅人を捕へて直ちに牢屋へ打《ぶ》ち込んでしまつた。

[やぶちゃん注:底本では「檀那」は「擅那」とあるが、正しい「独擅場」(どくせんじょう)の読みから判る通り、「擅」には「ダン」の音はない。従って、これは誤字か誤植と断じて、訂した。無論、「ちくま文庫」版でも『檀那』となっている。後に出る箇所も同じく訂した。]

 此ありさまを見て、蛇と狐は大層憤つたが、どうすることも出來なかつた。はてさて彼《あ》の人間こそは憎い男だ。それにしても俺達の恩人を牢屋から救ひ出すには、何(ナゾ)にしたらよいかと二匹は夜晝其事ばかりを相談して居た。其あげく蛇は長者の館の玄關の踏臺の下に隱れて居て、長者檀那が出やう[やぶちゃん注:ママ。]として片足を踏臺の外へ踏み下した時、その足に嚙みついた。長者はあツと言つて倒れたが、見て居る間に足が槌《つち》のやうに腫れ上つた。そして痛い痛いと泣き叫んで日夜苦悶した。其所ヘ卜者《うらなひ》に化けた狐が行つて、卦《け》を立てて、長者檀那の病氣を直せる人は此世の中にたつた一人しか無い。その人は長者の屋敷の中の牢屋に入れられて居る、あの天下に名高いお醫者樣であると言つた。長者はそんだらばと言つて、家來の者を呼んで、直ぐにあの旅人を牢屋から呼び出して連れて來《こ》うと言いつけた。

 旅人が牢屋の中で悲しんで居ると、役人が來て直ぐ外へ出ろと言つた。これはてつきり殺されるのだと思つて觀念して居ると、直ぐに長者主人の前へ連れて行かれた。長者はこれこれ旅のお醫者殿、俺はこんな病氣に罹《かか》つた。早く診てくれろと賴んだ。旅人が長者の足を診て藥をつけると、見て居る間に今まで泣き叫んで苦しんで居た長者の傷がペラリと快《よ》くなつた。

 長者檀那は大層喜んで、旅人を上座に直して、厚くお禮を言つた。そして卜者の言葉によつて惡い人間の方をこんどは牢屋に打ち込んだ。何よりかにより人間が、一番恩知らずであると謂ふことである。

  (大正十二年一月二十日、村の大洞犬松爺の話の七。)

[やぶちゃん注:「何よりかにより人間が」「この世に存在する如何なる生き物の中でも、何よりも、よりによって、人間こそが」の意。]

2023/06/26

「新說百物語」巻之五 「定より出てふたゝひ世に交わりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   (てう[やぶちゃん注:ママ。「ぢやう」が正しい。]より出てふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]世に交わり[やぶちゃん注:ママ。]し事

 大坂の事なりしが、ある人、大屋敷を、もとめ、つゝくり、普請なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたして、家移りいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、はるかの地の下に、

「こん、こん、」

と、鉦の音、いたしける。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]には思ひなから[やぶちゃん注:ママ。]、其年も、くれて、春になれとも[やぶちゃん注:ママ。]、その鉦の音、やむとき、なし。

 あまりに、心すます[やぶちゃん注:ママ。「澄まず」。]、地の下を、ほらせけれは[やぶちゃん注:ママ。]、およそ一丈はかり[やぶちゃん注:ママ。]ほりて、石の「からと」[やぶちゃん注:「唐櫃(からと)」。「からびつ」に同じ。脚が四本又は六本の、被せ蓋(ぶた)のついた、方形で、大形の箱。通常は衣服・図書・甲冑などを収納した。]を掘り出し、ふたを明けれは[やぶちゃん注:ママ。]、上には、髮の毛はかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、其下に、骨と、皮とはかり[やぶちゃん注:ママ。]なるもの、鉦をたゝき居《ゐ》たりける。

 樣子を、とヘとも[やぶちゃん注:ママ。]、物をも、いはす[やぶちゃん注:ママ。]

 それより、湯なと[やぶちゃん注:ママ。]、あたへ、そろそろと、白粥なと、すゝめ、其名を、とへとも覚へす[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]

 時代を、とへとも、覚へす。

 只、あたまの髮の、のひたる[やぶちゃん注:ママ。]斗《ばかり》なり。

 一月、たち、二月、たち、段〻に、しゝ[やぶちゃん注:「肉(しし)。]も、出來《いでき》て、後には、常の男のことく[やぶちゃん注:ママ。]なりたり。

 いたしやうも、なけれは、臺所に、さしをき、火なと[やぶちゃん注:ママ。]、燒かせける。

 四、五年も、すきて[やぶちゃん注:ママ。]、とくと、常の行往座臥に、おとらぬやうになりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其家の下女と、密通して、大坂を欠落《かけおち》いたしける、となん。

[やぶちゃん注:本篇は実は二〇〇九年三月十八日に、サイト版で「続百物語怪談集成」を底本として、語注と現代語訳を行っている。なお、この話のルーツとしての章花堂なる人物の元禄一七(一七〇四)年版行になる、

「金玉ねぢぶくさ」巻一の「讃州雨鐘(あまがね)の事」

や、寛保二(一七四二)年版行になる三坂春編(はるよし)の、

「老媼茶話」の「入定の執念」

更には、これの影響下にあると思われる安永五(一七七六)年の上田秋成の、

「雨月物語」の「青頭巾」

そうして確信犯的インスパイア作である同人の、

「春雨物語」の「二世の縁」も用意してある。はっきり言って、この手の話の中では、それほど上手く行っていない部類のものと言わざるを得ない。以上の中でも、完成度が高いものは、ブログ決定版(正規表現版)の「老媼茶話巻之七 入定の執念」を強くお勧めするものである。

「新說百物語」巻之五 「神木を切りてふしきの事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

  神木を切りてふしき[やぶちゃん注:ママ。]の事

 丹州の事なりしか[やぶちゃん注:ママ。]、一村の鄕士にて、氣も丈夫なる者、ありける。

 其村のやしろに、さして、社人とても、なく、一村より扶持を遣はしける老婆、壱人《ひとり》、守りにつけて、をきける。

 此鄕士、

「我が屋敷、普請する。」

とて、

「其宮の前の大木を、きりて、普請につかはん。」

と申しけるを、彼《かの》老女、とめて、いふやう、

「此大木は、いつの頃よりといふことを知らぬ木なり。もしも、崇りなと[やぶちゃん注:ママ。]有りなんや。」

と申しけるを、何の苦もなく、切りたをし[やぶちゃん注:ママ。]、大普請、ほとなく[やぶちゃん注:ママ。]、成就いたしける。

「崇(たゝり)も、人によるものなり。」

と、荒言(くはうけん[やぶちゃん注:ママ。「くわうげん」。])抔《など》いたしける。

 一兩月も過《すぐ》ると、彼の鄕士、うつらうつらと、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]出し、をりをりは、あらぬ事など、口はしりけるか[やぶちゃん注:総てママ。]、終《つひ》に、程なく、相果《あひはて》ける。

 沐浴(もくよく)して、棺(くわん)に入れ、僧を賴み、番に付け置きけるか[やぶちゃん注:ママ。]、夜の中《うち》に、幾度といふ事もなく、棺より、這出(はい《いで》)て、つけ木に、火を、とほし[やぶちゃん注:ママ。]、そこらを、見あるき、又は、帚木《はうき》をとりて、座敷なと[やぶちゃん注:ママ。]、拂ひける事、夜の内、六、七度なり。

「とかく、はやく、はふむるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、一門中、申して、明日《あくるひ》、葬礼を、つとめ、其屋敷の門を出るといなや、いなひかり[やぶちゃん注:ママ。]、おひたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]、大かみなりにて、一向に、目も、あかれす。

「やうやう、はふむりて、かへりける。」

と、其村の人、かたり侍る。

 

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「芳澤あやめ」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○芳澤《よしざは》あやめ(三號一六五頁)馬文耕の「近世江都著聞集」六に、『元祿の頃、あやめ四條にて第一の藝子《げいこ》なり。堀川邊の或僧、甚《いた》く寵愛して墮落せし。此出家を、堀川の僧正・初音の僧正と比べて、芭蕉翁の戲れに「郭公《ほととぎす》鳴くや五尺の菖蒲《あやめ》哉」と詠《よま》れし。時鳥《ほととぎす》啼《なき》しとは、彼《かの》僧の事、あやめは、美少年なりしが、子供の節より、極めて長《たけ》甚《いと》伸《のび》たり、年に合せて、尺《たけ》過《すぎ》たり、依《より》て、翁の「五尺の菖蒲」と申玉《まふしたま》ふと云事也。」と有るが、文耕は、牽强《けんきやう》多き人故、此說も虛構だらう。「愚雜俎」一に、『あやめ、俳名、春水。これは「春水、四澤《したく》に滿つ」と云より、號《なづけ》しとぞ。』と出づ。芳澤・あやめ・春水、氏《うじ》も、藝名も、俳名も、相互關係ありしは疑無《うたがひな》しだが、何を本、何を末に附《つけ》たのか、又、何《どれ》も是《これ》も、一時に附たのか、解らぬ。「盛衰記」に、賴政に賜はりし菖蒲前《あやめのまへ》は、心の色、深くして、貌《みめかたち》、人に超えた許りでなく、賴政とは、志《こころざし》、水魚の如くにして、無二の心中《しんちゆう》なりけり、とあるから、女方《をんながた》役者の、最も敬慕すべき名として「菖蒲」を藝名とし、其に因んで、氏も俳名も附たのかと思ふ。甫庵の「太閤記」十四に見えた、瀨川采女正《うねめのしやう》が、妻菊の貞操を慕ふて、路考が瀨川菊之丞と名乘つたと云ふに似た事歟《か》。さて、「改定史籍集覽」十三に收めた「野田福島合戰記」元龜二年[やぶちゃん注:一五七一年。]の條に、河内、烏帽子形城《えぼしがたじやう》で討《うた》れた草部菖蒲助と云人、有り。珍しい名だが、或は此人も芳澤も、五月生れの譯で、「菖蒲」と名を附たのかと臆說を述置《のべお》く。

[やぶちゃん注:「選集」の編者注によれば、対象論考は自分自身の、先行する「『鄕土硏究』第一卷第二號」を讀む」である。そちらで注したものは繰り返さないので、そちらを参照されたい。『和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠師(今九十歲近し)、十年許り前、語られしは、女形役者で高名だつた芳澤《よしざは》あやめは、日高郡山の瀨と云ふ地の產也。其が斯る極《ごく》邊鄙の出に似ず、古今の名人成たので、其頃、所の者が、「山の瀨の瀨の眞菰の中で、菖蒲咲くとは、しほらしや。」と唄ふた。……』以下の部分への自身の追加記事である。

『馬文耕の「近世江都著聞集」』馬場文耕(ばばぶんこう 享保三(一七一八)年(異説有り)~宝暦八(一七五九)年)の唐風名。伊予出身。姓は中井。江戸中期の講釈師で易者。幕政を批判・風刺した講釈をしていたが、美濃八藩の「郡上一揆」(金森(かなもり)騒動)を題材にした「森の雫(しずく)」を発表して捕縛され、打首獄門にされた。「近世江戶著聞集」(きんせいえどちょもんじゅう:現代仮名遣)は巷説集。宝暦七年刊。巻一の冒頭の「八百屋お七か傳」でよく知られるが、熊楠が言っているように実話をかなり弄って牽強付会しており、馬場自身の経歴も甚だ怪しい箇所がある。ここで熊楠が引いているのは、「芳澤春水が傳」(延宝元(一六七三)年~享保一四(一七二九)年)元禄から享保にかけて大坂で活躍した女形の歌舞伎役者初代芳澤あやめの評伝。「春水」(しゅんすい)は俳号)の途中から。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第二(岩本佐七編・明治四〇(一九〇七)年国書刊行会刊)のここの左ページ上段一行目の下方から。

「愚雜俎」田宮仲宣(ちゅうせん:橘庵:宝暦三(一七五三)年?~文化一二(一八一五)年)の随筆。田宮は江戸中・後期の戯作者。京の呉服商に育ったが、放蕩のため、放浪生活を送った。天明五(一七八五)年、大坂に来て、洒落本「粋宇瑠璃」(くろうるり)・「郭中掃除」など、多数の作品を書いて生計を立てた。大田南畝や曲亭馬琴とも親交を結んでいる。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆全集』第十一巻(国民図書株式会社編・昭和四(一九二九)年刊)の「前集卷之一」の「芳澤瀨川(よしざはせがは)の話(こと)」で視認出来る。やはり、芳澤あやめの短い伝である。

『「盛衰記」に、賴政に賜はりし菖蒲前は、……」国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文学大系 』校註第十五巻「源平盛衰記」(大正一五(一九二六)年国民図書刊)「陀第十六」のここに「菖蒲前の事」がある。次の段で熊楠が述べているシークエンスもそこにある。

「烏帽子形城」現在の大阪府河内長野市喜多町(きたちょう)の烏帽子形山にあった城。当該ウィキを参照されたいが、そこに、「足利季世記」に『よると、畠山秋高が遊佐信教に殺害された際、遊佐氏家臣である草部氏』(☜)『が烏帽子形城を宮崎針大夫・宮崎鹿目助兄弟を逐って占拠したが、宮崎兄弟は秋高遺臣の碓井定阿(定純の子)・三宅智宣・伊地知文太夫と協力し』、『烏帽子形城を奪還したという』とあった。城跡はここ(グーグル・マップ・データ)。]

 又、序でに云ふ。「盛衰記」に出《いで》たる鳥羽院、菖蒲に、歲《とし、》長《たけ》、色貌《いろかたち》、少しも替らぬ女二人に菖蒲を具して、三人同じ裝束、同じ重《かさ》ねになり、列居《ならびを》る中から、菖蒲を撰取《えりとら》しめ玉ひしてふ咄に似たのが、佛典に有る。「根本說一切有部毘奈耶雜事」二八に、𩋾提醯《びだいけい》國の惡相婆羅門、十八種の醜陋相を具へ、無双の見苦しき男だつたが、學問の力に依て、美女、烏曇《うどん》を娶《めと》り、自宅へ連行《つれゆ》く。此男、頑固・吝嗇兼備で、途上、餓《うゑ》たる妻に、「飮食を分《わか》たば、古僊の制に負《そむ》く。」とて、何にも與へず、遂に、烏曇、跋羅樹《ばつらじゆ》の生《はへ》た處に往着《ゆきつ》き、自分のみ、樹に上り、其果を採り食《くら》ふ。妻、「吾にも、吳れ。」と云ふと、未熟果を墜《おと》し與へ、熟したのを、自分獨り、食ふ。妻、重ねて、「吾にも、熱果を與へよ。」と云ふ。夫、答《こたへ》て、「汝、自ら、採れ。」と云ふから、妻も、樹に上り、食ふ。夫、之を惡《にく》み、樹より下り、棘《いばら》で、其樹を圍ふて去る。妻、大いに困り、哭《ない》て居ると、重興王、偶々、出獵して、來合《きあは》せ、扶《たす》け下ろし、同車して、宮内に還り、寵幸、限りなし、と有る。生果を墜とし、熟果を與へなんだ惡相婆羅門の行ひが、「蟹猴《かにさる》合戰」の發端に違はぬ。偖《さて》、王が烏曇女を后《きさき》としたと聞《きき》て、惡相、大《おほい》に悔い、石を運ぶ人足に雜《まぢ》り、宮庭に入り、偈《げ》を以て、后と問答す。王、后を詰《なじ》つて、履歷を明らめた上、「汝、今も、彼を愛するや。」と問ふに、「何んで、彼樣《あん》な醜男を好きませう。しかし、彼は婆羅門で、咒術上手だから、無闇な扱ひは出來ませぬ。」と對《こた》ふ。王、困つて、賢相、大藥に計《はか》る。大藥言《いは》く、「其は、造作も無《の》う御座います。彼《かの》婆羅門は、貧乏で、身形《しんぎやう》鄙劣《ひれつ》、夫人は、光彩、群に超《こえ》て居る。此大不釣合をさへ呑込《のみこん》だら、此一件の方付《かたつけ》は、何でも無い事。」と受け合ふ。其處で、大藥、婆羅門に、「汝の婦《をんな》を識るや。」と問ふに、「我、識る。」と答ふ。大藥曰く、「官女五百を一同に出し列べるから、汝、自分の婦を牽《ひい》て取れ。罷り間違へば、汝の頭を刎《は》ねん。」と約して、后を首《はじ》め、五百宮人、皆、裝飾して出で、五百婇女《さいによ》[やぶちゃん注:侍女。]、之に隨はしむ。婆羅門、衆女の嚴飾《よそおひ》、非常なるを見、日に向へ樣に、目《め》眩《くらみ》て、呆れ惑ふ。諸女、皆、行過《ゆきすぎ》て、最後に餓鬼の如き、醜き下女有るを、捉へて、「是、我婦だ。」と云ふ。大藥、「然らば、其女を伴行《つれゆ》て、妻とせよ。」と命ずる時、婆羅門、頌《しよう》を說《とき》て、上人還愛ㇾ上、中人自愛ㇾ中、我是餓鬼形、還憐汝餓鬼、棄此天宮處、相隨向鬼家。色類正相當、求ㇾ餘不ㇾ可得。〔上(じやう)の人は、還(ま)た、上を愛し、中(ちゆう)の人は、自(おのづか)ら、中を愛す。我は、是れ、餓鬼の形、還た、汝、餓鬼を憐(いとほ)しむ。此の天宮(てんきゆう)の處を棄て、相ひ隨ひて鬼家《きけ》に向かふ。色類(しきるゐ)、正(まさ)に相ひ當たれり。餘を求むるは、得べからず。〕と諦めて、目出度く、其醜女と婚した。譚《はなし》の成行《なりゆき》は、賴政、菖蒲前と、大反對だが、多くの女を列べて、撰取《えりとら》す一事は、能く似て居る(シェフネル「西藏傳說《テイルス・フローム・チベタン・ソールセス》」、英譯、一九〇六年板、一七七―八一頁參照)。

[やぶちゃん注:『「根本說一切有部毘奈耶雜事」二八』の当該部は「大蔵経データベース」と校合した。一箇所、底本の国名「𩋾提醯國」の漢字表記が「鞞提醯國」であったので訂した。これは「ヴィデーハ国」で、古代インドの国名で、現在のビハール州(グーグル・マップ・データ)北部にいたヴィデーハ族の国名らしい。

「跋羅樹」種不詳。

『シェフネル「西藏傳說《テイルス・フローム・チベタン・ソールセス》」、英譯、一九〇六年板、一七七―八一頁參照)』読みは「選集」に拠った。フランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七 年~一八七九年)はたエストニア(当時はロシア帝国)生まれのドイツ系の言語学者・チベット学者。正式書名はTibetan tales, derived from Indian sources(「インドの情報に由来する、チベットの物語」)。「Internet archive」のこちらで当該箇所以降を読むことが出来る。そこでは、美女の名は“Udumbarika”で、醜陋なバラモン僧の名は“Virupa”である。]

「新說百物語」巻之五 「女をたすけ神の利生ありし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   女をたすけ神の利生ありし事

 

 京、上長者町に「ひしや治郞兵衞」といふもの、あり。

[やぶちゃん注:現在の京都府京都市上京区のここの東西を走る上長者町通(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 いまた[やぶちゃん注:ママ。]若き時より、男伊達にて、一生、佛法といふことも、ねかはす[やぶちゃん注:総てママ。]
、夫婦、暮しけるか[やぶちゃん注:ママ。]
、ある時、夢に見たりけるは、衣冠正しき人、來たり、

「我は、大宮七条あたりのものなり。」

とて、飛《とび》さり給ふ。

[やぶちゃん注:「大宮七条」ここ。]

『ふしき[やぶちゃん注:ママ。]の事。』

に思ひて、七条に、いたりけれは[やぶちゃん注:ママ。]
、古《ふる》かね[やぶちゃん注:ママ。]店《みせ》に、右のことき[やぶちゃん注:ママ。]天神の像あり。

 さしもの男伊達も、信心、きもにめいし[やぶちゃん注:ママ。]、調《ととの》へ、かへり、信心いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]
、あるとし、大熱病を、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]て、命も、おはらんとしける故、女房、水ごり[やぶちゃん注:「水垢離」。]をとり、彼の天神に、夫の命乞《いのちごひ》をいたしける。

 天神、夢に、女房に告《つげ》て、の給はく、

「汝が願ふ所も、餘儀なし。なににても、大切のものを、捨(すつ)へし[やぶちゃん注:ママ。]。病氣、快氣なさしめん。」

と、ありありと、霊夢を、かふむり、うたかふへくもあらす[やぶちゃん注:総てママ。]

 夫婦くらしの事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、さして大切の物とても、なし。

「何をか、捨つへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と談合して、年々、祕藏して、そたて[やぶちゃん注:ママ。]たる豐後梅の鉢植を、引《ひき》ぬき、小㙒の天神の神前に、捨て置き、女房か[やぶちゃん注:ママ。]
、宿へかへると、大熱、せんせん[やぶちゃん注:ママ。「漸々(ぜんぜん)」。]に、さめて、程なく、本ふくいたしける。

[やぶちゃん注:「豐後梅」バラ科サクラ属交雑種ブンゴウメ Prunus mume var. bungo 。梅とアンズの交雑種。原産地は大分。観賞用。

「小㙒の天神」不詳。識者の御教授を乞う。]

 此治郞兵衞、其後、油小路邊を通りしに、初夜[やぶちゃん注:午後八時から九時頃。]過《すぎ》の事なりしか[やぶちゃん注:ママ。]
、女、壱人《ひとり》、なきなき、物をたつぬる[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]風情なり。

「何をたつぬるそ[やぶちゃん注:ママ。]

と、たつねしかは[やぶちゃん注:ママ。]

「私事《わたくしこと》は、さる武家に奉公いたす女なり。今日、夕かた、御出入《おでいり》の小間物やへ、つかひに參り、金子、拾兩ばかりの玳瑁(たいまい)の櫛を、三枚、持ちかへりて、一枚、取りおとしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、見へ侍らす[やぶちゃん注:ママ。]。主人の申さるゝは、

『もしも、此櫛なくは、手打《てうち》にすへし[やぶちゃん注:ママ。]。』

と申さるゝにつけて、あてもなく、かくの如く、たつね[やぶちゃん注:ママ。]ける。」

と申す。

 治郞兵衞、聞きて、

「それは、笑止なる事かな。」

とて、其近所にて、挑灯(てうちん)を、かり來りて、二人して、尋ぬれとも[やぶちゃん注:ママ。]、ひろいえす[やぶちゃん注:ママ。]

 女、なくなく、申すやう、

「迚《とて》も、歸へりても、うきめを見る事に候へは[やぶちゃん注:ママ。]
、是より、渕河《ふちかは》へも、身をは、なけ、申すへし[やぶちゃん注:総てママ。]。存《ぞんじ》もよらぬ御世話に、あつかり[やぶちゃん注:ママ。]たり。」

と、かたるを、不便に、おもひ、

「それは、わろき了簡なり。先々《まづまづ》、是より、在所へ歸り、親とも相談して、主人へ、わひこと[やぶちゃん注:総てママ。]も、したまへかし。」

とすゝめけれとも[やぶちゃん注:ママ。]

「いや。在所へ、女の身にて、ひとりも、歸られす[やぶちゃん注:ママ。]。まして、親に苦勞をかけるも、氣の毒なり。」

と、成程、身をも、なくへき[やぶちゃん注:総てママ。]やうすなり。

「夫ならは[やぶちゃん注:ママ。]、まつまつ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。]、其元《そこもと》かゝたへ[やぶちゃん注:ママ。]來たり、一宿《いつしゆく》ても[やぶちゃん注:ママ。「でも」。]ありて、思案も、し給へ。」

とて、無理に、ともなひ、歸へり、女房とともに、すゝめて、在所、勢州雲津《くもづ》へ送らする談合になり、人をやとひ、路錢も、あたへぬ。

 此女、雲津に知るべありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、それまて[やぶちゃん注:ママ。]
、おくりとゝけ[やぶちゃん注:ママ。]て、雇人(やとひど)は、京に、かへりけり。

[やぶちゃん注:「雲津」古名で歌枕でもあるが、一つは、現在の三重県北部の香良洲(からす)町にある岬とする。雲出(くもず)川の河口を抱く。ここ。一説にその北西直近の雲出川《くもずかわ》左岸の津市南部の雲出(くもず)地区ともする(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「雇人」治郎兵衛が彼女を京都から雲津へ送るのに雇った者。]

 其後、段々、親よりも、御主人へ御わび申しけるか[やぶちゃん注:ママ。]
、その女の、おとしたるにては、なく、あしきもの、ありて、取りかくせしよしにて、女のあかり[やぶちゃん注:明かし。]は立《たち》て、

「又々、奉公に、のほるへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、主人より申されけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、奉公に、こりて、其侭《そのまま》、在所に居たりける。

 三年、すき[やぶちゃん注:ママ。]
て、最前の「ひしや治郞兵衞」、「伊勢太々講《いせだいだいこう》」の人數《にんず》にて、參宮いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、ある日、雲津の一里はかりあの方《かた》にて、笠打ちかふり、のほり[やぶちゃん注:ママ。]ける所に、在所のわきより、女、壱人、ちいさき女を、供《とも》につれて來たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、治郞兵衞の顏を、つくつく[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]と見て、そばへ、より、

「もしも、おまへには、京の治郞兵衞さまにては、なしや。」

と、とふ。

 治郞兵衞も、立ちとまりて、

「成程、京都のものにて、名は治郞兵衞と申す。其元《そこもと》には、何とやら、見たる人の樣《やう》なり。」

と、こたへける。

 女の、いはく、

「私事《わたくしこと》は、先年、櫛をおとし、御世話にあつかり[やぶちゃん注:ママ。]しもの、そのゝち、私事、あかりも立ちて、其元樣《そこともさま》を、命《いのち》の親と存し[やぶちゃん注:ママ。]、二親《ふたおや》もろとも、御礼を申さんと、そんし[やぶちゃん注:総てママ。]候へとも[やぶちゃん注:ママ。]、あまり、心せきて、御所も覚へす[やぶちゃん注:ママ。]、家名もしらす[やぶちゃん注:ママ。]、只、『治郞兵衞樣』とはかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]を尋ねんやうも、なく、御恩も、おくらす[やぶちゃん注:ママ。]、日毎に、申出居《まふしいだし》申候ふ。是より、一町はかり[やぶちゃん注:ママ。]奧にて候ふまゝ、御立寄《おたちより》下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ。

「いやいや、夫《それ》は、先々《まづまづ》、珍重《ちんちよう》の事[やぶちゃん注:お目出たいことじゃ。]。しかし、連(つれ)も、是れ、あれば、又々、參宮いたす節《せつ》、立ち寄り申すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いへとも[やぶちゃん注:ママ。]、なかなか、女、がてんせす[やぶちゃん注:ママ。]

 むりに、いさなひて、歸へりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、二親はじめ、兄・妹、其外、近所、打《うち》より、淚をこほし[やぶちゃん注:ママ。]て、礼をいゝ[やぶちゃん注:ママ。]、無理にとゝめ[やぶちゃん注:ママ。]て、夕飯なと[やぶちゃん注:ママ。]
、出《いだ》し、盃《さかづき》を取《とり》かはし、日暮になりて、駕籠を、いゝつけ[やぶちゃん注:ママ。]、雲津の宿《しゆく》迄、送らせけるか[やぶちゃん注:ママ。]、道十町[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]はかり行けは[やぶちゃん注:総てママ。]、雲津川なり。

 河上、ゆふ立《だち》なと[やぶちゃん注:ママ。] しけるか、大水にて、川はたには、松明(たいまつ)・挑灯、おひたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]

「參宮人の船、かへりて[やぶちゃん注:転覆して。]、八人まて[やぶちゃん注:ママ。]死したる。」

と、さはきけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其内に、水中より、旅人壱人の死かい[やぶちゃん注:ママ。] を、あけ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 見れば、治郞兵衞が連の同行《どうぎやう》なり。

 おゝきにおとろき[やぶちゃん注:総てママ。]、夜明けてみれば、八人のしがい、殘らす[やぶちゃん注:ママ。] 、上《あが》りける。

 水も、少々、おたやかに[やぶちゃん注:ママ。]なりて、先へ渡りし者も、立ちかへり、くわしく聞けは[やぶちゃん注:ママ。] 、三拾人の内、廿壱人は、先の船にて、渡り、九人、殘りしもの、八人、一船に乘りて、かくは、水におほれ[やぶちゃん注:ママ。]死したり。

「雲津の在《ざい》[やぶちゃん注:村。]に、治郞兵衞も、とめられすは[やぶちゃん注:総てママ。]、一所に水におほれ[やぶちゃん注:ママ。]んに、陰德をなしたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にや、壱人、たすかりたり。」

と、みな人、申《まふし》けり。

[やぶちゃん注:「伊勢太々講」伊勢講に同じ。伊勢参宮のために結成した信仰集団。旅費を積み立てておいて、籤(くじ)に当たった者が、講仲間の代表として参詣し、霊験を受けてくる。神宮に「太太神楽(だいだいかぐら)」を奉納するので「太太講」とも呼んだ。本来、「講」は、仏教関係の集まりを指すが、神仏習合の潮流の中にあって現われた「神祇講」の一つ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

 なお、この終りのシークエンスは「伊勢太々講」で伊勢神宮に向かっている途中の出来事である。とすると、この女の実家の「雲津」は先の雲出地区の北部かでないと、おかしくなる。思うに、当時の「雲出川の渡し」は、恐らく、現在の「雲出橋」附近であり、「雲津の宿」は恐らく、現在の「雲出本郷町(くもずほんごうちょう)」附近と考えると(「ひなたGPS」のここを参照されたい)、距離も一致するからである。にしても、雲出地区、旧雲出村はそんなに広くない(リンク先の戦前の地図を見られたい)。娘の恩人であり、酒も飲んでいるから、親は近場でも宿まで駕籠を雇ったものであろう。

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「採蓮」端淑卿

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  採   蓮

            風 日 正 晴 明

            荷 花 蔽 州 渚

            不 見 採 蓮 人

            只 聞 花 下 語

                  端 淑 卿

 

さわやかに風や日かげや

花はちす汀(みぎわ)をつつみ

見えもせで蓮採る子や

花がくれかたらふ聲す

 

   ※

端 淑 卿  十六世紀(?)。 明朝。 當塗(たうと)の人。 敎論端廷弼(きやうろんたんえんひつ)の女(むすめ)である。 幼時から學を好み才媛の名が高かつた。

   ※

[やぶちゃん注:「みぎわ」はママ。歴史的仮名遣は「みぎは」が正しい。

 作者は明世宗嘉靖(一五二二年~一五六六年)年間の女流詩人で、「當塗」は現在の安徽省東部の県。長江右岸の要衝で、清代に太平府が置かれた。古来、軍事上の要地で、南西の東梁山・西梁山は、長江をはさむ天険である。北東の大凹山・馬鞍山は鉄を産する。現在は馬鞍山(まあんさん)市当塗県(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。同市は中国十大鉄鋼基地の一つであり、また、この当塗は、かの李白が亡くなった地とされ、墓と記念碑があることで知られる。「敎論端廷弼」「端廷弼」が姓名で、「敎論」とは儒学の教師を指すようで、当塗県のその地位にあった。同じ儒官の妻となった。以上は中文サイト「Baidu百科」の彼女の記載によったが、そちらには他の詩篇も載っている。調べたところ、標題は同じく「採蓮」(一部の中文サイトでは「採」を「采」とする)であった。以下に推定訓読を示す。

   *

 蓮(はちすのはな)を採る

風(かぜ) 日(ひかげ) 正(まさ)に晴明(せいめい)たり

荷(はちす)の花(はな)は 州(なかす)の渚(みぎは)を蔽(おほ)ふ

見えず 蓮を採る人は

只(ただ)聞く 花の下(もと)に語れるを

   *

「日(ひかげ)」は「日影」で「日の光り」の意。佐藤の訳は第三句で、蓮の花を採る子(この場合は「子ども」ではなく、「子」(し)で男、されば、そこには今一人、女がおり、しきりに男がモーションをかけて口説いているらしい)がいるようなのだが、視界には全く見えない。しかし、第四句は、花隠れに語らっている、その二人の睦言が聴こえる、という意味で採っている。蓮の花蔭にカップルの語らいを透視的に映像化しているようである。私は、一読、第三句の「不見」が「見えず」ではなく、「見ず」と読んでしまう癖が今までの漢詩体験で、こびりつてしまっているからであった。されば、語らっているのは、「蓮の花」であって、「美しい清純な蓮の花のところから、まさに、その蓮の花が、あたかも何かを語りかけているような声を、幻想の内に聴いている」という迂遠なシーンかと当初は「採」ってしまった。しかし、佐藤のそれが、題名からは、自然なのだろうし、それでこそ女詩人の艶歌とはなるのであろう。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三五番 老人棄場

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。「老人棄場」は「らうじんすてば」と読んでおく。]

 

   一三五番 老人棄場

 

 昔、六十になれば、デエデアラ野へやられたものだ。

 ところが或所に大層親孝行な息子があつた。どうしてもデエデアラ野へ遣らなければならぬ老父を野へ棄てるのは忍びないと、密(ヒソ)かに根太場(ネタバ)へ入れて隱して養つて居た。

 丁度其頃何の譯か知らぬが唐(カラ)の殿樣から技倆較(キリヨウクラ)べが來た。それは灰繩千束と、七曲り曲つた一本の木に穴を通して寄こせといふ難題であつた。日本の殿樣の御殿にはこの難題の解ける智惠者が無かつたので、これを解いた者には御褒美は望み次第と云ふ御布令《おふれ》を國々へ𢌞した。

 そこで孝行息子は其事を隱して置いた老父に訊くと、あんたら其んなことは譯の無いことだ。灰繩千束は鐵の箱を作つて繩千束をその中さ入れ鹽を振りかけてから火をつけて燒けば出來るし、七曲り曲つた木には先端(サキハシ)に蜜蜂の蜜を塗つて置き、大赤蟻の腰にカンナ糸を結び着けてデド端(ウラ)(前方)から放して遣ると、自然に木へ穴を通して遂に向ふ端へ拔けて行くものだと敎へた。

 其通りにして、日本の殿樣は技倆較べに勝つた。そして其男の望みは六十になつても老人をデンデアラ野に棄てぬといふ事であつたので、それからそんな事は沙汰止みにな た。

  (村の話。デエデアラ野は村々にあり、棄老譚を傳へてゐる。)

[やぶちゃん注:工藤茂氏の論文「村田喜代子『蕨野行』考」(『別府大学国語国文学』第四十四・二〇〇二年十二月発行・PDF)によれば、「遠野物語」の「一一一、一一二 驚異のダンノハナ」の『文中にある《蓮台野》は「れんだいの」ではなく「でんでらの」と呼ばれている所で『注釈 遠野物語』』(後藤総一郎監修・遠野常民大学編著、九七年八月二〇日筑摩書房刊)『に《蓮台野の字は柳田があてたものと思われる》と注されている。柳田はハスのウテナ(仏の台座)の意を込めて蓮台の字を当てたのであろうか』。『鈴本案三編の「遠野物語拾遺」』の『二六六には〈青笹村の字糠前と字善応寺との境あたりをデンデラ野又はデンデエラ野と呼んで居る》とあり、次の伝承を記載している』として、当該部「二六六」、及び、「二六八」を引用された上(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年郷土研修者刊の「遠野物語 増補版」のそれぞれの当該部)、本篇を紹介された上で、『遠野物語』の〈蓮台野〉は「レンダイ野」ではなく「デンデラ野」「デンデエラ野」あるいは「デエデアラ野」と呼ばれていたことが分かる』と述べておられる。則ち、柳田は勝手にありもしない「蓮台野」という京の風葬地名を宛がい、老人を遺棄した(正確には家から出して、その野原に住まわせ、日中は家に戻って仕事をして口を糊するという形態をとり、決して完全な「姥捨て」的なシステムではなかったから、「蓮台野」は如何にも相応しくないのである!)「デンデラ野」=「デンデエラ野」=「デエデアラ野」を出さず、私を含めた多くの後代の読者をあたかも、そうした場所が全く空間的に別個にあったかのように思わせ、民俗学者として、あってはならない名称捏造までしていたのであった。遺棄された老人が亡くなって、その遺体を埋葬したのが、「ダンノハナ」であったようで、「デンデラ野」に附属するようにあったものらしい。但し、「デンデラ野」と「ダンノハナ」はセットになったものであるが、附記で佐々木が言っているように、それらは複数の集落に同じセットになった二つが、複数、存在したのであった。「一一一、一一二 驚異のダンノハナ」の冒頭に従えば、六ヶ所を挙げてある。佐々木喜善の墓がある土淵町山口の「デンデラ野」と「ダンノハナ」(その入り口に佐々木の墓がある)の場合(グーグル・マップ・データ航空写真。附記の冒頭の「村の話」の村はここのことである)は、直線距離にして六百メートル弱である。死なせる場所と埋葬地との、この程度の距離は、別個な人の人生のターミナルの空間としては、連動したものであり、私には凡そ「別個」なのものとしては認識し得ないのである。

「根太場(ネタバ)」「根太」は通常は「ねだ」と読む。床構造の一部で、床を支える補強部材のことを指す。木造建築で、床板を張る下地の役割が主。「根太場」は、ここでは、床下の空間を指す。]

2023/06/25

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「朝の別れ」子夜

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  朝 の 別 れ

            我 念 歡 的 的

            子 行 猶 豫 情

            霧 露 隱 芙 蓉

            見 蓮 不 分 明

                  子   夜

 

思ひつめては見えもする

君ゆきがてのうしろかげ

おぼろめきつつ蓮(はちす)さヘ

花も見わかぬ朝ぎりに

 

[やぶちゃん注:「子夜」は、複数、前出。佐藤の作者解説は最初のこちらを参照されたい。ネットで検索するに、第二句の「猶豫」は「由豫」である。以上の原詩(「楽府詩集」収録のもの)を載せる所持する岩波文庫の松枝茂夫編の「中国名詩選」の「中」(一九八四年刊)でも、「由豫」であるので(但し、意味は同じ)、それを参考に、原詩を、再度、掲げ、訓読文と注を示す。

   *

 子夜歌

我念歡的的

子行由豫情

霧露隱芙蓉

見蓮不分明

  子夜

 我れ 歡(かれ)を念(おも)ふこと 的的(てきてき)たるに

 子(きみ)が行(おこな)ひには 由豫(いうよ)の情(じやう)あり

 霧と露と 芙蓉(ふよう)を隱し

 蓮(はす)を見るも 分明(ぶんみやう)ならず

   *

・「的的」通常は「明らかなさま」を言うが、ここは松枝氏の注の『一途(いちず)に』の意が相応しい。

・「歡」逢って嬉しい人。恋人。彼女が一途に思っている恋人を指す。

・「由豫」「猶豫(予)」に同じ。ここは、「ためらう感じ」を言う。

・「霧露」松枝氏の注に、『霧も露も同じく水で、凝っては露となり、地っては霧となって、朝夕変形をくりかえす。ここでは霧。』の意とされる。所謂、「巫山之夢」(ふざんのゆめ)、楚の懐王が、夢の中で巫山の神女と契ったが、その神女は別れに際して、「私は巫山の南に住み、朝には雲となり、夕べには雨となってあなたのお側におります。」と言って立ち去ったという宋玉の「高唐賦」にある故事、転じて「男女の情愛が細やかであること・深い情交を結ぶこと」の喩えて言うその語句を踏まえて、少し恨みを込めて述べたものと思われる。

・「芙蓉」漢語では「芙蓉」は元来はフヨウではなく、「蓮の花」を指した。松枝氏の注でも、『ハスの花。「夫容」(夫のすがた)と同音。』とある。

・「蓮」同前で、『ハスの花。「憐」(恋人)と同音。』とある。前の注とともに、漢語に冥い、私を含む一般人は、見逃してしまう大事な箇所である。

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三四番 神と小便

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一三四番 神と小便

 

 昔、あつとこで、馬子《まご》が馬に客を乘せて川を渡る時、小便が詰まつて來たから垂れ流すべとしたら、客が馬子どん馬子どん川にも神があるから、小便すると罰があたるぞと言つた。馬子は仕方なく思ひ止《とど》まつて、ある街道ぶちまで來て、ここだら大丈夫だべと小便をしやうとしたら、又客が、馬子どん、道にも神があるから垂れてなんねえと言つた。何處へ行つても神があると云はれるので、垂れる事が出來ないで、居ても立つても居られない位、小便が詰まつて來て、馬子も困り果てた。間もなく客が馬から下りて松の木の下で休んだので、馬子は松の木さ登つて客の禿げ頭の上さヂヤアヂヤアと小便を垂れ流した。客はそれとも知らないで、何だ、何だ、雨も降らねえどきに頭のてつぺんがやばつくなつて來たぞと云ひながら、上を向いたら、馬子が小便をしているので、ウンと怒つて、これ馬子、人の頭に小便垂れる法があるかと言つたら、馬子は木の上から、さつきから小便垂れべと思つてたけんどお客さんがどこさ行つても神がある神があると言つて、垂れることが出來ねえ、ほんでお客さんの頭におかみがねえから垂れ申したと言つた。(三原良吉氏御報告分の五。)

[やぶちゃん注:附記が本文末にあるのは、ママ。]

2023/06/24

「新說百物語」巻之五 「高㙒山にてよみがへりし子共の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。本篇の核心部は、語る僧の直接話法であるので、その部分を「……」と行空けで分離して、話柄内をも段落・改行を加えた。]

 

   高㙒山にてよみがへりし子共の事

 京、錦小路《にしきかうぢ》に、何院とかやいへる貴《たふと》き僧、おはしける。

[やぶちゃん注:「錦小路」この東西(グーグル・マップ・データ)。]

 あるとし、高㙒山に、のほられけれるか[やぶちゃん注:総てママ。]、高㙒山にて、物かたりしけるは、

 

「……此四年まへに、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なること、侍りき。

 此山の麓の村に、十二、三歲になるもの、熱病を、わづらひて、兎(と)やかく介抱すれとも[やぶちゃん注:ママ。]、そのかいもなく、相果《あひはて》ける。

 父母、是非もなく、此山に、ほふむりける。

 七日めの夜《よ》の明けかた[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、親のもとへ、歸りける。[やぶちゃん注:主語は亡くなったはずの子どもである。]

 家内、おゝきに[やぶちゃん注:ママ。]おそれ、誰《たれ》、戶をあくる者も、なし。

 其内に、やうやう、夜もあけかたになり、てゝおや、おもてに出《いで》て、樣子を尋ぬれは[やぶちゃん注:ママ。]、其もの、かたりて、いふやう、

「死したる時も、少《すこし》も覚へ[やぶちゃん注:ママ。][やぶちゃん注:ママ。]。ふと、目のさめたることく[やぶちゃん注:ママ。]なりけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、撫(なて[やぶちゃん注:ママ。])て見れは[やぶちゃん注:ママ。]、箱のうちなり。『扨は。我は死したりと見へたり。』とはかり[やぶちゃん注:ママ。]思ひて、さして、かなしくもなかりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あたまの上にて、大勢の声にて、鉦、打《うち》たゝき、念佛申すやうに、きこえたるはかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、そのゝちは、音も、せさりしか[やぶちゃん注:総てママ。]、又、あるとき、あたまの上の土を、かきのくる音して、箱を、そつと、引上《ひきあ》け[やぶちゃん注:ママ。]たり。あくると、其まゝ、橫に、こけて、箱のふた、われける。むかふをみれは、おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]狼(おほかみ)、口を明《あけ》て、居《をり》ける故、其あたりの石を、ひろいて、投(なけ[やぶちゃん注:ママ。])たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、狼、にけ[やぶちゃん注:ママ。]失《うせ》たり。それより、すく[やぶちゃん注:ママ。]に、迯(にけ[やぶちゃん注:ママ。])かへりたり。」

と、かたりける。

 念仏の音は、三日以前に、順礼、通りて、あたらしき墓を見て、大勢、廻向《ゑかう》して通りたる、其音にてぞ、ありける。……

 

「狼に掘り出されて、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]、此家へ歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、珍しき事なり。」

と申しけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、此僧、其所に尋ねゆき、其ものにあひて、直《ぢき》に、樣子、聞きて、かへりし、となり。

[やぶちゃん注:冒頭、「何院」と伏せ、「貴き僧」の名も出さないのはちょっと、噓っぽい感じはするが、最後が「かへりし」と直接体験の過去の助動詞「き」の連体形「し」(余韻の連体中止法)を用いているからには、その僧本人から、作者が以上の話を聴いたという構造になっているので、強ち創作物とも断じ得ない。熱性マラリアの回帰性の発熱による多臓器不全による仮死状態を、死んだものと誤認し(高野山には医師もいたであろうが、小児の病態の把握はなかなか難しい。現在でも医学部で、小児科医は、なり手が少ないことはよく知られている)、埋葬したが、そこを、偶々、狼が食おうと、掘り起こしたところが、丁度、熱も下がっていた少年が、石を擲って、追い払ったというシークエンスや、戻った彼を、亡霊や化け物と恐れて戸を開けようとする者がいなかったという辺りは、絶対にあり得ないとは断言出来ない感じもするし、何より、巡礼らの回向の念仏の声を墓中で聴き取った部分の合致には、実話を標榜する怪談のキモとしての、否定しようのない鋭いリアリズムがある。

「新說百物語」巻之四 「釜を質に置し老人の事」 / 巻之四~了

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。本篇を以って「巻之四」は終わっている。]

 

     釜を質に置《おき》し老人の事

 大宮の西に作兵衞といふもの、あり。

 六十余にて、妻子もなく、裏やを、かりて、ひとりすみけるか[やぶちゃん注:ママ。]、醒井通《さめがゐどほり》の「吉もんしや[やぶちゃん注:ママ。]」と云ふ質やへ、毎日、釜、ひとつ、持行《もちゆ》きて、鳥目《てうもく》百文、かりて、其錢にて、菜大根(な《だいこん》)をもとめ、是れを、町中、うりあるきて、その德分にて、何かを、とゝのへ、夜に入りて、「吉文字や」へ、釜を受《うけ》に行き、飯なと[やぶちゃん注:ママ。]、燒きて、また、あすの朝は、釜を持ち行き、鳥目百文かりて、もとて[やぶちゃん注:ママ。]とし、三年はかり[やぶちゃん注:ママ。]、暮しける。

 「吉文字や」の亭主、あるとき作兵衞にむかい[やぶちゃん注:ママ。]て、いふやう、

「最早、此釜も、三年の間、質物《しちもの》にとりて、利分も、過分に取りたり。毎日、毎日、苦勞の事なれは、此釜を、其元《そこもと》へ、遣はするなり。心やすく、あきなひ、いたさるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しける。

 作兵衞、こたへて、いふやう、

「御心ざしは忝《かたじけな》けれとも[やぶちゃん注:ママ。]、私《わたくし》所持の物とては、此釜ひとつにて外に何のたくはへもなし。夫《それ》ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、朝、出《いづ》るにも、戶もたてす[やぶちゃん注:ママ。]、夜る、寐《ね》るにも、心やすし。中々《なかなか》、釜一つにても、家内にあれは[やぶちゃん注:ママ。]、心つかひ[やぶちゃん注:ママ。]なり。やはり、毎日毎日、御面倒なから[やぶちゃん注:ママ。]、質物に、御取《おとり》下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と賴み、夫より、又、壱年斗《ばかり》通ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]、迫付《おつつけ》、相果《あひはて》けるよし。

 「吉もんしや[やぶちゃん注:ママ。]」の亭主、聞きて、鳥目五百文、もたせて、樣子を見せに遣はしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、成程、釜ひとつの外、何の、たくはへも、なく、近所の相借屋《あひじやくや》、打《うち》より、世話いたし、ほふむりけるよし。

 枕もとに、辭世とおぼしくて、反古(ほうく[やぶちゃん注:ママ。「ほうぐ」。])のはしに、發句あり。

「いかなる人の、かくて、ありしそ[やぶちゃん注:ママ。「ぞ」。]、心ゆかし。」

と、さた、しける。

   身は終(つい)[やぶちゃん注:ママ。]の薪《たきぎ》となりて米はなし

となん。

 名をば、「無窮(むきう[やぶちゃん注:ママ。「むきゆう」でよい。])」としたゝめたり。

「常には、物かく事もなかりしか[やぶちゃん注:ママ。]、手跡もよろしかりけり。」

となん。 新說百物語卷之五

[やぶちゃん注:実話奇譚。なにか、逢って話をして見たくなるような不思議な老人ではある。

「大宮」京都府京都市下京区大宮町(おおみやちょう:グーグル・マップ・データ)。

「醒井通」京都の醒ヶ井通。この南北の通り(グーグル・マップ・データ)。

「相借屋」「相店(あひだな)」に同じ。同じ大きな一棟の長屋を分割した借家人の者たち。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「戀愛天文學」子夜

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  戀愛天文學

            儂 作 北 斗 星

            千 年 無 轉 移

            歡 行 白 日 心

            朝 東 暮 還 西

                  子   夜

 

われは北斗の星にして

千年(とせ)ゆるがぬものなるを

君がこころの天つ日や

あしたはひがし暮は西

 

[やぶちゃん注:作者子夜は二篇が前出。作者解説はこちらを見られたい。所謂、「子夜歌」の一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここによれば、原詩は、「名媛詩歸」及び「樂府詩集」では第一句の「北斗星」を「北星晨」と作るとあり、別に「名媛璣囊」巻一及「古今女史」詩集巻一では「北晨星」に作るとある。但し、所持する岩波文庫の松枝茂夫編の「中国名詩選」の「中」(一九八四年刊)では、「樂府詩集」から採っていると推定されるが、そこでは、ここは「北辰星」となっている。「晨」(明け方になっても一部の星が明るく残っていること)と「辰」は同義ではない。一句の意味から見て、これは松枝氏の「北辰星」(北極星)が正しいように私には思われる。ともかくも、「斗」は佐藤が恣意的に弄っていることが判明する(しかし、「北斗星」の方が躓かないことは確かだ)。松枝氏の形で、以下に原詩と松枝氏の訓読を、一部、参考にして私の訓読を示す。

   *

 子夜歌

儂作北辰星

千年無轉移

歡行白日心

朝東暮還西

  子夜歌

 儂(われ)は作(な)る 北辰星(ほくしんせい)

 千年 轉移(てんい)する無し

 歡(くわん)の行(おこな)ふは 白日(はくじつ)の心たり

 朝(あした)は東(ひがし) 暮れには 還(ま)た 西(にし)へ

   *

 浮気性(うわきしょう)の男に対する怨み節を、北極星の不動と、太陽のくるくる巡る運行に擬えたもの。佐藤の標題「戀愛天文學」は、なかなかに、いいと私は思う。

・「歡」は「愛人」の意。

・「白日」太陽。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三三番 神樣と二人の爺々

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      一三三番 神樣と二人の爺々

 

 遠野の六日町の或家の爺樣はひどく神信心をする人であつた。ところがその隣家に一向神信心などはしないで、每日每日默りこくツて草履《ざうり》ばかり作つている爺樣があつた。

 或年の御神明《ごしんめい》のお祭り[やぶちゃん注:「鬼火焚き」「左義長」などとも呼ばれ、小正月の火祭りの一種。]の日に、信心深い爺樣が隣りの草履作りに、お前は何日《いつも》草履ばかり作つて、神樣を拜む氣もないやうだが、今日ばかりは町内の鎭守樣のお祭りだから參詣しろよ。俺も一緖に行くからと、無理やりに家から連れ出して、一緖に參詣したと思つたら、どこへ行つたか其草履作りが見えなくなつた。せつかく誘つて一緖に來たのだから一緖に歸るべと思つて、此方彼方《あちらこちら》尋ねたが、どうしても見當らない。仕方なく一人で歸ると、隣の爺はいつの間にか家へ歸つて相變らず草履を作つて居た。ゼゼ俺はなんソツチを尋ね𢌞つたか知れない。いつの間に歸つたと訊くと、草履作りは、アアお前と一緖に神樣を拜んで居たら、神樣が、これをお前に遣るから大事にして持つて行けと言つたといつて、側に一ツの小袋が置いてあつた。何だべと思つて開けて見たら大判小判が一杯入つて居た。

 信心爺樣は御神明樣へ行つて、神樣申し、俺がこれ程信心して居るのに何もくれないで、あんな無信心な人に、金をくれるなんて、隨分神樣ツて情ない者だと恨むと、神樣は、これこれさう言ふもんぢやない、これには譯がある。實はお前の前世は雀で、いつもオハネ米を取つて食つたし、あの爺の前世は牛で、この社を建てる時に汗を流して材木を曳いてくれたものだ。それでお金を授けたと言つた。

  (菊池一雄氏御報告分の一四。)

[やぶちゃん注:「遠野の六日町」遠野市六日町(むいかまち:グーグル・マップ・データ)。

「御神明のお祭り」「鬼火焚き」「左義長」などとも呼ばれ、小正月の火祭りの一種。伊勢神宮のそれが有名であり、ここに出る神社は、同じ町内にある、遠野で「お神明さん」の名で親しまれている伊勢両宮神社でのそれと思われる。御夫婦で運営されているサイト「神社探訪」の同神社のページによれば、『一説に、中世の遠野領主・阿曽沼氏の時代に土淵町似田貝に勧請され、天正年間』(一五七三年~一五九二年)『に遠野町の南方にある大平山に移り、正徳元』(一七一一)年、『遠野南部氏によって現在地に遷宮されたと伝えられている。遠野三社の一つとして、古来より領主や町人達の信仰があつかった。境内地には、松尾神社と経ケ沢稲荷神社が祀られている』とあり。『境内由緒書き』を引かれて、『当神社は阿曽沼広綱の時代、遠野郷民達が伊勢参宮の際拝受せる大麻を尊拝すべく小祠を建立して祀り、御伊勢堂と称し』、『処々にあり。南部利戡の代に至り』、『郷民達が伊勢両宮の神威の昂揚をはからんとして』、『新たに猿ヶ石川岸に宮地を卜定し』、『宮社を建立し、土淵似田貝の御伊勢堂より神霊を遷座す。後に遠野南郊に祀ってある御伊勢堂の神霊をも合祀し、正徳元』(一七一一)年『九月五日、盛大なる遷座祭を挙げ神明宮と称す』。『宝暦四』(一七五四)年、『秀麗なる神輿奉献され、遠野五町内わたり』、『渡御神事』、『盛大に斎行さる。以後三年毎に斎行される慣例となるも、凶作・重税等により中断の時期あり、明治維新後』、『伊勢両宮神社と改められ、明治五』(一八七二)年に『村社に据えられ』たとある。

「オハネ米」所謂、「散米」(さんまい)のことであろう。神や仏に参った際に供える米、或いは、祓(はらい)や清めの目的で、撒き散らす米で、「サンゴ(散供)」「オサゴ(御散供)「ウチマキ(打撒)」などとも称し、白紙に米を包んで、一方を捻ったものを「オヒネリ」とも呼ぶことから、本来は、神への供え物である米を意味したが、米の霊力によって悪魔や悪霊を祓うためにまき散らすこととなった。たとえば,「延喜式」記載の「大殿祭」(おおとのほがい)の祝詞(のりと)の注に、出産にあたって、産屋に米をまき散らし、米の霊力によって産屋を清めたことが見えている(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「オハネ」というのは「跳ね飛ばす」(撒き散らす)の意か、或いは神への供え物として、収穫された米の中から良質のものを、特に分けて=「はねて」おいた「米」の意かも知れない。]

ブログ1,970,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和三十二年十二月 / 文芸時評~了

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『東京新聞』昭和三十二年十一月二十六日附・二十七日附・二十八日附に掲載されたとある。しかし、う~ん、だとすると、内容は、時制的には――昭和三二(一九五七)年十一月――なんだな。まあ、同年十二月末に発行となった文芸雑誌・総合雑誌の十二月号を読んで書いたというのだから、しょうがないか。実際、読まれて、評価が定まるであろう事態は十二月に入ってからだという謂いか。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日未明、1,970,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年六月二十四日 藪野直史】]

 

   昭和三十二年十二月

 

 この時評を書くために二日がかりで、約二十編の小説と十編近くの戯曲を読み、たいへんしんが疲れた。百八十枚(戯曲二編)、百三十枚(小説)なんてのが混っているのだから、疲れるのも当然である。

 時評を書くのだからと、初めは机の前に坐って読んだが、何も時評用の特別の読み方もないことが判ったので、あとはごろりと横になって読んだ。習慣になっているせいか、この方がすらすらと頭に入るようだ。

 今月の小説の大将百三十枚というのは開高健「裸の王様」(文学界)で、読んでいる間は面白かった。よく考えよく計算された小説で、読者に与える効果もはっきりと計算済みのようである。画塾から始まって、絵具会社だの児童心理学だのコンクールだの、さまざまの枠の中で、人間がめだかのように右往左往している。力作と言うべきだろう。

 しかしこの作品に対して、読む方の視点をちょっとずらすと、ここに出て来る人物のほとんどが、枠にはめこまれた死物と化し、つまりこの作品は単なるはめこみ細工ではないかという疑問が生じて来る。

 たとえば少年の父親、あるいは母親など、うまく描けているようで、しんのところは漠としてぼやけている。単なる計算では人間はとらえられないということにもなるか。

 

 私はこの作者を含めて、今年輩出した新人たちに対し(一部をのぞき)ひとつの共通点を感じる。小説家という言葉があるが、この人たちは小説家というより、小説メーカーという感じがするのだ。(ライターよりメーカーが下だと言っているわけではない。)だから出来上ったものも、作品というよりは、製品に近く、製品であるとすれば、年年新型改良型をもって競争するということになるだろう。すなわちこの「裸の王様」は前作「巨人と玩具」の改良型で、しかもなかなかよく改良されていて、他のメーカーたちの好個の競争目標となるだろう。

 小説がメーカー品になって行くことに対し、私は別に悲しいとも嘆かわしいとも考えない。

 これがこの二三年先にどうなって行くかと、その興味だけがある。

 

 こんな作品に対し、一方昔ながらの上林暁「春の坂」(文芸春秋)、尾埼一雄「父の顔」(群像)などがあり、ヘんてつもない題材を、へんてつもない文章で叙述したものであるが、ここには眉に唾(つば)をつけないで読める安心感がある。いろんな物語で読者をよろこばせるのと、まぎれもない手製を差出すのと、どちらが読者にサービスになるか、問題は残るだろう。この数年間ずいぶん私小説はたたかれたが(私は一度もたたかなかった。擁護した。実は私にも多分に私小説家的傾向があるので、私小説をたたけば、自分で自分をたたくことになるからだ。自分で自分をたたくのは損だ)たたかれても生き残っているのは、その読者がいるためであり、私小説と反対の小説が腰がすわっていないせいだろう。

 

 野口富士男「死んだ川」(群像)は「父の顔」と同じく父親を描いたもので、「死んだ川」は重い。父親の一生を叙述して、筆は的確であり、感傷を削り落した佳作である。最後に父親が死んで、母が「長いあいだ、ご苦労さまでございました」と死体にあいさつするところなど、一編のしめくくりとして効果的である。

 西野辰吉「黒い谷間」(群像)は終戦直後の朝鮮人送還を取りあつかったものだが、何か足りないような感じがする。

 もともとこの作家には、何か吹っ切れないものがあって、それが魅力にもなっているのだが、この作品ではそれがマイナスに働いていると思う。

 

「文学界」では一幕物戯曲特集をしている。私は今まで一度も戯曲を書いたことがない。作法を勉強するのがめんどうくさいからであるが、所載の数編を読み、少しばかり技痒(ぎよう=腕がむずむずすること)を感じた。このくらいならおれだって書けそうだという気分である。皆、楽に書いているらしい。

 中では大江健三郎「動物倉庫」が一番面白かった。アルバイト学生をのんだ大蛇という羞想も面白かったし、実はのまれてなかったというひっくり返しも利いている。しかしこの作家は、おのれを守って頑固なのか、芸の幅が狭いのか、いつも同じような道具立てと人物しか出さない。その点読む方で飽きが来る。

 松本清張「いびき地獄」も割に面白かったが、同じ話をもとにした小説が同じ作者にあり、それにくらべるとこの戯曲の方が落ちる。

 

 遠藤周作「女王」は展開が単純過ぎて、一編の戯曲に仕立てる必然性がうすいと思う。最後のひっくり返しも、あまり利いていない。周作の習作とでもいったところか。

 曽野綾子「招魂」も、同じ作者の小説にくらべると段が落ちる。人間が類型的にしかとらえられていないし、年寄と若い世代の対立も月並である。

 石原慎太郎「霧の夜」は読んでいてなじめなかった。会話が生硬すぎるのである。私は会話を日常のリアリズムまで引下げろとはいわないし、むつかしいことを語ってもよろしいが、それがこなれてないと困る。たとえば「これはこの世界で俺にとっての、初めての義務であり責任であり生活の目的だったからな。俺にはそれを拒んだり批判して見る何ものもなかった。俺は、そう、俺は嘻々[やぶちゃん注:この「きき」は「喜んで笑っている様子・満足しているさま」の意。]としてそれに従ったよ」こういうことをしゃべる男の像が、私には想像が出来ないのである。もし現実に私の前にあらわれたら、私はぞっと鳥肌が立つだろう。

 これはこの戯曲に限らず、石原慎太郎の他の小説にも通じる私の感想でもある。

[やぶちゃん注:以上の石原慎太郎への感想は大いに同感する。]

 田島俊雄「湖底」は、編集後記によれば「古風ではあるが確実なタッチの佳作」とあるが、三百四十八編の中から選ばれたものとしては、いささか低調である。

 中村光夫「人と狼」(中央公論)は百八十枚という大作で、いささかうんざりしながら読み始めたが、なかなか面白くて、ついに休憩なしで最後まで読んだ。新旧世代の対立あり、死病の問題あり、女のとりっこあり、アプレのドライ気質あり、何やかやがのた打ち鰯りながら進行する。

 前記一幕物をもりかけとするならば、これはこってりと脂を浮かせた五目そばみたいなもので、たっぷりたんのうはしたが同時に少々胸にもたれた。

 作者の言葉によると「三年ほど前、パリの下宿にいたころ、ふと思いたって」書いたのがこの戯曲だそうだが、私はパリに行ったことはないが、人の話や書いたものを読むと、パリとはたいへん楽しい都で、遊ぶところも多いらしいのに、それに背を向け下宿の一室に閉じこもり、こんな修羅の世界をこつこつとあてもなく描いた作者の心理が判らない。いや、判らないと言うより、その方に興味がある。

 野間宏「冷凍時代」(文学界)はミュージカルスで、異色作と言うべきだろう。いつか「中央公論」の座談会で、私はミュージカルスを否定するような言辞を弄し、その後花田清輝からかみつかれたことがあった。この「冷凍時代」は野間宏が意外の才能を示した作品であると私は思うが、これが野間宏の歩いて行く正しい道なのか、あるいは才能の浪費に過ぎないかは、私にはよく判らない。

 も少し将来にならないと、だれにも判らないだろう。

[やぶちゃん注:「ミュージカルス」この執筆の二年前に、ドイツ文学者にしてコント作家でもあった秦豊吉が発案・上演された『帝劇ミュージカルス』。その時どきの人気タレント・コメディアン・売れっ子の歌手をゲスト出演させるというフォーマットを持ったブラウン管時代の軽演劇の一つで、その劇場版(平凡社「世界大百科事典」の「軽演劇」を参考にした)。]

 

「新潮」は恒例の全国同人雑誌推薦小説特集で、九編の小説が出ている。皆三十枚程度の短編で、それぞれ面白かった。何百編の中から選んだのか知らないが、皆うまいものである。総じて小味であるが、これは枚数の関係で致し方なかろう。

 二三日前の新聞で、この中から副田義也「闘牛」に賞が与えられたと出ていたが、まあ私も異存がない。もっともどれが賞になっても、大して異存はないところだ。

 大塚滋「もう一つの死」。なかなか凝った作品で、長いものを書いても、うまくこなせるだろうと思われる。この人も、ライターかメーカーかというと、メーカーに属する型らしい。この人は新聞記者らしいが、私がメーカー型と目する作家には、新聞記者またはそれ出身が多いようである。

 やはり事件や材料をたくさん仕込んで置かねば、小説家になれないという風潮が、近い将来に来るかも知れない。そうなれば作家志望者は、先ず新聞社の試験を受けに行くということになるだろう。

 

「新日本文学」には労働組合文芸コソクール入選作として、三編の小説が並んでいる。その中の畑中八州男「泥だらけの記」は文体が椎名麟三にそっくりで、書き出しから「深夜の酒宴」によく似ている。「深夜の酒宴」は「朝、僕は雨でも降っているような音で眼が覚めるのだ」、「泥だらけの記」は「朝、僕はきまって耳につきささるような動物の鳴き声で眼がさめる」となっている。

 内容的には優れていても、あまり影響を受けすぎているのは、入選としない方がいいと思う。影響を受けることが悪いと言うのではない。習作時代にはだれだってだれかの影響を受けるにきまっているし、影響を受けることで成長もして行くのだ。

 そしてそれから脱却する時から一人前(?)になるのであって、やはりコンクールなどというものは、まずくとも一人前のを入選させるべきだと思う。

[やぶちゃん注:『畑中八州男「泥だらけの記」』国立国会図書館デジタルコレクションの原雑誌で視認出来る。頭には『炭鉱労働組合三十一年度文芸コンクール入選作』とある。名前は「やすお」と読むか。]

 

 総合雑誌に変貌した「キング」が、売行きが思わしくなかったのかどうか知らないが、十二月をもって終刊となった。

 川崎長太郎「ある大男の一生」は、いつものような不覚を取ったり取られたりするような情痴ものと違って、一人の大男の雇い人の一生を描いたもので、いい作品である。また「キング」のような大雑誌の終刊号にふさわしい題材で、弔辞みたいな役割を果たしているのは皮肉である。

 井上友一郎「六オンスの手袋」(中央公論)はボクサーの世界を描いたもので、ストーリーテラーとしての腕を縦横にふるった作品。私はボクシングの世界には全然無縁だが、それでも面白く読んだ。ただ勝ち意識とか、負け意識とかが、常識的にとらえられていて、もっと私たちに判らないような特異な心理、微妙な意識があるんじゃなかろうか、という気持が残る。

 飯沢匡「剌青師訪問」(文芸春秋)も、見知らぬ世界を見せてくれるという点で「六オンスの手袋」と共通しているが、これはタッチが軽い。軽いから成功しているようなもので、いい読物と言えるだろう。

 

 以上いろいろとほめたり悪口を言ったりしたが、他を批評する仕事なんて、どうも重苦しくてしようがない。これがまた一年も経つと、その重苦しさをすっかり忘れてしまい、月評をどこからか頼まれると「はい。では、やってみましょうか」と気軽に引受け、あとで後悔するということになるのである。

 今も私は後悔している。

 

[やぶちゃん注:既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、本底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」「風宴」「蜆」「黄色い日日」「Sの背中」「ボロ家の春秋」「庭の眺め」「魚の餌」「凡人凡語」「記憶」「狂い凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、

長編「つむじ風」

のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。

2023/06/23

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「乳房をうたひて」趙鸞鸞

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  乳房をうたひて

            浴 罷 檀 郞 捫 弄 處

            露 華 凉 沁 紫 葡 萄

                  趙 鸞 鸞

 

湯あがりを

うれしき人になぶられて

露にじむ時

むらさきの葡萄の玉ぞ

 

   ※

趙鸞鸞  唐の妓。 未詳。 その作の傳はるものは五首卽ち、雲鬟、柳眉、檀口、酥乳、纎指の五題いづれも肉體の美を咏じたものである。 もとより閨房の譃咏ではあるが、その纎細な美は同じ唐の妓女史鳳の七首などとは比ぶべきではない。 譯出したものは酥乳の轉結である。 その起承は「粉香汗濕瑤琴翰、春逗酥融白鳳膏」であるが、文字の美を去つてその意を傳へても無意味に近いからこの二句の譯は企てなかつた。

   ※

作者解説の中の「閨房」は「閏房」と誤っている(恐らくは誤植で校正で佐藤自身も気づかなかったのであろう)。講談社文芸文庫版で訂した。

 個人ブログ「杉篁庵日乗」の「趙鸞鸞の詩」に、現在に伝わる五首が、凡て、電子化されているので、是非、参照されたい。訓読・語注も完備している。それを参考に、以下に原詩全体を示し、訓読してみる。

   *

 酥乳

粉香汗濕瑤琴軫

春逗酥融白鳳膏

浴罷檀郞捫弄處

露華凉沁紫葡萄

  酥乳(そにゆう)

 粉(ふん) 香(かんば)しく 汗 濕(しつ)す 瑤琴(やうきん)の軫(しん)

 春 逗(とど)まりて 酥(やはら)かく 白鳳(はくほう)の膏(あぶら)を融かす

 浴(ゆあみ) 罷(を)はりて 檀郞(だんらう)の捫(と)りて弄(もえあそ)ぶ處(ところ)

 露(つゆ)の華(はな) 凉(すず)やかに 紫(むらさき)の葡萄に沁)(し)む

   *

杉篁庵主人氏の語注によれば、

   《引用開始》

・酥乳:白く柔らかく滑らかな乳房。

・瑤琴:玉琴。瑤は美しい玉(ぎょく)。

・軫:七弦琴の糸巻の部分。(悲しむ、悼む。)

・逗:からかう、かまう、あやす。誘う、招く。留まる。 逗弄:からかう、ふざける。誘う。

・酥:柔らかい。

・膏:脂肪。肥えてうるおいのあるもの。

・檀郎:夫や愛する男を称する。だんなさま。

・捫:手を当てる、押さえる。

・沁:しみ込む、滲(にじ)み出る。

   《引用終了》

言わずもがなであるが、「粉」は「白粉」(おしろい)。杉篁庵主人氏の「軫」の注の意味は、表では映像として彼女が演奏しているのであろうところの『七弦琴の糸巻の部分』の視覚的なアップ画像のそれであるが、その漢字が別に持つ動詞としての意味である『悲しむ、悼む』や「憂える」ような、妖艶にしてダルな雰囲気が、その七弦琴の調べに示唆されているという聴覚的効果を狙っているのを指しているのであろう。

 この二句については、いろいろ言ってみたい気はするが、語るに落ちることしか言えないような気もするので、敢えてやめておくこととする。]



佐々木喜善「聽耳草紙」 一三二番 隱れ里

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。

 なお、この話の附記は異常に長いので、底本のポイント落ちと字下げは孰れもやめて、本文同ポイントで引き上げた。

 

      一三二番 隱 れ 里

 

 シロミ山の「隱(カク)れ里(ザト)」のことは「遠野物語」の中にも出て居るが、あれとは亦別な話をして見やう。この山の東南の麓の金澤(カネザワ[やぶちゃん注:ママ。])と云ふ村に某と云ふ若者があつた。此男或時山へ行くと、どの邊の谷の奧果(カツチ)であつたか、とにかく未だ嘗つて見たことも聞いたこともない程大きな構への館に行き當つた。其家のモヨリは先づ大きな黑門があつた。其門を入つて行くと鷄が多く居た。それから少し行くと立派な厩舍があつて其中には駿馬が六匹も七匹も居た。裏の方に𢌞つて見ると爐《ゐろり》には火がどがどが燃えてをり、常居《ゐま》へ上ると其所には炭火がおこつて居る。茶の間には何かのコガ(大桶)があり、座敷には朱膳朱椀が並べられて、其次の座敷には金屛風が立て𢌞されて、唐銅火鉢(カラカネ《ひばち》)に炭火が取られてあつたが、何所にも人一人居なかつた。さうして見て步るくうちに、何となく恐ろしくなつて其男は逃げ歸つた。

 (その男は少々足りない性質《たち》であつた。村の和野の善右衞門と云ふ家へ聟に來たが、或年の五月に田五人役《たごにんやく》とかで灰張(アク《は》)りへ遣ると、一番上のオサの水口へ、五人役振りの灰を山積さして置いて來た。どうしてそんな事をしたと訊くと、なあに上のオサの水(ミナグチ)が、五人役振りの灰を山積さして置いた來た。どうしてそんな事をしたと訊くと、なあに上のオサの水が、五人役の田にかゝるべから、同じ事だと言つたので離緣になつた。)

[やぶちゃん注:以上が正規本文で、最後の丸括弧部分は本文と同ポイント。

『「遠野物語」の中にも出て居る』これは、『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六三・六四 マヨヒガ』の「迷い家」がそれである。但し、そこでは「隠れ里」の文字はない。しかし、「六四」の冒頭に『金澤村(カネサハムラ)【○上閉伊郡金澤村】は白望(シロミ)の麓(フモト)、上閉伊郡の内にても殊に山奧にて、人の往來する者少なし』とあるので、ここで佐々木が言う「隱れ里」=「マヨイガ」であることは間違いない(なお、柳田國男の「一目小僧その他」の中に、「隱れ里」(ブログ・カテゴリ「柳田國男」で全十五章分割)と、これを題として用いた論考があるが、これは、所謂、「椀貸伝説」の考証(主に柳田お得意の自説擁護と他者批判)がメインであって、論点は、本篇や「遠野物語」の「マヨイガ」とは微妙に異なったヘンな論考である。まあ、冒頭の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を読んでいただくと、それは明瞭である)。さて、この「上閉伊郡金澤村」の「白望(シロミ)」というのは現在の大槌町上閉伊郡金澤(かねざわ:旧字はママ。グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)で、「白望山」は現在は「白見山」で地図上に出る。標高は千百七十二メートル。「ひなたGPS」の戦前の地図でも、既に「白見山」となっているので、「白望山」の表記は江戸以前のものか、地元での異表記であろう。ここは大槌町の金澤地区と、宮古市、及び、遠野市の三箇所の交わったここにある。「遠野物語」に従うなら、この山の現在の金澤地区内に「隱れ里」はあったということになるが、御覧の通り、金澤地区の同山の麓部分は、今も、尾根が錯綜する、人口物が見当たらない、かなりの深山であることが判る。「隱れ里」と言うに、現在も相応しいのである。

「田五人役」不詳。田地の、一番、上方に、上級な肥えた田圃があり、そこから、オサから借りて田を作っている五人の下作人が段々に、質が悪い田地があり、恐らくは、この善右衛門の田は、その最悪の、ずぶずぶの「汁田(しるた)」のようなものであったか。そのオサの田圃を交代で五人の小作人が管理をしているのであろう。

「灰(アク)張り」藁などを燃やして作った無機物の灰(はい)を、田に均等に振り撒いて、田の底の地味を改良することを意味するか。

 以下が、附記。]

(此話は其男の友人の村の百姓爺の大洞萬丞殿から聽いたものであつた。)

(此所に參考の爲に附記して置くが、此「隱れ里」の話は山ばかりではなく河や沼等にもあつた。其一例として和賀《わが》の赤坂山の話を採錄して置く。昔鬼柳村に扇田甚内といふ人があつた。或朝早く起きて南羽端(ハシ)[やぶちゃん注:「羽端」二字へのルビ。]の上を見ると、其處に若い女が立つてゐて甚内を手招ぎした。甚内は不審(イブカ)しく思つて見ぬ振りをして過してゐたが、こんなことが二三日續いたので、何だか樣子を見たいと思つて、或朝其沼のほとりへ行つて見ると、齡頃(トシゴロ)二十《はたち》ばかりの容貌(ミメ)佳《よ》い若い女が、私はあなたと夫婦になる約束があるから、私の家へ來てくれと云つて笑ひかけるその容子は、實に此世に類のないやうなあでやかさであつた。甚内もさう云はれると思はぬ空に[やぶちゃん注:「思いもしなかった好機にすっかり心が空高く行くように高揚してしまい」の意であろう。]、心を惹かれて、吾ともなく[やぶちゃん注:「思はず」。]女のあとについて二三十步ほど步むかと思ふと、早《はや》見たこともない世界へ行つて、山のたなびき、川の流れ、草木のありさま常と異《ことなり》り、景色がめつぽうによろしい。そのうちに此所が吾家だといふ家に着いて見れば、男などは見えず、美しい女達が大勢いて、今お歸りかと皆が喜び、吾主《あるじ》のやうに敬愛する。甚内も初《はじめ》の程は變でならなかつたが遂には打解けて其女と妹脊《いもせ》の契りをも結んだりなんかして、大分の月日を送つてゐた。だが月日の經つにつれて、どうも故鄕の妻子のことが、とかくに胸に浮んで仕方がなく、そのことを女に話すと、女はいたく嘆いて、家のことは決して案じなさるな、お前が居らぬ間に私が有德富貴《うとくふうき》にして置いたから、そしていつまでも此所にゐて給はれと搔口說《かきくど》いて困る。けれども一旦とにかく歸つて、本當にいとま乞ひをして來て、心置きなく夫婦にならうと云ふことになつて、やつと許しが出て甚内が家へ歸ることになつた時、女が、必ず吾々の樣子を人に語つてくれるな、語つたらもう二度と逢はれぬと泣き、又心もとなさよと言つては泣く。それをやつと納得させて家へ歸つた。吾家へ歸つて見ると、たゞの一ケ月ばかりと思つてゐたのだが、三年の月日が經つてゐたとて、親類一族集《つど》つて、村の正覺寺の和尙まで招《よ》んで、自分の法事をしてゐる眞最中であつた。そしてほんにあの女が言つた通りに自分の居らぬうちに、前よりずつと身代もよくなつていた。寄り集つて居た人々は驚き怪しみ、家ではお前さんは死んだものとばかり思つてこんな事をしてゐるが、今まで何處へ行つてゐなすつたと口々に問ひ糺した。仙北へ、水戶へ、仙臺にと初めの程は言ひ紛らしたが、どうも辻棲の合はぬ話ばかりである。後で女房からうんと恨まれて、遂々《たうとう》實《まこと》を吐くと、其言葉を言ひ終るや否や、甚内の腰が折れて氣絕した。その後は不具廢人となつた上に、以前の貧乏になり返つてつまらぬ一生を送つた。

[やぶちゃん注:「和賀の赤坂山」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図で旧和賀郡を調べたが、見当たらなかった。

「鬼柳村」現在の北上市鬼柳町(おにやなぎちょう)・上鬼柳下鬼柳に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「南羽端(ハシ)」幾つかの記事を見ると、「南羽端山」とする固有名詞の山の名としてあるようだが、不詳。]

 其當時甚内の隣家に關合の隼人《はやと》といふ男が住んでゐて此事を聞き、甚内こそ愚かで口惜しいことをしたものだ。俺なら一生歸らず、其美しい女と睦《むつま》じく暮すがと言ひ、又心中でさう思つて、每朝羽端《はし》の方を眺める癖をつけた。すると或朝羽端山《はしやま》の蔭から女が手招きをして居るのを見付けたので、思う事が叶つたとばかり喜んで飛んで行つたが、こいつ狐に騙され、馬の糞を食はされて家へ還された。

 尙亦、太田村、西山の奧に赤澤といふところがある。黃金があるといはれた昔、[やぶちゃん注:底本は「いはれた、昔」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]此澤に草分(クサワケ)といふ業《げふ》をいとなむ者が二人居た。彼等二人は金の在處(アリカ)を尋ねようと山奧へ分け入つた。四十《しじふ》に二十《はたち》位の者共で、澤に柴萱《しばかや》で小屋がけをして住んでゐた。或日二十になる方が少々腹痛(ハライタ)を起し、小屋に殘つてゐた。ひどく痛むといふ程でもないから、春の日永に退屈して鼻唄など口吟《くちず》さんでゐると、そこへ齡《とし》の頃十六七にも見える娘がひよつこりやつて來た。あなたが面白い歌を唄つて居られるから聽かして下さいと言つて入り込んで來て動かぬ。所望されるまゝに若者は一つ二つ歌を唄つた。するとひどく喜んで、明日も來るから又きかしてくれと約束して歸つた。其後若者は同僚に僞病《けびやう》をつかつて小屋に殘り、訪ねて來る娘と逢つてゐた。娘は酒や菓子などを持參して男に興を添へた。或日その酒盛りをやつてゐるところへ同僚が歸つて來た足音がしたので、女は持參の袋の中から小屛風を取出し其蔭にかくれてゐた。歸つて來た男は仕事の道具を小屋に置忘《おきわす》れたから、それを取りに來たが、今なんだか女の話聲がしたやうに思うが、あれはなんだと訊かれ、若者は困つて顏を赤くしてゐた。傍に女履《をんなば》きの美しい草履《ざうり》などもあるので、いよいよ問ひ詰められることになると、件《くだん》の女は隱れてゐたところから笑ひながら出て來た。かう見とめられてはもう仕方がない。どうせかうなれやお前さんも一つお酒を召しあがれと言はれて男は呆れた。いろいろ問答のあげくに、女はお前さん達は金《きん》の在處《ありか》を探して居るのだらう、そんならいくらでも私達が敎えて[やぶちゃん注:ママ。]上げようと云ふことになり、なほ四十の男には自分の伯母だという三十歲位の女を連れて來てあてがつた。そして此男女四人は山中で樂しく暮してゐた。それからと云ふものは黃金《わうごん》も多く見付けたので、男達のいふには、此若者の方には妻もないからいゝが、己《おれ》には妻子がある。こんな寶を持つて居ながらこれを妻子に見せないではすまぬから、一先づ里へ歸つて、それから改めて此處へ來てお前達と樂しく暮さうといふと、女達はいやいや里へ下ると心替りして二度と此處へは來ぬから、どうしても歸さぬといふ。いろいろ押問答《おしもんだう》のすへ[やぶちゃん注:ママ。]、とにかく女達を納得させて歸る事になつた。そこで、それでは黃金のありかを敎へて上げようか、此谷川の水上《みなかみ》の大きな朴《ほう》の木の下を掘れば黃金がある。それを持つて行つて、約束を違へずに又此處へ來てくれ、私達は此處で待つてゐるからといふ。兩人が行つて見るといかにも大きな朴の木があり、其下を掘ると黃金が澤山あつた。それを二人でうんと背負つて里へ歸る途中、あの女どもはあんなに美しいが、屹度《きつと》魔性のものに相違ない。この金があつたら何しに二度と山へなど歸らう。恐しいことだと語り合ひつゝ來ると、[やぶちゃん注:この読点は「合ひつゝ」の後にあるが、不自然なので、「ちくま文庫」版で訂した。]荷がひどく輕くなつた。家へ歸つて下《おろ》して見ると黃金はたゞの赤土になつていた。その後二人が山へ引返して行つて、彼《か》の女達を探したけれども、もう二度と逢はれなかつた。それからは何だか知らぬが、此山中では折々人の叫聲《さけびごゑ》がするやうになつた。

[やぶちゃん注:「太田村」「西山の奧に赤澤といふところがある」幾つかあるが、私がそれらしく見えるのは、現在の花巻市太田(旧太田村)の西方にある赤澤山の大田村側の沢筋ではないかと踏んでいる。「ひなたGPS」の戦前の地図で中央に「赤澤山」があり、それを拡大して東に動かすと「太田村」である。但し、この山(標高七百七十四メートル)は、現在は岩手県北上市和賀町横川目(グーグル・マップ・データ航空写真)にあるが、殆んど人造物の存在しない深山であり、「隱れ里」にぴったりである。

「草分(クサワケ)といふ業」通常、土地を開拓して一村一町の基礎をきずくことを言うが、後の展開を見ると、鉱山を探す山師のようである。

「朴の木」モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata当該ウィキによれば、『和名の「ホオ」は「包」を意味し、大きな葉で食べ物などを包むことに用いたことに由来する』とあり、『大きなものは樹高』二十~三十メートルで、『幹の直径』も一メートル『以上になる』高木である。『ホオノキの葉は大きく、芳香があり、殺菌・抗菌作用があるため、食材を包んで、朴葉寿司』『などに使われる』とある。]

 尙亦山口村和賀川の流域に、貝殼淵といふ淵があり、[やぶちゃん注:以上の読点は「ちくま文庫」版で補った。]その又少し下流には御前淵(ゴゼンブチ)といふのがある。昔、田代六處《ろくしよ》の村人が此淵上で木を伐つていたが、誤つて斧を取り落してしまつた。手を伸べて取らうとすると、其斧がするする淵の深みへ滑り込んで入つた。其男は斧を取ろうと思つて淵の中へ入つて行くと、不意に廣い廣い野原へ出た。そして向ふの方には立派な御殿などが見える。これは不思議なことだと思つて、靜かに其處へ步み寄り、内所《だいしよ》などを窺うと、其壯麗さ、金銀寶玉をちりばめ、朱塗《しゆぬり》丹漆《にうるし》を交へた造りであつた。尙奧の方を見たいと思つて、平門《ひらもん》から入つて行つたが、誰も咎める者がない。庭園には瑠璃水晶珊瑚などの玉砂《ぎよくさ》を敷き、見馴れぬ樹木草花など、黃紅紫白《き・くれなゐ・むらさき・しろ》の色さまざまに咲き亂れて、薰香《くんかう》芬郁《ふんいく》たるものがあつた。ところが其處に一人の美しい女が立つてゐた。そして男に向つて、お前は此所ヘ來る者ではないが、どうして來たと訊いた。男が木を伐つてゐて斧を淵に落したからそれを取りに來たと言ふと、女は第一此所は私の遊び楊所であるのに、お前が來て木を損じたり騷がしたりするから、私が其斧を取り上げたのだ。これから左樣なことをしないなら返してやつてもよい。又お前ばかりではなく、他の者にもよく言つて聞かせろと言つて、斧を返してくれた。そしてそれと一緖に此を持ち返つて植ゑろと言つて、栗《くり》コを數粒《すうつぶ》くれた。男が厚くお禮を述べて歸らうと思ふと、門脇にひどく大きな太皷《たいこ》があつたのでこれは何にする太皷かと訊くと、女はこれは和賀殿の家に何か變事のある時に打つて知らせる太皷だと言つた。そして其女に送られてちよいと門外に出たと思ふと、以前の淵の岸邊に佇んでゐた。この事が評判になつて、時の領主の和賀殿に其栗を所望されて差し上げて植ゑたのが、今もある二度なりの栗の樹だといふことである。(以上吾妻昔物語よりの摘要。))

[やぶちゃん注:最後の丸括弧閉じるは、底本になく、「ちくま文庫」版は、第二節の始まりの丸括弧がない。不自然になるので(全体が附記であることは明白だから)、重ねて置いた。

「山口村和賀川の流域」岩手県和賀郡岩沢にかつて「山口」の地名があったことが「ひなたGPS」の戦前の地図で確認でき、その地名の北直近を流れるのが、和賀川である。以下の出る「貝殼淵」」「御前淵(ゴゼンブチ)」は位置不詳だが、

「田代六處」不詳。「田代」を地名と見て調べたが、和賀川の上流近くのバス停名に見出せただけであった。或いは、「田代」一般名詞で、開墾して田圃にするために、「山口村の六カ所の百姓」が、その仕事に当たったという意味なのかも知れない。

「和賀殿」和賀氏は、当該ウィキによれば、『鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の岩手県北上市周辺にあたる陸奥国和賀郡を本拠地とした国人』とある。和賀郡は江戸時代には全域が盛岡藩領であったから、この語りの語句が正確であるとするなら、この淵の龍女らしき存在の伝説は、最短でも戦国時代まで遡るものということになろう。]

サイト開設十八年記念(三日フライング)松村みね子名義/片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」全面改訂

サイト開設十八年記念として、三日、フライングして、私の偏愛する一篇、松村みね子名義の片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」の正字不全の修正とルビ化をし、全面的に書き変えた。なお、その私のそれへのオリジナルなブログでの注記『松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」イニシャル同定及び聊かの注記』も、一部、追加したので見られたい。

2023/06/22

「新說百物語」巻之四 「人形いきてはたらきし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成して使用した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   人形いきてはたらきし事

 ある廻國の僧なりしか[やぶちゃん注:ママ。]、東国にいたり[やぶちゃん注:ママ。]、日をくらし[やぶちゃん注:日が暮れてしまったのに、宿るに適当な寺社もなかったのである。]、㙒はつれ[やぶちゃん注:ママ。]の家に、宿をかりて、一宿いたしける。

 あるし[やぶちゃん注:ママ。]は、老女にて、むすめ一人と、只、二人、くらしける。

 麥の飯なと[やぶちゃん注:ママ。]、あたへて、ねさせける。

 夜ふけて、老女のいふやう、

「是れ、むすめ。人形を、もて、おじや。湯を、あみせん。」

といふ。

 旅の僧、

『ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なる事を、いふものかな。』

と、ねたるふりして、見居《みゐ》たれば、納戶《なんど》の内より、六、七寸はかり[やぶちゃん注:ママ。]のはたか[やぶちゃん注:ママ。]人形、ふたつ、娘か[やぶちゃん注:ママ。]、持ち出《いで》て、老女に渡しける。

 おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]盥(たらひ)に湯をとり、かの人形を、あみせけれは[やぶちゃん注:ママ。]、此、人形、人の如く、はたらき[やぶちゃん注:動き。]、水を、およき[やぶちゃん注:ママ。]、立居《たちゐ》を、自由に、いたしける。

 旅の僧、あまりにふしき[やぶちゃん注:ママ。]に思ひて、起き出して、老女に、いふやう、

「是れは。いかなる人形にて侍るや。扨々、おもしろき物なり。」

と尋ねける。

 老女のいはく、

「是れは、此《この》ばゝか[やぶちゃん注:総てママ。]細工にて、ふたつ、所持いたすなり。ほしくは[やぶちゃん注:ママ。]、遣すべし。」

と申しける。

『是れは、よきみやげなり。』

と、おもひて、風呂敷包の内にいれて、一礼をなし、あくる日、その家を、立出《たちいで》ける。

 半里はかり[やぶちゃん注:ママ。]も行くと思へは[やぶちゃん注:ママ。]、風呂敷包の内より、人形、聲を出《いだ》し、

「とゝさま、とゝさま。」

と、よぶ。

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なから[やぶちゃん注:ママ。]も、

「いかに。」

と、こたふ。

「あの、むかふより來る旅の男、つまつきて[やぶちゃん注:ママ。]、ころふへし[やぶちゃん注:総てママ。]。何にても、藥を、あたへらるへし[やぶちゃん注:ママ。]。金子一步、礼を致すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ内に、むかふから來たる旅の者、うつむきに、こけて、鼻血なと[やぶちゃん注:ママ。]、多く出したり。

 かの僧、あはてゝ介抱し、藥などあたへけれは[やぶちゃん注:ママ。]、心よくなりて、金子一步、取り出し、あたへける。

 辭退すれとも[やぶちゃん注:ママ。]

「是非。」

と、いふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、懷中いたしける。

 又、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、馬にのりたる旅人、來たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、またまた、風呂敷の内より、

「とゝさま、とゝさま。あの旅のもの、馬より、おつへし[やぶちゃん注:ママ。]。藥にても御遣はしあるへし。銀、六、七匁、くれ申すべし。」

といふ内に、はたして、馬より落ちたり。

 とやかく、介抱いたしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、成程、銀、六、七匁、くれたりける。

 

Ningiyounokai

 

[やぶちゃん注:底本ではここ。キャプションは、右幅は、上に僧の台詞、

   *

 ふし

  ぎな

人形の[やぶちゃん注:「の」は強調の間投助詞。]

   *

そのすぐ下に婆(母)の人形を湯浴みさせながらの、掛け声、

   *

 を

あひせて

  やろ

   *

とある。左幅には、捨てたが、追いかけて来る人形に対して、僧が、

   *

ひよんな物を

    もらふたこと

         しや

   *

「ひよんな物を貰ふた事ぢや」で、閉口し、追いかける人形の台詞が下方に、

   *

     いくたび

      すてゝも

         もは

          や

         とゝ

          さん

            の

       こなれば

        はなれは

         せ

          ぬ

   *

と、きたもんだ。]

  

 旅僧、何とやら、おそろしくおもひ、人形を、風呂敷より取出《とりいだ》し、道のはたに、捨てたりける。

 人形、ひとのことく[やぶちゃん注:ママ。]、立ちあかり[やぶちゃん注:ママ。]、幾たび、すてとも[やぶちゃん注:ママ。]

「最早、とゝさまの子なれは[やぶちゃん注:ママ。]、はなるゝ事は、なし。」

と、おひかけ來《きた》る。

 其あしの、はやき事の、飛《とぶ》かことく[やぶちゃん注:総てママ。]、終《つひ》に、迫付《おひつき》、懷(ふところ)の内にそ[やぶちゃん注:ママ。]入《いり》にける。

『珍義《ちんぎ》なるものを、もらひし事よ。』[やぶちゃん注:「珍義」見かけない熟語だが、所謂、「見たことも聴いたこともない全く以って風変わりな物」の意であろう。]

と、おもひて、その夜、又々、次の宿に泊りて、夜、そつと、起出《おきいで》て、宿の亭主に、くはしく、はなしける。

「それは、致し樣《やう》こそ侍る。明日、道にて、笠の上に乘せ、川はたにいたり、はたか[やぶちゃん注:ママ。]になり、腰たけはかり[やぶちゃん注:ママ。]の所にて、づぶづぶと、つかりて、水におほれ[やぶちゃん注:ママ。]たる眞似して、菅笠をなかし[やぶちゃん注:ママ。]給へ。」

と、をしへける。

 其あけの日、をしへのことく[やぶちゃん注:ママ。]にして、ふかゝらぬ河にて、水中に、ひさまつき[やぶちゃん注:ママ。]、笠を、そつと、ぬきければ[やぶちゃん注:総てママ。]、笠に、のりて、人形は、流れ行き、其後は何の事もなかりしと、なん。

[やぶちゃん注:文句なく、面白い怪談である。]

「新說百物語」巻之四 「澁谷海道石碑の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。

 本文中に出る漢詩は二段組みであるが、一段で示し、後に〔 〕で推定訓読を示した。また、漢詩と俳句は前後を一行空けた。]

 

   澁谷海道(しふたにかいたう[やぶちゃん注:ママ。]石碑の事

 京東山、澁谷海道の側に、ひとつの石碑あり。

「洛陽牡丹(らくやうのぼたん)新(あらた[やぶちゃん注:ママ。])吐(はく)蘂(ずいを)」

と、七もし[やぶちゃん注:ママ。]を彫(ほり)付けたり。

 名も、なければ、何の爲に立てたるとも、見へす[やぶちゃん注:ママ。]

 或は、

「遊女の塚。」

ともいゝ[やぶちゃん注:ママ。]、又は、

「『吐蘂(とずい)』といふ俳諧師の墓。」

ともいゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳へ侍れとも[やぶちゃん注:ママ。]、たしかに知る人、なし。

 前年、知恩院町古門前に黑川如船と云ふ人、あり。

 風流の樂人にて、茶・香。あるひは[やぶちゃん注:ママ。]鞠・楊弓(やうきう[やぶちゃん注:ママ。])に日を送りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、八月の事にてありけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「湖水の月を、みん。」

とて、友達かれこれ、さそひ合ひて、石山寺にいたり、一宿し、又、あすの夜の月の出《で》しほを見て、京のかたへ、歸へりけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「もと、來たりし道も、めつらしからす[やぶちゃん注:総てママ。]。」

とて、澁谷海道をぞ、かへりける。

 最早、夜も、

『子の刻過《すぎ》て、追付《おつつけ》、丑の刻にもならん。』

と、おもひけるか、海道のはたに、石に、腰、うちかけ、八旬はかり[やぶちゃん注:ママ。]の老翁の、ひとり、たはこ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]くゆらせて居《を》る者、あり。

 其火を、かりて、たはこ、すひつけ、

「いづかたの人そ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と尋ねければ、

「我は、此あたりの者なるか[やぶちゃん注:ママ。]、月の、あまり、おもしろさに、かくは、なかめ[やぶちゃん注:ママ。]あかすなり。」

と、こたふ。

「さやうならは[やぶちゃん注:ママ。]、尋ねたき事こそ侍り。此所の石碑は、誰の石碑にて侍る。」

と尋ぬれば、老人、打《うち》ゑみて、懷中より、書きたるものを、敢出《とりいだ》して、あたへ、

「持ちかへりて、是を、見るへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申して、たちまち、姿を見失ひけり。

 持ちかへりて見れは[やぶちゃん注:ママ。]、詩と、發句と、なり。

 

  牡丹開-帝城

  花下風流獨ㇾ欄

  老去テ枝葉埋ㇾ骨

  人間共夢中

  〔牡丹 開き盡す 帝城の外(がい)

   花下(くわか)の風流(ふりう) 欄(おばしま)に獨り

   老(おい)去(さり)て 枝葉(しえふ) 骨を埋(うづ)めて後(のち)

   人間(じんかん) 共(とも)に 是れ 夢中の看(かん)〕

 

  それと名をいはぬや花のふかみ草

 

「詩のうら、字《あざな》に『牡丹花老人』とあり、又、発句にも、『ふかみ草』とあれば、もしや、老人の石碑にてやあらん。」

と申しける。

 その手跡も、まさしく、黑川氏、所持いたさるゝよし。

[やぶちゃん注:調べてみたが、この石碑は現存しないようである。

「澁谷海道」は「渋谷通」「渋谷越」とも呼、東山を越えて、洛中と山科を結ぶ京都市内の通りの一つである。この東西の街道(グーグル・マップ・データ)。

「洛陽牡丹(らくやうのぼたん)新(あらた)吐(はく)蘂(ずいを)」これは、禅語の一句。所持する岩波文庫「禅林句集」によれば、五祖の句で、同書を参考に歴史的仮名遣で示すと、

   *

一口(いつく)に吸盡(きふじん)す 西江(せいかう)の水(みづ)

 洛陽の牡丹 新たに蘂を吐く

   *

サイト「茶席の禅語選」の「一口吸盡西江水」の解説によれば、入矢義高監修・古賀英彦編著の「禅語辞典」には、『一口で西江の水を飲みつくしたおかげで、洛陽の牡丹が新たに花ひらいた。宋代に至って牡丹は洛陽のものが天下第一といわれた』と記すとある。個人サイト」「犀のように歩め」の「洛陽の牡丹」が、判り易く、よく説明しておられるので、参照されたい。

「牡丹花老人」不詳。

「ふかみ草」「深見草」は、ここでは、牡丹の異名。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「水かがみ」沈滿願

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  水かがみ

            輕 鬢 覺 浮 雲

            雙 蛾 初 擬 月

            水 澄 正 落 釵

            萍 開 理 坐 髮

                  沈 滿 願

 

浮ぐもの鬢(びん) 月の眉

水草さけてかんざしの

落ちたるあたり澄みわたる

水を鏡になほすおくれ毛

 

   ※

沈滿願  西曆六世紀。 梁の貴婦人。 范靖(一說に靜に作る)の妻。 著すところ甚だ富み、詩に長ずと言われてゐる。 唐書藝文志に憑(よ)れば滿願集三卷があるといふが、湮滅に歸した。

   ※

[やぶちゃん注:作者解説の「范靖(一說に靜に作る)の妻。」の句点は底本では読点であり、字空けはないが、講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」で訂した。しばしばお世話になる紀頌之氏の「漢詩総合サイト 漢文委員会  漢詩ページ」の「沈満願」のページを見ると、沈滿願は『西暦』五四〇『年ごろの人』で、『生卒年』は『不詳』とし、『武康の人』で、かの南朝を代表する文学者で政治家として知られる『沈約』(しんやく)『の孫娘』にして、『征西記室范靖(靜)の妻』とあり、東魏・西魏・梁の並立期の女流詩人である。而して、そちらで、標題は「映水曲」と判明したが、その詩句を見ると、有意な異同が、複数、認められる。そこで、中文サイトの「維基文庫」のこちらで調べると、やはり、紀頌之氏の表記と同じである。以下に、紀頌之氏と「維基文庫」のものを参考に、以下に原詩を正字で示し、紀頌之氏の訓読を参考に推定訓読を示す。

   *

 映水曲

輕鬢學浮雲

雙蛾初擬月

水澄正落釵

萍開理垂髪

  映水曲(えいすいきよく)

 輕鬢(けいびん) 浮雲(ふうん)を學び

 雙蛾(さうが) 初月(はつづき)に擬(ぎ)す

 水 澄みて 落釵(らくさ)を正(ただ)すに

 萍(うきくさ)の開きて 垂髮(すいはつ)を理(をさ)む

   *

紀頌之氏の訳註によれば(一箇所、「.」を句点に代え、アラビア数字を漢数字に代えた)、

   《引用開始》

映水曲

すみきった水面に白く輝く月の影を映してさらに清らかにしてくれる。美人は水に映る自分の姿を、風に吹かれ、船が揺れて乱れた髪を直す。芸妓の舟遊びを詠ったものか、奥座敷で二人で過ごしたその夜遅く鏡を見て詠ったものか後世に影響を与えた詩である。

 

輕鬢學浮雲、雙蛾擬初月。

軽やかな鬢は浮んでいる雲の形をまねたものである。二つ並んだ美しい眉は八月の初月と見まごうものである。

・雙蛾 蛾の触角のように細く弧を描いた美しいまゆ。転じて、美人。

・初月(はつづき、しょげつ)。 三日月。陰暦三日(ごろ)の、月で最初に見え始める月。特に、陰暦八月の初月。

 

水澄正落釵、萍開理垂髪。

水の澄んでいるところでは落ちかかっている釵子[やぶちゃん注:金属製の簪(かんざし)。]を正しくなおし、浮草がひらけたところではまた垂れかかる髪を手入する。

   《引用終了》

とあって、佐藤の承・転句相当の訳は、一読、違和感があり、原詩の、あたかも浮草が彼女のために曳き退いて、水面に彼女の姿を映して、彼女が落ちかけた簪を直して、髪を整えるという、極めて印象的なシークエンスとは、全く異なることが判る。

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三一番 あさみずの里

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

       一三一番 あさみずの里

 

 此話は糠部《ぬかのぶ》の郡のアサミズの里にちなんだ、旅人の泊客《とまりきやく》が夜の中《うち》に殺されて、朝を見なかつたと云ふ話の群(ムレ)からとつた名である。此話の本場は、今の淺水の里にあつたと言ふ其話が元であらうが、それに類した話なら諸所にも多くあつたから、其一つを此所に記して見る。

 或山奧に五六軒の村屋があつた。此所では旅人を泊めては其夜の中に殺して、其持物や金などを取つて、夫々《それぞれ》に分配することを習慣にして居た。或時旅の六部が來て泊つたが、夏のことだつたと見えて、其家では六部をキツの上に蓙(ゴザ)を敷いたヨウカに寢せた。もとより此のヨウカにはカラクリがしてあり、端の板を引けば上の人間はどんとキツの中に墜ちる仕掛けであつた。勿論そんなことは夢にも知らぬ六部はいゝ氣持ちで眠つてゐるところを、不意にキツの中に墜《おと》されて、上からすぐに蓋《ふた》をされ、其蓋の上には大石《おほいし》や臼などが幾つも幾つも積み重ねられた。しかし其六部は七日七夜も叫んだり泣いたり、どしんどしんと體を板に打《ぶ》ツつけて暴れ𢌞つたりして居た。それを村人が代り代りに來て立聽きをしながら、いやはや剛情な六部樣だ、まだまだ生きて居ると言ひ言ひ、六部が命(メ)を落すのを待つた。

 金はいくら持つて居たか分らないが、衣物は其宿主が翌日から着て步いた。すると彼《あ》の人はいゝお客を取つて本當によい事をしたと言つてケナリ(羨まし)がつた。其村も家も分つて居るけれども今は言ふことを憚かる。斯う云ふ家には後世《ごぜ》までも罪バウゴウが殘つた。

 又或所の大屋の家に、正月二日の夕暮時旅の六部が來て泊つた。この家では風呂桶《コガ》[やぶちゃん注:「桶」一字へのルビ。]へ入れて蓋をして蒸《む》し殺しにした。そして人に見られるのを恐れて、土間《には》の臼場《うすば》のほとりに埋めて素知らぬ振りをして居た。

 村の人達は、その家へ夕方入つた六部の姿は見たが、朝立つ姿を誰も見た者がなかつた。それから大屋の土間には夜になると怪火《くわいくわ》が燃えてならなかつた。そして代々の主人は發狂した。現代の主人もさうである。

  (第二の話は下閉伊郡刈屋にて、折口信夫氏とともに聽く。)

[やぶちゃん注:典型的な「六部殺し」(当該ウィキを参照されたい)の因果譚である。

「糠部の郡のアサミズの里」現在の青森県三戸(さんのへ)郡五戸町(ごのへまち)浅水(グーグル・マップ・データ)。而して、歴史的仮名遣では「あさみづ」となるはずであるが、「あさみずの里」はママである。なお、ちょっと脱線になるが、ウィキの「糠部郡」の「「戸」(へ)のつく現存地名」の項よれば、知られたこの岩手を含む広域地方の地名には、『四戸がな』く、『もしくは』あったが『消滅した理由として、「四」は「死」を連想するからとも言われる』とあり、『四戸については、青森県八戸市の櫛引と言う説がある。その根拠は、同地にある櫛引八幡宮のかつての別名が「四戸八幡宮」であったことによる。一方、青森県三戸郡五戸町浅水または同町志戸岸(いずれも浅水川沿岸)との説がある』とし、『浅水の語源は「朝を見ず(=死)」であるという。もし仮に五戸町浅水が四戸であったとすれば、旧陸羽街道沿いに一戸から五戸までが番号順に並ぶことになる(六戸も五戸と接しているが街道沿いではない。無論、陸羽街道の成立は後世のことである)』とあった。本篇冒頭の、他の条には、まず見られない、採取譚群の前振り、『アサミズの里にちなんだ、旅人の泊客《とまりきやく》が夜の中《うち》に殺されて、朝を見なかつたと云ふ話の群(ムレ)』の一つというそれは、佐々木が明らかに「四戸」が当時、既に存在しておらず、過去事実としても確定資料が伝わらないことから、「朝を見ずに六部が殺された呪われた村」の意味が「浅水」という地名には隠されているのではないかという俚俗の説を示唆しようとしたものと考えられる。しかも、佐々木が「あさみずの里」と標題を記したこと自体が、「淺水(あさみ)」ではなく、「朝見」の意であると、どこかで信じているからこその確信犯の表記なのではあるまいか? 序でに、引用すると、「十戸」も現存しないが、一つ、『「十戸」にあたる地名が、「十和田」「遠野」であるとする説も存在する。また、青森県下北郡大間町の奥戸(おこっぺ)が「最も奥の戸」であるという説もある(一般にはアイヌ語とする説が有力)。殊に「遠野」については、近年の研究で「とおのへ遠野」と呼ばれていたことが明らかとなり、糠部に宗家としてあった「根城南部氏」が遠野へ領地を移されたことから一つの説とされている。しかし、一戸から九戸までの数字は順番であり』、『数量ではない。もし「十戸」があったとすれば、それは十番目を意味する「じゅうのへ」であって、数量を意味する「とお」ではないため、元々「十戸」は無く、場所も離れている「十和田」「とおのへ(遠い戸の意)遠野」説には無理があるとされている。秋田県鹿角郡十和田町(現鹿角市)や青森県南津軽郡浪岡町(現青森市)にも「十和田霊泉」と呼ばれる箇所があり、いずれの「戸」とも接していない』とあった。

「キツ」昔の東北方言で、水を入れる桶(おけ)。用水桶(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

「ヨウカ」不詳。室内の薄い板敷、或いは、土間の擁壁のすぐ下の薄板を敷いた場所か。識者の御教授を乞う。

「罪バウゴウ」「罪暴業」か。「暴罪業」であれば、歴史的仮名遣は「ばうざいごふ」で、文字列に合わせると、「ザイババウゴフ」が正しくなる。「暴罪業」ならば、「度を越した重い罪の業(ごう)」を背負ったの意で躓かない。

「下閉伊郡刈屋村」現在の宮古市刈屋・和井内(わいない)に相当する(グーグル・マップ・データ。北に「和井内」)。]

2023/06/21

「新說百物語」巻之四 「碁盤座印可の天神の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。また、標題及び本文中の「印」の字は「グリフィキ」のこの異体字の崩し字であるが、表記出来ないので、通常字とした。]

 

     碁盤座印可(ごばんさゐんか[やぶちゃん注:総てママ。]の天神の事

 又、京五条のひがしに、手跡の指南をする何某といふものあり。

 常に、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]、天滿宮を信仰しけるが、ある夜の夢に、正《まさ》しく、天神、つけて[やぶちゃん注:ママ。]、の給はく、

「我は、是れ、天滿天神なり。明日、高辻柳馬場に來るへし。」

と、の給ふか、と、おもへは[やぶちゃん注:ママ。]、夢、さめたり。

 ありかたく[やぶちゃん注:ママ。]おもひて、未明に、高辻柳馬場に、いたれとも[やぶちゃん注:ママ。]、いまた[やぶちゃん注:ママ。]何《いづ》かたの表の戶も、あかす[やぶちゃん注:ママ。]

 しはらく[やぶちゃん注:ママ。]やすらひ居《をり》たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、やうやう、角《かど》の家、一軒、戶をあけたり。

 ふと、見入《みいり》たれは[やぶちゃん注:ママ。]、夢に見たるに、すこしもちかはぬ[やぶちゃん注:ママ。]立像の天神、御たけ壹尺はかり[やぶちゃん注:ママ。]なりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、碁盤のうへに、立たせ給ふ。

 もとめ、かへりて、猶〻、信心いたしけるか、靈驗(れいけん[やぶちゃん注:ママ。])いちしるく、そのあらたなる事、度々なり。

 御手《おんて》に、卷物一卷、持ち給ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、「碁盤座印可の天神」と申し奉る。

「俗家に、をかん[やぶちゃん注:ママ。]も、いか〻。」

と、大龍寺の辻子《ずし》の寺へ、あつけ[やぶちゃん注:ママ。]奉る。

 先年、開帳ありし尊像は、此天神の御事なり。

[やぶちゃん注:完全な実話譚。

「高辻柳馬場」現在の京都府京都市下京区万里小路町(まりこうじちょう)の南北の柳馬場通と、東西の交差するここ(グーグル・マップ・データ)。

「大龍寺の辻子の寺」上京のこの辺りに(グーグル・マップ・データ)「大龍寺」「太龍寺」「大龍院」があるが、どうも、どれも「辻子」に合わないようだ。諦めかけたが、今少し、調べて見たところが、かの蛸薬師永福寺の東にある裏寺町(グーグル・マップ・データ)に、嘗つては大竜寺という寺があったが、移転した、という記載を、いろいろ検索している内に、個人ブログ「酒瓮斎の京都カメラ散歩」の「辻子 ―蛸藥師辻子と大竜寺辻子―」の中に発見した。そこに『裏寺町にあった大竜寺(昭和』五一(一九七六)『年に右京区梅ヶ畑高鼻に移転)へ行く道筋であったことが』、『辻子名の由来。この大竜寺の別堂に烏芻沙摩明王(うすさまみょうおう)を勧請したことから、烏須沙摩辻子(うすさまのずし)の別称もあったと云う』とあり、「京都坊目誌」の『「▲御旅町」の項にも、「北側其東の方より裏寺町に通する小街あり。地は本町及ひ中之町に屬す 之を烏須沙摩ノ辻子と字す」とあり』、『同書「◯大龍寺」の項でも、「寺門南面す。四條通に向ふ裏寺町南より四條通に至る間を。地は中之町に属す俗に烏須沙摩ノ辻子と字す。本寺内に烏須沙摩明王ノ像を安する故也」と記して』あるとあったのである。ここは、天神像を主人公が手に入れた高辻柳馬場とも近く、拡大して見ると(グーグル・マップ・データ)、この町内には寺が多いことが判る。而して、「大竜寺辻子」という路地名が、しっくりくる。ここを候補としよう。

佐々木喜善「聽耳草紙」 一三〇番 酸漿

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。「酸漿」は「ほほづき」。双子葉植物綱ナス目ナス科ホオズキ属ホオズキ変種ホオズキ Alkekengi officinarum var. franchetii 当該ウィキによれば、『「ほほづき」の名は、その実の赤くふっくらした様子から頬を連想したもの(「づき」は「顔つき」「目つき」の「つき」か)という』。『同じく赤い果実から「ほほ」は「火々」であり「つき」は染まる意味であるともいう』。『また』、『果実を鳴らして遊ぶ子供たちの様子から「頬突き」の意であるともいう』。『ほかにはホホ(蝥、カメムシの類)という虫がつくことを指すとする説もある』とあり、また、『漢字では「酸漿」のほか「鬼灯」「鬼燈」とも書く。中国の方言では酸漿の名のほかに「天泡」(四川)「錦燈籠」(広東、陝西)「泡々草」(江西)「紅姑娘」(東北、河北)などとも言い、英語では Chinese lantern plant ともよばれている』。本邦の『古語では「赤加賀智(アカガチ)』『」「輝血(カガチ)」「赤輝血(アカカガチ)」とも呼ばれていた。八岐大蛇のホオズキのように赤かった目が由来とされている』ともあった。]

 

     一三〇番 酸 漿

 

 昔、或旅人が山の中を旅して、一軒家を見つけて其所に宿をとつた。

 翌朝、起きて畑を見たら、美しい酸漿がたくさん紅く實つてゐたので、それを一ツとつて中の種を出して口にふくんで、プリプリ吹き鳴らして居た。それを其の家の人が見つけて、ひどく驚いて、お客樣は大變なことをしてしまつた、きつと今に大變な罰《ばち》が當ると言つて顏色を變へた。

 旅人も心配になつて、それは又如何《どう》してかと訊くと、每朝お日樣は、東から出て西ヘお沈みになさるが、そのお日樣は夜になると、地の下を潜つて此の酸漿の中ヘ一ツ一ツお入りになる、それでこんなに色が紅くなるのだ。酸漿はお日樣の赤ン坊だからと語つた。

  (膽澤《いさは》郡西根山脈地方の話。織田君の話の二。
   昭和三年夏の頃の分。)

[やぶちゃん注:「膽澤郡西根山脈地方」「膽澤郡西根」は、現在の地名としては岩手県胆沢郡金ケ崎町西根でここであるが、「西根山脈」と言った場合は、秋田県東成瀬村との間にある山脈筋を指すので、後者の中央附近を指していよう(孰れもグーグル・マップ・データ航空写真)。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二九番 變り米の話

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「變り米」は「かはりまい」と読んでおく。]

 

      一二九番 變り米の話

 

 早池峯山《はやちねさん》の麓の附馬牛(ツキモシ)村と云ふ所に、或百姓があつた。或年の旱(ヒデリ)に村中《むらぢゆう》の苗代が皆枯れてしまつて田植などは出來やうとも思はれなかつたが其百姓の家の苗代が一番ひどかつたので、或夜窃《ひそ》かに隣村へ行つて、生(イキ)の良い苗を少々盜んで來て、自分の田を一枚植えた。

 其の當時苗盜人《なへぬすつと》が方々に起つて、盜人の詮議もまた劇しくなつた。其所へ隣村の者がやつて來て、コレは俺の所で盜まれた苗である。それに相違ないと頑張つた。百姓は否《いや》盜まぬと云つたが、相手はそれでは秋になつてから勝負を附けやう[やぶちゃん注:ママ。]、俺のところの苗は糯《もち》である、もしこれが糯であつたら、お前を牢[やぶちゃん注:底本では「穽」となっているが、どうも躓くので、「ちくま文庫」版で「牢」(牢屋の意)とした。]に打《ぶ》ち込むというのであつた。これには百姓も殆ど弱つて、早池峯山へ月詣りをして、何率(ドウ)かこの苗が粳米《うるちまい》になるやうに…と願かけをした。其中《そのうち》に黑白を決定(キメ)める秋の收穫時《しうくわくどき》が來たので、其稻を刈つて見ると其は確《たしか》に粳米であつた。否《いや》糯米《もちまい》が粳米に變つて居たのであつた。それで其百姓は助かつた。

 早池峯山の神樣は盜人神樣だと謂ふ由來はそんな所からも出て居る。

  (村の今淵小三郞殿の話。昭和元年頃の聽き記。)

[やぶちゃん注:「附馬牛村」岩手県遠野市附馬牛町(つきもうしちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

dostoev氏のサイト「不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-」の「泥棒を守護する神トイウモノ」、及び、「泥棒を守護する神の根源」が素晴らしい! 是非、読まれたい。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「呼名の靈」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 なお、以下の「二」の下方の初出掲載の書誌は六字下方であるが、ブログ・ブラウザの不具合が出るので、引き上げた。

 因みに、既に電子化注した『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』、及び、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「女の本名を知らば其女を婚し得る事」』が本論考と関係がある。]

 

      (大正二年九月『鄕土硏究』第一卷第七號)

○呼名の靈(三號一五八頁)西曆千廿年、瑞典《スウェーデン》、ルンドの大寺を建てた時、晝間、苦心して、積み上げた石材を、每夜、巨鬼、來たり、悉く、運び去《さつ》た。寺の願主、之を責めると、「鬼の名を定期中に指中《さしあて》たら、二度と來ない。指中ねば、何時《いつ》迄も邪魔して遣《やら》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。」と云《いふ》ので、願主、弱り入り、思案も盡きて、海濱を步くと、其鬼の妻が、夫を、「フヰン」と呼《よん》だ。聞《きい》て、大悅《おほよろこび》、ルンドに還り、夜半に、三聲、高く、「フヰン」と呼ぶと、鬼、大《おほい》に驚き、卽時、去たと云ふ(ジェームス、「一八一三至一四年獨逸・瑞典・露西亞・波蘭《ポーランド》旅行日記」第三板、第一卷三三頁)。一八七〇年板、ロイドの「瑞典小農生活《ピザント・ライフ・イン・スエズン》」二七七頁には、オラフ(十一世紀の諾威《ノルウェー》王)、鬼をして、大寺を作らしむ。約《やく》すらく、「寺成る迄に、王が鬼の名を知《しら》ば、鬼王に囚《とらへ》られ、鬼の名を知得《しりえ》ずば、日月、又は、王の身を鬼に與ふべし。」と。扨、寺院完成に近づくも、塔上の知風板(かぜみ)だけ、具《そな》はらず。其時、王、大いに憂ひて、野をぶらつく。偶々、鬼の妻、其兒の啼《なく》を止《とめ》ん迚《とて》、「明日、汝の父、日月が王の軀《からだ》を持ち還る筈故、おとなしく待て。」と言ふ。話の中に、鬼の名が知れる。王、歸りて、鬼が、知風板を据付《すゑつ》んと、塔頂へ登つたところに向ひ、鬼の名を呼ぶと、仰天して、轉がり落ちるを、取《とつ》て押《おさ》へ、永く囚へ置《おい》た、と有る。〔(增)(大正十五年九月記)グリンムの「獨逸童話」に、貧女、王に、「藁を黃金につむぎ替《かへ》よ。」と命ぜられ、泣く。處え[やぶちゃん注:ママ。]、小魅《こおに》、來たつて、「汝、王后と成《なり》て、初めに產るゝ兒をくれるなら、汝に代つて、此業を成就すべし。」といふ。他に良案もないから、承諾すると、小魅、造作もなく、夥しい藁を、黃金に紡ぎ化した。王、此女に『神巧あり。』と感じ、之を后とし、久しからぬ内に、美はしい兒ができた。其時、かの小魅、忽ち、來つて其兒を乞ひ、后が、極めて悲しむをみて、「三日内に、吾名をいひあてたら、此兒を貰はずに濟ましやろう。」と言ふ。第一、第二の夜、后、其小魅に、自分の知《しつ》た限りの人名を、列ね聞かせど、何《いづ》れも、「吾名で、ない。」といひ續けた。三日目に、后の使者が、此小魅が、自分の名を呼《よん》で踊る處へ行《ゆき》かゝり、歸つて、后に告《つげ》たので、后、其名を小魅に聞かすと、大《おほい》に怒つて自滅した、とある。その類話は、一八八九年板、ジョーンス及クロップの「マジャール民譚集」の「なまけた糸くり女が后となつた話」と、その註に載せある。〕

[やぶちゃん注:一部の書名の読みのカタカナは「選集」で補塡した。なお、「選集」の編者注によれば、冒頭に記された対象論考は『桜井秀「呼名の霊」とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本民俗學辭典」本編(中山太郎編・昭和八(一九三三)年昭和書房刊の「ナヲヨブクワイ」に当該論考の梗概が記されてあったので、以下に電子化する。本文は、底本では、二行目以降は最後まで一字下げである。

   *

ナヲヨブクワイ 〔名を呼ぶ怪〕 我國には怪物に名を呼ばれると死ぬと云ふ俗信があつた。吾妻鏡(卷五)文治元年十二月二十七日所司二郞頓死の條に『及半更叩ㇾ戶有此男之名字云々。恠ㇾ之取脂燭見之處己入死門云々』とあり。更に一條兼香の日記元久二年六月一日の條に『去月世上申沙汰、夜々無誰人老若共呼、令ㇾ呼與其人橫死又不ㇾ知行方云々』とある(鄕土硏究一ノ三)

【參考文獻】

呼 名 の 靈 (南方 熊楠) 郷土研究一ノ七

   *

この内、「吾妻鏡」のそれは、「文治元年十二月二十七日」は「二十八日」の誤りである。本文全部と推定訓読を示す。【 】は二行割注。なお、文治元年は一一八五年で、この年の前月十一月に、朝廷が頼朝の要請を受け、諸国への守護地頭の設置を認めている。

   *

廿八日丁丑。甘繩邊土民【字所司二郞。】、去夜於困上乍立頓死。人擧見之。家中之輩語群集者云、及半更、叩戶有喚此男名字之者。此男答、則開戶之刻、再不語而良久。怪之取脂燭見之處、已入死門云々。

   *

廿八日丁丑。甘繩邊の土民【字(あざな)は所司二郞。】〕去(いんぬ)る夜、困(しきみ)の上に於いて、立ち乍ら、頓死す。人、擧(こぞ)りて、之れを見る。家中の輩、群集の者に語りて云はく、

「半更に及び、戶を叩き、此の男の名字を喚(よ)ぶ者、有り。此の男、答へて、則ち、戶を開くの刻(きざみ)、再び、語らずして、良(やや)、久し。之れを怪しみ、脂燭(しそく)[やぶちゃん注:「紙燭」に同じ。]を取りて見るの處(ところ)、已(すで)に死門に入る。」

と云々。

   *

・「困」玄関と外とを区別するための敷居様の物。・「半更」夜半。・「脂燭」「紙燭(しそく)」に同じ。

   *

「元久二年」は一二〇五年。。鎌倉幕府将軍は源実朝で、執権は北条義時。以上の日記を推定訓読しておく。

   *

去(いんぬ)る月、世上に申す沙汰に、夜々、誰人(たれびと)も無くして、老若(らうにやく)共(ども)を呼ばしむ。呼ばしめらるると與(とも)に、其の人、橫死、又は、行方(ゆくへ)知れずとなれりと云々。

   *

「西曆千廿年、瑞典、ルンドの大寺を建てた時」スウェーデン南部のスコーネ県にあるルンドには、デンマーク王カヌートによって建立されたルンド大聖堂(グーグル・マップ・データ)があるが、その創建は、ウィキの「ルンド」によれば、九百九十年頃とする。英文の「Lund Cathedral」(邦文ウィキはない)を見ると、この大聖堂はルンドに建てられた最初の教会ではなかったとあり、最古の教会(現在は消滅)は 十 世紀末に市内に建てられたとあり、中世のルンド大聖堂の守護聖人である聖ローレンスに捧げられたルンドの教会に関する最初の文書による記述は一〇八五年に遡るとあるので、熊楠の言う一〇二〇年説を裏付けるか。

「マジャール」マジャ(ー)ル人は国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族の名。]

 近頃迄、エスキモー人は、魂と體と名と、三つ、聚《あつまつ》て、始めて、人となると信じ、死んだ人の名をついだ人は、其死《しん》だ人の性質を、總て、讓受《ゆづりうけ》る。死んだ人の名を、他の人が襲(つが)ぬ内は、死人の魂が、平安を得ぬ。又、他人が襲(つが)ぬ内に、死人の名を言ふと、其名を損じて、力《ちから》を失ふ。又、人が死ぬと、其名が、姙婦に宿り、其子と共に生れる。子が生れると、「名を附《つけ》て吳れ。」と泣《なき》出す。巫《ふ》に賴んで、其名を識出《しりいだ》し、其子に附る、とした(五年前、一九〇八年板、ラスムッセン「北氷洋之民」英譯、一一六頁)。古埃及では、箇人は魂(バイ)、副魂(カ)、名(ラン)、影(クハイベト)、體(クハツト)の五より成る、と(「大英類典」一一板、第九卷五五頁)。神も自分の名を呼《よん》で、初めて、現出し、鬼神、悉く、其秘密の名、有り、人、之を知《しれ》ば、神をして、己れの所願を成就せしむるを得と信じ、又、名を潰さるゝと、物が生存し得ぬとした(バッヂ『埃及諸神譜(ゼ・ゴツヅ・オヴ・ゼ・エヂプシアンス)』一九〇四年板、三〇一頁)。

[やぶちゃん注:『一九〇八年板、ラスムッセン「北氷洋之民」英譯、一一六頁』グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である)のThe People of the Polar North。イヌイットの風俗を纏めた旅行記で同年に刊行された。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ。]

 支那には、「抱朴子」に、山精、四種、有り、呼其名敢爲一ㇾ害。〔其の名を呼べば、敢へて害を爲さず。〕佛典に、諸鬼諸山精、若人知其名、喚其名字、不ㇾ能ㇾ害ㇾ人。〔諸鬼・諸山精は、若(も)し、人、其の名を知りて、其の名字を喚(よ)べば、人を害する能はず。〕(「大灌頂神呪經」)。又、毒藥の名を知る人は、其毒に中《あた》らず、とす(義淨譯「大孔雀呪王經」卷下)。章安と湛然の「大般涅槃經疏」二に、「咒」は鬼神の名で、名を云はるゝと、鬼神が害を爲し得ぬ。盜者《ぬすびと》が財を伺ふ時、財主に自分の名を言《いは》るゝと、盜《ぬすみ》を行ひ得ぬ、と同じだ。又、「王咒」は鬼神王の名で、其を喚ぶと、鬼の子分等《ら》、恐れ入《いつ》て害を爲《なさ》ぬ、と有る。天台大師の「摩訶止觀」八にも、十二時、又、卅六更、其時每《ごと》の獸が、行人を惱ましに來る事有り。例へば、寅の刻に、虎が來る、此樣な時媚鬼《じびき》と云奴《いふやつ》を、一々、其獸の名を推知《すいち》して呼ぶと、閉口して、去る、と出づ。本居宣長曰く、『古き神社には、何《いか》なる神を祭れるか知れぬぞ多かる。「神名帳」にも、凡て祀れる神の御名を記さず、只、社號のみを擧《あげ》られたり』云々、『社號、乃《すなは》ち、其神の御名なれば、左《さ》も有るべき事にて、古《いにしへ》は、さしも祭る神をば、强《しい》ては、知らでも有けむ。』と。

 熊楠、去年六月十五日の『日本及日本人』二四頁に陳べた通り、吾邦にも、古は、神の本名を、無闇に言散《いひちら》さなんだらしい。チュンベルグの「日本紀行」に、當時の至尊の御名を誰も知《しら》ず、聞出《ききだ》すに、甚だ苦しんだ由、筆《ひつ》し有る。其他、三馬の小說に、忠臣藏のお輕の母の名が、一向見えぬと笑ふたが、國史に、田道《だぢ》將軍の妻、形名君《かたなのきみ》の妻など、今の歐米と同じく、夫の名許り記して、夫人の名を書《かか》ぬ例、多く、中世にも、淸少納言・大貳三位・相模・右近など、儕輩間《なかまうち》に呼ばれた綽號《あだな》樣な者の遺《のこ》り、本名の知れぬ貴女許り記されて居る。〔(增)(大正十五年九月記)ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三五六頁に云く、『此民は、今日も、夫は妻の名、妻は夫の名を呼《よば》ず。男は、其弟の妻、或は妻の妹、女は妹の夫、又、夫の兄の本名を呼ず。もし呼ばゞ、聾、又、啞の子を生むといふ。極めて餘儀なくて呼ぶ時は、先づ、地に、唾、はきて後ち、呼ぶ。基督敎に化せる輩も、群集中で、此俗を破るを好まず、某の父、某の母といふ風に呼ぶ、と。三位道綱の母、加茂保憲の女などいふも、こんなわけの者か。)

[やぶちゃん注:「田道將軍」田道(たぢ ?~仁徳五十五年)は仁徳朝の武人。田道の氏姓に関して「日本書紀」には記述されないが、「新撰姓氏録」には「田道公」と表記され、姓は「公」とされる。記載は少ないが、当該ウィキを見られたい。

「形名君」上毛野形( かみつけののかたな 生没年未詳)は飛鳥時代の武人。舒明天皇九(六三七)年、将軍として反乱した蝦夷(えみし)を攻めに向かったが、敗北し、逃げようとしたが、妻から、酒を与えられて、「祖先以来の武名をけがさぬように。」という励ましに奮起し、蝦夷を破ったという人物(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三五六頁』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが原本当該部で、“CXXXIV. RAM'S WIFE.”の章がそれ。]

 予、往年、愛爾蘭《アイルランド》人に聞《きき》しは、彼《かの》國には、地方により、今も、女子が裸で浴する處を見て、婚を求むれば、必ず、應ずる由。〔(增)(大正十五年九月記)サリシュ人の處女が、男に露形《あらはなるすがた》を見らるれば、其男に嫁ぐの外、其恥辱を去る能はず、其男、又、必ずその女を娶るが、義務なり。故に親族の抗議により、自分望みの女を手に入れ能はぬ男は、此手で、其女を娶るといふ(一九〇七年板、ヒル・トゥート「英領北米誌」六九頁)。)羅什等譯「十誦律」九に、迦留陀夷《かるだい》比丘、「諸房舍を示すべし。」とて諸婦女を集め、說兩可ㇾ羞事、以他母事向ㇾ女說言、汝母隱處、有如ㇾ是相、爾時女作是念。[やぶちゃん注:句点はママ。]如ㇾ是比丘所ㇾ說、必當我母。〔兩(ふた)つの羞づべき事を說くに、他の母の事を以つて、女(むすめ)に向ひて、說きて言はく、「汝が母の陰處に是(か)くのごとき相、有り。」と。其の時、女は是くのごとき念(おも)ひをなす。是くのごとく比丘の說く所は、「必ずや、當(まさ)に我が母と通じたるなるべし。」と〕又、女事《をんなのこと》を母に、子、婦《よめ》の事を姑《しうとめ》に、姑の事を子婦に說き、是諸婦女、展轉相疑。〔是の諸(もろもろ)の婦女、展轉として相ひ疑ふ。〕佛、爲《ため》に結戒す。義淨譯「根本說一切有部毘奈耶雜事」二九に、梵授王、盲人が、「王妃の腰間に、萬字、有り、胸前に、一(ひとつ)の旋(せん)あり。」等の隱相を說くを聞《きき》て、其王妃と私《わたくし》せるを悟る事、有り。予、幼時、和歌山で聞《きい》た俗傳に、「菅丞相、最《いと》止事《やんごと》無き女性を畫《ゑが》き、居眠《ゐねむり》して、其祕處に、筆、落《おち》て、黑子《ほくろ》を成せしより、『斯る祕相を知るは、上《かみ》を犯せし事あるに因る。』と、讒言に遇《あひ》て流され玉ふた。」と言《いつ》た。〔(增)(大正十五年九月記) 西鶴の「新可笑記」、「官女に人のしらぬ灸所」は同樣の物語りで、其末文に、支那の吳道子も「官女の寫し繪にこぼれ墨其儘にほくろと疑はれし」由を載す。皆人の知る通り、沙翁《シエキスピア》の劇曲「シムベリン」に此樣《かやう》の一段あり。その類話は、多くエー・コリングウッド・リー氏の「十日譚《デカメロン》の根源と類話」四二―五七頁に列せらる。〕

[やぶちゃん注:「十誦律」及び「根本說一切有部毘奈耶雜事」は「大蔵経データベース」で校合したが、前者は同データベースの一部がちょっと不審であったため、熊楠の引用に従った箇所がある。

「迦留陀夷」釈迦の弟子の一人が知られるが、無関係な同名異人が多い。]

 惟《おも》ふに、吾邦にも、女の本名を他人に知らるゝを、膚を見らるゝと同樣に、嫌《きらひ》しならん。其起りは、本名を知つた者に、知られた者が、隨意、支配さるゝてふ迷信より出たのだらう。扨、人が己《おのれ》の名を呼ぶ時、「應(わう)。」と答ふるのは、先方が、確かに、己が本名を知つたと承認する譯だ。隨《したがつ》て、鬼靈に名を呼《よば》れて答ふると、卽時、魅《ばか》されたり、命を取られたりする、と信ずるに至つたのだ。〔「古事談」三に、眞濟《しんぜい》が、天狗となり、染殿后を惱ます時、相應和尙、不動を念じ、其鬼の名を露はして退散せしめし由を記す。〕「西遊記」二編二卷、孫行者、名を「者行孫」と僞り、銀角大王と戰ふ時、銀角、魔力ある瓢《ひさご》を取《とり》て、「者行孫。」と呼ぶ事、二度、行者、『僞名を呼ばれて應ずるに、何の妨げ有らん。』と思ひ、一聲、應じて、忽ち、瓢中《ひさごのうち》に吸入《すひいれ》らる。此寶瓢《たからのふすべ》、元來、名字の眞・假に不管《かかはらず》、凡そ、答ふる心、有《あり》ても、便《すなは》ち、入裝《もりい》る、と有るは、面白し。一八八〇年西貢《サイゴン》發行『交趾支那探見雜誌』に出た、ランド氏「安南俗信記」に、「コンチン鬼《き》」は、未通女、男知《しら》ずで、死ぬと、其靈を、加持して、墓中に閉塞《とぢこめ》る。然らざれば、此鬼になり、墓を出《いで》て、樹上に居り、氣味惡く笑ふ。又、種々《いろいろ》に變形して、行くを、呼ぶ。之に應えた者は、魂、身を脫出《むけいで》て白痴と成る、と有る。英國に、ダッフス卿、野外で、疾風の聲を聞くと同時に、誰とは知らず、「馬。」と「草株《ハツソツク》。」と呼んだ、何心無く、之を擬《まね》て、呼ぶと、忽ち、精魅《フエヤリーズ》に佛國王の窖中《あなぐらのなか》に伴行《つれゆか》れ、諸魅と飮宴し、翌日、氣が付くと、身、獨り、窖中に居《をり》し、と云ふ(一八四六年板、トマス・ライト「中世英國論集《エツセイス・オン・ゼ・ミドル・エイジス》」一の二五八頁)。パンジャブにも、梟《ふくろふ》、鳴《なく》に、應ずれば、其人、必ず、死すと云ふ(「フォークロ-ル」一八九〇年、卷五、八四頁)。劉宋の劉敬叔の「異苑」に、或人、杜鵑《ほととぎす》の鳴聲を擬《まね》して、忽ち、血を嘔《はき》て死んだ、此鳥は、啼《なき》て、血、出《いづ》るに至つて、乃《すなは》ち、止む。故に擬た人も、血を嘔いて死んだ、と言へるも、似た事だ。

[やぶちゃん注:『「古事談」三に、眞濟が、天狗となり、染殿后を惱ます時、相應和尙、不動を念じ、其鬼の名を露はして退散せしめし由を記す』実は、この話、同じ染殿の別系統の話を、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」』(内容が内容だけに「R指定」とした)を南方熊楠の「今昔物語の研究」のために二年前に電子化注しており、また、同じ内容の話を、恐らくは「善家秘記」を元にして書いたと推定される「大和怪異記 卷之一 第十三 金峯山の上人鬼となつて染殿后を惱す事」も、昨年、電子化注している。しかし、ここに出る僧「眞濟」の名は、前者には出ず、「大和怪異記」では作者の最後の附記に出るばかりなので、先行する熊楠の指した「古事談」に載るものを、ここでは、電子化しておくこととする。ちょっと疲れたので、これを本篇では最後の注とする。悪しからず。原書は漢文であるが、訓読しないと、若い読者には厳しいかとも思われるので、漢字の正規表現は、正字国立国会図書館デジタルコレクションの芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」を参考にして正字表現にし、訓読は「新日本古典文学大系」版の「古事談 続古事談」(川端・荒木両氏校注二〇〇五年岩波書店刊)を参考にして示す。注も一部で後者を参考にした。【 】は傍注。読み易さを考え、改行や段落を成形し、一部は推定で歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

 貞觀七年[やぶちゃん注:八六五年。]の比(ころ)、染殿皇后【文德后、淸和御母、忠仁公の御女なり。】【明子。】、天狐の爲めに惱まされ、稍(やうや)く、數月を經たり。

 諸(もろもろ)の有驗(うげん)の僧侶、敢へて能く之れを降(くだ)す者、無し。

 天狐、放言して云はく、

「三世(さんぜ)の諸佛出現するに非ざるよりは、誰(たれ)れか我れを降し、亦た、我が名を知らむ。」

と云々。

爰(こ)こに、相應(さうわう)和尙、召しに應じて、參人(さんじん)し、兩三日、祗候(しこう)するに、其の驗(しるし)、有ること、無し。

 本山に還りて、無動寺の不動明王に對(むか)ひ奉りて、事の由を啓白(けいはく)し、愁恨して祈請(きせい)す。

 其の時、明王、背(そむ)きて、西を向く。

 和尙、隨ひて西に坐すに、明王、又(ま)た、背きて、東を向く。

 和尙、又た、隨ひて東に坐す。明王、忽ちに、背きて、元の如くに南を向く。

 和尙、亦(ま)た、南に坐し、流淚(りゆうるい)、彈指(だんし)、稽首(けいしゆ)して、和尙、白(まう)して言はく、

「相應、明王を戴き奉りて、更に、他念、無し。而るに、今、何の犯せる過(あやまち)有りて、相ひ背けること、此(か)くの如きか。願はくは、悲愍(ひびん)[やぶちゃん注:心から憐れむこと。]を垂れて、告げ示すべし。」

と云々。

 胡跪(こき)[やぶちゃん注:膝を地につけて礼拝するもの。特殊な法要でのみ用いる座法。]合掌して、明王の本誓(ほんぜい)を念じ奉りて、眼を合はする間(あひだ)、夢に非ず、覺むるに非ずして、明王、示して云はく、

「我れ、生々加護(しやうじやうかご)の本(もと)の誓(せい)に依りて、去り難き事、有り。今、其の本緣を顯說(けんせつ)せむ。昔、紀(きの)僧正眞濟存生(ぞんしやう)の日、我が明咒(みやうじゆ)を持(じ)す。而るに、今、邪執(じやしふ)を以ての故に、天狐道(てんこだう)に墮ち、皇后に着きて、惱ます。本の誓の爲めに、彼(か)の天孤を護る。仍(よ)りて、我が咒を以ては、彼の天孤を縛(ばく)し難(がた)きなり。大威德の咒の加持を以てすれば、結縛(けつばく)の便(たより)を得むか。」

と云々。

 此の告げの後、感淚に堪へず、頭面攝足(とうめんせつそく)して[やぶちゃん注:両膝と両肘を地につけ、両手で相手の足をとって自分の頭部に接しさせる最高礼の仕儀を行うことを指す。]、禮拜、恭敬す。

 後日、召しに依りて、復(ま)た、參る。

 明王の敎誡(けうかい)の旨(むね)に任せて、加持し奉る間、天狗を結縛す。

 自今已後、復た來たるべからざる由(よし)、歸伏(きぶく)して後、之れを、解脫(げだつ)す。

 則ち、皇后、尋常に復すと云々。

   *]

追記 (大正十五年九月記) ハズリットの「諸信念及俚傳」第二卷六二頁に、吸血鬼、人を呼ぶに、答ふれば、必ず、死す。但し、此鬼、一夜に、同じ人の名を、二度、呼ばず。故に、二度呼ばれて答ふるも、害なし、と有る。一九一〇年劒橋《ケンブリッジ》板、セリグマンの「英領ニューギネアのメラネシアンス」一四〇頁に、コイタ人の靑年は、多く、自分の名をいはず、衆中で問《とは》るゝ時は、止《やむ》を得ず、其友に言《いつ》てもらひ、若くは、其友の言ふに任す、と出づ。これも、以前、自分の名を語れば、自身、全く名を聞き知つた人に領せらる、と信じた遺風だろう[やぶちゃん注:ママ。]。

 

「新說百物語」巻之四 「仁王三郞脇指の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。「仁王三郞」は「にわうさぶらう」で、室町時代に作られたとされる日本刀(脇差)で知られる二王清綱(におうきよつな:生没年未詳)。当該ウィキによれば、『岐阜県岐阜市にある岐阜県立博物館所蔵』の、後の『新撰組の近藤勇の処刑に使われた刀として知られる』とあり、刀工二王清綱の流派『二王派は鎌倉時代から室町時代末期にかけて周防国で活動した刀工一派であり、周防国には大和国東大寺領の荘園が多く存在したことにより、二王派の刀工も大和鍛冶との交流が深く、作風にも大和伝の特徴がよく表れている』。『「二王」という名前の由来は、仁保庄(におのしょう)』(現在の山口市の東北部を流れる仁保川(グーグル・マップ・データ)の流域一帯を荘域とする)『に刀工が居住したことに由来するというのが有力である』。『また、異説として、ある刀工が寺院で火事に遭遇し、仁王門が焼けて仁王像にも火が及ぼうとしたとき、門に繋がれていた鎖を自身が作った刀で断ち切って仁王(二王)像を救い出したことから、その刀工はそれ以降「二王清綱」と名乗るようになったという逸話もある』とあった。]

 

   仁王三郞脇指の事

 京西洞院に小林良淸といふ人あり。

 冨饒(ふによう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ふねう」。])の人にて、方々、御大名がたの御用等、うけ給はり、常々江戶へ通ひしか[やぶちゃん注:ママ。]、ある年、御出入り申す御大名、仰せられけるは、

「いかに良淸、男と生まるれば、武士・町人の別ちは、なし。たしなむへき[やぶちゃん注:ママ。]は、刄物なり。汝か[やぶちゃん注:ママ。]常に帶する脇さし[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、いかやうのものそ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、御尋ねありける。

 良淸か[やぶちゃん注:ママ。]いはく、

「私《わたくし》、風情《ふぜい》の脇ざしにて候へば、各別《かくべつ》の刄物も所持仕らす[やぶちゃん注:ママ。]。しかしなから[やぶちゃん注:ママ。]、代々相つたへ候一尺六寸御座候。ほそ身にて、銘は、『仁王三郞』と御座候ふ。」

と、申し上げる。

「夫《それ》、見せよ。」

とて、直《ぢき》に御らんなさるに、成程、正眞の「仁王三郞」にて、見事なるものなり。「是れは、ためしたる事も、ありや。」

と御尋ねなさる。

「いや。ついに、ためして見たる事は、是れ、なし。」

と、こたふ。

「迚《とても》の事に、ためして遣はさん。」

とて、

「幸《さひはひ》に、罪人あり。をきて、かへるへし[やぶちゃん注:ママ。]。そのかはりに、歸り道の腰を、ふさけよ[やぶちゃん注:ママ。「塞げよ]。「代わりに、これを腰に差せ」の意。」

とて、御脇指を拜領仕り、我《わが》脇さしは、御預け申し、かへりける。

 良淸、其夜、宿《やど》へかへりて、ふせりける。

 夢に、不動尊、枕かみ[やぶちゃん注:ママ。]に立たせ給ひ、

「我は、是れ、汝が信心して、常に懷中する所の一寸三分の目黑不動のうつしの金佛《かなぶつ》なり。なんち[やぶちゃん注:ママ。]、脇指をためさんとて、あつけ[やぶちゃん注:ママ。]置きし所の罪人、さして切るへき[やぶちゃん注:ママ。]程のつみにても、なし。其所《そのところ》の物逢[やぶちゃん注:「ものあひ」か。以下の叙述から、使用人の下女の意であるようだ。]なるか[やぶちゃん注:ママ。]、小袖の綿に、針、ありけるを、主人、いかりて、をし[やぶちゃん注:ママ。]こめ、置《おき》たるなり。別して、此女《このをんな》、信心のものにて、我を、うやまふ事、年、久し。ねかはくは[やぶちゃん注:ママ。]、明日、さうさうまいり、命を、こひ得て遣はすへし[やぶちゃん注:ママ。]。是《これ》、おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]善根なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。その替りには、又、なんち[やぶちゃん注:ママ。]も、災難を、のかるゝ[やぶちゃん注:ママ。]事、あるへし[やぶちゃん注:ママ。]。脇さしは、もつとも、ためすに及はす[やぶちゃん注:ママ。]。大切の名作なり。かならす[やぶちゃん注:ママ。]、祕藏すへし[やぶちゃん注:ママ。]。

と、のたまふ、と、覺へて、夢、さめたり。

[やぶちゃん注:「目黑不動」東京都目黒区下目黒にある天台宗泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺(りゅうせんじ)。不動明王像を本尊とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は大学時代、中目黒に下宿しており、この寺の傍の五百羅漢寺が、大のお気に入りであったので、しばしば訪ねたものである。]

 良淸、あさ、とく、おきて、直(すく[やぶちゃん注:ママ。])に御出入り申すかたへ參り、「夢のつけ[やぶちゃん注:ママ。]」なと[やぶちゃん注:ママ。]申し、さまさま、御わひ[やぶちゃん注:ママ。]申し上け[やぶちゃん注:ママ。]、その女を、もらひ歸へり、我《わが》知音《ちいん》の方《かた》へ、片付《かたづけ》ける。

 そのとしも過《すぎ》て、明年、五月の頃、又々、江戶へ下り、四、五日もありて、不動尊、枕かみに立ち給ひ、

「去年《こぞ》は、存《ぞんじ》もよらぬ善根を、なしたるによつて、汝か[やぶちゃん注:ママ。]わざはひの來たるを、告《つぐ》るなり。明日の夕かた、此所、出火ありて類燒、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]、大火なり。其心得いたして、然るへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、の給ひて、夢、さめたりける。

 今日は、別して、余儀なき事にて、他出《たしゆつ》いたす日なれば、近所の念比《ねんごろ》なる人にも、語りて、道具など、かたつけ[やぶちゃん注:ママ。]させ、我も、その用意して、朝、とくより、出《いで》たりける。

 夕かた、御出入りの御かたの側《そば》に、御咄《おはなし》なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたし居《をり》けるか[やぶちゃん注:ママ。]

「出火。」

のよし、申しける。

 吟味いたせは[やぶちゃん注:ママ。]

「宿所の近所。」

のよし。

 御馬《おんうま》を拜惜して、一さんに歸へりけれと[やぶちゃん注:ママ。]も、最早、あとへん[やぶちゃん注:既にして焼け尽して頃のことを言うか。]にて、宿の近所は、一軒も殘らず、燒《やけ》うせたり。

 夫《それ》ゆへ、荷物ひとつも、燒《やけ》うせす[やぶちゃん注:ママ。]、けか[やぶちゃん注:ママ。]も致さゝり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 近所の者も、夢のはなしを信用せさる[やぶちゃん注:ママ。]ものは、家財をうしなひて、損をいたしけるとなり。

「『仁王三郞』の脇ざし、『金佛の不動尊』、今に、其家に持傳《もちつた》へて、まさしく、手に取りて見たる。」

と語りける。

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「夏の日の戀人」李瑣

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  夏の日の戀人

            日 永 倦 遊 賞

            枕 簞 集 凉 颸

            便 欲 甘 同 夢

            那 堪 日 落 遲

                  李   瑣

 

つれづれの夏の日ねもす

うたたねの枕すずしや

かよへかし夢はかたみに

君來ます夜(よる)をまちがて

 

   *

李  瑣  明朝の妓女。 未詳。

   *

[やぶちゃん注:作者も標題も不詳。二〇一四年八月十日に講談社文芸文庫の佐藤春夫「ほるとがる文」所収の本篇(新字体)を公開した際、二十日後にTwitterで作者について中文サイトの出典を教えて下さった方がおられたのだが、そのお教え頂いたリンク先が当該記事を示してくれない。リンク元データも残しておいた外付けディスク損壊のため、存在していない。万事休す【二〇二三年六月二十四日追記・改稿】、と思ったところが、Twitterでお教え下さった方(過去記事を検索したのだが、どうやっても辿り着けなかったので、Twitter上で公にお願いを掲げたところ、三日後に、その嘗つて教えて下さったご本人の方(「mekerere」氏)から、お返事を頂戴した。『出典は青楼韻語ですね。昔のリンクは忘れましたが、以下のところで見られます』とあって、中文のサイト「臺灣華文電子書庫」の「青樓韻語」(明・張夢徵編輯・沈亞公校訂)の「161」ページ(全体は同書刊本の全画像。無論、繁体字)、及び、やはり中文のサイト「个人图书馆」の「青楼韵语(1-8)」(こちらは簡体字)の二箇所を御教授戴いた。心から御礼申し上げます! Mekerereさま! 向後とも、よろしくお願い申し上げます!

 さて、以下に前者リンク先を参考に、原詩(標題は「子夜夏歌」)と推定訓読を示す。

   *

 子夜夏歌

日永倦遊賞

枕簞集凉颸

便欲甘同夢

那堪日落遲

  子夜夏歌(しやかか)

 日(ひ) 永くして 遊賞(いうしやう)に倦(う)みたり

 枕簞(ちんたん) 凉颸(りやうし)を集(あつ)む

 便(すなは)ち欲(ほつ)す 甘(あまき)同じきひととの夢を

 那(なん)ぞ堪(た)へんや 日の落ちて遲きときを

   *

・「枕簞」瓢箪を磨いて寝枕に加工したものか。

・「凉颸」涼風(すずかぜ)のこと。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二八番 赤子石

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。標題は「あかごいし」と訓じておく。]

 

      一二八番 赤 子 石

 

 昔の話、盛岡の仙北町の邊に仲の惡い嫁姑《よめしうとめ》があつた。この嫁姑が殆ど同時に懷姙すると、姑は嫁のミモチを大層憎んで、其町の長松寺の地藏樣に詣つて、どうかおら方(ホ)の嫁の腹の子を墮(オロ)して下さいと願をかけた。

 地藏樣の靈驗(シルマシ)はひどくアラタカで、嫁子は間もなく流產した。姑は喜んで地藏樣へ御禮詣りに行き、地藏樣シ地藏樣シ嫁の腹の子を墮して下されてありがたうがんした。あゝ尊(タウタ)いと言つて拜んだ。すると自分も急に產氣がついて、さあ、苦しんだが苦しんだが、苦しんだ結果(アゲク)、赤兒に似た赤石を生み落した。

 其赤子石は今でも、長松寺の地藏樣の傍らにある。

  (一二九番同斷の三。)

[やぶちゃん注:「盛岡の仙北町」旧盛岡仙北町域は南北に広い。「ひなたGPS」で示す。

「ミモチ」ここは「妊娠すること」の意。

「長松寺」曹洞宗萬峰山長松寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。創立は不詳。元は浄土宗であったが、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に曹洞宗に改宗している(公式サイトの「沿革」に拠った)。

「地藏」同公式サイトの「什物」に地蔵菩薩坐像の写真があるが、これかどうかは判らない(かなり綺麗で、一見、古い者には見えないため)。

「赤子石」公式サイトには記されておらず、フレーズ検索しても、この話を記載しているネット記事は全く見当たらない。

「一二九番同斷の三」次の話の附記は、「村の今淵小三郞殿の話。昭和元年頃の聽き記。」とある。]

2023/06/20

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「川ぞひの欄によりて」鄭允端

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  川ぞひの欄によりて

            近 水 人 家 小 結 廬

            軒 窗 瀟 灑 勝 幽 居

            凭 欄 忽 聞 漁 榔 響

            知 有 小 船 來 賣 魚

                 鄭 允 端

 

川ぞひの小家のかまヘ

窻ゆかしよき庵よりも

立ちよれば櫓の音ひびき

小船來て魚を買へとぞ

 

   ※

鄭 允 端  十二三世紀。 吳中の施伯人の妻である。 その著を肅雝集といふ。 今は傳はらない。

   ※

[やぶちゃん注:巻末の原作者の解説では、『その著を肅雝集といふ 。今は』(後の字空けが、その分、ない、のである)と誤植しているので、訂した。「肅雝集」「しゆくようしう」或いは「しゆくゆしう」と読む。この「雝」の字は恐らく「鳥の声が和(なご)やかなさま・心地よいさま」の意であろう。しかし、この解説は致命的に誤っている。彼は元代末の女流詩人である(「十二三世紀」では合わない)。「維基文庫」にも彼女のページが存在し、それによれば、字は正淑で、一三二七年に生まれ、一三五六年に数え三十歳で病没している。元代の女性詩人の中で最も多くの詩を残したともある。彼女の五代前の鄭清志は南宋の宰相であった。浙江省殷県出身であるが、呉君(現在の江蘇省蘇州)に移り、蘇州を出身とした。学者の家庭に生まれ、父も兄も儒教の古典を教えており、蘇州では有名な人物であった。彼女は、幼い頃から書道を学んだ。後に同郡出身の施伯と結婚した。彼女の死後、夫は遺作集として施伯仁「肅雍集」(「雍」の字は「雝」と上記の義で通用されるので、「維基文庫」の表記は誤りではない)を編纂している。しかもこの書は、ちゃんと伝わっており、現在、残っている。佐藤の今は傳はらない」も誤りなのである。なお、日本中国学会の「第四十五回大会要項」(一九九四年十月発行・PDF)の小林徹行氏の論文「元の閨秀詩人鄭允端の文学―特に女訓的な詩を中心にして」のレジュメによれば、『元末に平江(現在の江蘇省蘇州)に居を構えていた施伯仁の妻で、短命であったにも拘らず、意欲的に古詩や近体詩に取組み、独自の見解と作風とを世に問うた女流詩人の一人と言える』と述べておられる。

 なお、本詩の標題は「中國哲學書電子化計劃」の「元詩選」のここによって、「水檻」であることが判った。

・「欄」は「おばしま」と読みたい。

・「瀟灑」(せうしや(しょうしゃ))まずは「さわやかなさま・さっぱりとしてきれいなさま」を言い、また、「俗っ気がなく淡泊なさま・あっさりとして物に拘らないさま」をも言う。両意を含んでよかろう。

・「漁榔」「榔」は音「ラウ(ロウ)」。狭義にはヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の一種を指すが、国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここの解説によれば、「肅雝集」所収の本篇では『「鳴榔響」に作る。「鳴榔」は「鳴桹」に通じ、船べりを桹(長い木の棒)で鳴らして魚を驚かし、網の中へ追い立てる漁猟をいう。「漁榔」も同義。』(中略)『「桹」は『説文解字』に「桹、高木也」とあり、』(中略)『一般に背の高い木・長い棒の意である』とあった。

 以下、推定訓読を示す。

   *

 水の檻(おり)

水に近き人家あり 小さく 廬(いほり)を結ぶ

軒の窗(まど) 瀟灑(せいしや)にして 幽居するに勝(まさ)れり

欄(おばしま)に凭(もた)るれば 忽(たちま)ち聞く 榔(らう)もて漁(すなど)るの響きを

知れる小船の有りて 來たり 魚を賣る

   *]

「新說百物語」巻之四 「火炎婆々といふ亡者の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、本篇には挿絵があるが(底本では、またまたおかしなことに次の「巻之五」の中のここにある)、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

    火炎婆々(くはえんばゝ[やぶちゃん注:ママ。])といふ亡者の事

 北国《ほつこく》に何寺とかやいふ一寺、あり。

 その旦那に、角山何某といふものあり。

 其母親、つねつね、けんどん[やぶちゃん注:「慳貪」。吝嗇で欲張りなこと。]邪見にて、六十にあまれ共《ども》、浮世といふ事も、おそれす[やぶちゃん注:ママ。]、慈悲・善根も、なさず、欲、ふかく、わづかづゝの銀《かね》を溜《ため》る事をのみ、一生、樂しみにいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるとき、語りけるは、

「昨夜、ふしきなる[やぶちゃん注:ママ。]夢を見て、今に、身うち、いたみ、起きあがられず。」と申しける。

「其夢の樣子は、死したるとも、おもはさりけるか[やぶちゃん注:総てママ。]、正しく繪にかきたる地こく[やぶちゃん注:ママ。]といふ樣《やう》なる所に、いたりたれは[やぶちゃん注:ママ。]、鬼共、蛇[やぶちゃん注:ママ。「続百物語怪談集成」もこの字で起こしている。意味不明。「何」の字の誤刻か。]ともいはれぬ、おそろしきものきて、我を、ひつたてける故、其時、はしめて[やぶちゃん注:ママ。]仏《ほとけ》の事をおもひ出し、

『南無、最上寺の阿みた如來[やぶちゃん注:ママ。]、たすけ給へ。』

と申しければ、彼《か》の、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]もの、いふやう、

『何ほと[やぶちゃん注:ママ。]、佛を念しても[やぶちゃん注:ママ。]、汝か[やぶちゃん注:ママ。]罪、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]おもし。せめて、とんよくのつみを、輕くして、得させん。』

とて、舌をぬけは[やぶちゃん注:ママ。]、金子《きんす》と成り、目を、くちれは[やぶちゃん注:総てママ。「くぢれば」。抉(えぐ)り出せば。]、銀子《ぎんす》となり、ひらたき板にて、兩方より、はさみ、おしつけらるれは[やぶちゃん注:ママ。]、惣身《そうみ/そうしん》より、

『はらはら』

と、金銀、落ちちりたり。其くるしみ、いかはかり[やぶちゃん注:ママ。]にや、たとへんに、もの、なし。扨々《さてさて》、あみた如來[やぶちゃん注:ママ。]を信じける、と、おもへば、夢、さめたり。」

と、はなしを、いたすさへ、身を、ふるはしける。

 夫《それ》より、病(やみ

つきて、食《しよく》も喰はす[やぶちゃん注:ママ。]、日夜、

「最上寺へ、行かふ、行かふ[やぶちゃん注:総てママ。後半は底本では踊り字「〱」。]、」

と、はかり[やぶちゃん注:ママ。]、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、西の方の窓を、あけて、顏を、つき出し、相果《あひはて》たり。

 


Kaenbaba

 

[やぶちゃん注:キャプションは、右幅の中央右寄りに、

最上寺へ

  ゆかふ

縁から落ちる寺僧の叫び声、

  たすけ給へ

   なむあみだ

      なむあみだ[やぶちゃん注:この行は画像では踊り字「〱」。]

左幅の寺僧二人の顏を向けている一人の台詞(但し、これは本文に即すなら、納所坊主一人が体験したものだから、この両幅の三人分は、実は一人の、その僧のダブった表現かも知れないが、左幅から右へ時間が経過するというのは、絵(巻物)のセオリーからは外れるので、禁じ手である。奥の僧は上着を有意にたくし上げているのに対し、手前の後頭部の僧はそうなっていないから、本文とは異なり、ここは、別々な三人が騒動していると見るべきであろう)。

やれ

 おそ

ろしや

  おそろしや[やぶちゃん注:この行は画像では踊り字「〱」。]

後頭部のみを見せている一人の台詞、

   なふ[やぶちゃん注:感動詞「なう」の音転訛「のう」の慣用表現。]

    かな

     しや

左幅の上部に、鬼に板と石の間で圧し潰されて責められる老婆の夢を描いた箇所に、右手に、鬼の台詞で、

何かと

仏を

ねんじ

  ても

 

  かなはぬ

    ぞ

とあり、左手の鬼の左上には、本文の鬼の台詞の最後の、

せめても

 とんよくの

  つみをかろく

     して

     ゑ[やぶちゃん注:ママ。「え」。「得」。]]させん

と記されてある。その左の鬼の右足の下に、老婆の絶叫が、

    あら

     くるし

        や

と記されてある。]

 

 其夜、最上寺の納所坊《なつしよばう》、御堂《みだう》に、みあかし、とぼしに、行きければ、何やらん、ひかし[やぶちゃん注:ママ。]の方《かた》より、火炎のごとくなるもの、飛來《とびきた》り、堂の庭に、とゝまる[やぶちゃん注:ママ。]と、見へけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其中に、白髮の老女の首、火のことく[やぶちゃん注:ママ。]に成りて、口より、火炎を、はきけるまゝ、納所坊は、

「わつ。」

と、いふて、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

「しばらくありて、老女、死したるやうす、最上寺へ、申し來たりける。」

と、栂井《とがゐ》氏の人、かたられし。

[やぶちゃん注:最初に「何寺」と伏せてあるのに、後から、「最上寺」と出るのは、調べるだけ無駄な気がしたのだが、一応、北陸・東北を調べたところ、山形県山形市内に高野山真言宗の同名の寺は見つけたものの(少し北方に最上川が流れる)、ストリートビューで見ると、寺の標柱はあるものの、普通の住宅で、寺としてはどうも閉業しているらしく、寺歴も読みも判らないので、違っていたら御迷惑になるだけなので、地図は示さない。

「納所坊」納所坊主。寺院の会計や雑務を扱う下級の僧。]

「新說百物語」巻之四 「長命の女の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   長命の女の事

 京都四条に檜皮《ひはだ》やあり。

 近江のものにて、京へ、奉公に出、年季、首尾よく、相《あひ》つとめ、宿這入(やとはいり[やぶちゃん注:総てママ。])しける。

[やぶちゃん注:「宿這入」「やどはいり・やどばいり」で、奉公人が暖簾を分けて貰い、独立することを言う。]

 其親は、近江にありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、六十歲の時に、五十歲になる女房を、むかへ、女房五十四歲にて、初產をいたし、此檜皮屋を產み、夫《それ》より、段々と、十人の子を、もふけ[やぶちゃん注:ママ。「まうける」が正しい。]ける。

 寶曆十二の年[やぶちゃん注:一七六二年。徳川家治の治世。]、此惣領の檜皮や、八十四歲なり。

 父は、相はて、母は、百三拾七歲にて、存命なるが、六十歲ばかりに見えけるよし。

[やぶちゃん注:年齢は、ちょっと信じ難い。]

「新說百物語」巻之四 「牛渡馬渡といふ名字の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、標題及び本文中の、「牛渡(うつたり)」、及び、「馬渡(まふたり)」の読みは、ママである。]

 

    牛渡(うつたり)馬渡(まふたり)といふ名字の事

 天正の比《ころ》のよし。[やぶちゃん注:一五七三年から一五九二年までで、天正は二十年で終わる。]

 東国に小右衞門・新左衞門といふ百姓、弐人《ふたり》あり。つねつね[やぶちゃん注:ママ。]、隣家のことにて、他人ながらも念比《ねんごろ》にいたしあひて、田畠へ行くにも、さそひ合ひて出行《いでゆき》ける。

 その頃は、いまた[やぶちゃん注:ママ。]、世間も、さはかしく[やぶちゃん注:ママ。]ありけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、片田舍の心やすさは、やはり、耕作もいたしける。ひとゝせ、羽柴氏の大將、急に、かたきの城へ取《とり》かけ給ふに、折ふし、五月の事にて、河水、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]出《いで》て、なんき[やぶちゃん注:ママ。「難儀」。]なりけるを、彼《か》の大將、河はたに座《ま》して、家中、殘らす[やぶちゃん注:ママ。]、河を越させ、壱人、跡にのこりておはせしか[やぶちゃん注:ママ。]、段々、水かさ、勝(まさ)りて、もはや、いかなる水練にても、越へかたくみへ[やぶちゃん注:総てママ。]ける。

 所の百姓を呼《よび》て、尋ねられけるか[やぶちゃん注:ママ。]、小右衞門と、新左衞門と、まかり出《いで》て、

「私とも[やぶちゃん注:ママ。]御渡し申上《まうしあぐ》へし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、小右衞門は、馬をひき來《きた》り、新左衞門は、牛をひき來りて、大將の馬の兩脇に、ひきつけ、二人は御馬《おんうま》の口を取りて、難なく、彼の大將を、河を越させたり。

 其軍《いくさ》、ほとなく[やぶちゃん注:ママ。]、勝利にて、凱陣(かいぢん[やぶちゃん注:ママ。])の折《をり》に、すく[やぶちゃん注:ママ。]に召出《めしいだ》され、

「牛渡(うつたり)新左衞門。」

「馬渡(まふたり)小右衞門。」

と名つけ[やぶちゃん注:ママ。]給ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]、今も、兩家ともに、さる御家中に、是、あるよし。

[やぶちゃん注:「牛渡(うつたり)馬渡(まふたり)」以上のような、こういう事実があったかどうかは判らない。少なくとも、ネット上には存在しないようだ。話としては、あってもおかしくはない気はするが、秀吉一人が残されるというのは、ちょっと嘘臭い。事実なら、地名や河川名が示されて当然であろう。但し、この二つの姓が実際に現在もある。サイト「名字由来net」の「牛渡」には、「うしわた」・「うしわたり」・「うしど」・「うしと」の読みが挙げられ、全国でこの漢字姓を持つ人数を、凡そ八百三十人としており、『名字の由来解説』には、『福島県浪江町がルーツ。福島県、宮城県、北海道にみられる。牛が渡れるような浅い小川が語源』とある。同じサイトの「馬渡」には、「もうたい」・「まわたり」・「うまわたり」・「まわた」「まわたし」「もうたり」「うまと」「うまなべ」「うまわた」「うまわたなり」「ばわたり」「ばと」の読みを挙げ、全国でこの姓を持つ人数は、凡そ六千五百人とする。『名字の由来解説』には、現在の『佐賀県と長崎県である肥前国松浦郡馬渡島』(まだらしま:佐賀県唐津市鎮西町馬渡島:グーグル・マップ・データ))『の豪族は坂上氏ともいわれる。現滋賀県である近江、現福岡県南部である筑後、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵などにみられる。語源は、馬に乗らなければ渡れないような川や湿地からきている。地名には、茨城、兵庫などに存在』するとある。

「羽柴氏の大將」秀吉が「木下」から「羽柴」に改めたのは、元亀四年七月二十日その八日後の七月二十八日(ユリウス暦一五七三年八月二十五日)に天正元年に改元している。而して「羽柴」から「豊臣」に代わるのは天正一四(一五八六)年である。問題は、ロケーションを「東国」としている点で、京都では大津から東は東国と呼称する習慣もあるのだが、ここで彼を「大將」と呼んでおり、彼一人が川中に残されるというシークエンスから、彼が政治実権を握る折りよりも前であり、最もそれらしい、彼が「大将」=正式な「武将」として参戦した合戦としては、天正三年五月二十一日(当時のユリウス暦で一五七五年六月二十九日。グレゴリオ暦換算で一五七五年七月九日)、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)を巡って織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の軍勢が激突した、かの「長篠の戦い」である。本文でも「折ふし、五月の事にて」と言っており、梅雨時で「洪水」とも親和性がある。

「新說百物語」巻之四 「鼡金子を喰ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

     《ねずみ》金子《きんす》を喰《くら》ひし事

 近頃の事にてありし。

 濃州の一村に、やうやう、三百軒はかり[やぶちゃん注:ママ。]の所あり。

 その村に、中尾氏の人あり。一村の内にて、壱人《ひとり》の身上にて、米・酒を、うり、一村の田畑、その外、衣類等まで質物《しちもの》なども取りて、何代とも知れす[やぶちゃん注:ママ。]、つゝき[やぶちゃん注:ママ。]たる家、あり。

 ある時、その隣(となり)の下百姓《したびやくしやう》[やぶちゃん注:小作の百姓。]の女子《むすねご》の七才はかり[やぶちゃん注:ママ。]なるもの、うらの藪にて、金一步《ぶ》、拾ひたりけるを、親に見せければ、悦《よろこ》ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、

「盆(ぼん)かたびらを、かふて、着すべし。」

と、隣の彼《か》の冨家《ふけ》へ持行《もちゆ》き、

「錢と、兩がへして給はるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しける。

 亭主、うけ取りて、よくよくみれは[やぶちゃん注:ママ。]、其一步、慶長金《けいちやうきん》にて、鼡の喰ひし齒形(はかた[やぶちゃん注:ママ。])あり。その通りを、かの者に、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]きかせ、鳥目《てうもく》八百文に買取《かひとり》ける。

 百姓、おゝき[やぶちゃん注:ママ。]に、よろこひ[やぶちゃん注:ママ。]、歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、そのゝち、又々、その娘、小判一兩、ひろい[やぶちゃん注:ママ。]、歸りける。

 其事、近所に、かくれなく、其あたりを尋ねけれは[やぶちゃん注:ママ。]、或は、一兩、又は、一步宛《づつ》、ひろいけるもの、二、三十人ほどあり。

 およそ、金子七八十兩に、なりぬ。

 そのまゝにても、おかれず、代官所へ、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]けれは[やぶちゃん注:ママ。]、御吟味の上、壱步にても、鼡の齒かたの、いらぬは、なかりける。

 段々、吟味いたしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、中尾氏の土藏の、四、五間、脇より、鼡穴ありて引出したる金子なり。

 予も、その一步を、見侍りしか[やぶちゃん注:ママ。]、成程、ねつみ[やぶちゃん注:ママ。]の齒形、ありける。

[やぶちゃん注:実話談。

「慶長金」江戸初期、慶長六(一六〇一)年から江戸幕府が発行し、全国に流通した金貨、慶長大判・慶長小判・慶長一分(ぶ)金の総称。孰れも、後代のものに比較して、良質であったが、元禄の貨幣改鋳(元禄八年八月七日(一六九五年九月十四日))によって回収され、改悪された。本書の刊行は明和四(一七六七)年。]

「新說百物語」巻之四 「何國よりとも知らぬ鳥追來る事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   何國《いづこ》よりとも知らぬ鳥追《とりおひ》《きた》る事

 京四条あたりに、むかしより、大晦日の夜、鳥追ひのおもらひ來る家あり。

「遣はす物とては、たゞ、餠、壱重《いちぢゆう》、鳥目《てうもく》二十文なり。此一軒を目あてに、むかしより來る事、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なり。又、鳥追ひの在所も、聞きたる事も、なし。每年、弐人《ふたり》、大晦日の夜、八つ時[やぶちゃん注:午前二時頃。]に來るなり。ある年、普請いたして、店作りを、格子に作りかへける。そのとしより、不通に、きたらず。我が家のあるし[やぶちゃん注:ママ。] 、六十年は覚へて居《をり》侍る。その前は、いつより來るといふ事を、しらす[やぶちゃん注:ママ。] 。近所にて、いにしへより、「長者の屋しきあと」ゝいゝ[やぶちゃん注:ママ。]ならはせり。その鳥追ひのうたふ事は、目出度《めでたき》事はかり[やぶちゃん注:ママ。] いゝならへて、一時はあかり[やぶちゃん注:ママ。] 、うたひたる。」

よし。

[やぶちゃん注:これは実話と考えて間違いあるまい。話柄の殆んどが、その屋敷(何ならかの店(たな)持ちの商人)の関係者である普通の町人の直接話法(「我が家のあるじ」)というのも、怪奇談物では、特異点と言える。

「鳥追い」小正月の予祝行事及一種の芸能者。前者は、秋の収穫時には、雀・鷺・鴉などに作物を荒らされることが多いが、年初に害鳥を追い払う呪術的な行事をしておけば、その効果が秋にまで持続するという考えに基づく。子供たちが、手に手に「鳥追い棒」と称する棒切れや杓子(しゃくし)を持って、打ち鳴らし、「朝鳥ほいほい、夕鳥ほいほい、……物を食う鳥は、頭割って塩つけて、佐渡が島へ追うてやれ」などの歌を歌いながら、田畑などを囃して回る。大人も参加して家ごとにするもの、子供仲間が集まって家々を訪問して歩くもの、「鳥追い小屋」と称する小屋に籠るものなどの異なった形式があり、信越地方から関東・東北にかけて広く分布する年中行事である。近世には三味線の伴奏で門付をしながら、踊る者が現れ、これも「鳥追い」という。ここはそれで、正月元日から中旬まで、粋な編笠に縞の着物、水色の脚絆に日和下駄の二人連れの女が、艶歌を三味線の伴奏で門付をした。中旬以後は菅笠に変え、「女太夫」(おんなだゆう)と称したともされる。京都悲田院に住む与次郎の始めたものと言い伝えるが、京坂では早く絶え(これが或いは本話で来なくなったことと関係するのかも知れない。本書の刊行は明和四(一七六七)年で江戸中期後半である)、江戸では明治初年まであった(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「池のほとりなる竹」張文姬

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  池のほとりなる竹

            此 君 臨 此 池

            枝 低 水 相 近

            碧 色 綠 波 中

            日 日 流 不 盡

                  張 文 姬

 

池にのぞめるくれ竹や

枝は水の面にしだれつつ

みどりは日日に池水の

波にそそぎてつきもせず

 

[やぶちゃん注:作者張文姬は前回分を参照されたい。標題は中文サイトを調べたところ、「池上竹」であることが判った。以下、推定訓読を示す。

   *

 池の上(ほとり)の竹

此の君 此の池に臨める

枝(えだ) 低くして 水 相ひ近し

碧(みどり)の色 綠波の中(うち)

日日(ひび)流れて 盡きず

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二七番 土喰婆

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。標題は「つちくひばば」と訓じておく。]

 

      一二七番 土 喰 婆

 

 昔、野中に一軒の百姓家があつた。其家には老母と息子とが居て、息子は每日外へ出て働いては老母を養つてゐた。

 或年大阪に戰爭があつて、息子はそれに召出されて行つたので、年寄一人が殘つてしまつた。息子は何年たつても還つて來なかつた。村の人達も初めのうちは氣にも止めずに居たが、何年經つても婆樣が食物を求める風がないので、如何《どう》して居ることかと思つて行つてみると、其老婆は土を喰つて生きて居た。

 それで婆樣の死んだ所へ御堂を建てゝバクチと呼んで地神樣に祀つた。現在も栗橋村字太田林、前ケ口の畠中の大きなモロノ樹の根下に其祠がある。

  (昭和三年の冬頃、菊池一雄氏御報告の一三。)

[やぶちゃん注:「大阪に戰爭があつて」慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」或いは翌年の「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)か。

「土を喰つて生きて居た」これはもし、本当に食べられる土であるとするなら、恐らく、長野県小諸市で天然記念物に指定されている「テングノムギメシ(天狗の麦飯)」の類と似たような、土ではなくて、藻類の塊りなのではないかと私は思う。詳しくは、「諸國里人談卷之三 土饅頭」の私の注の冒頭を参照されたい。

「栗橋村字太田林、前ケ口」「栗橋村」は岩手県の旧上閉伊郡にあった村で、現在の釜石市栗林町及び橋野町に相当する。「太田林」は「ひなたGPS」のこちらで戦前の地図と国土地理院図の双方で確認出来る。橋野町太田林。グーグル・マップ・データ航空写真でこの附近だが、「前ケ口」は不詳。「祠」も現存するかどうかは、確認出来ない。

「モロノ樹」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ Juniperus rigida の異名。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「伊勢神宮の子良」 / パート「一」~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○伊勢神宮の子良(第三號一五○頁)「松屋筆記」卷六八に云ふ、『「參宮記」に、大物忌子良殿《おおものいみこらどの》、大物忌子良、此殿《でん》に候《こう》す。「儀式帳」に、物忌、並《ならび》に、小内人《こうちんど》の宿館、と載《のせ》たり。其一宇なるべし。垣も有《あり》けるに、今は絕《たえ》て無し。「中右記」には、子良宿屋、とあり。今、俗、神樂殿と云《いふ》。子良は、荒木田姓の女子を撰取《えらびとり》て勤めしむる也。古《いにしへ》は、童女、數多《あまた》有し故に「子等《こら》」と稱せり。子等を助くる人を、父等《ちちら》・母等《ははら》と云《いふ》。「親子」の謂《いひ》ならず、「介抱」の謂也。』。註に『「大神宮儀式帳」に、物忌《ものいみ》十三人、物忌父十三人云々、按ずるに、大神宮の物忌九人、管四宮《くわんしのみや》の物忌四人にて、十三人なり。物忌は、童女なれば、其父と同居して勤仕《きんし》せり。故に、物忌父、はた、十三人有る也』云々。又、卷八二に云《いは》く、『物忌は「神宮雜例集」一の供奉始の事の條に、大同二年二月十日、大神宮司二宮禰宜等本記十四箇條内、朝夕御饌條云、皇大神宮倭姬命戴奉五十鈴宮入坐鎭給時大若子命大神主定給其女子兄比女物忌定給云々 大神主仕奉氏人等、以女子未婚物忌止爲令供奉云々〔大同二年二月十日、大神宮司二宮(にのみや)禰宜等(とう)本記十四箇條の内、「朝夕の御饌」の條に云はく、『皇大神宮、倭姬命(やまとひめのみこと)を戴き奉りて、五十鈴宮(いすずのみや)に入坐(いりま)せしむ。坐(ま)し鎭(しづ)まり給ふ時に、大若子命(おほわこのみこと)を大神主(だいかんぬし)と定め給ひて、其の女子(むすめ)の兄(あに)、比女(ひめ)を物忌に定め給ふ』云々〕抔、見えたるにて、知るべし。』。

 熊楠按ずるに、「太神宮諸雜事記」一、神龜六年二月、天皇、俄かに不豫で、卜食《うらなはしめ》られると、太神宮に死觸不淨《ししよくふじやう》の咎《とが》有《あつ》ての祟りと分り、三月十三日、物忌子等[やぶちゃん注:「選集」では、この四字に傍点「﹅」を打つ。]、怠狀《たいじやう》を進《まゐら》す。「神宮雜例集」一、崇德帝御宇、大治三年、「御井社《みゐの》蛇直《なほ》ル事」の條に、當日、三人の物忌子良云々とあるを見ると、「物忌子等」を「子良」と書出《かきだ》したのは、餘り、後世の事で無い。

[やぶちゃん注:「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆。全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えたもの。その採録語句は約一万にも及び、国語学・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊で視認出来るが、熊楠は、前後を入れ替えており(「註に」とわざわざ書いているので、或いは熊楠の見たものは、そうなっていたのかも知れない)、『「參宮記」に、大物忌子良殿、……「介抱」の謂也』の箇所はここ(右ページ下段後ろから七行目以下)で、『「大神宮儀式帳」に、……はた、十三人有る也』の部分は、その前のページのここ(左ページ上段二行目の『(十二)』の下方から。但し、一部が違う。なお、前の部分は、その続きである。)である。

「卷八二に云く、『物忌は……」前掲書のここ(左ページ下段四行目以降。標題は『(二)菅裁物忌』(本文中で「スカタチモノイミ」と振っており、その名の解説も頭の方にあるので参照されたい)の終りの部分)。なお、この引用中の「云々」は熊楠のものではなく、原書のものであるので、注意されたい。

「怠狀」自分らの過失を詫びる旨を書いて、人に渡す文書。]

 男子よりも、女子が、多く祭事を司《つかさど》る例は、本邦と殆ど緣なき地にも有る。ワーナーの「英領中央亞非利加」(一九〇六年板)一四九頁抔見るべし。伊勢大廟は女神を主として祀る故、齋内親王《さいないしんわう》は勿論、物忌迄も、童女を正とし、男子の物忌父を副としたのだろ[やぶちゃん注:ママ。熊楠の癖。]。昔し、ローマの不斷火廟《アトリウム・ヴエスタエ》は、全國民の崇敬最も厚かりし事、伊勢大廟に等しく、六人の事火素女《ヴエルギネース・ヴエスタレーズ》が奉仕したのも、ほぼ子良に似ておる。是等の素女《きむすめ》は、良家の娘で、些《いささか》の瑕《とが》なく、父母兩《ふたり》ながら存し、齡《とし》は、六から拾《じゆう》迄の者の内より選拔され、三十年間、首尾よく勤めたら、退職して婚家するを聽《ゆる》されたが、實際、左樣《さう》する者は稀だつた(セイッフェルト「希﨟羅馬考古辭典」一九〇八年英譯、六八七頁)。フレザーの「アドニス篇」(一九〇七年板)に、事火素女は、選立の當時、兩親とも存在する者を要したが、既に立《たつ》た後に親が死《しん》でも構はなんだと見えて、多くは、一生、退職し無《なか》つた、とへり。予は日本の大廟と羅馬の不斷火廟に、相互の連絡系緣が有た抔とは、少しも思はぬが、凡て、似たことは、似た成行《なりゆき》を生ずるといふ槪則《がいそく》から、雙方を合攷《あはせかんがへ》ると、伊勢の物忌子良も、最初は雙親生存する童女の内より選拔し、便《すなは》ち、其父を物忌父と稱へて介副《かいぞへ》としたが、後には、種々の故障を慮《おもんぱか》り、親族、又、他人でも、然るべき人を物忌父とする事と成たので有らう。又、相應の年期を、滯りなく勤めた子等は、退職して結婚をもしたんだらう。〔(增)一九一一年板、ロスコーの「バガンダ人誌」上、七五―六頁によれば、バガンダ人の神社にも數多《あまた》の事火素女有て、晝夜、神火の消《きえ》ざる樣、世話やき、男子に親しむを、避けた。孰れも、神の申し子で、子なき親が、「子を授け玉はば、神に奉仕して怠る勿《なか》らしむべし。」と誓うて後ち、生まれた者だ。乳離れした時、社《やしろ》に入つて、月經、到《いた》る迄、勤め、月經、到る時は、神が、其夫を撰んで、「誰某《だれがし》に嫁すべし。」と託宣した。〕戰國時代に、僧侶が伊勢の神境に入り、神佛混淆を生じた次第は、眞田增譽の「明良洪範」二一や、池田晃淵《くわうえん》氏の「德川幕府時代史」第五章に見ゆ。

[やぶちゃん注:「池田晃淵」(生没年未詳)元松前藩出身。東京大学史料編纂掛であったらしい。日本史(近世)学者。山川健次郎の依頼を受けて、「京都守護職始末」を完成させている。]

 序でに云ふ、「和漢三才圖會」卷七七、丹後竹野郡竹野村竹野社、祭神如伊勢兩宮、里民所謂齋宮是也、當國熊野郡市場村人、如產ㇾ女則曁四五歲齋宮、以奉仕神、雖深夜獨坐、無敢怖畏、至ㇾ見月水、忽出大蛇逐之、因不ㇾ得ㇾ居、自ㇾ此還二已家、與新女相互交代也。〔丹後の竹野(たかの)郡竹野村に竹野社(たかののしや)あり。祭神は伊勢兩宮のごとし。里民、所謂、「齋宮(いつきのみや)」は是れなり。當國、熊野郡市場村の人、若(も)し、女を產めば、則ち、四、五歲に曁(およ)んで「齋宮」と爲(な)し、以つて、神に奉仕す。深夜、獨り坐(ま)すと雖も、敢へて怖-畏(おそ)るること無し。月水(げつすい)を見るに至れば、忽ち、大蛇、出でて、之れを逐ふ。因りて、居(を)ることを得ず。此れより、己(おのれ)が家に還り、新しき女と相ひに交代す。〕弘安九年、勢州阿濃津稱念寺僧沙門の「大神宮參詣記」に云《いふ》、『扨も、「齋宮は皇太神宮の后宮《きさきのみや》に准《なぞら》へ給《たまひ》て、夜々、御通ひ有《あ》るによつて、齋宮の御衾《おんふすま》の下には、晨《あした》每《ごと》に、蛇の入《はい》る心地侍る。」など申す人、有り。本託、覺束無く侍り。」と。實《まこと》に、極《きはめ》》て覺束ない說ぢや。

[やぶちゃん注:「竹野社」現在の京都府京丹後市丹後町(たんごちょう)宮(みや:グーグル・マップ・データ)にある竹野(たかの)神社。以上の「和漢三才圖會」の引用は、所持する原本で校合した。

「市場村」現在の京丹波市久美浜町のこの附近(「ひなたGPS」の戦前の地図の方で「市場」の地名が現認出来る)。

『弘安九年』(一二八六年)「勢州阿濃津稱念寺」(現在の三重県津市高茶屋にある浄土宗寺院:グーグル・マップ・データ)「僧沙門の「大神宮參詣記」に云、……』だが、僧侶の書いたこの批判は、話半分に受けておいた方がよい。、伊勢神宮では、僧侶は人の死を扱う穢(けが)れの存在と見做され、僧侶専用の参拝道と遥拝所が設けられており、伊勢神宮の正殿境内域には立ち入ること自体が厳しく禁止されていたからである。西行も芭蕉も正殿を参詣しておらず、その遥拝所から遠く眺めただけなのである。この僧も然りで、謂わば、そうした仕打ちに対する不満が、この最後の、「本託、覺束無く侍り」辺りには、濃厚に漂っていると私は読むからである。]

 但し、蛇を神と崇むる風は、古來、諸國に多く、露西亞抔も、昔しは、家每に、一隅に蛇を安置し、日々、食を與《あた》へしを、ボヘミヤより、聖僧、來り、基督敎を弘めて、悉く、其蛇を殺した(一八五八年、パリ板、ツヴェ「莫士科坤輿誌《コスモグラフイーモスコヴイト》」八六頁)。伊太利には、十五世紀にすら、アツペンニヌス山の神巫洞《カヴエルナ・デラ・シビラ》に、美女巫、棲む。洞に入つて、仙術を學ばんと欲する者、先づ、神蛇と交はるを要す。扨、洞に入れば、仙女《フエー》が、蛇・蜥蜴《とかげ》・鰐等に化して、人と歡樂す、と信ぜられた(アルベルチ「伊太利全誌《デスクリチヨン・ジ・ツツタ・イタリア》」一五五〇年板、二四八葉)。印度には、今日も、蛇を神とする者、多く、クルックが十七年前の調査を見ると、西北諸州ばかりで、拜蛇宗徒が、拾八萬三千人も有る。「大英類典」一一板二十四卷「蛇類崇拜」の條に、印度、ベハールに、蛇の妻と名《なづ》くる女群《ぢよぐん》有る事や、マラバルで、極《きはめ》て貞淨な婦女に限《かぎつ》て、蛇神の託宣を傳へうること、西アフリカのダホメイ國に近時まで大蛇《おろち》を無上の大神とし、數多《あまた》の婦女を、妻とし、捧ぐる等の例、多く載せ有り。斯《かか》る崇拜の源因は、中々、込入《こみいつ》たもので、一寸、確言し難い樣な言《こと》を陳《のべ》て居るが、フレザーの「アドニス」篇に據れば、先《まづ》は、蛇は、特に靈妙な動作が多い所から、人間の祖先が、死後、蛇に乘り移る、と信じて、崇拜に及んだ者が一番多いらしい。

[やぶちゃん注:書名その他の外来語カタカナ読み表記は総て「選集」に拠った。]

 扨、予、未見の書で、「類聚名物考」二八八卷に引《ひけ》る「謌林拾葉集」九に、『巨勢郞女「玉葛《たまかづら》花のみ咲きてならず有《あら》ば誰《た》が戀に有《あら》めわが戀思ふを」。「祕抄」に云《いはく》、『「玉葛」は、總て、葛の屬《ぞく》を美(ほめ)て云ふ詞也。「葛には實《み》のならぬ」には非ず、「未だ實の生らぬ」と云ふ心也。「實生らぬ」とは、「逢《あひ》ても實事なき」ことを云ふ也。「玉葛」は「女」に喩《たとへ》て云ふ。又、萬葉歌に「玉葛實《みの》らぬ木には千早振《ちはやぶる》神ぞ附くてふ實らぬ木には」とも詠《よめ》り。此歌は、女の獨身にてあるを、云《いへ》り。女の壯《さう》にして獨《ひとり》有るは、神に領せらると云《いふ》心也。其《その》如く、我《われ》思ふ女の、我に靡かぬは、神の附くが如し。去《され》ば、吾《われ》戀しく思ふ心が、鬼魅の如くに、先の女に附《つき》てこそ有れと云心也。去《さる》に依《より》て、誰《たが》戀に有ぬ我戀思ふを、と云《いへ》る心なるべし。』と。壯齡の女、獨身住居すれば、神に領せらるゝと信じたのは、神に奉仕する女は、未婚淸淨の者に限つたからだらう。去ば、吾國にも、或地方には、神が蛇に乘り移つて、幼女巫の童身を護ると、最《いと》古く、信じ、其から訛つて「參詣記」に載《のせ》た樣な僻說《へきせつ》[やぶちゃん注:道理に合わない説。]をも生じたのかと思ふ。

[やぶちゃん注:「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ下段)にある(「和歌部二」の一条)。]

 又、無害な蛇や、仮令《たとひ》有害でも、親しみ狎《なれ》た人に、害をなさぬ蛇を「神」とするに對して、有害、瞋《おこ》りやすき蛇を、「魔」とするは、自然の成行《なりゆき》だ。因て、古波斯《ペルシア》・ヘブリウ[やぶちゃん注:「ユダヤ」。]・基督・囘々の諸敎、皆な、蛇を「天魔」とし居《を》る(コックス「民俗學入門」一八九五年坂、一七七頁)。フヲロング「比較宗敎學短論」一八九七年板、一九一頁)に言《いは》く、『人を惡に導く魔を、老蛇とするは、古波斯の敎《をしへ》にあり、ヘブリウと基督敎の「創世記」に、爾《しか》く明言せざるに、其徒、古波斯敎の說を沿襲《えんしふ》[やぶちゃん注:昔から行なってきた習慣、及び、それに従うことを言う。]して魔を蛇とす。』と。予、幼年の頃、故島地默雷師、「聖書」に、魔、先づ、女人を惑はし、其夫に勸めて、俱に禁果を食はしめて、樂園より逐墮《おひおと》さると有るを解《とい》て、女人、先づ、成女期、至り、男子を誘うて、交媾を遂げたことだ、と言《いは》れたと記憶するが、其時代に取《とつ》て、中々、卓見だつたと思ふ。扨、女人の成女期、乃《すなは》ち、初めて魔に誘はるゝ時は、月經、初《はじめ》て到る時だから、月經を魔の所行《しよぎやう》とし、延《ひい》て、魔に緣ある蛇の所爲《せい》としたのだろ。八月の『人性』に、鵜飼祐一氏が、ユリスの「性慾心理學」を引いて、數多の例を擧《あげ》た。ボリビアのチリグヮノス族は、月經を、蛇の仕業とし、月經が始まると、其娘を傷つけた蛇を搜す爲に、老女が棒を持《もつ》て附近を走り廻り、ポルトガル地方では、月經間《げつけいのあひだ》は蜥蜴に嚙まると信ぜられ、其を避けんと、婦人は、月經期間は股引《ももひき》を着用する等ぢや。『東京人類學會雜誌』二六〇號に、米澤安立君が、越中國の一地方に、女子、十四、五歲に成ると、小蛇、來て、其胸中に棲み、同時に血の池を生じ、其血が、月々に、流れ下るが、月水だ云々、と云ふ至極面白き里傳を載せられ、同誌二七〇號に、予、「富士の人穴草紙」に「女の思ふ事は惡業より外は心に持《もた》ぬ者也、業《ごふ》の蟲の泣く淚積もりて月の障りとなるなり」とあるを、引た。此通り、吾邦にも、月經を「蛇蟲の所爲《しわざ》」としたる傳說が有る。

[やぶちゃん注:「島地默雷」(しまじもくらい 天保九(一八三八)年~ 明治四四(一九一一)年)は浄土真宗本願寺派の僧。西本願寺の執行長を務め、西本願寺に於ける「維新の三傑」と称される名僧。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「『東京人類學會雜誌』二六〇號に、米澤安立君が、越中國の一地方に、女子、十四、五歲に成ると、……」サイト「J-STAGE」のこちらで、原雑誌(明治四〇(一九〇七)年十一月発行)の初出論考「婦人の月経に關する迷信と涅齒」(「涅齒」は「でつし」或いは「はくろめ」で鉄漿(おはぐろ)のこと)がダウン・ロード出来る。冒頭から語られてある。そこでは『婦負郡野積谷地方』とある。婦負(ねい)郡野積谷(のづみだに)は「ひなたGPS」の戦前図のここの全体が相当する。]

 「業の蟲」云々は、多分、「大智度論」に、身内欲虫、入和合時、男蟲白精、如ㇾ淚而出、女蟲赤精、如ㇾ吐而出[やぶちゃん注:「虫」「蟲」の混淆はママ。]。〔身の内に「欲の虫」あり、和合に入る時、男の蟲は白き精にして、淚のごとくにして出で、女の蟲は赤き精にして、吐くがごとくして出づ。〕などの訛傳で、佛經には、皆な、男子の精白く、婦女の精赤し、としたのは、月水を女精と見たのだろ。隋代所譯「大威德陀羅尼經」一九にも、婦人五蛆蟲戶、在陰道中、其一一蟲戶、有八十蟲、兩頭有ㇾ口、悉如針鋒、彼之蛆蟲、常惱彼女、而食噉之、令其動作、動已復行、以彼令一レ動、是故名ㇾ惱、其婦女人、此不共法、以業果報、求欲方便、發起欲行、貪著丈夫、不ㇾ知厭足。〔婦人の五つの蛆蟲(うじむし)の戶(あな)は陰道の中に在り。其の一一(いちいち)の蟲、戸に、八十の蟲、有り。兩頭に、口、有りて、悉く針鋒(はりさき)のごとし。彼《か》の蛆蟲は、常に彼の女を惱まし、之れを食-噉(くら)ひ、其れをして動作せしむ。動き已めば、復(ま)た行なふ。彼(か)の動かしむるを以つて、是の故に「惱(のう)」と名づく。其の婦女人(ふぢよにん)は、此の不共法《ふきようはふ》、業の果報を以つて、欲の方便を求め、欲の行ひを發-起(おこ)す。丈夫(をとこ)を貪-著(むさぼ)りて、厭(あ)き足(た)ることを知らず。〕「業の蟲」の名、是に出《いづ》るか。爰には、唯だ、陰道中の蟲が、女人を惱まし、色慾を熾《さかん》ならしむと云へるが、「禪秘要經」には、產門云々、狀如貝齒、九十九重。一一重間、有四百四蟲、一一蟲、有十二頭十二口云々、出不淨水、諸蟲各吐、濁如敗膿云々、男精靑白、是諸蟲淚、女精黃赤、是諸蟲膿、〔產門は云々、狀(かたち)、貝齒(たからがひ)のごとく、九十九重(え)なり。一一の重なりの間(かん)に四百四(しひやくし)蟲あり。一一の蟲は十二の頭と、十二の口有り云々、不淨の水を出だし、諸蟲、各(おのおの)吐くに、濁れること、敗《くさ》れる膿のごとし云々、男の精の靑白なるは、是れ、諸蟲の淚にして、女の精の黃赤なるは、諸蟲の膿(うみ)なり。〕法顯等譯「大般泥洹經」一に、復有三恒河沙優婆夷、皆持五戒、功徳具足、現爲女像、化度衆生、呵責己身二一、猶如四蛇八萬戶蟲侵食其體。〔復(ま)た、三(みつ)の恒河沙(ごうがしや)の優婆夷(うばい)有り。皆、五戒を持し、功德は具足せり。現じて女(ぢよ)の像(かたち)となり、衆生を化度(けど)す。己れの身を呵責すること、猶ほ、四蛇の八萬戶蟲の其の體(からだ)を侵食するがごとし。〕「根本說一切有部毘奈耶雜事《こんぽんせついつさいうぶびなやざつじ》」七に、女も蛇も、多恨、作惡、無恩、利毒の五過有り、と載す。是等より、佛敎に月經を蛇蟲の所爲《しわざ》とした事が解る。鵜飼氏が言《いへ》る如く、女に蛇は附物《つきもの》で、月經を蛇より起こるとした民は、世界の諸部に在るから、日本の里傳も、必ずしも印度傳來に限らぬ樣だが、兎に角、佛敎渡來後、彌《いよいよ》その信を强めたならん。

 終りに繰返《くりかへ》し置くは、吾邦には、神が蛇に寄《よつ》て素女《きむすめ》の淨身を護り、不淨の月水、到れば、之を見捨てるといふ信念と、今一つ、月水は魔が蛇と成《なつ》て作《な》す所といふのと、二樣有《あつ》た事で有る。

[やぶちゃん注:「大智度論」「大威德陀羅尼經」「禪秘要經」「大般泥洹經」「根本說一切有部毘奈耶雜事」の内、何故か判らないが、「大蔵経データベース」では「大智度論」のデータには同一近似の部分が見つからず、「禪秘要經」はネット上に発見出来なかったので底本に従った。その他は「大蔵経データベース」で校合した。]

追加 (大正十五年九月記) ここに斷はり[やぶちゃん注:ママ。]おくは、必《かならず》しも何《いづ》れの神も處女を好《す》くと限らぬ。例せば、コンゴのバヴリ人は、南風を强勢の神とし、此神、一意、繁殖を欲し、成女期に達し乍ら、男を知《しら》ぬ女を嫌ふ、と信ず。隨つて、此族中に左樣の女、なし。又、コンゴ王卽位に加冠の役を務むる祝官は、平生、一切、他人と食を共にせず、未婚の女の烹《に》た物を食ふを忌む(デンネット「黑人心裏」六五及一三頁)。今は知《しら》ず、二十餘年前迄、紀州東牟婁郡にイタリアのチヽスベオの如く、處女を毒物の如く惧れて、人妻をのみ、つけあるく風儀の村ありし樣、其頃、其村へ寓居した女より、聞いた。但し、これは、當時、處女だつた其女が、其姉、彼《か》の村に嫁せるに隨ひ行《いつ》た時の事ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、他の地より來つた處女は、性質知れず、村へ嫁し來たつた姉は村の者となつたから、心を許して可なり、という見解だつたかも知れぬ。そんな斟酌《しんしやく》をする樣な人間は、はや一人もなくなつたから、後日の參考迄に記しおく。

[やぶちゃん注:「コンゴのバヴヰリ人」バヴィリ族。ガボンの海岸部からコンゴ共和国・コンゴ民主共和国海岸部にかけて居住するバントゥー系民族。コンゴ地域の大民族バコンゴのサブグループの一つで、犬やサルの彫像、仮面(白・黒・赤等の顔料で彩色されたものが多い)の製作などで知られている(「アフリカ雑貨アザライ」公式サイト内の「アフリカ関連用語集」に拠った)。]

2023/06/19

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「白鷺をうたひて」張文姬

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

  

  白鷺をうたひて

            沙 頭 一 水 禽

            鼓 翼 揚 淸 音

            只 待 高 風 便

            非 無 雲 漢 心

                  張 文 姬

 

はまべにひとり白鷺の

あだに打つ羽音(はねね)もすずし

高ゆく風をまてるらむ

こころ雲ゐにあこがれて

 

   ※

張文姬  九世紀末。 唐朝の貴婦人。 鮑參軍の妻である。

   ※

[やぶちゃん注:「鮑參軍の妻である」とあるが、これは何かの誤認であろう。「鮑參軍」で呼ばれるのは、南朝宋の知られた詩人鮑照(四〇五年~四六六年)で、唐代ではない。「鮑」姓の別人であろう。

「雲漢」一つに「天の川・銀河」の意があるが、ここは「大空」の意。

 調べたところ標題は「沙上鷺」であった。以下、推定訓読を示す。

   *

 沙上(さじやう)の鷺(さぎ)

沙頭(さとう) 一水禽(いつすいきん)

翼(つばさ)を鼓(こ)して 淸き音(ね)を揚ぐ

只(ただ) 待つ 高風(かうふう)の便(たよ)りを

雲漢(うんかん)の心(こころ) 無きに非(あら)ず

   *]

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 i一二六番 ワセトチの話(全四話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一二六番 ワセトチの話

 

        隱れ里(其の一)

 昔、橋野川を神樣が石の舟に乘つて川筋を下つて來た。そしてワセトチがお氣に召して、そこへ舟を止めて、側の岩窟に入られた。その岩窟を村の人は隱れ里といつている。

 その石舟に腰をかけてはならない。

[やぶちゃん注:「ワセトチ」現在、岩手県釜石市橋野町第43地割1(橋野川右岸)に「神の石船 隠里」とするスポットがあり(グーグル・マップ・データ。ストリーとビューのここに対岸の道路脇の表示板があった)、そのサイド・パネルのこの画像で解説板(「盲神」と「神の石船隠里」のカップリング)が読めるが(本文は孰れも「遠野物語拾遺」の「二十七」「三十八」の梗概である。国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著「遠野物語」増補版(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社)の当該部をそれぞれリンクしておいた)、その後者には、解説版の記載者の附記があり、『石船は現在地から見て橋野川の対岸に残っています。その百メートル向こうの松の木立の下が隠里です』とあった。但し、注意が必要なのは、この解説版は、県道三十五号の橋野川対岸の「盲神」(「其の四」で語られる)の近くにあるので、この「対岸」とは、橋野川右岸を指すことである(これは「盲神」のサイド・パネルのこの画像と、ストリートビューのここから明らかである)。而して、サイド・パネルには、Gonzaburou Kitakaze氏撮影の「神の石船はどれだろう」という標題の、数個の石の写真がある。この写真は高圧鉄塔から、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)であることが判る。さて、そのストリートビューの画像を見ると、まさに「盲神」の方にある解説板の対岸正面にサークル状の空き地があり、その川側に長方形の石のようなものが見える。或いは、これか? なお、その東直近の橋野町第42地割8−1に「早栃集会所」があり、バス停「早栃」があって、その東北にはバス停「上早栃」がある(グーグル・マップ・データ)。但し、孰れのバス停も現在は「はやとち」と読んでいる。しかし、ここの古い地区呼称であることは、「遠野物語拾遺」の「源平の頃 一八」(同前)で『栗橋村字早栃(わせとち)』とルビがあることから、確実である。以上から、「隠里」は、まさに「神の石船 隠里」とするスポット(グーグル・マップ・データ航空写真)に相当すること(解説版からここの対岸までは、まさにそこに書かれた通り、百メートルである)が判るのである。]

 

        平家の高鍋(其の二)

 昔ワセトチで源平の戰《いくさ》があつたが、なかなか勝負がつかなかつた。そのうちに飯時になつたので、兩軍は飯を炊くことになつた。源氏の方は早く炊こうと鍋を低く下げて炊いたが、平家の方では鍋を高くして澤山の薪を焚いたので、直ぐに飯ができて戰に勝つた。それで今でも煮物をするには平家の高鍋と云つてゐる。

[やぶちゃん注:同前で「遠野物語拾遺」の「諺由來 一九」に同内容の話が載る。

「源平の戰」ここで起こったとするそれは、誰と誰の戦いだろう。頼朝の奥州征伐の際に、相手が平氏の子孫だったか。しかし、この辺りでそういう源平の戦いがあって、幕府軍が負けたとか、苦戦したとかという史実を、私は、知らない。次の話にも出るのだが。識者の御教授を乞う。]

 

       ならずの柿(其の三)

 ワセトチに實を結ばない柿の樹がある。昔源平の戰があつて多くの人が戰死したので、其の屍《しかばね》を集めて埋めてそこへ一本の柿の木を植え[やぶちゃん注:ママ。]たが、其の死靈《しりやう》のために實を結ばないと謂ふ。

[やぶちゃん注:前掲の「遠野物語拾遺」の「源平の頃 一八」(同前)で同内容の話が載る。]

 

       盲の親子(其の四)

 昔、旅の盲目の夫婦が丹藏と云ふ子供を連れてワセトチまで來たら丹藏があやまつて橋の上から落ちて死んだ。夫婦の者はそれとも知らずに丹藏や丹藏やと叫んだが、一向返事がないのではじめて[やぶちゃん注:底本は「はじ」がない。「ちくま文庫」版で訂した。]川へ落ちた事を知り、あの寶をなくしては俺達も生きて居る甲斐がないから、ここで共に死ぬと言つて、橋から身投げをした。村の人達が氣の毒に思つて、祠《ほこら》を建てゝ、メクラ神として祀つた。目の惡い人は御利益があるとて傍《かたはら》の澤から流れる水で目を洗ふ。

  (上閉伊郡橋野地方の話。菊池一雄氏御報告分の一二。)

[やぶちゃん注:最初の「隱れ里(其の一)」の「遠野物語拾遺」の「二十七」と同内容。

位置はグーグル・マップ・データのここ。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二五番 駒形神の由來

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一二五番 駒形神の由來

 

 遠野鄕綾織村の駒形神の由來は斯《か》うである。

 昔の話ではあるが、五月の田植時頃であつた。村の女子達《をなごたち》が田植《たうゑ》をして居ると、其處へ目鼻耳口のない子供に赤い頭巾をかぶせたのを負(オブ)つて通りかゝつた旅人があつた。女達はあれあれあんな者が通ると言つて、田植の手を止めて立つて見送つた。

 旅人はそれを聽いて、小戾りをして女達の所へ來て、お前達がこの子供を不思議がるのは尤もなことである。實はこれは子供でも何でもなく、俺の品物である。俺は如何なる因果の生れか、この樣な物を持つて生れたために、この歲まで妻と謂ふものを知らない。また世の中には俺の妻になるやうな女もあるまいから、俺は前世の罪亡ぼしに斯うして旅を續けて居る。皆樣これをよく見てクナされと言つて、肩から下して帶を解いて見せた。村の女達は魂消《たまげ》て聲も出なかつた。

 其旅人は如何謂《どうい》ふ譯柄《わけがら》であつたか、永くこの村に止まつて居た。そして今のお駒樣の所で死んだ。生前常に俺が死んだら俺のやうに妻の持てない者を助けてやると言つて居たので、村の人達が神樣に祀つた。

[やぶちゃん注:思うに、これは事実であろう。当初は男の背部にサイクロプス症候群(単眼症)の二重体の一部が附属しているものと思ったが、「肩から下して帶を解いて見せた」というところからは、双子の一方が、サイクロプス症候群の単眼も失った奇形児であったと読める。但し、口がない状態では、生きていることが出来ないので、口に見えない口はあったものと思われる。但し、サイクロプス症候群は、脳の形成異常を伴う重症の奇形で、殆んどが死産、若しくは、出生直後に死亡し、長くても一年以内に死亡するようである。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」で単眼症の少年が登場するが、ああいうことは一寸考え難い気がする。

「遠野鄕綾織村の駒形神」現在の遠野市綾織町下綾織にある駒形神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。写真と解説が豊富なサイト「玄松子の記憶」の同神社をリンクさせておく。また、国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著「遠野物語」増補版(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社)の拾遺の部の「十四」もリンクしておく(但し、「遠野物語拾遺」は柳田の命を受けて柳田の弟子であった鈴木棠三(とうぞう:本名は脩一)が「遠野物語」文章化したものである。鈴木氏の著作には鎌倉史研究で少なからずお世話になったが、「遠野物語拾遺」はその編者としては、柳田國男ではなく、佐々木氏の名が標題されるべきであり、鈴木氏は佐々木喜善氏とは異なり、後年、国文学者・国語学者として活躍されたが、「遠野物語拾遺」は一般人には柳田の「遠野物語」の続篇著作とされて認識されてしまっている。こういうところも私が柳田を嫌悪する由縁である)。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「そゞろごころ」馬月嬌

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  そゞろごころ

            竹 榻 淸 人 夢

            花 香 媚 酒 杯

            覽 來 有 幽 趣

            明 月 滿 妝 臺

                  馬 月 嬌

 

夢こそ淸けれ竹の寢椅子に

杯あまけれ花のかほりに

目ざめてそぞろに樂しからずや

月かげさやかに櫛笥(くしげ)を照らせり

 

   ※

馬 月 嬌  趙今燕と同じ時代、同じく秦淮に、同じやうに名を馳せた名妓である。 名を守貞といふ。 容貌は大して美しいという程ではなかったが、風流でまた豪俠の氣質の愛慕すべきものがあった。 又、湘蘭と號して善く蘭を畫(ゑが)き一家の風格を得た。 その名は海外まで聞え當時シヤムの使節が來朝した時にその畫扇を得て歸つたといふ。

   ※

[やぶちゃん注:「杯」は音律から「さかづき」と訓じていよう。

「櫛笥」櫛や化粧用の道具を入れておく箱。原詩の「妝臺」も「化粧台」の意である。

「趙今燕」先行する「行く春の川べの別れ」を参照されたい。

「同じ時代」リンク先で『十六世紀中葉』『明朝萬曆年間』とする。「萬曆」は明の第十四代皇帝神宗の在位中に使われた元号で、一五七三年から一六二〇年まで。

「秦淮」六朝時代の首都南京の近くを流れる川名(秦代に開かれた運河)。両岸には酒楼が多く、今に至るまで、風流繫華の地である。

「シヤム」シャム。漢名「暹羅」。タイ王国の旧名。

   *

 原詩のフレーズでいろいろ調べてみたが、遂に見当たらなかったので、標題は不明である。推定訓読する。

   *

竹榻(ちくたう) 淸(きよ)き人の夢

花香(くわかう) 媚酒(びしゆ)の杯(はい)

覽來(らんらい) 幽趣(いうしゆ)有り

明月(めいげつ) 妝臺(しやうだい)に滿(み)つ

   *]

2023/06/18

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二四番 厩尻の人柱

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一二四番 厩尻の人柱

 

 北上川が盛岡市の南まで來て雫石川、中津川の二川《にせん》と合流する所に杉土堤《すぎどて》といふ堅固な護岸堤がある。此邊は昔南部家の厩《うまや》があつた所から、厩尻《うまやじり》とも云ふ所である。此厩尻は每年のやうに洪水に破られて、城下の人々はどれ程苦しんだか知れぬ。そこで二百年ばかり前に殿樣の命令で、此處に永久的な護岸工事が始められたが、ある一個所だけどんなに大石を埋《う》めてみても、効果のない所があつた。時の工事主任の佐藤某といふ者、萬策盡きて或山伏に訊くと、其には酉の歲、酉の月、酉の日、酉刻に生れた處女を人柱に埋めたら屹度《きつと》成就すると云はれた。それを探したところが、その條々に叶つた生娘(キムスメ)は、自分の一人娘の小糸《こいと》といふのだと訣《わか》つて悲嘆にくれてゐた。

[やぶちゃん注:「北上川が盛岡市の南まで來て雫石川、中津川の二川と合流する所に杉土堤がある」現在の岩手県盛岡市盛岡駅西通の先の突先(グーグル・マップ・データ)附近周辺。現在の盛岡駅の南東部に当たる。ストリートビューのこれも、その名残の一部かと思ったが、実際には、ちょっと違った。それは最後の私の注を見られたい。なお、「すぎどて」の読みは、石川啄木の随想風の中編小説「葬列」(「青空文庫」のこちら(旧字旧仮名版)で全篇が読める)の読みに拠った。]

 所がある日、旅の巡禮の母娘《ははむすめ》の者が、この名主(佐藤某は名主であつた)の家に來て宿を乞ふた。明日と迫つた愛娘《まなむすめ》の功德遐《くどく》のためにと思つて快く泊めた。そして何氣なく娘の齡《とし》を訊くと、今年十六になつて、丁度娘小糸と同じ齡、それも酉の年、酉の月、酉の日、酉の刻に生れたのだといふ。それを聞いて名主は其夜其の巡禮の娘を自分の娘の身代りにして厩尻の川底に埋めた。それと知つて母の巡禮も其處へ身を投げたが、それからは面白い程工事が進んで、今の樣な立派な堤防が出來たと謂ふ。(因《つなみ》に曰《いふ》、其の名主の佐藤某家は、今も立派にある富豪だと謂はれてゐる。併し其巡禮母娘の怨恨《ゑんこん》で、どうしても相續人に男子が生れぬと謂ふ話である。)

  (吉田政吉氏の御報告の分二。大正十二年八月
   二十日、聽書。)

[やぶちゃん注:「厩尻」の読みは、国立国会図書館デジタルコレクションの吉田政吉著「新盛岡物語」(一九七四年国書刊行会刊)の「厩尻の人柱」の本文の、ここの右ページ五行目のルビに従った(標題は「厩」の字だが、本文は「廐」が用いられている)。その後の部分で『徳川時代、現在の下の橋中学の所から河原町にかけて馬場があり、そして藩の馬屋がたくさん並んで建てられてあったのです。その馬屋の裏方…という意味で廐屋といったものと思います』とあった。この「下の橋中学」は盛岡市立下橋(しものはし)中学校で、ここ(グーグル・マップ・データ)にあり、地名は盛岡市馬場町である。さらに、中津川に合流点近くで架橋されている橋の名が、「御廐橋」(おんまやばし)であり、その向こうの地名が、「大沢川原」とあるから、これが旧「河原町」であろうと思われる。これによってこの合流点の左岸が「厩土堤」であろうと推定される。そこには、また、「啄木父子の碑」もある。グーグル・マップ・データ航空写真の、その附近も添えておく。]

「新說百物語」巻之四 「疱瘡の神の事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 挿絵は、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正して使用した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   疱瘡(ほうそう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「はうさう」。])の神の事

 丹波国与謝(よざ)の郡《こほり》、ある年、村中、疱瘡、はやり、小児のむきは、殘らず、疱瘡、いたしける。

[やぶちゃん注:「与謝(よざ)の郡」旧郡域はウィキの「与謝郡」を見られたいが、丹後半島の南東部半分と、天橋立を中心に現在の宮津市の大部分、丹後半島の南東の若狭湾奥の沿岸まで含む非常な広域であった。また、「よざ」の読みは誤りではない。そこに『地元では「よさぐん」ではなく「よざぐん」と発音されることが多い』とあり、二〇一一年三月に『開通した山陰近畿自動車道与謝天橋立ICは、地元の読み方を尊重して「よざあまのはしだて」と命名されている。また』、『与謝野町内の地名「与謝」は』、『行政上も「よざ」と読まれる』とある。]

 正月にいたりて、疱瘡も、しづまり、三右衞門といふものゝ子どもはかり[やぶちゃん注:ママ。]、最中なりける。

 三右衞門、律儀なるものにて、はなはだ、疱瘡の神を、うやまひ、まつりて、信心いたしける。

 正月七日の夜、疱瘡の子も、殊の外、ようす[やぶちゃん注:ママ。]、よろしかりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、家内のものにも、

「いつかたへなりとも、ゆきて、あそふへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、宝引錢《ほうびきせん》など、あたへ、皆々、近所へ出行《いでゆき》けり。

[やぶちゃん注:「宝引」福引の一種。数本の縄を束ね、その中の一本に橙(だいだい)の実を附けて、それを引き当てた者に賞を出すもの。銭をつけて、引かせることもあった。中世から近世にかけて、正月の遊戯として行なわれ、家庭で行なうほかに、「辻宝引」・「飴宝引」などの賭博的なものもあった(小学館「日本国語大辞典」に拠った。ネットの 同「精選版」に挿絵があるので参照されたい)。]

 三右衞門ひとり、いろりの側に、子を、ねさせて、たはこ[やぶちゃん注:ママ。]のみて居《ゐ》たりければ、夜中過《よなかすぎ》に、表の戶を、あけて、大勢、内へ、はいるもの、あり。

 

Housounokaminokoto

 

[やぶちゃん注:底本の巻之二にあったそれ。キャプションは、右幅の右手、表戸の入り口の上に、

   *

こゝ

 じや

 こゝじや[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。

   *

その戸の、向かって左の内壁に、

   *

   ていしゆ

    うち

      に

    いら

     るゝ

   *

と敬語を用いている疱瘡神の一人の台詞。次に左幅の右手のやや中央上に、子の看病に囲炉裏脇に座っている亭主三右衛門の台詞。

   *

    おそろ

      しい

     ものが

      きた

   *

囲炉裏の下方に、疱瘡神の御礼の挨拶。

   *

      いづれも

        ごちそう

            に

         なりました

          おれいに

           まいり[やぶちゃん注:多分、「ひ」ではなく「い」。]

            まし

              た

   *

と、やはり敬体で述べているのが、微笑ましい。]

 

 みなみな、異形のものにて、男女老若のわかちなく、四、五十人、來たり、

「我々は、疱瘡の神なり。同国小濱《おばま》の善右衞門船《ふね》に、のりて、冬とし[やぶちゃん注:「年・歲」で「時候」の意。]、此村へ來たり。三百軒はかり[やぶちゃん注:ママ。]、皆々、疱瘡も、しまひて、是れより、又々、外《ほか》へ、まはるなり。あまり、そこ元の、ちそうになりたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、みなみな、礼にと、參りたり。」

と、いひける。

 三右衞門、是れをきゝて、

「左樣ならば、此壱里おくに、九兵衞といふ一家あり。子供弐人《ふたり》、いまだ、ほうさう、いたし申さす[やぶちゃん注:ママ。]。賴み申す。」

と、たのみける。

 皆々、いふやう、

「それは。なにより、やすき事なり。すくに參るへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

と、いふて、出《いで》たりける。

 あくる日手かみ[やぶちゃん注:ママ。]、したゝめて、右の樣子、九兵衞かたへ、しらせに遣《つかは》しけれは[やぶちゃん注:ママ。]

「もはや 夜の中《うち》より 熱 いてゝ[やぶちゃん注:ママ。] ほとをりと見へたり」

[やぶちゃん注:「ほとをり」「ほとぼり」(「熱」「餘熱」)で、まだ、熱がさめきらずにちょっとあることを言っているのであろう。]

と、返事いたしける。

 二人とも、かろく、すくたち、別条なかりし。

[やぶちゃん注:「すぐたち」ではないか。「直ぐ經ち」で「程なく経過もよく治って」の意かと思う。]

「其後、此一家、浦嶋氏の子孫、今に殘らす[やぶちゃん注:ママ。]、ほうさう[やぶちゃん注:ママ。]、かろくする事、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]なり。」

と、則ち、浦嶋の何某《なにがし》、語られける。

[やぶちゃん注:初読、「与謝の郡」とあるのを見ただけで、私は、『浦島伝説の有力な伝承地だ。』と想起した。それが、最後に、ちゃんと出されたところは、まっこと、ニクい書き振りである。疱瘡神の怪奇談は、既に幾つも電子化しているのだが、このように、個々の疱瘡神の姿が、多様な異形尽し(二人と似た異形がなくて、まさに「百鬼夜行」のようだ。或いは作者はこの一枚に表題の「百物語」からそれを嗅がせようとしたものかも知れない)というのは、まず、例を見ない。寧ろ、この話のように船に乗って目的地に行く場合、疱瘡神は普通の人の姿をしていたとあった一話を記憶する。ここは、総勢、十一のオール・スター・キャストで、この挿絵は特異的で、しかも強烈である。また、疱瘡の話では、子が亡くなることが書かれることが多く、治っても、激しいアバタで悲惨な後日談となるのが一般的なのだが、ここでは、最後まで、皆、疱瘡で命を落とす者もおらず、予後不良の気味の悪いあばた顔などのシーンも、最後まで、ない。そうして、最後に、この話に出るこの人たちは、実は、乙姫から長命を授かった浦島の子孫であるという種明かしも、ピシット決まって、なかなかに、いいのである。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「鬼子母神が柘榴を持つ」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○鬼子母神《きしもじん》が柘榴《ざくろ》を持つ(三號一四三頁)と云ふ說は、治承の頃、已に本邦に行はれたのだ。平康賴作てふ「寶物集《ほうぶつしふ》」卷五に、訶梨天、柘榴を持《もち》給ふ事は、五百の寶ある故なり、と云《いへ》り。子寶《こだから》の意で有《あら》う〔(補)柘榴は一果の中に實多き故に、鬼子母神、特に此樹を愛し給ふ也。此等の因緣を以て、惡鬼邪神作ㇾ畏者哉〔惡鬼邪神は畏れを作(な)す者か(「塵添壒嚢抄」一五)〕。「北史」に齋安德王延宗、納趙郡李祖收女爲ㇾ妃、後帝幸李宅宴、而妃母宋氏薦二石榴於帝前、問諸人、莫ㇾ知其意、帝投ㇾ之。收曰、石榴房中多ㇾ子、王新婚、妃母欲子孫衆多、帝大喜、詔ㇾ收、卿還將來、仍賜收美錦二疋。〔齋の安德王延宗、趙郡の李祖收の女(むすめ)を納れて妃と爲(な)す。後、帝、李宅に幸(みゆき)して宴す。而して、妃の母、宋氏、二つの石榴(ざくろ)を帝前に薦(すす)む。(帝)、諸人に問ふも、其の意を知るもの莫(な)し。帝、之を投げうつ。收曰はく、「石榴は房(み)の中(うち)に子(たね)多し。王、新たに婚(めと)りたれば、妃の母、子孫の衆(しゆう)多(おほ)きを欲(ほつ)するなり。」と。帝、大いに喜び、收への詔(みことのり)をなし、卿(けい)[やぶちゃん注:大臣。]、還へりて、將(ま)た來たり、美しき錦、二疋(にひき)を賜ふ。〕。石榴を、婬事や、子多き印相とした南歐、西亞[やぶちゃん注:西アジア。]の諸例を見度《みたく》ば、グベルナチスの「植物譚原《ラ・ミトロジー・デー・プラント》」(一八八二年板、卷二、一六六―九頁)を閱《けみ》せよ。現代の土耳其《トルコ》で、新婚の夫、地に石榴を擲《なげう》ち、零《こぼ》れ出た粒の數程《かずほど》、其夫婦が、行く行く子を產む、と信ずと云ふ。(石榴を、多子の義に取《とつ》て、支那人が元旦の儀式に祝ひ用《もちふ》る事は、永尾龍造君の「支那民俗誌」上、一四一頁に出づ。)

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の下に編者注があり、『高木敏雄「英雄伝説桃太郎新論」』への論考である。この論文は国立国会図書館デジタルコレクションの死後に集成された高木敏雄著「日本神話傳說の硏究」(一九二五年岡書院刊)のこちらで現論考が視認出来る。長いので、今、ここでは電子化しない(高木氏は私の好きな学者(神話学者・民俗学者・ドイツ文学者)であるので、将来的に電子化する可能性はある)。鬼子母神と柘榴の言及部分はここの右ページ二行目以降である。

「鬼子母神が柘榴を持つ」引くまでもないよく知られたものなので、当該ウィキのリンクに留める。但し、一点、そこに書いてあるように、インドでは,『その像は天女のような姿をし、子供を』一『人抱き、右手には吉祥果』(双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科アエグル属ベルノキAegle marmelos『を持つ。なおこれをザクロ』(フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum『で表現するのは中国文化での影響であり、これは仏典が漢訳された時は吉祥果の正体が分からなかったために代用表現したものである。よって仏典中の吉祥果とザクロは同一ではない。また』、『鬼子母神が人間の子を食べるのを止めさせるために、人肉の味がするザクロを食するように釈迦が勧めたからと言われるのは、日本で作られた俗説にすぎない』とある。

『「寶物集」卷五に、訶梨天、柘榴を持給ふ事は、……』「寶物集」は岩波書店「新日本古典文学大系」版(第四十巻)で所持するが、巻第五を調べたが、いっかな、見つからない。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本風敎叢書』第一輯(大正六(一九一七)年刊)所収の「寶物集」を見たところ、そちらでは、確かに「卷第五」のここに見つけた。そこで岩波版で調べたところ、「寶物集」の七巻本にはかなり異なった伝本があることが判り(同「解説」に拠る)、そちらでは、「巻第六」に繰り下げられて載っていた。国立国会図書館デジタルコレクションのそれは正字であり、熊楠の参看したものも恐らくこの系統の伝本の一つと思われるので、そちらを視認して以下に示す。《 》は私の補助した読み。

   *

鬼子母(きしも[やぶちゃん注:底本では一見、「きじも」に見えるのだがが、後で「きしも」と振っているので、汚損と断じた。)は五道大臣の妻なり。天上に五百人、人間に五百人千人の子を持ち給へり。生物(しやうもつ)の子をとりて、是を養育す。佛、是れを懲《こら》さんとして、一人の子をとりて、鉢の下にかくしたまふ。鬼子母(きしも)、千人っまで持ちたる子の、一人无[やぶちゃん注:「無」の異体字。]きを悲《かなし》みて、「我、今より後、孩者(をさなききもの)を殺さずして返りて守(まもり)と成らんとて誓ひて、子を返して給はるとて申しためる。訶利帝母(かりていも)とて、孩き子どもの守[やぶちゃん注:御守り。]に懸くるは是也。

   *

『「北史」に齋安德王延宗、……』以下は「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合したが、熊楠は、かなり省略・附記を行っており(或いは「北史」の粗悪なものを参看したものかも知れぬが)、話しが一部異なっているため、大幅に改め、推定訓読を施した。

『グベルナチスの「植物譚原《ラ・ミトロジー・デー・プラント》」(一八八二年板、卷二、一六六―九頁)』書名の英語読みは「選集」のルビに従った。イタリアの詩人で民族学者であったアンジェロ・デ・グベルナーティス(Angelo de Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)が一八六八年に初版を刊行した植物神話の起原を集成した原題‘Fonti vediche’(「Fonti」はイタリア語の「起原」であるが、後の単語は意味不明である。当該書は英文の彼のウィキに従った)のことであろう。

『石榴を、多子の義に取て、支那人が元旦の儀式に祝ひ用る事は、永尾龍造君の「支那民俗誌」上、一四一頁に出づ』国立国会図書館デジタルコレクションの原本の「支那民俗誌」上巻(『支那文化叢書』第一巻・大正一一(一九二二)年満洲考古学会等刊)ここで視認出来る(左ページ一行目及び五行目)。]

追 記 吉祥果(大正三年十一月『鄕土硏究』第二巻第九號)曾て不空が、「鬼子母神、於右手中吉祥果〔鬼子母神は右手の中に吉祥果を持つ〕」と譯した、此神の眞言法の文を引いて、吉祥果は石榴のことだらうと述べて置いたが(第一卷第六號三六六頁)、其後、義淨譯「大孔雀呪王經」下に、孔雀明王左邊一手持吉祥果(大如苽蔞黃赤色、此方所ㇾ無也〔孔雀明王は、左邊(さへん)の一手に吉祥果を持つ(大きさは苽蔞(こらう)のごとく、黃赤色。此方(こなた)には無き所(ところ)なり)〕と出せるを見出《みいだ》した。註短きに過ぎて、何の事とも分らぬが、苽蔞、一名栝樓《かつらう》は、吾邦のカラスウリに近いトリコサンテス・パルマタエやトリコサンテス・キリロウィーの支那名と、ブレットシュナイデルの「支那植物篇《ボタニコン・シニクム》」卷三に見えて居る。されば、形・色が、カラスウリに似て、「吉祥果」などゝ名づけ、珍重せらるべき印度の果實で、鬼神や明王に持たるゝ物とは、多分、菴摩羅《あんまら》(梵語アームラ、又、アーマラー、又、アームラカ)だらう。是は、今日、南半球の熱地に多く栽ゑらるゝマンゴの事だ。「飜譯名義集」に似桃ㇾ非ㇾ桃、似ㇾ柰非ㇾ柰、〔桃に似て、桃に非(あら)ず、柰《ない/だい》に似て、柰に非ず。〕と言つて、舊譯爲ㇾ柰誤也、〔舊譯に「柰」と爲すは、誤りなり。〕と見ゆ。佛敎のマグダレン女尊者と言はるゝ篤信の美妓「アームラパーリー(菴摩羅)女」を、「柰女」と誤譯した經文が多い。柰は、梨や林檎に似た支那の產物らしい。此等と同屬のクワリンを、紀州でアンラカと呼ぶのも、此誤譯から出たものか。兎に角、「吉祥果」は「石榴」では無いと正誤して置く。

[やぶちゃん注:「不空」(七〇五年~七七四年)は唐代の僧。北インド或いは中央アジア出身。密教付法の第六祖とされる。七二〇年、唐の洛陽で金剛智の弟子となる。後にスリランカに渡って龍智に学び、密教経典を携えて中国に帰り、唐朝の信任を得て、活躍した。「金剛頂経」三巻や、「仏母大孔雀明王経」三巻など、百余部を漢訳した。「不空金剛」「不空三蔵」とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

『義淨譯「大孔雀呪王經」』は「大蔵経データベース」で校合したが、漢字表記に有意な違いがあったため、訂した。

「カラスウリ」ウリ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides 。しかし、中国語の同種のページでは「王瓜」であり、「維基文庫」の清代に書かれた「植物名實圖考(道光刻本)」の「第二十二卷」の「王瓜」(図有り)をリンクさせてあり、そこを見ると、この前のページに別に「栝樓」の独立͡項があり、その図(上下二図)の実(下方。これ)を見るに、これは実の形状から見て、種としてのカラスウリとは違う。調べたところ、これはカラスウリ属 Trichosanthes kirilowi 変種キカラスウリ Trichosanthes kirilowii var. japonica である。まず、邦文の当該ウィキを見られた上で、中文の同原種 Trichosanthes kirilowi のページを見られたい。そこにはしっかり「栝蔞」とあり、さらに「瓜蔞」「栝樓」の異名も記してあるのである。なお、キカラスウリの方は、学名から察せられる通り、日本固有種であり、北海道から九州に自生している。

「トリコサンテス・パルマタエ」英文の“ Trichosanthes(カラスウリ属)を調べたが、現行の種名に見出せない。なんとなく頭が似通った種小名が複数あるので、このリストのどれかの種のシノニムと考えてはいる。

「ブレットシュナイデルの「支那植物篇《ボタニコン・シニクム》」バルト・ドイツ人の医師で中国学者にして植物学者であったアレクサンダー・ヘルマン・エミール・ブレットシュナイダー(Alexander Hermann Emil Bretschneider 一八三三年~一九〇一年)。当該ウィキがあり、そこには、一八八〇『年から』は、『北京に近い山麓に栽培園をつくり、乾燥標本をイギリスのキューガーデンに送った』とある。本書はそれによれば、‘ Botanicum Sinicum ’で一八八二年に刊行されている。

「形・色が、カラスウリに似て、「吉祥果」などゝ名づけ、珍重せらるべき印度の果實で、鬼神や明王に持たるゝ物とは、多分、菴摩羅(梵語アームラ、又、アーマラー、又、アームラカ)だらう。是は、今日、南半球の熱地に多く栽ゑらるゝマンゴの事だ」熊楠先生、珍しく大ハズレでげす! 既に出した通り、「吉祥果」は双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科アエグル属ベルノキAegle marmelos でげす。当該ウィキによれば、『原産地はインドおよびバングラデシュである』。『食用となるが』、『何らかの調理・加工をして食べる方法が目立ち』、『薬用植物としては』、『特に下痢によく効くものとして知られている』。『また』、『特徴である』三つに分かれる複『葉や果実などに関して、ヒンドゥー教ではシヴァ神や時にラクシュミー神などと結びついた逸話が』、『いくつも存在し』、『聖なる木として知られ、サンスクリットによる文献にもビルヴァ』『などの名で度々現れる』。『原産地においてはベルノキにちなんだことわざもいくつか存在する』。『記載されてから半世紀ほどの間は、今日の植物分類体系を通して見れば』、『目レベルで異なる種(ギョボク属の Crateva tapia)』(アブラナ目フウチョウボク科に属する)『と同属と見做されていた』とあり、以下の記載も詳細に亙り、ウィキの中では特異的に優れているので(特に名称と民俗誌が素晴らしい)、是非、読まれたい。なお、上方左側に出る写真はギョボクの写真なので注意されたい。ベルノキの写真はずっと下方にある)。因みに、熊楠の誤認比定した「マンゴ」はムクロジ目 Sapindales ではあるが、ウルシ科マンゴー属マンゴー Mangifera indica で全然、違う種である。脱線だが、私はマンゴーが大好きだったが、十数年前、伊豆高原を跋渉している最中、ウルシに人生で初めてかぶれて以来、ウルシオールに似た「マンゴール」にも高い確率でかぶれるから食べないようにと医師から言われ、一切、食さなくなった。亡き母がマンゴーを食べると激しい症状が出たから、多分、私もウルシ・スイッチが入った以上、だめだろう。悲しい。当該ウィキによれば、『仏典の菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅などは、サンスクリットの āmra(アームラ)の音写である。ただし、同じウルシ科のアムラタマゴノキ(Spondias pinnata)を意味する amra(アムラ)との混同が見られる』とあった。マンゴーの『原産地はインドからインドシナ半島周辺と推定されて』おり、『インドは世界最大のマンゴー生産国』とあり、『年間収穫量は約』百六十『万トンで、世界各国に輸出する』。実に四千『年以上前から栽培が始まっており、現在では』五百『以上の品種が栽培されている』とあるので、まあ、熊楠が思わず誤ったのも無理はない気はする。

「飜譯名義集」南宋で書かれた一種の梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。一一四三成立。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について、訳語・出典を記す。

「柰は、梨や林檎に似た支那の產物らしい」現代中国語では、バラ科モモ亜科ナシ連ナシ(リンゴ)亜連リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica を指すが、宋代の「柰」は広義のリンゴ(リンゴ属)に留めておくのがよかろう。熊楠の言う「梨や林檎に似た支那の產物」なのではなく、林檎そのものなのである。なお、この漢字は本邦では、まず、別にリンゴ属ベニリンゴ Malus beniringo を指す。小学館「日本大百科全書」によれば、葉は互生し、楕円形、又は、広卵形で、縁(へり)に細かな鋸歯(きょし)がある。四~五月、太く短い花柄の先に、白色、又は、淡紅色の花を上向きに開く。この形状から別名「ウケザキカイドウ」(受咲海棠)とも呼ぶ。楕円形のリンゴに似た果実が垂れ下がる。先端に宿存萼(しゅくそんがく:花が枯れ落ちた後になっても枯れずに残っている萼のこと)があり、十月頃、紅色、又は、黄色に熟す。本州北部原産で(従って、ここでの「柰」としては無効)、おもに盆栽にするが、切り花にも用いる。日当りのよい肥沃な砂質壌土を好み、寒地でよく育つ、とある。ところが、実は、この漢字、また、別に、日本では「からなし」(唐梨)と訓じ、一般名詞では赤い色をした林檎を指す以外に、面倒なことに、バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensisの異名としても通用しているのである(但し、カリンの中文ウィキ「木瓜(薔薇科)」の解説(非常に短い)にはこの「柰」の字は載っていないし、前に出した「植物名實圖考(道光刻本)」の「第三十二卷」の「木瓜」の解説にも「柰」の字は使われていないから、「柰」には中国語としてはカリンの意はないと考えてよかろう)。ネット上でも、「柰」の字の示す種或いは標準和名や通称名・別名が、ごちゃごちゃになって記載されており、甚だ混乱錯綜してしまっている。

「此等と同屬のクワリン」前注のカリンのことだが、「同屬」は、この短い中で、熊楠三度目のトンデモ誤りである。

「アームラパーリー(菴摩羅)女」ウィキの「アンバパーリー」を引く。パーリ語「アンバパーリー」、サンスクリット語「アームラパーリー」、漢音写は「菴摩羅」「菴没羅」など多数で、意漢訳は「㮈女」(☜☞)「柰女」「非浄護」など。生没年不詳。『釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の』一人。『ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリー』則ち、「マンゴー林の番人の子」と『いわれるようになった。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然』、『言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』。『釈迦仏に帰依し』た。「長老尼偈註」に『よれば、出家し』て『高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる』。仏典では、『彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に』、『阿難が誡めのために偈を説いて』おり、「大般涅槃経」では、『リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈尊を招待している。公子らが』『その招待を譲り受けんと乞うも』、『彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。後の天竺五精舎の』一『つ』である『菴羅樹園精舎』がそれで『ある』が、『この件は』、『諸文献に通じるエピソードである』。『南伝』の「マハーヴァッガ」では、『彼女の美貌により』、『ますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという』。「雑阿含経」等に『よると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈尊は弟子』衆に、『その美貌で心が揺れないように四念処を説いたとある』。「㮈女祇域因縁経」では、『彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって』、十五『歳の時に』は、七『人の王が求婚したが』、『すべて断った。Sumanā(須漫)、Padumā(波曇)の二女も』、『彼女と同じように各々』、『樹華より生まれたという。彼女と二女は共に』五百『人の女性を率いていたが、釈尊の説法を聞いて出家し』、『悟りを得たという』とある。しかし、考えて見ると、マンゴーは中国には分布しないから、古くは漢字がない(ウィキの「マンゴー」には『漢字表記の「芒果(現代中国語でmangguo)」は、マレー語の mangga もしくは他の東南アジアの言語からの直接の音写である』とある)。されば、実が食えるのだから、林檎に近いと考えて、林檎の意の「㮈」「柰」を取り敢えず当てたとして、何らの不思議はなく、鬼の首捕った如く熊楠が「誤り」と指弾するのは、これ、ちょっと当たらないんじゃないかなぁ?

又追加(大正十五年九月記) 菴摩羅女が此果より生れた次第は、後漢の安世高が譯した「柰女耆域因緣經《ないによぎいきいんねんきやう》」に詳《くは》し。「除恐災患經」には、果より生まれたとせず、花から生れた、としてある。コックスの「アリアン諸民神誌」二の三〇四頁に引《ひい》た「スリア・バイ譚」には、太陽の娘が、妖巫(やうぶ)に、池に沈められて、金色の蓮《はす》となり、妖巫、之[やぶちゃん注:底本「え」。誤植と断じて、かくした。]を燒くと、其灰より、マンゴ樹が生え、王、其花を愛し守ると、其果が熟して、地に落ち、中から、太陽の娘が出《いで》て、それ迄、忘れ居《をつ》た王が、是は自分の妃と氣付《きづい》た、とある。フレールの「デツカン舊日談」六章も、ほゞ同談だが、妖巫でなくて、王の正后が、次妃を井《ゐ》に陷《おちい》れた等、異《かは》つた所が、大分、ある。ドラコットの「シムラ村話」に、隱士が、子なき王に敎へてマンゴを、其妃に食はしめ、多子を擧げた譚あり。キングスコウトの「太陽譚」三〇〇頁に、梵志[やぶちゃん注:バラモン教徒。]が多年苦行の功有《あり》て、神より、食つたら死なぬマンゴを授かり、悅ぶと、妻が、「そんな物を食《くふ》て永く貧乏するより、いつそ、王に奉つて、金でも貰ひ、短く榮えるが、よし。」といふ。由《より》て、王に奉ると、王、その后の、益《ますま》す、美ならんを、望み、之を、后に授く。后は自分の情夫を愛するの餘り、それに贈ると、情夫は、又、之を、日頃、命までも打込《うちこん》だ娼妓にやつた。これは感心な女で、「吾れ、いつ迄も若く永らへて、無數の男に枕をかわし[やぶちゃん注:ママ。]たつて詰《つま》らぬ。之を、國王に獻じて、冥福を植《うゑ》ん。」と決心して、王へ献じた。國王、「珍果が、舞ひもどつてきた。」と驚異して、その道筋を糾《ただ》し、貞操無双と信じた王后さえ[やぶちゃん注:ママ。底本はスレてはっきりしないが、「え」の上部が見える。]賴むに足《たら》ぬと氣が付《つい》て、卽時に、王位を棄て、苦行仙と成《なつ》た、とある。これらの談《はな》しから、マンゴは、誠とに、「吉祥の果」で、人に子を授け、子供の壽命を守るが本誓なる鬼子母神に、相應な持ち物と知る。

[やぶちゃん注:だからね、熊楠センセー! 「吉祥果」は、マンゴーじゃあ、ないんだよっつうーの!

2023/06/17

「新說百物語」巻之四 「沢田源四郞幽㚑をとふらふ事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

新說百物語巻之四

 

   沢田源四郞幽㚑(ゆうれい)をとふらふ事

 周防の山口に、中頃、澤田源四郞といふものあり。

 十四歲にて、小姓をつとめ居《をり》けるが、器量よく、發明にて、やさしき美少人《びしやうじん》にてありけるを、戀こかるゝもの[やぶちゃん注:ママ。]、男女にかきらす[やぶちゃん注:総てママ。]、おゝき[やぶちゃん注:ママ。]なるに、同家中、鈴木何某といふもの、わりなく、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]わたりて、念友(ねんいう)のまじはりを、なしける。

[やぶちゃん注:「念友」衆道の契り(男色関係)を結ぶこと。]

 又、其城下に、一寺ありて、㐧子《でし》を素觀(そくはん[やぶちゃん注:ママ。])とぞ申しける。

 是も、源四郞に心をかけけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、鈴木なにかし[やぶちゃん注:ママ。]と、兄弟の契約いたしけると聞きて、安からす[やぶちゃん注:ママ。]に思ひ、其日より、斷食(だんじき)して、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]同月余[やぶちゃん注:月の終りの頃か。]に、相《あひ》はてけるが、臨終の前より、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]のおそろしき事とも[やぶちゃん注:ママ。]ありて、死する時は、その顏に、目をあてゝ見るもの、なし。

 一兩月も過《すぎ》て、源四郞が寢間に、あやしき事ども、あり。

 ある時は、やなり・しんどうし、又は、緣の下より、大坊主《おほばうず》の形、あらはれなんどして、數日《すじつ》、やまさりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、夫より、源四郞も、ふらふらと、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]出し、兩親のなけき[やぶちゃん注:ママ。]、おゝかたならす[やぶちゃん注:総てママ。]

 鈴木も、毎日、問ひ來たりて、看病なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたしける。

 何分、

「死れうの業(わさ[やぶちゃん注:ママ。])なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、貴僧・高僧を賴み、種〻のとふらひいたしけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、つゆ、其しるし、なかりける。

 化物も、次㐧に、つのりて、夜ふくるまて[やぶちゃん注:ママ。]もなく、最早、宵より、あらはれけれは[やぶちゃん注:ママ。]

「なにさま、きつね・狸のわさなるへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」

とて、樣〻に、しけれとも、やます[やぶちゃん注:総てママ。]

 源四郞は、日々に、やせ、おとろへける。

 後には、家内も、くたひれて[やぶちゃん注:ママ。]、近所の若きさふらひ、かはるかはる、夜伽(《よ》とき[やぶちゃん注:ママ。])に來たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、壱人の侍、

「夜ふけての、目さまし。」[やぶちゃん注:後に「に」を送りたい。]

ふと、栗を、袖に入れてきたりけるを、火鉢に、くべて、あふり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 


Sokuwan

 

[やぶちゃん注:底本では、ここ。火鉢の傍に栗が描かれているので、このシークエンスと判る。キャプションは、右幅下に、御伽衆の一人の台詞、

   *

そりや

  いま

 

   でた

     は

   *

左幅下方に、別な御伽衆の台詞、

   *

またやなり

    が

 する

  ぞ

   *

とある。]

 

 其内に、又々、家内、しんどうして、

『すはや、いかやうのものか、出《いで》ぬらむ。』

と、おもふ所に、ありし出家のかたちにて、さもおそろしき顏にて、源四郞の枕もとに、たちよらんとする時に、折ふし、栗は、

「ほん」

と、火鉢より、飛出《とびいで》て、一時にて、そばにありあふものも、きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]けるか[やぶちゃん注:ママ。]、化物も、

「はつ」

と、きへ[やぶちゃん注:ママ。]失《うせ》ける。

 いかなる故にや、その夜は、やなりも、やみて、へんげも、來たらす[やぶちゃん注:ママ。]、みなみな、心安く夜とき[やぶちゃん注:ママ。]をいたしける。

 扨、又、あすの夜も、誰彼《だれかれ》來たりて、伽《とぎ》をいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、その夜より、絕《たえ》て何のさはりもなく、一向、化物の音《おと》もなかりけり。

 夫より、源四郞も快氣して、何事なく成人いたしける。

 おもひかけなき栗の音に、變化の止みけるは、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]にも、仕合《しあはせ》の事なりし。

[やぶちゃん注:なかなか興味深い譚である。妖怪の場合、多くの相応の存在は、その場にいる人間の心の内を読みとることができ、そのために、やすやすと人を化かしたり、恐ろしがらせたり出来るという通性がある。例えば、本邦の「山人(さんじん)」や「山男」は別名を「さとり」(覺り)と言い、先に人間の考えていることを言って人を驚かすことを得意とするが(「柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その3)」の「ヤマノコゾウ」の私の注を参照されたい)、私の記憶によれば、江戸時代の怪奇譚の中に、山小屋を訪ねてきた山男然とした背の高い鬚だらけの毛むくじゃらの「さとり」と男が話し合ったが、「さとり」は常に男の心中で思ったことをすぐに言い当てて悦に入っていたが、たまたま囲炉裏の薪が爆(は)ぜて「パン!」と「さとり」の方に飛んで行った。すると、「さとり」は「人間は考えていないことを即座に出来る恐ろしいものだ!」と言って足早に去って行ったとあったのである。則ち、異界の存在である妖怪や幽霊は、そうした人知を超えた読心術を持っているのであるが、自然界の偶発的な現象が脅している彼らの眼前に出現した時、心底、彼等は恐ろしい気持ちに捕らわれてしまうのである。妖怪ならば、二度と、人間界には近づかず、山奥へと消えるであろう。では、このケースのような怨念の亡霊の場合は、どうか? 若衆道の愛欲の怨みに集中して、源四郎を呪い殺さんとして出現した素観の霊は、まさに、以上に述べたような、超自然を越えた自然が起こした栗の爆ぜた音に完全に集中してしまう、しまわねばならないのが、彼らの哀しい通性なのである。その結果として、亡霊の心をただ占めていた唯一の「愛欲の怨み」が、その瞬間に消滅してしまう。とすれば、亡霊も消滅してしまうのが、道理として判るのである。或いは、素観は、曲がりなりにも修行僧であった。されば、禅機と同じく、地獄に落ちることを「潔し」として消えていったのかも知れないな、などと素観寄りの解釈も、私は夢想したりしたのであった。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「行く春」景翩翩

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  行 く 春

 

            三 月 春 無 味

            楊 花 惹 曉 風

            莫 行 流 水 岸

            片 片 是 殘 紅

                  景 翩 翩

 

あぢきなの春のをはりは

朝かぜにやなぎなびくと

行くなかれ 川べの岸に

ちり果てて花ぞいさよふ

 

[やぶちゃん注:作者景翩翩は既出。標題は中文サイトのこちらで「三月卽事」であることが判った。推定訓読を示す。

   *

 三月卽事

三月 春 無味たり

楊花(やうくわ) 曉風(げうふう)に惹(ひ)かる

行く莫(な)かれ 流水の岸へは

片片(へんぺん)として 是れ 紅(くれなゐ)を殘せ

   *

「卽事」眼前の景色。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「池中の鞍」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○池中の鞍(二號一一七頁)に較《やや》似た事、加賀の富樫政親が沈んだ池の底に、今も晴天には其鞍がみえ、其の沈んだ六月八日に限り、水面に浮上《うきあが》るといへば、誰が取《とら》ふとしても取れぬと見える。それに似寄《によつ》た話は、天正十三年、姉小路《あねこうぢ》少納言秀綱、金森可重《ありしげ/よししげ》に攻《せめ》られ、飛驒の松倉城を出《いで》て信濃へ落行《おちゆ》く。大沼川の鄕民に擊《うた》れて討死の際、是迄大事に持來《もちきた》りし金子《きんす》を川へ投込《なげこみ》、「我一念の籠りし金《かね》、若《もし》土民の手に渡りなば、石に成れ。」と言《いへ》り。其金、今に川底に見ゆれど、取上《とりあぐ》れば、石になる由、言傳《いひつた》へけり」(「飛驒治亂記」)〔「成上り物」なる狂言に、所謂、田邊別當のくちなわ太刀、亦、此《この》類語だ。〕。元魏の朝に譯すところの「賢愚因緣經」に、阿淚吒《あるいた》が發見した閻浮檀金《えんぶだんごん》を取りに往く王侯が、七度迄も往く每に、其金《きん》が死人としか見えなんだと出たり、又、僧に、一錢、施せし者が、金を獲たのを、王が取ると、石に成《なつ》た話、「雜譬喩經」に出づ。

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の下に編者注があり、『金沢生「池中の鞍」』への論考である。

「富樫政親」(康正元(一四五五)年~長享二(一四八八)年)室町後期の武将。富樫氏十二代当主で加賀半国の守護。「応仁の乱」では細川方に属し、山名方の弟幸千代と争い、一時、加賀国を追われたが、本願寺の蓮如の助けを得て、加賀一国の守護職を回復した。しかし、後、国内の一向一揆との戦いに敗れ、高尾(たこう)城(現在の金沢市内にあった)で自害した。享年三十四。(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。義経を救ったことで知られる富樫泰家は、富樫氏六代当主である。

「姉小路少納言秀綱」(?~天正一三(一五八五)年)は飛騨松倉城(グーグル・マップ・データ)当主で姉小路氏(三木氏)の後継者にして飛騨国を支配した。秀吉の命を受けて飛騨に侵攻して来た金森長近の追討を受け、松倉城は落城、秀剛は脱出したが、信濃を落ち延びて行く途中、落ち武者狩りに遭い、殺害された。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「飛驒治亂記」を国立国会図書館デジタルコレクションの『飛驒叢書』第三編(大正三(一九一四)年にある同書の当該部(左ページ上段)を確認したところ、「大沼川」は「大根川」の誤りであることが判った。「選集」も直していない。但し、現在の長野県にはこの名の川はないので、不明である。

『「成上り物」なる狂言に、所謂、田邊別當のくちなわ太刀』狂言「成上がり」。壺齋散人(引地博信)氏の「壺齋閑話」の「日本語と日本文化」の『狂言「成上がり」』を読まれたい。

「閻浮檀金」サンスクリット語「ジャンブーナダ・スヴァルナ」の漢音写。閻浮樹(閻浮提(えんぶだい:人間世界)の雪山(せっせん)の北、香酔山(こうすいせん)南麓の無熱池(むねっち)の畔りに大森林を成すという大木)の森を流れる川の底から採れるという砂金。赤黄色の良質の金であるとされる。「えんぶだごん」とも読み、「閻浮提金」とも書く。]

追 加 (大正十五年九月記)亡友廣畑岩吉の話に、田邊の榮(さかえ)町に「内金(うちきん)」といふ綿屋の老婆、二階より、町を見下《みおろ》すに、一朱金、三枚、落ちあり。二階より、下り、見れば、なし。上りて見れば、あり。由《よつ》て、二階より、綿を落とし、見當を付けおき、更に下りみれども、なし。又、上りてみる内、小兒來り、拾ひ去りし。「人の運は、定まれり。」と歎息せり、と。「十訓抄」に、釋尊、阿雜と、つれ行くに、人、金を落しあり。阿難、みて、「毒蛇。」といひ、釋尊、又、「大毒蛇。」と云《いひ》て過ぐ。後に來た者、之を拾ひて、罰せられ、大《おほい》に苦しんだ、と。これは、金が、眞に蛇とみえたでなく、その禍ひを、毒蛇にたとえ[やぶちゃん注:ママ。]た迄だ。然し、金が實際に毒蟲に見えた話も南印度にある。大富人が、大きな家を十年掛つて建て、落成して、大饗宴を張り、客、みな、散じて後ち、其家に臥すと、天井より、「落《おち》ても、よいか。」と聲する。『扨は。鬼が、先づ、住《すんで》、我を殺す積り。』と、其夜、立退《たちのい》て再び往《ゆか》ず、半年の間だ、閉《とざ》し置《おい》た。其時、赤貧の梵士[やぶちゃん注:バラモン教徒。]、家の屋根落つること、旦夕に逼り、修復ならず、因て、富人に乞《こふ》て、かの鬼屋數に移りすむ。永々《ながなが》貧乏に苦しむよりは、家内諸共、鬼に殺されたがましといふ了見だ。扨、其夜、又、天井から、「落ても、よいか。」と言《いつ》たので、「よい」と答へた。すると、數限りもない金銀が落ちて、埋まれ[やぶちゃん注:ママ。「埋もれ」の誤記か誤植。「選集」は『埋もれ』とする。]そう[やぶちゃん注:ママ。]だから、「やめよ」といふと止つた。それより、每夜、金錢がふるので、梵士、大いに富み、追ひ追ひ、評判、高くなつて、富人の耳に入《はいつ》たので、聞き正しにきた。梵士、隱さず、事實を話し、一所に臥して守ると、夜中に、「落ても、よいか。」と、きた。「落よ。」といふと、金錢がふり出し、梵士が拾ひ集める。富人の眼には蠍《さそり》がふり積もるとしかみえず。梵士、拾ひ了《をは》つて、「これを、皆、持ち行き玉へ。」といふと、富人、泣き出し、「曾て、父に聞《きい》は、「福は、福ある人に來《きた》る。」と。吾れ、此家に住《すん》だら、蠍に殺された筈、それを金錢と見るは、貴公に幸《さひはひ》あり。此家は、進呈するから、住み玉へ。」と云たから、梵士、大富人となり、恩を忘れず、年々、其富の半分を、他に與へたといふ(一八九〇年板、キングスコウトの「太陽譚」二三章)。ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」には、妻が、「其處《そのところ》に、錢で滿ちた壺ありと、夢みた。」と、其夫に語るを、屋根の上で、盜賊どもが聞き、先づ、其處に往《いつ》て、掘れば、壺、あり。開きみると、大きな蛇が、首を出す。盜等《ぬすつとら》、「一盃、食はされた。」と怒り、其壺を、屋根の上に運び、屋根を穿《うが》つて下へ落すと、蛇が、無數の錢に變じて、夫婦の上へ落ち、それを集めて大《おほい》に富《とん》だ、とある。ガーネットの「土耳其《トルコ》婦女と其俗傳」二には、アルバニアで、時に、隱財が、自づと、地上に現はるゝ事あり、見付《みつけ》た者は、誰でも、之を取り得れど、人に洩らすと、忽ち、金が、炭に變ず、とある。

[やぶちゃん注:「廣畑岩吉」サイト「localwiki」の「白浜」の「高瀬川」の中で、『南方熊楠が「歩く百科事典」と評した』人物とあった。

「田邊の榮(さかえ)町」和歌山県田辺市栄町(さかえまち:グーグル・マップ・データ)。

『キングスコウトの「太陽譚」』不詳。但し、南方熊楠の「(附) 虎が人に方術を敎へた事」(昭和五(一九三〇)年十月発行の『民俗学』(三ノ十)初出)には、『キングスコウト及ナテーサ、サストリの太陽譚』とあるので共著らしい(国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第一巻(十二支考Ⅰ)のここで確認)。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが一九〇九年版の原本。]

「新說百物語」巻之三 「先妻後妻に喰付し事」 / 巻之三~了

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   先妻後妻に喰付《くひつき》し事

 江府《えふ》[やぶちゃん注:江戸の異称。]何町とやらいひける所に、壱人《ひとり》のあら物や、ありける。

 妻をむかへて、二、三年にもなりたりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、又、外《そと》に、手かけを、かこひて、半年はかりも過きて[やぶちゃん注:総てママ。]、本妻を、うるさく思ひ、何とそ[やぶちゃん注:ママ。]して離緣したく思ひけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]出すへき[やぶちゃん注:ママ。]をりもなく、見おとしたる事もなけれは[やぶちゃん注:ママ。][やぶちゃん注:離縁を告げるに相応しい落ち度もないので。]、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]と思案をめくらし[やぶちゃん注:ママ。]、我内《わがうち》の金銀を、したい[やぶちゃん注:ママ。]に、へらし、諸道具など、賣りしろなし、次第に、貧になりたる樣子に似せて、あるとき、妻にむかひて、

「かくの如く、渡世に、ゆだんなく、かせけとも[やぶちゃん注:総てママ。]、手まはし、あしくなりたり。我身も、一先(ひとまつ[やぶちゃん注:ママ。])奉公にても、いたしみんと、おもふなり。御身も、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]やしきつとめにても、いたさるべし。なになにとぞ、末にては、又々、一所に、くらさん。」

と、まことしやかにかたりける。

 女房、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]、是《これ》を聞きて、

『是非もなき事。』

と、おもひ、人を賴み、あるやしきかたの、物逢奉公[やぶちゃん注:「ものあひほうこう」か。意味不明。識者の御教授を乞う。]に出《いで》たりける。

『さだめて、あとにて、おつと[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]も、手代奉公にても、いたさるべし。』

と、おもひくらしけるが、一月たてとも[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、たよりもなく、二月たてとも、おとつれ[やぶちゃん注:ママ。]もなかりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるとき、御供に、くはへられて、湯嶌(ゆしま)の天神へ、まいり[やぶちゃん注:ママ。]けるか[やぶちゃん注:ママ。]、我住みける町を通りしに、

『先に住みなれし家は、今にては、何方《いづかた》の人の住《すみ》けるやらむ。又、何店(《なに》みせ)にかあらむ。』

と見けれは[やぶちゃん注:ママ。]、やはり前の通りの、のうれんをかけ、我おつと、店に帳(ちやう)をつけて居たりける。

 内より、若き女、茶わんを持ち出《いで》て、さし出しけるを、つと、うけ取りて、のみたりける。

『是れは。いかにもふしき[やぶちゃん注:ママ。]なる事かな。』

と、おもひけるより、心も、すます[やぶちゃん注:ママ。]、行《きゅき》もとり[やぶちゃん注:ママ。]の御ともにも、物をも、いはす[やぶちゃん注:ママ。]、思案かほにてありしかは[やぶちゃん注:ママ。]、傍輩《はうばい》も、なにの心も、つかず、

「心にても、あしきや。」

と、たつねしかは[やぶちゃん注:総てママ。]

「いかにも。心持ち、あしく。」

とて、歸へりても、すく[やぶちゃん注:ママ。]に、打ちふし居けるか[やぶちゃん注:ママ。]、夜る夜るは、おそはるゝやうに、うめき、夜、あくれば、何のかはりたる事も、なし。

 四、五日にもなりて、いよいよ、夜の内は、さはかしく[やぶちゃん注:ママ。]、昼は、物をもいはす[やぶちゃん注:ママ。]して、伏し居たり。

 ある夜、夜中過《すぎ》に、殊の外、さはかしく[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]ありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、皆々、打ちよりて、部屋にゆき、見たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、正氣をうしなひて、右の手に、女の髮を、百筋はかり[やぶちゃん注:ママ。]、にきり[やぶちゃん注:ママ。]て死し居《ゐ》たり。[やぶちゃん注:失神・気絶していた。]

 水なと[やぶちゃん注:ママ。]、のませ、かいほういたしけれは[やぶちゃん注:ママ。]、息出《いきいで》て、よみかへりたり。

 又、そのあすの夜は、宵のうちより、くるひにはしりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、かん病の傍輩も、くたひれ[やぶちゃん注:ママ。]、ふしけるが、八つ頃[やぶちゃん注:午前二時頃。]にいたりて、身の毛もよたちて[やぶちゃん注:ママ。]、さはかしかりけるに、皆々、目をさまして見けれは[やぶちゃん注:ママ。]、此度《kのたび》は、口のはたは、血まみれになり、顏も、おそろしく、絕死《ぜつし》したり。[やぶちゃん注:同前で、失神発作を起こしたのである。]

 いろいろと、かいほうして、よみかへり、そのまゝ、夜中ながら、肝入(きも《いり》)[やぶちゃん注:奉公の斡旋業者。]のかたへ、送りかへされし。

 そのゝち、きけは[やぶちゃん注:ママ。]

「あら物やの後妻《うはなり》は、夜分、ねたりける折に、あやしき女、來たりて、喰ひころされし。」

と、うわさしける。

 そのはうはい[やぶちゃん注:ママ。]、京へ歸りて、かたり侍る。

 

新說百物語巻之三

[やぶちゃん注:「後妻」には、読みが振られていないが、標題は「ごさい」でもよかろうが、最後の噂の台詞は、必ずや、「うはなり」でお読みたいのである。]

「新說百物語」巻之三 「親の夢を子の代に思ひあたりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   親の夢を子の代に思ひあたりし事

 敦賀(つるが)に壱人《ひとり》の日蓮宗の老人ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、代々の日蓮宗にて、殊の外の信者なり。

 あるとき、我が子にかたりていふやう、

「ゆふへ[やぶちゃん注:ママ。]、ふしき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]なる夢を見たりける。所は、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]ともおほえす[やぶちゃん注:総てママ。]、たゝ[やぶちゃん注:ママ。]もくねんとして居たりけるが、異香(いかう)、四方に薰(くん)じ、音樂など、聞へけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]

『ふしきなる事かな。』

と思ひける所へ、六尺はかり[やぶちゃん注:ママ。]の、あみた如來[やぶちゃん注:ママ。]後も同じ。、まさしく目前に來迎(らいかう[やぶちゃん注:ママ。])あり。

『我は、是れ、戒光寺の仏《ほとけ》なり。なんぢ、おこたらず、御經を、とくじゆすること、奇特(きどく)なり。それによつて、來世は、極樂世界にいたらむ事、うたかひ[やぶちゃん注:ママ。]なし。』

と、の給ひて、そのまゝ、姿は見へ給はす[やぶちゃん注:ママ。]。扨々、ふしきなる夢を、見ける。」

と、かたりける。

 それより、一兩月過《すぎ》て、此老人、不食《くはず》になり、十日ばかり、いたはるけしきにてありけるが、

「あれあれ、又々、戒光寺のあみた如來、御出《おいで》なり。」

と、手をあはせ、おかみ[やぶちゃん注:ママ。]、そのまゝ、息たへ、あひ果てける。

 そのゝち、三年もすきて[やぶちゃん注:ママ。]、その子、用事ありて、京へ上りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、次手《ついで》に、都の名所など、たつねめくり[やぶちゃん注:総てママ。]、泉涌寺《せんゆうじ》にまふてけるか[やぶちゃん注:総てママ。]、ある寺の佛を拜みけるか[やぶちゃん注:ママ。]、前かた、親のはなしに、くはしくきゝし御仏《みほとけ》に少しもたかはす[やぶちゃん注:総てママ。]

『是れは。ふしきなる事かな。』

と、おもひて、其寺の名をたつねしかは[やぶちゃん注:総てママ。]、戒光寺と申しける。

 あまりの事の、ふしきにも、有難く、又、親のことなと[やぶちゃん注:ママ。]おもひ出《いだ》して、淚を流し、下向いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]

「世には、ふしきなる事も、あり。」

と、井関《ゐぜき》氏の人、かたられし。

[やぶちゃん注:「戒光寺」滋賀や、近場の京都で、日蓮宗の、この寺名を調べ得なかった。しかし、後で、息子が、真言宗泉涌寺派の総本山泉涌寺に詣でた序でに、その近くの(推定)「ある寺の佛を拜」んだところが、生前の「親のはなしに、くはしくきゝし御仏に少しも」違わなかったので、不思議に思い、その「寺の名を」尋ねたところが、「戒光寺」であったとあるのは、これ、泉涌寺の塔頭(正保二(一六四五)年に後水尾天皇の発願により現在地に移転し、泉涌寺の塔頭となっている。山号は東山。本尊は釈迦如来。正式名称は「戒光律寺」であるが、「丈六さん」(本尊の敬愛称)とも通称される)である戒光寺(グーグル・マップ・データ)としか思われないのだ。しかし、同寺の公式サイトを見ても、少なくとも現在、仏像の中に阿弥陀如来像はないのである。しかも、この親は、「代々の日蓮宗にて、殊の外の信者」であったとあるので、ちょっと不思議である。「少なくとも、息子は、この奇特で、日蓮宗から真言宗に改宗しないとおかしいだろ!」と突っ込みたくなったのである。話者の「井関」なる人物が、この戒光寺の檀家だった可能性はあろうか。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「おなじく」(前詩「行く春の川べの別れ」という意味)趙今燕

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  おなじく

 

            淼 淼 春 江 上

            孤 舟 去 莫 留

            思 君 若 流 水

            日 夕 伴 行 舟

                   趙 今 燕

 

春の江のながれはろばろ

ゆく舟やとどまりもせず

わがこころ水にかも似る

朝ゆうべ君を追ひつつ

 

[やぶちゃん注:作者は前の同人の「行く春の川べの別れ」を参照されたい。標題は「送別」。以下、推定訓読を示す。

   *

  送別

淼淼(べうべう)たり 春の江上(かうしやう)

孤舟(こしう) 去りて留まる莫(な)し

君を思ふは 流水のごとく

日夕(につせき) 行く舟に伴へり

   *

「淼淼」(現代仮名遣「びょうびょう」)水面が果てしなく広がるさま。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「行く春の川べの別れ」趙今燕

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  行く春の川べの別れ

            一 片 潮 聲 下 石 頭

            江 亭 送 客 使 人 愁

            可 愁 垂 柳 糸 千 尺

            不 爲 春 江 綰 去 舟

                  趙 今 燕

 

岩にせかるる川浪や

人に別るるわが歎 長々(ながなが)しくも

徒らに堤のやなぎ糸たれて

去りゆく舟を得つなぎもせず

 

   ※

趙今燕  十六世紀中葉。 明朝萬曆年間。 名は彩姬。 吳の人。 奏淮[やぶちゃん注:「秦淮」(しんわい)の誤記か誤植。]の名妓である。 才色ともに一代に聞えてゐた。 日ごろ風塵の感を抱いて妄(みだり)に笑(せう)を賣ることを好まず、書を讀むことを喜び、靑樓集を著したといふ。

   ※

[やぶちゃん注:この原詩の標題は「暮春江上送別」であるが、転句は中文サイトのこちらを見ても、「可憐垂柳糸千尺」である(「糸」は「絲」とする)。国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』第十号の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」を見たところ、原詩は「可憐垂柳糸千尺」であり、佐藤春夫が恣意的に確信犯で書き変えていることが判明する。しかも、佐藤は後発の「春夫詩抄」(岩波文庫・初版・昭和一一(一九三六)年刊/改版・昭和三八(一九六三)年)では、「可悲垂柳糸千尺」とさらに書き変えてもいるので、注意されたい。

・「萬曆年間」明の第十四代皇帝神宗の在位中に使われた。一五七三年から一六二〇年まで。

・「秦淮」六朝時代の首都南京の近くを流れる川名(秦代に開かれた運河)。両岸には酒楼が多く、今に至るまで、風流繫華の地である。

・「笑を賣る」売淫すること。

 以下、正しい原詩を示して、推定訓読する。

   *

 暮春江上送別

一片潮聲下石頭

江亭送客使人愁

可憐垂柳糸千尺

不爲春江綰去舟

  暮春江上の送別

 一片の潮聲(てうせい) 石頭(せきとう)を下(くだ)り

 江亭 客(かく)を送る人を愁へしむ

 憐(あは)れむべし 垂柳(すいりう)の糸(いと) 千尺

 春の江(かは) 去れる舟を綰(つな)ぐことも爲(せ)ざる

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二三番 二度咲く野菊

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一二三番 二度咲く野菊

 

 昔、雫石の里に、野菊といふ、何所にもないやうなええ女(ヲナゴ)があつた。雫石の殿樣の手塚左衞門尉といふ人に見染められてオキサキに上つた。ある日殿樣の前でソソウな音を出してしまつたためにお咎めを受けて暇《ひま》を出された。そして今のお菊ケ井戶と云ふ井戶の傍らに庵を結んで其所に住んで居た。

[やぶちゃん注:「雫石の殿樣の手塚左衞門尉」雫石城は現在の岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)下町東(しもまちひがし)の八幡神社(グーグル・マップ・データ)に主郭があった平城。サイト『お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】』の城迷人たかだ氏の『雫石城(雫石御所)とは 高原である雫石の奪い合いも』の記事によれば、『最初の築城は不詳ですが、鎌倉時代のはじめに、平忠正の孫・平衡盛が、大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したとされます』。『平衡盛(たいらのひらもり)は、奥州攻めで戦功をあげ、滴石荘の戸沢村に屋敷を構えると、戸沢氏を称しました』。『更に、その子・戸沢兼盛は』元久三・建永元(一二〇六)『年に南部氏から攻められて、山を越えると、出羽国の山本郡門屋(かどや)に進出し、出羽・小山田城を築きました』。『ただし、その後も、雫石は戸沢氏の領地として回復したようですが、戸沢氏の本拠は門屋城から戻ることはありませんでした』。『戦国時代の』享禄五・天文元(一五三二)年に、『戸沢氏は城主の配置換えをおこなった記録があり、滴石城には』家臣団の一人である(☞)『手塚左衛門尉が入っています』。『その後、滴石の戸沢政安は、南部晴正の重臣である石川城主・石川高信によって攻撃を受けたようです』。天文九(一五四〇)年、『雫石城には、石川高信をはじめ、福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸氏、玉山氏、工藤氏らが押し寄せました』。『戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城にて戦いましたが』、『敗れ、手塚氏は討死し、長山氏は自らの手で長山城を焼き払い、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ち伸びました』。『現在の雫石城址にある八幡宮は、滴石城主・手塚左衛門の氏神でした』。『その秋田街道の両側を挟むように、雫石城が築かれていたようです』とあったことから、本篇の話柄内時制は事実としてあったならば、享禄五・天文元(一五三二)年から天文九(一五四〇)年までの、僅か八年の閉区間のことということになる。本書の中で、具体に時制がここまで限定される中世の話というのは、他に例を見ないものである。なお、城郭サイトはここに限らず、参看した三つのどこも、城跡の住所を『岩手県岩手郡雫石町字古館』(似た現行地名は岩手県岩手郡雫石町御明神古舘(みょうじんふるだて):同前)とするのだが、ここは、主郭位置から四キロメートルも西南西の完全な平地であって、おかしい。確かに八幡神社が主郭跡であることは、ストリートビューの単体の一枚の写真で、同神社主殿の左に、ぼやけているが、「雫石城跡」の説明版があるのが、はっきり分かる。

 それから何年かの後に、殿樣は鷹狩の歸りに雫石の町で、不思議な童が、

   黃金《こがね》のなる

   瓢簞(フクベ)の種や…

 と言つて步いて居るのに逢つた。殿樣がお前の賣る種は眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])に黃金がなるかと訊くと、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に黃金がなるが、ただ屁《へ》をひらない人が蒔かねばならぬと子供は答へた。殿樣は、これは可笑しなことを言ふ子供だ。世の中に屁をひらぬ人があるものかと大笑ひをした。それを聽いて子供は言葉を改めて、そんなら何故殿樣は私の母ばかりをお咎めになつて、暇を出されたか、其譯を聽きたいと言つた。それで始めて、それが我子であることが分り、俺が惡かつたと言つて、母の野菊と共に再び御殿へ上《あが》ることになつた。

 そこで斯《か》う謂ふ歌がはやつた。

   雫石はめいしよどこ

   野菊の花が二度ひらく

(岩手縣雫石村の話である。田中喜多美氏の分の二一。筆記には尙左のやうなことが記されてあつた。

 昔雫石の八幡館の主《あるじ》、手塚左衞門尉と云ふ人が、野菊に惚れて妾《めかけ》に上つたが、譯あつて城内に置くことが出來ず、櫻沼に館をこしらへて野菊を置いた。後に八幡館は落城して手塚は仙北《せんぼく》の角館《かくのだて》へ遁げたので、櫻沼も其時きりになつた。土地の人が後に舊主を此處に祀つたので、周りの座は昔の跡である。昔は美しい女の姿が櫻沼に見え見えした。あれは野菊のタマス(魂)だと謂つた。それだから櫻沼の神樣は女である。

 野菊は百姓の娘だが、美しかつたので三度も御殿へ上つたといつて昔話になつてゐる。

 此地に今一人、和賀《わが》郡の澤内《さはうち》にも美《うつくし》い女があつた。やはり殿樣のお目にとまつて寵愛を受けたので、澤内三千石の御藏人《おくらにん》が御免になつたと語り傳へてゐる。

   澤内三千石お米の出どこ

   桝ではからねで箕ではかる

 この歌もそれから出來たと謂つて、末の句は「身ではかる」と解せられゐる。(晴山《はれやま》村、冨田庄助老人談。)亦雫石の古城址から東へ十町ほど離れた、御所村に野菊の井戶と謂ふのがある。この井戶の水でツラ(面)を洗ふと美女になると謂ふので、村の娘達は今でも行つて洗ふ。其近くに野菊の墓といふのがある。その墓地の所有者德田彌十郞殿の家には、野菊の鏡といふものが傳はつて居る。明治四十三年かに九十幾ツで歿した同家の祖母が、嫁入《よめい》つて來た時にはもう此家に其鏡があつた。その祖母の話に、以前一度其墓を掘つた事があつて、玉や銀の細工物や色々な物が出た中で鏡だけが用に立つので代々野菊の鏡と謂つて使用して居たと謂ふ。

 自分(田中君)等も其鏡を一見した後、其墓へ案内してもらつて行つて見た。畠の中の塚で、あまり大きくない自然石の文字もなにも無いものが立つてゐた(大正十二年、御所村高橋彌兵衞老人談。)

[やぶちゃん注:附記は長いので、ポイントを本文と同じにし、全部引き上げた。

「櫻沼」岩手県岩手郡雫石町長山七ツ田のこの附近(グーグル・マップ・データ)は、古くは広い湿地帯で、大小の沼があった。その中の一つで、痕跡のような小さな「桜沼」が現存する。サイト岩手・雫石『弘法桜の地』ご案内」の「櫻沼」を見られたい。「底無し沼」と言われ、近くに龍神も祀っており、実際に蛇も多く棲息するとある。

「後に八幡館は落城して手塚は仙北の角館へ遁げた」先の注の歴史的事実と異なる。手塚は討死している。

「舊主」手塚。

「周りの座先」不詳。旧「櫻沼」附近からは、縄文時代晩期と考えられる配石住居跡四棟・石囲炉九基・埋甕九基が発掘されている。或いは、その埋没遺跡の膨らみを「座」と言っているのかも知れない。

「和賀郡の澤内」岩手県和賀郡西和賀町沢内(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「御藏人」読みはあてずっぽ。藩の米蔵の管理役であろう。

「晴山村」岩手県岩手郡雫石町長山晴山(ながやまはれやま:グーグル・マップ・データ)

「御所村」現在の雫石町西安庭(にしあにわ)・鶯宿(おうしゅく)・南畑(みなみはた)・繋(つなぎ)及び盛岡市繋にあたる(グーグル・マップ・データ。周囲を見られると他の地名も確認出来る)。

「野菊の井戶」現存するかどうか不詳。

「野菊の墓」同前。

「明治四十三年」一九一〇年。

「大正十二年」一九二三年。]

2023/06/16

「新說百物語」巻之三 「猿子の敵を取りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここ。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

  《さる》《こ》の敵(かたき)を取りし事

 若狹の國の百姓、ことの外、猿を愛して、二疋、猿を飼ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]、子を、一疋、うみて、二疋の猿、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]寵愛し、そたてける[やぶちゃん注:ママ。]

 あるとき、此小猿、庭のまん中に、何心なく、遊ひ[やぶちゃん注:ママ。]て居《をり》けるを、空より、鷹一羽、來りて、何の苦もなく、ひつつかみ、虛空(こくう)に、飛《とび》さりける。

 二疋の親猿、ともこれを見て、あるひは、木末にのほり[やぶちゃん注:ママ。]、又、飛上《とびあが》りて、かなしみ、なきけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、何方《いづかた》へやらむ、行きかたなく、そのせんも、なし。

 それより、二疋の親猿、食《しよく》も、くはず、ばうぜんとして居たりしが、二、三日もすきて[やぶちゃん注:ママ。]、二疋のさる、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]へやらむ、朝、とく、出《いで》て、歸へらす[やぶちゃん注:ママ。]

 皆々、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]をなして居たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、やうやう、八つ時[やぶちゃん注:午後二時頃。]に歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、魚のわたと覺しき物を、持《もち》て歸へりける。

 其魚のわたを、一疋の猿、かしらに、いたゝき、最前、子猿の居たりし所に、うつくまり[やぶちゃん注:ママ。]居《ゐ》けるが、半時ばかり過ぎて、又、空より、鷹一羽、飛び下り、かの魚のわたを、つかんて[やぶちゃん注:ママ。]、さらむとする所を、やにはに、下より飛《とび》つきて、かの鷹を、とらへける。

 あとにひかへし猿も出《いで》て、二疋して、羽かい[やぶちゃん注:ママ。「羽交(はが)ひ」。翼。]を、むしり、くらひつき、なんなく、鷹を喰ひころし、子のかたきを、取りたりける。

「畜類のちゑには、おそろしき事になん、侍る。」

と、かたりし。

[やぶちゃん注:う~ん、ここまでくると、実話というには、ちょっと難しいように思う。]

「新說百物語」巻之三 「あやしき燒物喰ひし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   あやしき燒物喰ひし事

 去る大國の國守より、一年に一度つゝ[やぶちゃん注:ママ。]、御領内御けんぶんに遣はさる事ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、その国の山家、三百軒ばかりの一村あり。

 庄屋・代官、壱人して、相《あひ》つとめ、その所を、おさむる冨江の何某といふもの、あり。

 御けんぶんの侍衆、その所に御滯留ありて、一宿《いつしゆく》ありけり。

 山家の事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、格別の馳走も、なりかたく[やぶちゃん注:ママ。]、料理も、おゝかた[やぶちゃん注:ママ。]は精進(しやうじん)にて、燒物ばかりは、さかなにてそ[やぶちゃん注:ママ。]、ありける。

 切目《きりめ》鰤(ぶり)のことく[やぶちゃん注:ママ。]にて、あぢはひも、殊の外、よかりける。

 其あけの日、仲間《ちゆうげん》壱人、そのあたり、ぶらぶらと、あるき、すこし高みに、小屋のありけるをのそき[やぶちゃん注:ママ。]てみれは[やぶちゃん注:ママ。]、あるひは、香《かう》のものやうの物なと[やぶちゃん注:ママ。]ありて、又、おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]桶に、魚のきりたるを、塩づけにして、五つ、六つ、ならへ[やぶちゃん注:ママ。]、をき[やぶちゃん注:ママ。]たりける。

 仲間、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]おもひけるは、

『ゆふへ[やぶちゃん注:ママ。]のやきものは、此さかなにてあるへし[やぶちゃん注:ママ。]。いさや[やぶちゃん注:ママ。]、やきて、くらはん。』

とて、四、五人、打《うち》より、火にて、あふり[やぶちゃん注:ママ。]くらふに、其味のうまき事、ゑ[やぶちゃん注:ママ。]もいはれず、二切・三切も喰《く》ひけるが、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、一身中《いつしんぢゆう》、あつくなり、酒にゑひたるごとく、ふらふらとして、足も立たす[やぶちゃん注:ママ。]、一向に、身も、なへて、正氣のあるものは、壱人も、なし。

 外の仲間、是れを見て、おゝきに[やぶちゃん注:ママ。]きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]、ことの外、さはき[やぶちゃん注:ママ。]、とやかくいたしけるを、亭主、冨江、きゝ付けて、其所へ來たり、

「もしも是は、小屋の内に、たくはへをき[やぶちゃん注:ママ。]し桶の内なるものを、喰ひ給はずや。」

と問ふ。

 しかしか[やぶちゃん注:ママ。]の樣子を、かたりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、何やらん、草の葉を持來《もちきた》り、水にて、のませける。

 しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、みなみな、其醉ひも、さめ、常のことく[やぶちゃん注:ママ。]になりたり。

「是は、何にて侍るやらん。又、ゆふへ[やぶちゃん注:ママ。]は、何の事もなく、今日は、かくのことく[やぶちゃん注:ママ。]、ゑひ侍る。」

と、とひければ、亭主、こたへていふ樣《やう》、

「別の物にても侍らず。此所は、おく山にて、海に遠く、殊の外、さかなの不自由なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、冬に至りて、蟒(うはばみ)の食《しよく》にうへて、よはりたる時をかんかへ[やぶちゃん注:ママ。]、かりいだして、ちいさく[やぶちゃん注:ママ。]切り、塩漬けにして、一年中の客に、つかひ侍る。此燒物を出《いだ》し申す時は、いつにても、連錢草《れんせんさう》をしたし物にして、付け侍る。さなけれは[やぶちゃん注:ママ。]、先のやうに、酒にゑひ[やぶちゃん注:ママ。]たる如くにて、四、五日も正氣は、是れ、なし。」

と、こたふ。

 夜前より、此燒物を喰(くい[やぶちゃん注:ママ。])けるもの、なにとやら、氣味あしく、ゑつき[やぶちゃん注:ママ。「嘔(吐)(ゑづ)く」。]などしけるものも、ありしとそ[やぶちゃん注:ママ。]

[やぶちゃん注:本邦の大型の蛇類を塩漬けにしたもので中毒を起こすというのは、ちょっと考え難いが、それがニホンマムシであって、毒が、例えば、口中内にあった傷から入った場合には、あり得ることかも知れないけれども、全員がそうなったというのは、説明がつかない。されば、これが実話であるならば(書き方自体が、かなりリアルであるから、実話であろう)、寧ろ、塩がうまく効いておらず、腐敗し、そこに強毒性の細菌・ウィルス・黴(かび)などが増殖していたと考えた方が、腑に落ちるように思われる。

「連錢草」双子葉植物綱シソ目シソ科カキドオシ属 Glechoma hederacea亜種カキドオシ Glechoma hederacea subsp. grandis 。「垣通し」の異名。当該ウィキによれば、本邦では、『北海道・本州・四国・九州に分布』するとあり、『丸い葉が並んで見えることから、連銭草(れんせんそう)という別名もある』とある。また、「薬用」の項には、『全草を乾燥したものは和種・連銭草(れんせんそう)、中国種・金銭草という名で生薬にされ、子供の癇の虫に効くとされる』。『このことから』、『俗にカントリソウの別名がある』。『地上部の茎葉には、精油としてリモネン、このほかウルソール酸、硝酸カリ、コリン、タンニンなどを含んでいる』。『一般に、精油には高揚した気分や高ぶりを鎮静する作用があるといわれて』おり、『過去の研究によれば、カキドオシの温水エキスを糖尿病の動物に与えた実験で、血糖降下作用があることが認められるとした報告もされていて』、『糖尿病治療にも応用できることが日本生薬学会で発表されている』。『しかし、動物実験により糖尿病に良いとされる発表については、これを疑問視する人もいる』。『生薬の連銭草は』、四~五『月ころの開花期に、地上部の茎葉を採取して陰干しにしたものである』。『民間療法では、尿道結石、胆石、利尿、消炎薬として』使われ、『幼児の癇の虫には』『煎じ汁を用いるとされ』ている。また、『湿疹の幹部に煎じ汁を直接塗ったり、糖尿病予防に服用するといった民間療法がある』が、『冷え症や妊婦への服用は禁忌とされている』とあった。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「椀貸穴」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○椀貸穴《わんかしあな》(二號一一六頁及三號一七六頁)

 ケートレーの「フェヤリー・ミソロジー」(一八八四年)二二〇頁に、獨逸のスマンスボルン泉が出る小山に、昔し、小鬼、住《すめ》り。村民、美衣裳《はれぎ》や馳走道具を借《かり》んと欲する時、其小山の前に立ち、明日、日出前に、此小山で物借《から》うと誦《とな》えて、欲《ほし》い物を告置《つげお》くと、必ず、貸して吳《くれ》た。返禮には些《すこし》[やぶちゃん注:「選集」では『ちと』と振るが、採らない。]の馳走分けを捧ぐれば、鬼が滿足した。又、二九五頁に、英國サレイ州のボロー丘に、洞、有《あつ》て、樂聲を聽事《きくこと》あり。この丘に長《たけ》六尺の大石橫《よこた》はる。村人、此石を敲《たた》き、期限を約して、「物借《か》らん。」と請《こは》ば、石より、聲、出で、「何日の何時に、此石の所へ來い。貸遣《かしやら》う。」と答えた[やぶちゃん注:ママ。]。然るに、或時、鼎《かなへ》を借りて、約束に後《おく》れて、返しに往《い》つたが、受取《うけと》らず。爾後《じご》、何一つ、貸して吳ぬ、とある。「五雜俎」三にも、濟瀆廟神、甞與ㇾ人交易、以契券池中、金輙如ㇾ數浮出、牛馬百物、皆可假借、趙州廉頗墓亦然。〔濟瀆廟(さいとくびやう)の神は、甞つて、人と交易す。契劵(わりふ)を以つて池中に投ずれば、金(かね)、輙(すなは)ち、數(かず)のごとく、浮き出づ。牛・馬・百物(ひやくぶつ)も、皆、假-借(か)るべし。趙州(ちやうしふ)の廉頗(れんぱ)の墓も、亦、然り。〕支那で所謂、「鬼市《きし》」、英語で所謂。「默商《サイレント・トレイド》」の一種で、十年前一九一三年發行、グリエルソンの「默市篇《ゼ・サイレント・トレイド》」に似た例を載せ居る。(これは「鬼市」や「默商」と、少々、譯がちがふ。別に論ずべし。印度にも、膳椀を貸す神あるは、ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三七九頁に見ゆ。)

[やぶちゃん注:「椀貸穴」今まで私が電子化注したものでは、柳田國男の「一目小僧その他」の中の「隱れ里」(ブログ・カテゴリ「柳田國男」で全十五章分割)が、これを考究した最長のものである。のっけから、ズバリ、「椀貸伝説」を語り出してあるので、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』も取り敢えずリンクしておく。但し、柳田の鳥居龍蔵の「無言貿易」説への批判(噛み付き方)は、自分がメインと勝手に思ってしまった分野や事象については、感情的でさえあり、その手法も何やらん、非学術的な箇所がしょっちゅう見受けられ、この辺りから、私は、『柳田國男は、思ってたより、人間的には、「厭な奴」みたいだな。』と感じるようになった始めでもあった。最初に電子化注した「蝸牛考」の二〇一五年の頃は、かなり高く評価していた(しかし、それも自身の「方言集圏論」を何が何でも定立させるために、都合の悪いデータは、皆、黙殺していることは知っていた。脱線だが、大学時代、國學院大學では、彼は「神様」扱いだった。個人発表の際にも教授から、「柳田という言い捨てはだめだ。『先生』をつけなさい。」と注意され、発表の間中、「先生」の部分を必ずリキを入れて発表し続け、教授が苦虫を潰していたのを思い出す。また、その同時期に、友人から「柳田國男と折口信夫は、戦前・敗戦以前、批判を受けやすい性的な内容の民俗学的見解はなるべく避けようという密約があったようだ。」という話を聴き、ひどく失望したものだった。柳田に対する私の疑惑は、そこで既にして萌芽していたのであった)。まず、決定的な悪印象は、「遠野物語」の成立過程で、原著者たる佐々木喜善を自分に都合のいい弟子扱いし、彼から提供された折角の原稿も、無為のままに経過させたこと等々を知ってより、「甚だ嫌い」のレベル・メーターの赤ライン端まで振り切れ状態になり、「海上の道」を再読してみて、『これは、学問じゃない、自分の空想に合わせた非科学的な思いつきの遊戯に過ぎない。』と感じるに至ったのだった。

「二號一一六頁及三號一七六頁」「選集」には編者割注があり、「二號一一六頁」の方は『菊池重三郎「石椀とどろ」』とあり、「三號一七六頁」の方は『飯田豊雲「椀貸し穴」』とある。

『ケートレーの「フェヤリー・ミソロジー」(一八八四年)二二〇頁』アイルランド生まれの作家で歴史学者でもあったトマス・カイトリー(Thomas Keightley 一七八九年~一八七二年)の最初の著書である‘The Fairy Mythology’(「妖精の神話学」)。一八二八年刊。「Internet archive」で当該年の原本があり、ここがそれ。

「スマンスボルン」場所は判らぬが、綴りは“Smansborn”。“spring”とあるので、湧き水である。

「五雜俎」は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたここと校合した。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三七九頁』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが原本当該部で、最後の段落にそのことが書かれてある。]

「新說百物語」巻之三 「狐笙を借りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   狐《きつね》笙(しやう)を借りし事

 上京《かみぎやう》に「何之介《なにのすけ》」とかや、いへる人、あり。[やぶちゃん注:「何之介」伏せ名であろう。]

 生得《しやうとく》の好奇人にて、音律に、くはしく、殊更、笙をよく吹きけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるとき、また、おなしやうなる、わかき男、きたり、

「それかし[やぶちゃん注:ママ。]も、笙を吹き侍るか[やぶちゃん注:ママ。]、其《そこ》もとの音色《ねいろ》の、あまり、おもしろきに、每日、おもてにたゝすみ[やぶちゃん注:ママ。]侍る。これよりは、御心安くいたしたく存《ぞんず》るなり。」

と申しける。

 彼《か》のものも、すきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]

「いかにも。自今《じこん》は、御心やすく御出で下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、每日每日、來《きた》り、我《われ》も、笙を持來《もちきた》り、たかい[やぶちゃん注:ママ。「互ひ」。]に吹《ふき》ける。

「我等は、九条邊のものにて、宮㙒左近《みやのさこん》と申す。」

と申しける。

 そのゝちに、一兩日も過ぎて、申しけるは、

「其もとの御笛《おんふえ》、殊の外、よき御笛にて侍る。なにとぞ、一兩日御かし下さるへし[やぶちゃん注:ママ。]。その替りに、又、我らか[やぶちゃん注:ママ。]所持の笛を、置きて歸るへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、所望いたしける。

 彼の男、申しけるは、

 「いかにも。いと、やすきことなり。御かし申すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、たかひ[やぶちゃん注:ママ。]に取りかへて、かしける。

 其後、四、五日すれとも、來たらす、一月《ひとつき》すれとも、來らさりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]

『扨は。病氣にても侍るやらん、心もとなし。いさ[やぶちゃん注:ママ。]、行きて尋ねてみん。』

と、おもひて、九条にいたりて、とある百姓の家にゆきて、其名を尋ねしかは[やぶちゃん注:ママ。]

「左樣《さやう》の人は、承り侍らす[やぶちゃん注:ママ。]。此㙒はつれ[やぶちゃん注:ママ。「この野端(のはづ)れ」。]に、「宮㙒左近狐《みやのさこんぎつね》」といふ、ほこらは、是《これ》、あり。おかしき事を尋ぬる人かな。」

と、わらひける。

 

Syoukitune

 

[やぶちゃん注:底本では、ここ。キャプションは、右幅の左手に背を向けた訪ねてきて笙を吹く宮野左近の右膝の右手に、

このせう[やぶちゃん注:ママ。]をかへて

  給はれ

奥に座って、やはり笙を吹いているのが、主人公「何之介」で、その右方に、

御やすき

   事て[やぶちゃん注:「で」。]

       ござり

        ます

とあり、左幅の上部には、稲荷社の社頭に亡くなった狐、それを発見した土地の村人二人が描かれ、上方の若い者の台詞が、

これはこれは[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。]

 ふしき[やぶちゃん注:ママ。

  なる

  こと

   かな

とあって、下方のやや年をとった感じの男の台詞が、何之介の庭の景から、野の岡と推移するその丘の部分に、

これは

 せうの

  ふへ[やぶちゃん注:ママ。]と

    やら

   いふ物で

    あろ

とある。]

 

 彼の男、心ならす[やぶちゃん注:ママ。「こころならず」で、ここは「われ知らず・無意識に・うっかりと」の意。]、其宮にいたりて、樣子を、くはしく、近所のものに、たつねしかは[やぶちゃん注:総てママ。]、かたりていふやう、

「あとの月[やぶちゃん注:先月或いは先々月。]の末より、夜ふけぬれは[やぶちゃん注:ママ。]、此宮の近所に、何やらむ、笛の音《ね》、每夜、いたしけるが、此頃、其音《そのね》も、やみて、ほこらの前に、笙の笛とやらむものを置きて、狐一疋、死して居《ゐ》たり。すなはち、所の寺に、ほふむりて、其笙とやらむも、其寺へ、あげたり。」

と、語りける。

 彼男も、思はす[やぶちゃん注:ママ。]、淚をなかし、なくなく、其寺へ、いたりて、しかしかの樣子を、かたりて、その笙を見れは[やぶちゃん注:ママ。]、成程、先日かしたる笙にてそ[やぶちゃん注:ママ。]、ありける。

 其まゝ、その笙を、寺へ上けて[やぶちゃん注:ママ。]、取りかへたる我かゝた[やぶちゃん注:ママ。「我が方」。]の笙を「小狐」と名つけ[やぶちゃん注:ママ。]、祕藏しける、よし。

 延享の頃なる、よし。

[やぶちゃん注:「延享」一七四四年から一七四八年まで。本書は明和四(一七六七)年春の刊行だから、二十年ほど前の話で、まさに当代の都市伝説と言ってよい。]

「新說百物語」巻之三 「僧天狗となりし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   僧《そう》天狗となりし事

 江刕に「智源」といふ僧あり。

 又、其所へ、每日每日、はなしに來《きた》る、二十二、三歲の若僧、「光黨(くわうたう)」といふもの、あり。此、光黨、あるとき、智源に、いふやう、

「久々、なしみ[やぶちゃん注:ママ。]申して、殘りおゝき事ながら、愚僧義《ぎ》も、少〻《せうせう》、のそみ[やぶちゃん注:ママ。]ありて、遠國《をんごく/ゑんごく》へ參るなり。たゝ今まて[やぶちゃん注:総てママ。]のよしみに、何にても、御のそみの品あらは[やぶちゃん注:総てママ。]、うけ給はり申すへし。[やぶちゃん注:ママ。]

と申しける。智源がいはく、

「年もまかりよりまして、出家の事なれは[やぶちゃん注:ママ。]、各別の望みとても、是、なし。若き時より、所々を、おがみめくり侍れとも[やぶちゃん注:総てママ。]、いまた[やぶちゃん注:ママ。]おかみ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]殘したるは、遠國の佛神、所々、あり。一生の内、最早、年よりて、おかみ殘さん事の、殘念さよ。」

と申されける。

 其時、光黨がいはく、

「それこそ、やすき事なれ。御望みの所、みなみな、おかませ申すへし[やぶちゃん注:総てママ。以下も同じ。]。我らか[やぶちゃん注:ママ。]せなかに、おはれ給ふへし。かならす[やぶちゃん注:ママ。]、あゆむ内は、目をふさきて[やぶちゃん注:ママ。]、あき給ふへからす[やぶちゃん注:総てママ。]。先々にて、せなかより、おろしたる時に、目を、あき給へ。」

と約束し、そのまゝ、せなかに、おい[やぶちゃん注:ママ。「負ひ」。]て、出行《いでゆき》たり。

 智源かのそみにまかせ[やぶちゃん注:総てママ。]、先つ[やぶちゃん注:ママ。]、都の神社仏閣の外、名所を見めくり[やぶちゃん注:ママ。]、伯耆(はうき)の大山《だいせん》、さぬきの金毘羅、秋葉山《あきはさん》、大峯《おほみね》、富士山、およそ、名ある高山《かうざん》、いたらす[やぶちゃん注:ママ。]といふ事、なし。

 始め、江刕を出《いで》しとき、光黨の背(せ)に、おはるゝとおもへは[やぶちゃん注:ママ。]、たゝ[やぶちゃん注:ママ。]

「さあさあ」

と、なるはかり[やぶちゃん注:ママ。「鳴るばかり」。]にて、あまりふしき[やぶちゃん注:ママ。]におもひ、そつと、目を、ほそめに、あきけれは[やぶちゃん注:ママ。]、水海《みづうみ》[やぶちゃん注:琵琶湖。]のうヘ、一町[やぶちゃん注:約百九メートル。]ばかりも、高く飛ぶにぞありける。

 あまりの事のおそろしさに、そのゝちは、目をあかす[やぶちゃん注:ママ。]、所々にて、地におろせは[やぶちゃん注:ママ。]、目を、あきける。

 食事等は、いつかたにて[やぶちゃん注:「いろいろな所で」の意か。]、たべけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、誰《たれ》とかむる[やぶちゃん注:ママ。]ものもなく、自由なる事なりけり。

 諸方を、めくり[やぶちゃん注:ママ。]て、二日めの夕かた、我か[やぶちゃん注:ママ。]寺の庭に、つつほりとして居《をり》たりける。[やぶちゃん注:「つつほり」「つっぽり」で副詞。独りで侘びし気に立っているさま。しょんぼり。近世語。]

 そのゝち、四、五日、過《すぎ》て、又々、光黨、來たりて、

「御望みの所々、おかまれて[やぶちゃん注:ママ。]本望なるべし。しかし、外のものならは[やぶちゃん注:ママ。]、水海のうへにて、目をあきたるとき、ひきさき、すつへけれとも[やぶちゃん注:総てママ。]、其元《そこもと》ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、了簡いたしたり。」[やぶちゃん注:「ひきさき、すつへけれとも」「引き裂き、捨つべけれども」。]

と申しけれは[やぶちゃん注:ママ。]、智源、猶々、きもを、つふし[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 いとまこひして、出行《いでゆき》けるか[やぶちゃん注:ママ。]

「此後、火災なとあらは[やぶちゃん注:総てママ。]、前かたに、しらすへし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申しけり。[やぶちゃん注:「前かたに、しらすへし」「火災が発生する以前に知らせてやろう」。]

 此智源、今に存生《ぞんしやう》のよし。

[やぶちゃん注:最後の一行で、現在只今の近江の国の天狗奇譚実話ということになる。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二二番 端午と七夕

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一二二番 端午と七夕

 

 或所に若夫婦があつた。良人は妻の織つた曼陀羅と謂ふものを、遠方の町へ持つて行つて賣つてゐた。そのために他鄕に永逗留するのが常であつた。その留守の間に、妻の容貌(ミメカタチ)の美しいのを慕つて、其所の男共が數々言ひ寄つた。けれども妻はそんなことには少しも耳を借《か》さなかつた。ところが或時惡い男が來て、お前がそんなに貞操を守つて居たつて、お前の良人は他國で妾女(オナメ)を持つて居るから、斯《か》う還《かへ》つて來ないんだぜと焚《たき》きつけた。それを聽いた妻は女心の一途《いちづ》にさうかと思つて泣きながら、近くの川へ身を投げて死んでしまつた。

 夫が他鄕から、曼陀羅を送つて寄越《よこ》すやうに家へ便りをしても、何の返事もないから、不思議に思つて村へ歸つて見ると、妻はたつた今《いま》川へ身を投げたばかりで、まだ其美しい屍《しし》が水の中に浮き漂ふてゐた。夫はそれを見て悲嘆のあまり、妻の屍肉(シシニク)を切つて薄(スヽキ)の葉に包んで食べた。それは五月五日の日であつた。それが節句の薄餅の起源(オコリ)である。そして又その筋《すぢ》ハナギをば、七月七日に、素麵(ソウメン)にして食べた。それだから七月七日は必ず素麵を食べるのだと謂ふ。

 こんな譯で、五月中は機《はた》を織ることを忌み、若《も》し立てたなら、蓑(ミノ)を被《かぶ》せて匿《かく》して置かねばならぬ。

  (大正十三年八月七日(舊曆七月七日)、老母が孫
   共に話して聽かしてゐたのを記す。)

[やぶちゃん注:「端午と七夕」の食すものの起源譚であるが、妻に言いよる男ども、憎さから夫に愛人がいるという噓、妻の入水自殺、夫がそれを見つけてカニバリズムと、いかにも生理的に嫌な印象が多過ぎる。

「妾女(オナメ)」嘗つて後生掛(ごしょうがけ)温泉に湯治に行ったが、その源泉を「オナメモトメ」と呼んでいた。「オナメ」はここに出る通り「妾(めかけ)・愛人」の意の方言で、「モトメ」の方は「本妻」を指す。「後生掛温泉」公式サイトのこちらの「後生掛温泉の由来 オナメモトメの伝説」の引用を読まれたい。

「薄餅」不詳。グーグルで「薄餅 岩手 端午の節句」を調べたが、記載がない。

「筋ハナギ」不詳。当初、「筋《すぢ》」と推定読みを添えたが、そんな単語は、ネット上では見当たらない。或いは、「その節」で、そこで切れて、「その際に」、「ハナギをば、」……の誤字か誤植かとも思ったが、まず、本篇を引いている民俗学者の論考では総てそのまま「筋ハナギ」とあり、それに注を入れている人物もいなかった(国立国会図書館デジタルコレクションの検索システムを使用した)から、これは、やはり「筋ハナギ」なる「素麺」になる植物(穀類?)かなにかを指すようであるが、全く見当がつかない。「筋ハナギ」自体が、ネット検索ではかかってこないのである。前の「薄餅」と合わせて、識者の御教授を乞うものである。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「水彩風景」紀映淮

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  水 彩 風 景

            杏 花 一 孤 村

            流 水 數 間 屋

            夕 陽 不 見 人

            枯 牛 麥 中 宿

                  紀 映 淮

 

杏咲くさびしき田舍

川添ひや家おちこち

入日さし人げもなくて

麥畑にねむる牛あり

 

   ※

紀 映 淮 明朝。 年代は明かでない。 字は阿男。 金陵の人である。 莒州の杜氏に嫁し、早く寡(やもめ)となつたが節を守つて生涯を終つたといふ。 漁洋詩話にはその秦淮柳枝を推し「栖鴉流水㸃秋光」を佳句と稱してゐる。

   ※

[やぶちゃん注:中文サイトで調べたところ、標題は「卽景」。推定訓読を示す。

   *

 卽景

杏花(きやうくわ) 一孤村(いちこそん)

流水(りうすい) 數間(すうけん)の屋(をく)

夕陽(せきやう) 人を見ず

牯牛(こぎう) 麥中(ばくちゆう)の宿(やど)

   *

「杏」被子植物門双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ変種アンズ Prunus armeniaca  var. ansu 。開花期は三月から四月ごろで、桜よりもやや早く、葉に先立って、淡紅色の美しい花を咲かせる。原種は一重。

「牯牛」ここは広義のウシ。

 なお、マルクス主義の経済学者河上肇(明治一二(一八七九)年~昭和二一(一九四六)年)は漢詩人としても知られるが、彼の「閑人詩話」(昭和一六(一九三一)年十一月清書)の冒頭で、この佐藤の訳詩を批判している。国立国会図書館デジタルコレクションの『河上肇著作集』第九巻(一九六四年筑摩書房刊)のこちらで視認出来る(新字体)。「青空文庫」で全篇が電子化されているが、それを加工データとして、恣意的に漢字を概ね正字化して示す。

   *

 佐藤春夫の車塵集を見ると、「杏花一孤村、流水數閒屋、夕陽不見人、牯牛麥中宿」といふ五絕を、

 

 杏(すもも)咲くさびしき田舍

 川添ひや家をちこち

 入日さし人げもなくて

 麥畑にねむる牛あり

 

 と譯してあるが、「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ數間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に歸る」と題する詩に、「拙を守つて園田に歸る、方宅十餘畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡數間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齡(とし)八十を過ぎ、久く已に一棺を辯ず、廬を結ぶ十餘間、身を著けて海の寬きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡數間屋、結廬十餘閒は、みな間數(まかず)を示したものである。杏花一孤村流水數閒屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に數間の屋を數軒の家と解したのであらうか。專門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。

「遠近皆僧刹、西村八九家」、これは郭祥正の詩、「春水六七里、夕陽三四家」、これは陸放翁の詩。これらこそは家をちこちであらう。

   *

 以下、河上の引用に注する。

・「三間か四間か」距離単位の「間」(けん)では、淵明の生きた六朝時代でも今と同じで、一間は約一・八二メートルであるから、間口(まぐち)五・四五~七・二七メートルということになるが、河上の言う通りで、それではなく、これは「間取り」(部屋数(かず))のことであろう。

・「拙を守つて」の「拙」(せつ)は、自身を示す謙遜語であるが、ここは「愚直な私の性格に拘り守って」の意。

・「方宅十餘畝」「はうたくはじふよほ」で、「畝」は面積単位では、一畝は約五~六アールであるが、ここは正確なそれを言っているのではなく、敷地がそれなりに広くゆったりとしていることを言う。

・「草屋」草葺きの家。

・「八九間」は、ここも、距離単位ではなく、家屋の間取りの数を指す。

・「陸放翁」南宋の傑出した詩人陸游の号。以下に引く詩句は、彼の「讀王摩詰詩愛其散髮晚未簪道書行尙把之句因用爲韻賦古風十首亦皆物外事也」(一部が訓読出来ない(意味が採れない)ので訓読は示さない)の二首目(全十首)の冒頭部分。国立国会図書館デジタルコレクションの『陸放翁詩集』第六(近藤元粋編・明四二(一九〇九)年青木嵩山堂刊)のこちらで当該首が視認出来る(そこでは、標題に返り点が打たれてあるのだがが、それでも私には納得出来るようには読めなかった)。

・「仕宦」(しくわん)は「故郷を出て官に仕えること」を言う。

・「久く」「ひさしく」或いは「ながく」。

・「郭祥正」は北宋の詩人。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二一番 天狗

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一二一番 天 狗

 

 昔、と云つても七八十年程以前のことらしいが遠野に萬吉と云ふ人があつた。或年鉛《なまり》の溫泉(ゆ)へ行つて居ると、浴場で一向知らぬ大男が聲をかけて、お前は遠野の萬吉だベア。俺は早池峯山の天狗だ。今まで山中で木ノ實ばかり食つて居たども、急に穀物が食ひたくなつて來た。湯治《たうぢ》が濟んだら、俺も遠野さ遊びに行くから訪ねて行くと言ふ。是非來るようにと言つて、其日萬吉は馬を賴んで湯治場を立ち去つた。

[やぶちゃん注:「鉛の溫泉」現在の岩手県花巻市花巻温泉郷にある「鉛温泉(なまりおんせん)」。アルカリ性単純温泉。同温泉の一軒宿である開湯六百年の「藤三旅館」(ふじさんりょかん)公式サイトの「藤三旅館について」をリンクしておく。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 當時町に東屋と云ふ酒屋があつた。或日の夕方見知らぬ大男が來て、酒一升借《か》せと言う。番頭が知らない人には貨《か》すことはならぬと言ふと、それだら俺はこれから早池峯山《はやちねさん》さ行つて錢を持つて來るからと言つて出て行つたが、それからやや小一時(イツトキ)も經つと再び來て、錆びたジク錢を帳場へ投げつけて、酒を買つて出た。酒屋では不思議なこともあればあるものだと思つて、其男の後をつけて見ると、さきの萬吉の宅へ入つて行つた。

[やぶちゃん注:「早池峯山」神仏習合の時代より山岳信仰が盛んな霊峰。標高千九百十七メートル。遠野からは直線で北北西二十キロメートル位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「小一時」「一時」(現在の二時間相当)の「小一時」で、現在の「一時間弱」又は「僅かに一時間程」の意。

「ジク錢」「軸錢」で「ぜにさし」(「銭差し」「銭緡」で、銭の穴に通して銭を束ねるのに用いる藁・麻で作った細い紐。銭貫(ぜにつら))で束ねた穴開き銭のことであろう。『換算の不便を避けるために、銭』九十六『枚を銭緡に通すことで』百『文として通用させていた九六銭のように、相場の変動に関わらず』、『一定枚数の銭を通した銭鎈をもって銀』一『匁として通用させる慣習が生まれた。これ』を匁銭(もんめせん)と呼んだ。『匁銭の銭』差し一『束』(たば)『をもって』「銭一匁」と『表現した。後に各藩が公定の匁銭規定を定めた事』から、『本来の趣旨とは異なる領国貨幣化・地方貨幣化することになった』(後半の引用部はウィキの「匁銭」に拠った)。]

 其男は萬吉の家へ行つて、主人はまだ湯治場から歸つて來ぬか、直ぐ歸るべえと言つて居るところへ萬吉が歸つて來た。萬吉は自分が湯治場を立つ時にはまだ其所に居た人が、どうして先きへ來て居るのだらう。これは本當にタダの人間ではないと思つて、それから内ヘ上げて厚くもてなして置いた。

 其男は刀吉の家で、每日每日何もすることなくぶらぶらして酒ばかり飮んでゐた。ただきまつて一日に一羽の鳥を捕へて來て、それを燒いて食つて居た。そしていつの間にか何處へか行つて二度と來なかつた。

 其男の殘して行つたものが今でもあるが、小さな弓矢と十六辨の菊の紋章のある麻の帷衣《かたびら》のやうな衣と下駄一足である。

 又此町に旅の男で天狗々々と云はれる者があつた。月の半分は何處へか飛んで行つて居らず、人の知らぬ間に歸つて來てゐた。町で病人や急用のある時などは賴まれて十四五里も離れた釜石濱へ往復することがあつたが、そんな時には町の出端《ではづ》れをヒラヒラと行く姿は見とめられたが、あとは忽ち見えなくなつたと云ふ。病人に食はせる魚などを買ひに賴まれると其の道を二時間位で往復した。これも御維新頃の話のやうに聽いてゐた。

 

2023/06/15

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「田鼠除」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 標題は「もぐらよけ」と読む。

 実は私は、本篇を既に、二〇一三年六月に公開した、『海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載』の注の中で、「選集」版を底本として電子化している。「嬉遊笑覧」も所持する岩波文庫版で電子化している(但し、以下の注で示した通り、熊楠の所持するものは、内容が有意に異なる別版本であるので、是非、比較されたい)ので、先ず、そちらを読まれたい。

 

○田鼠除(二號一一三頁及三號一八四頁)の禁厭《まじなひ》に、小兒が金盥《かなだらひ》等を打鳴《うちなら》して家々へ闖入《ちんにふ》し、庭中《にはぢゆう》を騷ぎ廻り、忽ち、去る風《ふう》が、予の幼時、和歌山市にも有《あつ》た。然し、唱へ詞《ことば》が彥根や越後と違ひ、「おごろ樣《さん》は内《うち》にか、海鼠樣《なまこさん》はお宿《やど》にか」と云《いつ》たと覺える。「守貞漫稿」二四に、『節分の夜、大阪の市民、五、六夫、或は、同製の服を著し、或は、不同の服も、有之《これあり》、その中《うち》一人、生海鼠《いきなまこ》に細繩を付け、地上を曳巡《ひきめぐ》る。其餘、三、四夫は、各々、銅鑼《どら》、鉦《かね》、太鼓等を鳴らして曰、「うごろもちは内にか、とらごどんのおんまいじゃ。」と呼び、自家、知音《ちいん》の家にも往て祝す事有り』云々。『坂人、今夜のみ、生海鼠を「とらごどの」と云、傳云、之を行ふ年は、其家、土龍《うごろもち》、地を動かさず』云々、『最も古風を存せり。』。「嬉遊笑覽」卷八、『「俵子《たはらご》」は沙噀《なまこ》の乾《ほし》たる也。正月、祝物《いはひもの》に用《もちゆ》ること、月次《つきなみ》のことを記しゝ物にも、唯《ただ》、其形、米俵に似たる物故、「俵子」と呼《よび》て用る由《よし》云《いへ》り。俵の形したらん者はいくらも有《ある》べきに、之を用るは、農家より起こりし事と見ゆ。庖丁家《はうちやうか》の書《しよ》に、『米俵は、食物を納《いる》る者にて目出度《めでたき》物故、「俵子」と云名を取《とり》て用ゆる也。』と。』と。[やぶちゃん注:以上の「。』と。』と。」の部分は私が特に追加して表現・表記上、問題が生じないように添えたものである。まず、①実際の「嬉遊笑覽」原本には「と」は存在しないことと、②原本では、ここで、一回、条が切れて、直後に「鼹鼠(ウゴロモチ)」の条が改行して続くからであり、(後注でリンクで示す)さらに、③以下の「次に、」は「嬉遊笑覽」にある言葉ではなく、熊楠自身の挿入した台詞だからである。]次に、『田鼠《うごろもち》うちとて、沙噀を繩に結付《むすびつけ》、地上を引《ひき》まじなう事、有《あり》。「鼹鼠《うごろもち》、之を怖る。」と云《いへ》り。仙臺にては、子供等、是を「地祭《ぢまつり》」迚《とて》、「もぐらもちは内にか、なまこ殿のをどりぢや。」と、云《いひ》て、錢を乞《こひ》ありく。長崎の俗、正月十四日、十五日、「むぐら打ち」とて、町々の男兒共、竹の先に稻藁《いなわら》を束《たば》ね結《むす》びたるを持《もち》、家々の門《かど》なる踏石《ふみいし》を打ち、「むぐら打《うち》は科《とが》無し、ほうの目々々々々[やぶちゃん注:底本は「々」は二箇所しかないが、かく、した。]、と祝して錢を乞ふ戲有り。」。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」は岩波文庫で所持するが、何度もの経験から、南方熊楠の所蔵していた同書は岩波文庫版の親本とは違う、内容が有意に異なる版本であり、熊楠の引用と極めてよく一致するものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本であり、その当該部がここ(左ページ冒頭の二条)である。それと一応は校合したが、熊楠はひらがなの一部を勝手に漢字化し、送り仮名も自分勝手にカットしてしまっているため、本当は原拠に完全に従うべきところであるが、あまりに自然流の変形を確信犯で行っていることから、熊楠流の部分は、ほぼ、そのままとしておいた。

 是等を合《あは》せ攷《かんが》ふると、昔しは、大人もせし行事で、節分にする所と、上元[やぶちゃん注:陰暦正月十五日。]にする所と、有《あつ》たと知《しれ》る。海鼠を虎子《とらご》と云ふのは、「笑覽」の說ごとく、「俵」の形故、「俵子《たはらご》」と云ふを、訛《なまつ》ての名か、又、寧ろ、海鼠の背が、虎に似て居る故か。何《いづ》れにせよ「漫稿」に、今夜のみ、「なまこ」と言《いは》ずに、「虎子殿」と云《いふ》と、あるは、正月建ㇾ寅〔正月、寅(いん)を建つ。〕の義に緣《ちな》んだらしい。「寅」の獸《けもの》たる「虎」は「百獸の君」ぢやに因《よつ》て、「虎子」てふ「海鼠」で「田鼠」を威壓する意味だつたろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「正月建ㇾ寅」「建寅」(けんいん)は、北斗星の斗の柄が、初昏に、寅の方位を指す時を言い、それが起こる月、陰暦正月のことを指す語である。]

 老友エドワルド・ピーコック、言ふ、英國トレント河畔の俗、田鼠を捉ふると、殺して柳の枝に懸《かく》る、と。和歌山邊の畑中にも、竿《さを》に、田鼠の屍《かばね》を釣り下げる事、有り。何れも威《おど》しの爲らしい。獨人モレンドルフ說に、「遼史」に新年に、田鼠を燒いて、年中の災《わざわひ》を禳《はら》ひし事を載すとは、本邦の「田鼠打ち」に似て居る(五年前、明治四十一年十二月五日、龍動《ロンドン》の『隨筆問答雜誌』[やぶちゃん注:熊楠御用達の‘Notes and queries’のこと。]、予の「死《しん》だ動物を樹や壁に懸る事」を見よ)。熊野の人、古來、狼を獸中《けものぢゆう》の王とし、鼠に咬まれて、寮法、盡きた者が、狼肉《おほかみのにく》を、煮食《にく》へば癒《いゆ》ると、信じた。虎子で、田鼠を威壓するのと、一規だ。

[やぶちゃん注:「エドワルド・ピーコック」不詳。

「死だ動物を樹や壁に懸る事」同誌の一九〇八年十二月五日号に載った、‘DEAD ANIMALS EXPOSED ON TREES AND WALLS’。「Internet archive」のこちらの合冊の「457」ページの右下方から原投稿が視認出来る。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「日本の天然傳說」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○日本の天然傳說(二號八九頁)三國世所譯〔三國の世に譯す所(ところの)〕、「六度集經」八に、諸佛明化、以ㇾ色爲ㇾ火、人爲飛蛾、蛾貪火色、身見燒煮。〔諸佛の明化(みやうけ)するや、色を以つて火と爲す。人は飛蛾と爲(な)り、蛾は火色(くわしき)を貪り、身を燒煮(しやうしや)せらる。〕「符子」に、不ㇾ安其昧、而樂其明、是猶夕蛾去ㇾ闇赴ㇾ燈而死者也。〔その昧(くら)きに安んぜず、其の明るきを樂しむ。是れ、猶、夕べの蛾の闇(やみ)を去りて、燈(ともしび)に赴きて死する者なり。〕佛、滅後七百年に成《なり》し「坐禪三昧法門經」卷下に、欲是爲ㇾ患、求是既苦、得ㇾ之亦苦、多得多苦云々、如蛾赴一ㇾ火。〔『是れを欲して患ひを爲し、是れを求むる時、既に苦しく、之れを得て、亦、苦し。多く得て、多く苦しみ』云々、『蛾の、火に赴くがごとし。』〕晉の支曇諦「赴火ㇾ蛾賦」〔火に赴く蛾の賦〕に、悉達言曰、愚人貪生、如蛾投火〔悉達(しつた)の言ひて曰はく、「愚人、生を貪(むさぼ)るは、蛾、火に投(なげい)るがごとし。」と。〕。釋尊、在世、自ら火に投ずる蛾を、愚人に譬ふる言《げん》は、既に有《あつ》た事らしい。

 デーンハルトが、『夏の蟲が螢に惚れて』云々と、日本話《にほんばなし》を擧げたのは、「光る蟲」と通辨したのを、「玉蟲」の意と知らず、早計で、「螢」と斷じたのだろ。本邦、何《ど》の地でも、「飛んで火に入る夏の蟲」と云《いつ》て、强《あなが》ち、燈蛾《ひとりむし》に限らぬ樣だが、火を求《もとめ》て油に溺れ死ぬのは、蛾が、一番、多い。玉蟲に惚た[やぶちゃん注:ママ。]と云ふが、螢にとは言《いは》ぬ。古く法隆寺に「玉蟲の厨子」有り。屋島合戰に、建禮門院の雜司《ざうし》玉虫の前[やぶちゃん注:ここ以降、「蟲」ではなく、「虫」と表記されて終わるのはママ。]、當年十九歲、雲鬟霞眉、扇の的を船頭《ふながしら》に立《たて》て、紅《くれなゐ》の扇、水に漂う面白さに、玉虫は「時ならぬ花や紅葉を見つる哉芳野初瀨の麓ならねど」と卽詠したとは、才色雙全の別嬪だ(「盛衰記」四二)。天正十年[やぶちゃん注:一五八二年。]の䟦《ばつ》[やぶちゃん注:「跋」の異体字。]ある「玉虫の草紙」は、諸虫が玉虫を慕ひ、戀歌を贈つた譚だ。其内に蝶が見えぬは、優しい者故、女性と見立てたのだろ。扨、蝶に緣《ちな》んで蛾も見えぬのか、但しは、其頃、燈蛾が、特に多く、火に入ることに氣が付《つか》なんだのか、一寸、解らぬ。「類聚名物考」二六七に據ると、紀州の三浦男[やぶちゃん注:男爵の略。]の先祖が作つた、「あだ物語」とて、諸鳥が「うそ」鳥を戀ふ譚もある由。〔(增)是は光廣卿の序を添《そへ》て後水尾法皇の御覽に入《いれ》しものといふ。明治四十三年[やぶちゃん注:一九一〇年。]刊行『近世文藝叢書』第三に收む。いと面白く書《かか》れある。)

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭標題の下に編者注があり、『高木敏雄「日本の天然伝説」』への論考であることが示されてある。

「六度集經」は「大蔵経データベース」で校合し(問題なし)、「符子」(この書、不詳)のそれは、「維基文庫」の李昉らの編になる「太平御覽」の引用部をそこにある影印本の画像で校合した(「者」を熊楠は落としているので訂した)。また、「坐禪三昧法門經」については、「大蔵経データベース」で見つからなかったため、臺灣大學作成の「坐禪三昧經」CBETA 電子版・PDF一括版)で校合した(表字が異なるので、リンク先のものに代えた箇所がある)。支曇諦の「赴火蛾賦」は、ネットでダウン・ロードした新亞研究所教授何廣棪氏の中国語の論文「支曇諦〈赴火蛾賦〉與鮑照〈飛蛾賦之〉比較研究」(『古典文學』(雑誌名は推定)二〇一八年八月号)の中で諸本を校合した同賦に従ったため、熊楠の示したものとは、全く異なる(言っている意味は同じ)。

「デーンハルト」不詳。

『「盛衰記」四二』国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文学大系』第十六巻「源平盛衰記」下巻(大正一五(一九二六)年国民図書刊)のこちらで、当該箇所が読める。全体の標題は「屋島合戰玉蟲扇を立て與一扇を射る事」である。

「玉虫の草紙」所謂、「御伽草子」の一つ。虫を擬人化したお伽話で、この異類物御伽草子中では、虫を扱ったそれの最古のものとされる。国立国会図書館デジタルコレクションの『新釈日本文学叢書』第二輯第七巻のここから視認出来る。電子化されたものがよければ、こちらの「玉蟲の草紙」(正字正仮名)がよい。ここは、嘗つて電子テクストを無暗に蒐集していたネット前半生中、しょっちゅう伺ったサイト「Taiju's Notebook」内の「日本古典文学テキスト」の中にある。

『「類聚名物考」二六七』江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(左ページ三行目から)。]

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「蝶を咏める」賈蓬萊

[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

  蝶を咏める

            薄 翅 凝 香 粉

            新 衣 染 媚 黃

            風 流 誰 得 似

            兩 兩 宿 花 房

          賈蓬萊

 

かろき翅のおしろいや

黃にこそにほへ新(にひ)ごろも

みやびは誰か及ぶべき

花を臥戶(ふしど)にふたり寢るとは

 

   ※

賈蓬萊 宋朝。未詳。

   ※

[やぶちゃん注:標題は中文サイトで確認したところ、佐藤の訓読の通りで「咏蝶」であった。

「誰」は「たれ」と清音で読みたい。

「寢る」は「いぬる」では韻律が悪いので、「ねる」と読みたい。

  推定訓読を示す。

   *

 蝶を咏(よ)む

薄き翅(はね)もて 香粉を凝(こ)らし

新しき衣(ころも)は 媚(なまめ)かしき黃(わう)に染めたり

風流 誰(たれ)か 似たるを得んや

兩兩(ふたりなが)ら 花(はな)を房(ばう)として宿(やど)れる

   *]

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一〇番 泥棒神

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

   一一〇番 泥 棒 神

 

 昔正直な男があつた。橫田の町(遠野町)の大鶴堰《だいかくぜき》と云ふ田圃路へ田の水見《みづみ》かなんかに行くと、何處からともなく妙な笛太鼓の囃子の音が聞えて來た。どうも其が幽かで不思議なので、其音をたよつて行くと、何でも堰《せき》に架《かか》つた古橋《ふるばし》の下の邊《あたり》らしく、覗いて見ると其所に小さな人形が居た。

 其男は、歌を唄つたりする人形だもんだから、窃《ひそ》かに其を拾つて來て家の誰にも氣づかれないやうな所に匿《かく》して置いた。ところが、どうも其人形の顏が見たくなつて堪《たま》らない。人形を見ると盜みがしたくて堪らなかつた。其の人形をふところへ入れて物を盜むと、何一つとして意《い/おもひ》のようにならぬことはなく、大びらに人の前で盜(ト)つても、決して人に氣づかれる事がなかつた。そして泥棒がとても樂しみになり、每日每夜それを巧みに行(ヤ)るので、家財も日增《ひまし》に殖えて、忽ち有福な生活向きとなつた。

 ところが每日每夜、町から在鄕へかけて物が頻繁に盜まれる。それに某《なにがし》は夜も晝も家に居らず出步いて居た、誰某《だれがし》は夜明けに歸つて來たのを見たとか、昨夜は斯《か》う云ふ物を背負つて居たとかと、其男について變な評判が立つやうになつた。愈々此頃ハヤル泥棒は某だと云ふ嫌疑がかゝつた。それを聞いた本家の主人が來て、此頃《このごろ》お前の事で大變騷いでゐるやうだが、今に重い刑罰(シオキ)を受けるから、今の中《うち》に改心しろと嚴(キツ)い意見をした。そして色々な話の末に某は遂に包み切れず、大鶴堰で不思議な人形を拾つてからの事を話して、其小人形を元《もと》在つた所へ棄てた。すると又もとの正直一方な男となつた。

(此話は大正十四年三月蒐集した物、話者岩城氏の話の九。奧州には泥棒神が小人形であつた話が、「江刺郡昔話」の中の五郞が欠椀《かけわん》のお蔭で出世したと謂ふ話などは村では欠椀と話すが、別に小さな人形コであつたとも云ふのもある。とにかく泥棒神なるものは器具や人形を拾つてから取つつくと謂ふのである。)

[やぶちゃん注:附記は、例によって、同ポイントで引き上げた。「欠椀」の「欠」の新字はママ。

「橫田の町(遠野町)」この地名は戦前の地図でも見当たらないが、グーグル・マップ・データの「横田城」及び「松崎町横田の石碑群」の附近と思われる。

「大鶴堰」の読みは、国立国会図書館デジタルコレクションの宝文館出版一九七四年刊「佐々木喜善資料 遠野のザシキワラシとオシラサマ」の「屋内の神の話」のここに同じ内容の話が佐々木によって記されており、そこに『大鶴(だいかく)堰』ルビが振られていたのに従った。また、しばしばお世話になるdostoev氏の「不思議空間「遠野」―「遠野物語」をwebせよ!―」の『遠野不思議 第八百三十六話「不気味な人形」』に「佐々木喜善資料 遠野のザシキワラシとオシラサマ」の同話を紹介された(但し、同書のものは後年出た別種も確認したが、文章は敬体であるから、或いはdostoev氏が常体に書き直され、手を加えられたものかとも思われる)を後、「大鶴堰」がどこにあるかを考証され、『「遠野市史(第三巻)」「町内用水堰と栃洞堰」に、その大鶴堰が載っていた。「鶯崎に水門を設けて水流を規制し、堰を造って現在の新屋敷を通って穀町に入らせるよう用水堰を設け、一日市町を経て新町の入り口で来内川に落とすようにして、これを大鶴堰と名付けた。」とあった。この大鶴堰は阿曽沼時代で鍋倉山に城を移転してからという事なので』、十七『世紀後半の頃であったろう』とされ、『鶯崎から始まる大鶴堰の終点は新町の入り口であるようだが、現在「とおの物語の館」から似たような感じに、堰から川へと落とすように造られている』。『実際は、新町の入り口に落すように…と記されているので、画像の場所あたりに、大鶴堰の落とし口があったのだろう』(リンク先に写真有り)。『人形に憑かれた男は、田を見に行っての事だったが、田圃は新町の裏側で猿ヶ石川沿いから愛宕にかけてあったようだが、稲荷下近辺から鶯崎近辺にある初音橋の辺りまで、かなり広い田圃があったようだ。物語の記述から、どうもひと気の無い場所の様であるから、新町の大鶴堰の終点から町中にかけては恐らく違うだろうという事で、この物語の場所は鶯崎での事件だったのかもしれない。堰にかかる橋は、立派な橋では無く粗末な小さな橋であったろうと想像する』と述べておられる。「ひなたGPS」では、現在の鶯崎町はここである。なお、以下、呪具としての人形の、この大鶴堰に纏わる『祓の行事』のことが書かれてあるが、引用が長くなったので控える。是非、引用元を参照されたい。

『「江刺郡昔話」の中の五郞が欠椀のお蔭で出世したと謂ふ』戦前の『炉辺叢書』版の原本で国立国会図書館デジタルコレクションのここから「五郞が缺椀のお蔭で出世したと謂ふ話」が読める。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「鷄鳴の爲に鬼神が工事を中止した譚」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○鷄鳴の爲に鬼神が工事を中止した譚(一號五八頁及び三號一八一頁)紀州西牟婁郡富士橋村の、陸から大島に向ひ、海上二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]許りの間、一行に細く高く尖つた大岩が立《たち》續いて居る。「橋杭岩」と云ひ、近處に弘法大師の堂が有る。昔し、大師、一夜に、此海上に橋を渡さんとて、杭を打つ中《うち》、鷄が鳴《ない》たので、半途、中止したと云ふ。伊豫に「切懸地藏」とて、生きた樟《くすのき》の幹に彫付《ほりつけ》た半成《はんでき》の地藏尊像あり。是も、弘法が細工中、鷄鳴の爲、中止したんだ相《さう》な。「奧羽觀跡聞老志」四に、苅田《かつた》郡小原村の「材木岩」は、建築の諸部に似た、岩石、無數、積み重なつた希世の壯觀だ。昔し、飛驒の工匠《たくみ》、一夜に不動堂を建てんと、かゝつた處ろ、夜、短くて、仕上らず、怒つて、折角しかけた諸材木を、谷になげ込《こん》だのが化石した、とある。備後の帝釋山にも、山鬼が、石橋を渡しかけて、鷄鳴の爲め、中止した跡有りと、黑川道祐《くろかはだういう》の「藝備國郡志」下に見ゆ。

 「テウトン」民族には、一八四三年伯林《ベルリン》出板、クーンの「マルキッシェン・サーヘン」一九六章に、パールスタイン村の一大工が、湖邊を迂回して、仕事に往復するを、不便とし、「魔が、一番鷄のなく迄に、其湖を橫切《よこぎつ》て、堤《つつみ》を築いたら、自分の魂をやろう。」といふと、魔、快諾して、築きにかゝつた。大工、見ておると、仕事が速くて、どうやら一番鷄がなかぬ内に出來上りそう[やぶちゃん注:ママ。]だから、今更、魂をやるのが恐ろしくなり、一計を案じて、鳥部屋に入《はいつ》て、鷄を起すと、南無三、夜が明けたと、鳴出《なきだ》した。魔は、欺かれたと知らず、「是は、したり。夜が、あけた。」と燒糞に成つて、手前の石材を、なげ散《ちら》したので、その堤は、不完成のまゝ現存す、と出づ。又、一八四九年三月の『印度群島及東亞細亞雜誌』に、リグ氏言《いは》く、瓜哇《ジャワ》に、梵敎、盛《さかん》なりし時、「ジャングガラ」の無月信《キリスチ》女王は、男知らずの英主だつたが、隣邦の王に婚姻を逼《せま》られた時、「『ヰリス』・『ロロトツク』兩山の間の大谷を、堰止《せきとめ》て、一夜間《ひとよのあひだ》に、湖と做《し》たら、汝の妻たらん。』と言《いつ》た。隣邦王、諾《だく》して、工事に掛ると、女王の念力で、工事央《なか》ばに、夜が曉《あ》け、堤、破れて、男王を埋殺《うめころ》した。

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭標題の下に編者注があり、「一號五八頁」は『中西利徳「岩の掛橋」』への、「三號一八一頁」の方は『真崎芳男「男鹿神社」』への論考であることが示されてある。

「紀州西牟婁郡富士橋村」「富士橋村」は「富二橋村」(ふじばしむら)が正しい。現在の東牟婁郡串本町(くしもとちょう:グーグル・マップ・データ)中心部の北方一帯に相当する。

「橋杭岩」ここ(同前)。サイド・パネルの画像を見られたい。私の車窓から眺め、何時かまた来たいと思った場所である。

「弘法大師の堂」橋杭岩の岩列の海岸端に今もある。ここ(ストリートビュー)。但し、大師が湧き出させたとする温泉に併設されている添物町って感じ。

『伊豫に「切懸地藏」とて、生きた樟の幹に彫付た半成の地藏尊像あり』まさかと思ったが、あることはある。「愛媛県観光物産協会」の「いよ観光ネット」の「切山(生き木地蔵)」のページに、所在地を愛媛県四国中央市金生町(きんせいちょう)山田井(やまだい:グーグル・マップ・データ)とし、『深い山中でひときわ異彩を放つ弘法大師の化身』という標題で、『平家伝説の残る切山地区山中にある生きたカゴの木に彫られた地蔵像。江戸時代中期に彫られ、拝めば』、『耳の病気が治ったり』、『願いが叶うと』、『多くの人々の信仰を集めた。長い間』、『祈願されてきたが、母体の木が枯れてしまい』、『現在の像に跡を譲ることになった。言い伝えでは、弘法大師の化身とも言われ、全国でも稀な仏像として注目を集めている』とあった(にしてもこの解説、「弘法大師の化身」「平家伝説」「江戸時代中期に彫られ」たブットんだ時間をこの短い中でギュッと短くしてあるのには脱帽じゃ)。ここに出る「カゴの木」とは、クスノキ目クスノキ科ハマビワ属カゴノキ Litsea coreana であるから、熊楠の「樟」は科のタクソンでクスノキであるから誤りではない。

「奧羽觀跡聞老志」(おううかんせきもんろうし)は享保四(一七一九)年に成立した仙台藩地誌。仙台藩主四代伊達綱村の命により藩儒で絵師でもあった佐久間洞巌(承応2(一六五三)年~享保二一・元文元(一七三六)年:本名は佐久間義和)によって書かれた。領内をくまなく踏査したもので、一度、宝永四(一七〇七)年に、草稿を焼失してしまったが、猶、書き継いで完成させた。名跡・故事・社寺等を、和歌・物語・伝説等によって浮彫にし、単なる地誌的記述に終わらず、領内の歴史・伝承や文化的遺産を明らかにしようとしており、藩撰地誌の嚆矢とされる名品である全二十巻(『日本歴史地名大系』に拠った)。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの『仙台叢書』第三巻(昭和三(一九二八)年刊)の活字本で調べた。「名蹟類一」の冒頭に、旧刈田(かった)郡が掲げられているのだが、原本では「材木岩」ではなく、「屋料巖(サイモクイハ)」と項立てされているため、見つけるのに少し戸惑った。この左ページ上段後ろから三行目以降。かなりしっかり書かれてあるので一見をお勧めする。全文漢文だが、訓点が綺麗に打たれてあるので、読み易い。飛驒の内匠の伝説は、最後に段落を改めて次のページにかけて記されてある。

『苅田郡小原村の「材木岩」』現在の宮城県白石(しろいし)市小原上台(おばらうわだい)にある天然記念物の「小原の材木岩」(大規模な柱状節理:グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの画像も見られたい。「宮城県」公式サイト内の「指定文化財〈天然記念物〉小原の材木岩」によれば、『白石川の左岸にあり、高さ100m、長さ200mほどの範囲に石英安山岩、角閃石に属する岩脈が続き、五角・六角・多角形など、さまざまな柱状節理を示し、材木を立て並べたように見える。昔、飛騨工匠が一夜のうちに不動堂を立てようとしたが夏の夜は短く、もう一息のところで夜が明けてしまったので、材木片を河中に投じて去った。それが岩と化して材木岩となったという言い伝えがある』とある。

「備後の帝釋山にも、山鬼が、石橋を渡しかけて、鷄鳴の爲め、中止した跡有りと、黑川道祐の「藝備國郡志」下に見ゆ」現在の広島県帝釈峡の中の広島県庄原(しょうばら)市東城町(とうじょうちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど)の地名となっている自然の形成した岩橋。国立国会図書館デジタルコレクションの『備後叢書』第二巻のここの左ページの「寺觀門」の、二条目の「帝釋天」が、帝釈峡の解説となっており、最後から七行目の箇所に『未渡(ミトノ)橋』として、この山鬼の未完譚のそれが出ている(漢文概ね返り点のみ)。

『「テウトン」民族』チュートン人(Teuton)。狭義には、古代ゲルマン人の一派テウトネス族(TeutonesTeutoni)を指す。彼らはユトランド半島に住んでいたが、浸食や高波による土地荒廃のため、隣接するキンブリ族(Cimbri)とともに南方移動を開始し、紀元前一一〇年頃までには、ヘルウェティイ族(Helvetii:スイス中部に住んでいたケルト系部族)の一部も加えて、ライン川に達し、ガリアへ侵入した。紀元前一〇五年には、「アラウシオの戦い」でローマ軍勢を全滅させ、ローマを震憾させたが、その後、キンブリ族は別行動をとってスペインへ向かった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

   *

 なお、以下、「クーン」から後のカタカナ表記の人名・書名を含む諸固有名詞は、一応、調べたが、総て不詳であった。向後、こうした「見出せなかった」「不詳」を示す注も馬鹿々々しいので省略する。悪しからず。]

2023/06/14

「新說百物語」巻之三 「猿蛸を取りし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

   猿蛸を取りし事

 大坂に「箔や嘉兵衞」といふ人あり。

 年々、西國へあきないに下りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、又、あるとし、いつもの通り、西國へ下りて、安藝の宮嶌《みやじま》へ參詣の心さし[やぶちゃん注:ママ。]ありて、舟に乘りたり。

 宮嶌の三里はかり[やぶちゃん注:ママ。]手前にて、その舩《ふね》のせんとう[やぶちゃん注:ママ。]、いふやう、

「さてさて、をのをの[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]は、仕合せなる事かな。めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]事を見せ申さん。半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]より、むかふの岩のうへに、一疋の猿、座《ざ》し居《ゐ》たり。よくよく、目をとめて見給へ。猿の、蛸を取るにて侍る。稀には見る事もあれとも[やぶちゃん注:ママ。]、めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]事なり。」

と、かたりける。

 舩中、いつれ[やぶちゃん注:ママ。]も、船をとめて見居たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、その一疋の猿のうしろに、いくらともなき猿、あつまり、一疋のさるを、うしろより、とらまへ、居《をり》ける。

 その時、海中より、何やらむ、しろきもの、

「ひらひら」

と、出《いで》ては、はいり、又、はいりては、出る。

 終《つひ》に、そのしろきもの、猿の首に打ちかけたり。

 其とき、あまたの猿とも[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、ちからを出《いだ》し、一疋の猿を、ひきけれは[やぶちゃん注:ママ。]、海中のしろきものも、一所に引上《ひきあげ》たり。

 おゝき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なる蛸にてぞ、ありける。

 そのゝち、あまたの猿とも、彼《かの》蛸をくひちきり[やぶちゃん注:ママ。]、ひきはなしければ、彼《かの》一疋のさる、殊の外、くたひれ[やぶちゃん注:ママ。]たるけしきにて、砂の上に、ふし居《ゐ》たり。外のさるとも、あつまりて、取《とり》たる蛸を、かみきりて、先《まづ》おゝきなる足、一本、ふしたる猿の枕もとに、をき[やぶちゃん注:ママ。]、その頭《あたま》[やぶちゃん注:生物学的にはタコの胴部分。]を、ちいさく、くひきり、一疋つゝ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]わけ、くらひて、ひと声つゝ、山手の方へ、迯歸《にげかへ》りけり。

 跡にて、ふしたる猿、やうやう、おきあがり、蛸のあしにも、目もかけす[やぶちゃん注:ママ。]、ぼうせん[やぶちゃん注:ママ。「茫然」。]として居《をり》たりけるが、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、蛸のあしを、手に持《もち》て、ひよろひよろと、しつかに[やぶちゃん注:ママ。]、あゆみ、をのをの歸りし道に、かへりける。

 近き頃の事にて、嘉兵衞、みづからかたり侍りし。

[やぶちゃん注:タコは悪食(あくじき)であり、獰猛であるが、流石に、磯の岩場にいる猿を襲うという話は、聴いたことはない。しかし、真面目に、岸辺の犬や猿どころか、人をも襲うと書いている江戸時代の文献はあり、その中には当時の博物学者の書いた本草書さえも含まれているのである。そこまでいかなくも、未だに、「タコが夜間に上陸して畑のジャガイモを食べる。」と、心底、信じている人も、有意に、いる、のである。「日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹」の「水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり」の私の注を引用しておく(多少、手を加えた)。

   *

 これは、タコのかなり知られた怪奇談であるが、私は完全に都市伝説の類いであると断じている寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚」にも、『一、二丈ばかりの長き足にて、若し、人、及び、犬、猿、誤りて、之れに對すれば、則ち、足の疣、皮膚に吮着(せんちやく[やぶちゃん注:吸着。])して、殺さざると云ふこと無し。鮹、性、芋を好(す)き、田圃に入り、芋を掘りて、食ふ。其の行(あり)くことや、目を怒(いか)らし、八足を踏みて立行(りつかう)す。其の頭、浮屠(ふと[やぶちゃん注:ここは僧侶の坊主頭のこと。])の狀のごとし。故に俗に「章魚(たこ)坊主」と稱す。最も死に難し。惟だ、兩眼の中間[やぶちゃん注:ここに脳に当たる神経叢がある