佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇八番 オイセとチヨウセイ
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一〇八番 オイセとチヨウセイ
昔、或所に、オイセとチヨウセイと云ふ睦まじい姉弟があつた。母は長《なが》の病氣で寢てゐたが、姉弟は每日山へ柴刈りに出かけては、それを賣つて米や藥を買つて母を養つて居た。或時、弟のチヨウセイが姉に向つて姉(アネ)さん姉さんお母(ガガ)さんの御病氣《ごびやうき》は、とても何時《いつ》治るか見込みがつかないから、俺はこれから道々(ミチミチ)報謝を受けながらお伊勢詣(まゐ)りをして、お母さんの病氣が治る樣にすツから、アトはどうぞ何分宜しく賴みますぞと云ふと、姉のオイセは、お金は無し心細かんべが、行つて來てクナい、留守は決して案ずる事はないと云つた。そこでチヨウセイは姉に別れて遙々お伊勢詣りにと旅立つた。
[やぶちゃん注:「お伊勢詣り」既に「九五番 猫の嫁子」で、犬や豚でさえ伊勢参りしていた事実を述べたが、江戸時代に何度も発生した爆発的な多数の集中的な伊勢神宮参詣(「抜け参り」「お蔭参り」と称した)については、私の曲亭馬琴「兎園小説拾遺」の電子化注の中の、「松坂友人書中御陰參りの事」・「伊勢參宮お陰參りの記」・「駿州沼津本陣淸水助左衞門、或る人に與ふる書狀」・「伊勢松坂人櫟亭琴魚【殿村精吉。】より來狀御蔭參りの事」を読めば、路銀を持たない者でも、かくも遠い東北の庶民が、伊勢参詣が出来たことが理解して頂けるものと思う。]
姉のオイセは弟の留守中、相變らず山へ獨りで出かけては、せつせと柴を刈つて居た。或日のこと、山で柴を刈つてゐると、眠くなつてウトウトしてゐたら、こんな夢をみた。ひどく咽喉《のど》が乾いて水が慾しくなつたが、澤の奧の方に烟管《きせる》のラウ竹ぐらゐの細い樋(とひ)から水がチヨロチヨロ流れてゐたので、その水を呑むと、立ち所に咽喉もうるおひ疲れも治つた…というところで不圖《ふと》眼が覺めた。オイセは不思議に思つて、柴を背負つて澤の奧の方サ行つて見たら、夢の通り水がチヨロチヨロ流れてゐたので、一と口二た口呑むと例《たと》へやうもなく甘《うま》かつた。さア歸らうと柴を背負つて立つと、あんなに重かつた[やぶちゃん注:底本は「思かつに」。「ちくま文庫」版で訂した。]柴が急にふンわりと輕くなつた。これは不思議と、何遍も立つて見たけれども、輕いのでもつと柴を刈つて背負つたが、重くも何ともなかつた。そのまゝ家へ歸つて行くと、寢てゐた母は、オイセが何時もと異《ちが》つて山のやうに柴を背負つて來た姿を見て、びつくりして了《しま》つた。そこでオイセは、これこれかう云ふ譯だと、夢を見た次第を語つて聽かせたら、さう云ふ水だら屹度《きつと》おれの病氣にもよかんべから一と口飮んでみたいものだと云つた。そんではこれから直ぐ取りに行つて來るからと、オイセは言つたが、もう暗くなるから、あした行けと母が留めた。翌日[やぶちゃん注:底本は「羽日」。同前で訂した。]の朝早くオイセは、昨日の場所サ行つて水をとつて來て、母に飮ませると、母の體は非常に快《よ》くなつた。かうして每日水を飮ませたら、母の病氣は一枚々々紙をはぐやうに良くなつて、もとの體に治つた。そして柴は每日々々澤山取れるので、米を買つて餘つた分は賣つて段々福々《ふくぶく》しくなつた。近所の人たちが不思議に思つて、オイセにわけを尋ねると、オイセは澤の奧の水のお蔭だと言つて、そのありかを敎へてやつた。そこで近所の人たちは、われ先に澤の奧サ行つて水を持つて來て呑んだが、オイセの外は誰にも一人として効能が無かつた。然しオイセが掬《く》んで來て飮ませると効能が立ちどころに現はれた。しまひには遠方からも病氣で困つている人々が尋ねて來てオイセから水を貰ひ、お禮の金や品物が每日々々贈られるので、オイセの家では家を建て更《か》へたりして、段々と立派になり、しまひには村一番の分限者になつた。
一方辛苦艱難して、お伊勢詣りに出かけた弟のチヨウセイは、うざにはいた念願が叶つて、お伊勢さまに母の大病平癒を祈つて歸途についた。[やぶちゃん注:「うざにはいた」「うざにはく」宮城方言で「難儀する・骨を折る」の異。三省堂「全国方言辞典」によれば、『「うざに(田下駄)」を履きながらの作業がひどく難儀であったことから』とあった。]或山坂まで來ると空腹と疲勞で一足も步かれなくなつた。報謝を受けようにも通る人は無し、ハテどうしたものだべと腰をかけて考え込んでいたら、そこヘ一人の人が通りかかつた。そして此坂の下の長者の一人娘が死んで今日は其お葬禮(トムライ)だが、今に此所を通る筈だから、そしたら墓場サ行つて團子なり饅頭なり貰つて喰ふがいいと、親切に敎えて吳れた。そのうちに夕方になつて、お葬禮がやつて來たので、後について行つて、人々が歸つてから、墓場に供へた團子や饅頭を腹一杯に喰つたが、ふと、此お葬禮の樣子では大した長者だどきに[やぶちゃん注:意味不明。]、あの長者の娘なら定めし棺の中には立派な持物が入つてることだべが、一ツ掘《ほ》つくり返して見んべと考へた。そこでチヨウセイは今埋めた許りのお墓を掘つくり返して、棺桶の蓋を開けて見たら、中にはチヨウセイの眼も眩《くら》むやうな、かんざしや指物《さしもの》等があつた。[やぶちゃん注:「指物」この場合のそれは「差(揷)物」で。 髪に刺す櫛・簪(こうがい)を言う。]チヨウセイは氣味が惡いのも何も忘れ果てて、先づ死人《しびと》の髮の毛を握つて引き起こすと、死人が突然ううむと呻《うな》つたかと思ふと生き返つた。チヨウセイはぞツとして逃げ出さうとすると、生き返つた長者の娘がチヨウセイの袖を摑んで、わたしは今日餠を喰べて咽喉に支《つか》へ、その儘氣を失つて死んだ[やぶちゃん注:ここは事実上は気絶・失神の意となる。]と見えますと語つた。そしてチヨウセイが髮の毛を握つて引き起した時に、餠が滑り落ちて生き返つたことがわかつた。長者の娘は、わたしの家はこの坂下で御座いますが、あなたはわたしの命の親だから、ぜひとも一緖に來てくださいと云ふので、チヨウセイは娘に連れられて長者の屋敷へ行つた。長者の家では娘が埋葬された晚なので、一同が嘆きに沈んでゐる處へ、娘の聲がしたので、幽靈が來たと言つて恐れたけれども、チヨウセイが出て譯を話したら、家では嘆きが悅びに變つて、チヨウセイを厚くもてなし、命の親ゆゑ、是非とも娘の聟になつてはくれまいかと云はれた。チヨウセイは家に母と姉が待つてゐるから、早く歸らなければならないと云つたら、それでは嫁に貰つてくれと言つて、簞笥《たんす》よ長持《ながもち》よと、あまたの道具に供人《ともびと》まで附けてくれた。かうしてチヨウセイは、長者の娘を嫁にして、家へ歸つて來て見ると、村は確かに自分の村だが、自分の家のアバラ家は、影も形も無くて、其所には立派な家が建つてゐた。はて此邊がおれの家だつたけになアと思つて、門番に聞いてみたら、果して自分の家だつた。チヨウセイはそこで嫁と一緖に久しぶりで、母と姉のオイセに會ひ、一家は目出度く永く榮へた[やぶちゃん注:ママ。]。
(昭和五年四月六日靄の深い晚の採集として、
三原良吉氏御報告の分の四。)
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