「新說百物語」巻之四 「牛渡馬渡といふ名字の事」
[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
今回はここから。挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。
なお、標題及び本文中の、「牛渡(うつたり)」、及び、「馬渡(まふたり)」の読みは、ママである。]
牛渡(うつたり)馬渡(まふたり)といふ名字の事
天正の比《ころ》のよし。[やぶちゃん注:一五七三年から一五九二年までで、天正は二十年で終わる。]
東国に小右衞門・新左衞門といふ百姓、弐人《ふたり》あり。つねつね[やぶちゃん注:ママ。]、隣家のことにて、他人ながらも念比《ねんごろ》にいたしあひて、田畠へ行くにも、さそひ合ひて出行《いでゆき》ける。
その頃は、いまた[やぶちゃん注:ママ。]、世間も、さはかしく[やぶちゃん注:ママ。]ありけれとも[やぶちゃん注:ママ。]、片田舍の心やすさは、やはり、耕作もいたしける。ひとゝせ、羽柴氏の大將、急に、かたきの城へ取《とり》かけ給ふに、折ふし、五月の事にて、河水、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]出《いで》て、なんき[やぶちゃん注:ママ。「難儀」。]なりけるを、彼《か》の大將、河はたに座《ま》して、家中、殘らす[やぶちゃん注:ママ。]、河を越させ、壱人、跡にのこりておはせしか[やぶちゃん注:ママ。]、段々、水かさ、勝(まさ)りて、もはや、いかなる水練にても、越へかたくみへ[やぶちゃん注:総てママ。]ける。
所の百姓を呼《よび》て、尋ねられけるか[やぶちゃん注:ママ。]、小右衞門と、新左衞門と、まかり出《いで》て、
「私とも[やぶちゃん注:ママ。]御渡し申上《まうしあぐ》へし[やぶちゃん注:ママ。]。」
とて、小右衞門は、馬をひき來《きた》り、新左衞門は、牛をひき來りて、大將の馬の兩脇に、ひきつけ、二人は御馬《おんうま》の口を取りて、難なく、彼の大將を、河を越させたり。
其軍《いくさ》、ほとなく[やぶちゃん注:ママ。]、勝利にて、凱陣(かいぢん[やぶちゃん注:ママ。])の折《をり》に、すく[やぶちゃん注:ママ。]に召出《めしいだ》され、
「牛渡(うつたり)新左衞門。」
「馬渡(まふたり)小右衞門。」
と名つけ[やぶちゃん注:ママ。]給ひけるか[やぶちゃん注:ママ。]、今も、兩家ともに、さる御家中に、是、あるよし。
[やぶちゃん注:「牛渡(うつたり)馬渡(まふたり)」以上のような、こういう事実があったかどうかは判らない。少なくとも、ネット上には存在しないようだ。話としては、あってもおかしくはない気はするが、秀吉一人が残されるというのは、ちょっと嘘臭い。事実なら、地名や河川名が示されて当然であろう。但し、この二つの姓が実際に現在もある。サイト「名字由来net」の「牛渡」には、「うしわた」・「うしわたり」・「うしど」・「うしと」の読みが挙げられ、全国でこの漢字姓を持つ人数を、凡そ八百三十人としており、『名字の由来解説』には、『福島県浪江町がルーツ。福島県、宮城県、北海道にみられる。牛が渡れるような浅い小川が語源』とある。同じサイトの「馬渡」には、「もうたい」・「まわたり」・「うまわたり」・「まわた」「まわたし」「もうたり」「うまと」「うまなべ」「うまわた」「うまわたなり」「ばわたり」「ばと」の読みを挙げ、全国でこの姓を持つ人数は、凡そ六千五百人とする。『名字の由来解説』には、現在の『佐賀県と長崎県である肥前国松浦郡馬渡島』(まだらしま:佐賀県唐津市鎮西町馬渡島:グーグル・マップ・データ))『の豪族は坂上氏ともいわれる。現滋賀県である近江、現福岡県南部である筑後、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵などにみられる。語源は、馬に乗らなければ渡れないような川や湿地からきている。地名には、茨城、兵庫などに存在』するとある。
「羽柴氏の大將」秀吉が「木下」から「羽柴」に改めたのは、元亀四年七月二十日その八日後の七月二十八日(ユリウス暦一五七三年八月二十五日)に天正元年に改元している。而して「羽柴」から「豊臣」に代わるのは天正一四(一五八六)年である。問題は、ロケーションを「東国」としている点で、京都では大津から東は東国と呼称する習慣もあるのだが、ここで彼を「大將」と呼んでおり、彼一人が川中に残されるというシークエンスから、彼が政治実権を握る折りよりも前であり、最もそれらしい、彼が「大将」=正式な「武将」として参戦した合戦としては、天正三年五月二十一日(当時のユリウス暦で一五七五年六月二十九日。グレゴリオ暦換算で一五七五年七月九日)、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)を巡って織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の軍勢が激突した、かの「長篠の戦い」である。本文でも「折ふし、五月の事にて」と言っており、梅雨時で「洪水」とも親和性がある。]