佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「水かがみ」沈滿願
[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]
水かがみ
輕 鬢 覺 浮 雲
雙 蛾 初 擬 月
水 澄 正 落 釵
萍 開 理 坐 髮
沈 滿 願
浮ぐもの鬢(びん) 月の眉
水草さけてかんざしの
落ちたるあたり澄みわたる
水を鏡になほすおくれ毛
※
沈滿願 西曆六世紀。 梁の貴婦人。 范靖(一說に靜に作る)の妻。 著すところ甚だ富み、詩に長ずと言われてゐる。 唐書藝文志に憑(よ)れば滿願集三卷があるといふが、湮滅に歸した。
※
[やぶちゃん注:作者解説の「范靖(一說に靜に作る)の妻。」の句点は底本では読点であり、字空けはないが、講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」で訂した。しばしばお世話になる紀頌之氏の「漢詩総合サイト 漢文委員会 漢詩ページ」の「沈満願」のページを見ると、沈滿願は『西暦』五四〇『年ごろの人』で、『生卒年』は『不詳』とし、『武康の人』で、かの南朝を代表する文学者で政治家として知られる『沈約』(しんやく)『の孫娘』にして、『征西記室范靖(靜)の妻』とあり、東魏・西魏・梁の並立期の女流詩人である。而して、そちらで、標題は「映水曲」と判明したが、その詩句を見ると、有意な異同が、複数、認められる。そこで、中文サイトの「維基文庫」のこちらで調べると、やはり、紀頌之氏の表記と同じである。以下に、紀頌之氏と「維基文庫」のものを参考に、以下に原詩を正字で示し、紀頌之氏の訓読を参考に推定訓読を示す。
*
映水曲
輕鬢學浮雲
雙蛾初擬月
水澄正落釵
萍開理垂髪
映水曲(えいすいきよく)
輕鬢(けいびん) 浮雲(ふうん)を學び
雙蛾(さうが) 初月(はつづき)に擬(ぎ)す
水 澄みて 落釵(らくさ)を正(ただ)すに
萍(うきくさ)の開きて 垂髮(すいはつ)を理(をさ)む
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紀頌之氏の訳註によれば(一箇所、「.」を句点に代え、アラビア数字を漢数字に代えた)、
《引用開始》
映水曲
すみきった水面に白く輝く月の影を映してさらに清らかにしてくれる。美人は水に映る自分の姿を、風に吹かれ、船が揺れて乱れた髪を直す。芸妓の舟遊びを詠ったものか、奥座敷で二人で過ごしたその夜遅く鏡を見て詠ったものか後世に影響を与えた詩である。
輕鬢學浮雲、雙蛾擬初月。
軽やかな鬢は浮んでいる雲の形をまねたものである。二つ並んだ美しい眉は八月の初月と見まごうものである。
・雙蛾 蛾の触角のように細く弧を描いた美しいまゆ。転じて、美人。
・初月(はつづき、しょげつ)。 三日月。陰暦三日(ごろ)の、月で最初に見え始める月。特に、陰暦八月の初月。
水澄正落釵、萍開理垂髪。
水の澄んでいるところでは落ちかかっている釵子[やぶちゃん注:金属製の簪(かんざし)。]を正しくなおし、浮草がひらけたところではまた垂れかかる髪を手入する。
《引用終了》
とあって、佐藤の承・転句相当の訳は、一読、違和感があり、原詩の、あたかも浮草が彼女のために曳き退いて、水面に彼女の姿を映して、彼女が落ちかけた簪を直して、髪を整えるという、極めて印象的なシークエンスとは、全く異なることが判る。]
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