「新說百物語」巻之四 「仁王三郞脇指の事」
[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。「仁王三郞」は「にわうさぶらう」で、室町時代に作られたとされる日本刀(脇差)で知られる二王清綱(におうきよつな:生没年未詳)。当該ウィキによれば、『岐阜県岐阜市にある岐阜県立博物館所蔵』の、後の『新撰組の近藤勇の処刑に使われた刀として知られる』とあり、刀工二王清綱の流派『二王派は鎌倉時代から室町時代末期にかけて周防国で活動した刀工一派であり、周防国には大和国東大寺領の荘園が多く存在したことにより、二王派の刀工も大和鍛冶との交流が深く、作風にも大和伝の特徴がよく表れている』。『「二王」という名前の由来は、仁保庄(におのしょう)』(現在の山口市の東北部を流れる仁保川(グーグル・マップ・データ)の流域一帯を荘域とする)『に刀工が居住したことに由来するというのが有力である』。『また、異説として、ある刀工が寺院で火事に遭遇し、仁王門が焼けて仁王像にも火が及ぼうとしたとき、門に繋がれていた鎖を自身が作った刀で断ち切って仁王(二王)像を救い出したことから、その刀工はそれ以降「二王清綱」と名乗るようになったという逸話もある』とあった。]
仁王三郞脇指の事
京西洞院に小林良淸といふ人あり。
冨饒(ふによう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ふねう」。])の人にて、方々、御大名がたの御用等、うけ給はり、常々江戶へ通ひしか[やぶちゃん注:ママ。]、ある年、御出入り申す御大名、仰せられけるは、
「いかに良淸、男と生まるれば、武士・町人の別ちは、なし。たしなむへき[やぶちゃん注:ママ。]は、刄物なり。汝か[やぶちゃん注:ママ。]常に帶する脇さし[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、いかやうのものそ[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、御尋ねありける。
良淸か[やぶちゃん注:ママ。]いはく、
「私《わたくし》、風情《ふぜい》の脇ざしにて候へば、各別《かくべつ》の刄物も所持仕らす[やぶちゃん注:ママ。]。しかしなから[やぶちゃん注:ママ。]、代々相つたへ候一尺六寸御座候。ほそ身にて、銘は、『仁王三郞』と御座候ふ。」
と、申し上げる。
「夫《それ》、見せよ。」
とて、直《ぢき》に御らんなさるに、成程、正眞の「仁王三郞」にて、見事なるものなり。「是れは、ためしたる事も、ありや。」
と御尋ねなさる。
「いや。ついに、ためして見たる事は、是れ、なし。」
と、こたふ。
「迚《とても》の事に、ためして遣はさん。」
とて、
「幸《さひはひ》に、罪人あり。をきて、かへるへし[やぶちゃん注:ママ。]。そのかはりに、歸り道の腰を、ふさけよ[やぶちゃん注:ママ。「塞げよ]。「代わりに、これを腰に差せ」の意。」
とて、御脇指を拜領仕り、我《わが》脇さしは、御預け申し、かへりける。
良淸、其夜、宿《やど》へかへりて、ふせりける。
夢に、不動尊、枕かみ[やぶちゃん注:ママ。]に立たせ給ひ、
「我は、是れ、汝が信心して、常に懷中する所の一寸三分の目黑不動のうつしの金佛《かなぶつ》なり。なんち[やぶちゃん注:ママ。]、脇指をためさんとて、あつけ[やぶちゃん注:ママ。]置きし所の罪人、さして切るへき[やぶちゃん注:ママ。]程のつみにても、なし。其所《そのところ》の物逢[やぶちゃん注:「ものあひ」か。以下の叙述から、使用人の下女の意であるようだ。]なるか[やぶちゃん注:ママ。]、小袖の綿に、針、ありけるを、主人、いかりて、をし[やぶちゃん注:ママ。]こめ、置《おき》たるなり。別して、此女《このをんな》、信心のものにて、我を、うやまふ事、年、久し。ねかはくは[やぶちゃん注:ママ。]、明日、さうさうまいり、命を、こひ得て遣はすへし[やぶちゃん注:ママ。]。是《これ》、おゝきなる[やぶちゃん注:ママ。]善根なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。その替りには、又、なんち[やぶちゃん注:ママ。]も、災難を、のかるゝ[やぶちゃん注:ママ。]事、あるへし[やぶちゃん注:ママ。]。脇さしは、もつとも、ためすに及はす[やぶちゃん注:ママ。]。大切の名作なり。かならす[やぶちゃん注:ママ。]、祕藏すへし[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、のたまふ、と、覺へて、夢、さめたり。
[やぶちゃん注:「目黑不動」東京都目黒区下目黒にある天台宗泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺(りゅうせんじ)。不動明王像を本尊とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は大学時代、中目黒に下宿しており、この寺の傍の五百羅漢寺が、大のお気に入りであったので、しばしば訪ねたものである。]
良淸、あさ、とく、おきて、直(すく[やぶちゃん注:ママ。])に御出入り申すかたへ參り、「夢のつけ[やぶちゃん注:ママ。]」なと[やぶちゃん注:ママ。]申し、さまさま、御わひ[やぶちゃん注:ママ。]申し上け[やぶちゃん注:ママ。]、その女を、もらひ歸へり、我《わが》知音《ちいん》の方《かた》へ、片付《かたづけ》ける。
そのとしも過《すぎ》て、明年、五月の頃、又々、江戶へ下り、四、五日もありて、不動尊、枕かみに立ち給ひ、
「去年《こぞ》は、存《ぞんじ》もよらぬ善根を、なしたるによつて、汝か[やぶちゃん注:ママ。]わざはひの來たるを、告《つぐ》るなり。明日の夕かた、此所、出火ありて類燒、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]、大火なり。其心得いたして、然るへし[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、の給ひて、夢、さめたりける。
今日は、別して、余儀なき事にて、他出《たしゆつ》いたす日なれば、近所の念比《ねんごろ》なる人にも、語りて、道具など、かたつけ[やぶちゃん注:ママ。]させ、我も、その用意して、朝、とくより、出《いで》たりける。
夕かた、御出入りの御かたの側《そば》に、御咄《おはなし》なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたし居《をり》けるか[やぶちゃん注:ママ。]、
「出火。」
のよし、申しける。
吟味いたせは[やぶちゃん注:ママ。]、
「宿所の近所。」
のよし。
御馬《おんうま》を拜惜して、一さんに歸へりけれと[やぶちゃん注:ママ。]も、最早、あとへん[やぶちゃん注:既にして焼け尽して頃のことを言うか。]にて、宿の近所は、一軒も殘らず、燒《やけ》うせたり。
夫《それ》ゆへ、荷物ひとつも、燒《やけ》うせす[やぶちゃん注:ママ。]、けか[やぶちゃん注:ママ。]も致さゝり[やぶちゃん注:ママ。]ける。
近所の者も、夢のはなしを信用せさる[やぶちゃん注:ママ。]ものは、家財をうしなひて、損をいたしけるとなり。
「『仁王三郞』の脇ざし、『金佛の不動尊』、今に、其家に持傳《もちつた》へて、まさしく、手に取りて見たる。」
と語りける。
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