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2023/06/17

佐々木喜善「聽耳草紙」 一二三番 二度咲く野菊

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   一二三番 二度咲く野菊

 

 昔、雫石の里に、野菊といふ、何所にもないやうなええ女(ヲナゴ)があつた。雫石の殿樣の手塚左衞門尉といふ人に見染められてオキサキに上つた。ある日殿樣の前でソソウな音を出してしまつたためにお咎めを受けて暇《ひま》を出された。そして今のお菊ケ井戶と云ふ井戶の傍らに庵を結んで其所に住んで居た。

[やぶちゃん注:「雫石の殿樣の手塚左衞門尉」雫石城は現在の岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)下町東(しもまちひがし)の八幡神社(グーグル・マップ・データ)に主郭があった平城。サイト『お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】』の城迷人たかだ氏の『雫石城(雫石御所)とは 高原である雫石の奪い合いも』の記事によれば、『最初の築城は不詳ですが、鎌倉時代のはじめに、平忠正の孫・平衡盛が、大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したとされます』。『平衡盛(たいらのひらもり)は、奥州攻めで戦功をあげ、滴石荘の戸沢村に屋敷を構えると、戸沢氏を称しました』。『更に、その子・戸沢兼盛は』元久三・建永元(一二〇六)『年に南部氏から攻められて、山を越えると、出羽国の山本郡門屋(かどや)に進出し、出羽・小山田城を築きました』。『ただし、その後も、雫石は戸沢氏の領地として回復したようですが、戸沢氏の本拠は門屋城から戻ることはありませんでした』。『戦国時代の』享禄五・天文元(一五三二)年に、『戸沢氏は城主の配置換えをおこなった記録があり、滴石城には』家臣団の一人である(☞)『手塚左衛門尉が入っています』。『その後、滴石の戸沢政安は、南部晴正の重臣である石川城主・石川高信によって攻撃を受けたようです』。天文九(一五四〇)年、『雫石城には、石川高信をはじめ、福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸氏、玉山氏、工藤氏らが押し寄せました』。『戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城にて戦いましたが』、『敗れ、手塚氏は討死し、長山氏は自らの手で長山城を焼き払い、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ち伸びました』。『現在の雫石城址にある八幡宮は、滴石城主・手塚左衛門の氏神でした』。『その秋田街道の両側を挟むように、雫石城が築かれていたようです』とあったことから、本篇の話柄内時制は事実としてあったならば、享禄五・天文元(一五三二)年から天文九(一五四〇)年までの、僅か八年の閉区間のことということになる。本書の中で、具体に時制がここまで限定される中世の話というのは、他に例を見ないものである。なお、城郭サイトはここに限らず、参看した三つのどこも、城跡の住所を『岩手県岩手郡雫石町字古館』(似た現行地名は岩手県岩手郡雫石町御明神古舘(みょうじんふるだて):同前)とするのだが、ここは、主郭位置から四キロメートルも西南西の完全な平地であって、おかしい。確かに八幡神社が主郭跡であることは、ストリートビューの単体の一枚の写真で、同神社主殿の左に、ぼやけているが、「雫石城跡」の説明版があるのが、はっきり分かる。

 それから何年かの後に、殿樣は鷹狩の歸りに雫石の町で、不思議な童が、

   黃金《こがね》のなる

   瓢簞(フクベ)の種や…

 と言つて步いて居るのに逢つた。殿樣がお前の賣る種は眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])に黃金がなるかと訊くと、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に黃金がなるが、ただ屁《へ》をひらない人が蒔かねばならぬと子供は答へた。殿樣は、これは可笑しなことを言ふ子供だ。世の中に屁をひらぬ人があるものかと大笑ひをした。それを聽いて子供は言葉を改めて、そんなら何故殿樣は私の母ばかりをお咎めになつて、暇を出されたか、其譯を聽きたいと言つた。それで始めて、それが我子であることが分り、俺が惡かつたと言つて、母の野菊と共に再び御殿へ上《あが》ることになつた。

 そこで斯《か》う謂ふ歌がはやつた。

   雫石はめいしよどこ

   野菊の花が二度ひらく

(岩手縣雫石村の話である。田中喜多美氏の分の二一。筆記には尙左のやうなことが記されてあつた。

 昔雫石の八幡館の主《あるじ》、手塚左衞門尉と云ふ人が、野菊に惚れて妾《めかけ》に上つたが、譯あつて城内に置くことが出來ず、櫻沼に館をこしらへて野菊を置いた。後に八幡館は落城して手塚は仙北《せんぼく》の角館《かくのだて》へ遁げたので、櫻沼も其時きりになつた。土地の人が後に舊主を此處に祀つたので、周りの座は昔の跡である。昔は美しい女の姿が櫻沼に見え見えした。あれは野菊のタマス(魂)だと謂つた。それだから櫻沼の神樣は女である。

 野菊は百姓の娘だが、美しかつたので三度も御殿へ上つたといつて昔話になつてゐる。

 此地に今一人、和賀《わが》郡の澤内《さはうち》にも美《うつくし》い女があつた。やはり殿樣のお目にとまつて寵愛を受けたので、澤内三千石の御藏人《おくらにん》が御免になつたと語り傳へてゐる。

   澤内三千石お米の出どこ

   桝ではからねで箕ではかる

 この歌もそれから出來たと謂つて、末の句は「身ではかる」と解せられゐる。(晴山《はれやま》村、冨田庄助老人談。)亦雫石の古城址から東へ十町ほど離れた、御所村に野菊の井戶と謂ふのがある。この井戶の水でツラ(面)を洗ふと美女になると謂ふので、村の娘達は今でも行つて洗ふ。其近くに野菊の墓といふのがある。その墓地の所有者德田彌十郞殿の家には、野菊の鏡といふものが傳はつて居る。明治四十三年かに九十幾ツで歿した同家の祖母が、嫁入《よめい》つて來た時にはもう此家に其鏡があつた。その祖母の話に、以前一度其墓を掘つた事があつて、玉や銀の細工物や色々な物が出た中で鏡だけが用に立つので代々野菊の鏡と謂つて使用して居たと謂ふ。

 自分(田中君)等も其鏡を一見した後、其墓へ案内してもらつて行つて見た。畠の中の塚で、あまり大きくない自然石の文字もなにも無いものが立つてゐた(大正十二年、御所村高橋彌兵衞老人談。)

[やぶちゃん注:附記は長いので、ポイントを本文と同じにし、全部引き上げた。

「櫻沼」岩手県岩手郡雫石町長山七ツ田のこの附近(グーグル・マップ・データ)は、古くは広い湿地帯で、大小の沼があった。その中の一つで、痕跡のような小さな「桜沼」が現存する。サイト岩手・雫石『弘法桜の地』ご案内」の「櫻沼」を見られたい。「底無し沼」と言われ、近くに龍神も祀っており、実際に蛇も多く棲息するとある。

「後に八幡館は落城して手塚は仙北の角館へ遁げた」先の注の歴史的事実と異なる。手塚は討死している。

「舊主」手塚。

「周りの座先」不詳。旧「櫻沼」附近からは、縄文時代晩期と考えられる配石住居跡四棟・石囲炉九基・埋甕九基が発掘されている。或いは、その埋没遺跡の膨らみを「座」と言っているのかも知れない。

「和賀郡の澤内」岩手県和賀郡西和賀町沢内(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「御藏人」読みはあてずっぽ。藩の米蔵の管理役であろう。

「晴山村」岩手県岩手郡雫石町長山晴山(ながやまはれやま:グーグル・マップ・データ)

「御所村」現在の雫石町西安庭(にしあにわ)・鶯宿(おうしゅく)・南畑(みなみはた)・繋(つなぎ)及び盛岡市繋にあたる(グーグル・マップ・データ。周囲を見られると他の地名も確認出来る)。

「野菊の井戶」現存するかどうか不詳。

「野菊の墓」同前。

「明治四十三年」一九一〇年。

「大正十二年」一九二三年。]

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