佐々木喜善「聽耳草紙」 i一二六番 ワセトチの話(全四話)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一二六番 ワセトチの話
隱れ里(其の一)
昔、橋野川を神樣が石の舟に乘つて川筋を下つて來た。そしてワセトチがお氣に召して、そこへ舟を止めて、側の岩窟に入られた。その岩窟を村の人は隱れ里といつている。
その石舟に腰をかけてはならない。
[やぶちゃん注:「ワセトチ」現在、岩手県釜石市橋野町第43地割1(橋野川右岸)に「神の石船 隠里」とするスポットがあり(グーグル・マップ・データ。ストリーとビューのここに対岸の道路脇の表示板があった)、そのサイド・パネルのこの画像で解説板(「盲神」と「神の石船隠里」のカップリング)が読めるが(本文は孰れも「遠野物語拾遺」の「二十七」と「三十八」の梗概である。国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著「遠野物語」増補版(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社)の当該部をそれぞれリンクしておいた)、その後者には、解説版の記載者の附記があり、『石船は現在地から見て橋野川の対岸に残っています。その百メートル向こうの松の木立の下が隠里です』とあった。但し、注意が必要なのは、この解説版は、県道三十五号の橋野川対岸の「盲神」(「其の四」で語られる)の近くにあるので、この「対岸」とは、橋野川右岸を指すことである(これは「盲神」のサイド・パネルのこの画像と、ストリートビューのここから明らかである)。而して、サイド・パネルには、Gonzaburou Kitakaze氏撮影の「神の石船はどれだろう」という標題の、数個の石の写真がある。この写真は高圧鉄塔から、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)であることが判る。さて、そのストリートビューの画像を見ると、まさに「盲神」の方にある解説板の対岸正面にサークル状の空き地があり、その川側に長方形の石のようなものが見える。或いは、これか? なお、その東直近の橋野町第42地割8−1に「早栃集会所」があり、バス停「早栃」があって、その東北にはバス停「上早栃」がある(グーグル・マップ・データ)。但し、孰れのバス停も現在は「はやとち」と読んでいる。しかし、ここの古い地区呼称であることは、「遠野物語拾遺」の「源平の頃 一八」(同前)で『栗橋村字早栃(わせとち)』とルビがあることから、確実である。以上から、「隠里」は、まさに「神の石船 隠里」とするスポット(グーグル・マップ・データ航空写真)に相当すること(解説版からここの対岸までは、まさにそこに書かれた通り、百メートルである)が判るのである。]
平家の高鍋(其の二)
昔ワセトチで源平の戰《いくさ》があつたが、なかなか勝負がつかなかつた。そのうちに飯時になつたので、兩軍は飯を炊くことになつた。源氏の方は早く炊こうと鍋を低く下げて炊いたが、平家の方では鍋を高くして澤山の薪を焚いたので、直ぐに飯ができて戰に勝つた。それで今でも煮物をするには平家の高鍋と云つてゐる。
[やぶちゃん注:同前で「遠野物語拾遺」の「諺由來 一九」に同内容の話が載る。
「源平の戰」ここで起こったとするそれは、誰と誰の戦いだろう。頼朝の奥州征伐の際に、相手が平氏の子孫だったか。しかし、この辺りでそういう源平の戦いがあって、幕府軍が負けたとか、苦戦したとかという史実を、私は、知らない。次の話にも出るのだが。識者の御教授を乞う。]
ならずの柿(其の三)
ワセトチに實を結ばない柿の樹がある。昔源平の戰があつて多くの人が戰死したので、其の屍《しかばね》を集めて埋めてそこへ一本の柿の木を植え[やぶちゃん注:ママ。]たが、其の死靈《しりやう》のために實を結ばないと謂ふ。
[やぶちゃん注:前掲の「遠野物語拾遺」の「源平の頃 一八」(同前)で同内容の話が載る。]
盲の親子(其の四)
昔、旅の盲目の夫婦が丹藏と云ふ子供を連れてワセトチまで來たら丹藏があやまつて橋の上から落ちて死んだ。夫婦の者はそれとも知らずに丹藏や丹藏やと叫んだが、一向返事がないのではじめて[やぶちゃん注:底本は「はじ」がない。「ちくま文庫」版で訂した。]川へ落ちた事を知り、あの寶をなくしては俺達も生きて居る甲斐がないから、ここで共に死ぬと言つて、橋から身投げをした。村の人達が氣の毒に思つて、祠《ほこら》を建てゝ、メクラ神として祀つた。目の惡い人は御利益があるとて傍《かたはら》の澤から流れる水で目を洗ふ。
(上閉伊郡橋野地方の話。菊池一雄氏御報告分の一二。)
[やぶちゃん注:最初の「隱れ里(其の一)」の「遠野物語拾遺」の「二十七」と同内容。
位置はグーグル・マップ・データのここ。]
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