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2023/06/13

「今昔物語集」卷第五 天竺牧牛人入穴不出成石語第一

[やぶちゃん注:テクストは「やたがらすナビ」のものを加工データとして使用し、正字表記は国立国会図書館デジタルコレクションの芳賀矢一編「攷証今昔物語集 上」の当該話で確認した。本文の訓読はそれに加えて、所持する岩波書店「新日本古典文学大系」版「今昔物語集 一」(今野達校注一九九九年刊)の訓読と注を参考しつつ、カタカナをひらがなに代えて示した。漢文訓読の基本に基づき、助詞・助動詞の漢字をひらがなにしたりし、読み易さを考えて、読みの一部を送り出したり、記号等も使い、また、段落も成形した。]

 

   天竺(てんぢく)の牧牛(うしかひ)の人、穴に入りて出でず、石(いは)と成れる語(こと)第卅一

 

 今は昔、天竺に、佛(ほとけ)、未だ出で給はざる時、一人の牛飼ふ人、有りけり。

 數百頭(すひやくづ)の牛を飼ひて、林の中に至るに、一(ひとつ)の牛、共(とも)を離れて、獨り去りて、常に失せぬ。行く所を知らず。

 牛を飼ひて、日暮れに成りて、返らむと爲(す)るに、此の一の牛を見れば、他の牛にも似ず、殊に美麗なる姿なり。亦、鳴き吠ゆる事、常に似ず。亦、他(ほか)の諸(もろもろ)の牛、皆、此の牛に恐(おぢ)て、近付かず。

 此(か)くのごとくして、日來(ひごろ)有るを、此の人、恠(あや)しび思ふと云へども、其の故(ゆゑ)を知らず。

 然(さ)れば、此の人の、

『牛の行く所を見む。』

と思ひて、伺ひ見るに、此の牛、片山(かたやま)に、一の石(いは)の穴、有り、其の穴に入(い)る。此の人、亦、牛の尻(しり)に立ちて、入る。

 四、五里許(ばか)り入て、明らかなる野、有り。天竺にも似ず、目出たき花、盛りに開けて、菓(このみ)、滿ちたり。牛を見れば、一の所にして、草を食(じき)して立ちたり。此の人、此の菓の樹(うゑき)を見るに、赤く、黃にして、金(こがね)のごとし。菓一果(いつか)を取りて、貪(むさぼ)り愛(め)づと云へども、恐れて、食はず。

 而(しか)る間(あひだ)に、牛、出でぬ。此の人も、亦、牛に次ぎて、返り出づ。

 石の穴の所に至りて、未だ出でざる間に、一(ひとり)の惡鬼、出で來たりて、其の持ちたる菓を、奪(ば)ふ。此の人、此の菓を口に含みつ。鬼、亦、其の喉(のむど)を搜る。其の時に、此れを飮入(のみい)れつ。菓、既に腹に入りぬれば、其の身、卽ち、大きに肥えぬ。

 穴を出るに、頭(かしら)は、既に出(い)づと云へども、身、穴に滿ちて、出づる事を得ず。通る人に助くべき由を云へども、更に助くる人、無し。

 家の人、此れを聞きて、來たりて見るに、其の形、變じて、恐れずと云ふ事無し。其の人(ひ)と、穴の内にして有つる事を語る。家の人、諸(もろもろ)の人を集めて、引き出ださむと爲(す)れども、動く事、無し。

 國王、此の事を聞きて、人を遣(つかは)して掘らしむるに、亦、動く事、無し。

 日來(ひごろ)を經るに死にぬ。

 年月、積(つも)りて、石(いは)と成りて、人の形と有り。

 其の後(のち)、亦、國王、

「此れは、仙藥を服(ぶく)せるに依りてなり。」

と知りて、大臣に語りて云はく、

「彼れは、既に藥に依りて身を變ぜるなり。石(いは)なりと云へども、其の體(かたち)、既に神靈なり。人を遣して、少し許(ばか)りを、削(けづ)り取りて來たるべし。」

と。

 大臣、王の仰せを奉(うけたま)はりて、工(たくみ)と共に、其の所に行きて、力を盡して削ると云へども、一旬を經(ふ)るに、一斤(いつきん)も削り得ず。

 「其の體(からだ)、今に猶ほ有り。」となむ語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版の今野氏の脚注冒頭に、『出典に中インド贍波』(せんば:チャンパ)『国の事とする。「相伝云」とあり、もと現地で伝承されていた話らしい』とある。「付録」の「出典考証」によれば、原拠は知られた初唐の訳経僧玄奘三蔵の伝記「大慈恩寺三蔵法師伝」(玄奘の死から二十四年後の六八八年完成)の巻四の「贍波国」の条とあり、『同文性が顕著で、原文に依拠したことは確実』とある。なお、「贍波国」とは、チャンパーナガラChampānagara。紀元前六〇〇年頃、北インドに栄えた十六大国の一つであるアンガ国の首都チャンパーChampāの遺址とされ、マガダ国による占領後の釈迦の時代にも、インドの六大都市の一つとして栄えた。七世紀前半に玄奘がここを訪れ,瞻波(せんば)国として「大唐西域記」に記している。現在の、この附近に当たるようである(主文は平凡社「世界大百科事典」の「バーガルプル」の記載に拠った)。

「共」群れ。

「四、五里」唐代の一里は五百五十九・八メートルであるから、二・二四~二・八キロメートル。

「貪(むさぼ)り愛(め)づと云へども、恐れて、食はず」今野氏の注に、前半は『ひどく気に入ったけれども』とある。

「一斤(いつきん)も削り得ず」芳賀矢一編「攷証今昔物語集 上」では、『一片削得』。今野氏は『斤は片ともよめる』とされた上で、『一斤は十六両、普通一六〇匁(約六〇〇グラム)』と記しておられる。厳密には当時の一両は三十七・三グラム、「匁」は本邦の重量単位で、中国では「錢」に相当し、一錢は三・七三グラム、一斤は五百九十六・八二グラムである。

「其の體(からだ)、今に猶ほ有り」今野氏の脚注には、興味深いことが記されてある。『玄奘は実見したわけであるが、』勅官撰の「西国志」『には、時』の『人はこれを大頭仙人と称し、また「近有山内野火、焼ㇾ頭焦黒。命猶不ㇾ死」』(近きに、山の内に野火有りて、頭を焼きて、焦(こ)げ、黒し。未だ猶ほ、死なず。)『とする。ちなみに、こうした事情を伝えたのは玄奘と同時代』、『インドに使いした王玄策で、彼は三度現地を訪れてその頭を摩』(な)『でて会話し、意思疎通をしたという』とあって、驚天動地!]

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