「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「一」 の「鷄鳴の爲に鬼神が工事を中止した譚」
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。
なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。
本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。]
○鷄鳴の爲に鬼神が工事を中止した譚(一號五八頁及び三號一八一頁)紀州西牟婁郡富士橋村の、陸から大島に向ひ、海上二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]許りの間、一行に細く高く尖つた大岩が立《たち》續いて居る。「橋杭岩」と云ひ、近處に弘法大師の堂が有る。昔し、大師、一夜に、此海上に橋を渡さんとて、杭を打つ中《うち》、鷄が鳴《ない》たので、半途、中止したと云ふ。伊豫に「切懸地藏」とて、生きた樟《くすのき》の幹に彫付《ほりつけ》た半成《はんでき》の地藏尊像あり。是も、弘法が細工中、鷄鳴の爲、中止したんだ相《さう》な。「奧羽觀跡聞老志」四に、苅田《かつた》郡小原村の「材木岩」は、建築の諸部に似た、岩石、無數、積み重なつた希世の壯觀だ。昔し、飛驒の工匠《たくみ》、一夜に不動堂を建てんと、かゝつた處ろ、夜、短くて、仕上らず、怒つて、折角しかけた諸材木を、谷になげ込《こん》だのが化石した、とある。備後の帝釋山にも、山鬼が、石橋を渡しかけて、鷄鳴の爲め、中止した跡有りと、黑川道祐《くろかはだういう》の「藝備國郡志」下に見ゆ。
「テウトン」民族には、一八四三年伯林《ベルリン》出板、クーンの「マルキッシェン・サーヘン」一九六章に、パールスタイン村の一大工が、湖邊を迂回して、仕事に往復するを、不便とし、「魔が、一番鷄のなく迄に、其湖を橫切《よこぎつ》て、堤《つつみ》を築いたら、自分の魂をやろう。」といふと、魔、快諾して、築きにかゝつた。大工、見ておると、仕事が速くて、どうやら一番鷄がなかぬ内に出來上りそう[やぶちゃん注:ママ。]だから、今更、魂をやるのが恐ろしくなり、一計を案じて、鳥部屋に入《はいつ》て、鷄を起すと、南無三、夜が明けたと、鳴出《なきだ》した。魔は、欺かれたと知らず、「是は、したり。夜が、あけた。」と燒糞に成つて、手前の石材を、なげ散《ちら》したので、その堤は、不完成のまゝ現存す、と出づ。又、一八四九年三月の『印度群島及東亞細亞雜誌』に、リグ氏言《いは》く、瓜哇《ジャワ》に、梵敎、盛《さかん》なりし時、「ジャングガラ」の無月信《キリスチ》女王は、男知らずの英主だつたが、隣邦の王に婚姻を逼《せま》られた時、「『ヰリス』・『ロロトツク』兩山の間の大谷を、堰止《せきとめ》て、一夜間《ひとよのあひだ》に、湖と做《し》たら、汝の妻たらん。』と言《いつ》た。隣邦王、諾《だく》して、工事に掛ると、女王の念力で、工事央《なか》ばに、夜が曉《あ》け、堤、破れて、男王を埋殺《うめころ》した。
[やぶちゃん注:「選集」では冒頭標題の下に編者注があり、「一號五八頁」は『中西利徳「岩の掛橋」』への、「三號一八一頁」の方は『真崎芳男「男鹿神社」』への論考であることが示されてある。
「紀州西牟婁郡富士橋村」「富士橋村」は「富二橋村」(ふじばしむら)が正しい。現在の東牟婁郡串本町(くしもとちょう:グーグル・マップ・データ)中心部の北方一帯に相当する。
「橋杭岩」ここ(同前)。サイド・パネルの画像を見られたい。私の車窓から眺め、何時かまた来たいと思った場所である。
「弘法大師の堂」橋杭岩の岩列の海岸端に今もある。ここ(ストリートビュー)。但し、大師が湧き出させたとする温泉に併設されている添物町って感じ。
『伊豫に「切懸地藏」とて、生きた樟の幹に彫付た半成の地藏尊像あり』まさかと思ったが、あることはある。「愛媛県観光物産協会」の「いよ観光ネット」の「切山(生き木地蔵)」のページに、所在地を愛媛県四国中央市金生町(きんせいちょう)山田井(やまだい:グーグル・マップ・データ)とし、『深い山中でひときわ異彩を放つ弘法大師の化身』という標題で、『平家伝説の残る切山地区山中にある生きたカゴの木に彫られた地蔵像。江戸時代中期に彫られ、拝めば』、『耳の病気が治ったり』、『願いが叶うと』、『多くの人々の信仰を集めた。長い間』、『祈願されてきたが、母体の木が枯れてしまい』、『現在の像に跡を譲ることになった。言い伝えでは、弘法大師の化身とも言われ、全国でも稀な仏像として注目を集めている』とあった(にしてもこの解説、「弘法大師の化身」「平家伝説」「江戸時代中期に彫られ」たブットんだ時間をこの短い中でギュッと短くしてあるのには脱帽じゃ)。ここに出る「カゴの木」とは、クスノキ目クスノキ科ハマビワ属カゴノキ Litsea coreana であるから、熊楠の「樟」は科のタクソンでクスノキであるから誤りではない。
「奧羽觀跡聞老志」(おううかんせきもんろうし)は享保四(一七一九)年に成立した仙台藩地誌。仙台藩主四代伊達綱村の命により藩儒で絵師でもあった佐久間洞巌(承応2(一六五三)年~享保二一・元文元(一七三六)年:本名は佐久間義和)によって書かれた。領内をくまなく踏査したもので、一度、宝永四(一七〇七)年に、草稿を焼失してしまったが、猶、書き継いで完成させた。名跡・故事・社寺等を、和歌・物語・伝説等によって浮彫にし、単なる地誌的記述に終わらず、領内の歴史・伝承や文化的遺産を明らかにしようとしており、藩撰地誌の嚆矢とされる名品である全二十巻(『日本歴史地名大系』に拠った)。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの『仙台叢書』第三巻(昭和三(一九二八)年刊)の活字本で調べた。「名蹟類一」の冒頭に、旧刈田(かった)郡が掲げられているのだが、原本では「材木岩」ではなく、「屋料巖(サイモクイハ)」と項立てされているため、見つけるのに少し戸惑った。この左ページ上段後ろから三行目以降。かなりしっかり書かれてあるので一見をお勧めする。全文漢文だが、訓点が綺麗に打たれてあるので、読み易い。飛驒の内匠の伝説は、最後に段落を改めて次のページにかけて記されてある。
『苅田郡小原村の「材木岩」』現在の宮城県白石(しろいし)市小原上台(おばらうわだい)にある天然記念物の「小原の材木岩」(大規模な柱状節理:グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの画像も見られたい。「宮城県」公式サイト内の「指定文化財〈天然記念物〉小原の材木岩」によれば、『白石川の左岸にあり、高さ100m、長さ200mほどの範囲に石英安山岩、角閃石に属する岩脈が続き、五角・六角・多角形など、さまざまな柱状節理を示し、材木を立て並べたように見える。昔、飛騨工匠が一夜のうちに不動堂を立てようとしたが夏の夜は短く、もう一息のところで夜が明けてしまったので、材木片を河中に投じて去った。それが岩と化して材木岩となったという言い伝えがある』とある。
「備後の帝釋山にも、山鬼が、石橋を渡しかけて、鷄鳴の爲め、中止した跡有りと、黑川道祐の「藝備國郡志」下に見ゆ」現在の広島県帝釈峡の中の広島県庄原(しょうばら)市東城町(とうじょうちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど)の地名となっている自然の形成した岩橋。国立国会図書館デジタルコレクションの『備後叢書』第二巻のここの左ページの「寺觀門」の、二条目の「帝釋天」が、帝釈峡の解説となっており、最後から七行目の箇所に『未渡(ミトノ)橋』として、この山鬼の未完譚のそれが出ている(漢文概ね返り点のみ)。
『「テウトン」民族』チュートン人(Teuton)。狭義には、古代ゲルマン人の一派テウトネス族(Teutones:Teutoni)を指す。彼らはユトランド半島に住んでいたが、浸食や高波による土地荒廃のため、隣接するキンブリ族(Cimbri)とともに南方移動を開始し、紀元前一一〇年頃までには、ヘルウェティイ族(Helvetii:スイス中部に住んでいたケルト系部族)の一部も加えて、ライン川に達し、ガリアへ侵入した。紀元前一〇五年には、「アラウシオの戦い」でローマ軍勢を全滅させ、ローマを震憾させたが、その後、キンブリ族は別行動をとってスペインへ向かった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
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なお、以下、「クーン」から後のカタカナ表記の人名・書名を含む諸固有名詞は、一応、調べたが、総て不詳であった。向後、こうした「見出せなかった」「不詳」を示す注も馬鹿々々しいので省略する。悪しからず。]