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2023/06/13

佐々木喜善「聽耳草紙」 一一七番 母也明神

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。本文に従い、標題は「ぼなりみやうじん」と読んでおく。]

 

   一一七番 母也明神

 

 上閉伊郡松崎村矢崎に、綾織村宮ノ目から移つて來て住んで居る巫女婆樣《みこばばさま》があつた。此婆樣に娘が一人あつて可愛く育てゝ居た。齡頃《としごろ》になつたので聟を迎へたが、夫婦仲はよいけれども、婆樣はどうしても聟が氣に入らぬので、機會(オリ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])があつたらボンダシ(離緣)たいと思つて居た。

[やぶちゃん注:「矢崎」現在の岩手県遠野市松崎町松崎矢崎。「ひなたGPS」のこちらで、次に出る「猿ケ石川」とともに確認出来る。

「綾織村宮ノ目」遠野市綾織町新里宮野目。同じく「ひなたGPS」のこちらで確認出来る。戦前の地図の方では、拡大すると、『宮ノ目』とあるのが判る。]

 此所へ猿ヶ石川から村中へ引く堰口《せきぐち》の留(トメ)が、年々兩三回も破れるので村人は難澁して居た。其年も恰度《ちやうど》用水時に留が破れて大騷ぎになり、如何《どう》すればよいかと寄々《よりより》評定をした上、遂に其巫女婆樣の處へ行つて占ひを引いて貰つた。婆樣はこれは好い機(オリ)だと思つて、明朝白衣《びやくえ》を著て葦毛の馬に乘り、此村から附馬牛《つきもうし》村の方へ行く者を捕(オサ)へて、堰口に入れると留が破れないと告げた。村人は夜半から其留場(トメバ)に詰めかけて、其白衣馬上の人の通りかゝるのを今か今かと待構《まちかま》へて居た。

[やぶちゃん注:「附馬牛村」現在の岩手県遠野市附馬牛町(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 其朝早く、自分の身にそんな災難が降りかゝらうとは夢にも知らぬ巫女婆樣の聟は、姑婆樣《しうとばばさま》から言ひつけられたとほり、葦毛の馬に乘り祈禱着の白衣を着て川の留場の所へ差しかゝると、多勢《おほぜい》の村人が居て馬の前に立ち塞がつた。驚いてお前達は如何《どう》したと訊くと、村人もそれが朝夕見知越《みしりご》しの巫女聟なので、事の意外に騷ぎ立てると、巫女聟は譯を聽いて、さうか神の告げ事《ごと》なら仕方がない。俺は此所の川底に入つて村の衆の爲《ため》になる。けれども人身御供は單身(ヒトリ)ではいけない。男蝶女蝶《をてふめてふ》揃ふてこそ神も喜ぶものだから、妻を呼んで一緖に入らうと言つて居るところへ、母親の惡計《わるだくみ》を後から聽き知つた娘が白衣を着て葦毛の馬に乘つて其所へ駈け着けた。そして二人は二匹の馬頭《ばとう》を並べて淵の中へ駈け込んで底に沈んでしまつた。其所へまた娘の後を追ふて來た巫女婆樣も、自分の計企(タクラミ)の齟齬《そご》したのを後悔して泣きながら水中に飛び込んだ。

 此時から空が曇つて烈しい雷雨となり三日三夜降り續いて大洪水が出た。そしてその引き跡に今迄見たことのない大石《おほいし》が現はれた。其石を足場として留(トメ)が造られた。其石を巫女石《みこいし》と云ふた。

 聟夫婦をば堰神《せきがみ》として祀つた小さな祠がある。また母親の巫女が死んだ所をば母也(ボナリ)と云ひ、母也明神《ぼなりみやうじん》として祀つてゐる。

 また神子石《みこいし》は堰口にあつたが近年の洪水で川中へ出た。此石には馬蹄の跡がある。又御前石とも云ふて魚釣りも上《あが》らず、蛇《へび》蟲ケラ《むしけら》の類《たぐゐ》も上れば忽ち死ぬと云ひ傳へ、近年まで用水時の壬辰(ミヅノエタツ)の日に小杭《ちいさきくひ》三本を堰神の境内に打ち込んで拜んだ。さうすれば一夜のうちに矢﨑部落中の田の一面に水がかゝつた。その時には大屋(オホヤ)のオシトギ田《だ》と云ふて、男ばかりの手で耕作して穫(トリ)入れた米でシトギ(生米團子)を作つて堰神樣や母也樣に供へる。此祭典の時精進をせずに行くと嘔吐する。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げとなっている。「ちくま文庫」版では本文と同じ位置から書かれてある。結果して、それと同じに電子化したことになった。]

 又此祭日は甘酒と豆をツトに入れて、神前に供へる。甘酒と豆は二頭の馬の靈に供へるとの事である。[やぶちゃん注:底本では以上は行末で句点がないが、]

 聟夫婦達が入水《じゆすい》して人身御供《ひとみごくう》になつたのは何年(ナニドシ)かの壬辰に當る六月十八日であつたと言ふ。

 (大正十四年十月、駒木小學校の瀨川敎師蒐集資料から。)

[やぶちゃん注:この話は柳田國男が佐々木の「遠野物語」の続篇の原稿をなかなか整理せず、佐々木が痺れをきらして本「聽耳草紙」を出した結果、それを柳田は不快に感じて、佐々木の死後に「遠野物語拾遺」として出した(これは以下の同書の「再版覺書」を読めば明らかである。だから、私は「遠野物語拾遺」を電子化するつもりは今のところ、ない、のである)、その「二八」にも載っている。「遠野物語 増補版」(郷土研究社昭和一〇(一九三五)年)のここから読めるが、佐々木の本記事の方が、遙かに、この悲惨な哀譚を正しく民話として纏めてある。こちらの遠野の文化遺産を解説するサイト内の「母也明神と巫女塚」によれば、現存している。そこに『この母也明神は神明神社と合祀されていたが、昭和』五六(一九八一)年三月十五日の『壬辰の日に現在の地に遷座した。また、近くには巫女、娘、婿の石碑があり、巫女塚として供養されている。矢崎地区では旧暦』四『月の壬辰の日を祭日として甘酒を作り』、『大豆を煮て』、『供養している』とあった。場所は『松崎町松崎町2地割』で、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の中央附近である。何時か、遠野を再訪したら、最初に行ってみたい。]

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