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2023/06/12

「新說百物語」巻之二 「幽霊昼出でし事」

[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]

 

     幽霊昼出でし事

 一兩年先の事にてありしか[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、寺町蛸藥師の寺へ、あるさふらひ[やぶちゃん注:ママ。]、來たりて申されけるは、

「我等事、御存之通り、父母もなく、夫婦・家來はかり[やぶちゃん注:ママ。]にて、くらし申し候ふ所、近頃、養子むすめをいたし、當年十六才になり申し候。此間、三夜があいた[やぶちゃん注:ママ。]、おなし[やぶちゃん注:ママ。]夢を見申し候。そのやうすは、わかきさふらひ、來りて、

『我は、此世に、なきものなり。名を申さぬとも、御亭主の覚へあるへし[やぶちゃん注:ママ。総てママ。]。とむらふ人もなきゆへに、中有(ちうう)に迷ふなり。念比に、とむらひ給はるへし[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。』

と申して歸へる、と。夢に申せしよし、少しは覺へ[やぶちゃん注:ママ。]も是あるなり。我等、傍輩(はうばい)の、おとをと、兄と、不和にて、別にくらして居たりしが、先年、相果て候ひて、當年八年になり候ふ。ことしも、それにてや候はん。御とふらひ、下さるへし。」

と、包銀《つつみぎん》やうの物を出して、賴みける。

 住持も、下池より、念比《ねんごろ》の人の申す事なれば、

「相《あひ》心得候ふ。」

とて、念比に、とむらひを、いたされける。

 そのゝち、又々、かの幽㚑(ゆうれい)、昼中《ひるなか》に、かのさむらひの方に來たりければ、夢に見たる人ゆへ、娘、殊の外、おどろき、にげんとするを、かのさむらひ、申しけるは、

「さらさら、おとろく[やぶちゃん注:ママ。]ものに、あらず。先日、夢に見へし侍なり。お影(かげ)にて、とむらひを受け、ありがたし。猶々、此上ながら、御たのみ申すなり。去年、七年忌にも、御法事にあつかり候へとも[やぶちゃん注:総てママ。]、わたくしかたへは、相《あひ》とゝき申さす[やぶちゃん注:ママ。]、殘念にそんし[やぶちゃん注:ママ。]候ふ。」

と申して歸りけるが、あるし[やぶちゃん注:ママ。]の侍と、行きちかひて[やぶちゃん注:ママ。]歸りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、あるし[やぶちゃん注:ママ。]の目には見へす[やぶちゃん注:ママ。]、とぞ。

 その後、猶々、寺へ賴み、法事をつとめける。

「七年忌に、さはる事、ありし。」

と申しける。

 住持、思ひ出せは[やぶちゃん注:ママ。]、折ふし、用事ありて、住持、外に一宿し、明日《あす》、歸りて、𢌞向いたされけるよし。

 其後、二月はかり[やぶちゃん注:ママ。]過《すぎ》て、またまた、娘のゆめに見へて、

「いよいよ、うかみ侍る。」

と申し、礼に來たりけるか[やぶちゃん注:ママ。]、其後は、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]きたらさる[やぶちゃん注:ママ。]、となん。

[やぶちゃん注:「寺町蛸藥師の寺」現在の京都市中京区新京極蛸薬師東側町にある浄土宗西山深草派の浄瑠璃山永福寺(えいふくじ:グーグル・マップ・データ)。本尊は薬師如来(蛸薬師)で、通称で「蛸薬師堂」「蛸薬師」と呼ばれる。当該ウィキの「蛸薬師の名前の由来」によれば、『かつて永福寺があった二条室町の地(現・蛸薬師町)』(ここ。同前)『には池があり(現・御池之町や御池通)、当寺は俗称として水上(みなかみ)薬師や澤(たく)薬師と呼ばれていた。それがいつしか「たくやくし」が転訛して「蛸(たこ)薬師」となったというものである』が、『他にも、建長年間』(一二四九年~一二五六年)『の初め頃に僧善光が、病の母』が、『タコが食べたいとの願いを聞き、悩みながらも』、『自らタコを市場で買った。それを町の人たちに僧がタコを食うのかと咎められ、タコが入っている箱の中身を見せるようにと』、『皆で』、『善光を責めた。そこで善光は一心に薬師如来に「この蛸は、私の母の病気が良くなるようにと買ったものです。どうぞ、この難をお助け下さい」と祈るや、八本足のタコが光を放ちながら』、「法華経」『八巻に変化した。この光景を見た人たちは』、『皆』、『合掌して南無薬師如来と称えたところ、法華経八巻は』、『また』、『タコの姿に戻り、永福寺門前の池に潜っていった。そして、そのタコが放った瑠璃光を善光の母が浴びたところ、病気はたちまち回復した。それ以来、永福寺は霊験あらたかな蛸薬師堂と呼ばれ、その本尊は蛸薬師如来、親しみを込めて「蛸薬師さん」と称されたというものである』とあった。

「中有(ちうう)」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。所謂、逝去から七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。

「下池」不詳。但し、冒頭の注に、永福寺が元あった周辺には池が多かったということから、その旧地周辺にも檀家は多かったであろうことから、それを、かく呼んでいる可能性はあるように思われる。]

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