「新說百物語」巻之四 「碁盤座印可の天神の事」
[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
今回はここ。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。なお、本篇には挿絵はない。また、標題及び本文中の「印」の字は「グリフィキ」のこの異体字の崩し字であるが、表記出来ないので、通常字とした。]
碁盤座印可(ごばんさゐんか[やぶちゃん注:総てママ。])の天神の事
又、京五条のひがしに、手跡の指南をする何某といふものあり。
常に、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]、天滿宮を信仰しけるが、ある夜の夢に、正《まさ》しく、天神、つけて[やぶちゃん注:ママ。]、の給はく、
「我は、是れ、天滿天神なり。明日、高辻柳馬場に來るへし。」
と、の給ふか、と、おもへは[やぶちゃん注:ママ。]、夢、さめたり。
ありかたく[やぶちゃん注:ママ。]おもひて、未明に、高辻柳馬場に、いたれとも[やぶちゃん注:ママ。]、いまた[やぶちゃん注:ママ。]何《いづ》かたの表の戶も、あかす[やぶちゃん注:ママ。]。
しはらく[やぶちゃん注:ママ。]やすらひ居《をり》たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、やうやう、角《かど》の家、一軒、戶をあけたり。
ふと、見入《みいり》たれは[やぶちゃん注:ママ。]、夢に見たるに、すこしもちかはぬ[やぶちゃん注:ママ。]立像の天神、御たけ壹尺はかり[やぶちゃん注:ママ。]なりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、碁盤のうへに、立たせ給ふ。
もとめ、かへりて、猶〻、信心いたしけるか、靈驗(れいけん[やぶちゃん注:ママ。])いちしるく、そのあらたなる事、度々なり。
御手《おんて》に、卷物一卷、持ち給ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、「碁盤座印可の天神」と申し奉る。
「俗家に、をかん[やぶちゃん注:ママ。]も、いか〻。」
と、大龍寺の辻子《ずし》の寺へ、あつけ[やぶちゃん注:ママ。]奉る。
先年、開帳ありし尊像は、此天神の御事なり。
[やぶちゃん注:完全な実話譚。
「高辻柳馬場」現在の京都府京都市下京区万里小路町(まりこうじちょう)の南北の柳馬場通と、東西の交差するここ(グーグル・マップ・データ)。
「大龍寺の辻子の寺」上京のこの辺りに(グーグル・マップ・データ)「大龍寺」「太龍寺」「大龍院」があるが、どうも、どれも「辻子」に合わないようだ。諦めかけたが、今少し、調べて見たところが、かの蛸薬師永福寺の東にある裏寺町(グーグル・マップ・データ)に、嘗つては大竜寺という寺があったが、移転した、という記載を、いろいろ検索している内に、個人ブログ「酒瓮斎の京都カメラ散歩」の「辻子 ―蛸藥師辻子と大竜寺辻子―」の中に発見した。そこに『裏寺町にあった大竜寺(昭和』五一(一九七六)『年に右京区梅ヶ畑高鼻に移転)へ行く道筋であったことが』、『辻子名の由来。この大竜寺の別堂に烏芻沙摩明王(うすさまみょうおう)を勧請したことから、烏須沙摩辻子(うすさまのずし)の別称もあったと云う』とあり、「京都坊目誌」の『「▲御旅町」の項にも、「北側其東の方より裏寺町に通する小街あり。地は本町及ひ中之町に屬す 之を烏須沙摩ノ辻子と字す」とあり』、『同書「◯大龍寺」の項でも、「寺門南面す。四條通に向ふ裏寺町南より四條通に至る間を。地は中之町に属す俗に烏須沙摩ノ辻子と字す。本寺内に烏須沙摩明王ノ像を安する故也」と記して』あるとあったのである。ここは、天神像を主人公が手に入れた高辻柳馬場とも近く、拡大して見ると(グーグル・マップ・データ)、この町内には寺が多いことが判る。而して、「大竜寺辻子」という路地名が、しっくりくる。ここを候補としよう。]