佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「音に啼く鳥」薛濤
[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]
音に啼く鳥
檻 草 結 同 心
將 以 遺 知 音
春 愁 正 斷 絕
春 鳥 復 哀 吟
薛 濤
ま垣の草をゆひ結び
なさけ知る人にしるべせむ
春のうれひのきはまりて
春の鳥こそ音にも啼け
※
薛 濤 六世紀末。 唐の名妓である。 もと長安の良家の女として生る。 八九歲のころから音律を解したが或る日、その父が井戶のそばの梧《あをぎり》を指ざして、庭除一古桐、聳幹入雲中と歌ふと、この女兒は直ぐに枝迎南北鳥、葉送往來風と續けたので、父はこの兒の前途を歎じたと傳へられてゐる。 蓋し、殆んど同時代の女子で詩を能くした李冶(りや)が六歲の時に抱かれて庭の薔薇を咏じ經時未架却、心緖亂縱橫と言つたのを父が聞いて、この子後には必ず身持の惡い女になるだらうと悲しんだが果してその通りであつたといふ逸話とともに、一種の詩的說話である。 役人であった父は蜀の任地で客死し、母は孀(やもめ)になつてこの娘を育てた。 長じて詩を能くするのと眉目の秀でてゐるのとで蜀の地方長官の官邸に召されて、長官が十一人も代る間も、詩をもつて愛せられて諸名家の詩宴に列した。 七十五歲の高齡で世を去るまでには、元稹、白居易、杜牧、劉禹錫、其他諸家とも酬和したといふことである。 世に薛濤牋(せつたうせん)と名づけて深紅で小彩のある牋は、彼女が吟咏を名士に酬獻した時に自ら工夫して用ゐたものである。 薛濤詩一卷が世に傳はつてゐる。 今古奇觀には薛濤の靈と一少年秀才との情事を寫した一篇があって有名である。 それは小泉八雲も譯してゐる。
※
[やぶちゃん注:・薛濤(せつたう(歴史的仮名遣)/せつとう 七六八年 ~八三一年)は中唐の伎女詩人として魚玄機と並んで超弩級に知られる人物である。「全唐詩」の「卷八百三」の「薛濤」には薛濤の詩が七十六首載っている。
・ここに伝説として出る詩は、
庭除一古桐
聳幹入雲中
枝迎南北鳥
葉送往來風
庭除(には)の一古桐(きり) (の)びたり
聳幹(しやうかん) 雲中に入る
枝は迎ふ 南北の鳥を
葉は送る 往き來きせる風を
といった感じか。
・「李冶」(七三〇年頃~七八四年)は薛濤の先立って知られるほぼ同時代人の同じ女性詩人。後に女道士となり、晩年には宮廷に召されたが、中文サイトを見ると、朱熹を批判した詩を作ったという咎で棒打刑を食らっているともあった。現存する詩は十八首だけである。
・ここに出る、詩句は、
經時未架却
心緖亂縱橫
時を經(ふ)るも 未だ架却(かきやく)せず
心緖(しんちよ) 亂れて縱橫たり
この「架却」はよく意味が分からない。「枝がちゃんと安定して伸び絡まって架かること」か。
・「薛濤牋」ウィキの「薛濤」によれば、『彼女が作った深紅の小彩がついた詩箋(色紙のようなもの)は、当時「薛濤箋」として持てはやされた』とある。「牋」は、ここでは「箋」と同義(異体字ともされるが、意味上では「牋」は木片・木簡で、「箋」は竹製のそれらを言うともある)。
・「今古奇觀には薛濤の靈と一少年秀才との情事を寫した一篇があって有名である。それは小泉八雲も譯してゐる」私の「ラフカディオ・ハーン Ming-Y 秀才の話 (落合貞三郎訳)」で、原拠の「今古奇觀」を含め、詳細な注をしてあるので、読まれたい。
本詩は「春望詞」(全四首)の内の「其二」。推定訓読を示す。
*
春望詞 其の二
檻草(くわんさう) 同心を結びて
將に以つて 知音(ちいん)に遺(や)るべし
春愁(しゆんしう) 正(まさ)に斷絕し
春鳥(しゆんてう) 復(ま)た 哀吟す
*]
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