佐々木喜善「聽耳草紙」 一三七番 龍神の傳授
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一三七番 龍神の傳授
或所に一人の男があつた。每日每日何もすることなく、渚邊へ出て海の方ばかりを眺めて居た。だから村の人達から彼(ア)れは愚者(バカモノ)だと云はれて居た。
或日のこと靈(イツモ)の通りに渚から海の方を眺めて居ると、海から龍神樣が出て來て、これヤこれヤお前にこれを與(ヤ)るからと言つて、一個(ヒトツ)の瓶を吳れた。そしてこの瓶の水は萬病に利く靈藥だから、これからさうして居ないで萬人を救へと言つた。男は其瓶を家ヘ持ち歸つて土藏の奧に秘藏(シマ)つて置いて、村に病人があればそつと土藏の中へ入つて行つて、瓶の水を汲取《くみと》つて來て遣つた。そのために男は藏(クラ)の中へ入るのが日に幾度となく度重《たびかさ》なつた。
それを妻が見て、これは怪(オカ)しいと思ひ出した。そして男の留守の間にそつと土藏の中へ入つて行つて見ると、隅に見た事のない瓶が一個あつた。あらこれは何だべと不思議に思つて葢《ふた》を取退《とりの》けて中を覗いて見ると、自分の顏が瓶の水に映つた。あれヤ夫は此女の顏を見べとあゝして始終來るのだと思つて嫉妬(ゴセ)が燒けて來て、外へ駈け出して石を拾つて來て瓶を眞つ二つに割り碎いた。
男が外から歸つて來て、すぐさま土藏の中へ入つて見ると瓶が碎けてゐた。あゝこれは妻のしたことだなと思つて、妻を呼んでお前は何《な》してあの瓶を割つてしまつた。あの中に入つてをつた水は藥でそれで人の病氣を直して居たのに、さてさて女と謂ふものは邪心が深くてあさはかものだと言つて嘆いた。そして瓶の破片を拾ひ集めて、邸《やしき》の内の古池のほとりに打ち棄てた。
其次の日からまた男は以前のやうに渚邊へ出て、遠くの沖の方を眺めて居た。すると或日再び龍神樣が現はれて、お前はまた此所へ來て居るのかと言ふから、男はあの瓶を割られたことや、その破片を拾ひ集めて古池のほとりに棄てたこと等を話した。龍神樣はそれを聽いて、そんなら其瓶の破片を棄てた所へ行つて見ろ、見たことの無い草が生へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]てゐるから、それを採つて陰干しにして揉草(モミグサ)にして、これこれの事をしてお前は復《また》人間の病氣を直せと言つた。そして其方法を詳しく敎へた。男は龍神樣に別れて家へ歸つて、古池のほとりへ行つて見ると本當に見たことの無い草が生へてゐた。これだと思つて其草を採つて龍神樣から傳授された通りにして再び人間の病氣を直してやつた。それが今の灸《きう》の始りである。そして其草は蓬《よもぎ》であつた。
(前話同斷の八。)
[やぶちゃん注:「前話」こちら。]
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