「和漢三才圖會」卷第六十一「雜石類」の内の「禹餘粮」
[やぶちゃん注:〔○○〕や〔→○○〕は、表字・訓読が不完全で私がより良いと思う表字・訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]
うよろ 白餘粮
禹餘粮
イユイ イユイ サヤン
本綱禹餘粮會諬山中多出彼人云昔禹王會諬于此棄
其所餘食於江中而爲藥則名禹餘粮【蒒草亦名禹餘粮乃草實也同名異
物也】生池澤及山島石中細粉如麪黃色如蒲黃其堅凝如
石者名石中黃其未凝黃濁水名石中黃水而三者一物
太一餘糧【又名石腦禹哀】生太山山谷其石狀片片層疊深紫色
中有黃土也其性最熱冬月有餘粮處其雪先消
禹餘糧氣味【甘寒】手足陽明血分重劑也性濇故主下焦
前後諸病久服耐寒暑輕身延年不老【太一餘糧石中黃水共功用同】
△按禹餘粮卽石中黃麪其未凝者名石中黃水如此物
本朝石中亦稀有之然是秘藥不常用故識人亦鮮焉
以爲禹王食餘者浮說也
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うよろ 白餘粮〔はくよらう〕
禹餘粮
イユイ イユイ サヤン
「本綱」、禹餘粮は、會諬山〔くわいけいざん〕の中に、多く出づ。彼〔か〕の人、云〔はく〕、「昔、禹王、此〔ここ〕に會諬して、其〔その〕餘る所の食を、江中に棄〔すつ〕。而〔しかして〕、藥と爲〔な〕る。則ち、「禹餘粮」と名づく。」と【「蒒草〔しさう〕」も亦、「禹餘粮」と名づく。乃〔すなは〕ち、草の實〔み〕なり。同名異物なり。】。池澤及び山島に生ず。石の中の細粉、麪〔むぎこ〕のごとく、黃色にして、蒲黃〔ほわう〕のごとし。其〔その〕堅く凝〔こりたる〕ごとくなる石の者を「石中黃」と名づく。其〔の〕未だ凝らざる黃〔き〕なる濁水を「石中黃水〔せきちゆうくわうすい〕」と名づく。而〔しかして〕、三〔みつ〕の者、一物なり。
太一餘糧【又、「石腦」「禹哀」と名づく。】太山〔の〕山谷に生ずる。其〔の〕石の狀〔かた〕ち、片片層疊〔へんぺんそうでう〕と〔して〕、深紫色。中に黃土〔わうど〕有るなり。其〔の〕性、最も熱す。冬月に「餘粮」有る處は、其(そこら)の雪、先づ、消ゆる。
禹餘糧の氣味【甘、寒。】手足〔の〕陽明血分の重劑なり。性、濇(しふ→しぶ)る故、下焦〔かしやう/げしやう〕前後の諸病を主〔つかさど〕る。久しく服〔ぶく〕すれば、寒暑に耐へ、身を輕くし、年〔とし〕を延へ〔→べ〕、老いず。【「太一餘糧」・「石中黃水」共に、功用、同し〔→じ〕。】
△按ずるに、「禹餘粮」は、卽ち、石中の黃麪〔わうべん〕。其の未だ凝らざる者を、「石中黃水」と名づく、と。此〔この〕ごとくの物、本朝の石中にも亦、稀れに、之れ有り。然れども、是れ、秘藥にして、常に〔は〕用〔ひ〕ざる故、識〔し〕る人、亦た、鮮(すく)なし。焉〔これ〕〔を〕以つて、禹王の食〔しよく〕の餘りと爲(す)る者は、浮說なり。
[やぶちゃん注:「禹餘粮」については、前日に電子化注した『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考(1) / 序文・「第一編 鷲石に就て」』の次の「第二 禹餘糧等に就て」で語られるのであるが、類似石である「鷲石」(しゅうせき)についての私の冒頭注が参考になる。詳しくは、次回のそちらの電子化をお待ちあれ。されば、ここでは、「太一餘糧」や「石中黃水」も注は附さない。
「うよろ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「うよらう」。
「會諬山」「會稽山」に同じ。越王句践の「会稽の恥を雪(すす)ぐ」の故事で知られる浙江省紹興市南部にある山。当該ウィキによれば、中国の歴代王朝で祭祀の対象となり、「五鎮名山」の中の「南鎮」とされる。『山麓には長江流域最古の新石器文化を示す河姆渡遺跡(かぼといせき)が存在し、古くからの人類の活動が確認できる地域である』。『旧名を茅山、別名を畝山』(ぼうざん)『と称す。夏朝禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。禹が死去した地であると記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。』(☜(本文の「會諬」はその意味である)☞)『地名は禹が死去する際、諸侯が一堂に会し』、『その業績を計ったことから「会稽(会計に通じる)」と称されるようになった。しかし近年の言語学者らの研究により、会稽は越語の「矛山」という意味であることが分かった。江南は古代中国では越国』(後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは全く別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたとされる国)『の領地であって、言語も当然』、『越語が使われていた』とある。最高峰は「香炉峰」で三百五十四・七メートル(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、知られた廬山のそれとは同名異山であるので注意)。
「蒒草」砂浜に群生する海浜植物として知られる単子葉類植物綱カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi のこと。日本全土と東アジアの海岸の砂地に植生する多年草。茎は太く、高さ十〜二十センチメートルで、地中を横走する根茎から出る。葉は堅い革質で、線形、幅は四〜六ミリメートル。雌雄異株。春、茎頂に多数の小穂を密生し、淡黄緑色を呈し、長さ四〜六センチメートルの頭状花序をなす。根茎の節に繊維があり、古くは筆の代用としたので「弘法」の名があり、「麦」は熟した花序の形によるものである。また、「筆草」(フデクサ)という異名もある(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。中文の同種のウィキでも、現在も、この漢名(但し、「蒒」は簡体字)を用いていることが確認出来る。さて、所持する平凡社『東洋文庫』(一九八七年刊)の第八巻の訳では、この熟語に『はまむぎ』とルビする。恐らく、植生から安易に振ってしまったものであろうが、非常にまずい。「浜麦」は全くの別種で、イネ科の多年草である単子葉植物綱イネ科エゾムギ属ハマムギ Elymus dahuricus var. dahuricus である。こちらは、東アジアの温帯に分布し、日本各地の海岸に植生する。稈は叢生し、細く、無毛で、地下茎を出さない。葉は線形をなし、先は細くなって、小麦に似ているが、葉鞘に毛がない。夏に一個の穂状花序を出し、小穂を密生させる。各小穂に二~三個の花がつく。芒 (のぎ) は細くて軟らかい。花序の形も小麦に似ている(こちらの主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。なお、大脱線だが、私は「弘法麦」というと、芥川龍之介の「彼」(リンク先は私の詳細注附きのサイト版)を直ちに想起してしまう。私の遺愛の哀しい名小品である。未読の方は、是非、読まれたい。
「蒲黃」(現代仮名遣「ほおう」)は単子葉類植物綱イネ目ガマ科ガマ属 Typha(タイプ種:ガマ Typha latifolia )の円柱状の、所謂、「蒲の穂」の雄化穂から吹き出る花粉のこと。漢方で薬用とされる。
「片片層疊」『東洋文庫』版の訳では『片片層層として』とある。
「陽明血分」「陽明」は多気多「血」の経であり、その経気の盛衰が、直接に人体全体の血の盛衰に影響することから、この経(けい)は「『血』による疾病をつかさどる」とされる(信頼出来る漢方サイトを参考にした)。
「濇(しぶ)る」「直ぐに体外に排出されず、とどまる」。の意。
「下焦前後」漢方で六腑の一つとして措定される架空の臓器部分を言う「三焦」の一つ。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。されば、この禹餘糧の効用は稀れなる効力を持つと考えられたことが判るのである。
「黃麪」石(鉱物)から変成した黄色い小麦粉のような(と同じ栄養・薬効を持つ)物質。一種のフレーザーの言った類感呪術的発想である。]
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