佐々木喜善「聽耳草紙」 九九番 鮭魚のとおてむ
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「とおてむ」は「トーテム」、人類学・民俗学・民俗学用語の「totem」で、 ある社会集団が、自分たちの部族と血縁関係のある祖先として、特定の動物・植物を崇拝する場合、種としての、このような動物・植物或いは動物のある部分を指して言う語である。]
九九番 鮭魚のとおてむ
昔、遠野鄕が未だ大きな湖水であつた頃に、同町宮家《みやけ》の先祖が、氣仙口《けせんぐち》から鮭に乘つて、此鄕へ入つて來たのが、この鄕での人間住居の創始であると謂ふやうに語られてゐる。
此家の幾代目かの主人、大層狩獵が好きであつた。其頃今の松崎村のタカズコと云ふ所に、鷹が多く棲んでゐて飛び𢌞り、人畜に危害を加へて仕樣がなかつた。此人或日其鷹を狩り獲らうと云ふので、山へ登つて行くと、かへつて矢庭に大鷹に襟首をとらへられて宙天高く引き上げられてしまつた。其人は如何《どう》かして逃れやうと思つたけれども、却つて下手(ヘタ)な事をしたなら天から墜落(オト)される憂ひがあるから其儘拉《らつ》し去られて行くと、稍《やや》久しくして高い斷崖の上の大きな松の樹の枝の上に下(オロ)された。其人は腰の一刀を引き拔いて𨻶があつたら其鷹を剌さうと構へたが、どうも寸分の𨻶もあらばこそ。さうして居るうちに何處からか一羽の大鷲が飛んで來て、鷹の上を旋囘して、鷹かまたは自分かを窺ふものゝやうであつたが、鷹が首を上げてそれを見る𨻶に、其人は得たり賢《かし》こしと一刀を擬《ぎ》して柄も通れよとばかり鷹の胸を刺し貫いた。何條《なんでう》堪《た》まるべき[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版ではここに読点がある。本来はそれが良い。なお、以下の読点はママ。そちらは「ちくま文庫」版であるように、句点であるべきである。]鷹は一たまりもなく遙か下の岩の上に墮ちた、其と一緖にその人も岩の上へ落ちたが鷹を下敷にしたので幸ひに怪我はなかつた。
其うちに彼《か》の大鷲も、何處《いづこ》へか飛び去つたので、其所を立ち去らうとして、よく見ると其所は海と河との境に立つた大岩であつた。そこで自分の衣物を脫いで引き裂き斃《たふ》れた鷹の羽を絡《から》んで一條の綱を作つて、これを岩頭に繫ぎ、其を賴りとして段々と水の近くへ降りて見ると、水が深くてなかなか陸の方へ上らう由《よし》もなかつた。途方に暮れて居ると折りしも一群の鮭魚《さけ》が川を上《のぼ》つて來た。其中に一段と大きな鮭が悠々と岩の岸を通つて行くから、其人は思はずこの大鮭の背に跨《また》がつた。そして漸《や》つとのことで陸に近づき上陸をして四邊を見れば、其所は氣仙の今泉であつた。
其人は直ぐに故鄕へ歸ることもならない事情があつたと見えて、暫く其地に足を停《とど》めて居るうちに、世話する人があつて鮭漁場の帳付《ちやうづけ》となつた。勿論文才もあり、勤めも怠けなかつたので、大層人望が厚かつた。
今泉と川を隔てた高田とには常に鮭漁場の境界爭ひがあつて、時には人死《ひとじに》になどさへもあつた。そんな時には其人の仲裁で何方《どつち》も納まつて居たが、或年鮭が不漁なところから人氣《ひとけ》が惡く重ねて例年の川の境界爭ひも今までになく劇《はげ》しかつた。此時ばかりは其人の仲裁も何の甲斐もなく、日《ひ》に夜《よ》に打ち續いて漁師が川の中で鬪爭を續けてゐた。
其時、其人は遂に意を決して川の中央へ出て行つて、兩方の人々に聞えるやうな高い聲で叫んで言つた。今泉の衆も高田の衆もよウく聽いてくれ。今度ばかりは俺の誠意(マゴヽロ)も皆樣に通らなくて每日每夜、夜晝斯《か》うやつて喧嘩を續けて居るが俺にも覺悟がある。俺は今此所で死んで、此の爭ひを納《をさ》めたい。そこで皆樣は俺の首の流れる方《かた》を今泉の漁場とし、胴體の流れる方《かた》を高田の漁場としてくれ。それよいか、と言つて、刀を拔いて後首(ウシロクビ)から力まかせに自分の首を搔き切つて落した。
そして漸《しばら》く經つと暴風雨が起つて、其人が自害した邊に中洲が出來上つた。それで兩地の境界が定まつて、自然と川爭ひも絕えたと謂ふ。
其後其人の子孫は先祖の故鄕の遠野へ歸つた。そして先祖が鮭のために生き又鮭のために死んだのであるからと謂ふので、家憲《かけん》として永く鮭を食はなかつた。若《も》し食へば病むと傳へられて今でも固く守つて居る。
(鈴木重男氏談話の三。遠野の口碑であるが、又曰く、宮家が鮭魚に乘つて氣仙口から遠野の湖に入つて來た當時には、鶯崎とか愛岩山などに穴居《けつきよ》の者が一二軒あつたと謂ふ。其人が或日狩獵に行くと常服の鹿の毛皮の上着を着て行つたために大鷲に攫はれたのであつた。それからは本話と同樣で結局鮭に助けられてまた家へ歸つたという。今泉と高田の鮭漁場爭ひの話は、時代も人物も違つて居るかも知れないのである。)
[やぶちゃん注:附記は例の通り、ポイント落ちで、冒頭丸括弧のみ二字下げ位置である以外は、全体が三字下げであるが、引き上げた。この話については、ネット上に多くの記載がある。グーグルの「宮家 鮭 遠野」のフレーズ検索をリンクさせておく。例えば、ブログ・サイト「遠野 勝手に観光ガイド」の「遠野の始まり」によれば、『縁結びの神様として知られている卯子酉様』(うねどりさま:神社名。ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『は嘗ては倉堀神社と言っていたそうな』。『遠野の一体が大きな湖であったその昔、鮭の背に乗って宮家と倉堀両家の先祖が猿ケ石川を遡ってここにたどり着いたという話があります』。『この当時の遠野は広い湖水で、この鮭の背に乗ってきた人たちは、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたそうです。そして鶯崎に二戸、愛宕山に一戸、その他に若干の穴居の人がいたばかりであったそうです』。『宮家というのは宮の付く苗字でしょうか』。『倉堀というのは実在する苗字です。遠野では名家として知られている倉堀家の多分末裔であろう友人に詳しい内容を聞いて見たかったのですが、何も知らないとのことでガッカリしました。本当は何か秘密があるのかも知れません』『(秘密がありそうです。)』。『憶測になりますが、当時、縄文時代さながらの生活を送っていた未開の遠野に文化的な物をもたらしたのが、どこか文化のある地域からやってきた宮家と倉堀家だったのではないでしょうか』。『宮家と倉堀家は農業や林業、商業を生業として起こし』、『集落を作ったと思われます。そこから遠野の歴史が始まったのではないでしょうか』。『確かに遠野盆地は湖だったのかもしれません。私は湿原だったと思います』。『その頃は鮭の遡上を阻むものも無かったでしょう。天然の鮎やウナギも遡上しており猿ケ石水系は本当に豊かだったのでしょう』。『冗談で倉堀家の末裔に「倉堀さんの先祖って鮭の背に乗れたくらいだから一寸法師みたいに小さかったんだね。」と言ったことがありますが、実際は遡上してくる鮭を追いかけて来たのでしょう。ちなみに、宮家と倉堀家は鮭を食べないという決まりがあったそうですが、現在の倉堀家は食べるそうです』とある。
「氣仙口」現在の岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市気仙町(けせんまち)。北部分が気仙川河口。但し、現在の気仙川は遠野には通じていない。現在の遠野を貫流するのは、ずっと北の北上川の支流猿ヶ石川(さるがいしがわ)である。但し、縄文海進の頃まで遡るならば、河川は現在とは全く異なっていた。
「松崎村」遠野市松崎町(まつざきちょう)。
「タカズコ」話から考えれば、「タカズ」は「鷹巣」であろうが、「ひなたGPS」の戦前の地図の「松崎村」を調べたが、該当しそうな地名はない。ただ、「高」ならば、複数の地名・山名にある(「高塲」・「高瀨」・「高淸水山」)。
「今泉と川を隔てた高田」現在の陸前高田市気仙町の中心部の今泉地区は気仙川の河口の右岸(高田町の対岸の気仙町愛宕下附近)にあり、その対岸に陸前高田高田町(たかたちょう)がある。
「鶯崎」岩手県遠野市鶯崎町(うぐいすざきちょう:グーグル・マップ・データ航空写真。次も同じ)。
「愛岩山」「ちくま文庫」版でもこの表記だが、私は「愛宕山」の誤記と考える。遠野市街の南西に火防(ひぶせ)の神として崇敬される新里愛宕(にっさとあたご)神社があるが、この神社は遠野市街を見下ろせる「愛宕山」の山頂にあるからである。]