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2023/06/20

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「伊勢神宮の子良」 / パート「一」~了

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○伊勢神宮の子良(第三號一五○頁)「松屋筆記」卷六八に云ふ、『「參宮記」に、大物忌子良殿《おおものいみこらどの》、大物忌子良、此殿《でん》に候《こう》す。「儀式帳」に、物忌、並《ならび》に、小内人《こうちんど》の宿館、と載《のせ》たり。其一宇なるべし。垣も有《あり》けるに、今は絕《たえ》て無し。「中右記」には、子良宿屋、とあり。今、俗、神樂殿と云《いふ》。子良は、荒木田姓の女子を撰取《えらびとり》て勤めしむる也。古《いにしへ》は、童女、數多《あまた》有し故に「子等《こら》」と稱せり。子等を助くる人を、父等《ちちら》・母等《ははら》と云《いふ》。「親子」の謂《いひ》ならず、「介抱」の謂也。』。註に『「大神宮儀式帳」に、物忌《ものいみ》十三人、物忌父十三人云々、按ずるに、大神宮の物忌九人、管四宮《くわんしのみや》の物忌四人にて、十三人なり。物忌は、童女なれば、其父と同居して勤仕《きんし》せり。故に、物忌父、はた、十三人有る也』云々。又、卷八二に云《いは》く、『物忌は「神宮雜例集」一の供奉始の事の條に、大同二年二月十日、大神宮司二宮禰宜等本記十四箇條内、朝夕御饌條云、皇大神宮倭姬命戴奉五十鈴宮入坐鎭給時大若子命大神主定給其女子兄比女物忌定給云々 大神主仕奉氏人等、以女子未婚物忌止爲令供奉云々〔大同二年二月十日、大神宮司二宮(にのみや)禰宜等(とう)本記十四箇條の内、「朝夕の御饌」の條に云はく、『皇大神宮、倭姬命(やまとひめのみこと)を戴き奉りて、五十鈴宮(いすずのみや)に入坐(いりま)せしむ。坐(ま)し鎭(しづ)まり給ふ時に、大若子命(おほわこのみこと)を大神主(だいかんぬし)と定め給ひて、其の女子(むすめ)の兄(あに)、比女(ひめ)を物忌に定め給ふ』云々〕抔、見えたるにて、知るべし。』。

 熊楠按ずるに、「太神宮諸雜事記」一、神龜六年二月、天皇、俄かに不豫で、卜食《うらなはしめ》られると、太神宮に死觸不淨《ししよくふじやう》の咎《とが》有《あつ》ての祟りと分り、三月十三日、物忌子等[やぶちゃん注:「選集」では、この四字に傍点「﹅」を打つ。]、怠狀《たいじやう》を進《まゐら》す。「神宮雜例集」一、崇德帝御宇、大治三年、「御井社《みゐの》蛇直《なほ》ル事」の條に、當日、三人の物忌子良云々とあるを見ると、「物忌子等」を「子良」と書出《かきだ》したのは、餘り、後世の事で無い。

[やぶちゃん注:「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆。全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えたもの。その採録語句は約一万にも及び、国語学・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊で視認出来るが、熊楠は、前後を入れ替えており(「註に」とわざわざ書いているので、或いは熊楠の見たものは、そうなっていたのかも知れない)、『「參宮記」に、大物忌子良殿、……「介抱」の謂也』の箇所はここ(右ページ下段後ろから七行目以下)で、『「大神宮儀式帳」に、……はた、十三人有る也』の部分は、その前のページのここ(左ページ上段二行目の『(十二)』の下方から。但し、一部が違う。なお、前の部分は、その続きである。)である。

「卷八二に云く、『物忌は……」前掲書のここ(左ページ下段四行目以降。標題は『(二)菅裁物忌』(本文中で「スカタチモノイミ」と振っており、その名の解説も頭の方にあるので参照されたい)の終りの部分)。なお、この引用中の「云々」は熊楠のものではなく、原書のものであるので、注意されたい。

「怠狀」自分らの過失を詫びる旨を書いて、人に渡す文書。]

 男子よりも、女子が、多く祭事を司《つかさど》る例は、本邦と殆ど緣なき地にも有る。ワーナーの「英領中央亞非利加」(一九〇六年板)一四九頁抔見るべし。伊勢大廟は女神を主として祀る故、齋内親王《さいないしんわう》は勿論、物忌迄も、童女を正とし、男子の物忌父を副としたのだろ[やぶちゃん注:ママ。熊楠の癖。]。昔し、ローマの不斷火廟《アトリウム・ヴエスタエ》は、全國民の崇敬最も厚かりし事、伊勢大廟に等しく、六人の事火素女《ヴエルギネース・ヴエスタレーズ》が奉仕したのも、ほぼ子良に似ておる。是等の素女《きむすめ》は、良家の娘で、些《いささか》の瑕《とが》なく、父母兩《ふたり》ながら存し、齡《とし》は、六から拾《じゆう》迄の者の内より選拔され、三十年間、首尾よく勤めたら、退職して婚家するを聽《ゆる》されたが、實際、左樣《さう》する者は稀だつた(セイッフェルト「希﨟羅馬考古辭典」一九〇八年英譯、六八七頁)。フレザーの「アドニス篇」(一九〇七年板)に、事火素女は、選立の當時、兩親とも存在する者を要したが、既に立《たつ》た後に親が死《しん》でも構はなんだと見えて、多くは、一生、退職し無《なか》つた、とへり。予は日本の大廟と羅馬の不斷火廟に、相互の連絡系緣が有た抔とは、少しも思はぬが、凡て、似たことは、似た成行《なりゆき》を生ずるといふ槪則《がいそく》から、雙方を合攷《あはせかんがへ》ると、伊勢の物忌子良も、最初は雙親生存する童女の内より選拔し、便《すなは》ち、其父を物忌父と稱へて介副《かいぞへ》としたが、後には、種々の故障を慮《おもんぱか》り、親族、又、他人でも、然るべき人を物忌父とする事と成たので有らう。又、相應の年期を、滯りなく勤めた子等は、退職して結婚をもしたんだらう。〔(增)一九一一年板、ロスコーの「バガンダ人誌」上、七五―六頁によれば、バガンダ人の神社にも數多《あまた》の事火素女有て、晝夜、神火の消《きえ》ざる樣、世話やき、男子に親しむを、避けた。孰れも、神の申し子で、子なき親が、「子を授け玉はば、神に奉仕して怠る勿《なか》らしむべし。」と誓うて後ち、生まれた者だ。乳離れした時、社《やしろ》に入つて、月經、到《いた》る迄、勤め、月經、到る時は、神が、其夫を撰んで、「誰某《だれがし》に嫁すべし。」と託宣した。〕戰國時代に、僧侶が伊勢の神境に入り、神佛混淆を生じた次第は、眞田增譽の「明良洪範」二一や、池田晃淵《くわうえん》氏の「德川幕府時代史」第五章に見ゆ。

[やぶちゃん注:「池田晃淵」(生没年未詳)元松前藩出身。東京大学史料編纂掛であったらしい。日本史(近世)学者。山川健次郎の依頼を受けて、「京都守護職始末」を完成させている。]

 序でに云ふ、「和漢三才圖會」卷七七、丹後竹野郡竹野村竹野社、祭神如伊勢兩宮、里民所謂齋宮是也、當國熊野郡市場村人、如產ㇾ女則曁四五歲齋宮、以奉仕神、雖深夜獨坐、無敢怖畏、至ㇾ見月水、忽出大蛇逐之、因不ㇾ得ㇾ居、自ㇾ此還二已家、與新女相互交代也。〔丹後の竹野(たかの)郡竹野村に竹野社(たかののしや)あり。祭神は伊勢兩宮のごとし。里民、所謂、「齋宮(いつきのみや)」は是れなり。當國、熊野郡市場村の人、若(も)し、女を產めば、則ち、四、五歲に曁(およ)んで「齋宮」と爲(な)し、以つて、神に奉仕す。深夜、獨り坐(ま)すと雖も、敢へて怖-畏(おそ)るること無し。月水(げつすい)を見るに至れば、忽ち、大蛇、出でて、之れを逐ふ。因りて、居(を)ることを得ず。此れより、己(おのれ)が家に還り、新しき女と相ひに交代す。〕弘安九年、勢州阿濃津稱念寺僧沙門の「大神宮參詣記」に云《いふ》、『扨も、「齋宮は皇太神宮の后宮《きさきのみや》に准《なぞら》へ給《たまひ》て、夜々、御通ひ有《あ》るによつて、齋宮の御衾《おんふすま》の下には、晨《あした》每《ごと》に、蛇の入《はい》る心地侍る。」など申す人、有り。本託、覺束無く侍り。」と。實《まこと》に、極《きはめ》》て覺束ない說ぢや。

[やぶちゃん注:「竹野社」現在の京都府京丹後市丹後町(たんごちょう)宮(みや:グーグル・マップ・データ)にある竹野(たかの)神社。以上の「和漢三才圖會」の引用は、所持する原本で校合した。

「市場村」現在の京丹波市久美浜町のこの附近(「ひなたGPS」の戦前の地図の方で「市場」の地名が現認出来る)。

『弘安九年』(一二八六年)「勢州阿濃津稱念寺」(現在の三重県津市高茶屋にある浄土宗寺院:グーグル・マップ・データ)「僧沙門の「大神宮參詣記」に云、……』だが、僧侶の書いたこの批判は、話半分に受けておいた方がよい。、伊勢神宮では、僧侶は人の死を扱う穢(けが)れの存在と見做され、僧侶専用の参拝道と遥拝所が設けられており、伊勢神宮の正殿境内域には立ち入ること自体が厳しく禁止されていたからである。西行も芭蕉も正殿を参詣しておらず、その遥拝所から遠く眺めただけなのである。この僧も然りで、謂わば、そうした仕打ちに対する不満が、この最後の、「本託、覺束無く侍り」辺りには、濃厚に漂っていると私は読むからである。]

 但し、蛇を神と崇むる風は、古來、諸國に多く、露西亞抔も、昔しは、家每に、一隅に蛇を安置し、日々、食を與《あた》へしを、ボヘミヤより、聖僧、來り、基督敎を弘めて、悉く、其蛇を殺した(一八五八年、パリ板、ツヴェ「莫士科坤輿誌《コスモグラフイーモスコヴイト》」八六頁)。伊太利には、十五世紀にすら、アツペンニヌス山の神巫洞《カヴエルナ・デラ・シビラ》に、美女巫、棲む。洞に入つて、仙術を學ばんと欲する者、先づ、神蛇と交はるを要す。扨、洞に入れば、仙女《フエー》が、蛇・蜥蜴《とかげ》・鰐等に化して、人と歡樂す、と信ぜられた(アルベルチ「伊太利全誌《デスクリチヨン・ジ・ツツタ・イタリア》」一五五〇年板、二四八葉)。印度には、今日も、蛇を神とする者、多く、クルックが十七年前の調査を見ると、西北諸州ばかりで、拜蛇宗徒が、拾八萬三千人も有る。「大英類典」一一板二十四卷「蛇類崇拜」の條に、印度、ベハールに、蛇の妻と名《なづ》くる女群《ぢよぐん》有る事や、マラバルで、極《きはめ》て貞淨な婦女に限《かぎつ》て、蛇神の託宣を傳へうること、西アフリカのダホメイ國に近時まで大蛇《おろち》を無上の大神とし、數多《あまた》の婦女を、妻とし、捧ぐる等の例、多く載せ有り。斯《かか》る崇拜の源因は、中々、込入《こみいつ》たもので、一寸、確言し難い樣な言《こと》を陳《のべ》て居るが、フレザーの「アドニス」篇に據れば、先《まづ》は、蛇は、特に靈妙な動作が多い所から、人間の祖先が、死後、蛇に乘り移る、と信じて、崇拜に及んだ者が一番多いらしい。

[やぶちゃん注:書名その他の外来語カタカナ読み表記は総て「選集」に拠った。]

 扨、予、未見の書で、「類聚名物考」二八八卷に引《ひけ》る「謌林拾葉集」九に、『巨勢郞女「玉葛《たまかづら》花のみ咲きてならず有《あら》ば誰《た》が戀に有《あら》めわが戀思ふを」。「祕抄」に云《いはく》、『「玉葛」は、總て、葛の屬《ぞく》を美(ほめ)て云ふ詞也。「葛には實《み》のならぬ」には非ず、「未だ實の生らぬ」と云ふ心也。「實生らぬ」とは、「逢《あひ》ても實事なき」ことを云ふ也。「玉葛」は「女」に喩《たとへ》て云ふ。又、萬葉歌に「玉葛實《みの》らぬ木には千早振《ちはやぶる》神ぞ附くてふ實らぬ木には」とも詠《よめ》り。此歌は、女の獨身にてあるを、云《いへ》り。女の壯《さう》にして獨《ひとり》有るは、神に領せらると云《いふ》心也。其《その》如く、我《われ》思ふ女の、我に靡かぬは、神の附くが如し。去《され》ば、吾《われ》戀しく思ふ心が、鬼魅の如くに、先の女に附《つき》てこそ有れと云心也。去《さる》に依《より》て、誰《たが》戀に有ぬ我戀思ふを、と云《いへ》る心なるべし。』と。壯齡の女、獨身住居すれば、神に領せらるゝと信じたのは、神に奉仕する女は、未婚淸淨の者に限つたからだらう。去ば、吾國にも、或地方には、神が蛇に乘り移つて、幼女巫の童身を護ると、最《いと》古く、信じ、其から訛つて「參詣記」に載《のせ》た樣な僻說《へきせつ》[やぶちゃん注:道理に合わない説。]をも生じたのかと思ふ。

[やぶちゃん注:「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ下段)にある(「和歌部二」の一条)。]

 又、無害な蛇や、仮令《たとひ》有害でも、親しみ狎《なれ》た人に、害をなさぬ蛇を「神」とするに對して、有害、瞋《おこ》りやすき蛇を、「魔」とするは、自然の成行《なりゆき》だ。因て、古波斯《ペルシア》・ヘブリウ[やぶちゃん注:「ユダヤ」。]・基督・囘々の諸敎、皆な、蛇を「天魔」とし居《を》る(コックス「民俗學入門」一八九五年坂、一七七頁)。フヲロング「比較宗敎學短論」一八九七年板、一九一頁)に言《いは》く、『人を惡に導く魔を、老蛇とするは、古波斯の敎《をしへ》にあり、ヘブリウと基督敎の「創世記」に、爾《しか》く明言せざるに、其徒、古波斯敎の說を沿襲《えんしふ》[やぶちゃん注:昔から行なってきた習慣、及び、それに従うことを言う。]して魔を蛇とす。』と。予、幼年の頃、故島地默雷師、「聖書」に、魔、先づ、女人を惑はし、其夫に勸めて、俱に禁果を食はしめて、樂園より逐墮《おひおと》さると有るを解《とい》て、女人、先づ、成女期、至り、男子を誘うて、交媾を遂げたことだ、と言《いは》れたと記憶するが、其時代に取《とつ》て、中々、卓見だつたと思ふ。扨、女人の成女期、乃《すなは》ち、初めて魔に誘はるゝ時は、月經、初《はじめ》て到る時だから、月經を魔の所行《しよぎやう》とし、延《ひい》て、魔に緣ある蛇の所爲《せい》としたのだろ。八月の『人性』に、鵜飼祐一氏が、ユリスの「性慾心理學」を引いて、數多の例を擧《あげ》た。ボリビアのチリグヮノス族は、月經を、蛇の仕業とし、月經が始まると、其娘を傷つけた蛇を搜す爲に、老女が棒を持《もつ》て附近を走り廻り、ポルトガル地方では、月經間《げつけいのあひだ》は蜥蜴に嚙まると信ぜられ、其を避けんと、婦人は、月經期間は股引《ももひき》を着用する等ぢや。『東京人類學會雜誌』二六〇號に、米澤安立君が、越中國の一地方に、女子、十四、五歲に成ると、小蛇、來て、其胸中に棲み、同時に血の池を生じ、其血が、月々に、流れ下るが、月水だ云々、と云ふ至極面白き里傳を載せられ、同誌二七〇號に、予、「富士の人穴草紙」に「女の思ふ事は惡業より外は心に持《もた》ぬ者也、業《ごふ》の蟲の泣く淚積もりて月の障りとなるなり」とあるを、引た。此通り、吾邦にも、月經を「蛇蟲の所爲《しわざ》」としたる傳說が有る。

[やぶちゃん注:「島地默雷」(しまじもくらい 天保九(一八三八)年~ 明治四四(一九一一)年)は浄土真宗本願寺派の僧。西本願寺の執行長を務め、西本願寺に於ける「維新の三傑」と称される名僧。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「『東京人類學會雜誌』二六〇號に、米澤安立君が、越中國の一地方に、女子、十四、五歲に成ると、……」サイト「J-STAGE」のこちらで、原雑誌(明治四〇(一九〇七)年十一月発行)の初出論考「婦人の月経に關する迷信と涅齒」(「涅齒」は「でつし」或いは「はくろめ」で鉄漿(おはぐろ)のこと)がダウン・ロード出来る。冒頭から語られてある。そこでは『婦負郡野積谷地方』とある。婦負(ねい)郡野積谷(のづみだに)は「ひなたGPS」の戦前図のここの全体が相当する。]

 「業の蟲」云々は、多分、「大智度論」に、身内欲虫、入和合時、男蟲白精、如ㇾ淚而出、女蟲赤精、如ㇾ吐而出[やぶちゃん注:「虫」「蟲」の混淆はママ。]。〔身の内に「欲の虫」あり、和合に入る時、男の蟲は白き精にして、淚のごとくにして出で、女の蟲は赤き精にして、吐くがごとくして出づ。〕などの訛傳で、佛經には、皆な、男子の精白く、婦女の精赤し、としたのは、月水を女精と見たのだろ。隋代所譯「大威德陀羅尼經」一九にも、婦人五蛆蟲戶、在陰道中、其一一蟲戶、有八十蟲、兩頭有ㇾ口、悉如針鋒、彼之蛆蟲、常惱彼女、而食噉之、令其動作、動已復行、以彼令一レ動、是故名ㇾ惱、其婦女人、此不共法、以業果報、求欲方便、發起欲行、貪著丈夫、不ㇾ知厭足。〔婦人の五つの蛆蟲(うじむし)の戶(あな)は陰道の中に在り。其の一一(いちいち)の蟲、戸に、八十の蟲、有り。兩頭に、口、有りて、悉く針鋒(はりさき)のごとし。彼《か》の蛆蟲は、常に彼の女を惱まし、之れを食-噉(くら)ひ、其れをして動作せしむ。動き已めば、復(ま)た行なふ。彼(か)の動かしむるを以つて、是の故に「惱(のう)」と名づく。其の婦女人(ふぢよにん)は、此の不共法《ふきようはふ》、業の果報を以つて、欲の方便を求め、欲の行ひを發-起(おこ)す。丈夫(をとこ)を貪-著(むさぼ)りて、厭(あ)き足(た)ることを知らず。〕「業の蟲」の名、是に出《いづ》るか。爰には、唯だ、陰道中の蟲が、女人を惱まし、色慾を熾《さかん》ならしむと云へるが、「禪秘要經」には、產門云々、狀如貝齒、九十九重。一一重間、有四百四蟲、一一蟲、有十二頭十二口云々、出不淨水、諸蟲各吐、濁如敗膿云々、男精靑白、是諸蟲淚、女精黃赤、是諸蟲膿、〔產門は云々、狀(かたち)、貝齒(たからがひ)のごとく、九十九重(え)なり。一一の重なりの間(かん)に四百四(しひやくし)蟲あり。一一の蟲は十二の頭と、十二の口有り云々、不淨の水を出だし、諸蟲、各(おのおの)吐くに、濁れること、敗《くさ》れる膿のごとし云々、男の精の靑白なるは、是れ、諸蟲の淚にして、女の精の黃赤なるは、諸蟲の膿(うみ)なり。〕法顯等譯「大般泥洹經」一に、復有三恒河沙優婆夷、皆持五戒、功徳具足、現爲女像、化度衆生、呵責己身二一、猶如四蛇八萬戶蟲侵食其體。〔復(ま)た、三(みつ)の恒河沙(ごうがしや)の優婆夷(うばい)有り。皆、五戒を持し、功德は具足せり。現じて女(ぢよ)の像(かたち)となり、衆生を化度(けど)す。己れの身を呵責すること、猶ほ、四蛇の八萬戶蟲の其の體(からだ)を侵食するがごとし。〕「根本說一切有部毘奈耶雜事《こんぽんせついつさいうぶびなやざつじ》」七に、女も蛇も、多恨、作惡、無恩、利毒の五過有り、と載す。是等より、佛敎に月經を蛇蟲の所爲《しわざ》とした事が解る。鵜飼氏が言《いへ》る如く、女に蛇は附物《つきもの》で、月經を蛇より起こるとした民は、世界の諸部に在るから、日本の里傳も、必ずしも印度傳來に限らぬ樣だが、兎に角、佛敎渡來後、彌《いよいよ》その信を强めたならん。

 終りに繰返《くりかへ》し置くは、吾邦には、神が蛇に寄《よつ》て素女《きむすめ》の淨身を護り、不淨の月水、到れば、之を見捨てるといふ信念と、今一つ、月水は魔が蛇と成《なつ》て作《な》す所といふのと、二樣有《あつ》た事で有る。

[やぶちゃん注:「大智度論」「大威德陀羅尼經」「禪秘要經」「大般泥洹經」「根本說一切有部毘奈耶雜事」の内、何故か判らないが、「大蔵経データベース」では「大智度論」のデータには同一近似の部分が見つからず、「禪秘要經」はネット上に発見出来なかったので底本に従った。その他は「大蔵経データベース」で校合した。]

追加 (大正十五年九月記) ここに斷はり[やぶちゃん注:ママ。]おくは、必《かならず》しも何《いづ》れの神も處女を好《す》くと限らぬ。例せば、コンゴのバヴリ人は、南風を强勢の神とし、此神、一意、繁殖を欲し、成女期に達し乍ら、男を知《しら》ぬ女を嫌ふ、と信ず。隨つて、此族中に左樣の女、なし。又、コンゴ王卽位に加冠の役を務むる祝官は、平生、一切、他人と食を共にせず、未婚の女の烹《に》た物を食ふを忌む(デンネット「黑人心裏」六五及一三頁)。今は知《しら》ず、二十餘年前迄、紀州東牟婁郡にイタリアのチヽスベオの如く、處女を毒物の如く惧れて、人妻をのみ、つけあるく風儀の村ありし樣、其頃、其村へ寓居した女より、聞いた。但し、これは、當時、處女だつた其女が、其姉、彼《か》の村に嫁せるに隨ひ行《いつ》た時の事ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、他の地より來つた處女は、性質知れず、村へ嫁し來たつた姉は村の者となつたから、心を許して可なり、という見解だつたかも知れぬ。そんな斟酌《しんしやく》をする樣な人間は、はや一人もなくなつたから、後日の參考迄に記しおく。

[やぶちゃん注:「コンゴのバヴヰリ人」バヴィリ族。ガボンの海岸部からコンゴ共和国・コンゴ民主共和国海岸部にかけて居住するバントゥー系民族。コンゴ地域の大民族バコンゴのサブグループの一つで、犬やサルの彫像、仮面(白・黒・赤等の顔料で彩色されたものが多い)の製作などで知られている(「アフリカ雑貨アザライ」公式サイト内の「アフリカ関連用語集」に拠った)。]

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