「新說百物語」巻之四 「沢田源四郞幽㚑をとふらふ事」
[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
今回はここから。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。
なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正・合成をして使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
新說百物語巻之四
沢田源四郞幽㚑(ゆうれい)をとふらふ事
周防の山口に、中頃、澤田源四郞といふものあり。
十四歲にて、小姓をつとめ居《をり》けるが、器量よく、發明にて、やさしき美少人《びしやうじん》にてありけるを、戀こかるゝもの[やぶちゃん注:ママ。]、男女にかきらす[やぶちゃん注:総てママ。]、おゝき[やぶちゃん注:ママ。]なるに、同家中、鈴木何某といふもの、わりなく、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]わたりて、念友(ねんいう)のまじはりを、なしける。
[やぶちゃん注:「念友」衆道の契り(男色関係)を結ぶこと。]
又、其城下に、一寺ありて、㐧子《でし》を素觀(そくはん[やぶちゃん注:ママ。])とぞ申しける。
是も、源四郞に心をかけけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、鈴木なにかし[やぶちゃん注:ママ。]と、兄弟の契約いたしけると聞きて、安からす[やぶちゃん注:ママ。]に思ひ、其日より、斷食(だんじき)して、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]同月余[やぶちゃん注:月の終りの頃か。]に、相《あひ》はてけるが、臨終の前より、さまさま[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]のおそろしき事とも[やぶちゃん注:ママ。]ありて、死する時は、その顏に、目をあてゝ見るもの、なし。
一兩月も過《すぎ》て、源四郞が寢間に、あやしき事ども、あり。
ある時は、やなり・しんどうし、又は、緣の下より、大坊主《おほばうず》の形、あらはれなんどして、數日《すじつ》、やまさりけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、夫より、源四郞も、ふらふらと、わつらひ[やぶちゃん注:ママ。]出し、兩親のなけき[やぶちゃん注:ママ。]、おゝかたならす[やぶちゃん注:総てママ。]。
鈴木も、毎日、問ひ來たりて、看病なと[やぶちゃん注:ママ。]、いたしける。
何分、
「死れうの業(わさ[やぶちゃん注:ママ。])なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。」
とて、貴僧・高僧を賴み、種〻のとふらひいたしけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、つゆ、其しるし、なかりける。
化物も、次㐧に、つのりて、夜ふくるまて[やぶちゃん注:ママ。]もなく、最早、宵より、あらはれけれは[やぶちゃん注:ママ。]、
「なにさま、きつね・狸のわさなるへし[やぶちゃん注:総てママ。]。」
とて、樣〻に、しけれとも、やます[やぶちゃん注:総てママ。]。
源四郞は、日々に、やせ、おとろへける。
後には、家内も、くたひれて[やぶちゃん注:ママ。]、近所の若きさふらひ、かはるかはる、夜伽(《よ》とき[やぶちゃん注:ママ。])に來たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、壱人の侍、
「夜ふけての、目さまし。」[やぶちゃん注:後に「に」を送りたい。]
ふと、栗を、袖に入れてきたりけるを、火鉢に、くべて、あふり[やぶちゃん注:ママ。]ける。
[やぶちゃん注:底本では、ここ。火鉢の傍に栗が描かれているので、このシークエンスと判る。キャプションは、右幅下に、御伽衆の一人の台詞、
*
そりや
いま
でた
は
*
左幅下方に、別な御伽衆の台詞、
*
またやなり
が
する
ぞ
*
とある。]
其内に、又々、家内、しんどうして、
『すはや、いかやうのものか、出《いで》ぬらむ。』
と、おもふ所に、ありし出家のかたちにて、さもおそろしき顏にて、源四郞の枕もとに、たちよらんとする時に、折ふし、栗は、
「ほん」
と、火鉢より、飛出《とびいで》て、一時にて、そばにありあふものも、きもをつふし[やぶちゃん注:ママ。]けるか[やぶちゃん注:ママ。]、化物も、
「はつ」
と、きへ[やぶちゃん注:ママ。]失《うせ》ける。
いかなる故にや、その夜は、やなりも、やみて、へんげも、來たらす[やぶちゃん注:ママ。]、みなみな、心安く夜とき[やぶちゃん注:ママ。]をいたしける。
扨、又、あすの夜も、誰彼《だれかれ》來たりて、伽《とぎ》をいたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、その夜より、絕《たえ》て何のさはりもなく、一向、化物の音《おと》もなかりけり。
夫より、源四郞も快氣して、何事なく成人いたしける。
おもひかけなき栗の音に、變化の止みけるは、ふしき[やぶちゃん注:ママ。]にも、仕合《しあはせ》の事なりし。
[やぶちゃん注:なかなか興味深い譚である。妖怪の場合、多くの相応の存在は、その場にいる人間の心の内を読みとることができ、そのために、やすやすと人を化かしたり、恐ろしがらせたり出来るという通性がある。例えば、本邦の「山人(さんじん)」や「山男」は別名を「さとり」(覺り)と言い、先に人間の考えていることを言って人を驚かすことを得意とするが(「柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その3)」の「ヤマノコゾウ」の私の注を参照されたい)、私の記憶によれば、江戸時代の怪奇譚の中に、山小屋を訪ねてきた山男然とした背の高い鬚だらけの毛むくじゃらの「さとり」と男が話し合ったが、「さとり」は常に男の心中で思ったことをすぐに言い当てて悦に入っていたが、たまたま囲炉裏の薪が爆(は)ぜて「パン!」と「さとり」の方に飛んで行った。すると、「さとり」は「人間は考えていないことを即座に出来る恐ろしいものだ!」と言って足早に去って行ったとあったのである。則ち、異界の存在である妖怪や幽霊は、そうした人知を超えた読心術を持っているのであるが、自然界の偶発的な現象が脅している彼らの眼前に出現した時、心底、彼等は恐ろしい気持ちに捕らわれてしまうのである。妖怪ならば、二度と、人間界には近づかず、山奥へと消えるであろう。では、このケースのような怨念の亡霊の場合は、どうか? 若衆道の愛欲の怨みに集中して、源四郎を呪い殺さんとして出現した素観の霊は、まさに、以上に述べたような、超自然を越えた自然が起こした栗の爆ぜた音に完全に集中してしまう、しまわねばならないのが、彼らの哀しい通性なのである。その結果として、亡霊の心をただ占めていた唯一の「愛欲の怨み」が、その瞬間に消滅してしまう。とすれば、亡霊も消滅してしまうのが、道理として判るのである。或いは、素観は、曲がりなりにも修行僧であった。されば、禅機と同じく、地獄に落ちることを「潔し」として消えていったのかも知れないな、などと素観寄りの解釈も、私は夢想したりしたのであった。]
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