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2023/06/17

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「池中の鞍」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]

 

○池中の鞍(二號一一七頁)に較《やや》似た事、加賀の富樫政親が沈んだ池の底に、今も晴天には其鞍がみえ、其の沈んだ六月八日に限り、水面に浮上《うきあが》るといへば、誰が取《とら》ふとしても取れぬと見える。それに似寄《によつ》た話は、天正十三年、姉小路《あねこうぢ》少納言秀綱、金森可重《ありしげ/よししげ》に攻《せめ》られ、飛驒の松倉城を出《いで》て信濃へ落行《おちゆ》く。大沼川の鄕民に擊《うた》れて討死の際、是迄大事に持來《もちきた》りし金子《きんす》を川へ投込《なげこみ》、「我一念の籠りし金《かね》、若《もし》土民の手に渡りなば、石に成れ。」と言《いへ》り。其金、今に川底に見ゆれど、取上《とりあぐ》れば、石になる由、言傳《いひつた》へけり」(「飛驒治亂記」)〔「成上り物」なる狂言に、所謂、田邊別當のくちなわ太刀、亦、此《この》類語だ。〕。元魏の朝に譯すところの「賢愚因緣經」に、阿淚吒《あるいた》が發見した閻浮檀金《えんぶだんごん》を取りに往く王侯が、七度迄も往く每に、其金《きん》が死人としか見えなんだと出たり、又、僧に、一錢、施せし者が、金を獲たのを、王が取ると、石に成《なつ》た話、「雜譬喩經」に出づ。

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の下に編者注があり、『金沢生「池中の鞍」』への論考である。

「富樫政親」(康正元(一四五五)年~長享二(一四八八)年)室町後期の武将。富樫氏十二代当主で加賀半国の守護。「応仁の乱」では細川方に属し、山名方の弟幸千代と争い、一時、加賀国を追われたが、本願寺の蓮如の助けを得て、加賀一国の守護職を回復した。しかし、後、国内の一向一揆との戦いに敗れ、高尾(たこう)城(現在の金沢市内にあった)で自害した。享年三十四。(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。義経を救ったことで知られる富樫泰家は、富樫氏六代当主である。

「姉小路少納言秀綱」(?~天正一三(一五八五)年)は飛騨松倉城(グーグル・マップ・データ)当主で姉小路氏(三木氏)の後継者にして飛騨国を支配した。秀吉の命を受けて飛騨に侵攻して来た金森長近の追討を受け、松倉城は落城、秀剛は脱出したが、信濃を落ち延びて行く途中、落ち武者狩りに遭い、殺害された。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「飛驒治亂記」を国立国会図書館デジタルコレクションの『飛驒叢書』第三編(大正三(一九一四)年にある同書の当該部(左ページ上段)を確認したところ、「大沼川」は「大根川」の誤りであることが判った。「選集」も直していない。但し、現在の長野県にはこの名の川はないので、不明である。

『「成上り物」なる狂言に、所謂、田邊別當のくちなわ太刀』狂言「成上がり」。壺齋散人(引地博信)氏の「壺齋閑話」の「日本語と日本文化」の『狂言「成上がり」』を読まれたい。

「閻浮檀金」サンスクリット語「ジャンブーナダ・スヴァルナ」の漢音写。閻浮樹(閻浮提(えんぶだい:人間世界)の雪山(せっせん)の北、香酔山(こうすいせん)南麓の無熱池(むねっち)の畔りに大森林を成すという大木)の森を流れる川の底から採れるという砂金。赤黄色の良質の金であるとされる。「えんぶだごん」とも読み、「閻浮提金」とも書く。]

追 加 (大正十五年九月記)亡友廣畑岩吉の話に、田邊の榮(さかえ)町に「内金(うちきん)」といふ綿屋の老婆、二階より、町を見下《みおろ》すに、一朱金、三枚、落ちあり。二階より、下り、見れば、なし。上りて見れば、あり。由《よつ》て、二階より、綿を落とし、見當を付けおき、更に下りみれども、なし。又、上りてみる内、小兒來り、拾ひ去りし。「人の運は、定まれり。」と歎息せり、と。「十訓抄」に、釋尊、阿雜と、つれ行くに、人、金を落しあり。阿難、みて、「毒蛇。」といひ、釋尊、又、「大毒蛇。」と云《いひ》て過ぐ。後に來た者、之を拾ひて、罰せられ、大《おほい》に苦しんだ、と。これは、金が、眞に蛇とみえたでなく、その禍ひを、毒蛇にたとえ[やぶちゃん注:ママ。]た迄だ。然し、金が實際に毒蟲に見えた話も南印度にある。大富人が、大きな家を十年掛つて建て、落成して、大饗宴を張り、客、みな、散じて後ち、其家に臥すと、天井より、「落《おち》ても、よいか。」と聲する。『扨は。鬼が、先づ、住《すんで》、我を殺す積り。』と、其夜、立退《たちのい》て再び往《ゆか》ず、半年の間だ、閉《とざ》し置《おい》た。其時、赤貧の梵士[やぶちゃん注:バラモン教徒。]、家の屋根落つること、旦夕に逼り、修復ならず、因て、富人に乞《こふ》て、かの鬼屋數に移りすむ。永々《ながなが》貧乏に苦しむよりは、家内諸共、鬼に殺されたがましといふ了見だ。扨、其夜、又、天井から、「落ても、よいか。」と言《いつ》たので、「よい」と答へた。すると、數限りもない金銀が落ちて、埋まれ[やぶちゃん注:ママ。「埋もれ」の誤記か誤植。「選集」は『埋もれ』とする。]そう[やぶちゃん注:ママ。]だから、「やめよ」といふと止つた。それより、每夜、金錢がふるので、梵士、大いに富み、追ひ追ひ、評判、高くなつて、富人の耳に入《はいつ》たので、聞き正しにきた。梵士、隱さず、事實を話し、一所に臥して守ると、夜中に、「落ても、よいか。」と、きた。「落よ。」といふと、金錢がふり出し、梵士が拾ひ集める。富人の眼には蠍《さそり》がふり積もるとしかみえず。梵士、拾ひ了《をは》つて、「これを、皆、持ち行き玉へ。」といふと、富人、泣き出し、「曾て、父に聞《きい》は、「福は、福ある人に來《きた》る。」と。吾れ、此家に住《すん》だら、蠍に殺された筈、それを金錢と見るは、貴公に幸《さひはひ》あり。此家は、進呈するから、住み玉へ。」と云たから、梵士、大富人となり、恩を忘れず、年々、其富の半分を、他に與へたといふ(一八九〇年板、キングスコウトの「太陽譚」二三章)。ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」には、妻が、「其處《そのところ》に、錢で滿ちた壺ありと、夢みた。」と、其夫に語るを、屋根の上で、盜賊どもが聞き、先づ、其處に往《いつ》て、掘れば、壺、あり。開きみると、大きな蛇が、首を出す。盜等《ぬすつとら》、「一盃、食はされた。」と怒り、其壺を、屋根の上に運び、屋根を穿《うが》つて下へ落すと、蛇が、無數の錢に變じて、夫婦の上へ落ち、それを集めて大《おほい》に富《とん》だ、とある。ガーネットの「土耳其《トルコ》婦女と其俗傳」二には、アルバニアで、時に、隱財が、自づと、地上に現はるゝ事あり、見付《みつけ》た者は、誰でも、之を取り得れど、人に洩らすと、忽ち、金が、炭に變ず、とある。

[やぶちゃん注:「廣畑岩吉」サイト「localwiki」の「白浜」の「高瀬川」の中で、『南方熊楠が「歩く百科事典」と評した』人物とあった。

「田邊の榮(さかえ)町」和歌山県田辺市栄町(さかえまち:グーグル・マップ・データ)。

『キングスコウトの「太陽譚」』不詳。但し、南方熊楠の「(附) 虎が人に方術を敎へた事」(昭和五(一九三〇)年十月発行の『民俗学』(三ノ十)初出)には、『キングスコウト及ナテーサ、サストリの太陽譚』とあるので共著らしい(国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第一巻(十二支考Ⅰ)のここで確認)。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが一九〇九年版の原本。]

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