「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(3) / 「附錄」の「孕石」
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。
本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。
なお、初回の冒頭注も参照されたい。]
附 錄
○孕石 『性之硏究』第一卷第六號二三二頁に、「獨逸には安產の爲に、『孕石』と云《いつ》てガラガラ鳴る固形物を包んだ一種の石を眞鍮に包み、產婦の左腰部に垂《たら》しおく習慣がある」と誰かゞ書いた。「孕石」とは獨逸語で何というか知《しら》ず。或は別にそんな意味の獨逸語はなきも、本邦に「孕石」てふ物あるに付《つい》て、獨逸で所謂アドレル・スタイン(鷲石《しゆうせき》)、一名クラッペル・スタイン(ガラガラ石)を、かく「孕石」と譯したのかとも推察する。藤澤君の『日本傳說叢書』「伊豆之卷」に、賀茂郡田子《たご》村平野山《ひらのやま》麓《ふもと》に「孕石」あり、高さ二丈、周《めぐ》り七、八尺ばかり、出產を祈ると、効驗あり、と信ぜられたが、今は、畠に落ち轉がりおる[やぶちゃん注:ママ。]由を記す。柳田君が『太陽』第一七卷第一號「生石《いきいし》傳說」に載せた通り、諸國に、小石、團結して大岩と成《なつ》たのが、風雨に削られて、時々、多少の小石を放ち落すを、「石が、子をうむ。」と誤り、產婦安產のまじなひに用いて、「子持石」と名《なづ》く。既に「子持石」と云《いへ》ば、「孕み石」と唱える[やぶちゃん注:ママ。]例も多々有《あつ》た事と記臆はすれど、差當《さしあた》り、確かに「孕み石」と名けたは、伊豆の一例しか知《しら》ぬ。其例有《あら》ば、識者の報道を冀《ねが》ふ。「雲根志」などみればよいのだが、座右にないから仕方がない。「類聚名物考」附錄三に「三河記」を引き、家康、幼時、駿河に人質たりし時、侮辱された仕返しに、後年、高天神《たかてんじん》落城の節、孕石主水《はらみいしもんど》に切腹させた、とある。此孕石は、多分、どこかの地名で、そこに「孕石」と呼《よば》れた石が有たで有《あら》う。
[やぶちゃん注:「孕石」「はらみいし」。
「『日本傳說叢書』「伊豆之卷」に、賀茂郡田子村平野山麓に「孕石」あり、高さ二丈、周り七、八尺ばかり、出產を祈ると、効驗あり、と信ぜられたが、今は、畠に落ち轉がりおる由を記す」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの原本(大正七(一九一八)年刊)のここで当該部を視認出来る。ブログ版の読みはそれに従った。そこでは転がっている場所を「卷田(まきだ)」と記している。「賀茂郡田子村」は現在の静岡県賀茂郡西伊豆町田子(グーグル・マップ・データ)。「平野山」は「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、旧同村域には無名のピークが複数あり、同定不能で、「卷田」の地名も見当たらない。
「柳田君が『太陽』第一七卷第一號「生石傳說」に載せた」国立国会図書館デジタルコレクションの『定本柳田国男集』第五巻(一九六二年筑摩書房刊)で視認出来る。また、誰でも見られる「私設万葉文庫」の同巻(一九六八年刊版)の「(493)」(ページ・ナンバー)で電子化されたものもある(新字と旧字の混淆版)ので、参照されたい。これは電子化する意志は私にはない。
『「雲根志」などみればよいのだが、座右にないから仕方がない』熊楠先生! 私が所持する現代思潮社の『復刻 日本古典全集』版の「雲根志」の「卷之五」で、「孕石 廿六」を見つけました! 以下に示します。それらしい絵も添えられてあるので、それも載せます(底本には『禁無断複製』とあるが、これは本書全体の複製を指す。平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解であるから、トリミング補正したこれは、違法ではない)。
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孕石(はらみいし)廿六
大さ鞠(まり)のごとく色黑く半(なかば)破(やふれ[やぶちゃん注:ママ。])たり石中に白色(しろいろ)にて大さ掌を合せしばかりのかたき石をはらめり外皮(そとがは)黑き物は數枚かさなれるかたち也鮓答(さくたう)の類にて生得(せうとく[やぶちゃん注:ママ。])の石也勢刕長野(ながの)の松原(まつばら)にて拾ひ得たり
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ここに出る「鮓答」とは、獣類の体内に出来る異物(多くは塊状の結石)で、種々の様態がある。古くは解毒剤として用いた。詳しくは、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(6:牛)」の私の「鮓答」の注を参照されたい。
「類聚名物考」江戸時代の類書(百科事典)。日本文物の類書中でも形式・内容ともに充実した最初のものとされる大著。成立年は不詳。編者は江戸中期の幕臣で儒学者で、賀茂真淵門下の国学者でもあった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年)。「日本大百科全書」の彌吉光長氏(懐かしい名だ。図書館概論で講義を受けた。受けていた女子が体調不良で卒倒し、皆で保健室から担架を持って来て、運んで戻ってみると、平然と講義を続けていて、流石にムッとして「先生!」と叫ぶと、「何かありましたか?」と平然と答え、そのままさらに授業を続けた。私はそれ以降、当該の講義をボイコットし、試験だけ受けたが、「優」を呉れたので文句はない)の解説によれば、『彼は博学で有名であったが、若いときから国書を広く読み、その抄をつくって整理していた。しかし、先輩の老人に、抄出しても急場に役だたぬから暗記せよと諭され、その教えに従って破り捨てたものの、記憶には限界と誤りがあると覚』『って、この編集にかかったという。そのため、基本的図書は破棄されたままに脱している。現存の』三百四十二『巻を精査すると、天文、時令、神祇(じんぎ)、地理など』三十二『類と抜き書きの部に分かたれている。各項目は総説と考証、文献からなり、その考証の行き届いて合理的なことは類をみない』とある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで活字本で当該部が視認出来る。右ページ上段の「○切腹」がそれ。
「孕石主水」孕石元泰(はらみいしもとやす ?~天正九(一五八一)年)は、当該ウィキによれば、『今川氏、武田氏の家臣。諱の「元」は今川義元の偏諱と思われる』。『今川氏の家臣』『孕石光尚の子として誕生。孕石氏は遠江国原田荘(静岡県掛川市)を本拠とする原氏の庶流の一族で、孕石村を本拠とした。元泰の祖父にあたる行重のころより今川家臣となる。元泰の史料上の初見は』天文二一(一五五二)年九月七日に見え、『今川義元より父』『光尚の遺領相続に関して指示を受けている』。永禄一一(一五六八)年の『武田信玄の駿河侵攻によって今川氏から離反して武田氏の家臣となり、翌年』四月に『駿河国足洗郷(現・静岡市)や遠江国各所の知行地を安堵された。元泰は朝比奈信置や岡部元信と並ぶ駿河先方衆の』一『人であり、武田信玄の駿河平定戦に参陣して武功を挙げ、特に同年』十二『月の蒲原城』(かんばらじょう)『攻略戦では信玄より感状を賜った』。『武田氏の駿河平定後は江尻城代・山県昌景』(やまがたまさかげ)『の相備』(あいぞなえ)『に編成され、駿河国藤枝郷(現・藤枝市)に知行地を得て領内の市立てや』、『堤の再興に尽力した』。天正三(一五七五)年四月の『武田勝頼の三河侵攻に際しては』、『江尻城の在番を務め、三河戦線にいる山県昌景より』、『江尻城の普請・警固について指示を受けている』。同五年七月には『勝頼より』、『改めて駿河・遠江各所の知行地である』四百八十『貫文を安堵された』。天正七(一五七九)年より、『遠江高天神城』(ここ:グーグル・マップ・データ)『の在番を務める。高天神城は翌年から徳川軍の攻囲を受け、同』九年三月二十二日に『高天神城が徳川軍に攻略され』(「第二次高天神城の戦い」)、『元泰は捕らえられ、翌』二十三『日に切腹させられた』。『なお、降伏者で切腹を申しつけられたのは孕石一人であった。切腹の際、極楽があると信じられた西方向ではなく、南に頭を向けて腹を切ろうとし、それを指摘されても、敢えて方角を直さなかったと言われている』。『子の孕石元成は、土佐山内氏に仕えた』。「家忠日記」・「三河物語」に『拠れば、今川家臣時代は人質時代の徳川家康と屋敷が隣り合わせであった。鷹狩りが好きな家康が放った鷹が獲物や糞を隣家の孕石の屋敷に落としており、度々』、『苦情を申し立てていた。そのことに腹を立てていた家康により』、『十数年の』後、『彼は切腹させられた』とある。鷹の糞、恐るべし。]
支那にも、そんな石、有《あつ》た證據は、「淵鑑類函」二六に、郡國志曰、乞子石在二馬湖南岸一、東石腹中出二小石一、西石腹中懷二一小石一故僰人乞二子於此一有ㇾ驗〔「郡國志」に曰はく、乞子石は馬湖の南岸に在り。東の石、腹中より、一小石を出だし、西の石、腹中に一小石を懷(いだ)く。故に僰人(ほくじん)子を此れに乞ひて驗(しるし)有り。〕と出《いだ》す。フヰジー島の都バウ近處《きんじよ》に、一石、立てり。高位の婦人、子を產む時、此石、亦、小石を產む(バルフォール「印度事彙」三卷七四二頁)。テオフラスツス、ムキアヌス、デモクリツス、サヴヲナロラ、カールダン抔が、石、時として、子を生む、と說《とい》たは、主として、こんな石から出た話で有《あら》う(ボストック及リレイ英譯、プリニウス「博物志」第六卷三五八頁)。去《され》ば、『性之硏究』にアドレル・スタインを「孕石」としたは、適當ならず。「孕石」は「鷲石」と別で、佩《おび》た女に安產せしむるでなく、拜む女に子を授くる石で、一汎に、「鷲石」よりは、ずつと大《おほき》い者だ。
[やぶちゃん注:「淵鑑類函」は「漢籍リポジトリ」の同巻の「石二」の「黃石」の[031-47b]の影印本と校合した。一箇所、脱落があり、それを補ったが、もう一箇所の誤りは、深刻な誤りで、「僰人」を熊楠は『楚人』(そひと)と誤っている。「僰」の字を見誤ったか、勝手に「楚」の異体字と思ったものだろう。「僰人」は、「Wiktionary」の「僰」(呉音「ボク」・漢音「ホク」)に、『棘(とげ)のある植物の多い地域に住んでいた古代の人々。現在の中国西南地域(四川省・貴州省・雲南省)の少数民族。僰人懸棺などの遺跡をのこす』とあるのがそれで、「楚」とは全く違う。しかも民族名であって国名ではないから、漢文の通例訓によって、「ほくひと」ではなく、「ほくじん」と訓じた。なお、「選集」の訓読された文では、二箇所とも正しくなっている。
「フヰジー島の都バウ」現在のフィジー共和国には「バウ島」があるが、ここは小さな島であるから、「都」はおかしい。現行の同国の首都は「スパ」(Suva)である。引用元の「バルフォールの印度事彙」はスコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India ” (一八八五年刊第三巻)の原本の「742」ページの“STONE- WOKSHIP.”(「石崇拝」)の項のここの終りから六行前に、確かに‘Baw’と確認出来る。原書がその綴りを誤ったか、呼称が違ったものか、よく判らない。
『プリニウス「博物志」第六卷』プリニウスの「博物誌」の当該部第六巻を、所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)で、三度、通読したが、この記載はない。「選集」でもこの第六巻とするのだが、これは調べたところ、第三十六巻の「石の性質」の中にあることが判ったので、「第六卷」は「第三十六卷」の誤りであることが発覚した。その訳本の『骨石、シュロ石、タエナルス石』の項に、『二九 さらにテオフラストスとムキアヌスは、他の石を産み出す石』(ここの編者注があり、『鷲石のことを言っている』とあり、この同巻の後の「三九」に「鷲石<アエティナス>」の項も存在する)『があると意見を発表する。テオフラストスはまた、骨が地中から生み出されたり、骨に似た石が見つかると述べている』とあるから、間違いない(「サヴヲナロラ、カールダン」の人名は探し得なかった。見つかったら、追記する)。]
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