佐々木喜善「聽耳草紙」 一三三番 神樣と二人の爺々
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一三三番 神樣と二人の爺々
遠野の六日町の或家の爺樣はひどく神信心をする人であつた。ところがその隣家に一向神信心などはしないで、每日每日默りこくツて草履《ざうり》ばかり作つている爺樣があつた。
或年の御神明《ごしんめい》のお祭り[やぶちゃん注:「鬼火焚き」「左義長」などとも呼ばれ、小正月の火祭りの一種。]の日に、信心深い爺樣が隣りの草履作りに、お前は何日《いつも》草履ばかり作つて、神樣を拜む氣もないやうだが、今日ばかりは町内の鎭守樣のお祭りだから參詣しろよ。俺も一緖に行くからと、無理やりに家から連れ出して、一緖に參詣したと思つたら、どこへ行つたか其草履作りが見えなくなつた。せつかく誘つて一緖に來たのだから一緖に歸るべと思つて、此方彼方《あちらこちら》尋ねたが、どうしても見當らない。仕方なく一人で歸ると、隣の爺はいつの間にか家へ歸つて相變らず草履を作つて居た。ゼゼ俺はなんソツチを尋ね𢌞つたか知れない。いつの間に歸つたと訊くと、草履作りは、アアお前と一緖に神樣を拜んで居たら、神樣が、これをお前に遣るから大事にして持つて行けと言つたといつて、側に一ツの小袋が置いてあつた。何だべと思つて開けて見たら大判小判が一杯入つて居た。
信心爺樣は御神明樣へ行つて、神樣申し、俺がこれ程信心して居るのに何もくれないで、あんな無信心な人に、金をくれるなんて、隨分神樣ツて情ない者だと恨むと、神樣は、これこれさう言ふもんぢやない、これには譯がある。實はお前の前世は雀で、いつもオハネ米を取つて食つたし、あの爺の前世は牛で、この社を建てる時に汗を流して材木を曳いてくれたものだ。それでお金を授けたと言つた。
(菊池一雄氏御報告分の一四。)
[やぶちゃん注:「遠野の六日町」遠野市六日町(むいかまち:グーグル・マップ・データ)。
「御神明のお祭り」「鬼火焚き」「左義長」などとも呼ばれ、小正月の火祭りの一種。伊勢神宮のそれが有名であり、ここに出る神社は、同じ町内にある、遠野で「お神明さん」の名で親しまれている伊勢両宮神社でのそれと思われる。御夫婦で運営されているサイト「神社探訪」の同神社のページによれば、『一説に、中世の遠野領主・阿曽沼氏の時代に土淵町似田貝に勧請され、天正年間』(一五七三年~一五九二年)『に遠野町の南方にある大平山に移り、正徳元』(一七一一)年、『遠野南部氏によって現在地に遷宮されたと伝えられている。遠野三社の一つとして、古来より領主や町人達の信仰があつかった。境内地には、松尾神社と経ケ沢稲荷神社が祀られている』とあり。『境内由緒書き』を引かれて、『当神社は阿曽沼広綱の時代、遠野郷民達が伊勢参宮の際拝受せる大麻を尊拝すべく小祠を建立して祀り、御伊勢堂と称し』、『処々にあり。南部利戡の代に至り』、『郷民達が伊勢両宮の神威の昂揚をはからんとして』、『新たに猿ヶ石川岸に宮地を卜定し』、『宮社を建立し、土淵似田貝の御伊勢堂より神霊を遷座す。後に遠野南郊に祀ってある御伊勢堂の神霊をも合祀し、正徳元』(一七一一)年『九月五日、盛大なる遷座祭を挙げ神明宮と称す』。『宝暦四』(一七五四)年、『秀麗なる神輿奉献され、遠野五町内わたり』、『渡御神事』、『盛大に斎行さる。以後三年毎に斎行される慣例となるも、凶作・重税等により中断の時期あり、明治維新後』、『伊勢両宮神社と改められ、明治五』(一八七二)年に『村社に据えられ』たとある。
「オハネ米」所謂、「散米」(さんまい)のことであろう。神や仏に参った際に供える米、或いは、祓(はらい)や清めの目的で、撒き散らす米で、「サンゴ(散供)」「オサゴ(御散供)「ウチマキ(打撒)」などとも称し、白紙に米を包んで、一方を捻ったものを「オヒネリ」とも呼ぶことから、本来は、神への供え物である米を意味したが、米の霊力によって悪魔や悪霊を祓うためにまき散らすこととなった。たとえば,「延喜式」記載の「大殿祭」(おおとのほがい)の祝詞(のりと)の注に、出産にあたって、産屋に米をまき散らし、米の霊力によって産屋を清めたことが見えている(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「オハネ」というのは「跳ね飛ばす」(撒き散らす)の意か、或いは神への供え物として、収穫された米の中から良質のものを、特に分けて=「はねて」おいた「米」の意かも知れない。]
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