「新說百物語」電子化注始動 / 序・「巻之一 天笠へ漂着せし事」
[やぶちゃん注:明和四(一七六七)年春に京都六角通り油小路西へ入町の書林小幡宗左衛門によって板行された怪奇談集「新説百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
本「新說百物語」は上記「続百物語怪談集成」の太刀川清氏の「解題」によれば、刊記は冒頭に記した通りで、本篇『作者高古堂は、本書の版元小幡宗左衛門であり、明和から安永にかけて自作の小咄風の作品の他、小説など数作を残したが』、『伝は不明である』とあり、『本書は高古堂版の第一作である』とある。この作品は創作物以外に『自分の身近な』京都の『身近な珍奇話』し『まで紹介』しており、中には『恐らく作者がじかに見聞したものであろう』と思われるものが含まれていることが、一つの特徴となっている。太刀川氏は、はっきりと『現実的な話が多い』とされておられ、本書は「百物語」風怪談集ではあるが、板行された当代の「噂話」、今で言う「都市伝説」(urban legend)の体(てい)を成す話柄が含まれているのである。
字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。書名は底本の題箋に従った。本文では「說」は「説」にも見えるが、これは「說」で統一した。
なお、本書には多数の挿絵があるが、「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正及び合成(総てが二幅ワン・セットで繋がっているため、なるべく中央を寄せる必要があるため)して使用する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。
底本には目録がないが、総ての電子化が終わった後に、「続百物語怪談集成」にあるものを参考にして、附すこととする。
「序」は底本では、ここから(画像にダブりがあり、この前にも同じ画像が挿入されてしまっている)、「天笠へ漂着せし事」は、ここからである。]
新說百物語 一
序
先に、百物語、數多《あまた》あり、雨夜《あまよ》の伽《とぎ》ともなり、兒孫《じそん》の「めさまし草《ぐさ》」とも、なりぬ。又、こゝに、一書、有り。妖怪のみにも、かぎらず、佛神の靈驗まて[やぶちゃん注:ママ。「まで」。]も、殘さす[やぶちゃん注:ママ。「殘さず」。]、まのあたり、人のかたりしを、書《かき》とゝめて[やぶちゃん注:ママ。「書(かき)とゞめて」。]、一編と、なしたり。「題せよ。」といふ。たゝ[やぶちゃん注:ママ。「たゞ」。]ありのまゝ、「新百物語」[やぶちゃん注:ママ。]と名つけ[やぶちゃん注:ママ。「名づけ」。]侍ること、しかり。
高古堂主人
[やぶちゃん注:序文は本文の字も有意に大きいが、それは無視した。]
新說百物語卷之一
天笠(てんぢく)へ漂着(ひやうちやく)せし事
中頃(なかころ)、京都に伊藤某(それかし[やぶちゃん注:ママ。])といふ人、あり。
年々、安南・跤趾(かうち)のかたへ、あきなひに渡りける。その頃は、いまだ、日本も物さはがしき折(をり)なれは[やぶちゃん注:ママ。「なれば」。]、船中に、武具などを、いれ、船盜人(ふなぬすびと)の用心などして、海上を渡海いたしける。
[やぶちゃん注:「中頃」(なかごろ)は、「歴史上、あまり遠くない昔」の意。
「安南」現在のベトナムの中部地方。この地に建てられたベトナム人国家の称。唐代に「安南都護府」が置かれて以来の呼称。
「跤趾」所謂、近代の「コーチシナ」(フランス語:Cochinchine:漢名「交趾支那」の音写)のこと。元ベトナム北部に侵攻した前漢の武帝がホン川中下流域に置いた「交趾(こうし/こうち)郡」と称したものに由来する古称。]
あるとし、又、いつものごとく、種々(しゆじゆ)の商物(あきなひもの)を、船に、つみ、彼(かの)もろこしへ、渡りけるが、船中、にはかに、風、かはり、めさす[やぶちゃん注:ママ。] も知れず、くらやみになり、一向(いつかう)、船をよすべきかたもなく、大風雨にて、
『船も、すでに、かへらん。』[やぶちゃん注:「転覆してしまいそうだ」の意。]
と見へけるゆへ、帆柱も、切(きり)たをし[やぶちゃん注:ママ。]、いかりも取られて、せんかたなく、夜となく、ひるとなく、風にまかせてゆく程に、やうやう、『五日めの朝。』と、おもふ頃、何國(いづく)ともしれぬ山際(やまぎは)に、船は、とゞまりける。
船中に、乘人(のりて)、弐拾壱人、ありけるが、はじめて、やうやう、㒵(かほ)を見合せ、ためいきつきたるはかり[やぶちゃん注:ママ。] なり。
此五日があいた[やぶちゃん注:ママ。]、食事もせず、湯水(ゆみづ)も、たへて吞(のま)ざりければ、先々(まづまづ)、其山の岩根に、船を、つなぎ、湯を、わかし、飯を燒(た)き、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、すこしつゝ[やぶちゃん注:ママ。]給(た)べて、中にも、新三郞、丈夫なる男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])にて、其中より、壱人《ひとり》、舩《ふね》より、あがり、山の姿、木立(こだち)など見るに、いまだ、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、見なれぬ樹木ばかりにて、今まで通ひし国々とは、一向に替(かは)りたり。
山のいたゞきに上(のぼ)りて、山のあなたを見渡しければ、大きなる城(しろ)あり。
其城を、余所(よそ)より、せむる躰(てい)なり。
人柄(ひとがら)は、常に聞《きき》及びし天笠人(てんぢく《じん》)と見へたり。
新三郞、それより、舟へ歸り、殘りし弍拾人に申すやう、
「かくのごとく吹き流され、とても日本へ歸る事は、なるまじ。いざや、何方《いづかた》の味方(みかた)なりともいたして、打勝(うちかつ)たらば、日本へ送りてもらふまじくや。」
と、相談一决して、船より、用意の具足・荷物など、取出《とりいだ》し、身をかためて、又、もとの山にいたりて、軍(いくさ)の樣(やう)を見るに、兎角、城のかた、まけいろに、見えたり。
「いづれの味方をいたして、よからん。」
と心迷ひければ、太神宮(だいじんぐう)の御はらひを出《いだ》し、御鬮(みくじ)をとりけるが、
「城の味方」
と、ありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、山を、下りに、一さんに、寄手《よせて》のかたへ、切《きり》て入《いり》、あたるを幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])に、切《きり》まくりければ、寄手、おゝきに[やぶちゃん注:ママ。]きもを、けし、その所のならひにて、いくさにも、人を切るといふ事なく、たゞ、棒にて、勝負をいたしける、よし。
[やぶちゃん注:底本の挿絵の画像はこちら。キャプションは、右幅の右上に、
*
天竺
浪人に
して
くりやう
*
中央下に、
*
ねん
ふつは
ゑてゝ
あろ[やぶちゃん注:意味不明。「念佛は得(え)手であらう」(念仏を唱えるのは得手であろう:天竺(インド)と勘違いしているから攻め手を仏教徒と考えたか)か。
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左中央から、幅にかけて、
*
日本の
手なみを
見て
おけ
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左幅の中央下に、
*
なむ
かみ
とかふ
とかふ[やぶちゃん注:ここは画像では踊り字「〱」。しかし、全体が意味不明。「南無神とかうとかう(兎角兎角:なんとかかんとか)」か。攻め手の現地人の語であるから日本語ではないわけで、いい加減に書いたものか。]
*
左下方に、
*
めれちやよ
かびなん
きやうきやう[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。同前。]
*
より正しい判読が出来る方は、是非、御教授願いたい。]
なにが、はげしき日本人、刄物(はもの)は、よし、こゝをせんどゝ、切《きり》たりけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、寄手、皆々、迯失《にげうせ》せける。
城方(しろかた)の軍勢、大きに、よろこび、
「天兵(てんへい)、あまくだりたる。」
とて、先々(まつまつ[やぶちゃん注:ママ。])、城中に入れ、よろこひ[やぶちゃん注:ママ。] あふ事、かぎりなし。
新三郞、城主に、むかひ、通伺(つうじ)をもつて、吹(ふき)ながされし樣子を、くはしく語りければ、城主、いふやうは、
「我は、是れ、南天笠(なんてんぢく)の大王なり。近年、北天笠(ほくてんぢく)と合戰(かつせん)いたし、段々、敗軍(はいぐん)にて、今日、やうやう、此《この》舍麗迦城(しやりかじやう)、一城、殘りたり。其所へ、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]來られ、命(いのち)を拾ひし。」
と、申しければ、
「さらば、迚(とても)の事に、今まで、切(きり)取られし国々を、取《とり》かへさん。」
と、毎日毎日、先手(さきて)にすゝみ、月を經て、難なく、南天笠を取りかへし、
「最早、日本へ、かへるへし[やぶちゃん注:ママ。] 。」
と、申しければ、
「段々の高恩(かうをん[やぶちゃん注:ママ。])、申しつくされず、あはれ、願はくは、此所《ここ》に、ながく、とゞまり給へ。彼(かの)舍麗迦城を、あたへん。」
と申しけれは[やぶちゃん注:ママ。] 、貳拾壱人、打談《うちだん》して、
「唯今、日本へ歸りても、乱世の事なり。さらは[やぶちゃん注:ママ。] 、此所に住居《ぢゆうきよ》せん。」
とて、新三郞を「舍麗迦王」とし、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]は、臣下となりにける。
そのゝち、外国、通路、なりかたくて、今は、便《たより》も、なかりける。
其時分は、故鄕へ、天笠のものなど、度々、をくり[やぶちゃん注:ママ。]けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今に故鄕の家には、種々の奇物を、たくはへある、よし。
凡そ、此頃は、七代目くらゐなるへし。
是は、宮城(みやぎ)氏なる人の、その子孫に、直(ぢき)に聞きし物語なり。
[やぶちゃん注:「天笠人」通常は「インド人」を指すが、ここは、中国人でない人、「ベトナム人」ということではなかろうかと思って、何となく調べていたところ、瓢簞から駒で、ウィキの「天竺」の中に、『元和年間に「交趾国」(現在のベトナム中部)に漂着した茶屋新六(茶屋新六郎)は』、現在のベトナムの『ダナンの五行山』(ごぎょうさん:「グー・ハイン・ソン」:ここ:ベトナム語のそれも陰陽五行説の木火土金水の五行のことらしい)『を達磨大師の生誕地と考えた』とあるのに出くわした。本篇の「新三郞」と何だか同じような気がしてくる。
「舍麗迦城(しやりかじやう)」不詳。しかし、前の注から、五行山のあるダナンはベトナムの南北の中間地点に当たり、或いは、この附近にこの城があったと考えても、頗る納得出来るのである。]