佐々木喜善「聽耳草紙」 一一八番 長須太マンコ
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一一八番 長須太マンコ
昔、村の西内(ニシナイ)のお不動山の奧に、どこから來たか大層美しい女が來て住まつて居た。其所がナガスダと云ふ所であつたから、里邊の方では其女のことを、ナガスダ・マンコと呼んで居た。
[やぶちゃん注:現在の遠野市土淵町(つちぶちちょう)栃内(とちない)にある西内(にしない)。「ひなたGPS」のこちらで地名が確認出来る。遠野市街から十キロ以上の山間部である。]
或時マンコが遠野ノ町へ行くと、市日であつたから方々から町へ多くの人々が入り込んでゐた。一人の馬喰(バクラウ[やぶちゃん注:ママ。])がマンコの美しいのを見染めて言い寄つたけれどもマンコはおれはキダガメの西内の川奧(カツチ)のナガスダと云ふ所に居る者だとだけしか敎へなかつた。そして其日はそれツきりで別れた。
[やぶちゃん注:「キダガメの西内川奧(カツチ)のナガスダ」「川奧(カツチ)」は一般名詞で「川流れの奥」であろうか。「キダガメ」や「ナガスダ」の地名は上記「ひなたGPS」でも確認出来ない。「キダガメ」は一般名詞の「北上」の訛りとも思ったが、次段の謂位から地名としか思われない。既にして異界の地名でもあるのかも知れない。]
馬喰はマンコがどうしても忘れられないので、三日ばかり經つてから、キダガメの西内へ訪ねて行き、そしてカクラと云ふ所まで來ると路が二つに岐《わか》れて何方《どつち》へ行つてよいか分らなかつたので、路傍の家へ立ち寄つてナガスダヘ行く路を訊ねた。その時は既に夕方であつたので、何處へも行かれぬから其家に夜の宿を乞ふと、快く泊めてくれた。
[やぶちゃん注:「カクラ」この地名も上記「ひなたGPS」でも確認出来ない。これは異界の地名というよりも、以下、殺人を犯すことになる者の住む地であるから、名を仮名としたという方がしっくりくるようにも思われる。]
馬喰は其夜、寢床の中で起き上つて、持參の金を算《かぞ》へて居た。その音を聽いた家の人達は馬喰を殺すべと、夜起きてゴシゴシと刀を磨《と》いだ。その氣配を知つた馬喰は其夜は少しも眠らないで起きて早立ちをした。其時家の人達はナガスダヘ行く僞路(ボガミチ)を敎へた。山中で迷はせて殺す氣であつた。それを馬喰は察してわざと岐道(ワキミチ)へ反《そ》れて行つた。あとはあて見當(ゲントウ[やぶちゃん注:ママ。])でマンコの棲家《すみか》を尋ねて行くと、幸ひに山中の一軒家に辿り着いた。訪ねて見ると先日町で見たマンコが其所に居た。
馬喰は其家に半年ばかり居たがそのうちに山へ行つた時、どうした譯か以前宿つたカクラの家の人に殺された。
マンコは其時はもう懷姙して居たので、悲しみの餘り家を出て地獄山と云ふ所まで來た。すると急に產氣がついて苦しみ出した。其所へ何所から來たか一人の和尙樣が來會(キア)はせて、色々介抱して居るうちに、男の子が生れた。和尙樣が自分の法衣の袖を引きちぎつて其子を包んで、抱き上げやうとして居るところへ、天から大鷲が飛び下りて其赤子を攫《さら》つて、何處ともなしに飛んで行つてしまつて見えなくなつた。
[やぶちゃん注:「地獄山」同前で不詳。]
和尙樣はたゞ驚いて泣いて居るマンコを慰めて、これは何事も前生《ぜんしやう》の約束事であるから仕方が無い。然し彼《あ》の子は屹度何處かへ落ちて生きて居やうから、見つけ次第俺が大事に育て上げて置くから心配するな。そしてこれから十三年目の今月の今日《けふ》、此山でお前達は母子の面會をするがよいと言ひ置いて、マンコと別れて其所を立ち去つた。この和尙樣は山の麓の里の松崎と云ふ村の寺の住持であつたが、寺の門前まで來ると、鷲に攫はれた先刻《さつき》の赤兒が少しの傷もつかずに松の樹の岐枝(マツカエダ)に懸つて居た。そこで女との約束通りに拾ひ上げて大事に寺で育てゝ居た。
[やぶちゃん注:「山の麓の里の松崎と云ふ村の寺」「松崎」は現在の遠野市松崎町松崎としか思われない。而して、この地区内で現存する知られた寺としては、松崎観音堂(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイト『「遠野物語」現在進行形』のこちらによれば、『麦沢山松崎寺として大同』二(八〇七)年に『創建されたと伝えられる』古刹で、『現在の観音堂は享保』九(一七二四)年の『再建である。本尊は古代の立木仏を偲ばせる十一面観音立像で、慶長』一一(一六〇六)年の『銘がある』とある。ここで話者は「山の麓の里の松崎」と言っている。次段でも「この山奧へ行くと小石を多く積み重ねた地獄山がある」と言っており、さすれば、不明の「地獄山」は、ここの山塊のどこかの峰の旧山名と考えてよいことになろう。]
それから十三年目になつた。その子は俺に母親があるならば是非其人に逢ひたいと言つた。和尙樣もそれ程逢ひたいなら、この山奧へ行くと小石を多く積み重ねた地獄山があるから其所へ尋ねて行つて見ろ、さうしたなら屹度母親に逢ふに違ひない。さあ今日いま直ぐに行けと言ふ。子供は喜んで今の慕峠(シダウトウゲ)を越えてその地獄山へ行つて見ると、其所には誰も許なかつたので悲しくなつて一心に御經を誦んで居た。
[やぶちゃん注:「慕峠(シダウトウゲ)」これは松崎観音堂の北を登った位置にある標高三百九十九メートルにある「忍峠」に音がかなり似ている。「ひなたGPS」のここで、戦前の地図では「忍」に『スダ』とルビを振り、国土地理院図では『しだ』と振るから、まず、この峠と考え良いと思う。さすれば、先の私の推理も、強ち、机上の空論として馬鹿にすることは出来ぬと感ずる。]
マンコはまた我が子に別れてから恰度《ちやうど》十三年目の其日になつたから、はて早く吾子に逢ひたいものだと思つて、地獄山へ來て見ると、美しい童子が一心に御經を誦んで泣いて居る。あれが吾が子かと駈け寄つて、吾子だかと聲をかけると、童子もお前が吾母親だかと、二人は抱き合つて泣いて居た。
稍《やや》暫時《しばらく》あつて母親が童子にお前は今迄何所に居たと訊くと、俺は此の下澤《したざは》のお寺の和尙樣に育てられて居ると言ふ。あゝ其では矢張り彼《あ》の和尙樣だ。私も御目にかゝつて厚く御禮を申したいけれども其もならぬ身の上であるから和尙樣に宜敷《よろ》く申上げておくれ。お前とも此儘別れると言つて、泣きながら何處かへ行つてしまつた。それで童子もまたお寺へ還つた。
其の後童子の居るお寺から餘り遠くもない、賽《さい》の神と云ふ所に、何所から來たか一人の巫女《みこ》が來て庵《いほり》を建てゝ住居《すまひ》して每日念佛を唱へて居た。それがマンコであつたらうと謂ふことである。
(昭和三年の秋頃、友人宮本愛次郞氏が聽いて來て敎へてくれた話の二。自分の村の話で今も山中にマンコ屋敷の跡がある。仕川戶(ツカヒド)の石垣もあり、坪前《つぼまへ》にはヒツチヨリツチギ(櫻草)などがあつて五月迄も咲き殘つて居ると云ふ。マンコは女盜賊であつたと謂ふ話もある。地獄山はこのマンコ屋敷の山の尾根續きで私も少年の時に行つたことがある。一つの塚があつて塚の前には小石が幾つも垣のやうに積まれてあつた。其所に一本の老松があつて、其幹に耳を押し着けて靜かに聽くと、多くの子供等の地獄で泣き叫ぶ聲が聽えると云ふて、さうした記憶も殘つてゐる。
地獄山と云ふのは、此處ばかりでなく方々の山の嶺尾根等にある。每夜夜半には死んだ子供等が話したり泣いたり歌つたりする聲が聽えると謂ふて、子供を亡くした婦人達がよく詣でる。私の記憶では哀れなやうな變なところであつた。)
[やぶちゃん注:附記は長いので、ポイントを本文と同じにして引き上げた。
「長須太」は「長須田」とも書くようである(以下の引用参照)。「マンコ」は元「まんこう」で、「満功」「満行」「満江」「満紅」「万劫」「満公」と漢字表記する(同前)。平凡社「世界大百科事典」の山本吉左右氏の「満功」の解説を引く(私は正規のベーシック版を最初にパソコンを買った際に購入している。コンマを読点に代えた)。『満功』『まんこう』は、元は『曾我兄弟の母の名。または東京都調布市の深大』『寺など、各地の霊山の開基の僧の名。マンコウは満行(江、紅)、万劫(公)などとも書く』。享保九(一七二四)年に『市村座初演』の「嫁入伊豆日記」『以後の歌舞伎や、また各地に伝わる伝説でも曾我兄弟の母をマンコウとするものが多い。しかし』、「曾我物語」には『母の名は記されていない』「東奥軍記」「和賀一揆(わがいつき)次第」『(ともに江戸初期の成立か)などに伊東入道祐親の娘の名を』「まんこう御前」と『する。まんこう御前は伊豆配流中の源頼朝と契って若君を生む。平家をはばかった入道は若君を殺すよう』、『家臣に命ずるが、家臣のはからいで』、『ひそかに助けおかれて、後に和賀の領主の先祖となったとされる。この逸話は』「曾我物語」にも『あるが、娘の名は記さず、若君も殺されたことになっている。これらの逸話からいえることは、マンコウという名前が、愛児を失って悲しむ母の話、あるいはその異話に用いられていることである。佐々木喜善』の「聴耳草紙」に『採録されている長須田(ながすだ)マンコの話では、生まれたばかりの赤子を鷲』『にさらわれ』十三『年後に地獄山で愛児と再会する母の名前がマンコである。マンコは後に愛児が修行する寺の近くの地獄山に庵を建てて住み、巫女となって毎日念仏を唱えたとされる。地獄山には今日でもマンコ屋敷跡があって、あたりには賽(さい)の河原のように小石を積んだ小さな塔がたくさんある。そこは愛児を失った母たちの詣でる所とされ、松の木に耳をあてると地獄で子どもの泣く声が聞こえるといわれる。この話は昔話化されているものの、マンコが子どもの霊の口寄せをする巫女の名前であったことを伝えるものと推測される。子どもの霊の口寄せを業とする巫女が、遊行巫女や廻国の比丘尼となって、愛児を失った悲しみを自分の体験として語っていたものと考えられ、いつしかマンコウという巫女の名が物語の登場人物の名ともなったと思われる。さらに愛児を失った悲しみばかりではなく、悲惨な女性の物語を自分の体験として語るようになったのであろう』。「曾我物語」には、『伊東入道の娘に、頼朝と契った女性とは別に、もう一人の万劫が登場する。万劫は工藤祐経の妻となるが、父入道のために無理に離縁させられ、後に改めて土肥遠平に嫁がせられる』。「曾我物語」には『悲惨な女の物語が幾重にも織りなされているが、それらはマンコウなどと自称する遊行巫女や廻国の比丘尼が曾我兄弟の母とか伊東入道の娘と称し、自分の体験として兄弟や頼朝の若君の物語を語り伝え、一部が』「曾我物語」に『取り入れられてアレンジされ、他の一部はさらに口頭で語り継がれて』、「東奥軍記」『などに流れ込み、歌舞伎でも曾我兄弟の母の名前としてマンコウが採用されたものと考えられている』。『諸国の霊山の開基の僧の名前に多いマンコウにも、巫女との関係が見え隠れしている。深大寺の開山にまつわる伝説では、満功上人の祖母の名として虎という女性があらわれる。曾我十郎の愛人の大磯の虎(虎御前)や吉野山や立山の都藍尼(とらんに)の伝説を考え合わせると、この虎も巫女的な女性ではなかったかと思われる。すなわち、満功上人と虎との間には高僧・神童とその母、神とその育ての母の巫女といった関係があったものと思われる』とある。
「マンコ屋敷の跡」現行では確認出来ない。
「仕川戶(ツカヒド)」不詳。家屋のそばの下方にある小流れで炊事・洗濯をするための場所を指すか。
「坪前」屋敷地内の庭或いはその前方下方か。
「ヒツチヨリツチギ(櫻草)」漢字表記からは、ツツジ目サクラソウ科サクラソウ属サクラソウ Primula sieboldii となるが、本当に同種を指すかどうかは、「ヒツチヨリツチギ」(「ちくま文庫」版では『ヒッチョリツチギ』)の異名をネット上で探し得ないので断定は出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、本書のみしか挙がってこない。]