佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「水彩風景」紀映淮
[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]
水 彩 風 景
杏 花 一 孤 村
流 水 數 間 屋
夕 陽 不 見 人
枯 牛 麥 中 宿
紀 映 淮
杏咲くさびしき田舍
川添ひや家おちこち
入日さし人げもなくて
麥畑にねむる牛あり
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紀 映 淮 明朝。 年代は明かでない。 字は阿男。 金陵の人である。 莒州の杜氏に嫁し、早く寡(やもめ)となつたが節を守つて生涯を終つたといふ。 漁洋詩話にはその秦淮柳枝を推し「栖鴉流水㸃秋光」を佳句と稱してゐる。
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[やぶちゃん注:中文サイトで調べたところ、標題は「卽景」。推定訓読を示す。
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卽景
杏花(きやうくわ) 一孤村(いちこそん)
流水(りうすい) 數間(すうけん)の屋(をく)
夕陽(せきやう) 人を見ず
牯牛(こぎう) 麥中(ばくちゆう)の宿(やど)
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「杏」被子植物門双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ変種アンズ Prunus armeniaca var. ansu 。開花期は三月から四月ごろで、桜よりもやや早く、葉に先立って、淡紅色の美しい花を咲かせる。原種は一重。
「牯牛」ここは広義のウシ。
なお、マルクス主義の経済学者河上肇(明治一二(一八七九)年~昭和二一(一九四六)年)は漢詩人としても知られるが、彼の「閑人詩話」(昭和一六(一九三一)年十一月清書)の冒頭で、この佐藤の訳詩を批判している。国立国会図書館デジタルコレクションの『河上肇著作集』第九巻(一九六四年筑摩書房刊)のこちらで視認出来る(新字体)。「青空文庫」で全篇が電子化されているが、それを加工データとして、恣意的に漢字を概ね正字化して示す。
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佐藤春夫の車塵集を見ると、「杏花一孤村、流水數閒屋、夕陽不見人、牯牛麥中宿」といふ五絕を、
杏(すもも)咲くさびしき田舍
川添ひや家をちこち
入日さし人げもなくて
麥畑にねむる牛あり
と譯してあるが、「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ數間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に歸る」と題する詩に、「拙を守つて園田に歸る、方宅十餘畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡數間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齡(とし)八十を過ぎ、久く已に一棺を辯ず、廬を結ぶ十餘間、身を著けて海の寬きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡數間屋、結廬十餘閒は、みな間數(まかず)を示したものである。杏花一孤村流水數閒屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に數間の屋を數軒の家と解したのであらうか。專門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。
「遠近皆僧刹、西村八九家」、これは郭祥正の詩、「春水六七里、夕陽三四家」、これは陸放翁の詩。これらこそは家をちこちであらう。
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以下、河上の引用に注する。
・「三間か四間か」距離単位の「間」(けん)では、淵明の生きた六朝時代でも今と同じで、一間は約一・八二メートルであるから、間口(まぐち)五・四五~七・二七メートルということになるが、河上の言う通りで、それではなく、これは「間取り」(部屋数(かず))のことであろう。
・「拙を守つて」の「拙」(せつ)は、自身を示す謙遜語であるが、ここは「愚直な私の性格に拘り守って」の意。
・「方宅十餘畝」「はうたくはじふよほ」で、「畝」は面積単位では、一畝は約五~六アールであるが、ここは正確なそれを言っているのではなく、敷地がそれなりに広くゆったりとしていることを言う。
・「草屋」草葺きの家。
・「八九間」は、ここも、距離単位ではなく、家屋の間取りの数を指す。
・「陸放翁」南宋の傑出した詩人陸游の号。以下に引く詩句は、彼の「讀王摩詰詩愛其散髮晚未簪道書行尙把之句因用爲韻賦古風十首亦皆物外事也」(一部が訓読出来ない(意味が採れない)ので訓読は示さない)の二首目(全十首)の冒頭部分。国立国会図書館デジタルコレクションの『陸放翁詩集』第六(近藤元粋編・明四二(一九〇九)年青木嵩山堂刊)のこちらで当該首が視認出来る(そこでは、標題に返り点が打たれてあるのだがが、それでも私には納得出来るようには読めなかった)。
・「仕宦」(しくわん)は「故郷を出て官に仕えること」を言う。
・「久く」「ひさしく」或いは「ながく」。
・「郭祥正」は北宋の詩人。]