佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「春ぞなかなかに悲しき」朱淑眞
[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]
春ぞなかなかに悲しき
滿 眼 春 光 色 色 新
花 紅 柳 綠 總 關 情
欲 將 鬱 結 心 頭 事
付 與 黃 鸝 叫 幾 聲
朱 淑 眞
まばゆき春のなかなかに
花もやなぎもなやましや
むすぼほれたるわが胸に
啼けうぐひすよ 幾聲に
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朱 淑 眞 十一世紀初頭。 宋朝。 海寧の人である。 幼少の時に兩親を失ひ充分に夫を擇(えら)ぶこともし得なかつた。 市井の民家に嫁して無知凡庸な夫を持つたことを常に歎き、吟咏(ぎんえい)によつて胸中の憂悶を洩した。 その詩詞集は斷膓集と呼ばれ、前集十一卷後集七卷があるが、その中には胸中の不平抑へがたいものが屢々現はれ風雅と稱するには激越にすぎたものも見える。 詩藁(しかう)も沒後夫の父母によって焚(や)かれたものの一部分が遺つたのを、好事者が顏色如花命如秋葉その薄命を憐れむの餘りにこれを編んだものだと傳へてゐる。 彼女は朱文公の姪だといふ說もあるけれども、朱子は新安の人で海寧に兄弟が居たといふことは聞かないから、多分後人が彼女を飾るための僞說だらうと言はれる。 とにかく生涯はあまり明かではないらしい。 ハイネの小曲に、「胸中の戀情は夜鶯(よるうぐひす)の聲となる」といふ意を咏じたものがあつたと思ふが、ここに掲げた絕句は正に同工異曲である。
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[やぶちゃん注:・『ハイネの小曲に、「胸中の戀情は夜鶯(よるうぐひす)の聲となる」という意を咏じたもの』ここにあるハインリッヒ・ハイネの「死は涼しき夜」(Heinrich Heine 1827 "Der Tod, das ist die kühle Nacht" aus Buch der Lieder)か。(リンク先はTokio Fukazawa土のちり氏のサイト「土風空」のハインリッヒ・ ハイネ「死は涼しき夜」。訳は片山敏彦氏のもの)。ドイツ語の原詩は、これ(ドイツ語の「Wikisource」)。第二連二行目に“Nachtigall”とある。
・「夜鶯」スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos 。当該ウィキによれば、『西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声の美しい鳥で、ナイチンゲール(英語:Nightingale)の名でも知られる。この語は古期英語で「夜に歌う」を意味し』、『和名の由来ともなっている』とある。『ヨーロッパ中央部、南部、地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する。ヨーロッパで繁殖した個体は冬季にアフリカ南部に渡りをおこない、越冬する』、言わずもがな、本種は本邦には棲息しないし、また、本結句に出る「黃鸝」=スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone とも類縁種ではない。
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愁懷(しうくわい) 其の二
眼(め)に滿つ 春の光り 色色(いろいろ)は新たなり
花は紅(くれな)ゐ 柳は綠(みどり)に 總て(じやう)に關(くわん)ず
欲せんとす 鬱結(うちけつ)せる 心頭(しんとう)の事を將(ま)ちて
黃鸝(わうれい)に付與(ふよ)して 幾ばくかの聲をか 叫ばんことを
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