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2023/06/21

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「二」 の「呼名の靈」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 なお、以下の「二」の下方の初出掲載の書誌は六字下方であるが、ブログ・ブラウザの不具合が出るので、引き上げた。

 因みに、既に電子化注した『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』、及び、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「女の本名を知らば其女を婚し得る事」』が本論考と関係がある。]

 

      (大正二年九月『鄕土硏究』第一卷第七號)

○呼名の靈(三號一五八頁)西曆千廿年、瑞典《スウェーデン》、ルンドの大寺を建てた時、晝間、苦心して、積み上げた石材を、每夜、巨鬼、來たり、悉く、運び去《さつ》た。寺の願主、之を責めると、「鬼の名を定期中に指中《さしあて》たら、二度と來ない。指中ねば、何時《いつ》迄も邪魔して遣《やら》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。」と云《いふ》ので、願主、弱り入り、思案も盡きて、海濱を步くと、其鬼の妻が、夫を、「フヰン」と呼《よん》だ。聞《きい》て、大悅《おほよろこび》、ルンドに還り、夜半に、三聲、高く、「フヰン」と呼ぶと、鬼、大《おほい》に驚き、卽時、去たと云ふ(ジェームス、「一八一三至一四年獨逸・瑞典・露西亞・波蘭《ポーランド》旅行日記」第三板、第一卷三三頁)。一八七〇年板、ロイドの「瑞典小農生活《ピザント・ライフ・イン・スエズン》」二七七頁には、オラフ(十一世紀の諾威《ノルウェー》王)、鬼をして、大寺を作らしむ。約《やく》すらく、「寺成る迄に、王が鬼の名を知《しら》ば、鬼王に囚《とらへ》られ、鬼の名を知得《しりえ》ずば、日月、又は、王の身を鬼に與ふべし。」と。扨、寺院完成に近づくも、塔上の知風板(かぜみ)だけ、具《そな》はらず。其時、王、大いに憂ひて、野をぶらつく。偶々、鬼の妻、其兒の啼《なく》を止《とめ》ん迚《とて》、「明日、汝の父、日月が王の軀《からだ》を持ち還る筈故、おとなしく待て。」と言ふ。話の中に、鬼の名が知れる。王、歸りて、鬼が、知風板を据付《すゑつ》んと、塔頂へ登つたところに向ひ、鬼の名を呼ぶと、仰天して、轉がり落ちるを、取《とつ》て押《おさ》へ、永く囚へ置《おい》た、と有る。〔(增)(大正十五年九月記)グリンムの「獨逸童話」に、貧女、王に、「藁を黃金につむぎ替《かへ》よ。」と命ぜられ、泣く。處え[やぶちゃん注:ママ。]、小魅《こおに》、來たつて、「汝、王后と成《なり》て、初めに產るゝ兒をくれるなら、汝に代つて、此業を成就すべし。」といふ。他に良案もないから、承諾すると、小魅、造作もなく、夥しい藁を、黃金に紡ぎ化した。王、此女に『神巧あり。』と感じ、之を后とし、久しからぬ内に、美はしい兒ができた。其時、かの小魅、忽ち、來つて其兒を乞ひ、后が、極めて悲しむをみて、「三日内に、吾名をいひあてたら、此兒を貰はずに濟ましやろう。」と言ふ。第一、第二の夜、后、其小魅に、自分の知《しつ》た限りの人名を、列ね聞かせど、何《いづ》れも、「吾名で、ない。」といひ續けた。三日目に、后の使者が、此小魅が、自分の名を呼《よん》で踊る處へ行《ゆき》かゝり、歸つて、后に告《つげ》たので、后、其名を小魅に聞かすと、大《おほい》に怒つて自滅した、とある。その類話は、一八八九年板、ジョーンス及クロップの「マジャール民譚集」の「なまけた糸くり女が后となつた話」と、その註に載せある。〕

[やぶちゃん注:一部の書名の読みのカタカナは「選集」で補塡した。なお、「選集」の編者注によれば、冒頭に記された対象論考は『桜井秀「呼名の霊」とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本民俗學辭典」本編(中山太郎編・昭和八(一九三三)年昭和書房刊の「ナヲヨブクワイ」に当該論考の梗概が記されてあったので、以下に電子化する。本文は、底本では、二行目以降は最後まで一字下げである。

   *

ナヲヨブクワイ 〔名を呼ぶ怪〕 我國には怪物に名を呼ばれると死ぬと云ふ俗信があつた。吾妻鏡(卷五)文治元年十二月二十七日所司二郞頓死の條に『及半更叩ㇾ戶有此男之名字云々。恠ㇾ之取脂燭見之處己入死門云々』とあり。更に一條兼香の日記元久二年六月一日の條に『去月世上申沙汰、夜々無誰人老若共呼、令ㇾ呼與其人橫死又不ㇾ知行方云々』とある(鄕土硏究一ノ三)

【參考文獻】

呼 名 の 靈 (南方 熊楠) 郷土研究一ノ七

   *

この内、「吾妻鏡」のそれは、「文治元年十二月二十七日」は「二十八日」の誤りである。本文全部と推定訓読を示す。【 】は二行割注。なお、文治元年は一一八五年で、この年の前月十一月に、朝廷が頼朝の要請を受け、諸国への守護地頭の設置を認めている。

   *

廿八日丁丑。甘繩邊土民【字所司二郞。】、去夜於困上乍立頓死。人擧見之。家中之輩語群集者云、及半更、叩戶有喚此男名字之者。此男答、則開戶之刻、再不語而良久。怪之取脂燭見之處、已入死門云々。

   *

廿八日丁丑。甘繩邊の土民【字(あざな)は所司二郞。】〕去(いんぬ)る夜、困(しきみ)の上に於いて、立ち乍ら、頓死す。人、擧(こぞ)りて、之れを見る。家中の輩、群集の者に語りて云はく、

「半更に及び、戶を叩き、此の男の名字を喚(よ)ぶ者、有り。此の男、答へて、則ち、戶を開くの刻(きざみ)、再び、語らずして、良(やや)、久し。之れを怪しみ、脂燭(しそく)[やぶちゃん注:「紙燭」に同じ。]を取りて見るの處(ところ)、已(すで)に死門に入る。」

と云々。

   *

・「困」玄関と外とを区別するための敷居様の物。・「半更」夜半。・「脂燭」「紙燭(しそく)」に同じ。

   *

「元久二年」は一二〇五年。。鎌倉幕府将軍は源実朝で、執権は北条義時。以上の日記を推定訓読しておく。

   *

去(いんぬ)る月、世上に申す沙汰に、夜々、誰人(たれびと)も無くして、老若(らうにやく)共(ども)を呼ばしむ。呼ばしめらるると與(とも)に、其の人、橫死、又は、行方(ゆくへ)知れずとなれりと云々。

   *

「西曆千廿年、瑞典、ルンドの大寺を建てた時」スウェーデン南部のスコーネ県にあるルンドには、デンマーク王カヌートによって建立されたルンド大聖堂(グーグル・マップ・データ)があるが、その創建は、ウィキの「ルンド」によれば、九百九十年頃とする。英文の「Lund Cathedral」(邦文ウィキはない)を見ると、この大聖堂はルンドに建てられた最初の教会ではなかったとあり、最古の教会(現在は消滅)は 十 世紀末に市内に建てられたとあり、中世のルンド大聖堂の守護聖人である聖ローレンスに捧げられたルンドの教会に関する最初の文書による記述は一〇八五年に遡るとあるので、熊楠の言う一〇二〇年説を裏付けるか。

「マジャール」マジャ(ー)ル人は国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族の名。]

 近頃迄、エスキモー人は、魂と體と名と、三つ、聚《あつまつ》て、始めて、人となると信じ、死んだ人の名をついだ人は、其死《しん》だ人の性質を、總て、讓受《ゆづりうけ》る。死んだ人の名を、他の人が襲(つが)ぬ内は、死人の魂が、平安を得ぬ。又、他人が襲(つが)ぬ内に、死人の名を言ふと、其名を損じて、力《ちから》を失ふ。又、人が死ぬと、其名が、姙婦に宿り、其子と共に生れる。子が生れると、「名を附《つけ》て吳れ。」と泣《なき》出す。巫《ふ》に賴んで、其名を識出《しりいだ》し、其子に附る、とした(五年前、一九〇八年板、ラスムッセン「北氷洋之民」英譯、一一六頁)。古埃及では、箇人は魂(バイ)、副魂(カ)、名(ラン)、影(クハイベト)、體(クハツト)の五より成る、と(「大英類典」一一板、第九卷五五頁)。神も自分の名を呼《よん》で、初めて、現出し、鬼神、悉く、其秘密の名、有り、人、之を知《しれ》ば、神をして、己れの所願を成就せしむるを得と信じ、又、名を潰さるゝと、物が生存し得ぬとした(バッヂ『埃及諸神譜(ゼ・ゴツヅ・オヴ・ゼ・エヂプシアンス)』一九〇四年板、三〇一頁)。

[やぶちゃん注:『一九〇八年板、ラスムッセン「北氷洋之民」英譯、一一六頁』グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である)のThe People of the Polar North。イヌイットの風俗を纏めた旅行記で同年に刊行された。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ。]

 支那には、「抱朴子」に、山精、四種、有り、呼其名敢爲一ㇾ害。〔其の名を呼べば、敢へて害を爲さず。〕佛典に、諸鬼諸山精、若人知其名、喚其名字、不ㇾ能ㇾ害ㇾ人。〔諸鬼・諸山精は、若(も)し、人、其の名を知りて、其の名字を喚(よ)べば、人を害する能はず。〕(「大灌頂神呪經」)。又、毒藥の名を知る人は、其毒に中《あた》らず、とす(義淨譯「大孔雀呪王經」卷下)。章安と湛然の「大般涅槃經疏」二に、「咒」は鬼神の名で、名を云はるゝと、鬼神が害を爲し得ぬ。盜者《ぬすびと》が財を伺ふ時、財主に自分の名を言《いは》るゝと、盜《ぬすみ》を行ひ得ぬ、と同じだ。又、「王咒」は鬼神王の名で、其を喚ぶと、鬼の子分等《ら》、恐れ入《いつ》て害を爲《なさ》ぬ、と有る。天台大師の「摩訶止觀」八にも、十二時、又、卅六更、其時每《ごと》の獸が、行人を惱ましに來る事有り。例へば、寅の刻に、虎が來る、此樣な時媚鬼《じびき》と云奴《いふやつ》を、一々、其獸の名を推知《すいち》して呼ぶと、閉口して、去る、と出づ。本居宣長曰く、『古き神社には、何《いか》なる神を祭れるか知れぬぞ多かる。「神名帳」にも、凡て祀れる神の御名を記さず、只、社號のみを擧《あげ》られたり』云々、『社號、乃《すなは》ち、其神の御名なれば、左《さ》も有るべき事にて、古《いにしへ》は、さしも祭る神をば、强《しい》ては、知らでも有けむ。』と。

 熊楠、去年六月十五日の『日本及日本人』二四頁に陳べた通り、吾邦にも、古は、神の本名を、無闇に言散《いひちら》さなんだらしい。チュンベルグの「日本紀行」に、當時の至尊の御名を誰も知《しら》ず、聞出《ききだ》すに、甚だ苦しんだ由、筆《ひつ》し有る。其他、三馬の小說に、忠臣藏のお輕の母の名が、一向見えぬと笑ふたが、國史に、田道《だぢ》將軍の妻、形名君《かたなのきみ》の妻など、今の歐米と同じく、夫の名許り記して、夫人の名を書《かか》ぬ例、多く、中世にも、淸少納言・大貳三位・相模・右近など、儕輩間《なかまうち》に呼ばれた綽號《あだな》樣な者の遺《のこ》り、本名の知れぬ貴女許り記されて居る。〔(增)(大正十五年九月記)ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三五六頁に云く、『此民は、今日も、夫は妻の名、妻は夫の名を呼《よば》ず。男は、其弟の妻、或は妻の妹、女は妹の夫、又、夫の兄の本名を呼ず。もし呼ばゞ、聾、又、啞の子を生むといふ。極めて餘儀なくて呼ぶ時は、先づ、地に、唾、はきて後ち、呼ぶ。基督敎に化せる輩も、群集中で、此俗を破るを好まず、某の父、某の母といふ風に呼ぶ、と。三位道綱の母、加茂保憲の女などいふも、こんなわけの者か。)

[やぶちゃん注:「田道將軍」田道(たぢ ?~仁徳五十五年)は仁徳朝の武人。田道の氏姓に関して「日本書紀」には記述されないが、「新撰姓氏録」には「田道公」と表記され、姓は「公」とされる。記載は少ないが、当該ウィキを見られたい。

「形名君」上毛野形( かみつけののかたな 生没年未詳)は飛鳥時代の武人。舒明天皇九(六三七)年、将軍として反乱した蝦夷(えみし)を攻めに向かったが、敗北し、逃げようとしたが、妻から、酒を与えられて、「祖先以来の武名をけがさぬように。」という励ましに奮起し、蝦夷を破ったという人物(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三五六頁』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが原本当該部で、“CXXXIV. RAM'S WIFE.”の章がそれ。]

 予、往年、愛爾蘭《アイルランド》人に聞《きき》しは、彼《かの》國には、地方により、今も、女子が裸で浴する處を見て、婚を求むれば、必ず、應ずる由。〔(增)(大正十五年九月記)サリシュ人の處女が、男に露形《あらはなるすがた》を見らるれば、其男に嫁ぐの外、其恥辱を去る能はず、其男、又、必ずその女を娶るが、義務なり。故に親族の抗議により、自分望みの女を手に入れ能はぬ男は、此手で、其女を娶るといふ(一九〇七年板、ヒル・トゥート「英領北米誌」六九頁)。)羅什等譯「十誦律」九に、迦留陀夷《かるだい》比丘、「諸房舍を示すべし。」とて諸婦女を集め、說兩可ㇾ羞事、以他母事向ㇾ女說言、汝母隱處、有如ㇾ是相、爾時女作是念。[やぶちゃん注:句点はママ。]如ㇾ是比丘所ㇾ說、必當我母。〔兩(ふた)つの羞づべき事を說くに、他の母の事を以つて、女(むすめ)に向ひて、說きて言はく、「汝が母の陰處に是(か)くのごとき相、有り。」と。其の時、女は是くのごとき念(おも)ひをなす。是くのごとく比丘の說く所は、「必ずや、當(まさ)に我が母と通じたるなるべし。」と〕又、女事《をんなのこと》を母に、子、婦《よめ》の事を姑《しうとめ》に、姑の事を子婦に說き、是諸婦女、展轉相疑。〔是の諸(もろもろ)の婦女、展轉として相ひ疑ふ。〕佛、爲《ため》に結戒す。義淨譯「根本說一切有部毘奈耶雜事」二九に、梵授王、盲人が、「王妃の腰間に、萬字、有り、胸前に、一(ひとつ)の旋(せん)あり。」等の隱相を說くを聞《きき》て、其王妃と私《わたくし》せるを悟る事、有り。予、幼時、和歌山で聞《きい》た俗傳に、「菅丞相、最《いと》止事《やんごと》無き女性を畫《ゑが》き、居眠《ゐねむり》して、其祕處に、筆、落《おち》て、黑子《ほくろ》を成せしより、『斯る祕相を知るは、上《かみ》を犯せし事あるに因る。』と、讒言に遇《あひ》て流され玉ふた。」と言《いつ》た。〔(增)(大正十五年九月記) 西鶴の「新可笑記」、「官女に人のしらぬ灸所」は同樣の物語りで、其末文に、支那の吳道子も「官女の寫し繪にこぼれ墨其儘にほくろと疑はれし」由を載す。皆人の知る通り、沙翁《シエキスピア》の劇曲「シムベリン」に此樣《かやう》の一段あり。その類話は、多くエー・コリングウッド・リー氏の「十日譚《デカメロン》の根源と類話」四二―五七頁に列せらる。〕

[やぶちゃん注:「十誦律」及び「根本說一切有部毘奈耶雜事」は「大蔵経データベース」で校合したが、前者は同データベースの一部がちょっと不審であったため、熊楠の引用に従った箇所がある。

「迦留陀夷」釈迦の弟子の一人が知られるが、無関係な同名異人が多い。]

 惟《おも》ふに、吾邦にも、女の本名を他人に知らるゝを、膚を見らるゝと同樣に、嫌《きらひ》しならん。其起りは、本名を知つた者に、知られた者が、隨意、支配さるゝてふ迷信より出たのだらう。扨、人が己《おのれ》の名を呼ぶ時、「應(わう)。」と答ふるのは、先方が、確かに、己が本名を知つたと承認する譯だ。隨《したがつ》て、鬼靈に名を呼《よば》れて答ふると、卽時、魅《ばか》されたり、命を取られたりする、と信ずるに至つたのだ。〔「古事談」三に、眞濟《しんぜい》が、天狗となり、染殿后を惱ます時、相應和尙、不動を念じ、其鬼の名を露はして退散せしめし由を記す。〕「西遊記」二編二卷、孫行者、名を「者行孫」と僞り、銀角大王と戰ふ時、銀角、魔力ある瓢《ひさご》を取《とり》て、「者行孫。」と呼ぶ事、二度、行者、『僞名を呼ばれて應ずるに、何の妨げ有らん。』と思ひ、一聲、應じて、忽ち、瓢中《ひさごのうち》に吸入《すひいれ》らる。此寶瓢《たからのふすべ》、元來、名字の眞・假に不管《かかはらず》、凡そ、答ふる心、有《あり》ても、便《すなは》ち、入裝《もりい》る、と有るは、面白し。一八八〇年西貢《サイゴン》發行『交趾支那探見雜誌』に出た、ランド氏「安南俗信記」に、「コンチン鬼《き》」は、未通女、男知《しら》ずで、死ぬと、其靈を、加持して、墓中に閉塞《とぢこめ》る。然らざれば、此鬼になり、墓を出《いで》て、樹上に居り、氣味惡く笑ふ。又、種々《いろいろ》に變形して、行くを、呼ぶ。之に應えた者は、魂、身を脫出《むけいで》て白痴と成る、と有る。英國に、ダッフス卿、野外で、疾風の聲を聞くと同時に、誰とは知らず、「馬。」と「草株《ハツソツク》。」と呼んだ、何心無く、之を擬《まね》て、呼ぶと、忽ち、精魅《フエヤリーズ》に佛國王の窖中《あなぐらのなか》に伴行《つれゆか》れ、諸魅と飮宴し、翌日、氣が付くと、身、獨り、窖中に居《をり》し、と云ふ(一八四六年板、トマス・ライト「中世英國論集《エツセイス・オン・ゼ・ミドル・エイジス》」一の二五八頁)。パンジャブにも、梟《ふくろふ》、鳴《なく》に、應ずれば、其人、必ず、死すと云ふ(「フォークロ-ル」一八九〇年、卷五、八四頁)。劉宋の劉敬叔の「異苑」に、或人、杜鵑《ほととぎす》の鳴聲を擬《まね》して、忽ち、血を嘔《はき》て死んだ、此鳥は、啼《なき》て、血、出《いづ》るに至つて、乃《すなは》ち、止む。故に擬た人も、血を嘔いて死んだ、と言へるも、似た事だ。

[やぶちゃん注:『「古事談」三に、眞濟が、天狗となり、染殿后を惱ます時、相應和尙、不動を念じ、其鬼の名を露はして退散せしめし由を記す』実は、この話、同じ染殿の別系統の話を、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」』(内容が内容だけに「R指定」とした)を南方熊楠の「今昔物語の研究」のために二年前に電子化注しており、また、同じ内容の話を、恐らくは「善家秘記」を元にして書いたと推定される「大和怪異記 卷之一 第十三 金峯山の上人鬼となつて染殿后を惱す事」も、昨年、電子化注している。しかし、ここに出る僧「眞濟」の名は、前者には出ず、「大和怪異記」では作者の最後の附記に出るばかりなので、先行する熊楠の指した「古事談」に載るものを、ここでは、電子化しておくこととする。ちょっと疲れたので、これを本篇では最後の注とする。悪しからず。原書は漢文であるが、訓読しないと、若い読者には厳しいかとも思われるので、漢字の正規表現は、正字国立国会図書館デジタルコレクションの芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」を参考にして正字表現にし、訓読は「新日本古典文学大系」版の「古事談 続古事談」(川端・荒木両氏校注二〇〇五年岩波書店刊)を参考にして示す。注も一部で後者を参考にした。【 】は傍注。読み易さを考え、改行や段落を成形し、一部は推定で歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

 貞觀七年[やぶちゃん注:八六五年。]の比(ころ)、染殿皇后【文德后、淸和御母、忠仁公の御女なり。】【明子。】、天狐の爲めに惱まされ、稍(やうや)く、數月を經たり。

 諸(もろもろ)の有驗(うげん)の僧侶、敢へて能く之れを降(くだ)す者、無し。

 天狐、放言して云はく、

「三世(さんぜ)の諸佛出現するに非ざるよりは、誰(たれ)れか我れを降し、亦た、我が名を知らむ。」

と云々。

爰(こ)こに、相應(さうわう)和尙、召しに應じて、參人(さんじん)し、兩三日、祗候(しこう)するに、其の驗(しるし)、有ること、無し。

 本山に還りて、無動寺の不動明王に對(むか)ひ奉りて、事の由を啓白(けいはく)し、愁恨して祈請(きせい)す。

 其の時、明王、背(そむ)きて、西を向く。

 和尙、隨ひて西に坐すに、明王、又(ま)た、背きて、東を向く。

 和尙、又た、隨ひて東に坐す。明王、忽ちに、背きて、元の如くに南を向く。

 和尙、亦(ま)た、南に坐し、流淚(りゆうるい)、彈指(だんし)、稽首(けいしゆ)して、和尙、白(まう)して言はく、

「相應、明王を戴き奉りて、更に、他念、無し。而るに、今、何の犯せる過(あやまち)有りて、相ひ背けること、此(か)くの如きか。願はくは、悲愍(ひびん)[やぶちゃん注:心から憐れむこと。]を垂れて、告げ示すべし。」

と云々。

 胡跪(こき)[やぶちゃん注:膝を地につけて礼拝するもの。特殊な法要でのみ用いる座法。]合掌して、明王の本誓(ほんぜい)を念じ奉りて、眼を合はする間(あひだ)、夢に非ず、覺むるに非ずして、明王、示して云はく、

「我れ、生々加護(しやうじやうかご)の本(もと)の誓(せい)に依りて、去り難き事、有り。今、其の本緣を顯說(けんせつ)せむ。昔、紀(きの)僧正眞濟存生(ぞんしやう)の日、我が明咒(みやうじゆ)を持(じ)す。而るに、今、邪執(じやしふ)を以ての故に、天狐道(てんこだう)に墮ち、皇后に着きて、惱ます。本の誓の爲めに、彼(か)の天孤を護る。仍(よ)りて、我が咒を以ては、彼の天孤を縛(ばく)し難(がた)きなり。大威德の咒の加持を以てすれば、結縛(けつばく)の便(たより)を得むか。」

と云々。

 此の告げの後、感淚に堪へず、頭面攝足(とうめんせつそく)して[やぶちゃん注:両膝と両肘を地につけ、両手で相手の足をとって自分の頭部に接しさせる最高礼の仕儀を行うことを指す。]、禮拜、恭敬す。

 後日、召しに依りて、復(ま)た、參る。

 明王の敎誡(けうかい)の旨(むね)に任せて、加持し奉る間、天狗を結縛す。

 自今已後、復た來たるべからざる由(よし)、歸伏(きぶく)して後、之れを、解脫(げだつ)す。

 則ち、皇后、尋常に復すと云々。

   *]

追記 (大正十五年九月記) ハズリットの「諸信念及俚傳」第二卷六二頁に、吸血鬼、人を呼ぶに、答ふれば、必ず、死す。但し、此鬼、一夜に、同じ人の名を、二度、呼ばず。故に、二度呼ばれて答ふるも、害なし、と有る。一九一〇年劒橋《ケンブリッジ》板、セリグマンの「英領ニューギネアのメラネシアンス」一四〇頁に、コイタ人の靑年は、多く、自分の名をいはず、衆中で問《とは》るゝ時は、止《やむ》を得ず、其友に言《いつ》てもらひ、若くは、其友の言ふに任す、と出づ。これも、以前、自分の名を語れば、自身、全く名を聞き知つた人に領せらる、と信じた遺風だろう[やぶちゃん注:ママ。]。

 

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