「新說百物語」巻之三 「猿蛸を取りし事」
[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]
猿蛸を取りし事
大坂に「箔や嘉兵衞」といふ人あり。
年々、西國へあきないに下りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、又、あるとし、いつもの通り、西國へ下りて、安藝の宮嶌《みやじま》へ參詣の心さし[やぶちゃん注:ママ。]ありて、舟に乘りたり。
宮嶌の三里はかり[やぶちゃん注:ママ。]手前にて、その舩《ふね》のせんとう[やぶちゃん注:ママ。]、いふやう、
「さてさて、をのをの[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]は、仕合せなる事かな。めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]事を見せ申さん。半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]より、むかふの岩のうへに、一疋の猿、座《ざ》し居《ゐ》たり。よくよく、目をとめて見給へ。猿の、蛸を取るにて侍る。稀には見る事もあれとも[やぶちゃん注:ママ。]、めつらしき[やぶちゃん注:ママ。]事なり。」
と、かたりける。
舩中、いつれ[やぶちゃん注:ママ。]も、船をとめて見居たりけれは[やぶちゃん注:ママ。]、その一疋の猿のうしろに、いくらともなき猿、あつまり、一疋のさるを、うしろより、とらまへ、居《をり》ける。
その時、海中より、何やらむ、しろきもの、
「ひらひら」
と、出《いで》ては、はいり、又、はいりては、出る。
終《つひ》に、そのしろきもの、猿の首に打ちかけたり。
其とき、あまたの猿とも[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、ちからを出《いだ》し、一疋の猿を、ひきけれは[やぶちゃん注:ママ。]、海中のしろきものも、一所に引上《ひきあげ》たり。
おゝき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なる蛸にてぞ、ありける。
そのゝち、あまたの猿とも、彼《かの》蛸をくひちきり[やぶちゃん注:ママ。]、ひきはなしければ、彼《かの》一疋のさる、殊の外、くたひれ[やぶちゃん注:ママ。]たるけしきにて、砂の上に、ふし居《ゐ》たり。外のさるとも、あつまりて、取《とり》たる蛸を、かみきりて、先《まづ》おゝきなる足、一本、ふしたる猿の枕もとに、をき[やぶちゃん注:ママ。]、その頭《あたま》[やぶちゃん注:生物学的にはタコの胴部分。]を、ちいさく、くひきり、一疋つゝ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]わけ、くらひて、ひと声つゝ、山手の方へ、迯歸《にげかへ》りけり。
跡にて、ふしたる猿、やうやう、おきあがり、蛸のあしにも、目もかけす[やぶちゃん注:ママ。]、ぼうせん[やぶちゃん注:ママ。「茫然」。]として居《をり》たりけるが、しはらく[やぶちゃん注:ママ。]ありて、蛸のあしを、手に持《もち》て、ひよろひよろと、しつかに[やぶちゃん注:ママ。]、あゆみ、をのをの歸りし道に、かへりける。
近き頃の事にて、嘉兵衞、みづからかたり侍りし。
[やぶちゃん注:タコは悪食(あくじき)であり、獰猛であるが、流石に、磯の岩場にいる猿を襲うという話は、聴いたことはない。しかし、真面目に、岸辺の犬や猿どころか、人をも襲うと書いている江戸時代の文献はあり、その中には当時の博物学者の書いた本草書さえも含まれているのである。そこまでいかなくも、未だに、「タコが夜間に上陸して畑のジャガイモを食べる。」と、心底、信じている人も、有意に、いる、のである。「日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹」の「水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり」の私の注を引用しておく(多少、手を加えた)。
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これは、タコのかなり知られた怪奇談であるが、私は完全に都市伝説の類いであると断じている。寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚」にも、『一、二丈ばかりの長き足にて、若し、人、及び、犬、猿、誤りて、之れに對すれば、則ち、足の疣、皮膚に吮着(せんちやく[やぶちゃん注:吸着。])して、殺さざると云ふこと無し。鮹、性、芋を好(す)き、田圃に入り、芋を掘りて、食ふ。其の行(あり)くことや、目を怒(いか)らし、八足を踏みて立行(りつかう)す。其の頭、浮屠(ふと[やぶちゃん注:ここは僧侶の坊主頭のこと。])の狀のごとし。故に俗に「章魚(たこ)坊主」と稱す。最も死に難し。惟だ、兩眼の中間[やぶちゃん注:ここに脳に当たる神経叢があるので正しい仕儀である。]を打たむには、則ち、死す。』とあるが、そこで私は次のように注した(古い仕儀なので、一部を修正・省略した)。これを修正する意志は私には全くない。
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「性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて、食ふ」は、かなり人口に膾炙した話であるが、残念ながら私は一種の都市伝説であると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。寺島良安の「和漢三才図会 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚 たこ」の章にも『性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ』とあり、そこで私も以前、長々と注した。 また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では、西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかし、この人は、知る人ぞ知る、御岳山で人魂を捕獲しようとしたり(飯盒に封じ込んだが、開けて見ると消えていたともあった)、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまう人物である。いや、その方面の世界にいる時の私は実はフリークともいえるファンなのだが。因みに、彼は母方の祖父の弟が島崎藤村で、兄に西丸四方(しほう)と島崎敏樹(共に精神科医)がいる)。実際に全国各地でタコが畠や田んぼに入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろう。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコ……じゃあない、イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚なく泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていた)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。たとえば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり(これは実際にある)、漁獲された後に逃げ出したタコが、畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは「海の忍者」と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、極めて数十センチメートルの大型の個体が、蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることは頓に知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ、極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(クロダイはサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等々といった辺りこそが、この伝説の正体ではないかと思われるのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、是非、見たい! 信望者の方は、是非、実写フィルムを! 海中からのおどろどろしきタコ上陸! → 農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿! → 腕足を驚天動地の巧みさで操りながら、器用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ! → 「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ! だ!(円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが、突けど、触れど、一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、「生き物はこりごりだ」と言ったと聴く)。
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――脱線――御免――]
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